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国際革命文庫  3

日本共産党批判
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電子化:TAMO2
●参考サイト
「さざなみ通信」
「JCPウォッチ」
「日本共産党を考えるネット」
「日本共産党はどこへ行く」
織田 進


第一章「民主主義の党」にむかって

a 六一年綱領の性格

 同志沢村は、五八年七月、日本共産党第七回大会に提案された「日本共産党党章草案」にたいする原則的批判を、四つの点において、すなわち「一国主義、平和主義、民族主義、議会主議」という点でおこなっている。その批判は、「党章草案」について革命的共産主義者が指摘すべき基本的問題点の、ほとんど全てを網羅していると言って良い。日本共産党中央官僚は、同志沢村の批判にこたえる能力を持っておらず、そのため、それを党内論争から抹殺し黙殺することに決め、実行した。かくて同志沢村は、その批判文書を公開して、直接に党内外の先進的な活動家に提起する方法をえらんだ。
 第七回大会は、「党章草案」を採択することができなかった。都委員会「左」派――構造改革派を中心とする反対派の圧力によって、党章草案の採択は、見合わされたのである。
 中央官僚は、草案の採択を次の大会まで延期した。だが、延期にあたって中央官僚は三つの方法で、この草案の基本的思想を全党に“密輸出”した。第一には、草案の“行動綱領部分”を当面の“行動綱領”として採択したこと、第二には、草案の“組織論”に関する部分を“規約前文”として採択したこと、第三には、草案の残りの部分、いわゆる“政治綱領”部分を、全党が討議し検討すべき草案として認めさせたこと、以上の三つが、一見、反対派の主張に耳を傾むけたような見せかけを示しながら、事実上草案の思想で全党を統制していこうとした、中央官僚の手続きであった。“政治綱領”部分の採択は阻止したものの、これら三点の措置を受け入れざるを得なかった時点で、反対派の敗北は、すでに決定したのである。
 こうして基本的な勝利を手中にした中央官僚は、第八回大会での全面的な勝利のために、もっとも確実な手段を精力的に駆使した。それは、反対派を組織的に排除することであった。全学連の活動家を中心とする左翼反対派が、第七回大会以前、またはその前後にすでに党を離脱し、排除されていたという事情のもとで、“社会主義革命”を主張しつつも多分に右翼的な性格の構造改革派は、六〇年安保闘争の大衆的高揚のなかで孤立し、ほとんどなすすべもなく追放された。全学連を中心とする“トロツキスト派”と対抗するのに役立つ限りにおいては彼らの存在は中央官僚によって利用されたが、その役割が終ると、使い古しのゾウキンのように、彼らは党から放り出されてしまった。
 六一年七月、「社会主義革命派」を排除したうえで開催された第八回大会は、党章草案を若干手直しした「綱領」を、満場一致で採択した。この時から今日にいたるまで、六全協以後の一時期に存在した党内の“自由化”は、復活しない。徳田球一にかわる宮本額治の個人指導体制が確立されたのである。
 八回大会で決定された綱領は、七回大会で提案された党章草案に若干の修正を加えたものであって、大綱において変更されているわけではない。だが、一つの点でこの修正は、決定的な内容を含んでいる。
 党章草案は、党の任務について次のようにのべる。
 「党の当面の中心任務は、アメリカ帝国主義と独占資本を中心とする売国的反動勢力の戦争政策、民族抑圧と政治的反動、搾取と収奪に反対し、平和、独立、民主主義、生活向上のための労働者、農民、勤労市民、知識人、婦人、青年、学生、中小企業家をふくむすべての人民の要求と闘争を発展させることである。そして、そのなかで強力で広大な統一戦線をつくり、その基礎のうえに平和、独立、民主の日本をきずく人民民主主義権力を確立することである。」
 ここのところが、「綱領」の方では、次のようになっている。
 「当面する党の中心任務は、アメリカ帝国主義と日本の独占資本を中心とする売国的反動勢力の戦争政策、民族的抑圧、軍国主義と帝国主義の復活、政治的反動、搾取と収奪に反対し、独立、民主主義、平和、中立、生活向上のための労働者、農民、漁民、勤労市民、知識人、婦人、青年、学生、中小企業家をふくむすべての人民の要求と闘争を発展させることである。そしてそのたたかいのなかで、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配にたいする人民の強力で広大な統一戦線、すなわち民族民主統一戦線をつくり、その基礎のうえに独立、民主、平和、中立の日本をきずく人民の政府、人民の民主主義権力を確立することである。」
 傍点を付した個所に注目していただきたい。「平和、独立、民主」は、「独立、民主、平和、中立」となっている。「統一戦線」は、「民族民主統一戦線」と変っている。これらの変更は、何を意味するだろうか。
 これらの変更の意味を解くにあたって、第七回大会から八回大会までの三年間に、日本共産党が経験した重要な変化を二つ指摘しておかなければならない。
 第一の事情は、党内闘争に関するものであるが、「社会主義革命派」が一掃されたことである。中央統制委員長春日庄次郎と山田六左衛門ら六名の中央委員を含むこの派は、第八回大会代議員選出の過程で組織的に排除され、この処置にたいする抵抗を試みると、党そのものから追放された。
 「社会主義革命派」は、日本独占資本主敵論者である。彼らは、日本独占資本と日本労働者階級の対立、すなわち階級矛盾が主であって、アメリカ帝国主義と日本人民の対立、すなわち民族矛盾は従であると主張する。この主張は、つきつめていくと第二次大戦後の日本共産党の伝統的な革命論である「民族解放民主革命論」と衝突することになり、基本的にこの革命論を継承する中央官僚と非妥協的に対決せざるを得なかった。
 第二の事情は、六〇年安保闘争の経験である。中央官僚は、六〇年安保闘争から二つの教訓を引き出した。一つは、アメリカ帝国主義と日本人民の対決としての安保闘争の高揚である。安保条約の改定が成立したことによって、アメリカ帝国主義の日本支配はますます深まっており、安保闘争に示された人民のエネルギーがこれとはげしく対立していくことが、今後の政治情勢の基軸となるだろうという展望を、彼ららは安保闘争の結論として引き出した。
 安保条約の改定は、日本帝国主義の力の復活の現状に応じて、日米の役割の分担を修正したものである。それは、日本帝国主義がアメリカ帝国主義の軍事的、経済的保護から自立していく方向を定めたのである。だが共産党中央は、事態を逆の方向にとらえた。彼らは、安保条約の改定をアメリカ帝国主義による民族的支配の深化であると把握した。そこから彼らは、日本革命の当面の中心の環が、民族矛盾にあるとした。
 二つめの教訓は、安保闘争の最大の高揚が「民主主義を守れ!」というスローガンのもとでひき出されたということである。安保闘争は、五・一九強行採決以降、「民主主義は死んだ!」という小ブルジョア的な危機感に支えられて頂点に達した。この事実は、共産党中央官僚の「民主主義革命論」に大きな「はげまし」を与えた。そこから彼らは、「民主主義」の要求が「封建的なのこりもの」にたいする闘争のスローガンであるだけでなく、日本独占資本にたいする闘争のスローガンでもあることを発見したのである。「民主主義」の要求は政治闘争の領域にも、経済闘争の領域にもひろげられた。政府の政治的弾圧に抗する「民主主義」、大企業の経済専制に反対する「民主主義」――人民は「民主主義」を要求している、これが安保闘争から引き出した彼らの二つめの教訓であった。
 アメリカ帝国主義の支配にたいしては「独立」を、日本独占資本の支配にたいしては「民主主義」を、かくて「二つの敵」にたいする「民族・民主統一戦線」を――これが彼らの安保闘争の総括である。「独立」と「民主主義」は、小ブルジョアジーの全部と一部の良心的なブルジョアジーをまき込むことが出来るという点で共通している。だが「社会主義革命」では、それらの諸階級、階層を離反させる恐れがある。安保闘争は、ますますもって、党中央の「社会主義革命派」排除の路線が正しかったことを証明した、というわけである。
 すでにわれわれは、七回大会「党章草案」が、八回大会「綱領」に、どの点で重大な「飛躍」をなしたか、どの点でいっそう「豊富」になったかをのべているのである。八回大会「綱領」は、民族矛盾が第一義的であるとし、国内の敵――日本独占資本にたいしては、最終的に打倒するのではなくて制限すること、アメリカ帝国主義から切りはなすこと――つまり「民主化」することに限定した。これがなぜ「独立」「民主」「平和」の順序が変ったのか、なぜ統一戦線が「民族・民主統一戦線」と規定されたのか、ということの意味である。
 「綱領」には、アメリカ帝国主義の支配の事態を明らかにするための多くの文章がつけ加えられている。ほんの一にぎりの独占資本を除けば、全ての階級と階層が、アメリカ帝国主義の支配に反対していることも強調されている。「民主主義」は、いうまでもなく、少数者が多数者に従うことである。共産党は、党内でこの原則を貫徹している。「社会主義革命派」を排除したのは「民主主義」である。だとすれば、その論理を日本国内にひろげて悪いわけがあろうか。少数者である「二つの敵」は、多数者である「その他全部」に従えと要求して悪いはずがあろうか。それが「民主主義」なのだ。アメリカが日本にもち込んだ「民主主義」なのだ。アメリカは自分の言葉に責任をとれ!
 以上のような順序で、「独立」は「民主主義」であり、「民主主義」は「独立」であるという、両者の論理的同一性があますところなく証明された。容本顕治の指導のもとで、日本共産党は、論理的同一性を回復し、いまや二つの敵にむかって決然と立つ。
 だがわれわれはすでに見ている。この論理的同一性がどのような政治的な動機に根ざすのかということ――すなわち、この同一性は、小ブルジョアジーの全部と一部の“良心的“ ブルジョアジーを統一戦線に引き込みたいという熱望を表現しているのだ、ということを。これが日本共産党綱領が、同志沢村によって批判された党章草案から引きつぎ、さらに“豊富“化した性格なのである。

b “自主独立”への道

 日本共産党の「二つの敵」との“勇敢な”たたかいは、このようにして始まった。だがそれは、平担な道を進むようなわけにはいかなかった。それどころか、きわめて重大な難問にぶつからざるを得なかったのである。
 難問は、中ソ対立であった。六二年から六三年にかけて、中ソ両国共産党の論争は、ヨーロッパ各国の共産党をまき込んで公然化した。はじめのうち、「中ソ対立はデマであり、国際共産主義運動の内部に対立はない」と強弁していた日本共産党は、論争の公然化をつきつけられて、自らの態度を決定することを強制された。
 六三年八月、部分核停条約の国会審議に際して、日本共産党の最終的態度表明が要求された。部分核停条約は、ソ連とアメリカが核兵器を独占しようとする陰謀であると主張する中国共産党の態度が示されて六三年八月以降、日本共産党は公然と中国共産党を支持する立場を取った。共産党議員団は、部分核停条約に反対投票した。
 なぜ日本共産党は、中国共産党の立場を支持したのか。なぜ「中国派」の一員にこのときはっきりと加わったのか。
 中国共産党は、世界の「民族解放革命派」の頭目であった。ソ連共産党は、「平和共存第一義派」であった。すでにわれわれは、第八回大会で出発した新たな日本共産党の路線が「民族矛盾第一義派」の性格をもつものであることを明らかにしている。日本共産党がまず防衛しなければならなかったのは、この点である。もし彼らが、ソ連共産党の側にくみしたとすれば、彼らは「社会主義革命派」の逆攻勢にさらされ、社会党との組織競争で追いつめられていったであろう。
 第九回大会は、六四年一一月にひらかれた。大会は、志賀義雄、鈴木市蔵、神山茂夫、中野重治らの「ソ連派」を排除した。中国共産党は、こうした“努力”を高く評価して、長文のメッセージを送った。
 「日本共産党と日本人民は、中国共産党と中国人民がけっしてかわることなくあなたがたの側にたち、あなたがたの偉大な正義のたたかいを断固支持することを確信することができます。」
 官僚の約束がどれほどあてにならないものであるかということについて、このメッセージは、好例の一つにかぞえられる。
 日本共産党と中国共産党の密月は、きわめて短いものであったために、かえって熱烈であったと言えるであろう。共産党員はとつぜんに「中国通」になり、中国語をならい、自分の名前を「中国語ふうに」発音して無邪気によろこび、「青春の歌」を読み、きそって甘栗を食べたりした。党はあげて「現代修正主義」――フルシチョフ一派非難の大合唱に加わった。
 この有頂点に冷水をあびせたのは、六五年のインドネシア・クーデターである。九・三〇事件以後、インンドネシア共産党員とシンパ約三〇万人が虐殺され、中国共産党の路線の最も忠実な追随者であり資本主義世界最大の共産党であったインドネシア共産党は、文字通り抹殺されてしまった。
 中国共産党は、単に「民族解放革命派」であっただけではない。それは同時に「武装闘争派」でもあった。北京の指導部は、ソ連、アメリカとの二正面作戦において、アメリカ帝国主義の中国包囲の圧力を少しでもやわらげるために、資本主義各国の中国派共産党が「武装闘争」に決起するよう、期待を表明した。この期待は、見せかけは、各国革命の勝利のための路線として提起されたのだが、根本的には、中国の安全、中国の防衛という一国的利益の観点にもとづくものである。こうした官僚的要求がどのように悲惨な敗北を各国の革命にもたらすのかということを、インドネシア・クーデターは示した。それは、三〇年代の“スペイン”を、六〇年代に、「左」から再現したのである。
 インドネシアが浴びせた冷水は、プラグマティスト官本顕治の酔をさますのに十分すぎるほど冷たかった。もともと日本共産党の「中国派」支持は、短期に撤回されるべき運命にあった。日本共産党は「民族解放派」であるとともに「議会革命派」である。このふたつのものを両立させることは、日本ではインドネシアの場合以上に困難である。
 六六年一〇月、第二〇回大会は、こっそりと、二つの党の密月が終ったことを告白した。「二つの敵」とたたかうわが共産党には、さらに、「二つの戦線での闘争」が背負わされた。「現代修正主義」とたたかうだけでなく、「教条主義・セクト主義」ともたたかわなければならないことになった。「対外盲従分子」中央委員西沢隆二や、山口県委員会左派などが追放された。
 この大会をさかいにして、情勢分析の基調が変って来た。九回大会までは、「社会主義諸国・民族解放運動」の「偉大な前進」が、ことに強調され、「情勢はますます有利である」とえがかれていた。一〇回大会では「国際共産主義運動の不団結」による「情勢の困難な側面」も忘れてはならないこととなった。「アメリカ帝国主義の各個撃破政策」の進展が強調されるようになった。
 宮本指導部は、重大な決断を下した。「自主独立の路線」である。ソ連共産党と対立し、いままた中国共産党とも手を切らなければならない。外国の党に追随するとろくなことにはならない。「自主独立」の道をとるにかぎる。
 こうして六一年第八回大会から五年にして、日本共産党は「国際共産主義運動」における第三者の道を歩みはじめたのである。ところで、“自主独立”という勇ましい合言葉の持つ政治的意味を明らかにしておかなければならない。それが、ふつうに考えられるような、たとえば水前寺清子の歌のように「男一匹、誰の力も借りないぞ」などという元気の良い合言葉では、実際はないのだということを明らかにしておく必要がある。
 「現代修正主義と教条主義、セクト主義の両翼の誤りと結びついた外国勢力の干渉を排除して、日本の民主運動の自主的な団結を堅持することが、きわめて重要になっている。」
 「われわれはこれまで、いくつかの重要な問題で意見の相違のある外国の党との関係についても、その党が、わが党および日本の民主運動への干渉と破壊をわが党にたいする基本的態度としているものでないかぎり、共通の敵にたいする闘争課題において正しい一致点を見いだし、それにもとづいてできるかぎり共同するために努力するという基本的態度をとってきた。」
 「わが党は、今後、いかなる外部勢力からの干渉にたいしても、これをだまって見のがすことなく、全党をあげて、断固として粉砕しなければならない。……またこれは、真にプロレタリア国際主義とマルクス・レーニン主義にもとづく、自主・独立・平等・相互の内部不干渉などの原則による党と党との関係の基準を擁護する正義の闘争である。」(以上、第一〇回大会「中央委員会の報告」から)
 “自主独立”というのは、外国の勢力、外国の党からの自主独立である。日本の党の方針は日本で決めるから干渉しないでくれということである。党と党との関係は、「相互の内部不干渉」が原則だというのである。これにマルクス・レーニン主義、プロレタリア国際主義の名がかぶせられるのだから、諸君、なんとも元気の良い話ではないか。
 各国の党は世界革命の一部である。各国の党がどのような方針をもってたたかうかは、世界革命がどうなるかを決定する。世界革命がどうなるかということは、また各国の革命がどうなるかを決定する。だから各国の党は、他国の党に重大な関心を払い、そのたたかいに意見を表明するし、誤りがあればただそうとする。だがそういったことは、原則的に誤りであって、党は国境を超えて意見を持ってはならないというのが、わが共産党の“自主独立”の道なのである。
 “自主独立”のこうした奇想天外な着想は、あきらかに平和共存の国家関係を、党と党との関係に引き寄せたものである。国家と国家が「相互の不干渉」を原則としなければならないというのが、平和共存論である。この「相互不干渉原則」が、一国の内部に適用されてはならないという「歯ドメ」は、どこかに存在するだろうか。“自主独立”を、外国の党との関係にだけ限定するためには、国境が、プロレタリアートの運動にとってどういう意味をもつかを明らかにしなければならない。だが、プロレタリアートが、国境を「超越し、突破する」存在であることは、マルクス以来明らかであろう。「相互不干渉」原則に、国境の限界をもちこむ論理をたてることはできない。また、平和共存論が、資本家国家と労働者国家との「相互不干渉」を説く以上、党と党の関係の場合に、その階級性の相違を理由として、「相互不干渉」原則に例外をもうける正当な根拠もありえない。
 そこでわれわれは、日本共産党に質問するのである。なぜ諸君は、自由民主党に干渉するのか、なぜ民社党、公明党、社会党に干渉するのか、なぜ彼らをほおっておかないのか、彼らは迷惑しているではないか。
 “自主独立”の路線は、国際的党派闘争からの召還の論理であり、その帰結は、彼ら自身の解党でなければならない。国際的党派闘争から召還する論理をつきつめれば、国内的党派闘争からも召還しなければならないからである。
 だが実は、宮本顕治の指導部が、ソ連派、中国派の両方から手を切るために、これ以外の理由づけをすることができないという点では、“自主独立路線”は必然でもあったし、同情にもあたいする。日本共産党の綱領は、ソ連派であると同時に中国派である。社会改良派であり議会主義派であるという点では、西欧の共産党と同じようにソ連派であり、民族独立派でありブルジョア革命派であるという点では中国派でもあるのが、日本共産党の綱領である。したがって、路線としての、戦略としてのソ連派、中国派のどちらを批判したとしても、その批判は自分自身にかえって来ざるを得ないのだ。宮本指導部としては、一切の理論的批判をさげて、両国の党から別れなければならない。“自主独立”という形式論理は、こうした彼らの苦しい事情からうまれたのである。

c 「民主主義の党」へ

 「共産主義建設の道をすすむソ連とともに、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、モンゴル人民共和国、ベトナム民主共和国など、わが国をとりまく国ぐにで着々と社会主義建設がすすめられ、経済と文化のあらゆる分野で飛躍的発展がおこなわれている。それは、日本人民の独立、民主、平和、中立をめざすたたかいをはげまし、人民各層をこのたたかいに結集するのにますます有利な国際的条件をつくりだしている。」
 第八回大会政治報告の冒頭で、野坂参三はこのようにのべた。
 ところでそれから一二年後、中央委員会を代表して宮本顕治は次のようにのべる。
 「今日、ニクソン政権が展開している対中、対ソ外交をとらえて、たとえニクソンの側にどんな動機があるにせよ、これはアメリカの対外政策の平和共存政策への転換をしめすものだとする見方が一部にあります。……しかしこれらの事態をもって社会主義諸国の平和共存政策にたいするニクソンの譲歩や屈服だなどと単純に評価することが正しいでしょうか。そうした評価は、ニクソン政権の世界戦略の侵略的な本質と、米中、米ソの接近がニクソン戦略のなかでもつ位置と役割をまったく見誤ったものといわなければなりません。」
 「社会主義陣営の不団結や、アメリカ帝国主義への無原則的な協調の傾向などが、アメリカ帝国主義にこのような侵略を許す国際情勢上の、重要な要因の一つであったことは、だれも否定しえない明白な歴史的事実であります。」
 「軍事的、政治的に敗北し、力関係上後退を余儀なくされたところでは、若干の後退はするが、しかし可能なところではどこでも侵略と戦争の政策をおしすすめ、新植民地主義の野望を追求するとともに、侵略と反革命のあらたな突破口をひらく、この各個撃破政策が、依然としてアメリカの基本政策であります。」
 日本をとりまく情勢についての、二つの報告にみられる認識のちがいは、日本共産党の戦略にかかわる重大問題である。すでに沢村論文が明らかにしているように、日本における「平和革命の可能性」の唯一の論拠は「社会主義諸国と民族解放闘争のますます巨大な前進」だった。彼らの議会主義的なたたかいが、革命党の実践として正当化される最大の根拠は、まさに「有利な国際情勢」にあったのである。この点は、平和革命の可能性を「高度に発展した資本主義社会の構造」に求める社会民主主義、日本社会党の場合とはちがっている。
 国際情勢が必ずしも「有利でない」ことは「チリの挫折」においても実証された、と宮本顕治はとらえる。だが、それならばどうすれば良いのか、暴力革命論に転換するのか、平和革命の可能性はうすらいだと決断するのか。
 宮本顕治の思考は、逆の方向に作用する。「国際情勢の一定の困難」は、基本的には、「国際共産主義運動の不団結」が解消されれば突破されるであろう、その時期はいずれ来るだろう、たしかに平和革命には時間がかかるが、大切なことは歩みを遅くし、姿勢を低めて、少しづつ前進することだ……と。「国際情勢の困難」、「ニクソンの各個撃破政策」は、平和革命の放棄ではなく、その「長い時間をかけた準備」の根拠である。国際的な同盟者を失なった損失を国内で取りかえすために、ますます深く小ブルジョアジー、「民主的大ブルジョアジー」の支持を得ようとする政策が展開されるのである。
 姿勢を低め、もっとゆっくり前進するという志向は、「反帝・独立」と「反独占・民主」の二つの課題のうち、いっそう広汎な人民の支持を得られる「反独占・民主」の課題に重点をしぼるという結論に導びかれる。まず「民主」、次に「独立」、それから「社会主義」へ……。
 第八回大会では、「独立」と「民主」は同一の課題であり、「独立・民主」から「社会主義」へという二段階革命の路線が確認された。今日、「独立・民主」は分割されて、順序も逆転した。日本共産党の戦略は、実に三段階革命へと「緻密化」したのである。
 こうして「民主主義」の課題は、当面の戦略的課題にすえられた。政府綱領はまずもって「民主連合政府」となった。「民族・民主統一戦線」、「独立・民主・平和・中立」、「反帝・反独占」……これら一連の「二つの敵」にたいする闘争の諸規定、諸目標から、前半が取り去られることになった。日本共産党はいまや、まぎれもなく「民主主義の党」である。
 “自主独立”を余儀なくさせた「国際共産主義運動の不団結」、われわれの用語でいえば、国際スターリニズム運動の分解と衰退が、日本共産党を「民主主義の党」に押しやったのである。彼らは、国際的同盟者、頼りになる外国の党と国家の支援をあてにすることができない。だが彼らには、彼らの信頼を裏切った外国の党とたたかい、その指導部をてんぷくさせようとこころみるだけの力も、理論も、勇気もない。そうであるかぎり、彼らが国内でますます深く人民の中へ、小ブルジョアの中へ、「民主的大ブルジョア」の中へもぐり込んで安全を手にしようと試みることを、誰が責めることができようかn
 しかし、われわれは、日本共産党のこの新たな右傾化、「民主主義の党」への転落を、いかなる同情心も捨て去ってきびしく糾弾し、それをのりこえようとしてたたかうであろう。われわれは、彼らの路線が、はじめから終りまで間違っていることを公然と明らかにするであろう。さらにわれわれは、彼らがどこへ行こうとするのか、どんな存在に転落していくのかを予見し、全ての労働者、人民に警告するであろう。われわれの、宮本指導部との原則的違いはすでに沢村論文において、十分に明らかである。今日の段階では次のことをつけ加えれば足りる。
 第一に、われわれは、世界情勢は、世界革命と日本革命にとってますます有利に展開していると判断している。アメリカ帝国主義は敗北しつつある。未曽有の後退を強制されている。中・ソの対立の激化もまた、基本的には世界革命の前進の反映にほかならない。
 だが第二に、世界革命の前進が、「平和革命」の可能性を近づけるのではなく、革命と反革命の暴力的対決の決定的接近の条件をつくり出すことを、しっかりと、胆っ玉をすえて自覚しなければならない。追いつめられた支配階級が、自分から退場するようなことはありえない。
 第三に、したがって、最も抑圧され、もっとも搾取されている多数者、労働者と被抑圧人民の無限のエネルギーにますます深く、強く依拠することが必要なのであって、保守的小ブルジョアジーや「民主的大ブルジョアジー」におもねる路線は、接近しつつある政治決戦に大敗北を契する自殺の道でしかないのだ。彼らに依拠する道、彼らのエネルギーを最大限に溢れさせ、団結させる道、それは、「民主主義」でもなければ、「独立」でもなく、まして「自主独立」の道でもない。
 アジア人民とかたく連帯した社会主義の道、これが全ての共産主義者が、現在歩む道でなければならない。
 日本共産党とわれわれの原則的ちがいは、これらの点に厳然とある。だが、ここでのわれわれの任務は、われわれの主張それ自身を詳述することではなく、日本共産党を解明し、批判し、彼らが究極のところ、どこへ赴むこうとしているのかを明らかにすることである。われわれはすでに、日本共産党の「民主主義の党」への道程が、どんなものであったかを見て来た。結論にうつる前に、彼らの「民主的幻想」の内容を把握しなければならない。「民主連合政府」提案の基本的性格を解明すれば、その課題はほぼ解決されるであろう。


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