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国際革命文庫 13

国際革命文庫編集委員会 訳

2c

電子化:TAMO2

「マルクス経済学入門」
エルネスト・マンデル 著


第二章 資本と資本主義

   (7) 平均利潤率の低下傾向

 われわれはすでに、各工場で労働者によって生み出された剰余価値が製品の中に「閉じ込められた」ままにとどまっており、資本家であるこの工場の所有者によってこの剰余価値が実現されるかどうかの問題は市場の条件、すなわち、この剰余価値のすべてが実現されることを可能にするある価格でその製品を売ることができるかどうかの可能性によって決定されるということを見てきた。すでに展開した価値法則を適用することによって、次のような法則を設定することができる。乎均的生産性の水準で生産している全企業はおおざっぱにいえは労働者によって作り出された剰余価値を実現するであろう。つまり、これらの製品の価値と等しい価格でその製品を売ることになるであろう。
 しかし、別の二つのタイプの企業にはこれは当てはまらない。すなわち、平均的生産性の水準以下で操業しているものと、その水準以上で操業しているものがこれにあてはまる。
 平均的生産性以下で操業している企業とは何であるのか? これはわれわれが以前にのべたなまけ者の靴職人の場合をを一般化したものにすぎないのである。たとえば、それは鉄鋼生産の全国平均がひとりの人間の二百万時間で五十万トンの鉄鋼が生産されているときに、二百三十万時間や二百五十万時間、あるいは三百万時間かかる鉄鋼所の場合である。したがって、これは社会的な労働時間を浪費しているのである。それは、この国の全企業の平均利潤率以下の利潤で操業していることになるのである。
 しかし、社会で生産された剰余価値の全体量は、一定のきまった量であり、究極的には生産に従事する全労働者によって提供された労働時間の全体量にかかっているのである。このことは次のことを意味している。平均的生産性以下で操業し、そのために社会的労働時間を浪費し、その結果、その企業の労働者によって生み出された剰余価値の一部が実現されない一定数の企業が存在するとすれば、平均生産性以上の水準で操業する企業が手にすることができる剰余価値の剰余分が存在することになる。社会的労働時間を節約することによって、これらの企業は社会によって報酬を与えられているのである。
 以上の理論的解明は資本主義社会の価格運動を決定するメカニズム全般を指し示すものである。このメカニズムは実際にはどのように機能しているのだろうか?
 機関車の平均販売価格が百万ドルであるとしよう。それでは、平均的労働生産性以下で操業する企業と、それ以上で操業する企業との間の相違は何であろうか? 前者の企業が一合の機関車を生産するのに、九十万ドルを費やしたとしよう。そうすればその利潤は一〇万ドルとなるだろう。他方、労働生産性の平均以上で生産する企業が七十五万トルを費やすとしよう。そうすれば二十五万ドルの利潤になり、現下の生産においては三三%の利潤となる。 他方、平均利潤率が十八%で、平均的労働生産性で操業する企業は八十五万ドルのコストで十五万ドルの利潤を実現し利潤は十八%になる。(註1)
 いいかえれば、資本主義的競争は技術的に先進的な企業を有利にする。これらの企業は、平均利潤以上の超過利潤を実現するのである。平均利潤とは基本的には価値とまったく同様に抽象的概念である。それは、種々の部門あるいは企業の現実の利潤率がそれを軸にして変動している平均なのである。資本は超過利潤が存在する部門へと流入し、利潤が平均以下の部門からは流出する。資本の一部門から他部門へのこのような干満によって、絶対的で、機械的な形でそれに到達するわけではないが、利潤はこの平均に接近していく傾向をもつのである。
 したがって、利潤率の均等化は以上のような形で実現されるのである。この抽象的な平均利潤率を決定するのは非常に簡単である。ある年の、ある国の全労働者によって生み出された剰余価値の全体量を取り、その国で投下された資本の全体量に対するその割合を出せばよいのである。
 利潤率の公式はどうなるか? それは剰余価値と全資本との間の比率である。したがって、それはS/(C+V)となる。なお、もうひとつ別の公式、S/Vが検討されねばならない。これは剰余価値率であり、もっとわかりやすくいえば労働者階級に対する搾取率である。それは新たに生み出された価値が労働者と資本家との間に分割されるやり方を具体的に明らかにするのである。たとえば、もしS/Vが百パーセントであれば、これはあらたに生産された価値がふたつに同等に分割され、一方は賃金の形態で労働者の手もとに入り、他方は利潤・利子・配当という形態をとってブルジョア階級の手に渡ることを意味するのである。
 労働者階級にたいする搾取率が百パーセントのときには、八時間労働日は二つの等しい量にわけられる。最初の四時間労働のなかでは労働者はその賃金に相当する価値を生産する。残りの四時間のなかで、かれらは無償の労働、つまり資本家によっては支払われることがなく、その労働によって生産された生産物が資本家によって私有化されるような労働を提供していることになる。
 もし、最初にS/(C+V)の比率が上昇したとしても資本の有機的構成も同様に上昇すれば、このS/(C+V)という利潤率は、減少していく傾向をもつだろう。なぜなら、SはただVからのみ生み出されるのであって、Cから生み出されるのではないからである。しかし、資本の有機的構成の上昇が作り出すこの結果を中和するひとつの要素が存在する。それこそが剰余価値率の上昇である。
 もしVにたいするS、つまり剰余価値率が増大すれば、S/(C+V)の比率において分子と分母が共に上昇する。この場合に、この二つ(剰余価値率と資本の有機的構成)がある一定の割合で上昇するという条件下では、利潤率が依然として同じままにとどまるということはありえるのである。
 いいかえれば、剰余価値率の増大は、資本の有機的構成の上昇が生み出す作用を中和しうるということである。C十V十Sの生産価値が、一〇〇C+一〇〇V+一〇〇S(TAMO2註:一〇〇Cは、一〇〇掛けるCのことではなく、C=一〇〇、ということ)から、二〇〇C+一〇〇V+一〇〇Sになったと仮定しよう。したがって資本の有機的構成は五〇%から六六%になり、利潤率は五〇%から三三%に低下する。しかし、同時に剰余価値が、一〇〇から一五〇に増大したとすれば、つまり剰余価値率が一〇〇から一五〇%になったとすれば、利潤率は150/300になり、依然として五〇%のままなのである。剰余価値率の上昇は資本の有機的構成の上昇によってもたらされる作用を中和するのである。
 これらの二つの運動はたがいに中和しあうのに必要な割合で厳密に進行していくのは可能であろうか? われわれはこの点において資本主義体制の根本的弱点、そのアキレス腱に到達する。これら二つの運動は長期的には均衡をもって発展することは不可能なのである。資本の有機的構成の上昇においては制限はない。Vにはオートメーションが全面的な段階に到達したと仮定すれば、理論的にはゼロという限界まで到達しうるのである。しかし、S/Vもまたいかなる制限もなしに無限に増大するであろうか? そうではない。剰余価値を生み出すためには、働く労働者が必要なのであり、労働者が自身の賃金を再生産する労働日の割合は、けっしてゼロに低下することはありえないのである。それは八時間から七時間に、七時間から六時間に、六時間から五時間に、五時間から四時間に、四時間から三時間に、三時間から二時間に、二時間から一時間に、一時間から五十分に減少することは起りうることである。五十分で自己の全賃金に相当する価値を労働者が生み出すほどのすはらしい生産性はすでに可能となっているだろう。たとしても、ゼロ分やゼロ秒で、自己の賃金に相当する価値を再生産することはけっしてできないのである。資本家の搾取によってもけっしてとりさることのできない残余の部分が依然として存在することになるのである。
 以上のことは平均利潤率の低下が、長期的には不可避であることを意味するし、わたくし自身は一部のマルクス主義者の考えとは反対に、この低下傾向は統計によっても示すことができる。つまりこんにちの資本主義大国の平均利潤率は、五十年あるいは一〇〇年さらには一五〇年前よりはずっと低いと確信している。
 もちろん、短期的な検討をおこなえば、増減の変動が起っている。この変動は多くの要因によっておこされる(われわれはそれらについて新資本主義をあつかうときに論議することにしよう)。しかし、長期的にみれはこの運動は利子率についても、利潤率についてもまったく明白である。資本主義のあらゆる発展傾向のなかでも、これは資本主義自身の理論家でさえ知りうるほどもっとも明瞭なものであったと指滴することができよう。リカードがそのことについて述べて心る。ジョン・スチュアート・ミルもそれを強調している。ケインズはこれを強く意識していた。一九世紀末のイギリスには、実際にひろく流布されていた次のような格言があった。「資本主義というものは、平均利子率が二%にまで低下すること以外のどんなことにも耐えることができる。なぜなら、これは投資意欲を押し殺してしまうからである。」
 この格言はあきらかにその因果関係の解明に関してある種の誤りをふくんでいる。利潤率のパーセンテージの計算は、実質価値で行われるが、それでも結局それは資本家にとってはやはり相対的なものである。かれにとって関心があるのは、自己の資本と比較した場合のかれが新たに獲得したもののパーセンテージだけではなく、かれが新たに獲得した全体の額そのものなのである。したがって、もしこの二%が一〇〇万ドルの二%ではなく、一億ドルの二%であるとすれば、それは年に二百万ドルを意味することになる。この場合にはかれが年にわずか二百万ドルの余りうれしくない利潤を受け取るよりもむしろ自己の資本を眠らせておいた方がよい、といってしまうまえに、長い時間考えこまざるをえないであろう。
 こうして実際には、ある産業部門において、利潤率と利子率の低下の結果、投資活動が全面的に停止されるのではなく、むしろ利潤率の低下につれて投資活動が徐々に低下していく、という事態をわれわれは眼にすることができるのである。他方、ある産業部門において、あるいはある一定の期間に、より急速な経済の拡大や利潤率の上昇傾向がおこり、生産活動が再開され、それがスピードアップされた場合には、この運動は自動的に発展していくように見え、この拡大もまたこういった傾向が再度逆転するときまでは、無限におこなわれていくように見えるのである。
  註1 実際には資本家は現下の生産にもとづいてその利潤率を計算するのではなく、投下資本ベースで計算している。複雑な計算を避けるために、われわれは全資本が一合の機関車の生産の中で吸収されてしまうと想定することができる。

   (8) 資本主義体制の根本的矛盾と周期的過剰生産恐慌

 資本主義は無限にその生産を拡大し、その活動舞台を世界中に拡大し、全人類を潜在的な顧客とみなしていく傾向をもっている。(つけくわえるならば、この点において、マルクスもすでに述べており、ここで強調しておかなければならない、ひとつのかなり大きな矛盾が存在している。おのおのの資本家は常に他の資本家がその労働者にたいして賃上げを実施することを好むのである。なぜならば、それらの労働者の賃金はこの資本家の商品に対する購買力となるからである。しかし、この資本家は自己の傘下にある労働者の賃上げについては、これがあきらかに自身の利潤の低下となるので、決して許すことはできないのである)
 したがって、全世界は種々の相異なる諸部門の極度に不安定な相互依存関係で結びあわされた単一の経済単位になることによって、非常に特殊な形で、体系的に組織化されるのである。周知のように、このような相互依存関係を説明するのに使われてきたことわざがある。「もしニューヨークの株式市場でだれかがくしゃみをすれば、一万人の農民がマラャで破産する。」
 資本主義は全人類に対して所得の異常なまでの相互依存と嗜好の画一化とをもたらす。人類は資本主義以前の社会では、一地域のせまい自然の可能性の枠に制限されていたが、いまや人間の富の大きな可能性を一挙に意識するようになった。中世において、パイナップルは、単にある特定の地方に限定されて栽培されているにすぎず、ヨーロッパでは食べられてはいなかったが、今日では、世界のどこに栽培されている果物でもわれわれは食べるようになっており、第二次世界大戦以前にも食べる習慣がなかった中国やインドからの果物さえ食べ始めているのである。
 こうして生産物相互の間に、人間相互の間に、お互いの結合関係が樹立されているのである。別の言い方で言えば、すべての経済生活の進歩的な社会化が打ち立てられており、それは、単一の組織へと組み立てられているのである。しかし、この相互依存の全運動は、この枠組の中に組み込まれている何十億もの人類の利害とは、その私的利害がますます衝突していく少数の資本家によって、でたらめな形で、彼らの私有財産や私的所有を中心軸として展開されるのである。
 生産のこの進歩的な社会化と、その原動力としてあるいはそれを支えるものとして作用している私的所有との間の矛盾が、最も異常な形で勃発するのは経済恐慌においてである。というのも、資本主義的経済恐慌は、いまだかって経験したこともないような信じられない現象であるからである。それは、あらゆる前資本主義的時代の恐慌のような欠乏によるものではなく、過剰生産恐慌なのである。失業者は、食べるものが少なすぎるからではなく、相対的に食料品の供給が多すぎるから餓死するのである。
 一見、このことは、理解し難いことのように思われる。どうして、食料の過剰、商品の過剰があるから餓死するのであろうか? しかし、資本主義体制のメカニズムは、この逆説に見えるものをわれわれに理解させてくれる。購買者を見い出せない商品は、剰余価値を実現させないばかりか、投下資本の回収すら不可能にするのである。したがって、販売の不振は、事業家に操業の停止を余儀なくさせる。だから、彼らは、労働者を一時解雇せざるをえないのである。そして、この解雇された労働者は、貯えを持たないし、自己の労働力を売っている時だけ生活できるのであるから、失業によって彼らはどん底の貧困状態に陥いる定めになるのである。だから、まさに商品の相対的な豊富さが、販売の不振という結果を生み出すことになるのである。
 周期的経済恐慌を生み出すこの要因は、資本主義体制に固有のものであり、克服不可能なものとして残りつづける。われわれは、この点について、新資本主義体制においても、たとえそれが「景気後退」(リセッション)と呼ばれようと、同様に真実であることを後に見るであろう。恐慌は、この体制の根本矛盾の最も明確な宣言であり、この体制が遅かれ早かれ死滅を運命づけられていることを周期的に思い出させるものである。しかし、それは決して自動的には死滅しはしないのである。その崩壊を現実のものとするためには、それを意識的に促進させることが必要である。これを行うのがわれわれの任務であり、労働者階級の運動の任務なのである。


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