つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる
「社青同批判」
織田 進


第一章 新しい「社青同」はどのようにつくられたか

 はじめに

 社青同、正式には日本社会主義青年同盟が結成されてから、一四年が過ぎている。今日では、社青同といえば日本社会党の押しも押されもせぬ「孝行息子」であり、社会主義協会向坂派が指導する青年政治組織であるということになっているが、そうなったのはやっと七〇年代に入ってからのことで、それ以前にはもっと違った要素や、さまざまの波乱があった。六〇年代の社青同はずっと、社会党にとって何を考えているかわからない「鬼っ子」であり、はらはらさせられどおしであった。またその頃の社青同は、いろいろの可能性をはらんだ魅力ある組織でもあった。わが第四インターナショナル日本支部も、当時、社青同の「発展」におおいに貢献したものである。
 なぜ、どのようにして今日の社青同がつくり出されていったかを知るためには、したがって、社青同の歴史を、おおまかにでもひもとかなければならない。

 1 「安保と三池」

 社青同は、社会党の浅沼委員長が右翼によって暗殺された直後の、一九六〇年一〇月一五日に結成された。結成された当時の組織は、全国各県、各地方によってマチマチで、まったく存在していないところもあれば、一定の運動に着手しているところもあった。
 この頃の社青同のメンバー、第一期カードルは、大きく三つに分類される。
 第一の部分は、社会党の青年党員である。当時の社会党は今日と違って、大衆の急進主義にたいする許容量が大きかった。六〇年安保闘争の最先頭に立ったブンド系全学連の指導者は、三宅坂の党本部によく出入りし、青年部役員と連絡をとって東京地評工作やデモ戦術の打ち合わせなどをやったし、デモが終ったあとに大衆をひきいて党本部の門前に出かけ、「社会党ガンバレ!」のシュプレヒコールをやるようなこともあった。社会党の方でも、戦闘的な青年、学生とのつながりにおいてはいつも共産党にひけめを感じていたから、全学連とのこういうつながりを積極的に歓迎し、呼応していた。それは選挙民と議員との関係に似ていた。議員は、サービスにつとめ、自分を売り込むことを熱心にやるが、けっして小言をいったり叱ったりはしない。「指導」というような、上からの強制は避ける。そうそうたる国会議員諸氏がこのころ国会前でやった演説を記録しておいたら、びっくりするような「戦闘的」な言葉を発見できるだろう。彼らは学生の拍手にはげまされて、自分が思っていることではなく、全学連が喜びそうなことを語った。そういう関係ができ上ってしまったために、六月一五日のあとの異常な高揚の数日間には、社会党は、国会前を埋めつくした大衆をつなぎとめる手綱をとれなくなっていた。すでに機動隊は大衆との対決を恐れて国会構内深く閉じこもっており、大衆は、突入――占拠の合図を待ちかねている。学生だけではなく、かってに職場や家業を放棄してきた労働者や市民が夜となく昼となく坐り込み、そのなかで、「死んでもいい」とまで思いつめている青年を、数千の単位で数えることができた。この時点では六・一五を上まわる大規模な衝突が発生する条件が成熟しており、もし衝突が起ったときには、全国各地にぞくぞくと生れつつあった安保共闘を通じて、さらに大量の動員と、ゼネストへの機運がもり上っていったであろうことは、疑い得なかった。だが、こうして日夜国会包囲の坐り込みをつづけていた青年達のあいだには、一つの共通の確信があった。「突撃の合図を全学連が発する」という確信である。六・一五で樺美智子が死んだ。彼女は、まさに全学連として死んだのである。全学連が日和るなどということは、到底信じられなかった。そして、その信じられないことが起ったのである。まるまる一ヶ月にわたって完全にマヒしている国会で、安保条約改定批准が、自然承認となる六月一八日午後一二時まで、全学連はついに行動の指令を発しなかった。この、明白な「裏切り」をめぐって、ブンドが四散していくのであるが、そのことは当面のわれわれの主題ではない。問題はそのとき社会党がなにをやったか、である。
 社会党は二つのことをした。一つは自然承認の時間切れまで会議をやった。この会議の目的は、自然承認が成立したあとでそれを「承認しない」という決議を採択することであった。一九日の早朝に姿をあらわした社会党の代表は、「改定批准不承認宣言」なるものを発表した。だが、大衆はそれをなんともしらけた気分で聞いた。「不承認」の立場からすれば、徹夜で坐り込むことはないし、国会に押しかけてくる必要もない。かってに成立させれば良いのである。この会議の本当の動機は、大衆の前に姿を見せないことであった。大衆の前に姿を見せて、決定的な事態にまき込まれ、議会政党の一線を超えてしまうようなことになって、ブルジョアジーの糾弾を受けることを恐れたのであった。そのため、社会党はもうひとつのことをした。デマを流したのである。岸内閣が、ヒトラーと同じことを計画しているというデマである。大衆の国会突入と同時に、議事堂に火をつけ、それを口実として自衛隊を動員し、活動家をことごとく逮捕、投獄、虐殺して、いっきにファシスト的な体制にもっていこうとしているというのである。「国会突入を決意している諸君の気持はわかる。だが、気をつけなければならない……」こういう調子で、社会党はデマをひろげた。社会党が、自然承認期限切れの決定的な時点でなした唯一の「積極的」行動が、これであったという事実は、それほどにこの党が、当時の急進的大衆にたいする統御の手段を持っていなかったことを示している。社会党は、急進的な安保闘争にのみ込まれてしまっていたのである。
 こうした事態を、進んでつくり上げていったのが、社会党青年部の党員達であった。彼らは、感覚的に左傾化していた。安保決戦前年の五九年に、安保条約改訂是非をめぐって西尾派と対決し、西尾追放の最先頭に立って、民社党結成に追いつめたのも、彼らであった。
 社青同結成の計画は、彼らによって練り上げられていった。彼らは、党を大衆運動の積極的な主体に押し上げるためには、組織・機構改革が必要であると考えた。その一つが、社会党青年部を社青同に発展・解消させることであり、もう二つは、機関紙「社会新報」の強化と、オルグ団制度の導入であった。この方向は、「社会党近代化路線」とも呼ぶべきもので、提唱者の中心である青年部中央役員の多くは、江田三郎のもとに集まり、「構造改革論」の学習をやっていた。社会主義協会派は、歴史を偽造して、社青同結成を彼らが一貫して推進したかのように宣伝しているが、事実は反対である。協会派はこの提案が社会党の「左翼バネ」である青年部を党外に排除する陰謀ではないかとうたがい、「時期尚早」をとなえたが、構革派がその抵抗を押し切って結成にもっていったのが真相である。
 いずれにせよ、社青同第一期カードルの第一の部分は、これらの社会党の青年党員達であった。数は、さほど多くない。というよりは、きわめて少なかったというべきである。名目党員は別として、活発に活動している青年党員というのは、全国で数百名といったところであろう。どんなに多くかんじょうしても、一、〇〇〇名を超えることはなかったのである。
 社青同を大組織にするためには、この少数の、多くの場合三〇才を超えつつある青年党員達だけでは不十分であることは明らかである。そこで彼らは、てっとり早い組織拡大の方法を実行した。話を、全国単産の民同幹部にもっていったのである。当時民同は、職場に拡大する民青の脅威にさらされていた。民青の浸透は、六全協後の混乱を徐々にのりこえつつあった共産党が、第一級の組織課題とし、安保闘争を好機にとりくむことによって、はげしくすすんでいた。それまで共産党は、極左冒険主義の時代以降大衆から孤立し、職場で問題にするに足りるような力をきずいてはいなかった。安保闘争は、共産党立ち直りの出発点であった。その最初の現象が、民青の浸透となってあらわれた。民同はこれに対抗する組織的手段を持っていなかった。そこに、社青同が提供されたのである。民同はそれを受け入れ、各単産の民同幹部のキモいりで、産業別に社青同の組織拡大がすすんだ。
 当然のこととして、こうして出来上った社青同は、ほとんど名目的なものであり、職場で組合活動をやり、民青と対抗することには熱心であっても、革命の理想に燃え、地域の青年大衆と共に青年運動を展開していくようなつもりがまるでなかった。同盟費が、民同フラクの「財政」から一括して支払われるような例もまれではなかった。その傾向は、官公労の場合に、ことに多かった。それでもこれによって、社青同の量の面での体裁がととのった。
 ここに、ぜんぜん違った方角から、新しい活動家群が合流してきた。量的にはとるに足らないものであったが、社青同の「気分」を活発化し、戦闘化したうえでは、この活動家群の果した役割がきわめて大きい。第一期カードルの第三部分である彼らは、安保闘争によって「前衛不在」を確かめ、三池闘争によって労働運動に魅きつけられた、雑多な背景をもった若い、生れたての活動家である。学生の場合もあり、労働者の場合もあり、いわゆる「市民」の場合もあった。ブンド系全学連の活動家で「第三潮流」に失望したものもいた。彼らは、安保闘争において、社会党が共産党のような「統制」をおこなわなかったことに好感をいだいており、とりわけその青年部の「勇敢な」行動が気に入っていた。青年運動、とくに政治的な運動をやりたいのだが、民青の「歌ってマルクス、踊ってレーニン」が、大嫌いであり、気質的に表現すると「硬派」に属する青年である。社青同が、安保闘争を通じて、これから作られようとしているのだ、というところにも、魅力があった。これから作られるのだから、自らの主体性を発揮する余地も大きいのではないかという期待を抱いた。また、社青同の綱領主文に、社会党との関係が一言もふれられていないという事実も、彼らにとっては歓迎できる一つである。それは、社会党青年党員達が、議会主義的で行動力に欠如し、統一した思想をもたない自らの党にたいして、どれほど自信をもっていなかったかを示す実例でもある。こういうわけで、社青同結成を担う第三の部分が集まってきた。
 結成当初の社青同を構成したのは、大きく分ければ、これら三傾向の合流である。各地区で活動の中心を担ったのは、第三の傾向である。第一の傾向である青年党員達は、理論を語らせれば相当のものであるけれども、大衆運動の経験がない、それに、年がいきすぎている。第二の傾向の民同青年将校達は、政治運動としての社青同をやるつもりが、はじめからない。だからそうなるのは、当然であった。
 こうして、社青同の政治的中心は、安保闘争と三池闘争によって政治意識にめざめた若い活動家にうつっていった。彼らは、自らの確固とした革命路線をもたなかったし、未だバラバラのままであった。社青同とは何か、と問われたとき、彼らは、「民青ではだめだ」と答えることはできても、「われわれはこれだ」と核心的に断言することができなかった。しぜん、社青同自身を規定するかわりに、自分がなぜそこに来たのかを語ろうとした。そのため、「安保と三池」という一種の「合言葉」が、社青同の自己宣伝の核心になっていった。「安保と三池で生まれた社青同」という一節が、あらゆる宣伝文書の冒頭に置かれた。
 安保と三池は、一つの強烈なイメージである。社青同はこのイメージに自己をダブらせることで、大衆を魅きつけようとしたのである。だがそこにあいまいさがかくされてもいた。
 安保闘争と三池闘争は、それぞれ異なった方角からではあるが、国家権力との実力的な対決であった。「安保と三池で生まれた社青同」という言葉は、一見、戦闘的実力闘争のひびきを大衆につたえる効果があった。だが、一歩突っこんで考えると、この言葉には多くの問題が浮んで来る。
 「安保と三池」は、ともに敗北した闘争である。敗北の原因は、指導部の公然たる裏切りにある。いわば、「前衛不在」の問題意識が、「安保と三池」のなかには読みとれる。「安保と三池で生まれた社青同」はこのふたつの敗北した闘争がつき出した課題を受けて、真の革命的前衛党を建設するためにたたかう組織なのだ、という主張がそこから出てきた。
 それとはちがって、「安保」を、「平和と民主主義」の視点でとらえ、ここに重点を置いて語る傾向も存在した。「安保で生まれた社青同」は、「平和と民主主義」の大衆的青年運動をつくり上げる組織なのだ、というわけである。これは、構革派の傾向が主張した。
 また逆に、「三池で生まれた社青同」に力点を置き、三池労組の職場闘争論こそ、社青同の「基調」であるという傾向もあった。社会主義協会派がそれである。彼らは、長期抵抗大衆闘争路線をとなえ、職場闘争の社青同をつくり上げようとした。
 このような諸傾向が、はっきりした分化をとげずに、「安保と三池」の戦闘的な実感と、共産党――民青なにするものぞ、というような気概とで、混然と一体となっている姿が、結成当時の社青同であった。こうしたカオス状況のなかから、社青同の歩みがはじまった。そしてその歩みは、これらのまじり合った諸傾向が、次第に固定化し、対立し、相互に排除し合い、最後には激突にいたろ過程なのであった。

 2 「鬼っ子」社青同の誕生

 結成から三年間、社青同の指導権は、西風氏を中心とする構造改革派の手にあった。六四年二月の第四回全国大会で、いわゆる「改憲阻止・反合理化の基調」が採択され、「左派」執行部が確立されるまで、構革派系の社青同中央は、総評青年部幹部と結んで、「大衆化路線」を実現しようとした。
 構革派系指導部が、結成のはじめから「右派」として意識的に行動したというのは、事実に反する。たしかに彼らは、社民官僚や議員党的な取引き政治の体質をもっていた。しかしそれは、後に「左派」として登場した協会派幹部においても、劣らず見られる特徴である。協会派が分裂のときまでかついできた深田氏等も、西風氏に比べてスケールが小粒なだけで、発想から方法にいたる取引き政治の体質は、判で押したようによく似ている。かえって構革派指導部は協会派にない良さをもっていた。彼らには、あまりセクト主義がなく、どちらかというと陽性であった。それにひきかえ協会派は共産党の物真似というべきセクト主義でかたまり、活動家の感性が陰湿である。
 構造改革派の理論と社会主義協会の理論をくらべて、どちらが「左」であるかをいうのはむずかしい。反独占革命派であり、平和革命論であり、議会主義であるという点では、差異はない。世界革命に開かれた政治感覚という点では、むしろ構革派の方が優れている。国際路線では、どちらもソ連派であり、平和共存派である。改憲阻止闘争こそ、「左派」が登場した契機であったなどと協会派の諸君はいうが、政治闘争にたいする協会派の熱中ぶりがどのていどのものであるかは、すぐそのあとで示されることになる。どちらも「護憲・民主・中立」の立場である。七〇年闘争を経た今日にたってふりかえると、当時の構革派の頂点は現在「社公民路線」を走っており、江田派の中核をなしているから、その限りでみると構革派が右派であったことは、歴史によって示されたということになろう。だが、もうひとつ無視し得ない、歴史の示した事実がある。協会派が今日まで一貫した反急進主義を守り通し、社会民主主義の枠を一歩も超えないのにくらべて、構造改革派の運動を担った拠点的地区本部、大阪、埼玉、石川、北海道などは、六七年以降の急進的青年運動の高揚のなかで社会党の一線を飛び出して、自ら新左翼的な分派「主体と変革」派を結成し、急進派の陣営に移行するのである。
 構革派が右で協会派が左であるという図式は、構革派を江田派という無理な限定にしぼってしまえばいえなくもないが、当時の社青同横革派にそれはあてはまらない。
 協会派と構革派のもっともはっきりしたちがいは、運動のくみたて方、組織のつくり方にあった。構革派は「平和擁護・民主化要求」の闘争路線を提起した。この路線は平和共存の情勢を「積極的に利用」して、資本主義の権力構造、社会構造のなかに革命の拠点となるべき「改革」をつくり出そうとするものである。社会の「大衆化状況」のなかで、権力の秩序のなかにますます多くの大衆が包摂されている。これを逆手にとって、権力を空洞化し、その空洞を革命の側が埋めていくのだ、と主張した。協会派は、こうした路線は改良主義的な幻想だ、と指摘する。レーニンの「国家と革命」を半分だけ引用して、(もっとも協会派が引用するマルクス、レーニンは、いつも半分なのだが)ブルジョア国家はブルジョア独裁であって、それをプロレタリア革命にそのまま役立てることはできないという、それなりに正しくはあるが、面白みも新鮮さもない批判を展開した。それでは協会派はどういう路線を対置するのかというと、実に単純明快、無味乾燥、論理の水準でいえば小学校の算数程度のものである。社会主義革命をやるためには労働者に社会主義の思想を理解させなければならない、それは学習を通じるが、学習の意欲を起させるためには、政治反動と合理化攻撃にたいして、抵抗するたたかいをやらなければならない。抵抗をつみ上げて学習を組織し、社会主義を理解した活動家を育てて、ときを待つ。つまり、資本主義の決定的な破局を、である。
 ちぢめていうと、構革派は「要求闘争」派であり、協会派は「抵抗闘争」派であった。両者はたがいに激しく嫌悪した。
 構革派指導部の「右派性」がはっきりしはじめるのは、六二年のソ連核実験以後である。ここで構革派指導部は、「全ての核実験反対」を打ち出し、総評、社会党と一緒に、日本原水協を分裂に追い込み、あらゆる戦線で反日共の策動を展開した。この問題をめぐって社青同のなかに最初の大規模な対立が発生した。東京地本の「左」派を中心とする部分は、こうした動きは反共主義であるとして非難した。むろん彼らも、ソ連核実験に賛成なわけではないから、彼らのかかげたスローガンは、「『全ての核実験反対』に反対」という、つまり、「反対にも区別をつけろ」というすっきりしないものであった。
 ここから始まった対立は発展して、社青同の組織路線をめぐる対立になった。すでにのべたように、構革派指導部の「要求闘争」路線は、社青同の「大衆化路線」として定式化された。大衆の要求に積極的にとりくみ、それを運動に組織して権力にぶつけていく。それが「歌い、踊る」要求であっても、大衆のあらゆる要求にどん欲にとりくむ組織でなければ、社青同は拡大しないという反省にもとづく方針であった。日共との対決に意識をするどく集中した構革派は、民青と対決するために、民青の「お株をうばう」活動をやろうとしたのである。
 これにたいして協会派の「左派」は、それが社会主義の魂を同盟が捨て去り、大衆の水準に社青同を低める、「同盟を大衆化する」路線であると反撥した。
 六四年二月の第四回大会で、構革派は敗北した。核実験問題をめぐる反日共主義は、職場の労働者の戦闘的部分には受け入れられず、職制に近い部分やダラ幹的勢力に歓迎されるものであった。こうした背景のなかで、構革派の「大衆化路線」は、わずかの例外(大阪地本など)をのぞいて、実践する部隊も、基盤ももたなかった。これに反して「左派」は、三池闘争から出発した福岡、安保の産物としての戦闘的活動家群に支えられた東京を中心とし、社会主義協会の歴史的蓄積をフルに利用して多数を制した。「左派」は、「改憲阻止・反合理化の基調」なる決議を採択し、執行部を掌握した。
 ところで、「基調」という用語が、耳なれない読者もいるだろう。あえていえば、「総路線」とか、「戦略」とかいうことになるのであろう。あるいは綱領の解釈の仕方、綱領の補強ということでもあろう。いずれにせよ、あいまいで含みの多い、社民的な用語ではある。
 こうして社青同は、「平和擁護・民主化要求」の「大衆化路線」ではなく、「改憲阻止・反合理化」の「基調」のもとで、当分進むことになった。第四回全国大会は、指導分派を交代させた。ところが、これは社青同内分派闘争の終りなのではなく、まさに始まりだったのである。以後七〇年にいたるまで、社青同の歴史は分派闘争の歴史となった。
 社会党は、この分派闘争に事実上介入できなかった。民青の分派闘争は、つねに共産党によって解決された。あるいは民青の分派対立は、共産党の分派関係の反映にすぎなかった。社青同の場合も、基本的には社会党内の分派対立を反映する。だが社青同には、社青同にしかない分派がいくつも存在する。また社会党のなかの重要な分派のほとんどが、社青同内に忠実な“息子”をもてないでいた。根本的には社会党内の力関係に沿って解決がはかられていくにせよ、直接の結果はつねに社青同内分派闘争の独自的な力学によって決まった。第四回大会以降のめまぐるしい分派闘争は、社会党の派閥力学とは異質の展開を見せた。社会党は、はらはらし通しであった。親に以ぬ子「鬼っ子」を持ってしまった不幸のなげきを、しばしば禁じ得なかった。
 第四回大会は、そうした社青同の「鬼っ子」の時代をひらいたのである。

 3 「孝行息子」への変身

 ここで、鬼っ子時代の社青同にふさわしく、“極左派”として協会派中央の憎悪の的となった二つの分派を紹介しておこう。
 第一は、第四インター派である。第四インターは六〇年安保闘争以後、社会党への加入戦術を行ない、社青同のなかに無視し得ない力をきずいた。第四インターが加入活動によって影響力を行使した地方は、三多摩を中心とする東京、宮城を中心とする東北、そして大阪を中心とする関西の三つである。第四インターの加入活動に終始神経をとがらせていた協会派は、次のように説明している。
 「加入戦術とは、社青同の思想・運動・組織・構成員の全体を認めず、全体はだめだが部分的によい者がいるという考え方で加盟することである。したがって全体強化や全体の意志統一を追求せず、正反対に、全体から『正しい部分』をいかに分離させ別の方向へ向わせるかを追求する。社青同の自由な討論はよくこのような加入戦術に利用された。」(労大新書「青年運動」)
 加入戦術の意味を、この程度のものにしか理解できなかったところに、協会派のお粗末さがあらわれており、なぜ彼らが、あれほど第四インター派に苦しめられなければならなかったかの一つの根拠がある。加入戦術は、「悪い全体」から「良い部分」を切りとろうというようなものではない。こういう規定は、むしろ解放派の組織論にあてはまる。もちろん解放派は、加入戦術をやったわけではない。
 加入戦術は、革命的な運動の影響力を、改良主義的な運動の内部につくり上げようとする戦術である。ふつうこうした目的は、統一戦線戦術として追求される。だが、革命的な運動が極端に孤立して、大衆運動が改良主義者のもとにしか存在しないような場合には、加入戦術が行なわれる。改良主義者のなかから良い者をかりとるためであったら、外部から革命の旗をかかげて工作した方がはるかに早い。だが、改良主義者のなかに、それほど良い者がいるという認識を第四インターは持ったこともないし、幻想として斥ける。
 革命的カードルは革命的運動のなかからしか生れない。だが、革命的運動は、改良主義的な運動から発展しうる。そのためには、革命的カードルが必要なのであるが、それを改良主義の運動に「外部注入」するのが加入戦術なのである。
 だから加入戦術は、あれこれの個人の活動家を対象とする運動ではなくて、革命的な大衆運動をつくり上げる。事実、加入戦術が成功した三多摩や宮城では、社青同全体が第四インター派のつくり上げた革命的大衆運動の成果として生れた。協会派の諸君はあとからこれに“加入”して自らの影響力を行使しようとしたが、ついに指一本ふれることができなかった。革命派の大衆運動に改良派が“加入戦術”をしようとしても、できるわけがないのである。加入戦術を終えるにあたって、第四インター派はたしかにその成果を刈りとった。つまり社青同を解体し、公然たる第四インターの旗をかかげた。だが、このことについて協会派や社青同から文句を言われるすじ合いはない。第四インターがつくり上げた革命的大衆運動は、他の場所にはいきようがないのであって、自分の運動に自分の旗をかかげたからといって、誰にも非難できない。協会派は、運動にたいして運動を対置できなかった自らの弱さを恥じるべきなのである。
 第四インターの加入戦術活動が、その最初の段階から目的意識的に追求されたのとくらべると、もう一つの鬼っ子分派たる解放派は、かなり事情が異なる。解放派は一〇年間かけて左へゆっくりと移動し、とまった。とまったところが、社会党の境界線を半分だけこえた位置であった。たとえ半分であろうと、こえたものを見のがさないのが、スターリニスト派社民たる協会派の特技である。主として協会派によって、党と社青同の外に排除されてしまった。哀れなのは解放派である。自らはたった半分のちがいしか見出してはいないのに、五〇歩も、百歩もちがうように言われて追い出されたのである。あきらめ切れない解放派は、母なる社会党屋敷の茨の垣根のすぐそばに堀立小屋を立てて、仮住いをしている。堀立小屋には、「社青同中央本部」と看板をかけ、母屋とわが屋は棟つづきなのだと、人々に納得させようとしている。だが、公平に見て棟はつづいていない。“極左派”に手をやいた協会派が自戒をこめてめぐらした深い防衛ラインが、この二つの社青同のあいだにはたしかにあるのである。
 解放派が左へ移動した基本的な動因は、社会主義協会の長期抵抗闘争路線が、六〇年代の都市合理化の攻撃にたいして無力だったところにある。解放派の中枢的な担い手は、もともとは協会派の若手カードルの戦闘的部分であった。押し寄せる都市合理化にたいして協会派の長期抵抗闘争が“なしくずし敗北路線”でしかないことを見てとったこれらのカードルは、“一点突破、全面展開”なる職場反乱型の闘争に突入していって、そこから、協会派への批判を開始した。これを促進し、指導したのは、山川均の直系を自称する滝口弘人氏がひきいる、学生“共産主義”者のグループであった。このようにして解放派は生まれたのである。
 解放派は、たしかに社会党の枠を半歩だけこえた。暴力革命=ソビエト革命を認めたためである。それにもかかわらず彼らが、わずか半歩しかこえていないのは、レーニンを認めないからである。レーニンの前衛党=インターナショナルの立場に立たないからである。このため彼らの暴力革命=ソビエト革命は、アナルコ・サンディカリズム的にねじまがっている。レーニンの立場に立ち切ることなしには、暴力革命は個人の信条の範囲をこえ出ないのである。
 ともあれ、このようにして左へむかった解放派は、六五年から東京社青同の主流派の位置をしめ、群馬、京都、徳島などに影響力をつくり上げた。
 六四年第四回大会で左派中央が誕生した直後から、大衆運動はベトナム・日韓闘争にむけてうねり出しはじめた。このうねりの最先頭の位置に突然おどり出たのは、第四インター派が指導する三多摩社青同であった。三多摩社青同は、未組織労働者を組織する統一労組運動を土台として、民間・官公労青年労働者のあいだに急速に組織をのばし、文化運動、婦人運動、高校生運動などのひろがりをつくり上げていたが、六四年の原潜寄港反対、横須賀闘争以降、政治闘争への全力投入を開始した。三多摩社青同の、全員ヘルメットをかぶった戦闘的な闘争にひきつけられたのは、都内の解放派系同盟員であった。六四年の末に、解放派と第四インター派のブロックが結ばれ、解放派は協会派との提携を打ち切って、“左派の左派”をつくり上げる路線にのり変えた。この解放派の態度の変化は、協会派を硬化させた。こうして、六五年から六六年いっぱいまでの二年間、解放派=第四インター派連合と協会派とのあいだに、主として、政治闘争の路線をめぐる対立と闘争がつづいた。奇妙なことに、この関係は、東京に限られていた。宮城でも京都でも、解放派は第四インター派にたいして対抗しつづけた。宮城では協会派を利用して第四インター派指導部を攻撃したし、京都では、第四インター派の加入を認めようとしなかった。なぜ解放派がこうした態度に固執したのかは、わからない。結局、解放派は全国分派というよりは、地方分派の連合体にすぎず、中央の判断が必ずしも地方に受け入れられない組織体質だったのであろうか。
 東京での協会派と“左派の左派”の対決は、六五年の日韓闘争を通じて、感情的、暴力的対決の水準にまで高まった。東京池本の力関係では、解放派H第四インターの左派連合が協会派を圧倒しつづけた。べトナム=日韓の政治闘争においても、東交を中心とする反合闘争においても、運動を活発に展開して大衆をひきつけたのは左派連合であった。このため、旧来の協会派の拠点といわれていたいくつかの職場班や活動家グループが、左派連合に加担した。協会派が、全国の最大地本であり、中心地本である東京の指導権を奪い返す見込みはますます遠のいていった。だが、協会派は中央本部を全一的に掌握していた。このため、対立は応々にして、中央本部対東京地本という形態をとるようになった。そこから、組織規律の問題が発生し、分派闘争は路線上の対立から、“規約上”の紛争の次元にうつっていった。
 決定的な対決が、六六年の九月に行なわれた東京地本第七回大会で発生した。この大会にむけて協会派は、重大な決意をかためた。東京地本大会を流会に追い込み、中央本部の強権を発動して、少数派たる協会派を地本の指導権にくいこませようとしたのである。このため彼らは、綿密な挑発の計画をたて、議事運営の暴力的な妨害をおこなった。この挑発に解放派がのった。解放派の集団暴力が協会派に加えられ、協会派は百数十名の重軽傷者を出した。
 “不祥事件”は、協会派に絶好の口実を与えた。中央本部は直ちに東京地本を解散して同盟員の再登録を行ない、協会派だけの東京地本を“再建”して、これを社会党にも認めさせた。電光石火の早業である。社会民主主義者の優柔不断を体質にのこしている解放派は、これに太刀打ちできなかった。解放派は社会党内派閥の介入をあてこみ、はじめから“妥協”の姿勢でこの動きに対処しようとして、はね返されてしまった。一方第四インター派は、“妥協”をこばんで強硬路線を走りつづけたため、左派連合自体にすきま風が入りこみ、やがて解消の方向にむかっていった。東京の第四インター派は、この頃から加入活動の中止の方向へむかっており、第四インター派内部の対立のために、社青同運動自体が解体されていったのである。こうして協会派は、まず東京で勝利を収めた。
 だが、協会派の東京における勝利は、そのまま社青同の全国的な一枚岩体制にはむすびつかなかった。全身傷だらけになってようやく東京地本“再建”にこぎつけた六七年に待ちうけていたのは、それからの四年間にわたって日本の政治を大きくゆさぶった急進的青年・学生運動の爆発であった。
 六七年は砂川闘争ではじまった。砂川闘争は反戦青年委員会運動を全人民的な視野に登場させた。砂川反対同盟は、共産党の妨害を押しのけて、反戦青年委員会と全学連に公然たる発言の場を提供し、戦闘的実力闘争を鼓舞し防衛した。六〇年安保闘争の敗北以来、孤立と分裂の環境のなかで離合集散をかさねてきた“新左翼”諸セクトは、ようやく“人民”の場で活動する自信を得て、いっせいに活気を取り戻した。
 砂川闘争ではずみをつけた急進的な青年・学生運動は、二次にわたる羽田闘争をたたかい、佐世保エンプラ闘争、王子野戦病院反対闘争、三里塚闘争を経て、六八年の一〇・一二新宿“騒乱”へと連続的に爆発した。これらの闘争は、ベトナム革命の六八年テト攻勢にはじまり、チェコ政治革命、フランスの五月とつづく世界的な青年の急進化、世界革命の攻勢にこたえる性格をもって、戦後革命の敗北過程における共産党の“武装闘争”とは明らかに異なる大衆的叛乱の時代の幕が開きつつあることを示した。さらにこうした一連の“反戦闘争”の爆発は、キャンパスに燃えうつり、六八年から六九年にかけて、日大、東大を中心として全国の大学をおおった“帝国主義大学解体”のバリスト闘争の波をつくり出した。
 六〇年安保闘争で大衆の急進化にたいする無原則的な包容力を見せた社会党は、六七年〜六八年にふたたび“左”にぶれた。佐世保闘争あ熱気が会場にあふれた一月下旬の社会党三〇回大会で、成田委員長は「反戦青年委員会ぬきに七〇年闘争はたたかえない」と言明し、井岡大治国民運動局長は「三派全学連は同盟軍である」と規定した。だが六〇年闘争とはちがって、この“左”へのぶれは、長くつづかなかった。帝国主義日本経済の“恩恵”に浴して“右傾”と官僚主義の道を決定的に歩んできた民同・総評は、社会党のこのような“包容力”を見過さなかった。それというのも、すでに大学闘争が示しているように、街頭にあふれた青年達は、職場にかえれば職場で資本と労働の共存の秩序に反逆するエネルギーに満ちていることが明らかだったからである。
 一月社会党大会の親急進主義路線にたいするまき返しは、三月、総評青対の“反戦青年委員会を改憲阻止青年会議に移行させよ”という提起、いわゆる“三月逆流”からはじまって、この年の夏、総評全国大会における“反戦青年委員会凍結”の決定に到った。総評民同は、社会党指導部を呼びつけて叱責し、“組合の実情”を無視した党の“極左的偏向”の修正を要求した。一〇・二一新宿騒乱の時点で、一月大会の言明は、反故になった。
 党の“左傾”は半年ももたなかったが、社青同の場合はそうならなかった。東京地本処分で“左の足”を切りすてたはずの社青同は、六七年から七〇年までのまるまる四年間にわたって、深刻な対立と抗争に投げ込まれてしまった。
 東京地本を切りすてたことは、社青同中央が、反戦闘争に参加し、急進的青年運動の一方の極として活躍する手段を放棄したことを意味した。砂川、羽田闘争を領導した三多摩、東京反戦青年委員会は、切りすてたはずの東京地本が主軸であったし、佐世保闘争は、“三池”を語る全国の協会派の尊敬の的となってきた福岡池本が社青同中央に反旗をひるがえす契機となった。社青同中央は、反戦闘争・大学闘争をたたかう全国の青年・学生運動からとりのこされ、総評青対の官僚機構を防衛することに必死となりながら、全国各地本が、中央をバイパスして急進的青年運動に合流していく様子を、絶望的に眺めていることしかできなかった。
 六七年の社青同第七回大会では、福岡地本と宮城地本の連合が成立し、反戦闘争と三池CO闘争の路線をめぐって中央本部と対立した。東京地本処分に関しては、大会の多数は中央本部を支持したが、福岡宮城連合と、大阪――埼玉の構革派系地本が、痛烈に批判した。翌年の第八回大会では、福岡――宮城連合に構革派系の地本が参加して、反戦派フラクションが形成された。反戦派フラクションは大会の三分の一を数え、すでに解放派そのものとなっていた旧東京地本との合同会議を開催するなど、社青同中央を“反戦路線”で掌握するための公然たる活動を開始した。
 協会派にとってさらに深刻な打撃となったのは、六九年に発生した協会派自身の分裂であった。分裂は、社会党内闘争の路線をめぐって起った。協会常任委員会多数派は、党内分派闘争を強化する路線を打ち出したが、向坂氏を中心とする少数派が、これを“別党コース”であると否認して、あっという間に二つの社会主義協会が出来上ってしまったのである。協会派の分裂は直ちに社青同にもち込まれ、社青同中執も分裂した。
 六九年第九回大会は、協会向坂派、太田派、そして反戦派の三つどもえの大会となり、どの派も単独では過半数がとれないという事態になった。そこで大会は、三つの見解を一年間実践して結論を見出そうという妥協案を採択して、三派鼎立の中執体制を選出した。これは、運動の上では既成事実となっていた統一指導機能の崩壊が、組織上の現実として追認されたことを意味した。このとき、向坂派に忠実な地本は、主なものでは再建東京地本、兵庫、千葉、福島、岩手など、太田派が新潟、愛知、広島、反戦派は、北海道、宮城、埼玉、福岡、大阪、徳島などであった。中執の相対多数をにぎる向坂派にとってとりわけ困難であったのは、従来からの拠点地本が、形ばかりの東京をのぞけば、ことごとく反対派にまわっているという事情であった。
 統一機能の崩壊は、七〇年七月中央委員会で、向坂派が作製した第一〇回大会議案(中執多数派提案)が否決されるにいたって、頂点に達した。社青同組織そのものが存続の危機に立たされたのである。この危機を救ったのは反対派の内部不統一であった。太田派と解放派は、第一〇回大会そのものを開かせるべきでないと主張した。反戦派は、第一〇回大会を統一大会としてひらき、中執多数派提案を葬むり去って、社青同の息の根をとめるほどの打撃を与えようという見解に立った。太田派と解放派が大会阻止の戦術に出たのは、社会党のなかに深く足をふみ込んでいる彼らが、自派の社青同を再建しうるという幻想にとらわれていたためである。すでに社会党――社青同を解体の対象としていた反戦派は、第一〇回大会をその総仕上げの機会ととらえていたのであった。反対派のこのような乱れは、向坂派に大会ひきのばしの口実を与えた。向坂派は、七一年二月、会場を千葉にうつし、厳重な防衛体制を敷いて自派単独の一〇回大会をひらいた。彼らはこの大会を、「本格的な思想統一にもとづく社青同運動の出発」と位置づけている。
 一〇回大会以降の社青同は、極左主義との対決はもちろん、太田派の“別党コース”(その実は、たかだか、強固な分派建設をめざすという程度にすぎないのだが)からも峻別して、自らを、社会党・総評とともにあるものと位置づける。
 「反合理化闘争でも、組合全体の右傾化に苦しみ迷いながら、組合員大衆も苦しみ、怒りや要求を持っていること、それを引きだせないのは、社会党・総評幹部が悪いというより、自分自身の弱さだ」(労大新書「青年運動」)
 彼らは深く「悟り」をひらいたのである。結成後一〇年余を経て、ようやくにして社会党は、本当に安心のおける「孝行息子」を手に入れた。もはやこの息子は、親にさからうことはないだろう。親が悪事を働いても、それは自分の「孝行の足りなさ」と反省してしまうのであるから、のんだくれで仕事ぎらいの「不良おやじ」も、わが子の健気さにうたれて更生の一歩を踏み出そうというものではないか。実に徳川三百年以来の儒教のおしえが、わが社青同の政治道徳に復活した。
 だが、ここにかしこまっている社青同は、われわれがかつて語り、見つめてきた社青同と同じものなのであろうか。「安保と三池」で生まれたことを誇り、日和見主義の民青をあざけり、機動隊との衝突を好み、議会主義の社会党、改良主義の民同に怒り、社会党全国大会で演説する成田委員長にたいして、「おまえの赤いのは鼻だけだ!」とやじりとばした社青同は、どこへ行ったのか。
 今日、“向坂派社青同”と正しく呼ばれているこの組織が、どのような歴史を通って形成されたかをわれわれは見てきた。われわれの前に現に存在している社青同は、一つの独自の思想潮流であり、政治組織である。だがそれは明らかにかつての社青同そのものではない。常に情勢の先頭に立ち、抑圧された労働者・人民のもっとも深い苦悩と怒りから発するエネルギーを、赤いじゅうたんや冷暖房完備の労働会館の一室などで安逸をむさぼっている議員連中や労働貴族にはげしくたたきつけようとして苦闘したかつての社青同は、すでにないのである。
 三池の敗北を受けとめ、自立した思考とそれを支える自分の足をもった共産主義者たろうとして、佐世保闘争の最先頭に立った福岡地本こそ、“安保と三池の社青同”にいちばんふさわしい“野武士”達であったが、“社青同は死んだ、だがわれわれに新しい路線は未だない”と宣言して、七一年一〇回大会を前に自ら解散した。“復職”の日を夢見ながらそれぞれ自称しつづけている太田派と解放派の未練がましい“社青同”が“喜劇”としてのこってはいるが、健康な急進的青年のたたかいのエネルギーは、“社青同”を見捨てたのである。構革派左派は“主体と変革派”を結成して独自の道を模索し、わが第四インターナショナル派もまた新しい青年同盟の旗をかかげた。(注)
 (注)六○年代全体を通じて、一方における指導勢力の右傾化に抗し、他方における大衆の急進化のなかに立とうとした社青同の前に立ちふさがったのは、社会党=社会民主主義の厚い壁であった。社青同の戦闘的部分は、はげしく、幾度もこの壁に突進した。あるものはそこではね返されて後退し、またあるものはついにそれを突き破った。はね返されたもの達のエネルギーは使い果されており、突き破ることに成功したもの達にとっては、すでに自らが社青同であることが無意味になっていた。こうして、一〇年の分派闘争の期間が終ったとき、社青同は、新しい急進的な青年運動のために道を掃き清めるという本質的な役割をも終えたのである。六〇年代の戦闘的青年の政治組織であった社青同は、このようにして死んだ。

 残されたものは、日本社会党の忠実な息子である。そしてまさにその理由によって、彼らは戦闘的青年の組織たる資格を自ら棄てたのである。彼らはいわば社青同結成以前の水準に逆もどりしたのだ。すなわち、社会党青年部の時代にである。
 もはや青年の戦闘性と反逆の情熱を抑圧し、説教する役割しか果さなくなってしまったこの組織は、新しい別の“社青同”である。六〇年代を通じて自己の限界を使い果してしまった戦闘的な社青同のしかばねの上に、もうひとつの社青同が、社会党そのものによって押しつけられたのである。これが今日の社青同の本質である。したがって彼らは、彼らの新しい役割にふさわしく綱領・規約を書きかえ、新しい運動路線を定めなければならない。われわれは次に、その検討にうつろう。


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる