つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる

(注1) ニュー・レフト・レビュー 四回、四七、四八号
(注2) 同誌四八号 九〇頁
(注3) われわれはここで、社会的ファクターを個人の人生を形づくるファクターから排除すべきだと主張しているわけではない。しかし、この社会的ファクターが個人の経歴を説明するのに使われる場合は、民族や人類の運命を形づくる諸力として考えられるときとは別の枠組、別のレベル、別の全体性との関係で作用する。
(注4) エンゲルスのジョセフ・ブロックへの手紙(一八九○年九月二一―二二日)参照。
(注5) 「これこれの人物がおり、この人物が特定の時期に特定の国で登場するのは、もちろん、純粋な偶然である。だが、もし彼がいなかったとすれば、その代りの者が要求され、その者は、良かれ悪かれ、長期間には見つけ出される」 (エンゲルスのH・スタルケンブルグへの手紙、一八九四年一月二五日)
(注6) ニュー・レフト・レビュー誌四八号九一ページ
(注7) 同 四四号六六ページ
(注8) 同 四八号九二ページ                               ・
(注9) レーニンは次のように書く。
 「ヨーロッパで、社会主義は狭い民族的な領域に限定された比較的平和な時期に生まれた。一九一四―一五年の戦争の開始とともに、それは革命的行動の段階にはいった。日和見主義と完全に決裂し、それは労働者諸党から追放する時がきたことは、もはや何の疑いもない……革命的組織の建設が始められねばならない。それは新しい歴史的情勢によって、プロレタリアの革命的行動の時代によって要求されている。だがこれは、ただ旧指導者、革命的エネルギーの絞殺者の頭ごしにのみ、旧い党の頭ごしに、それを粉砕してのみ始めることができる」
(注10) 一九二一年レヴィのKPOからの分裂にたいする彼の態度、一九二三年夏から秋のドイツの革命的危機において、党の役割が決定的だとした彼の態度、一九二六―二七年、中国共産党の独立性を絶対に維持せねばならぬとした彼の態度等々を参照せよ。
(注11)  「来るべきコミンテルン大会について」トロツキー「コミンテルン最初の五ケ年」第一巻
(注12) ニュー・レフト・レビュー誌第四八号九九ページ。
(注13) 同 九五ページ
(注14) ソロモン・シュワルツ「ソ連邦の労働者」(パリ、リヴィエル社一九五六年発行)五〇―五三頁
(注15) ニュー・レフト・レビュー誌第四八号九五頁
(注16) 同 九九頁
(注17) レーニンの最後の論文「量は少なくとも質のよいものを」参照。
(注18) ニュー・レフト・レビュー誌第四八号九七頁
(注19) クラッソは、レーニンの妥協能力について長々と述べている。だがレーニンは、自分が妥協を受けいれるのは、ただ「プロレタリア階級意識、革命的精神と闘いの能力、勝利する能力の全体的水準を高める――低めるのではなく――」ときだけだと、この上もなく明確にしている。一九一八年に書かれた「左翼小児病」参照。
(注20) 労働組合論争において、全体的には誤っていた彼の立場にもかかわらず、トロツキーはレーニンより明確に、官僚制の権力の社会・経済的根源が、彼らが経済を運営し、その社会的剰余生産物を管理している点にあると理解していた。
(注21) ニュー・レフト・レビュー誌第四八号九八頁
(注22) トロツキー「レーニン死後の第三インターナショナル」(現代思潮社版八六〜八七頁)
(注23) トロツキー「永続革命論」(現代思潮社版一五九〜一六〇頁)
(注24) ニュー・レフト・レビュー誌第四八号一〇二頁
(注25) 同 一〇〇頁
(注26) 同 一〇一頁
(注27) この圧力があまりに強力だったため、アナーキストや社会民主主義者を含む政府は――リベラル・ブルジョアジーはいうに及ばず――社会主義革命への道を支持する革命家の誘拐、拷問、虐殺にゲ・べ・ウを使うことを、それとなく受け入れた。虐殺されたもののなかには、数カ月前までカタロニア政府で彼らの同僚だったアンドレアス・ニンも含まれていた。
(注28) ナチス・ドイツの軍事的脅威という当時の口実は、今日利用できるどの歴史的ソースからも確認されていない。今日われわれの知るところでは、一九三六年夏にドイツはまだ再軍備の緒についたばかりで、アメリカとイギリスはほぼ完全に武装解除されており、ヨーロッパ再強の軍は、ロシアとフランスであった。一方、三六年六月フランスは、革命の瀬戸際にあり、数百万の労働者が工場を占拠していた。これは実に歴史の転換点であった。クラッソは事実をあげることもせず、スペイン革命が成功していたならヨーロッパの運命が変わり、ファシズムの全ヨーロッパ支配に向けた進軍を喰いとめることができたということを否定している。
(注29) 一九四四―四七年のギリシャで、左翼がフランスやイギリスよりも強かったというのは事実ではない。フランスでは、社共が第一回の国会選挙で圧倒的多数を占めたし、プロレタリアートの比重はギリシャよりもはるかに大きかった。
(注30) クラッソがトロツキーのコミンテルン極左政策批判だけを受け入れているのは偶然ではない。少なくとも彼の右翼日和見主義批判はあいまいである。だがレーニンをモデルとしてとりながら、一体どうしてレーニンの一貫した右翼日和見主義批判を忘れるなどということがありうるのか。
(注31) 「過渡的綱領」参照
(注32) ソヴィエトが新しいプロレタリア国家機構の基礎として決定的役割をもつことを最初に理論的に理解したのはトロツキーである。レーニンは、一九一七年になってこの考えをボリシェヴィキ論にとり入れ、また一九一九―二〇年共産主義インターナショナルの綱領的文書にとり入れた。
(注33) ニュー・レフト・レビュー誌第四八号一〇三頁
(注34) 同九三頁
(注35) マルクスからエンゲルスへの手紙(一八五八年二月一日)


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる