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スターリニズムとボリシェヴィズム
――レオン・トロツキー――

現在のような反動の時代は労働者階級とその前衛を分解し弱めるばかりではなく、また、運動の一般的なイデオロギー的水準を低下させ、そして、政治的思想をそれがずっと以前に通過した段階に投げ返す。このような情勢下においては、前衛の仕事は、なかんずく、自己を逆流に身をまかせるのではなく、流れに抗して泳がねばならない。もしも、不利な力関係により前衛がそれまでに獲得した位置を維持するのが困難になるとするならば、前衛は少なくとも、そのイデオロギー的な立場を保持しなければならない。というのも、そのなかにこそ、貴重な過去の経験が表明せられているからである。馬鹿者どもはこの方針を“セクト的”と考えるであろう。実際には、それは、来るべき歴史的な上潮とともに前進の新しい巨大なうねりを準備する唯一つの手段である。

マルクス主義とボリシェヴィズムに対する反動

 大きな政治的敗北は、不可避的に、一般的に二つの方向で起こる価値の再検討を促す。一方においては、真の前衛は、敗北の経験によって豊かになり、革命的思想の遺産を全力をあげて防衛し、そして、この基礎にもとづいて、来るべき大衆闘争に備えて新しい幹部《カードル》を教育しようと企てる。他方においては、日常派、中間主義者そしてなまかじり屋は、敗北に驚き、革命的な伝統の権威を破壊するために全力をつくし、そして、彼らの“新しい世界”の探索のなかに退却する。
 誰でも、最もしばしば、意気阻喪の形態をとった、非常に沢山のイデオロギー的反動の実例を指摘しうる。第二、第三インターナショナルのすべての文献は、彼らの腰巾着どもロンドン・ビューローのものと同様に、本質上、そのような実例から成っている。マルクス主義的な分析のたった一つの示唆すらない。敗北の原因を説明しようとする、たった一つの真面目な試みすらない。将来に関しては、一つの新鮮な言葉もない。きまり文句、順応、嘘、そして、とりわけ、彼ら自身の官僚的な自己保有についての心づかい以外には何ものもない。この腐敗を知るためには、なにかヒルファーデイングまたはオットー・バウアーのものから一〇行も嗅いでみるだけで十分である。コミンターンの理論家諸公は、取りたてて云々する価値すらない。有名なディミトロフは、一杯のビールをひっかけている商店主なみに無知で平凡である。これらの人々の知性はあまりに怠惰すぎてマルクス主義を放棄することもできず、彼らは、それを切り売りしているのである。しかしながら、われわれに今興味を起こさせるのは彼らではない。“改革者”の方を振り向こう。
 前オーストリアの共産主義者、ウイリー・シュラムは、「嘘の独裁」という表題のもとに、モスクワ裁判に小冊子を捧げた。シュラムは才能のあるジャーナリストであり、主として、時事問題に興味をもっている。モスクワのデッチ上げについての彼の批評と、「自発的な告白」の心理学的構造についての彼の暴露は、秀れたものである。しかしながら、彼は、自らをこれに限定しない、すなわち、彼は、将来において敗北とデッチ上げに対してわれわれを保証する社会主義の新しい理論を創り出すことを欲する。しかし、シュラムは決して理論家ではなく、明らかに社会主義の歴史にあまり精通してはいないので、彼は、マルクス主義以前の社会主義、とりわけ、そのドイツ的な、すなわち、その最も後進的で感情的なそして吐き気をもよおすような変種にまで、完全に後戻りする。シュラムは、プロレタリアートの独裁はいうまでもなく、弁証法と階級闘争とを放棄する。彼にあっては、社会変革の問題は、資本主義のもとにおいてすら、人類に吹きこむことのできるある種の“永遠の”道徳的真実なるものの実現に、格下げされている。道徳的なリンパ腺の挿入によって社会主義を救おうとするウイリー・シュラムの試みは、ケレンスキーの評論雑誌『ノーヴァヤ・ロシア』(かつてのロシアの地方雑誌で現在パリで出版されている)において、喜びと自慢の双方で迎えられている。すなわち、編集者たちがいみじくも結論づけるように、シュラムは、真のロシア社会主義の原則に到達したというわけだ。だがそれは、階級闘争の峻厳さと苛酷さとに対して、神聖なる信仰の教えや希望と慈愛とを対置したものだった。ロシアの“社会革命党”の“新しい”教義は、その“理論的”前堤において、ただ、三月(一八四八年)以前のドイツの社会主義への復帰を主張するにすぎない。しかしながら、思想の歴史についてシュラムよりも詳しい知識をケレンスキーに要求することは、不公平であろう。はるかに大事なことは、今はシュラムと一致しているケレンスキーが、政府の首班であった頃、ドイツ参謀本部の手先だとしてボリシェヴィキに対する迫害を教唆したという事実、すなわち、今シュラムがそれに対して時勢おくれの形而上学的絶対をふりまわしているのと全く同じデッチ上げを、組織したという事実である。
 シュラムと彼の同類のイデオロギー的反動の心理学的構造は、少しも混み入ったものではない。しばらくの間は、これらの人々は、階級闘争を誓った政治運動に参加し、思想においてではなかったにしても、言葉においては、弁証法的唯物論に訴えた。オーストリア、ドイツ双方ともに、事態は破局に終わった。シュラムは、大ざっぱな結論を引き出す、すなわち、これが弁証法と階級闘争との結果であると。しかも、天啓の選択は、歴史的経験と……個人的知識に限定されているので、われらが改革者は、福音をさがし求めてボリシェヴィズムばかりでなく同様にマルクス主義にも勇敢に対決して、一束の古いぼろきれのなかに落ち着くのである。
 一見したところでは、シュラムのイデオロギー的反動の商標は、あまりに粗雑(マルクスから……ケレンスキーヘ!)すぎて注目に値しないように思われる。しかし、実際には、それは極めて教訓的だ。すなわち、まさしくその粗雑さにおいて、それは、すべての他の反動の諸形態、特に、ボリシェヴィズムに対する大規模な公然たる非難によって表明せられた反動の諸形態の公分母をなしているのである。

“マルクス主義へ帰れ”?

 マルクス主義は、ボリシェヴィズムのなかにその最高の歴史的表現を得た。ボリシェヴィズムの旗のもと、最初のプロレタリアートの勝利が達成され、そして、最初の労働者国家が設立された。何ものも、これらの事実を歴史から除去することはできない。しかし、十月革命は、現在の段階においてはその抑圧、略奪、そして、偽造という組織を持った官僚政治の勝利に――シュラムの適切な表現を用いるならば“嘘の独裁”に――帰着してしまったので、多くの形式主義的な、そして、浅薄な人々は即決に、誰でもボリシェヴィズムを放棄することなくしてはスターリニズムと闘うことはできない、という結論にとびつく。シュラムは、われわれがすでに知るように、より遠くまで進む。すなわち、ボリシェヴィズム、それはスターリニズムに堕落したのだが、それ自身はマルクス主義から成長した。それゆえに、誰でもマルクス主義を基礎にしながらスターリニズムと闘うことはできない、と。これに反して、「ボリシェヴィズムからマルクス主義へ、われわれは復帰しなければならない」と述べる、より首尾一貫しているわけではないが、さらに多くの他の人々がいる。いかにしてか。“どんな”マルクス主義へか。マルクス主義は、ボリシェヴィズムの形態での「破産者」となる以前に、社会民主主義の形態において、すでに壊れてしまっていた。“マルクス主義へ帰れ”というスローガンは、それでは、第二、第三インターナショナルの時代を跳び越して……第一インターナショナルに帰ることを意味するのか。しかし、それもまた、その時代において壊れたのである。かくして、結局はマルクスとエンゲルスのすべての著作へ……復帰するという問題となる。誰でも、この英雄的な跳躍を、自分の書斉から一歩も出ずに、スリッパを脱ぐことさえしないで、成就することができる。しかし、いかにして、われわれは、ボリシェヴィズムと十月革命とを含む数十年にわたる理論的政治的闘争を捨象して、この古典(マルクスは一八八三年に、エンゲルスは一八九五年に死んだ)から、現代の課題にまで達し得るのか。歴史的に「破産した」傾向としてボリシェヴィズムを放棄することを提案する人々は誰一人として、何かほかの進路を指示することはなかった。そこで、問題は、『資本論』を研究せよという単純な助言に格下げせられる。それには、別に反対ではない。しかし、ボリシェヴィズムもまた『資本論』を研究した、それも、閉じられた眼をもってではなかった。しかしながら、それソヴイエト国家の堕落とモスクワ裁判の上演をふせぐことにはならなかった。では何がなされるべきであろうか。

ボリシェヴィズムはスターリニズムに責任があるか

 あらゆる反動主義者たちが主張し、スターリン自らが公言するように、またメンシェヴィキ、アナキスト、そして、ある種のマルクス主義者と自認している左翼的空論家たちが信ずるように、スターリニズムはボリシェヴィズムの正統な産出物ということは真実であろうか。「われわれは、いつもこのことを予言してきた」と彼らは言う。「他の社会主義諸党の禁止、アナキストの抑圧、そして、ソヴィエトにおけるボリシェヴィキの独裁の樹立をもって出発した十月革命は、結局、官僚の独裁になる以外なかった。スターリンはレーニン主義の継続であり、そしてまた、破産である」
 この論法の弱点は「ボリシェヴィズム、十月革命、ソヴィエト同盟を暗々裡に同一視することに始まる。敵対する諸勢力の闘争の歴史的過程は、真空のなかにおけるボリシェヴィズムの進化に置き代えられる。だがボリシェヴィズムは、労働者階級と緊密に融合してはいるが、それと同一のものではない。単なる政治的傾向に過ぎぬ。そして、労働者階級はさておき、ソヴィエト連邦には、一億の農民、多様な諸民族、そして、抑圧、貧困、無知という遺産が存在する。ボリシェヴィキによって創設せられた国家は、ボリシェヴィズムの思想と意志ばかりでなく、また、国の文化的水準、人口の社会的構成、野蛮な世界帝国主義の圧力を反映している。ソヴィエト国家の堕落の過程を、純粋なボリシェヴィズムの進化として描くことは、諸要素のたった一つを純粋なロジックにより分離し、それをたてにして、社会的現実を無視することになる。この基本的誤謬をその真の名で呼びさえすれば、そのすべての根を片付けることができる。
 ボリシェヴィズムは、どんなことがあっても、決して自らを十月革命またはそれから生じたソヴィエト国家と同一視しなかった。ボリシェヴィズムは、それ自身を、歴史の諸要因の一つ、“意識的”な要因――極めて重要ではあるが決定的ではない――として考えた。われわれは、いまだかつて歴史的主観主義のもとに罪を犯したことがない。われわれは、単に国内的ばかりでなく、国際的規模の階級闘争のなかに、決定的要因――生産諸力の現存する基礎にもとづく――を見ていた。
 ボリシェヴィキが、農民の個人所有に向う傾向に譲歩し、党の内部においてその成員に対する厳格な規則を設け、異質な要素から党を清め、他の諸党を禁止し、新経済政策を導入し、譲歩として企業を認め、あるいは、帝国主義的政府との外交的協約を締結した時、ボリシェヴィキは、初めから理論的には判っていた基礎的事実から部分的な結論を引き出しつつあった。すなわち、権力の獲得は、たとえ、それが本質上どんなに重要であっても、決して、党を歴史的過程の最高の統治者には変えないということこれである。国家権力をとることによって、党は、確かに、以前はそれに近づくことができなかった権力をもって社会の発展に影響を与えることができる。しかし、そのかわりに、それは、社会のすべての他の諸要素からの十倍も大きな影響を受ける。それは、敵対的諸勢力の直接の攻撃によって、権力から投げ出されることもある。比較的のろのろした発展のテンポが与えられるならば、それは、権力の座を保持しながら、内部的に堕落し得る。スターリニストの官僚政治の腐敗のなかに、ボリシェヴィズムを全滅させる論証を発見しようと試みるこれらのセクト的論法家たちが理解していないのは、まさしく、歴史的過程の弁証法である。
 これらの紳士諸君のいうことは結局、本来自分自身の堕落に対する何の歯止めも持たない革命的な党派は悪い党派である、ということだ。このような基準によれば「ボリシェヴィズムは、当然、非難せられる。すなわち、それは魔除けを持たない。だが、基準そのものが間違っているのだ。科学的思考は、具体的な分析を要求する。すなわち、いかにして、そして、なぜ、党は堕落したのか、と。ボリシェヴィキ自身以外の何人も、現在までに、そのような分析を行なっていない。これをやるのに、ボリシェヴィキはボリシェヴィズムと縁を切る必要がなかった。それどころか、ボリシェヴィキは、ボリシェヴィズムの兵器庫のなかで、その運命を明確にするために必要としたすべてのものを発見した。ボリシェヴィキは次のような結論を引き出した。確かにスターリン主義はボリシェヴィズムから“生成した”が、それは論理的な帰結ではなく弁証法的なそれ、革命的な肯定ではなくテルミドール的な否定、としてそうなったのだ。それらは決して同じことではない。


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