つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる


第二部

五月革命――永久革命の時代と学生運動の高揚
    ――I・ドイッチャー編『永久革命の時代』訳者あとがき

 一九六八年十月一五日に執筆され、アイザック・ドイッチャー編『永久革命の時代――トロツキー・アンソロジー』(河出書房、六八年十一月刊)に「訳者あとがき」として発表された。

 本書は一九六四年ニューヨークのデル社から出版された The Age of Permanent Revolution: A Trotsky Anthology の全訳である。アメリカでは初版八万部発行したということてある。本書が編集された事情や本書の内容、そしてトロツキーの偉大さと、彼が現代にたいしてもつ意義については、故ドイッチャー氏が感動こめて書いた名文になる長文の序文につくされている。だが、トロツキーをはじめて知ってから三十八年、その間自分なりに一日として忘れたことがなかった者として、特にいま本害を訳出した意図といったものについて、若干付言させていただきたい。
 最近学生運動の非常な高揚にともなって、共産党はじめ革新陣営の間でトロツキスト呼ばわりが激しくなり、特に共産党はトロツキスト批判のパンフレットをつくって広く流布させ、激しい反トロツキスト・キャンペンを行なっているらしい。現に私の家にもこのパンフレットをもった若い民青の青年が訪れて、それを熱心に勧めてくれた。私は会うことができなかったが、真面目な青年だったという。
 かつてフルシチョフと毛沢東がたがいにトロツキスト呼ばわりしていたころ、故ドイッチャー氏は「もちろん毛沢東とフルシチョフはいっそう容易に相手を傷つけるために、このレッテルを貼り合っているのだ。どちらにも、そしてまたどちらの追随者たちのうちにも、トロツキー的異端にたいするスターリニストの恐怖が、まだ身震いするほどまざまざと生きているからだ」といった。日本の共産党の指導者たちに、こうした恐怖があるのかどうかは知らないが、相手を傷つける一ばん手っとり早い手段としてこの手が用いられていることには変りがない。百も承知で、ただ政治的トリックとして組手を誹謗するためにそうやっているひとたちは別として、それを真(ま)にうけて本気でトロツキスト攻撃をやっているひとたちの場告は、実はトロツキーのものは何一つ読んだことがなく――私の家へあのパンフレットを売りにきた、あの真面目な青年が率直に告白したように――ただ上からあたえられた、トロツキーとは何の閏係もない偽りのイメージをそのまま信じこんで、それに踊らされていることも多いのではないかと思う。実はそういうこの私自身、かつてはそうだったので、そのひとたちの心理がよくわかるような気がする。
 私は一九三一年一月、ロシア経由でドイツを経てロンドンに留学した。当時日本で革新思想といえばスターリン主義一辺倒だったので、私もその宣伝を鵜呑みにしていた。そのころ騒がれていた中国革命に関して、トロツキーとは、農民を蔑視し、農民問題を無視し、民主的段階をとびこえて二段階革命を否定し、ロシア・プロレタリアートの力を軽視して一団社会主義を誹謗し、世界革命を唱えて、世界中に火をつけてまわる、とんでもない冒険主義者、あごひげを生やした気違い犬だというイメージを灼きつけられていた。トロツキーのものはただの一行も読んだこともなしにである(当時、日本では彼のものは一つも手にはいらなかった)。だから、ロンドンのある小さな本屋で、アメリ力のSWP(社会主義労働者党)の週刊機関紙ミリタントに載った彼の長文の論文を偶然に見つけたとき、思いあがった反撥と嫌悪感が先にたって、ろくに読みもせず(最初のはソ連経済に関するもので、自分が通ってきたシベリアやモスクワの、言語に絶する貧困さが彼の所論を裏書きしていたにもかかわらず――その貧困をさえ神聖視せんばかりだたったことを告白しなければならない)、たまたま読みかけても、いやに堂々とした文章を書くやつだなという、当時のコミンターンや共産党の文書には見られない、堂々としたスタイルと説得力にさえ、まず反感を感ずるのだった。ところが、私が親しくしていたイギリス人やアメリカ人、ドイツ人、それにセイロンのグナワージナ君などのグループがあって、毎週のように会っていたが、ある晩たまたま話がトロツキーのことに触れて議論となり、帰りしなに「これを読んでみないか」といってわたされたのがトロツキーの中国革命論の一つの小冊子だった。よし、読もう、読んでもっと議論しよう、という腹で、その本を持ち帰ってはじめて真面目に読んでみた。そして、オヤッとびっくりした。彼が農民を無視したということが完全に嘘であること、ロシア革命自身実は二段階革命ではなかったことなど、そういった極く初歩的なことばかりでなく、第二中国革命の隠された驚くべき真実をはじめて知らされて、私はほんとに驚いた。が、それでもまだ「中国革命に関するかぎり、トロツキーは正しいが」という留保つきで、なお抵抗を試みながら、彼の他の論文を読んでいくうちに(ドイツ版の『一九〇五年』はブリティシュ・ミュージアムの図書館で読んだ)、いっさいが明白になり、それまで自分は完全に偽りのイメージに踊らされていたのだということを思い知らされて、冷汗の出るほど気恥かしい思いがした。それと同時に、地球が大きく欠けたほど、世界史に大きな穴がぽっかりあいていることに驚き、それを知らないでいる日本のひとたちをはるかに思って、これは大変なことだと、居たたまれない焦燥に憑かれたのだった。
 だが、トロツキーにたいする私の関心を最後的に決定したのは、何度も語ったり書いたりしたように、ドイツの危機だった。当時のドイツは近代工業でも、科学技術でも、文化でも、世界最高で、社会主義運動ではソ連以上に影響力をもっていた。ドイツ共産党はソ連を別にすれば世界最強で、そのローテファーネと党刊行の赤い表紙のレーニン全集は、非常な権威と威力をもっていた。社共両党所属のドイツ労働者の組織と文化活動をふくむ広汎な活動は驚くばかりで、革命的伝統からいっても組織からいっても、まさしく世界労働運動の精華であり、ベルリンはそのメッカであった。そのドイツが――そしてヨーロッパ全体が――ナチスの怒濤のような種頭で震憾され、社共両党の労働者はナチの武装ギャングに襲撃されて連日街頭で血を流していたのである。この緊迫した事態にたいして、社会民主党はファシズムの一翼であり、ナチスと戦うまえにまず打倒しなければならぬ労働者階級の主敵だ、これとの統一戦線はもってのほかであり、それを主張するものは労働者の敵であるとする、スターリンの社会ファシズム論と、社会民主党は労働者大衆の党であり(事実巨大工場の労働者は、主として社会民主党の影響下にあった)、ナチズムは全労働者の共通の敵である、彼らの襲撃にたいし両党の労働者の反ナチ共闘戦線は可能であり、寸刻を争う急務であるというトロツキーの主張が、真っ向から激突して火を噴いていた。大戦と大戦直後を除いて、世界は一九二九年に勃発した世界恐慌のような恐ろしい恐慌と社会不安を経験したことはない。恐慌と失業でドイツが震憾してばかりではなく、ヨーロッパ大陸は内乱、政変、暴動の続発で、どの国もいつどんなんな重大な破局に投げこまれるか予見できない不安と恐慌に怯えていた。三一年四月にはスペイン革命が勃発して王制が倒れ、秋にはイギリスがポンドの危機でイングランド銀行は取りつけ寸前に追いこまれ、失業者騒動は全国に荒れ狂い、インヴァーゴードンの水兵反乱が起こった。北海の大演習のためスコットランドの同事軍港に集結していた全大西洋艦隊の水兵は、不公正な手当切り下げに憤激して、全将校を鑑内に監禁し、丸三日間、全艦隊を占領した。香港の東洋艦隊その他もこれに交流を表明し、イギリスは未曾有の大破局に突入した。今日アメリカの第七艦隊が反乱し、全大西洋艦隊がこれに合流したと想像してみれば、事態の重大さがうかがわれよう。
 社共両党の指導部によって分断されていたドイツ・プロレタリアートが、反ナチ闘争で合体したら――それは指令一つで、一日といわず数時間のうちに全国で結成されたろう!――その瞬間に、人間の埃りにすぎないナチは、この鉄の団結の威力のまえに雲散霧消してしまったろう。あの未曾有の危機に震憾したヨーロッパの情勢の中で、もしもベルリンに赤旗が掲げられたら、それは武装したドイツ・プロレタリアートとソビエト赤軍の合体を意味し、その強大な力のまえに、ベルリンを首都とするソビエト・ロシア=ヨーロッパ連邦を妨げるものはないだろうし、そしてそれは全世界に強大無比な衝撃的影響をあたえたろう。「世界情勢を決する鍵は、ドイツにある」とトロツキーはいった。その鍵は、ドイツ共産党党首テールマンの手に握られ、世界の運命は、テールマンが社会民主党に向かって反ナチ統一戦線を申込むかいなかにかかっていた。一九三〇年から三三年一月まで、全欧州はドイツの危機を軸に、ベルリンを首都とする社会主義連邦を樹立し、あらゆる文化の爆発的奔流を始めるか、それともヨーロッパ全土がナチスの恐怖地獄と化し、第二世界大戦の惨劇となるかの、人類史上最大の分岐線上を動揺していた。この間、私はコミンターンと各国共産党、そしてその同調者たちの、耳を醸するばかりの「社会ファシスト!」の怒号と、トロツキーの火を吐くような警告を聞きながら、世界労働者階級の精華ドイツ・プロレタリアートが、最後まで両党指導部によって分断され、呪縛されたまま(鉄の規律のゆえにだ!)空しく決定的指令を待ちあぐみながら、ついに何一つ抵抗せずに、一歩一歩、蟻地獄へ落ちこんでいくのを目撃していたあの悲劇の前夜の焦燥を、いまも忘れることができない。一九三四年にはあの小国オーストリアでさえ、ファシスト独裁にたいし、社会民主党の労働者たちが、自然発生的な反乱を起こし、非常に勇敢に武力闘争を行なったが、それはオーストリアでは共産党が微力で、抑制力がなかったからである。
 故ドイッチャー氏は、最後の遺著となった「ロシア革命五〇年」 の中でつぎのようにいっている。「われわれは、ドイツ労働運動は一九三三年に、闘争なしに、いっさいの地位をヒットラーに明け渡したという事実を考えてみなければならない……彼らはこのように振舞わなければならぬ客観的理由は何一つなかった。彼らの降服は不可避的ではなかった。一九三三年のヒットラーの易々たる勝利は、不可避的ではなかった! またスターリンとソビエトの党にしても、降服政策を首唱し、それを固執しようなどという関心などもっていたわけではなかった。ナチズムの抬頭をまえにしての彼らの無感動と無関心は、もっぱらスターリニズムの孤立主義的気質と、ソ連を国外の大きな粉争にはいっさい巻きこまれないようにしておきたいという、その願望から生まれたのだった」「一九三三年の屈服は、かつてマルクス主義がこうむった最も粉砕的な敗北だった。その敗北は、その後の出来事と、その後のスターリニスト的政策によってさらに深刻になった。ドイツとヨーロッパの労働運動は、いまだにそれから回復してはいないのである。」(岩波新書『ロシア革命五〇周年』第四章「階級闘争の行き詰まり」一一一―一一三ページ)
 ナチズムの怒濤のような抬頭にたいし、スターリンもソビエト官僚も、冷然として無関心であった、とドイッチャー氏は断言する。ドイツ・プロレタリアートが一歩一歩、蟻地獄へ引きずりこまれるのを、恐怖に凍る眼で凝視しながら、全欧州がいまにも爆発せんばかりに緊張していたあの危機の最中に、スターリンたちがしめしたこの恐るべき冷嘲(シニシズム)(この怪物的冷嘲(シニシズム)は、今日ソ連軍のチェコ侵略と強圧にその片鱗をを見せている!)を正当化しようとして狂奔したコミンターンやドイツ共産党が、何をし、何をいったか、ドイツ革命の墓堀人の共犯者となった世界の共産党とその同調者たちが、この間に何をいい、何を叫んだかを、新しい世代のひとたちは知る必要がある。私は五二年の秋に出した拙訳「次は何か?』の私の序文でそれに若干触れた。ここではそれから次の一節だけを引用する。
 「こうしてコミンターンは全欧の運命が決せられつつあったドイツでプロレタリアートの組織と組織との統一戦線を執拗に拒否し、全力をつくして妨害し、禁止しながら、一方アムステルダムでは、フランスの作家アンリ・バルビュスなどの名をかりて、文化人等の進歩的分子の『大同団結』による反戦大会なるものを開催した(片山潜氏はモスクワからこれに参加した)。これは何よりもまず労働者の大衆的な組織と組織の共闘であるべき統一戦線を、無力な個人の会合にすりかえることであり、党の旗と綱領を秘して、私人の名をかり、それにイニシァティヴをゆだねることであり、漠然とした抽象的なサロン的大会に関心を向けて、ドイツで明確な形をとって刻々に発展していた世界大戦への危険から眼を反らさせることであって、三重にも四重にも過っていた。第二世界大戦後、日本やドイツが占領下におかれて、国外に抑留された日本人はどうなるのかと不安に怯えていたとき、かつてレーニンが政権獲得と同時に第一に宣言した、無賠償、無併合――何人たりともその意志に反して強制的に抑留されることをゆるさぬ――の公正な講和の提唱を、抽象的な『平和』の署名運動にすりかえ(日本にたいしては、終戦後四十何万の邦人を人質みたいにシベリアに連行、監禁、強制労働させておきながら、日本の同調者に『全面講和』を要求させたりして)、戦後の世界における革新運動の発展を阻止したのと、まさに同断である。」
 「一九三二年十一月、国民大衆の圧力のもとにパーペン政府が倒れてシュライヒャー将軍が代わった。パーペンはまだ国会に一握りの反動的国家主義的政党の支持をもっていたが、将軍にはそれすらなかった。自由主義的ゼスチュアにもかかわらず、あたえるものといっては何一つ持ち合わさぬ、より純粋なボナパルティスト、シュライヒャーの政権が、極めて短命なことは火を見るよりも明らかだった。トロツキーはこれを指摘して、つぎのように警告した。ナチスの得票は四〇パーセントをこえることはむずかしいだろう。こうしたデマゴギー的大衆運動は、一瞬間も一点にとどまることができない。停止は分解と崩潰を意味する。拡大のテンポがゆるむときこそ、ヒットラー・クーデターの危険の瞬間である。おそらくはパーペンをもふくむ連立政府の合法的スクリーンによって政権を握る可能性がある。だが、表からだろうと裏口からだろうと、いったん政権を握れば、国家権力をもってファシスト暴徒を即刻武装させ、労働者階級への攻撃に投ずるだろう。ヒットラーが政権を握ったという急報をうけとった瞬間、ドイツ・ブロレタリアートを救援するために、赤軍は即時動員されなければならない。」
 「トロツキーの予言のとおりに、一九三三年一月三十一日、ヒットラーはパーペンを副首相とする連立政権によって政権を握った。ドイツ・プロレタリアートは決定的闘争の指令のくだるのを待ちあぐんだ。全欧の労働者階級の眼は、クレムリンと赤軍に向けられた。英仏をはじめ各国の政府は、息を呑んで動かなかった。そのとき、スターリンは、ベルリン駐在のソビエト大使をして、ソ連はドイツの内政にいっさい干渉しない、と保証させた。これは、まさに開始されようとしていた労働者にたいする酸鼻を極める大弾圧の自由を、ヒットラーにゆるすことを、公式に表明して、敵に後門の憂いのないことを保証し、労働者のモラルに致命的な止めの一撃を加えたものであった。」
 私は私の家を訪れたあの民青の青年や彼の同僚たちにたずねたい。トロツキーについての見解はどうであれ、あの運命の瞬間に、ナチスの勝利が意味する恐怖を警告して、社共両党の共闘を叫びつづけた彼の立場と、社会ファシズム論などという愚にもつかぬことを叫んでそれを拒みつづけた共産党の立場と、どちらが正しく、どちらが破滅的であったか? 今日共闘がゆるされるなら、なぜあのときゆるされなかったのか? そして、トロツキーがその危険を予視し、予言し、警告したように、なぜ大粛清と第二世界大戦とアウシュヴィッツの悲劇――ひいては広島の悲劇、水爆の恐怖、ベトナム戦、中ソの対立、チェコ占領等々、なぜこんなばかげたことが起こらねばならなかったのか? と。そして言いたい。ロシア革命の真実を隠して近代世界史を論ずることはできないし、トロツキーについての真実を知らずにロシア革命の五十年を論ずることはできない。私はその真実を知るのに、三十八年前、はるばるヨーロッパまで出かけなくてはならなかった。だが、今日日本には、トロツキーの著書はたくさんある。その上に、いま私はこのトロツキーのアンソロジーを諸君におくる。このうちのどの一章でもよい。かつて私がそうしたように、恐れることなく、だれに憚かることもなしに、とにかく試しに読んでみることを、諸君に切望する。読んでみて、自分で判断し、批判すべきものがあれば、そのときこそ確固とした知識にもとづいて、自信をもって批判し、説得するがよい。私が身の縮むほど恥かしい思いをしたあんな不毛なまねを、こんなに重大な、そして偉大な時代に、若い諸君はやっていてはならない、と。
 私がドイツ革命についてくりかえし語りつづけるのは、それが後進国革命であるロシア革命や中国革命と違って、世界の最先進国で戦われた革命、資本主義が終わるところで始まる、より純粋な社会主義革命、資本主義が達成した最高の進歩的業績を基盤として出発することができる、したがってソ連をふくむ後進国革命の恐ろしい苦悩と歪みと堕落を正し、救うことができる革命であったからであり、トロツキーの全知能を傾注した闘争によって、正統マルクス主義の革命理論が、精密な分析と壮大無比な展望とヴィジョン、明断な戦術と大胆明快な戦略の、あらゆる面と次元でほとんど実験室的な正確さで全面的に展開されれた、最初の、そしてほとんど唯一の、最高度に成熟した革命であったからである。それは分断された労働者階級の共闘態勢を結成するかいなか、どんな共闘態勢を結成するかという、ギリギリの戦術の問題に還元され、その一点に絞られていはしたが、本質的にはそれは、ドイツ工業と科学技術が、当時世界最高の一つだったドイツ資本主義の枠を爆破するほどのスピードで巨大に発展しすぎたという、素晴らしい勝利的な事態によって引き起こされた、恐ろしい破壊性とともに想像を絶する凄まじい可能性を内包した革命的危機であったからである。だから、否定的、破壊的な面とともに、それが内包していた積極的な可能性の面を、ダイナミックにとらえ、そこから正統マルクス主義の社会主義革命に関する教訓を学びとることが絶対に必要であった。だが、ドイツ革命はアウシュヴィッツの悲劇のかげにかくされて、その積極的意義は(そしてまたナチズムそのものの本質さえ)学界でも革新陣営でも、十分ダイナミックに究明されなかったし、国際的に見て、トロツキズムをもって任ずるひとたちの間でさえ、そこから教訓をフルに学びとる努力が忘れられていた。こうして世界はいまだにドイツ革命の敗北から回復しないでいるのである。このことを一ばん深く痛感して、ドイツ革命の内包した全面的意義と教訓を今日の若い世代の共通の財産にするために努力したのは、故ドイッチャー氏であった。氏はトロツキー三部作第三巻の『追放された予言者』の大半をこの問題の解明にささげたばかりでなく、ローマに客死する日まで、あらゆる機会をとらえてこの問題を取りあげて論じてやまなかった。(『追放された予言者』での氏の劇的な叙述は、スペースに制約されてドイツ国内に絞られたが、ドイツ革命の内包した可能を知るには、ドイツを取巻くヨーロッパ各国の当時の情勢をはっきりさせる必要があるだろう)。
 ドイツ革命の敗北は、世界共産主義運動にたいするスターリンの権力をグロテスクなまでに強大化した。ソ連の力をバックにした彼の「二十世紀のカヌート王」的協力がなかったら、西欧資本主義はヒットラー反革命後から第二次大戦直後にかけての多くの革命的危機を、あんなに容易に切りぬけることはできなかったろう。中国革命の勝利もスターリンの死も、クレムリンの一枚岩的支配を弱めはしたが、スターリニズムを崩潰させはしなかった。深刻な挫折に戦後資本主義の復興と発展も手伝って、西欧の労働運動は沈滞した。左翼指導者、ことに若い世代の関心は、それから離れて後進国革命に向けられ、マルクスやレーニン、トロツキーとともにでなく、彼らにかわって、毛沢東、カストロ、ホーチミン、そして最近はゲバラが世界的脚光を浴びた。後進国革命が重大なことは言をまたないが、しかしその性格と意義は社会主義運動全体との関連において把握され、位置づけられるべきもので、このため先進国の革命問題が忘れられたり、後進国革命の指導者にたいする正しいマルクス主義的評価を放棄してはならなかったのに、そういう危険な傾向が国際的に見られ、大きな時代的潮流とさえなっていた。この間に私たちは、ベトナム戦争、中ソ分裂、紅衛兵運動を起爆力とした中国の文化大革命、そして本年のフランス五月革命とチェコへの侵入占領という、世界を震憾させる事件を経験したが、この過った傾向はそれらの一つ一つに、重大な災厄をあたえずにはいなかった。
 前世紀なら知らず、ロシア革命五十年の今日、中ソ両大国と十余の社会主義国がありながら、アメリカの大物量戦にたいする小国ベトナムの英雄的抗戦のあの孤立を、いったいだれが想像したろうか? 今日、米国の物量戦を停止させる物力をもつものは、中ソ両大国である。もしもドイツ革命の悲劇の教訓を忘れなかったら、中ソ両国はたとえどんな矛盾対立があるとしても、社会主義陣営の共通の敵にたいし、必要なら武力をもってでも対決するための統一戦線を結成することを要求する国際世論を、当然呼びかけたろう。もしも両大国が団結して米国と対決するという決意を毅然として宣言したら、その瞬間に、世界の人々は勇躍してそれを支持したろうし、そうなればアメリカ内部に重大な分裂が起こり、そのときはじめてペンタゴンは腰くだけになり、恐らくは一弾も交えずに後退させることができたからである。だが、クレムリンは統一戦線へのゼスチュアを公式に再三行なったのに、毛沢東はそれをとらえて真の統一戦線にコミットさせるか、または全世界のまえにその欺瞞を暴露する絶好の機会を利用することを頑強に拒否して、スーパー・テールマンの役を果たしつづけた。
 私は一昨年七月、ベトナムの孤立した抗戦について、ドイツ革命の危機とのアナロジーとそれよりはるかに有利な国際情勢をあげて、モスクワが中国に共同戦線を申込んでいる今日、「国際情勢を決する鍵」は毛沢東の手に握られている、あのドイツの悲劇の教訓の権威にもとづいて、中ソ両国の統一戦線を要求する国際世論を起こすことが緊急ではないか、もしいまこれを黙認していたら、ドイツの危機のとき世界の進歩的な勢力が社会ファシズム論を支持ないし黙認して、ドイツ悲劇の共犯者となったとおなじ歴史的過ちを犯すことになりはしないかと、外国の友人たちに訴えた。が、徒労だった。ただ、故ドイッチャー氏だけは熱心にそれにこたえた。ちょうどユーゴの旅から帰ってきたばかりで、すぐまたアメリカへ飛ぶために忙しい氏から、折返しつぎのような返事がきた。「……ベトナムに関する中ソの反帝国主義統一戦線の要求を、ベトナム戦争に関するわれわれの議論や声明の最も断固とした中心問題にする必要があるというあなたの意見に衷心から同意することを、私はいますぐ大急ぎでお伝えしたい。ドイツのスターリニストと社会民主党が反ヒットラー統一戦線を結成しなかったことのアナロジーを最も強烈に引きだすべきだというあなたの主張は絶対に正しい。あなたが私にこれを中心問題にする必要をはっきり気づかせてくれたことを非常に感謝します。ほんの一時間前、私はチェコスロヴァキアのプラハ放送のインタビューに応じたところですが、すでに私はそこであなたの提言にしたがって、このアナロジーを引用して発言しました……アメリカへいっても、あらゆる機会を見つけてそうするつもりです。この問題についてあなたが言っていることはあまりにも真実で、明白で、はっきりしているので、なぜ自分はそれにもっと早く十分に気づかなかったか、われながら不思議です……」氏の人柄を如実にしめすこの謙虚で誠実味あふれる言葉に打たれるとともに、私はいまもこの信念を変えていない。氏はそれから死の直前まで、あらゆる機会をとらえて熱烈に広く訴えつづけられた。
 一九六六年、私がこの訴えを書いたときには、すでに中国で「文化大革命」がはじまっていた。これについては近く出版されるはずの、第二中国革命の長老彰述之氏の、第三中国革命論や人民公社論、毛沢東対劉少奇論、文化大革命論などの論文集での、氏の分析と批判にゆずりたい。ただ一言、紅衛兵運動はその激しさと巨大さで世界を驚倒させたが、しかしそのためマルクス主義的評価を惑わされて、本質を見誤ったりなどけっしてしない、リトマス試験紙のような敏感さをもたなければならないということ、革命的伝統ゆたかな中国では、革命的エネルギーは無尽蔵であって、おなじ学生運動でも百花斉放のときのような、自由な、自然発生な爆発で、それ自体のロジックにしたがって発展することをゆるされるなら、すさまじじい革命的高揚を生みだすだろうが、毛沢東礼賛と毛語録を斉唱しての紅衛兵運動は、それとは非常に性格を異にしていることを見落してはならないということだけ付言しておく。
 フランス五月革命。先進資本主義国では革命運動は望みなしとして、長いあいだカストロやゲバラに一斉に眼が向けられていたとき、学生運動を起爆力として、最先進国の一つフランスで、五月革命が勃発した。その規模の壮大さと激烈さで世界史上空前のこの大革命が、毛沢東やカストロの影響下にある後進国でなく、先進国フランスで、何の前兆も予告もなしに、青天の霹靂のように爆発したのである。全世界は不意を打たれ、革新陣営は完全に虚をつかれた。
 それは、一九一七年のロシア革命から三〇年代始めの、上に触れたドイツ革命、三六年のフランスとスペインの人民戦線、四九年の中国革命等々、いままでのどんな革命とも非常に違っていた。そうしたいままでの革命は、どれもみな戦争とか経済恐慌、社会的危機によって追いつめられた労働者の防衛的闘争から起こったものであった。一九三六年のフランスの革命的危機と手軽に比べられるが、それは一九二九年の恐慌に発する世界労働者階級の潰滅的な敗北につぐ敗北の最後の大防衛戦であった。ところが、この五月革命は、それらの革命の伝統的な前提なしに、まさに青天の霹靂のように突如爆発して、三〇年代始め以来の沈滞を破って、西欧労働運動を一挙に高い次元に突きあげたのである。
 起爆力となった学生運動は、それまでプチ・ブルとかインテリとかと、白眼視されてきた学生であり、それも世界の最先進諸国の、世界的名門校の学生、最も恵まれた条件のもとにあるエリート的学生層であった。日本に発し、アメリカに飛び火し、それからヨーロッパへと、爆発的な速さで国際化し、おなじ日本一国内でも見られないほどの激しさで各国間でたがいに反響誘発しあいながら、反戦から学制改革要求へ、そして学校占拠へと、一気にエスカレートし、ついにフランス革命を爆発させたのである。五月革命後には、学生運動はさらに中米から南米の諸国へと、急速に拡大している。したがって、それは個々の部分的不満から生まれるものではなくて、完全に新しい、世界共通の性格をもった国際的学生運動であり、世界が到達した新しい現状から発し、社会体制全体に挑戦するものであることをしめしている。国際学生運動の拡大とエスカレートの激しさは、何かしら新しい、雄大な時代への予感にふるえながら、目覚まされることを待ちうけている若い世代が、世界中いたるところに、そしてみんなの周囲に、だれものまわりに、いっぱいいるということの証左のように思われる。そしてまたそれは、後でものべるように、後進国に特有だった学生革命運動とも非常に違った、新しい社会的基盤に立った、それよりはるかに歴史的に進んだ、高い次元の運動であるように思える。
 フランスの学生運動が最初に引火したのは、シュード・アビションとかルノーとかいう、超近代的な大工場の若い労働者――スターリン主義や改良主義の古錆にくらまされていない眼と直感力をもち、簡明直截に、事実を事実として感知し、理解する青年労働者であった。何千、何万の年長の熟練労働者が朝早く出勤してみると、大工場は前夜のうちに百五十か二百の若い労働者たちによって占拠されていたという。年長労働者や職長などの下で、限定された職場内で働いている無名の青年労働者たちによって、その大工場は神聖不可侵にも見えていたであろうし、CGTの大拠点である彼らの労組は、大きな権威をもっていたであろうと想像されよう。にもかかわらず、それらの無名の青年労働者が強大な労組の権威も、大工場の威厳も平気で無視し、彼ら自身のイニシアティヴでこれらの巨大工場の占拠を、何のためらいもなしに敢行したということは、何というすさまじい創意の飛躍であり、おそらく彼ら自身でさえもそれまで気づかないでいたにちがいない、物凄いエネルギーの爆発であったろうか。しかもそれは、フランス全土のあらゆる職場で爆発的に起こったのである。そしてこの革命的民主主義のルツボの中で、新しい若い指導者たちが無数に選出されていったのである。いままでは圧殺されていた若いエネルギーと、大胆不敵な決断力、そしてみんなのうちに噴出していた創意と才能の爆発が、フランス全土で起こっていたのである。このルネッサンス的なエネルギーの爆発のまえには、CGTやフランス共産党といった大労組や左翼政党も、あまりにも古臭いアナクロニズムとして吹きとばされてしまったのである。
 年長の労働者たちもそうだ。いままで長い間党や労組の幹部のために闘争といえば古い形の部分的要求という、改良主義にしぼられてきて、どうにもならない先進資本主義国の保守的労働者の典型とされてきた、これらの大工場の年長労働者たちは、一握りの青年労働者たちによって工場が占拠されているのを見ると、労組や党の幹部の抑制や指令を蹴って、一気に青年労働者に同調し、自分ながら夢にも予想しなかった全工場の占拠に突入したのである。彼らのかかげる要求は依然として部分的要求にしぼられていたにしても、彼らが行動でしめした要望は、その行動の様式がしめしているように、はるかに革命的なものであった。ただその要望をはっきり公式化することができないだけだった。
 五月十日夜のラテン街での市街戦で、三万五千の学生にたいし、催涙弾やクローリン・ガス弾をもって深夜から未明にかけて攻撃を加え、千名を越す逮捕者と重軽傷者を出すという、酸鼻を極めた政府の弾圧に憤激した労働者は、こうしてほとんど数日のうちにフランス全土で「不法」大ゼネストに入り、一千万の労働者が工場や鉄道、港湾を占拠し、全国の交通、通信、運輸はもちろん、電気、ガス、ガソリンも労働者の手に帰し、新聞・雑誌も、現代国家の最も重要な機関である放送綱も、従業員組織の統制下におかれた。それと同時に、フランス銀行(わが国なら日本銀行である)も全国の銀行も、ピケ団によって閉鎖されてしまい、株式市場も襲撃されて閉じた。
 政府はモラトリアムを発令して札(さつ)一枚動かすことができなくされた現状を確認した。
 学生の弾圧に使いまくられて市民の怒りの的になった警官たちの組合連盟は、「われわれは学生の弾圧に行使されることを拒否する」と声明して、逆に待遇改善の要求を政府につきつけた。完全武装の保安隊は、ラテン街を撤去して、街頭から姿を消してしまった。
 五月二十五日の毎日新聞の林特派員は、カードルが「花々しい形で闘争の舞台に登場した」ことを報じた。カードルとは大学卒の、将来、企業の幹部を約束された少壮職員で、CGCという独自の組合をもち、フランス経団連が頼りにしているひとたちである。それが経団連本部に押しかけ、代表に面会を要求、学生、労働者との連帯を表明し、動脈硬化におちいって改革の能力を失った経団連の革新を要求し、また「CGCが創設以来国家権力ならびに経営者と協力し、時代遅れの体制構造を維持しようとしてきたことが現在の錯乱の危機の源となった」と声明して「伝統的な社会組織と組合組織の外で、まったく新しい経済・社会構造を決定しよう」と、全力ードルにアピールした。フランス経団連にとって、これがどんなに手痛い打撃であったか想像されよう。
 目を覆わせるほどの凶暴な大弾圧に怒ったパリ市民と国民の激しい反撥にあって、胆をつぶした政府は、学生たちの要求を全部鵜呑みにし、暴徒として逮捕した学生全員を釈放し、保安隊を引っこめ、「不法」ゼネストと、「無届け」デモ、建物の「不法占拠」についても労働者を告発するどころか、それを口にすることもできなかった。さらに国家権力の所在はどこかを余すところなく暴露した一つのエピソードがあった。政府はドイツ学生、アナーキストのコーン・バンディを、国家権力の威厳をもって厳然と国外退去を命じ、護送つきで国境外で追放したが、同君が悠々再度入国したときには(ほんの数日後に)、すぐ目のまえで公然と活動している同君にたいして指一本動かすことができなかった。この瞬間、国家権力は、同君一人の存在を極度に恐れながら、どうすることもできなかった政府にあったか、それとも同君の体に指一本触れることをゆるさなかった学生と労働者にあったかは、あまりにも明日であろう。
 全工場を奪われた資本家、銀行占拠で札(さつ)一枚動かすことができない財界巨頭、そして全機能を喪失した政府。それはもはや実体的力をもった現実の資本家でもなければ政府でもなく、昨日までのそれの亡霊にすぎない。いっさいの権力は、全国民に支持された一千万の労働者の大きな手中に落ちていたのである。
 これが、フランス工業の心臓ルノーの労働者が決起してからわずか数日して実現された現実であった。ロシアの二月革命もまた自然発生の運動から生まれた。だが、あのとき起爆力となったのは学生ではなくて、おなじく無力視されていた無名の婦人たちだった。そして、ペトログラード全市を制圧するのに「五日間」かかった。ところが、学生デモにたいする野蛮な弾圧によって激発されたフランス五月革命は、わずか一週間足らずでフランス全土を完全に制圧し、全権力をその手中におさめたのである――まさに人類史上最大の事件であって、それにくらべたら、ロシア革命も一後進国の事件であり、この革命への一序曲にすぎなかったということができよう。
 トロツキーは「政治的力関係は、客観的条件によってだけ決定されるのではなくて、主観的条件によっても決定される。つまり、自己の力を認識することは、現実の力の最も重要な要素である」といった。この歴史的時点において、フランス労働者にとってこれ以上に決定的なことがあったろうか! この場合、自己の現実の力を認識し、意識化するということは、それを組織することである。この場合、一千万の労働者にとって、この新しい現実の事態、全国民の運命を決定する、歴史の主体となった自分の力を認識するということは、ただ漫然と占拠をつづけて、国民生活の活動を停止させておくことではなくて、労働者の最も民主的な組織をとおして、自分たちが掌握している国家権力を、民主的に――レーニンの言葉を借りていえば、主婦の一人一人にも、国を統治することができるように――新しく組織しなおすことであり、反動が反撃のための時をかせがないうちに、これを防衛する態勢を急ぐことであり、それと、半ば一つの巨大な有機体となっている西欧に拡大することであった。そして、何よりも労働者、農民、学生評議会の統制管理のもとに、生活物資の配給その他、整然たる国民生活の確保を保証することであった。一九二六年のイギリス総罷業のとき、労働組合や協同組合が、いち早くそれにのりだして、重要な役割を演じたようにである。一言でいってしまえば、占拠したオデオン座は、その瞬間から、ロシア革命のときのスモルニー学院となるべきであったのである。これほど簡単明瞭なことがあるだろうか?
 日本やイギリス、アメリカその他の権威ある新聞は、筆をそろえてこの「青天の露露」を「世界史上最大」「旧い体制への挑戦」「「新しい時代の黎明」「二十世紀のルネッサンス」と、最高の讃辞でその驚きと感動を表明し、おなじ事態の突発する条件は、いまどこの国にもあると証言した。いったいこんな壮大な革命が、こんなに「不意」に、こんなに激しい形で突発したのはなぜか、その基盤は何であったろうか?
 故ドイッチャー氏は『ロシア革命五〇年』の中で、ソ連が恐ろしい矛盾や障害にもかかわらず達成した驚嘆すべき発展について、「もしこの進歩を真に平和的な歳月の理想的なユニットで計算することができるなら、五十年でなく、二十年ないし二十五年で達成したという結論になるだろう」といった。おなじことは西欧諸国や日本にもいえるだろう。日本は、大戦後終始無政府的な国民生活の中で、国民のエネルギーと能力の途方もない浪費と消耗にもかかわらず、戦後二十年そこそこで、ゼロに等しいあの大荒廃から、レーニンやトロツキーの時代を手工業時代と思わせるほどの巨大な発展をとげ、今日の巨大産業と巨大科学技術を生んだ。この凄まじい生産力、さらにそれを(ゼロからでなくだ!)出発点として、今後それこそ天文学的加速度で爆発的に発展する可能性と強制(コンパルション)をもった生産力と、それに反比例していよいよ卑小化し、アナクロニズム化した、そしてますますそうなっていく生産関係、そこからくる社会全体の矛盾の生みだす精神的アンバランスは、耐えがたいものになっている。私企業と民族国家という現体制の枠と、第二、第三の産業革命をはらむ巨大産業とテクノロジーの発展との激突は、どうにもならないところへきている。生産力の物理力がこの枠を打ち破りつつあるだけではない。私企業制そのものの生みだすモラル的危機が、全体制を膿瘍化し、腐爛化している。
 現代社会では、私企業のための利潤、つまり金儲けが唯一絶対の至上命令となっている。そのためには、有能な分子が産業スパイ、贈収賄、偽善と欺瞞、盗み、不正、陋劣、酷薄、残忍、裏切りと、ありとあらゆる悪に直接間接に動員され、それが政府首脳から全社会にびまんし、陋劣なカニバリズムが末期の癌症状を露呈している。この体制内での唯一の可憐なモラルといえば、「小さな親切」である! そして、どこを向いても貴重な人間の能力とエネルギーの大浪費がある。そこには雄大なアイディアもなければ、魂を勇躍させる崇高な理想もない。偽善を透明な薄い膜で包んだ、ばかげきった社会に、若い世代は胸がむかついている。このこっけいなまでにアナクロ化した現体制、暴力以外何の権威もない旧体制を、もっと簡単明瞭に合理的につくりなおしたら、生産と文化は、横へも未来へも、それこそ爆発的に奔流しだすだろうという、はっきり意識されないまでも、毎日目撃する現実(汽車の窓からどこでも見られる真新しい近代工場群の壮観もそれだ!)に支えられた予感が、大衆の間にも芽生えている。
 ことに物凄いスピードで発展する最尖端の学問に、明日の世界を垣間見ることのできる世界の学生たちには、自分でも想像することができないほどのルネッサンスを内に感じながら、心を躍らせるものといってはひとかけらもない、退屈で、卑小な現実のまえに無惨に叩頭しなければならない、こんなばかげた状態を、いつまで存続させるのかという、小さな小人の世界とくだらなさにうんざりして、大きく背伸びをし、そのちっぽけな世界をぶち壊さないではいられないガリヴァーの衝動を、学生たちは感じている。内容からいっても規模からいっても、古代のアレクサンドリアやボローニャなどの大学のような、国際的な豊かな性格をもったものでなくては、そしてそこで鍛えられた知識と才能をフルに生かすことのできる、それにマッチした雄大で健康な社会でなくては、彼らは伸び伸びと息をすることも生きることもできない。青年労働者もまた同様である。世界の科学技術の最尖端をいく最新の機械にたえず鍛えられ、研ぎすまされ、それらの機械と、それが迅速正確に動いている大工場の活動とが、いわば体質化されていて、彼らののうちに、一見途方もなく大胆な行為も、驚くほどのスピードと即断即決、即行する、近代的プロレタリアートのすばらしい性格をつくりだしていたのである。ことに西欧の中心フランスの彼らはまた(学生はなおさら)、最新の機械を通し、レジャーを通し(彼らのレジャーは国境を越えた国際的な領域で楽しまれているのだ)、国際的視野と感情がいっそうつちかわれている。これは賃金奴隷とか人間疎外とかいう言葉の一面的な意味だけで片づけていた、創造的想像力の枯れた学者や理論家たちの頭には、理解を越えた無縁の謎である。
 約言すれば、戦後発展した巨大産業と巨大テクノロジー、それが生み出す雄大な展望と、ますます加速度的に卑小化し堕落していく社会体制との矛盾――これが今日の学生運動を生み、電光石火のスピードで全土の工場を占拠した青年労働者を生んだのである。この基盤は、日本にもあれば、アメリカにも、西欧にも東欧にもソ連にも、どこにでもある。『三姉妹』や『竜馬がゆく』に興ずるひとたちは、萩とか土佐、薩摩の藩で巨大コンビナートを単独に発展させようとしたらどんなことになるか、想像してみるといい。だが、矛盾の激しさはそんな生易しいものではないだろう。生産力の発展が封建制度を突き破ったように、こんどは資本主義の穀を破って社会主義へ奔流しようとしているのだ。パリ特派員たちが口をそろえて証言したように、それは二十世紀の大ルネッサンスである。いま先進諸国に澎湃として燃えひろがっている学生運動は、このルネッサンスの旭光を背にして、薄汚いぼろ切れ化した社会体制に挑戦しているのである。学生や青年労働者の運動の激烈さを慨くひとは、そのまえに、ほかならぬ自分たちがつくりだしている生産力の発展の激しさに悲憤すべきである。
 この史上空前の大ゼネストが青天の霹靂であったということは、政府も資本家もびっくりしたばかりでなく、革新陣営の指導部が完全に不意をつかれたということである。
 翼下のCGTとともに最大の組織的影響力をもった共産党は、学生運動の歴史的意義に目を閉じ、学生たちを冒険主義者、トロツキスト、アナーキスト、「社会の滓」と罵って、労働者と引き離すことに全力をつくし、労働者の反撃に会うと、あわててバンドワゴンにとびのって、イニシアティヴの横取りを企てた。そして労働者が現実に握っている国家権力を意識化し、組織化するかわりに、五月二十五、六日という決定的な時に、いっさいの力を失った亡霊にすぎない無力丸腰の政府や資本家の代表と、三者会談を開いて賃上げ交渉を行なった。これは五十一年昔、無力なロジャンコのまえに政権をとることを懇請したソ呈ト代表チヘイゼたちの、世にも悲惨な道化役の再版にほかならなかった(角川版『ロシア革命史』第一冊「二月革命のパラドックス」)
 「大衆はすでにできあがった社会改造案をたずさえて革命にはいっていくのではなく、もはやこれ以上旧体制を耐えしのぶことはできないという、痛烈な感情をいだいてこれに参加する」と、トロツキーは『ロシア革命史』の序文でいっている。大衆には痛烈な感情はあるが綱領はない。だから、指導的な党によってそれをあたえられ、機を失せずに組織化されなくてはならない。大衆のエネルギーは、ピストン筒につめられなかったら、蒸気のように消散してしまう。大衆運動はつねに流動的で、一点にとどまることはできない。爆発が停止すれば、崩れはじめる。爆発と高揚が急速であればあるほど、崩壊も急速である。共産党の政策は、終始一貫、革命を裏切り、売り渡すことであった。彼らは全世界の人々の看視の中で、またしてもフランス革命を裏切った。共産党は体制化してしまっていると、内外の新聞が口をそろえて証言した。その共産党があんなに勝利的だった史上未曾有の革命を、またしてもあんなにあっけなく裏切ることができたのはなぜか? フランスの革命的左翼はこの問いに答えなくてはならないだろう。そして典型的な先進国革命としてのドイツ革命の豊富な教訓を、十分体質化することができなかったということが、この歴史的立ち遅れの根本的理由の一つとして、改めて考えられなくてはならないだろう。
 ところで、チェコスロバキアの問題は、スターリニスト官僚の本質をあますところなく露呈した。スターリニスト官僚の恐るべき非近代的な冷嘲癖(シニシズム)、尊大で、傲慢で、冷酷で、無感覚で、徹底的に利己的で、自分の欺瞞を器用に糊塗しようともしない無神経さ、非人間的な鈍重さを、こんなに無遠慮に、無細工に、全世界のまえに露呈したことはかつてなかった。そして、世界中の人々に、スターリニスト官僚独裁下に生きるひとたちの生活が、どんなに耐え難いものであるかを痛切に想像させた。ドプチェクたちの――スターリン学校で教育された――民主化を、「人間味ある社会主義」といった、共産圏国家のひとたちの口から発せられたこの言葉が、はじめて聞くように、非常に新鮮に感じられたが、この矛盾した言葉はそこでの生活がどんなに非人間的なものであるかを語っている。社会主義の社会とは、物質的にも精神的にも、資本主義的社会の頂点よりはるかに高く豊かな社会であるはずだ。スターリンとスターリニズムは貧しくみじめなロシアを社会主義へ引き上げることができなかったので、社会主義をロシアの悲惨さまで引きずりおろした、とドイッチャー氏はいった。私たちはこの泥まみれに汚された社会主義のイメージを、その本来の輝かしい高みにたかめなければならない。
 クレムリン官僚が総勢でチエルナまで出かけてから(それがまた何と漫画的だろう!)、今日までのもたつきは、官僚内部のたがいに疑心暗鬼のごたつきを暴露している。彼らがチェコ侵入の不利を知りながら、敢えてやらねばならなかった最大の理由は、スターリン大粛清の血みどろの秘密が、自由化によって火がつきはじめたからである!! 一九五六年の二十回党大会で、スターリンの犯罪の一部を暴露したフルシチョフは、大粛清の端緒となったキーロフ暗殺の(改めて調べるまでもない)秘密を調べて発表すると公約し、二十二回大会でもそれをくりかえしたが、今日にいたるもまだその真実を明かす気配はない。それに火がつけば、大粛清からトロツキーの闘争の真相まで、過去四十年間、必死になって秘し隠していたトロツキーとソ連史、そしてまた虐殺された外国共産党員や彼らに裏切られた数々の革命の真実まで、一挙に白日にさらされるからであり、それがソ連はもちろん、全世界のひとびとの間にどんなに激しい怒りを爆発させるかわからないからである。ちょっと自由化しかけたこの数ヵ月の間に、チェコ国民はすでに多くの真実を貪り知った。国外旅行は新しい知識を大量にもちこんだ。チェコの週刊誌は、トロツキーの写真といっしょにドイッチャー氏の『ロシア革命五〇年』の抜萃を発表した。タマラ未亡人の最近の手紙には、ドイッチャー氏の『スターリン伝』と『ロシア革命五〇年』がスペインとチェコで出版の契約が成立したが、チェコでの実現が危ぶまれると、あった。すでに氏のトロツキー三部作は何年かまえに、モスクワ大学の学生たちの間で読まれていた。氏の著書はトロツキーの著書といっしょに、多数チェコにはいったことが想像される。クレムリン官僚が慎重な態度をとっていられないほどパニックにおちいったことは容易に想像される。だが、個々人でなく、おなじ共産圏内の一国民が真実を知ったのである。また通信機関と対外交流がこんなに発達した今日、鉄のカーテンは絶対でなく、長く持ちもしないだろう。
 ドイツ革命でヒットラーが政権につき、弾圧を開始したときになって、コミンターンはドイツ労働者に闘争と決起を呼びかけたが、トロツキーは、闘争できたときに闘争しないで、士気沮喪させられ、組織を破壊されて支離滅裂になったいまは、冒険的暴発のときではなく、戦線整理のときであり、プロレタリアートの堡塁の鉄環でファシスト・ドイツを包囲するときだと、水際だった戦術の転換を要求した。チェコ内の情勢はそれとは非常に違っているが、西欧労働者の団結の鉄環で包囲せよという要求に関する限り、百パーセント真実である。
 フランス五月革命と、チェコ侵入によって暴露されたスターリニスト官僚の危機とは、共産・自由両圏を通じて、旧い体制が深刻な挑戦に会って新しい流動の時代にはいったことをしめした。ドイッチャー氏は本書の序文で「トロツキーのアンソロジーの出版ほど時機にかなったものはありえないだろう」といった。氏が目撃することができなかったこの二つの出来事は、氏の証言を裏書きし、現代を永久革命の時代と呼ぶことをいっそう適切にしてくれるように思われる。私はひとりでも多くのひとが本書によって、トロツキーの偉大な思想をともに分たれる機縁とされることを、心からねがってやまない。彼のすばらしい思想に触れることによって、汚され、卑小化された社会主義のイメージを、私たちの心の中で洗い清めて、その本来の壮大な輝かしい姿にかえし、トロツキーがつねに描いていた雄大で壮麗な社会主義のヴィジョンを、私たちの信念として強め、いっそう壮大なものとして、より若い世代の中へもちこまれるように! なぜなら、私たちは今日、トロツキーの時代の大工業も手工業としか見えないものにする巨大工業と巨大テクノロジーをもっているからであり、二億二千万キロの宇宙の彼方の眇(びょう)たる機械を遠隔操作によってピシャッと作動させ、それを地上で精確にキャッチすることもできれば、明日にも月の世界へ人間をおくることもてきるいまの私たちには、トロツキーが誇り高く、勇敢な自然の支配者である人間の驚嘆すべき技術として、つぎのように感動こめて語ったことも、いまでは人間の誇りとして、あまりにもつつましやかに感じられさえするからである。
 「現在の世界的危機は、大洋の底まで潜り、大気圏外まで飛翔し、眼に見えぬ波によって地球の対蹠地と詰す人間、この誇り高く、勇敢な自然の支配者が、自分自身の経済の完全な奴隷となっていることを、ことに悲劇的な仕方で実証している。」(「未来にたいするかれのヴィジョン」本書三七九ページ)
 一九六八年十月十五日


反ヴェトナム侵略戦世界共闘会議を
    ――二つの提言

     一九六六年夏に執筆され、「現代の眼」 六六年十月号に発表された。原題は「二つの提言」。

 メイラーは『大統領のための白書』の中でアメリカ生活を毒する社会悪の疫病についてかたり、「右翼にぞくする多くの男性と女性は、この国のほとんどだれよりもこの疫病に敏感であるとさえ考えます。右翼の情熱に力をあたえているのはまさしくこの敏感な感受性であると、わたくしは思います」といっている。最もラジカルな作家の一見逆説的なこの指摘は、現代社会の急所を突いている。インドネシアの悲劇はそうであり、ドイツの大悲劇もそうであった。日本の生活の地下世界にも、そうした不吉な様相が見られる。
 社会悪にたいする感覚は、最も、敏感だとされている革新運動家たちよりも、むしろなんの拠り所も持たぬ国民の大きな部分の人たち、日常の不安だけでなく、死後の恐怖にさえ心の臟を日夜咬まれているこの人たちの方がはるかに鋭く、切実で、その祈りは生活の個々の改善ではなくて、魂の救済であり、国そのものの建て直しである。そこで、新興宗教へ流れこんでいく。この感覚のずれが急速に克服されないと日本はそれこそナチドイツの恐怖も影うすれるほどの国民的大惨劇になだれ落ちていく恐れがたぶんにある。このごろ、わたくしはあのドイツが一歩一歩、蟻地獄へ落ちこんでいくのを目撃していた三十何年か前の恐怖が思い出されてならない。ナチが勝利したら、ドイツも欧州もどうなるか、火を見るよりも明らかだった。それを防ぎ、世界を救う道は唯一つ、社共が反ナチ共同戦線を結成することだった。スターリンをどう評価するにせよ、この統一戦線を禁じたかれの社会ファシズム論の犯罪は否定できないだろう。
 世界をその軌道から外しかねない現代のシーザーと、メイラーがこきおろしているジョンソンの野放図なヴェトナム侵略にたいして、中ソの指導者は大悲劇前夜のドイツの社共の領袖の議論をほとんどそのままくりかえしている。小出し的な支援はペンタゴンを刺激し、拡大口実をあたえ、図にのせるだけである。「アメリカは実際に中国との核戦争を考えるほど悪化し、二十年間戦争を望んできた連中はいま日に日に強力になり、張り切っている」とメイラーは筆者への手紙でいっている。
 社会党はヴェトナム戦争に反対を表明し、共産党は国際協力を主張し総評は十月に反ヴェトナム戦ゼネストを決定している。だがそれだけで強力無比なべンタゴンの野望を本当にぶちつぶすことができるだろうか。もしも中ソ両大国を中核とし、全社会主義諸国と世界の革新勢力が一致して立ち、毅然として対決の決意をしめすなら、その時はじめてペンタゴンは、そのモラル的威圧のまえに腰くだけ、アメリカ内部に重大な分裂を引き起すだろう。そこでわたくしは、鈴木、野坂、堀氏の三委員長〔*〕に一つ提言したい。三委員長はドイツの大悲劇の教訓の上に立って、ヴェトナム侵略戦争は一日も早く絶対に中止せねばならぬという、日本労働階級の深い決意を代表し、共同の名で、中ソその他の社会主義諸国と全世界の革新勢力に向い、反ヴェトナム侵略戦世界共闘会議即時召集を提唱し、同時にそのための国際与論を喚起する大運動を開始していただきたい。ペンタゴンをつけあがらせている革新勢力の分裂を即時中止させ、この侵略戦争を断固やめさせることに全精力を結集してほしい。明日の歴史の審判に立派にこたえるために。三委員長にもう一つ提言したい。中国の大文化革命運動が極めて重大な事件であり、そのモラル的影響が測り知れないことは明らかである。その評価は様々であり、それへの行きがかりも色々あろう。だが、中国の苦悩が経済建設の困難からきていること、日本の労働階級としてそれを坐視すべきでなく、その健全な発展を望むことに異論はないだろう。自民党さえ分裂? を云々されているとき、三委員長は吉田書簡や第三国の横槍りによる妨害を黙視するわけにはいかないだろう。日本の労働階級は、階級自身のためにも、中国やソ連との経済提携に強力に発言する権利と義務があると思う。が、それは結局労働者にしわよせされる商社まかせの不安定な貿易ではなくて、日本労働組合の各代表の参加のもとに、中国その他の計画経済のプランと日本の工業を見合わせ、長期クレジットによって、長期提携計画を立てるのである。最新鋭のプラント一つでも強力な建設の支柱となり、近代労働者の強大な拠点となり、意識を高めるであろうし、日本の労働者は生産拡大の利益をうけると同時に、自分も社会主義建設に直結されているのだという自覚は、そのモラルを昂揚させずにはおかないだろうと思うが、どうだろうか。

〔*〕 三委員長 鈴木社会党委員長、野坂共産党議長、堀総評議長のこと。


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる