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六七―六九年 総括と展望

       酒井与七

1 われわれの歴史的位置
   ――第三インターの崩壊と新しい反帝闘争の形成

 一〇―一一月闘争を一九六七年以降ヴェトナム反戦闘争、大衆的全国大学闘争そして沖縄闘争によって構成される新しい日本反帝国主義闘争生誕のための歴史的緒戦にたいする一つの政治的結論であるとわれわれは主張する。そしてこの一九六七年から一〇―一一月闘争にたいする全大衆闘争についてのわれわれの結論の第一のものは、ブルジョア日本の大衆運動のなかに反帝国主義の極左翼にむけた主体的な政治分化、反帝国主義極左翼にむけた大衆組織の端緒、その可能的な極を歴史的に形成したということである。現実の政治情勢を具体的にゆりうごかし、現実の階級闘争を具体的に前進させようとする新しい急進主義的な大衆的闘争極を端緒的にではあれ形成したことであり、それは可能的に反帝国主義の大衆的極をかたちづくる。一度形成された大衆的反帝国主義闘争は今後にわたって絶対的に上昇をつづける―この闘争がそのなかで戦いぬくべき戦術的情勢の諸々の変化と推移は勿論のこととして。
 そこでわれわれは一九六七年から一〇―一一月闘争にいたる全闘争を国際階級闘争および国内階級闘争の歴史のなかで政治的に位置づけ展開しようとすることからはじめなければならない。

第三インターと新・旧の帝国主義

 一九世紀後半から二〇世紀にかけて歴史的に形成された西ヨーロッパ中心とする旧世界帝国主義体制は第二次世界戦争をつうじて崩壊と没落の最後的局面にはいった。この世界戦争と旧世界帝国主義体制の最後的な崩壊のなかから一九四〇年代の前革命的な階級闘争がヨーロッパとアジアにおいて爆発し発展した。ヨーロッパ東部戦線におけるソ連軍のナチス・ドイツにたいする軍事的勝利は、ソ連邦の政治軍事的支配下に東ヨーロッパ諸国の官僚的「社会主義」革命にみちびいた。ユーゴスラビアにおいては人民革命にもとづいて反資本主義革命が遂行された。イタリーとフランスのブルジョア国家権力は深刻な危機におちいった。アジアにおいては日本帝国主義の植民地支配は完全に崩壊し、中国大陸には人民革命権力が樹立された。朝鮮半島の北半分はソ連邦の軍事占領下に反資本主義権力がうちたてられた。日本の国境内部でもブルジョア国家権力は深い危機におちいった。ヴェトナムでは少しくおくれて北半分に人民革命権力が樹立された。そして一九五〇年代全体と一九六〇年代にむけたアラブ諸国家のブルジョア・ボナパルチスト的独立の発展とアルジェリア解放闘争の勝利、アジアからのイギリスの撤退、アフリカ諸国家の独立などにもみられるように、西ヨーロッパを中心にして一九世紀後半から二〇世紀にかけて形成された旧世界帝国主義体制の衰退・没落・崩壊は疑問の余地なく全面的に進行した。東ヨーロッパ諸国はかつて西ヨーロッパ帝国主義にとって直接的な搾取と収奪の対象であったし、旧日本帝国主義の朝鮮・台湾支配と中国・東南アジア侵略は歴史的には旧ヨーロッパ中心の世界帝国主義体制の一部として形成されたものであった。この西ヨーロッパを中心とする旧世界帝国主義体制は第一次帝国主義戦争とともに危機と動揺と衰退の局面にはいった―ロシア十月革命権力の成立は、旧世界帝国主義体制の歴史的発展の限界およびその危機と衰退局面への移行の直接的な表現であった。そして第二次帝国主義戦争は西ヨーロッパ中心の旧世界帝国主義体制を没落と崩壊の最終局面におとしいれた。そして第一次帝国主義戦争以降発展する第三インターナショナルの諸国共産党の運動は、ロシア一〇月革命権力とともに、旧世界帝国主義体制の発展の限界およびその危機と動揺と衰退がつくりだす諸矛盾に本質的に基礎づけられており、旧世界帝国主義体制の危機と衰退そのものの直接的な表現としての国際大衆運動であったというべきだろう。そして一九四〇年代の国際階級闘争のヨーロッパとアジアにおける前革命的高揚もまた西ヨーロッパ中心の旧世界帝国主義体制の没落と崩壊の最終的局面とその諸矛盾の直接的な反映および表現であった。このような意味において、それは必然的に第三インターナショナルの諸国共産党の運動であったし、ロシア革命の政治的堕落に直接の基礎をおくスターリニズムと世界史的には不可分の一体をなすものであったといわなければならない。
 かくして、ロシア革命にはじまる第三インターナショナルの世界史的な国際大衆運動はヨーロッパ中心の旧世界帝国主義体制の危機と崩壊の諸矛盾のうちにうまれ、この旧世界帝国主義体制を打倒し解体しようとすることを自からの歴史的任務とする世界運動であったといわなければならない。第一次帝国主義戦争をつうじて帝国主義的富の中心が北アメリカ合衆国に移行し、西ヨーロッパ中心の旧世界帝国主義体制の全面的な没落と崩壊にとってかわってこの北アメリカ合衆国が自から卓絶した中心かつ主軸となって帝国主義世界体制の再組織に乗りだし、新帝国主義国際経済としてそれが上昇軌道にのったとき―そのときロシア革命を本質的に中心極とする第三インターナショナルの諸国共産党の世界運動は(世界にたいする)革命運動であることを決定的に終焉し、新しい世界体制にむけた極度に民族的な改良主義運動の総和に堕落してしまった。北アメリカ合衆国が帝国主義の新しい世界史的中軸として帝国主義世界体制の再組織に全面的に乗りだしたとき旧世界帝国主義体制の衰退と崩壊過程のなかで形成された諸国共産党の運動および一九四〇年代のヨーロッパ・アジアの急進的な人民大衆の運動は無力であったといわなければならない。そこには新帝国主義体制(ネオ・インペリアリズム)が形成された―そこでアメリカは全世界を再組織する世界史的な軸点となった。今日にいたるまで一九六〇年代のヴェトナム革命をのぞいて、このアメリカ帝国主義と正面から激突し戦いぬいて自身をうちたてた革命はいまだ存在していない。
 かくして米ソ「平和共存」世界体制とは、西ヨーロッパ中心の旧世界帝国主義体制の衰退と崩壊過程として形成されたロシア革命とこの革命を中心軸とする諸国共産党の運動およびその人民大衆の世界史的運動の敗北の必然的結果としてつくられたのである。一九四〇年代において前革命的闘争の水準に到達し、そのいくつか(ユーゴスラビア、中国)は民族的に革命を実現したが、一九四〇年代に新しい次元を通した国際大衆闘争の構造は一九五〇年代から一九六〇年代にむけて民族的な改良主義運動の総和に堕落してしまった。インターナショナルは死滅と終焉を完成した。第三インターナショナルはあと一つの第二インターナショナルになった。

ヴェトナム革命 ――現代史の転回――

 歴史的にいえばヴェトナム革命は一九四〇年代の前革命的な国際大衆闘争から出発したし、一九四〇年代末から一九五〇年代はじめにかけてこの革命は西ヨーロッパの旧帝国主義たるフランスと戦いぬいてヴェトナム北部に革命権力をうちたてた。ここまでは明らかに旧世界帝国主義体制にたいするヴェトナム革命の勝利である。だがアメリカ合衆国のアジアへの登場とその反革命的軍事重圧(主要に中国革命にたいする圧力)はヴェトナム南部の革命を武装解除しこれを反革命にゆだねさせた。つまりアメリカ合衆国による帝国主義世界体制の全面的な再組織にたいして戦いぬきえなかった一九四〇年代の国際大衆闘争の構造、その無力と改良主義的堕落そのものがヴェトナム南部において革命に武装解除を強制してゴ・ジン・ジェムの反革命にゆだねたのであり、ここにおいては一九五〇年代の平和主義と改良主義の国際大衆運動は公然たる反革命のうえに成立していたのである。それゆえにヴェトナム南部の革命は、その武装自衛闘争から出発してサイゴン反革命体制を南部全土にわたって喰いやぶったとき、アメリカ帝国主義と公然たる武装激突にはいっただけでなく、アメリカ合衆国が主軸となって再組織する新世界帝国主義体制のなかで民族的改良主義運動にとどまる全世界の大衆運動と根本的に対立したのであった。ヴェトナム南部革命は、これら改良主義運動の基礎そのものの解体に客観的に挑戦したのであったし、ヴェトナム南部革命の世界的孤立はまったく当然のことであった。ヴェトナム南部革命にとって可能的な道は次の二つに一つであった。つまりアメリカ合衆国の強大な軍事反革命とこの帝国主義を基礎にこれと平和共存する改良主義的国際大衆運動総体が強制する深刻な孤立の反動的重圧に屈するか――これはヴェトナム南部革命の最後的死滅の道である。それとも「深い孤立のなかでアメリカ合衆国の軍事反革命に抵抗しぬき、戦略の勝利の展望を自から血だまとなって切りひらき、世界人民を新しい反帝国主義闘争にむけて再組織するテコから極へと目からを転化しようとするのか!
 一九六五年から六七年にかけてヴェトナム革命はアメリカ合衆国の強大な軍事反革命に抵抗しぬき一九六八年のテト攻勢はついにこの世界史上最強の反革命を喰い破り戦略的勝利への展望をきりひらいたことを全世界に衝撃的に明らかにした。世界史はここに転回した。西ヨーロッパ中心の旧世界帝国主義体制の没落と崩壊そのままであり、これをついに自からこえることのできなかった第三インターナショナルの歴史的な国際大衆運動はついに乗りこえられた! 現代の革命は、西ヨーロッパ中心の旧世界帝国主義体制の没落と崩壊にとってかわりアメリカ合衆国が圧到的な主軸かつ主導者となって全面的に再組織した新帝国主義世界体制にたいする世界革命である。スターリニズムと第三インターナショナルをその改良主義的補足物へと堕落させた新帝国主義世界体制―アメリカ合衆国の世界的フロンティアに獲得され、これによって抑圧され堕落させられ再組織された“新”世界――これこそ、そこで現代の革命が目から根拠づけ、テストし、挑戦し、解体し打倒しようとする世界である。ヴェトナム南部の革命こそが“旧”帝国主義世界へと革命として生きぬいた唯一のものであり、現代革命の最先端にたって世界を導いている。
 アメリカ合衆国が主軸となって再組織した新しい世界帝国主義体制、その拠点そのものたるアメリカ帝国主義の強大な軍事反革命にたいしてヴェトナム南部革命が改良主義国際大衆運動の構造全体から徹底的に突出し、なおかつ戦略的勝利の展望を獲得するまで孤立のなかで戦いぬいたこと――ヴェトナム革命は戦後世界帝国主義体制の根幹そのものにもっとも非妥協的に突出し、そこに戦略的な亀裂をこじあけてしまった。このことが全世界の大衆の意識を抑圧し圧迫していた巨人アメリカ帝国主義の無敵の幻想と伝統化された改良主義国際大衆運動構造がつくりだした無力の感覚を根底から動揺させ、この新帝国主義世界体制とそのもとで改良主義的に堕落させられた大衆運動構造によって政治社会的に抑圧させられてきた学生、青年たちの政治意識・政治的想像力を解放する歴史的テコとなった。アメリカ合衆国を主軸とする新帝国主義世界体制と官僚的堕落をふかめる改良主義大衆運動構造に抑圧されていた青年・学生の潜在的な急進主義のエネルギーはヴェトナム革命をテコとし、ここに世界的に結集することをつうじて新帝国主義支配体制と伝統的改良主義運動に反抗する急進主義的直接行動の運動として爆発的に発展していった。ヴェトナム革命は来るべき時代の新しい反帝国主義インターナショナルの自然発生的な萌芽をつくりだした。来るべき時代における世界革命=“現代の革命”を担い戦いぬくものは、かつてこの西ヨーロッパ中心の旧世界帝国主義体制の没落と崩壊そのもの、かつその直接の表現である官僚的に堕落した諸国共産党とその改良主義大衆運動構造の抑圧および旧帝国主義体制の崩壊にかわって形成されたアメリカ合衆国を主軸とする新帝国主義世界体制とその支配構造――これら総体ともっとも急進的に敵対し、その解体と打倒のために闘う運動である。旧帝国主義の衰退と崩壊のなかで形成されたロシア革命と諸国共産党の国際大衆運動がその前で無力かつ改良主義的堕落を余儀なくされた新しく再組織された帝国主義世界の支配体制と徹底的に急進的に戦いぬこうとする大衆的闘争極は、その反帝国主義的直接性において相互に直接の結合と連合をもとめあい、アメリカ合衆国を主軸とした新帝国主義世界体制の解体と打倒をめざす新しい反帝社会主義インターナショナルをもとめるだろう。

日本における新帝国主義

 ブルジョア日本においてもまた西ヨーロッパ中心の旧世界帝国主義体制の一九世紀後半から二〇世紀にかけた歴史的上昇とその衰退のもとで形成された旧日本帝国主義構造は政治経済的に深く解体され、アメリカ合衆国の軍事経済的なヘゲモニーと傘のもとで戦後の発展と再組織が実現された。旧帝国主義体制から戦後の新帝国主義体制にむけた転機と再組織は、西ヨーロッパ諸国と比較して日本においてもっとも深く徹底的に実現されたといいうるかもしれない。それは次のようにいうことができるだろう――
 (a) 西ヨーロッパ中心の旧世界帝国主義体制の歴史的上昇と衰退への移行の全経過のなかで、明治以後のブルジョア的発展によって形成された旧日本帝国主義体制の崩壊と解体。――朝鮮・台湾を中心とする植民地の喪失、旧帝国軍隊の解体、農地改革の徹底的遂行、極度に中央集権的な強権的全国行政体系の解体と労働組合の自由をはじめとするブルジョア民主主義的諸権利の実現。
 (b) アメリカ合衆国にたいする全面的な依存と経済力の圧倒的な「国民経済」再建強化への集中。合衆国の軍事力への依存は東ヨーロッパと地続きの西ヨーロッパ諸国をはるかにしのいで徹底的かつ全面的であり、その犠牲は南朝鮮と沖縄の両人民にまわされた。経済力の“国民経済”への集中はこうしてもっとも全面的であり、アメリカ合衆国が主軸となって再建する新帝国主義国際経済のなかで飛躍的発展をとげ、ブルジョア日本社会の徹底的な工業化をなしとげた――世界第三位をいまや主張する日本経済における重化学工業の圧倒的優位性の確立、農業部門の衰退および相対的過剰労働人口の吸収。一九二〇―三〇年代の経済構造から深い転換が実現された。
 一九四五年以降の日本労働者階級の急進民主主義かつ戦闘的な高揚は、共産党の政治指導もあいまってアメリカ帝国主義との徹底的な大衆的権力闘争を経験することなく敗北し、急進民主主義的な諸要求は前記のブルジョア日本経済の急速な再建と発展のなかに改良主義的に吸収されていった。この大衆運動はアメリカ帝国主義のアジア反革命軍事体制にたいして平和主義的な抵抗の運動を企図しただけであり、自からの“国民国家”がただ平和主義的であることだけをもとめるもの以上には進みえなかった。大衆的運動は結局のところアメリカ合衆国を主軸に形成された新帝国主義体制のうちにあってその改良主義反対派の水準であったというべきである。にもかかわらず、この一九五〇年代においてこの改良主義運動は広範な労働者大衆の自発的参加をもっておしすすめられた。この改良主義左翼としての広範な大衆の自発的参加は一九五七年から六〇年にかけて大ブルジョアジーと政府の意識的な攻撃によって粉砕されてしまった。ここに新帝国主義体制下における日本改良主義運動総評・社会党構造の大衆的衰退とブルジョア抑圧的な官僚化の深化がはじまる。新右翼労働官僚勢力の台頭とともに、改良主義労働組合機構にたいするブルジョアジーの統制力と政治的圧力は飛躍的につよまる。広範な大衆の自発的参加は、それがブルジョア民主主義的あるいは改良主義的なものであっても深く抑圧されていった。大ブルジョアジーとその国家の大衆の圧力からの相対的独立化はすすんだ。
 一九六七年以降一〇―一一月闘争にいたる日本反帝国主義闘争生誕の闘争は、この改良主義運動構造の官僚的堕落のもとで抑圧されてきた意識的かつ急進的な青年・学生活動家たちのヴェトナム革命に依拠し、ヴェトナム革命に触発された運動としてまずはじめられた。ヴェトナム革命の孤立のなかでの断固たる抵抗闘争に依拠し、これにたいする直接連帯の行動に改良主義運動機構の官僚的堕落と抑圧に対抗する統一した政治的結集を見いだしたのであった。六七年羽田闘争につづく六八年一月の佐世保闘争は、急進的学生活動家たちによる街頭における戦闘的街頭行動が佐世保市民の深く政治的に抑圧されてきた平和主義的不信と警戒心の爆発をよびおこし、これと大衆的に結合してブルジョア政治支配体制に重大な不意打ちをくらわせた。王子および新宿(六八年一〇・二一 )においても基本的に同様のパターン――つまり一九六〇年以降発展した大衆の政治的自発性にたいする官僚的抑圧にたいする民主主義的憤激および平和主義的警戒心と学生・青年労働者の急進主義的街頭直接行動とが大衆的規模で結合する――そして政治権力の側は政治的準備に欠けて不意打ちをくらう。こうして急進主義的大衆闘争が政治情勢における戦術的主導権を形成していった。この反戦闘争において、労働組合官僚は青年労働者大衆にたいする官僚的統制力をしばしばおびやかされた。
 日大・東大闘争からはじまる全国大学闘争は、過渡的ながらも一つの社会的層をなす広範な学生層を急進主義的かつ爆発的大衆闘争にみちびきいれた。大衆的かつ急進主義的直接行動にむけて水路を準備したのはいうまでもなく羽田・佐世保・王子へといたるヴェトナム反戦闘争であり、フランスの五月であった。この闘争の背後にあったのは本質的に急進的な矛盾のエネルギーの要素と抑圧されているブルジョア民主主義にたいする幻想ということにであった。このブルジョア民主主義的幻想は闘争の徹底的な大衆性のうちに実現された爆発性を形成するうえで重大な役割をはたしていった。全国大学闘争は大衆的規模で学生活動家たちを生みだし、急進主義的な諸々の直接行動にみちびいた。東大安田講堂を中心とする激烈な官憲との闘争は青年労働者活動家層にたいして広範な影響をおよぼした。
 第三に沖縄軍事植民地体制を深刻な危機においこむ沖縄労農人民の反軍事植民地抵抗闘争の爆発的発展、それは屋良革新共闘候補の主席公選における勝利にしめされ決定的には沖縄二・四ゼネストの企図であった。沖縄二・四ゼネストの企図はブルジョア本土における全ての政治傾向と潮流を沖縄の側に引きつけ、四月沖縄闘争を獲得した。そして沖縄軍事植民地は戦後ブルジョア日本の帝国主義的根底そのものを問い、またその改良主義の土台に挑戦するものであった。

新たな日本の反帝国主義闘争

 一九六七年以降のヴェトナム反戦・全国大学闘争、沖縄本土復帰闘争の三つ(ここでは青年労働者大衆の経済主義のうちにある広範な自然発生的急進化の傾向について直接たちいらないことにする)は、大衆と活動家たちのブルジョア民主主義的幻想をふくみつつ攻勢的な急進主義的大衆諸闘争として爆発し、政治情勢における重要な戦術的主導権を形成しつつ発展してきた。これらはかつてロシア革命と第三インターナショナルの諸国共産党の運動が依拠した諸矛盾と大衆諸闘争とはことなって、戦後において決定的に再組織されたアメリカ合衆国を主軸かつ主導者として新帝国主義とその支配構造そのものに固有な矛盾に基礎づけられており、この新帝国主義体制のもとで官僚的に堕落させられた旧時代の大衆運動の改良主義的無能化に抗して形成してきた新しい性格の急進主義的大衆諸闘争であった。ヴェトナム革命とヴェトナム反戦は、まさしく新帝国主義体制のもとでの軍事的かつ植民地主義的構造そのものにもとづくものであり、大学闘争は現代帝国主義工業経済社会に固有の矛盾に一つの必然的な基礎をもっていた。とりわけ沖縄労農人民の反軍事植民地抵抗闘争の発展は、一九五〇年代以降のアジアにおける新らたな軍事帝国主義体制の根幹とブルジョア日本の新帝国主義的性格の根底そのものに本質的に基礎づけられており、アジアおよび日本における新帝国主義体制にたいして根本的に挑戦するものである。ヴェトナム革命とヴェトナム反戦、全国大学闘争そして沖縄反軍事植民地闘争――これは新帝国主義体制とそのもとに形成された現代帝国主義工業経済社会にとって本質的な解決不能の矛盾であるゆえに、かつて急進主義的ではあったがこの新帝国主義世界体制のもとで改良主義的に堕落させられた伝統的な大衆運動とその必然的に官僚化した政治組織機構によっては絶対に実現されえないものであった。かくしてヴェトナム革命とヴェトナム反戦闘争、全国大学闘争そして沖縄反軍事植民地抵抗闘争は現代の新帝国主義世界体制下において必然的かつ典型的な諸闘争であったし、またかような現代帝国主義において固有かつ典型としての諸矛盾にたいして積極的かつ攻勢的な闘争へ広範な大衆か参加しはじめ、これにたいして深刻な政治意識を発展させはじめた。つまり、一九六七年からこの一〇―一一月にいたる全闘争は、ブルジョア日本の大衆運動のなかに反帝国主義の極左翼にむけた主体的政治分化、反帝国主義の極左翼にむけた大衆組織の端緒、その可能的な極を歴史的に形成したということなのである。一九四五年八月以降にはじまる日本労働者階級の戦闘的かつ前革命的な立場は共産党の政治指導もあいまって工場および全国における意識的な二重権力形成の闘いに全面的に踏みこむことなく、全体として急進主義的ブルジョア民主主義運動の水準にとどまったといわなければならない。つまり“人民戦線”の政治水準をこえていない。共産党の指導のもとに工場および全国における過渡的二重権力闘争を意識的に放棄したことは民主主義的水準におけるアメリカ帝国主義との妥協を意味していたし、当時支配権力の真の中心をなしていたアメリカ帝国主義との大衆的権力闘争の回避は革命的反帝国主義潮流の大衆的形成を妨げた。――ここにヴェトナム人民の闘争の本質的に革命的性格と日本大衆闘争の以後における深い改良主義的性格の相違かうまれてくる。すでに一九四五―五一年の大衆的闘争において、戦後ブルジョア日本における革命的反帝国主義潮流の形成は崩壊していたのである。一九五〇年代以降のブルジョア日本の大衆運動が沖縄軍事植民地にたいして一指だにふれえず、沖縄労農人民に深い孤立とその長期にわたる抵抗闘争を強制して今日驚愕させられるのも当然である。それゆえ、われわれは一九六七年から一〇―一一月闘争にかけた全闘争を政治情勢の単なる戦術的左・右への移行や動揺の水準でとらえることは絶対にできない。根本的なことはこの全闘争の歴史的かつ戦略的な意味であり、この見地と立場からする達成された政治的成果なのである。
 戦術的にいうならば、この全闘争は抑圧されてきたブルジョア民主主義的幻想をも広範に動員しつつ急進主義的な戦闘的直接行動は広範な大衆をその自然発生性において引きつけて政治情勢における部分的だが重大な戦術的主導権を形成しさえした。政治権力と伝統的改良主義全国諸組織はしばしば重大な戦術的守勢と防衛においこまれた。だが政治権力とその政治委員会は、今年の四―六月を転機に情勢にたいする彼らの戦術的主導権を再建しはじめた――そのテコは国内的には伝統的ブルジョア民主主義的幻想を大学と街頭において攻勢的に解体する警察力(機動隊の物理的制圧力を中心とする)の無制限動員と強化であった。このことがブルジョア民主主義的幻想にもとづく大衆の自然発生性を政治的に受動化し、同時に急進主義的直接行動の極を形成している大衆的活動家層を物理的に鎮圧し制圧していった。沖縄については昨年一一月屋良革新候補の主席当選とこれに直ちにつづく二・四ゼネストの企図によってブルジョアジーは不意をうたれ衝撃をうけ、沖縄本土復帰闘争によって戦術的に先をこされた。ブルジョア日本政府はここで七二年「本土並み・核抜き」とする帝国主義的沖縄施政権返遷の政策と路線をだすことによって、二・四ゼネストの裏切りによって衝撃と動揺を強制された沖縄本土復帰闘争にたいする彼等の戦術的主導権を少なくとも一時的にはうちたてることに成功した。大学と街頭におけるブルジョア民主主義的幻想の徹底的な解体と警察力の急進主義的直接行動に対する無制限動員、そして沖縄本土復帰闘争の政治的動揺と“混迷”およびブルジョア日本政府の「七二年返還」路線にたいする政治的立てなおしの努力――この二つの要因が一〇―一一月闘争において反戦青年委員会に結集する青年労働者の自然発生的運動をとりわけ東京において徹底的な困難においつめていったし、ただ強力な目的意識性にもとづくことなしには反戦労働者の闘争的結集を不可能にしてしまった。
 そしてわれわれが戦略的かつ歴史的な成果かつ今後のわれわれの闘いの政治土台として主張すべきもの
は、ヴェトナム反戦と、基地をはじめとする軍事体系にたいする攻勢的諸闘争、全国大学闘争を中心とする教育体系にたいする闘争、沖縄反軍事植民地闘争――これらがいかに自然発生的な欠陥や限界につきまとわれていたとはいえ積極的かつ攻勢的な大衆的諸闘争として提起され闘いぬかれたこと。しかもそれらは改良主義的な構造のなかでではなく、政治権力の強権的支配と伝統的大衆運動諸組織の合法主義的大衆闘争抑圧の企図と公然と対抗し、政治権力の日常支配との直接的対決のなかで遂行されたこと――これは全国政治権力との直接対決にむかう大衆的二重権力闘争としての本質的な過渡性をもった端緒としての大衆闘争であった。そしてたしかにいま政治情勢における戦術的主導権は全国的には彼らの側に大きく奪われた。闘いぬかれたこの過程そのものは、この全闘争に参加した圧倒的多数の急進的大衆活動家たちのあいだに残存していたブルジョア民主主義的幻想を深く解体した。全国学生運動に基礎をおく急進的学生活動家においては、伝統的改良主義運動にたいするイデオロギー的幻想は一九五八年から六〇年にいたる諸闘争において崩壊し、中間主義的な制約のなかで急進主義的独立化を獲得した。そして、この学生活動家運動に基礎をおく急進主義的流れは六七―六九年の諸闘争に全力をあげて介入し、残存するブルジョア民主主義的幻想を徹底的に打ちこわされた。新しい急進主義運動、新しい反帝国主義闘争においてさらに決定的なのは反戦派労働者運動をつうじた新しい急進主義的青年労働者運動の歴史的成立である。一九五八年から六〇年の諸闘争をつうじて伝統的大衆運動の改良主義的幻想からイデオロギー的かつ急進主義的独立化を獲ちとったのは当時の全学連運動の急進民主主義左翼の分派だけであって、労働者運動における大衆的活動家の政治的独立化は極く少数にとどまった。青年労働者活動家層における伝統的改良主義運動からのイデオロギー的および政治的な独立化は、まさしく一九六七年から一〇―一一月闘争にいたる過程そのものを通じてはじめて実現された。この闘争の全経過をつうじてもっとも先進的かつ意識的な青年労働者活動家たちは伝統的改良主義運動からイデオロギー的かつ政治的に徹底的な自立化をとげざるをえない。同時に彼らに対して日本「新」左翼諸分派のいかんともしがたい無能かつ無力を同時に鮮明にした。青年労働者層に基礎をおく新しい急進主義的な政治運動とそのイデオロギー的土台形成の歴史的意義は巨大かつ測りがたいものである。新しい反帝国主義闘争はここに圧倒的な大衆的可能性を拡大し、急進主義的イデオロギー闘争はこの間の世界的かつ民族的な全闘争の経験という貴重な素材とともにまったく新らたな広範な活動家層の基礎のうえで徹底的に展開されざるをえないであろう。そして最後かつ決定的なのは、沖縄労農人民の反軍事植民地闘争のいまや確定されたブルジョア本土への全面的な上陸である。沖縄における一一月佐藤訪米にたいする闘争は、極東帝国主義体制の軍事的枢要として強制的に確保しぬこうとする「七二年返還」の帝国主義的施政権返還の政治的本質を沖縄本土復帰闘争に結集してきた労農人民が大衆的に認識したことである。沖縄の「七二年返還」はブルジョア日本にたいする沖縄の帝国主義的強制併合であるということを。沖縄労農人民にたいする直接の帝国主義支配者になろうとするのはいまや「祖国」のブルジョアジーとその国家そのものである。沖縄労農人民は自からにたいする「祖国」日本の帝国主義支配の解体打倒、そして沖縄軍事基地群とその反革命的機能にたいする大衆的直接闘争に立ちむかおうとする以外にない。沖縄復帰協の「過激派」追放の決定にもかかわらず、沖縄労農人民の反軍事植民地解放闘争は一歩一歩とこの戦略的課題にむけて肉迫してゆかざるをえない。それはブルジョア日本の新帝国主義的な軍事的根底にたいするもっとも急進的な挑戦であり、このブルジョア日本の極東アジアにむけた新日本帝国主義としての積極的離陸の企図にたいするもっとも公然たる挑戦である。そして、一九六七年以来の全闘争のなかですでに形成された青年・学生の新しい急進主義的な闘争隊伍がいまや必然的にこの沖縄反軍事植民地闘争との同盟をふかめ、この反帝国主義的同盟が闘争的な大衆的極としての成長のなかに現代の革命として最先頭にたつヴェトナム革命につづく新しい世界革命の極を極東アジアの地に形成してゆくことになる。

2 七〇年代と“新・帝国主義”
   ――構造的転換を強制される帝国主義――

 戦後日本の資本主義的社会経済政治体制は合衆国を主導的中軸として再組織された新帝国主義世界経済体制に依拠し、アジアにおける合衆国の反革命軍事帝国主義体制に庇護されて存立してきたし、またこのことの政治的結果として日本ブルジョアジーは自身の民族経済の拡大強化と飛躍にむけてその経済力を徹底的に集中することができた。一九六五年にいたるまでは、このブルジョア経済主義こそが合衆国を主軸として再組織された新帝国主義世界体制下における日本ブルジョア民族主義のまぎれもない表現形態であった。国家の国際的な政治軍事上の基礎をアメリカ合衆国のアジア反革命軍事帝国主義体制にもっぱらもとめることによって物質的に保障される経済主義――この日本ブルジョア民族主義は必然的に南朝鮮と沖縄労農人民大衆の直接の犠牲によって補完されていた。南朝鮮の労農大衆は中国と北朝鮮の労働者国家に対抗する幾十方の軍隊にもとづく反共軍事障壁国家という重荷を強制され、沖縄労農大衆は極東から東南アジアにかけた合衆国軍事体制の戦略中枢としての基地群という重荷をせおわされた。南朝鮮の軍事植民地国家と沖縄の軍事植民地体制――この二つの人民に強制された軍事植民地的犠牲が日本ブルジョアジーの極東における“NATOの負担”を徹底的に軽減しそのブルジョア経済主義を物質的に可能にした――ここに帝国主義的利益と植民地主義的犠牲のこのうえない典型的な配分をわれわれは見いだす。一九五〇年代以降においても朝鮮および沖縄にたいするブルジョア日本の関係は、たしかに間接化されていたとはいえ一貫して帝国主義的かつ植民地主義的であったといわなければならない――この関係をアメリカ合衆国が軍事政治的に一枚かんで強制し保障していた。
 ここでは内容的にたちいらないが、われわれはこのような見地にたって一九五〇年代全体にわたって日本共産党内部において展開された綱領論争、帝国主義復活論争、「社会主義」綱領と「民族主義」綱領との論争を改めて全面的に批判しつくさなければならない。なぜならば一九六〇年代の日本「新」左翼諸分派は本質的にはこの綱領論争を単に急進化したところにそれぞれのイデオロギー的基礎をおいており、今日なおその歴史的限界に依然としてとらわれているからである。
 以上のようなものが朝鮮戦争(一九五〇〜五三年)以降決定的に確立され一九六五年までつづいた資本主義本国の新帝国主義世界体制下における帝国主義的存在様式あるいはアメリカ合衆国を主導的中軸とする新帝国主義体制下における資本主義日本の極めて特異な帝国主義構造の基本をなすものであった。われわれは一九五〇年代以降にかんしても新帝国主義世界体制下において特異なものではあれ、資本主義日本の一貫した新帝国主義的性格をとらえ主張しなければならない。また正確には資本主義日本の帝国主義復活ではなく資本主義日本の帝国主義構造の歴史的変化あるいは転機として極東アジアにむけた帝国主義日本の離陸を主張しなければならないだろう。かくして一九六七年から六九年にかけたヴェトナム革命とヴェトナム反戦、全国大学闘争そして沖縄本土復帰闘争を中心とする大衆的諸闘争は資本主義日本の一九五〇年代以来の帝国主義構造の重大な歴史的転換のはじまりに対応するものであり、より正確にはヴェトナム革命が最先頭にたつそれらの大衆的諸闘争がブルジョア日本の旧来の帝国主義構造の弱点を攻勢的にたたくことによって逆にその構造転換の促進を強制したというべきだろう。その新たな歴史的転換とは極東帝国主義にむけ日本ブルジョアジーとその国家の“主体”的な離陸の展望である。

転機にたつ米帝国主義枢軸構造

 ではブルジョア日本の旧来の新帝国主義構造から極東帝国主義にむけた構造転換とはどのようなものか?
 アメリカ合衆国が主導的中軸となって遂行された新帝国主義世界体制の再組織化の過程は、ソ連邦・東欧および中国の労働者諸国家また植民地革命の不断に上昇しようとする圧力――これら二つのものとの軍事対抗のなかで遂行されねばならなかった。新帝国主義体制の組織にむけていかなる巨大な世界史的予備力をアメリカ合衆国が擁していたとはいえ、労働者諸国家群を資本主義反革命によって帝国主義の側にふたたび奪いかえし、植民地世界におけるブルジョア民主主義革命を組織してこれを資本主義的産業革命にみちびく程の力をもっていたわけではなかった。帝国主義プロレタリアートの新帝国主義世界体制への新改良主義としての再獲得=再組織化、労働者諸国家にたいする固定化された国境の持続的強制とこれら諸国家の官僚的堕落の維持と促進(中国・ユーゴスラビア)、植民地解放革命の永久的発展の長期にわたる抑圧――新帝国主義世界体制の組織化とその相対的上昇はこのような歴史的成果をあげた。いいかえれば、アメリカ合衆国を主導的中軸とする新帝国主義世界体制の再組織化の過程は、同時に、ロシア革命と第三インターナショナルの世界運動にたいする国際帝国主義のその予備力アメリカ合衆国に結集した全世界的反撃と世界的ヘゲモニー奪還のための闘争であった。
 合衆国を主軸とする新帝国主義世界体制の組織化の過程は一つの歴史的闘争であったし“ニューディール”構造として新帝国主義体制の基礎を築いたアメリカ合衆国は、この世界的闘争と新帝国主義の世界体制の組織化のために、それが可能的予備力とし保持していた力を放出し支出していかなければならなかったのは当然である。そしてケネディ政府とともにはじまる一九六〇年代こそは新帝国主義世界体制膨張の最後の時期であると同時に、またその相対的上昇をささえてきた可能的力の枯渇の過程そのものでもあった。そのことは一九六〇年を前後するアメリカ合衆国からの“金・ドル流出”および新帝国主義世界経済における合衆国経済の位置の相対的低下として顕在化をしめしはじめていたし、同時に植民地諸国における公然たる反共軍事体制の植民地ブルジョア・ポナパルチズムにむけた広範な動揺および崩壊として現象しはじめていた。かくして合衆国を主軸とする新帝国主義世界体制の世界的闘争のなかでの形成はその過渡的勝利のうちにすでにそれ自身の歴史的発展の絶対的限界に到達しつつあったのである。この絶対的限界は、主体的にはいうまでもなくヴェトナム革命のアメリカ軍事反革命にたいする戦略的勝利局面の獲得そのものおよびこのことによって世界的な突破口をえた一九六七〜六九年にいたる全世界の新たな大衆諸闘争の勃興として表現された。かくして、合衆国を主軸として形成された新帝国主義世界体制はその相対的上昇の頂点をとおりすぎ、一九六七年において世界史的下降と衰退の局面に移行し転換したとわれわれは主張しなければならない。この新帝国主義世界体制の下降と衰退は、もはや絶対的な趨勢であり、この世界史的下降の過程を逆転させることのできる何ものもこの地球上には存在しない――アメリカにつぐあと一つの予備地はもはや存在しない。
 民族的にはブルジョア経済主義への集中として表現されてきた資本主義日本の旧来の新帝国主義構造の重大な歴史的転換の必要性はまさしく合衆国中心の新帝国主義世界体制の歴史的下降と衰退への移行によって基礎づけられている。そしてこの歴史的転換の企図はヴェトナム革命の勝利局面への移行とこの革命にひきつづく新しい大衆諸闘争の登場と発展によって促進されているのである。一九五〇年代全体をつうじて世界的に形成された合衆国中心の新帝国主義世界体制、具体的に資本主義日本にとっては朝鮮・沖繩人民の軍事植民地的犠牲にもとづく合衆国のアジア反革命軍事帝国主義体制の庇護のもとに新帝国主義国際経済の急速な上昇に依拠してブルジョア日本は民族的経済主義に自からを集中することができたが、ブルジョア日本の新帝国主義的経済主義の世界的土台と基礎そのものがいまや明らかな下降と衰退にむかいはじめたのである。それは客観的に進行するだけでなく、ヴェトナム革命以降経験主義的で自然発生的だが新しい大衆諸闘争の積極的形成としても発展しはじめた。ヴェトナム革命を最先端とする新しい大衆的諸闘争の発展そのものはブルジョア日本の経済主義的社会経済政治支配体制とそのヘゲモニーの弱い環そのものをいまや攻撃的にたたきはじめた――前章でも簡単にのべたようにヴェトナム革命とヴェトナム反戦、全国大学闘争そして沖縄本土復帰闘争が客観的にはブルジョア日本の経済主義体制の弱い環をついた大衆的諸闘争であったことは明らかである。工業経済の飛躍的発展、伝統的大衆運動機構のブルジョア改良主義的堕落と官僚化、そしてこの二つに支えられた国家権力機構の民族国境内における再建強化――一九五〇年代以来の新帝国主義体制のもとで獲得したこれらの達成された成果に依拠することによって、ヴェトナム革命以来の新しい大衆的諸闘争が攻勢的におしよせてきた経済主義体制の弱い諸環を修復・強化しつつ、合衆国中心の新帝国主義世界体制の下降と衰退のなかで自ら防衛するために民族的国境の外にむけて積極的にのりだしてみようとすること――ここに資本主義日本の新帝国主義体制の旧来の構造から極東アジア帝国主義にむけた転換の根本がある。このことが、ブルジョア日本の旧来の新帝国主義的経済主義の諸体制と諸様式を一つ一つとりくずしてゆくことになったのは明らかである。民族国境の内部における諸大衆とブルジョア日本およびその国家の関係の性格は全般的な転換の局面にはいる。
 新帝国主義体制の資本主義日本におけるこの構造転換は以下のように具体的に着手されはじめており、あるいは過渡的に進行している。

「戦後支配体制」の終焉と強権支配体制の形成

 ブルジョア日本の一九五〇年代以来の民族的国境内部におけるその諸大衆にたいする政治支配様式の新しい前進、つまり大ブルジョアジーの諸大衆の政治支配における全国政治権力による直接的な強権支配の広範な採用にむかおうとする強力な前進――機動隊の制圧力の整備と街頭をはじめとする諸々の急進主義的大衆闘争拠点にたいする無制限の警察支配の追求、および自衛隊の治安出動の意識的準備とその公然たる大衆宣伝の開始。
 一九五五年にいたるまで日本大ブルジョアジーの諸大衆にたいする政治支配の様式は、彼らの新帝国主義的経済主義の推進によって実現されていた。一九五〇年代において総評民同に意識的な改良主義的支持をあたえ、広範な大衆の自発的な平和主義と経済主義左翼の運動を総評・社会党のブルジョア改良主義のヘゲモニーのもとに吸引させることによって大ブルジョアジーの支配は実現された。労働者大衆の広範な改良主義左翼にむけた自発的圧力が総評・社会党のヘゲモニーのもとで強力な地歩を築きはじめたとき、そしてこの大衆的な改良主義の増大する圧力が大ブルジョアジーの利害に大きく反しはじめたとき、この大衆派左翼の改良主義諸傾向にたいする集中的攻撃を加えた。これが一九五七年春の国鉄新潟闘争からはじまって一九六〇年の三池炭労闘争にいたる一連の諸攻撃と諸闘争の意味であった。国鉄、鉄鋼、日教組炭労等々と総評運動における改良主義左翼の大衆的拠点は次々と打ちやぶられていった。ここで総評民同の公然たるブルジョア的改良主義官僚機構はこれら大衆的諸闘争を裏切ることによって、大ブルジョアジーにたいするその役割を十分にはたした。
 一九六〇年代にかけては五〇年代をはるかにしのぐ経済的高成長がつづいた。かくして民間大単産における新右派労働官僚機構の台頭とともに一九六五年にむけては総評民同の労働組合機構の官僚的抑圧性の深化と極度の政治受動が大ブルジョアジーの諸大衆にたいする政治支配の中心的様式であったというべきだろう。このことは一九六四年末から一九六五にむけた大衆的諸闘争において典型的にしめされる――
 このとき広範な大衆の自然発生的な政治意識の積極化は総評民同の官僚的壁に直面して挫折していったのであった――池田政府をひきついだ佐藤政府の政治的危機の可能性は総評民同の深く抑圧的な官僚的消極性によって見事に回避されたのであった。
 ところが「(ヴェトナム革命は)全世界の大衆の意識を抑圧し圧迫していた巨人アメリカ帝国主義の無敵の幻想と、伝統化された改良主義国際大衆運動構造がつくりだした無力の感覚を根底から動揺させ、この新帝国主義世界体制とそのもとで改良主義的に堕落させられた大衆運動構造によって政治社会的に抑圧されてきた学生・青年たちの政治意識・政治的想像力を解放する歴史的テコとなった」(前章参照)日本においてこの闘争を先駆的に担ったのは、反戦青年委員会の青年労働者たちを背後にした「三派」全学連の羽田から佐世保にいたる戦闘的街頭行動であった。佐世保、一〇・二一の新宿(一九六八)そして日大・東大の大学闘争とその高校生をもふくむ全国的波及はまったく典型的であった。佐世保と新宿(六八・一〇・二一)そして日大・東大の大学闘争は、総評・社会党運動(さらに「大学の自治」なるもの)に体現された日本ブルジョア民主主義の深い衰退・抑圧・堕落を徹底的かつ戦闘的につくことによって広範な大衆の政治的共鳴をひきだし、これをしばしば部分的ではあるが重大な民主主義的な蜂起として闘争に転化した。フランスの五月においては、この闘争は労働者階級の全般的な民主主義的蜂起にみちびいて深い大衆の自発性にもとづくゼネラル・ストライキを実現した。ヴェトナム革命に直接に連帯する急進主義的反戦闘争から巨大なエネルギーを爆発させてゆく全国大学闘争――ここまではフランスと同じであったが、ブルジョア日本においては広範な労働者大衆の民主主義的な蜂起にまではいたらなかった。だが佐世保において闘争の爆発は社会党そして総評の指導部を深刻な政治的動揺に追いこんだ。六八年三月の三里塚闘争から全面的に公然化してゆく民同官僚の組合機構をつうじた合法主義的統制強化(「解放」派はこのとき明らかにそのお先棒をかついだ)の企図(われわれはこれを当時「三月逆流」と名づけて、これと闘争した)にもかかわらず、日大・東大闘争のうえにたって一〇・二一新宿闘争は数万の青年労働者大衆を政治的群集として新宿に獲得した。前章においても指摘したように六七―六八年そして六九年初の東大安田闘争にいたる深く自然発生的な急進主義諸闘争の全体は、新右派労働官僚機構の台頭と総評民同機構さらに大学行政機構をふくむ一般にブルジョア民主主義諸機構の深まりゆくブルジョア官僚的な抑圧と保守的受動性によっては諸大衆にたいする大ブルジョアジーの政治支配をもはや実現しえないことが明らかとなった。ヴェトナム革命が自からテコとなって触発し、切りひらいた急進主義的大衆諸闘争のブルジョア日本における発展は、衰退し抑圧され堕落した日本ブルジョア民主主義諸機構を深刻な政治的守勢においこんだ。かくして昨年秋から今年一月安田講堂攻防戦にいたる過程こそは、転期のはじまりであった――ブルジョア政府は警察力の無制限動員を開始しはじめたし、旧来のブルジョア民主主義機構は国家の治安力にたいする公然たる依存を開始した――安田講堂の闘争はそのことを典型として象徴した。ブルジョア民主主義は単に抑圧され堕落させられるだけでなく、ブルジョア民主主義的幻想そのものの積極的解体に彼らは着手した。大学治安立法は強行可決され、街頭と闘争拠点における急進主義的諸闘争を“治安”の暴力によって強権的に鎮圧する体制は精力的に整備されていった――自衛隊は治安訓練を“公開”した。
 この公然たる“治安”の暴力たる強権的鎮圧体制の精力的構築がこの夏を転期にブルジョア民主主義的幻想に彩られる自然発生的急進性の解体をすすめ、その政治的受動性をつくりだし、急進主義的大衆行動の極にたいする制圧を前進させた。
 ブルジョア日本の新帝国主義的経済主義のもとで官僚的堕落を過渡的に完成された旧来のブルジョア改良主義諸機構と共産党・公明党の勢力の台頭とともに、いまや諸大衆の急進主義的諸闘争の可能性にむけて公然たる“治安の暴力”・国家の直接的強権支配の広範な採用がはじまった。かくして前ボナパルチスト的強権政治支配体制が一方の政治的極として確実に形成されつつあることをわれわれはみる。日本ブルジョアジーとその全国政治権力の諸大衆にたいする支配様式はいまや一段と前進しつつあることは明らかであり、旧来の改良主義運動機構の官僚的なブルジョア合法主義の強制と全国政治権力の強権的直接政治支配の両刀使いによって、極東帝国主義への離陸の過程にたいする大衆の不可避的に拡大する急進的反抗を制圧しぬこうと、彼らは企図しはじめている。

沖縄施政権「返還」 ――極東帝国主義への離陸――

 資本主義日本の旧来の新帝国主義的経済主義路線転換の第二のものは、沖縄“施政権”の帝国主義的返還である。
 沖縄にたいするアメリカ帝国主義の直接的な軍事植民地支配にもとづく強力な反革命軍事基地群は極東・東南アジアにおけるアメリカ合衆国のアジア反革命軍事帝国主義体制の軍事的中枢をなしてきた。南朝鮮人民とともに沖縄労農人民に強制されたアメリカの軍事植民地支配とその軍事基地群が資本主義日本の新帝国主義的経済主義の植民地主義的犠牲をなしてきたことについては、これまで再三にわたって述べてきたとおりである。「即時無条件の本土復帰」を中心スローガンとしてかかげる反軍事植民地の民衆的抵抗闘争の発展は、一九六五年すでにアメリカ合衆国の沖縄単独軍事植民地支配維持のためのあらゆる企図を闘いぬいた地点にたっていた。このとき以降すでに沖縄労農大衆の反軍事植民地抵抗闘争の一層の発展は、もはや軍事基地体制を中心とする沖縄軍事植民地構造そのものを直接に危機に陥れる方向にむかう以外になかった。一九六七年沖縄教職員会の二度にわたる十割休暇闘争翌六八年全軍労の十割休暇闘争、同秋の屋良革新候補の公選主席への当選と六九年二・四ゼネストの企図――まったく一直線に沖縄労農人民大衆の諸闘争はアメリカ軍事植民地支配下の島一杯にあふれでていった。公然たる武力鎮圧と戒厳令支配の恒久化をのぞく合衆国単独の沖縄軍事植民地支配の企図はすべて一九六五年までにテストずみであって、公然たる武力支配の恒久化に訴えることは、沖縄を直ちに“あと一つのヴェトナム”にみちびくことであり、このような米軍事力による公然たる武力支配の採用はブルジョア日本に沖縄人民を擁護し防衛しようとする広範な大衆的政治反応をよびおこし、日本ブルジョアジーの政治支配に直接的な政治危機をもたらすことになるであろう。
 われわれはここにおいてまた、本土即時無条件復帰をかかげて闘いぬかれてきた沖縄労農人民の反軍事植民地抵抗闘争が、まさしく極東アジアにおける合衆国中心の新帝国主義体制とそのもとに庇護されて形成された資本主義日本の新帝国主義的経済主義路線の基本的弱点にむけてはげしくせめのぼっていたことを見る。日本ブルジョアジーとその民族国家が旧来の新帝国主義的な経済主義の路線にとどまるかぎり、本土復帰闘争として高揚する沖縄労農人民大衆の反軍事植民地闘争は極東帝国主義構造の米・日双方にとって絶体に解決不能のジレンマであった。ついでながら指摘しておけば、「アメリカ帝国主義は沖縄を絶体に手難さないであろうし、であるがゆえに“沖繩奪還”という民主主義的スローガンは自動的に反政府的かつ“反帝国主義”的である」と主張してきた「中核」派の論理はそのメダルの反対側として資本主義日本の旧来の新帝国主義体制たるブルジョア経済主義の路線は日米双方のブルジョアジーによって絶対的に固持されるであろうということに必然的に帰結しなければならない。そして恐らくは典型的に一国社会主義的かつ平和主義左翼まるだしの旧共産党“社会主義革命”派の延長線上に自身の綱領的基礎をおいているであろうわが「中核」派の政治的立場からするとき、「中核」派が意気揚々と“日帝打倒”と叫ぶときの“日本帝国主義”なるものは完全な空中楼閣かつ蜃気楼にあいなりはててしまう。
 いずれにしても、ブルジョア本土の学生・青年労働者の急進主義的直接行動の運動によって日本ブルジョアジーの経済主義的体制が不意打ちをうけて部分的な、だが重大な戦術的守勢を余儀なくされたように。一九六七年から本年初の二・四ゼネストの企図にむけて急速に高揚していった沖縄反軍事植民地抵抗闘争は、資本主義日本の新帝国主義的経済主義の旧体制がもっていた国際的側面における弱点にたいする戦術的な不意打ちであった。たしかに佐藤が一九六七年一一月に沖縄に出むくことによって日・米双方の政府は“あまり遠からぬうちに”沖縄の帝国主義的施政権返還を実現しなければならないことを一般的には認めつつはあった――そしてこの点で沖縄一一月主席選挙と二・四ゼネストの企図にいたるまでわれわれは事態の政治的認識において深く立ち遅れていたといわなければならない。だがブルジョアどもは沖縄の帝国主義的施政権“返還”にかんしていまだ確定したプログラムをもっていたわけではなかった。かくして日本ブルジョアジーは帝国主義的沖縄施政権“返還”にかんして確定したプログラムと日程表を準備していなかったがゆえに(この点にかんするプログラムについて、アメリカ政府の立場はむしろ明白であって、日本政府の政治的態度決定と政治的決断を待つという立場にあったというべきであろう――問題はむしろ経済主義的ブルジョア日本の側にあった)、一一自主席公選から二・四ゼネストの企図にいたる沖縄労農大衆の闘争の急速な高揚にたいして、日本政府は沖縄にかんする戦術的政治ヘゲモニーのための根拠を欠いていた。沖縄にかんする日本政府の政治的未決断=彼らのプログラムの未確定が沖縄の大衆闘争の高揚の自然発生性に一つの力をあたえたし、また同時にそのことは二・四ゼネスト企図以降ブルジョア本土における四月沖縄闘争に広範な自然発生的政治意識の動員を可能にした重要な根拠の一つであったといわねばならないだろう。沖縄二・四ゼネストの企図にきいして、日本政府は総評民同の強引なスト破りと屋良主席の徹底的に屈服主義的役割によって決定的に助けられた。二・四ゼネストにたいするブルジョア本土(「革新」勢力)のスト破りが沖縄にあたえた政治的ショックは重大であり、沖縄本土復帰闘争は一時深い混乱を余儀なくされた。沖縄にかんする未決断とプログラムの未確定にもとづく戦術的政治ヘゲモニーの喪失から立ち直るための貴重な政治的時間を、日本政府は総評民同と屋良主席の屈服主義に助けられて獲得した。日本政府は屋良革新主席の成立にひきつづく沖縄二・四ゼネストの企図を見ることによって、彼らのプログラム「七二年“本土並み・核ぬき”返還」の基本線を決断した――四月沖縄闘争にむかうブルジョア日本大衆の政治意識の広範な自然発生的流動は、ブルジョア政府にとって「七二年返還」路線の必要性を確認するものであった。「中核」派はこのときブルジョア政府が“約束”する「七二年返還」そのものがウソであり空約束であると主張した、つまりブルジョア本土の高揚する大衆闘争を分解させ抑えこむためのまったくの方便としてウソをついているにすぎない、と。われわれは沖縄二・四ゼネストの企図そのものによってブルジョア的には既に“本土復帰”は確定された、つまり帝国主義的施政権“返還”はブルジョアジーにとっては既に確定された方針となったと主張し、沖縄反軍事植民地闘争におそいかかろうとするブルジョア日本国家の帝国主義的企図の全体と闘いぬこうとすることによって、沖縄反軍事植民地闘争の発展を無条件に防衛しようとする闘争隊伍の形成にむけて一〇―一一月闘争は闘いぬかれなければならないと主張した。“沖縄労農自治権力”をはじめとするわれわれの諸々のスローガンは以上のような見地と立場から提出されたものであった。二・四ゼネストの企図と四月沖縄闘争以降われわれが本紙をつうじて提起した諸々のスローガンと政治路線の綱領的な正しさは以後においてほぼ完全に証明されたということができる。
 沖縄帝国主義施政権“返還”についてのプログラムを決断したブルジョア政府は、全国大学闘争にたいする無制限の警察力発動の体制をもって一〇―一一月にむけて突進していった。彼らは沖縄にかんしても、沖縄二・四ゼネストにたいする総評民同のスト破りに決定的にたすけられ、少なくとも一時的には一〇―一一月にむけた戦術的政治ヘゲモニーを何とかうちたてることに成功したといわなければならない。このことは沖縄労農大衆をより自覚的な敵対の側へときらに深くおいやることを確定したのだが。

汲み尽されたブルジョア民主主義の幻想 ――急進青年活動家層の展開――

 かくしてこの一一月、日・米両政府によって互いに確認された沖縄帝国主義施政権“返還”の政治プログラムが意味するところは、極東および東南アジアにむけた合衆国のアジア反革命軍事体制の戦略的中枢たる沖縄軍事基地群を防衛するために、ブルジョア日本国家が沖縄労農大衆にたいして直接的な帝国主義支配を企図するということであり、このことは自からの国境と国家支配の内側に植民地と帝国主義の絶対に非和解的敵対の矛盾を自らかかえこむことを意味する。沖縄がそれ自体として日・米の両帝国主義にとって共同の軍事植民地であることにより、植民地と帝国主義の直接的敵対をブルジョア日本国家がかかえこむだけでなく、沖縄軍事植民地が極東および東南アジアにむけた帝国主義軍事体制の戦略中枢であるがゆえに極東・東南アジアにおける植民地革命と帝国主義の敵対的諸闘争をこの沖縄は集中的に反映しないわけにはいかない――こうして沖縄にたいするブルジョア日本国家の帝国主義支配の企図は、極東および東南アジアにおける植民地と帝国主義の敵対的諸闘争の発展を自からの国境と国家支配のうちにより直接的にかかえこむことを意味するのである。ブルジョア的小ブルジョア的世論が「本土の沖縄化」「基地の自由使用」「事前協議制のなしくずし運用」「朝鮮・台湾にたいする使用の範囲」また「極東の範囲」などと彼らの用語で互いに言い争っていることの本質は、まさに極東・東南アジアにおける植民地革命と帝国主義の敵対的諸闘争の直接性を自からの国境と民族国家のうちにとりこむことについての是非の論議なのである。このことは資本主義日本の新帝国主義的経済主義の旧来の路線が決定的な歴史的転換を開始するということである。ヴェトナムにたいするB五二の沖縄からの発進の保障がすでに端的に示しているように、アジアにおける植民地革命と帝国主義の闘争の一つ一つはいまや沖縄をつうじてブルジョア日本により直接に波及してくることになる。かくしてブルジョアジーとその国家の諸大衆にたいする政治支配の実現は、旧い経済主義の尺度によってではなく反帝国主義と帝国主義の厳しい国際的闘争の現実という尺度によって実現されようとする以外にない。ブルジョア日本国家はアジアの衰退にむかう新帝国主義体制の“主体”的防衛にむけて沖縄から出発する。沖縄の帝国主義施政権“返還”につづいて企図されるのは、朴三選体制の確立と密接不可分な“韓国”軍事植民地国家の日本帝国主義にたいする全面的なカイライ化への道であるだろうことはまちがいない。
 かくしてまた新日本極東帝国主義をめざして軍事力の決定的な強化にむけて彼らが関心を集中しつつあるのは当然である。
 われわれは以上の全体においてアメリカ合衆国のアジア反革命軍事帝国主義体制の国際的庇護と朝鮮・沖縄両人民の軍事植民地主義的犠牲にもとづく資本主義日本の新帝国主義的経済主義の体制が、アメリカ合衆国を主軸とする新帝国主義世界体制の世界史的下降と衰退の局面においてヴェトナム革命がきりひらいた新しい急進主義的諸闘争と沖縄反軍事植民地抵抗闘争の高揚する発展との関係のなかで、体制および構造上のどのような歴史的転換をはじめたかということを総括的に検討してきた。前章においてもすでに指摘したことであるが、一九六七―六八年の大衆的諸闘争の全体はそれぞれ現代の帝国主義体制において必然かつ解決不能の本質的諸矛盾にもとづいた根本的急進性をもって特徴づけられていると同時に、また深いブルジョア民主主義的幻想によって倣然として深く支配されていた。このブルジョア民主主義的幻想の広範な残存とむすびついた諸闘争の爆発的発展およびその戦術的政治主導権の形成は、ブルジョア日本の旧来の新帝国主義体制がまだ十分に準備していない弱い諸環にたいする闘争であったということと特殊に関係しあっていた。日本ブルジョアジーとその国家は極東帝国主義にむけた否応なしの離陸にむけて挑戦しなければならないし、彼らはそこにむけてより意識的に支配の体制を前進させた。そしてわれわれは一九六七―六八年の諸闘争の全体をつうじて、いまや幻想なくたちむかうべき対象の姿と構造をつかんだ一九六七―六八年の大衆的諸闘争をひろく支配したブルジョア民主主義的幻想の残りカスは、この間の諸闘争の自然発生性のなかにもっとも直接的に横溢していた。われわれは勿論このブルジョア民主主義的幻想がもはやすべて全社会的に解体されつくしたなどと幻想するものではない。だが一九六七〜六九年にわたる全闘争に意識的に参加しぬいてきた広範な急進的活動層のあいだにおいて、このブルジョア民主主義的幻想の解体は深くなされた。われわれは次号の論文において、目から提起した政治諸方針と組織的諸方針との直接的な関係のなかに一九六七―六九年の諸闘争の総括を試みることにする。
          一九六九年一二月一一日


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