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 社民に縛りつける一本支持論

 いまや、労働者人民、なかでもその最先頭で闘う戦闘的労働者は、完全に社会党に見切りをつけ、何の幻想も持っていない。協会向坂派ですらその冷厳たる事実を認め、次のように嘆く。
 「社青同の同盟員とか、これから活動家になろうとする人は、やはりここらへん(「社会党を革命政党に強化することが可能だ」とする彼らのテーゼ、筆者)の動揺がたえず生まれてくる」(註28)。
 「社会主義協会員にオルグする場合も、まず社会党員になってから、ということを強調しすぎるのは少し視野がせまいと思う。党にははいりたいが、あんなダラ幹どもが支配しているところはイヤだという人はとうぜんありうる」(註29)。
 いまの戦闘的労働者の感性は、“社会党が革命党になるはずがない”“あんな党はイヤだ”という水準に到達している。この労働者の当然ともいえる健康な感性を殺して、無理やり社会党の枠内に労働者とその闘争をくくりつけようとするのが、協会向坂流の「社会党一本支持」の強制である。
 周知のように、終戦直後の一時期、日本階級闘争の主流は日本共産党であった。共産党は「占領軍は解放軍である」とする度しがたいまでのテーゼにしたがい、アメリカ帝国主義の軍事的・政治的力に依拠しながら、日本の反封建・民主化路線を進めようとした。彼らは、労働者階級にアメリカ帝国主義との闘争を放棄させ政治的武装解除を強制した。したがって、アメリカ帝国主義が一転して日本共産党と労働運動壊滅に向うやいなや、共産党は敗走し、彼ら指導下の産別会議も極度の混乱と自壊をひきおこしたのも当然であった。産別会議を駆逐し、反共・親帝国主義労働運動として登場したのが総評であり、それを推進したのが反共民主化同盟(=民同)であった。アメリカ占領軍と日本ブルジョアの意を体して、共産党からの防波堤としてとりきめられた歯どめが総評の「社会党一本支持」である(一九五〇年七月)。以後、今日にいたるまで社会党と総評民同との癒着関係が続いている。だが今や、社会党の無能と裏切りは白日の下に明らかになり、総評組合員の社会党一本支持への憤満は極度に高まっている。
 この社会党のたそがれ、と労働者大衆の社会党からの離反をおしとどめようとする最後のあがきが協会向坂派の「社会党一本支持論」であり、それは徹頭徹尾、総評民同の官僚的統制を美化し、防衛する反動的理論である、かつて、六〇年代、社会党の日常活動の不足を憂え、総評の機関決定に依存することをやめ、党が自立するために、「一本支持論」をやめようという議論が社会党内部からすら出されたことがあり、民同右派と社会党旧江田派は社会党が国民政党に脱皮するために「一本支持」廃棄を叫んだことがある。これらの議論は、闘争全体が平和主義の水準にあったころの“社会党の余裕”を示すものであった。ところが、“社会党のたそがれ”は、そのささやかな余力を奪い去り、戦闘的労働者の社共からの離反、人民戦線派内部での共産党の比重の増大は明らかになった。いまでは、社会党=民同内に存在していた「一本支持」廃棄論はすっかり姿を消し、協会向坂派の反動文書「労働組合はなぜ社会主義政党を支持するか」が対共産党の理論武装の種として、左右を問わず、社会党=民同の大ボス小ボスどもに競って読まれている。
 協会向坂派が、社会党の危機にあわてふためく社会党内外の社民官僚たちに与える「一本支持」の論拠は何か。第一はすでにわれわれが検討した「社会党こそが日本に社会主義を実現させる唯一つの党」であるというデマゴギーであるが、これについてはもはやふれる必要はない。その第二は、労働組合が大会で自主的に民主的に社会党支持を決定したのだから組合員は従うべきだ、という開き直りである。
 これまで、民同のダラ幹どもは、@わが労組の方針と社会党のそれが最もよく一致する、A組合員大多数が社会党を支持している、をあげてきた。この二点は現在すでに崩壊してしまっている。組合の路線と社会党の路線が一致しているのではない。一致しているのは民同ダラ幹の利害と社会党の利害が一致しているのであり、社会党=民同の統制と支配に、下部の労働者大衆は批判と離反をくりひろげているのが現実である。およそ金大中事件で「主権侵害論」をかかげ、東京の解放行政の「窓口一本化」を解体するために、陰険な策動をした社会党の路線と、ますます戦闘的労働組合の路線が一致しなくなるのは当然ではないか。「労働者の大多数が社会党支持」も現実においてすでに崩壊してしまった。
 残されたのは「組合が決定して何が悪い」の開き直りだけである。彼らは、きまって、第二インターのシュトゥットガルト大会決議の「党と組合の緊密な関係の確立」を金科玉条のようにとりあげ、共産党の「特定政党支持は憲法違反、思想・信条の侵害」の主張に対しては、団結権は思想、信条の自由という市民的権利に優越するという。
 「どのような政治活動をおこない、どの政党を支持するか、またはしないかは、労働組合において組合民主主義の原則にしたがい階級的見地にたって決定されるべき政策課題である」「憲法は思想・信条の自由を保障すると同時に団結権を保証している。団結権が大衆を組織し団結の集団的威力をしめすことをめざす権利である以上、ぱあいによって労働者個人の思想などについて団結の必要上譲歩を求めることはありうる」(註30)
 この議論は、ブルジョア法体系に拝跪してしまった共産党への反論としては有効かもしれない(それとて、社会党の衰退が冷厳たる事実となった今、さほど迫力があるとも思えないが)。だが、革命的・戦闘的労働者には全く無力であり、説得力をもたない。なぜなら、われわれ共産主義者も労働組合が政党を支持することは至極当然であると考えるし、むしろ、革命的党を支持しない労働組合の闘争は敗北するとすら確信しているからである。
 協会向坂派とわれわれの対立は、ここから先に生ずる。
 第一に、協会向坂派は「労働組合の政党からの独立」なるものについて半ば容認し、利用しているが、われわれはこれは誤りだと主張する。事実、協会向坂派は、共産党とことをかまえるにあたって民同の「組合の独立」論も援軍にくりだし、民同とブロックを組んでいる。彼らの雑誌「社会主義」は、民同の反対派排除の論理「労働組合の独立」に紙面を提供しごれに迎合している。某単産書記長は、組合の民主主義と団結のための基本的な原則を次のように言う。「その第一は、労働組合の独立性と自主性の問題であります。すでに国際的常識でもありますが、『国家からの独立』、『資本からの独立』、『政党からの独立』など、外部からの支配介入が排除されなければなりません」(註31)。
 大阪でも昨七四年、全電通、動力車、全国金属など六単産を中心に共産党の支配介入に反対する共闘組織が結成された。だが共産主義者は、これに組しない。たしかに労働組合は国家と資本から独立しなければならない。それはブルジョア国家と資本に対して不断に徹底的に闘争することによってかちとられるものであり、国家と資本に対して最も有効に闘争するためには、労働組合は最も革命的な党あるいは潮流を支持し、これとともに闘わなければならない。したがって、「政党からの独立」を叫ぶ労働組合は、国家と資本への癒着と一体化を進めることにならざるをえない。労働組合の政治的中立、「政党からの独立」なるものは歴史上存在したためしはない。親帝国主義労働運動はブルジョア政党を支持し(アメリカ)、改良主義的運動しか行わない組合は改良主義の党に自己の代弁者を見つけ、スターリニスト的歪曲の運動を進める組合は、スターリニストの党を支持し、革命的労働運動構築のため奮闘する組合は革命党とともに前進する。
 この点で、協会向坂派は最も卑劣な態度をとる。彼らは「社会党は決して、労働組合に介入したり、混乱をひきおこしたりしないから、社会党を支持してくれ」と「組合の独立」論に屈服し、また一方では、社会党にヤクザの地廻りの役割を押しつけて、労働組合を安心させようとする。「共産組などの言いなりになればどれだけ絞りとられるかわからないよ。その点、社会組は安全だ。うちの組の縄張に入れば、うちが責任もって、他所の組には指一本出させるもんじゃない」と。
 われわれは、労働組合の闘争の勝利のためにこそ、革命党、革命潮流は組合に介入しなければならないと主張する。革命党、革命潮流を支持することなしには、諸君たち労働組合の真の勝利はありえない、革命党を支持せよ、と公然と呼びかける。諸君たちの闘争の水準、団結の水準からして、いま直ちにわが第四インターナショナルを支持することにためらいを見せるなら、諸君たちは、労働者政党を支持せよ、自民党などブルジョア政党は絶体に支持するな、と呼びかける。
 第二に、協会向坂派は、「民主主義的手続きによる決定」なるものの内実について、完全に知らぬ顔の半兵衛をきめこみ、反対派への弾圧の急先鋒の役割を果している。組合機関の決定だから民主的だという彼らの論理はデマゴギーも甚しい。帝国主義没落期における労働組合の「国家権力への接近と、国家権力とのあいたずさえて進行する肥大化」「労働組合機構の大衆からの大きな独立性」(トロツキー)という一般的特徴に故意に気づかぬふりをして、この官僚体制との闘争を呼びかけないところに彼ら特有のずるさがある。
 二重、三重にも安全弁をしつらえて、官僚の意見を押しつける役割だけを確実に果す「機関決定」の意味を、民同労働運動にどっぷりとひたり、寄生する協会向坂派が最もよく知っているが、彼らはこれを隠す。「社会党一本支持」は組合民主主義に名を借りた官僚的統制である。しかも、一度社会党支持を決定するや否や、他派の政治的宣伝・煽動、組織化の権利を全面的に否定することにプロレタリア民主主義の否定の典型を見ることができる。組合員の大多数が民主的討論を経て社会党を支持したはずの労組の職場集会で、社会党の来賓が野次り倒されるというのは、今ではさして珍しいことではない。職場の組合員は、ちっとも、社会党を信頼などしていないのが通例であるにもかかわらず、分会大会、支部大会、本部大会、単産大会と上部に上るにしたがって、組合員の感性と感情をすっかり削りすてて、「社会党一本支持」が決定されていく。この組合の官僚体制と官僚的運営にこそ問題がある。にもかかわらず、協会向坂派は、プロレタリア民主主義否定の上にのみ成立した「一本支持」を民主的と言い抜けようとしている。反対派排除を肯定する彼らのセクト主義にいたっては論外であろう。
 われわれ共産主義者は、「社会党一本支持」の官僚制を批判し、プロレタリア民主主義にもとづいて、支持政党・党派を決定せよと主張する。また、たとえ「社会党一本支持」下の労働組合に対しても、共産主義の影響下に労働組合を獲得しようとして闘う権利を放棄しはしない。「一本支持」組合内において、国家と資本に反対して闘う全ての政党、党派、グループの政治活動の自由を要求し、官僚と闘う。
 第三に、協会向坂派は「社会党一本支持」が労働組合員大衆の政治的活性化を促したのではなく、政治的覚醒をおしとどめてきたという歴史的罪悪について、全く正反対の評価を下し、大衆に語る。白を黒といいくるめる詐欺師の手口とはまさにこれである。
 たしかに労働組合と労働組合員は労働者政党を必要とする。労働者大衆の政治への覚醒の初歩的表現として、さしあたって目の前の政党・社会党を選ぶことは充分にありうる。労働者に期待され、選ばれた社会党は、労働者に冷水を浴びせてきた。組合ぐるみの支持をとりつけた社会党は、その内部に踏みこみ職場に党を建設する事業を全面的にサボタージュしてきた。また、民同幹部も組合に「社会党支持」の外被をはりめぐらせることによって、内部へのさまざまな政治的傾向の受入を阻止する防波堤として利用してきた。社会党支持の強固な組合ほど、内部が政治的にがらん洞であり、官僚的統制だけが巾をきかせているという事実をわれわれは知っている。反戦青年委員会の闘争は、職場の政治的がらん洞の現実を告発し、職場を政治で組織する闘争でもあった。これに対して、民同幹部と協会向坂派の小官僚どもは、「わが組合の政治活動は、社会党に協力することが中心だ」「お前たちは、職場を混乱させるな」「職場を混乱させる職場反戦は認められない。団体加盟としての反戦青年委運動を」と統制と抑圧の姿勢をあらわにした。
 これが、「社会党一本支持」の政治的意味を端的に示している。一本支持は、職場内の政治的討論を封殺し、労働者の政治的活性化を妨げ、労働者の政治闘争への決起をおしとどめてきた。われわれは、この民同労働運動の政治的風化の現実をのりこえるためにも、「社会党一本支持」に反対し、反資本・反権力のあらゆる政党、党派が自由に大衆の前で自己の主張を明らかにし、職場に政治的緊張関係をつくりだし、大衆目らが政治的総路線と方針を選択できるプロレタリア民主主義をうちたてることを闘争の課題としなければならない。この点でも、われわれ共産主義者と協会向坂派は正反対の立場に立つ。
 以上のように、協会向坂派の「社会党一本支持」論は、二重、三重の誤りを犯すものであり、労働者大衆と労働組会の政治的決起をおしとどめる反動的なものである。このように主張すれば、協会向坂派は「君たちは、組会の自主的な決定を認めないのか」と反論するであろう。
 共産主義者は答える。
 「われわれが裏切者だとみなしている改良主義者たちを諸君は今日なお信用している(日本ではすでに大半が見放しているが……筆者)。われわれは自分自身の見解を力づくで諸君に押しつけることはできないし、そうしたいとも思わない。われわれは諸君を納得させたい。ともに闘い、この闘争の方法、結果をともに検討しようではないか」(註32)。
 「彼ら(共産主義者)は労働組合の独立した発展をいかようにも妨げるようなことはせず、労働組合の闘争を全力をあげて支持する。だが同時に、共産党は、労働組合問題をふくむ労働者階級運動の全問題にかんして意見を表明し、労働組合の戦術を批判し、労働組合に具体的提案―これを受け入れるか否かは労働組合の側の自由である―をおこなう権利を保持している。この党は、労働者階級の信頼、とりわけ労働組合に組織された部分の信頼をかちとるために闘う」(註33)。

 闘争力を奪う「学習」の強調

 さて、この章の最後に協会向坂派が「学習」に与えている宗教的神秘性のベールをはぎとる作業にとりかからなければならない。
 わが師・向坂先生は、「社会主義者の魂」をことさらに強調したことでつとに知られている。清水慎三氏に言わせれば、わが向坂先生は、社会党の頭上に五年周期で全く同じ原理と精神をあたかも禅師さながら一喝してきたという。清水氏は「たましいの強調」を次のように皮肉に評価する。
 「組織論なき原理論(協会向坂派の場合は賃労働と資本の非和解的対立、社会主義革命の必然性、ただそれだけ……筆者)はとかく『天上の福音』に終る。天上の福音には信徒が集って他宗を排撃する。それが学理であればそこにサークルが発生する。そうした集団は不幸なことにサークルに自己完結する可能性が多い」(註34)。
 たましいの伝導者は、現世の修羅場で闘うことを世人に放棄させ、観念の世界・天国へ逃げこむことを説く。なるほど、協会向坂派は展開力を失なっている点で、特徴的な集団である。革命の必要と必然を説く彼らが、党建設論をもたず、革命へ向う戦略戦術をもたずノッペラボーに統一戦線の強化と労働組合の強化を主張する、あるいは、彼らの十八番の反合闘争でも勝利の展望をさししめすことなく抵抗と団結だけを強調する。現世の闘争に無能なものは、天国に救いを求めるしかない。「社会主義のたましい」の世界に。社会党内の党派闘争で、彼らは革命に勝利する路線の方針を武器に闘ったのではなく、汚れた党の現実たる議員の腐敗、民同派幹部の堕落を追及し、もっぱら、言葉の上での「マルクス主義への忠誠」、「社会主義者のたましい」を鼓吹したのであった。彼らが強調する「学習」も、たましいを定着させるためにくりかえしバイブルを読む作業を意味する。これは、革命党派として全く無能であることを告白したものとして受けとめなければならない。
 だが、彼らの「たましい」の鼓吹と学習の強調にたいする清水氏の評価は、事態を半分指摘したものにすぎず、協会向坂派に甘すぎる点数を献上したものといわなければなるまい。彼らの「学習」の強調は革命党派として人畜無害の存在だという証明であるだけでなく、他の役割をも担っている。彼らの口から、「学習」の意味を直接に聞いてみよう。
 まず、国際共産主義運動、スターリニズムの評価について
 「チェコ事件になぜワルシャワ同盟軍がはいったかというとそれにはその理由がある。その理由を説明する資料はあったはずだ。総評も社会党も共産党もそういうことを勉強していなかったことが、チェコ問題を混乱させた原因だ」(註35)。「社会主義についての確信がないとブルジョア新聞に動揺させられることになる。チェコ問題にしても、社会主義者としての確信をもって話をすれば、労働者にわかってもらえる。自分が勉強しないで、他人にわからせようとしても、どだいむりだ。社会主義が正しいという確信をもつためのふだんの学習がたりないことが大きな問題だ」 (註36)。
 中国や、スターリニズムの評価については「具体的な資料がたりない」「われわれは批判するだけの正確な知識をあたえられていない」と言い逃れをしたことはすでに指摘した。
 具体的闘争との関連では、
 「われわれは、二十何年、先生(向坂氏…筆者)のおっしゃる高級な定石はわからなかったが、とにかく先生方からなにか定石みたいなものをうろ覚えに学んだからこそ、負けても勝っても一貫した姿勢をとってこれた」(註37)。「社青同がもっと理論的な学習をつよめねばならないのはたしかだ。長期抵抗・大衆路線というばあいに、長期抵抗ということは社会主義の理論をぬきにしては考えられない」(註38)。「社青同の学習の浅さをもあきらかにした。……学習活動の積み重ねがなければ、できないことである」 (註39)。「必要なことは、資本主義的合理化のもつ本質を知る学習を、たえず組織することである」 (註40)。
 彼らが「学習」を強調するもう一つの意図は明らかであろう。いみじくも自己総括した「社会主義協会は、創立以来、つねに、極左翼とたたかい……」の文章と重ね合せてみると、より鮮明になる。
 つまりこうだ。チェコ人民がプロレタリア民主主義復権のため決起し、日本の労働者人民の圧倒的部分がこの決起に快哉を叫び、ソ連の弾圧に抗議した時、「諸君たちは、学習が足りない」と言い、社青同の若い活動家が社会党への不信を表明するや「学習不足」を指摘し、反合理化闘争で大衆が決起し、勝利するための闘争方針を求めているその時に、「階級闘争は妥協の連続だ、学習して合理化の本質を知ろう」と闘争放棄を呼びかける。彼らにとっての「学習」は、闘わないための語彙の収集活動であり、大衆が決起しラディカルな闘争へと進撃を始めたとき、これに冷水をあびせ、社会党=民同の枠内にくくりつけるためのものであり、大衆の感性を逆撫でして大衆自身が政治的本質を掴みとろうとする努力をふみにじることを意味する。
 結局のところ、労働者人民の闘争に対置され、闘争をおしとどめ、労働者人民を武装解除し、社会民主主義の汚水の中に引き入れるというのが「たましい」「学習」のもう一つの反動的役割である。
 協会向坂派の「闘わないための学習」は、日本共産党の「ストをやらないための労働運動」と好一対をなすものであり、ゲーテの「理論は灰色、現実は緑」の言は、まさに協会向坂派への献辞としてふさわしいものであろう。
 これほど「学習」好きの集団が、一九七四年度の学習必読文献としてレーニン「国家と革命」たった一冊を指定したということ、それも共産党への対抗措置としてやむにやまれずなされた「第七回全国大会」決定であったこと、を附記しておくことも、彼らの「学習」水準を知る上で無駄なことではあるまい。

 註1 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一六九。
 註2 山崎八郎「ソルジェニーツィンの作品をよんで」―「社会主義」七四年五月号P九六〜七。
 註3 同上P九七。
 註4 同上P一〇三。
 註5 同上P一〇三。
 註6 同上P一〇二。
 註7 同上P一〇三。
 註8 同上P一〇三。
 註9 「協会テーゼ」学習のために〜「協会テーゼ」P一六八。
 註10 同上P一七一、二。
 註11 「国民統一の基本綱領とこんごの統一戦線運動」―「社会主義」七四年四月号P四五。
 註12 同上P三七。
 註13 同上P三八。
 註14 同上P四四。
 註15 佐藤保「平和革命と労働者階級LP三四四。
 註16 「協会テーゼ」P八五。
 註18 労大新書「体制的合理化」著者のことば。
 註19 佐藤保「平和革命と労働者階級」P三一一。
 註20 レーニン「何をなすべきか」―国民文庫P九四。
 註21 「過渡的綱領」―トロツキー=労働組合論P一八九。
 註22 同上P一八九〜一九〇。
 註23 トロツキー「わがサンディカリスト同志との討論」―同上P二八。
 註24 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P二三七。
 註25 レーニン「何をなすべきか」―国民文庫P八九。
 註26 同上P九〇〜一。
 註27 「体制的合理化」P一二二。
 註28 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P二四九。
 註29 同上P二五二。
 註30 福田徹「労働運動と裁判闘争」―「社会主義」七四年六月号P四三〜四。
 註31 広瀬謹一郎「組合民主主義は団結のかなめ」―同上P五八。
 註32 トロツキー「労働組合統一の問題」―トロツキー=労働組合論P一一〇。
 註33 トロツキー「わがサンディカリスト同志との討論」―同上P二八。
 註34 清水慎三「日本の社会民主主義」P三三。
 註35 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一五八。
 註36 同上P一七〇。
 註37 同上P二三五。
 註38 同上P二六二。
 註39 五十嵐秀雄「さらに躍進への展望しめした社青同大会」―「社会主義」七四年二月号P九九。
 註40 「体制的合理化」P一二七。

おわりに――マルクス主義と無縁のもの

 かなりわずらわしい思いをしながら協会向坂派の諸論文を忠実に追ってきたが、率直のところ面白い作業ではなかった。なぜだろうか、と自問自答すると、これらの諸論文が彼らが忠実だと自称するマルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないしろものであることが、この作業の面白みを奪い去ってしまったのだ、ということに行きついた。どんな文献でも程度の差こそあれ、何か教えられるところがあるものだが、協会向坂派のそれからは学ぶべきものが何もないということは驚くべきことであった。
 すでに検討したことで明らかなように協会向坂派は、どんなにマルクスやレーニンの言葉で自己を衒学的に飾ろうとも、本質的には社会民主主義、日和見主義の集団にすぎない。
 その協会向坂派と日本共産党が激しい論争を展開している。協会向坂派に言わせると論争点は、@国際情勢の評価(ソ連派か自主独立か……筆者、以下同じ)、A打倒すべき敵(日本ブルジョアジーか米日反動か)、B革命の移行形態(平和的社会主義革命か二段階革命か)、C統一戦線(反独占統一戦線か反安保統一戦線か)、D労働組合運動(体制的合理化反対か悪い合理化反対か、社会党一本支持か)、E自治体闘争(地方分権主義反対か地方自治防衛か)、Fプロレタリア国際主義(ソ連共産党全面支持か自主独立か)、だということになっている。この共産党との論争を通じて、協会向坂派の性格が浮かび上ってくる。日本共産党は党である。しかも人民戦線路線という体系化された政策を包括的に持つ党である。労働者階級にとどまらず(ますます労働者性を希薄にして)ノッペラボーの国民に基盤を置く党である。これに比してわが協会向坂派は社民の一分派にすぎず、党ではない。民同労働運動を即時的に反映し、労働者に基礎を置く労働組合主義、経済主義の一分派であり、全面的、体系化された路線、政策を持ち合せていない狭い労働組合主義、経済主義の偏向に特徴づけられた一分派にすぎない。全国住民闘争や部落解放闘争、南部朝鮮人民連帯闘争について一言も発言できない一分派にすぎない。瓦解する社会党―民同体制を、非力さをかえりみず、労働組合主義的に、歴史に逆行してまで支えぬく役割を必死に演じるピエロの集団である。その姿には、歴史から置き去りにされる者特有の哀しみがふっとよぎる。
 結局のところ協会向坂派とは何だ、歪曲した「反合理化闘争だけ論」にしがみつく社民の一分派が、その正体である。

あとがき

 本書は労働運動や学生運動の活動家が日常活動のうえに役立ち実践と結びつけて党派論争ができるための参考として編集された。三名の執筆者が分担したためにそれぞれの内容上の統一性と整合性に欠けているのではないか、評価についても一致していないのではないか、という危惧も感じている。執筆前に概略の打合せをしてあとはかなり自由にそれぞれの執筆者に任せたので、その長所と短所が表現されていよう。
 長所は各執筆者の個性と独自の見解が伸び伸びと表われる点であろう。しかしこのことは一歩誤ると誤解と独断に陥らぬとも限らない。そういう点はどしどしと批判を寄せてほしい。
 社会党という政治潮流は理論的に批判しようとすると実にしずらいのである。この潮流は政治主体としてキチンとした実体がないようなのである。空気のようであり、煙のようであり、風船のようであり、チューインガムのようであり、軟体動物のようであり……何やらよくわからぬ存在である。しかし厳然としてこの政治潮流は存在している。しかも労働者階級の政治的多数派であることは否定できないのである。こういう党をとりあげるということは結局のところ政治情勢や階級闘争の総体のなかにこの党を位置づけて、この位置づけの意味を把握するという方法しかないのである。
 理論的批判に耐え得るのは唯一労農派マルクス主義(=社会主義協会)しかない。しかもこの理論が階級闘争に機能するのはあくまで社会党という装置を媒介にしてである。ここに協会派の協会派たる本質があるのである。
 本書の三つの論文はそれぞれ試論の域をでないものであるが、このような論文が少なく、かつまがりなりにも社会党・社青同・協会派を総括的に把握しようと試みたものであり、必ずや実践上の論争の糧として役立てられるであろうと信ずるものである。


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