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国際革命文庫  11


日本革命的共産主義者同盟
(第四インター日本支部)
中央政治局編

電子化:TAMO2
「社会党・社青同・社会主義協会派批判」


目 次

社会党批判………………………………西山次郎

 第一章 社会党批判の実践的課題
 第二章 日本社会党の歴史
 第三章 社会党はどこへ行くのか

社青同批判………………………………織田進
 第一章 新しい「社青同」はどのようにつくられたか
 第二章 社青同批判

社会主義協会派批判………………………………槙慎二
 第一章 天皇制との闘争を放棄した合法主義―協会向坂派の母斑「労農派」
 第二章 平和共存=平和革命=社会党寄生―社会民主主義集団向坂派の骨格
 第三章 社会党=民同体制の下僕

「社会党批判」
西山次郎


第一章 社会党批判の実践的課題

 なぜ社会党をとりあげるのか

 日本社会党は依然として日本労働者階級の政治的多数派を代表しつづけている。共産党=産別ブロックが自己の誤りとアメリカ帝国主義(GHQ)の弾圧という両方の破壊力によって一九四九年から五○年にわたって解体され、日本階級闘争の前面から退場を余儀なくされて以来、これにとって代った社会党=総評ブロックは、一九五〇年以来、いっかんして、日本労働者階級の政治的多数派の座にありつづけてきた。
 いまでも社会党は労働者階級の第一党派である。もちろん、この二五年間という政治過程のなかで、社会党の役割、位置、力量といったものはさまざまに変動してきている。そして歴史的に総括するならば、日本社会党はほぼ一九六五年を転機として、歴史的衰退の過程に入り込み、危機の過程に突入したといえる。このプロセスの開始は、ちょうど戦後日本資本主義が日韓条約をバネとして“アジア化”へ離陸し、それゆえにアジア革命との衝突の歴史的時代に突入した時期と重なり合うのである。
 別の言葉でいうならば、“日本社会党を日本社会党たらしめてきた政治構造が解体しはじめた”ときから日本社会党の歴史的衰退が開始されたのである。
 二五年間つづいた一国平和主義の枠内での戦闘的改良主義の蓄積と伝統をわれわれは決して軽視したり黙殺してはならないだろう。社会党が衰退過程に入り込んだからといって、このことは社会党が“自動的崩壊”にまでいくことを決して意味してはいない。
 日本の革命に勝利するためには、改良主義である社会党のもとにおかれた労働者階級を革命的政治路線で再武装、再結集しなければならない。革命派にとってこれは大前提の任務である。労働者大衆を社民的政治路線から革命的政治路線へと獲得することは、実践的には党派闘争であり、かつまた統一戦線戦術である。われわれはこの実践によって、ブルジョア支配体制の左の一翼と化している社会民主主義を左から解体するのである。
 真面目に真剣に革命に勝利することを考えるとするならば、いま現在の労働者階級の政治的主流に対する分析と評価と展望をもつことが、政治方針をみちびくこととあわせて大切なことである。われわれが結集しなければならない労働者は真空のなかにいるのではなくて、その多数は社会党=総評という政治潮流が作りだす環境のなかにいるのである。したがって、労働者に革命的工作をおこなおうとするならば、労働者の多数派の政治指導部への評価と批判をわれわれがもちあわせなければならないのである。

 スターリニズムの社民化

 社会党は議会主義であり、平和主義であり、現状維持であり、改良主義であり、……すなわち革命的ではない。世界の社会主義運動の歴史をみると、社会党(すなわち社会民主主義)の帝国主義への屈服は一九一四年にはっきりとしめされた。社会民主主義が革命党でないという結論は歴史的にはすでに祖国防衛主姿に転落した一九一四年(=第一次帝国主義戦争)で下されたのである。それ以後、社会民主主義は帝国主義政治体制の一支柱へと自己を転化して、このなかで生きのびてきている。
 われわれが社会民主主義を問題にするときに、第二次大戦後の事情はもうひとつ労働者階級に困難さをつけ加えている。それはスターリニスト党の“社会民主主義化”である。各国共産党は一九一四年の各国社会民主党の帝国主義への屈服を断罪して、左へと分裂して、政治的自立を獲得して、帝国主義に降参した社会民主主義にかわって革命の前衛たらんとして結成されたのである。これがレーニンやトロツキーが意図したコミンターン(第三インターナショナル)の歴史的任務だったのである。しかし、スターリンがロシア革命の世界的孤立とロシア社会の後進的性格というプロレタリア政権に加えられたマイナスの圧力によってテルミドール体制を樹立してロシア革命を転落させ、同時にコミンターンと各国共産党も堕落させたことにより、共産党はスターリニスト党として、革命的前衛の道からはずれてしまった。
 スターリニスト党は一九二〇年代後半から三〇年代前半にかけて政治的ジグザグをくりかえして革命の条件をむざむざと殺してしまい、各国の闘争を敗北にみちびいたのであるが、第二次大戦後は人民戦線戦術の帰結として共産党のブルジョア政府への参加からはじまって、議会主義、平和主義を強め、イタリア共産党の構造改革論からソ連共産党大会におけるフルシチョフ報告(革命の平和移行の可能性)に到ってその政治路線が全体系にわたって“社民化”を完成するのである。
 日本共産党の政治路線における社民化の完成度は、最近になってその終点に到達した。社民的政治路線はいまや社会党一党だけでなく、共産党も加わって、社共合同の政治的影響力が、議会主義、改良主義の人民戦線派潮流として日本労働者階級の政治的環境を支配しているのである。これを左から解体打倒して改良から革命へと労働者階級を再編することがわれわれの政治的任務である。社民批判は実践的課題である。

 「不思議な党」―日本社会党

 毛沢東が日本社会党を指して「不思議な党」であるといってから、この言い方は随分と流行した。この言葉にはいろいろの意味を込めることができる。ふつうは“社会民主主義の党でありながら不思議と日本社会党は戦闘的で左翼的である”という内容を込めて使われる。日本社会党を論ずる多くの評者はこの党の階級性、左翼性を特徴として必ず指摘する。例えば、
 「日本社会党、あるいはその支配下にある総評は、毛沢東から『不思議な党』といわれたように、きわめて特殊な存在であるとされてきた。この特殊性とは、イギリス労働党・フランス社会党など西欧の社会民主主義政党に対して、『日本的特殊性』といわれるもので、一言でいえばその左翼性・戦闘性なのである。」(岸本健一「日本型社会民主主義」・八頁)
 この評価はひとつの代表的なものである。
 世界の社会民主主義の党と対比してみるとたしかに日本社会党は左に位置している。社会民主主義の世界の各党は一九五一年に社会主義インターナショナルを結成したが、この社会主義インターは帝国主義に全面降伏してマルクス主義と絶縁をしたうえ、さらにマルクス主義を敵として、共産主義を全体主義に併置して、民主主義の対立物とし、“民主主義的”帝国主義を支持して、労働者国家とスターリニズムをファシズムと同列において不倶戴天の敵と規定するまでになったのである。イギリス労働党がヘゲモニーをとった結成大会における「フランクフルト宣言」は帝国主義の軍事力を支持する立場を公然と認めたのである。その後、西ドイツの社会民主党はゴーデスベルグ大会においてマルクス主義との完全かつ全面的絶縁を決定した。こうして戦後の社会民主主義勢力は帝国主義と労働者国家の対立のなかで、はっきりとなんのちゅうちょもなく帝国主義の側に立つことをあきらかにし、実践上もブルジョア政府への参加はもちろん、自らが第一党となるやブルジョア議会制政府を組織して、その中味は完全に中道ブルジョア路線を歩むのである。
 世界の社民が帝国主義体制の枢要部に組み入れられるなかで、日本社会党はブルジョア議会制政治のなかの“反対党”の歴史を歩んできている。片山・芦田連立政府への参加の時期を除くと、社会党の歴史は議会内の反対派でありつづけた歴史といえる。もちろんこのことが戦闘性、左翼性を即自に証明するわけではない。社会党はマルクス主義と絶縁はしていない。この党のなかには、マルクス主義に反対する者もいれば、マルクス主義を修正すべきだと主張する者もいれば、われこそマルクス・レーニン主義の正統派であると自認する者もいる。そういう党である。同一の党内にマルクス主義を排斥する分派から、マルクス・レーニン主義の正統的後継者を自認する分派までが同居しているのである。これも不思議なことのひとつである。不思議なことはいろいろある。五万人しか党員がいないのに一千万票も選挙の票を獲得するのも不思議であろう。“日韓条約粉砕”を叫ぶ大会が“独占資本から金をもらわないようにしよう”と決議するのもこれまた不思議なことである。“ハノイ、ハイフォンが爆撃されたら、総評はゼネストをやれ”という同じ口で健康保険の大衆負担を増加させる法案に妥協するのであるから、これはやはり相当に不思議な党である。結局、本論はこの不思議さを歴史的にときあかすことが目的となるが、われわれはまず、不思議さに幻惑されて、社会党への誤った評価を下すようになったいくつかの場合をみておこう。

 誤解から幻想が生まれる

 社会党の内部に戦闘的、左翼的分派が生まれ存続してきたということを一面的に把えることによって、社会党への過大評価がなされてきた。
 例えば社会党=民同ブロックの内在的な批判者である情水慎三は社会党に未来の革命党の期待を抱いている一人であるが、かれはこんな評価を社会党に対してくだしている。
 「社会党左派が戦争と平和の岐路にあたって自国資本家階級にくみすることなく、これまでの歴史的伝統的意味の社会民主主義の常道を破って平和方針を貫き、あわせて自国の民族的課題に社会主義原則にもとづいて答えたことは政治史的にも社会主義運動史的にも特筆に値するできごとであった。たとえこの場合が自国資本家階級独自の帝国主義政策にもとづくものでなく、他国の帝国主義への従属的な荷担であってこれまでの西欧的事例と異なるものがあったにせよ、社会民主主義が反帝国主義を貫徹できた意味は大きかった。これを契機に、当時の社会党左派、後の左派社会党=統一社会党の主流は西欧社会民主主義諸党とは世界政治のなかで異質の座と機能を身につけていったのであった。」(清水慎三「戦後革新勢力」・一八一頁)
 これは社会党が平和四原則(全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対)を党として確定しサンフランシスコ講和条約ののち、日米安保条約に反対する立場を持続することとなったが、これが社民的限界を突破して世界でも特異な立場をしめることだと評価したのである。ここで清水慎三は重大な誤りを重複して犯している。
 第一に社会党の平和四原則なるものが、帝国主義と民族問題に対する社会主義的原則にのっとった立場であるかのように言うが、これはとんでもない論法で、帝国主義と民族問題に対する社会主義の原則はコミンターンの最初の五ヵ年に確立された原則であり、レーニンやトロツキーが第二インターナショナルの帝国主義への屈服妥協に対して闘争するなかで形成された原則であって、これは平和主義や中立主義とはまったく無縁である。平和主義や中立主義はまさに社民的な立場そのものであって帝国主義への降参の立場であり、まさにレーニンやトロツキーが断罪した日和見主義の立場なのである。
 平和四原則はNATOを認めた西ヨーロッパ社会民主主義に対比するならば相対的に左の立場にあるが平和主義と中立主義という歴史的伝統的社民の政治路線を一歩もはずれていないのであり、厳然として社民の基本的立場を表現しているのである。
 第二に清水慎三は、社会党が平和四原則を確立して世界政治のなかで「異質の座と機能」をもったと評価するが、このような評価が正しくないことはその後の歴史過程があきらかにしていよう。平和四原則の本質は日韓条約という真に日本資本主義の帝国主義的政策に直面してその社民的性格が暴露されたのであり、最近の韓国情勢への社会党の対応には「異質な機能」など見ることはできないであろう。平和四原則の有効性は未だ日本帝国主義がアメリカの傘の内にあって、帝国王義と民族の問題をそのものとしてつきつけられない一国的国民平和主義のなかにあったときには持続できたが、ほんものの帝国主義と民族の間題が提起されるや、社会党の平和四原則はその無効性、社民的本質が暴露されたのである。
 いっぽう、社会党への外在的批判者として中核派の岸本健一は先に引用した『日本型社会民主主義』を著しているが、そのなかにこんなくだりがでてくる。
 「日本型社民は、西欧社民や民社党に対する特殊性と同時に、日本共産党に対する独自性――日本社会主義革命における綱領的対立者としても特色あるものである。これは、日共がその綱領において日本における革命を、常に『民主革命』または『民族民主革命』とし、決して『社会主義革命』としなかったことに対する歴史的批判の現われである。日本型社民はこれに対し、曲りなりにも『社会主義革命』をかかげるものの代表者なのであった。
 大衆がよく知っているとおり、『穏健』な社会党が『社会主義革命』で、『過激』な共産党が『民族民主革命』だ、ということは、日本革命運動を混乱させつづけたパラドックスの一つであった。しかしこれは、単に日共と日本型社民の問題でなく、全世界の共産主義運動が、一九二〇年代以後ずっと陥ってきた混乱――スターリン主義による『社会主義革命』の放棄の現われなのである。」(岸本健一「日本型社会民主主義」・一三頁)
 社会党が「社会主義革命」であり共産党が「民主主義革命」だからといって混乱させられたのは日本の階級闘争ではなくて岸本健一の頭脳ではなかろうか。
 日本の労働者、人民は社会党の「社会主義革命」の綱領などてんから信用していないのである。大体、労働者、人民は社会党に革命は期待していないし、革命を考える労働者、人民は社会党の綱領など信用しないのである。現行の社会党綱領は一九五五年の左右統一においてまったく水と油の二つの液体をご都合主義でまぜ合わせた便宜的代物であり、ここでいう「社会主義革命」は古典的な意味の「最大限綱領」であって、この革命は無限の彼方に考えられているのである。日本社会党を綱領によって把握し分析するととんでもないところへわれわれは行ってしまうであろう。社会党は綱領によって形成された党ではなくて、きわめてルーズなブルジョア議会内の反対派として形成された歴史をたどっているのである。岸本健一が社会党に「社会主義革命」の綱領を見出して、共産党の「民主革命」よりもより自身たちとの綱領的近さを感じていたのであるから、これはまさに日本の「新」左翼主義の政治的水準のひどさを端的にあらわしたというべきであろう。
 これら社会党を過大に評価する人びとに共通するのは、「日本の」社会民主主義とか「日本型」社会民主主義とか、「日本」を強調していることである。社会党を社民的本質を契機として把握し分析するのではなくて、日本的特殊性――その中味は戦闘性と左翼性――を強調する契機をもって把握し分析するのである。したがってここから導かれるのは、「反日本共産党主義」の裏がえしとしての社会党への無原則的ズブズブ評価なのである。

 中間主義者による社会党批判

 帝国主義の危機がいっそう深化すると、この帝国主義体制のなかに組み込まれていた社会民主主義やスターリニズムが政治的に動揺を起こして、その内部からさまざまの左翼中間主義を発生させる。社会民主主義とスターリニズムも中間主義の一種ではあるが、この中間主義がさらにいくつかの中間主義を派生させるのである。
 中核派、革マル派、共産同各派、構改派はスターリニズムの政治的危機と分解から誕生した左翼中間主義である。解放派や主体と変革派は社民の危機から派生した中間主義である。
 そして、日本社会党の「左翼性」を表現する一つの要素とみられている社会主義協会派も社民の一翼を占める中間主義である。このグループのイデオロギーや理論の起源は日本社会党に求められるのではなくて、協会派の起源は戦前の日本共産党に求められる。すなわち、協会派はスターリニズムから派生した改良的分派であり、この立場から戦後の改良主義の党=社会党の左の椅子に自らの座る位置を見いだしたのであり、組織方針上の日和見主義、宿借り主義が歴史的に継承されて今日まで来ているのである。
 日本社会党に対する分析と評価の流れは、第一に協会派によるもの、第二に共産党によるもの、第三に左翼中間主義諸派によるものが支配的であった。協会派による社会党評価は山川イズムからの歴史を正当化して日本社会党を労農マルクス主義(現在は向坂イズム)で“純化”する目的からなされるものである。清水慎三の立場も本質はこの協会の立場と同一であり、解放派もそうである。解放派の場合は山川均を是とし、向坂を非とするが、歴史をさかのぼると山川のところで合流するのである。
 共産党の評価はスターリニズムの「社会ファシズム論」「社民主要打撃論」が前面にでていた時期――一九四五年〜五五年――から六〇年安保以後の時期とは表面上ことなってきているが、つねにその根底には「社会ファシズム論」が流れており、そのうえに無原則的な人民戦線戦術や連合政府路線がたてられているのである。共産党には正しい統一戦線の思想がないので、社民批判は絶えず発作的なジグザグを繰り返すのである。
 第三の「新」左翼諸派の社民批判は何ら政治的独自性を認められない。革マル派の社民評価は協会派と同じであり、むしろ水準はもっと低く「反スタ」のための「社民利用」というプラグマチズムの水準である。共産同諸派は真面目に社民批判と社民との統一戦線を考えてもみないグループであって、これは情勢と無縁の存在である。
 中核派は急進的闘争のヘゲモニーをとっていた時期――一九六八年〜七一年――に反日共・社民との統一戦線という方針をとっていた。この立場は誤った統一戦線であるがゆえに、すぐ破産する。岸本健一の著作はこの中核派の立場を表現したものであるが、中核派のこの時期の活動は社民とのゆ着、あるいは社会党との無原則的取引き、社民官僚とのボス交と社民影響下の労働者大衆への最後通謀主義など、統一戦線における誤りを典型的にしめしたのである。

 統一戦線と党派批判

 スターリニストによる打撃的社民批判や中間主義者による無原則的社民評価という誤りに対して、唯一われわれトロツキストが統一戦線の立場から社会党の分析と評価をおこなってきたのである。この理論と実践の双方の分野における活動は、日本のトロツキズム運動の開始とともに着手されたのであり、一九五〇年代のはじめから、山西英一氏の闘いから持続されてきている活動である。この活動ぬきには、日本のトロツキズム運動はありえなかったであろう。
 独自の党の建設とともに、つねにその時期における労働者の多数派を占める党派に対する統一戦線戦術を駆使する活動は不可欠なのであり、まさにこの活動を通じて党が建設されていくのであるといえよう。
 われわれの社民批判は改良的、議会主義的党派を暴露し、それを労働者大衆に公然と訴える活動として展開されねばならないが、それはつねに統一戦線戦術のなかに位置づけられた党派批判でなければならない。
 社会党批判は最近ではかなりゴリでセクト的なグループ=社会主義協会派が社会党内に「抬頭」してきているので“やり甲斐のある”仕事であるが、それでも“のれんに腕押し”の感が強い。スターリニスト党との党派闘争は激しいやり合いを覚悟しなければならないが、社民批判はなんだか張り合いのない党派闘争に思われる。しかし社民批判は社会党や民同幹部をわれわれが攻撃して溜飲を下げるのが目的ではなくて、多数の労働者を政治的に獲得するために行なうのが目的なのである。次のトロツキーの指摘は貴重である。

 革命の道への過渡的状態

 「この二つの党は、中間主義組織を代表している。両者の違いは、スターリニストの中間主義がボルシェヴィズムの解体の産物であるのに対し、社会党の中間主義は改良主義の解体の中から生まれたという点にある。もうひとつ、これに劣らず本質的な違いがある。スターリニストの中間主義は、その発作的なジグザグにもかかわらず、強力な官僚階層の地位と利害に不可分に結びついた非常に安定的な政治体制を代表している。社会党の中間主義は、革命の道への出口を探し求めている労働者の過渡的な状態を反映している。」(レオン・トロツキー「ブルジョア民主主義の危機とフランス社会党」・第四インターナショナル・一四号・一四八頁)
 社会党の動揺は労働者の過渡的状態を反映しているのであり、まさにそうであるからこそ、仮借ない党派批判の展開と、左からの統一戦線戦術の行使が必要なのであり、社民批判の実践的意義がここにこそあるのである。


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