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国際革命文庫 14

織田 進
5

電子化:TAMO2
●参考文献
全国社青同1969〜71
滝口著作集の栞

「三多摩社青同闘争史」
――ひとつの急進的青年運動の総括――

第五章 分  裂

 A 「党」の分裂

 われわれはこれから、三多摩社青同の歴史のなかで、いちばん語りたくない時代に、とりかからなければならない。全国の急進的青年運動の先頭に立ち、単独で国家権力と激突し、また民同型の改良主義労働運動の壁に挑戦した三多摩社青同が、なぜ、どのようにして急激な崩壊をむかえていったのかを、これからのべていかなければならない。運動が高揚期にあるときは隠されている根本的な弱さが、本質的な限界であったのかどうかということは、停滞期にさしかかったときにあきらかにされるものである。ほんとうに力強い運動は、停滞期に表面化する自分の弱さとの格闘を通じ、それをのりこえて飛躍していく。そうした力が育っていない場合には、停滞期の矛盾はしばしば分裂を通じて深刻なものとなり、停滞は衰退から崩壊へみちびかれていくのである。
 赤化方針が発表され、四月ベトナム闘争、五・一八、そしてケミカル闘争へと運動が進むなかで、JR内部の問題意識のズレと対立が大きくなっていった。JR統一後の第二回大会は八月に開かれ、この時から分裂は急激にはじまり、ひろがった。
 しかし、分裂は八月大会で突然にもち上ったものではない。分裂を避け得ないような問題意識の対立はすでにICP第一三回総会(六五年一月)直後から始まっていたのである。
 赤化運動が宣言された時点で、Kは、次の文書を発表した。
 「赤化闘争の組織論
  ・・・新たな大衆路線への復帰としての要求の運動化・・・
・・・・・
 すでに多くのことが、原潜・日韓闘争の積極面については語られている。特に組織の問題としてふりかえるならば、闘争の成果として、活動家層の成長と固定化があげられる。少なくとも二百名を下らない革命的な青年・革命への献身を誓う同盟員が、闘争を通じて成長した。おそらくこのような豊富な活動家を一地区でもつ同盟は、全国的にも少ないだろう。二百名を下らない青年革命家は、三多摩同盟はもちろん、革命的政治運動、労働組合運動、その他の大衆闘争の広汎な発展の基礎として、決して少なすぎる数字ではない。しかもこれらの活動家が社会党系の運動では未曾有の弾圧の嵐の中で成長したことを考えるなら、一層可能性に富んだ部分であると確信できる。
 それにもかかわらず、重大なことは、闘争の消極面である。
 それは、これらの活動家層をもつ三多摩同盟が、大衆から孤立していることなのである。昨年の秋から春にかけてくりかえされている多くの集会、デモで、三多摩のヘルメット部隊はその名を全国にひびかせた。だがそれは、その広汎な大衆への影響力、動員能力にたいする評価ではない。あくまでも、少数の勇敢な街頭での戦闘を通じての評価にすぎない。そして三多摩同盟自身は、うちつづく集会、デモに、大衆とともに闘うのでなく、孤立的な戦闘をくりかえすことによって次第にそのエネルギーを失ない、組織的矛盾を蓄積していったのである。
 それではなぜ、このような現象――『大衆からの孤立』が出てきたのか? このことか反省されねばならない。』
 「われわれの運動の形態は『思想の観念的な伝達』であった。情勢分析を行い政治的課題を明らかにする。そしてこれを直接に言葉で大衆の意識に伝達する。
 しかもこの運動は、大衆の現在の意識、要求から出発する運動によって支えられてはいなかった。大衆自身の生活の中にひそむ、のっぴきならぬ矛盾、したかって広汎に生まれ出る潜在的工ネルキーの爆発の可能性を引き出すたたかいとはならなかった。
 そこから、一定の類型化されたスタイルが生まれてきた。
 たとえば、分室執行部が原潜についての情勢分析を行い、方針(主としてカンパニア)を決定する。次に分室段階の活動者会議でこのことが指導部からさけばれる。第三に支部指導部が同じことを班の中心メンバーにわめく。第四に班の中心メンバーは班の同盟員にこれをわめく。最後に全同盟員が職場の大衆にたいして同様にわめく。下に行く程わめく内容は粗雑になり、荒々しくなり、ヒステリックにさえなる。
 このような一方交通が、〇・〇〇の度にくりかえされていく。職場にあふれる不満、要求の組織化、運動化が逆に下から上へともり上っていく過程はない。すなわち一方交通たる由縁である。
 『思想の伝達』がいけないのではなく、その観念的なとらえ方が誤りなのである。われわれの思想から出発して大衆の説得へと向ういわば下向きの働きかけと、大衆の要求から出発してわれわれの思想の高さにまで高まる、いわば上向きの働きかけとが統一されなければならない。これが統一される場――『要求の運動化』が、すなわち職場から、大衆から出発する上向きの大衆運動がなければならない。そしてこの運動が大衆の現在の意識・要求とわれわれの提起する思想・課題との結合の場にならなければならない。このようにとらえられてはじめて『思想の伝達』はその物質的な基盤、保証を主体的に獲得するのである。
 このような場をもっていなかったことによって、われわれは孤立した。われわれは大衆の現在のあるがままの意識・要求と、われわれの思想、政治方針との結合を見失った。大衆の要求に注意を向けず、それを低いものとして、何かしら遠ざけるような傾向が生まれた。本来われわれは大衆の一人として生活してきたにもかかわらず、今は『同盟』という『別世界』の中にとじこもり、この『世界』の内部でのみ呼吸し生活するという風潮にそまってきた。同盟員は同盟外の大衆に働きかけることよりも、同盟内の討論、意志統一、あるいはケンカ等々のために、時間的にも、労力的にも多くのものをかけるようになってきたのである。
 これは危機である。同盟の政治的性格を失なわせるような、巨大な危機である。このような傾向が続くかぎり、同盟は大衆とのつながりをますます失いつつ、二つの極へと分解するだろう。一方は極左的な少数のセクト主義的な集団、他方は右翼的ななかよしグループの集団へと、分解はすでに始まりつつある。」
 「職場と街頭の結びつき、ということがよくいわれる。 これはどういうごとであろうか。
 街頭、すなわち政治デモ、集会を中心とするカンパニア闘争と、反合理化を中心とする職場闘争とが同じ資本家階級との闘いであるというだけではない。この二つの闘いは、それぞれ出発点から独自に組織され発展させられねばならない。そして独自に組織される各々の闘いがその発展の中で必然的に国家権力打倒の闘いへと高まる中で両者の統一が最終的に実現する。
 これと同じように、大衆の現在の意識、要求から出発する闘い――『要求の運動化』と、政治デモを中心とするわれわれの前衛的な闘いとは、それぞれ独自に出発する。それぞれが独自に出発することによって同時に相互に結合する。『要求の運動化』の前進は、われわれの前衛的な闘いの大衆化を助け、一方われわれの前衛的な闘いの前進は多数の活動家を大衆の中に送りこむことによって『要求の運動化』を助ける。観念的に抽象的に運動の実状を無視して結合をはかるときは必ず『政治主義』『経済主義』等の一面的な誤りに陥いる。前衛的闘いの中にいて大衆を忘れず、『要求の運動化』の中にいて政治課題を忘れず、しかもそれぞれを独自に発展させながら、運動の実状に応じて、具体的な結合をかちとっていくことが必要なのである。」
 「われわれに全く欠けていたのは、『要求の運動化』であった。大衆の現在の要求、意識を出発点とする運動を組織することであった。われわれが職場や地域のそれぞれの実情に応じて、このような『運動化』を進めるならば、それは、われわれの前衛的な政治行動を大衆的に支えるものとなり得たのである。その時われわれは、政治闘争の中で孤立の不安におびえることなく、むしろ逆に、生々とした闘いの体験を職場の大衆にもちこむことによって、政治闘争の質的な発展をかちとることができたのである。」
 「要求に根ざして大衆運動を組織していくことが『要求の運動化』である。要求には二つある。一つは顕在的な要求、一つは潜在的な要求である。
 資本主義の支配は大衆の意識にも及ぶ。だから、大衆の革命的な要求は抑えられ、弾圧され、意識の奥底にとじこめられる。したがって、表面に出てくる要求の大半はきわめて保守的なもの、現状維持的なものである。大衆の表面しかとらえない時は、大衆の保守性だけしか見出せない。
 だが、大衆の心の奥底にある要求こそ、真実の革命性である。そこには解決の要求が、団結の要求が全世界を獲得せんとする要求が眠っている。革命はこのような大衆の真実の要求を解き放つ事業である。
 われわれの言う要求の運動化とは、大衆の要求をその深い所からひき出してくる闘いである。表面にあるさまざまな要求を、単に並列的に並べ立てるのではなく、一歩深い所に、ある要求を引き出すために最も革命的な可能性に富んだ要求から運動を起すことである。そしてこの運動の開花の中で要求そのものをさらに深く掘り下げていくことである。」
 「われわれが指導部として闘いの出発点に立つ時、必ず持たねばならぬ三つのものがある。その一つは『現状把握』であり、もう一つは『ビジョン』である。
 『現状把握』は、大衆の置かれた状況を正しく把握することである。大衆の要求、資本(あるいは当局)の動向、大衆運動とその諸組織の状況を分析し、『運動化』の『環』を見出すことである。どこから出発すべきかを探り当てることである。
 『ビジョン』とは、運動の未来像であり、展望である。今出発する『運動化』をどのような到達点にむけて推し進めるかを『像』として想い描くことである。この『像』は、運動が革命の主体的な『力』にまで高められた展望の、感性的表現である。展望は抽象的な理論として語られる限り、十分に大衆をつかむことはできない。『像』として感性的にも把握されたとき、『未来』は大衆をしっかりと把握するに到る。
 このようにして『現状把握』と『ビジョン』が提出されるなら、その二者の中間頃としての『運動過程』の路線が定められる。『運動化』の『環』から出発して『未来像』の獲得に到る『道程』が設定される。これが第三のものである。
 以上の三者が、指導部としてのわれわれの中に豊かなイメージをともなって理論的にとらえられたとき、われわれは真に現実的な出発点に立ったのである。そしてこの出発点にわれわれが立ち得たとき、運動の成功は半ば保証されたのである。」
 このようにしてわれわれが、大衆から出発して運動をすすめる時、実践をつらぬく一本の赤い糸がある。この糸は、『赤化』の思想である。職場闘争であろうと文化運動であろうと、一切の実践は、大衆を『思想的に獲得する』赤化の過程としてとらえられるのである。
 そもそも『われわれの』思想――日本帝国主義打倒・社会主義革命は、大衆自身の思想なのである。大衆の諸要求・諸矛盾の必然的な、最高の解決なのである。われわれの思想だけが大衆のあらゆる不満や苦悩を、統一的に、全体として解決できるのである。
 『要求の運動化』は、もともと大衆の思想であってただ資本主義的抑圧の結果として大衆に自覚されていないこの思想を、大衆のものにするための闘いである。大衆の政治的自覚の過程を促進させる闘いである。もちろんわれわれはここで、段階論的誤りをさける。『まず』一定の成果を上げて『から』という立場に立たない。『要求の運動化』の過程そのものが、同時に、大衆の政治的自覚の過程であるとしてとらえ、実践の一歩一歩を、大衆とわれわれとの相互の『思想変革』のステップにする。このような立場から組織され、指導される『要求の運動化』は、一歩ごとに高まり、一歩ごとに広がり、大衆の運動の前進が、直ちに同盟の発展となる。」(六五年三月)

 読者諸氏にとってはわずらわしいかもしれぬこの長い引用をあえて行なったのは、この論文のなかには、統一労組運動からはじまった三多摩社青同の運動展開のもっとも重要な組織論的立場が集約されているからである。ここにのべられているのは、単にKの個人的な見解にすぎないものではなく、たぶんに自然発生的な外見をもって進められた三多摩の大衆運動が、運動の論理として宿していた本質的な方法論である。
 だが、太田竜の意識は、このような方法論とはまったく異質であった。もともと太田は自ら組織をつくって大衆運動を指導した経験をもってはいなかった。せいぜい党派闘争の立場で、外から大衆運動に工作したことがあるにすぎなかった。大衆運動のもつ言いあらわせない魅力にとりつかれたことがなく、大衆運動の内部で大衆の意識の成長の苦しみを共有したことはなかった。言いかえれば、彼ははじめから“党”だったのであり、大衆運動ははじめから“党”にとっての手段にすぎなかったのである。ところが、いま太田には量においてもジャンルにおいても豊富な三多摩社青同の“指導”がゆだねられている。彼はこれを意のままに使うことができる。見知らぬ用具を与えられた幼児は、それを本来の性質とは異なる方法で使うことによって、破壊してしまうものである。そうすることによって、すくなくとも彼がこの用具を“領有”したという喜びを実感するのである。
 当時の太田の意識は、六五年五月、JR第一回中央委員会の議案の次のような文章に端的にあらわれている。
 「このように、七月(六四年)から九・二七に至る三ヵ月は、明らかに拠点地区を先頭としてわれわれは全日本の階級闘争の最前線にあって、主導権に挑戦していた。
 だがこのあと、我々は事態の主導権を失った。それは、表面的には一一・七横須賀闘争において明らかになった。我々はこのとき、行動を抑制した。
 なぜか?
 なぜなら我々は拠点の我々の組織が突出しすぎたのではないか、と考えたからである。・・・・・
 これは重大な政治的誤謬であった。」
 「要するに我々は新たな革命前的情勢への序曲をかなでた二四回大会で(社会党、左派が権力奪取、六四年一二月)の前で全く無力であり、傍観者であったのた。この事実の重みを感じ、従来の右翼的解党主義、客観主義的偏向を最短期間に克服する内部闘争が急務となった。」
 「この意味で原潜闘争は我々の中の解党主義に対する最終的な打撃を加えた。客観情勢は党指導部の正しい路線の我が党内への貫徹を一挙に促進した。」
 「我々はベトナム侵略反対闘争の先頭に立つ、アメリカ大使館への抗議行動を市街戦へ転化させねばならない。そして更に米軍基地に対する実力行動のイニシアをとらねばならない。ベトナム人民への資金カンパ運動の先頭に立たねばならない。
 米軍兵士に対する工作は直ちに大衆的に開始することができよう。
 ベトナムへの義勇兵派遣の闘いを我々は主導しなければならない。
 沖縄の武力解放闘争の準備に着手しなければならない。」
 ここに示されている太田の主要な願望は、二つある。一つは、三多摩の従来の指導部であったK、I、Sらの“右翼解党主義”から、“党指導部の正しい路線”すなわち太田自身が、運動の完全な指導権を奪い、全面的に従属させようという願望であり、二つは、来る数ヵ月を通じて、武装街頭闘争、市街戦によって、一挙に情勢のへゲモニーを取ろうという願望である。つまり組織と情勢の両者のヘゲモニーを、数ヵ月の短期間で掌握しようというおどろくほどせっかちな欲望だったのである。
 ところで、右翼解党主義と名指されたKらの方は、自分達がそれほど太田によって憎悪されているとはつゆ知らず、指導権は自ら太田にどうぞと差し出しているわけで、こうした太田の本当の意図についてはまるで無頓着であった。それゆえ太田の願望がむかう敵は、Kらの個人を通りこして、三多摩社青同の全体のなかにある指導部にたいする信頼そのもの、権威そのものとなった。だからそうした第一の願望は、第二の願望とかたくむすびつくものとなった。文字通りの市街戦を主導することによって、従来、三多摩社青同の誰もが果せなかった大胆な方針提起の功績は無条件に太田のものとなろう。まさに過去においては不当に冷遇されていた絶対の指導者が、ここに、騒乱の硝煙のなかから神々しい御姿を登場あそばすことになるのだ。“領有”がそこで完成するのである。
 太田の観念のなかでは、諸階級と諸政治勢力が、一分のスキもなく役割を与えられ、最後の合図を待ちかまえていた。合図とともに彼らはいっせいに動き出し、その役をつとめ上げて退場するであろう。日本社会主義共和国は目前である。これはひとつのカラクリである。合図をうち上げる部隊は、三多摩社青同の三〇〇の行動隊と、そのもとにしたがう約二〇〇〇名の労働組合員である。太田の論理の世界では、諸勢力の本質と現実とが、常に一致しているのである。
 だが、Kの論文に示されているように、三多摩社青同の運動がつねに問題にしてきたのは、労働者階級の潜在的な、いいかえれば本質的な革命性を、どのようにして現実の運動にひき出してくるのかという、その過程なのであった。ここに、太田とKらの問題意識の根本的なズレが存在していたのである。
 第一回中央委は、五・一八闘争の一〇日前にひらかれた。太田が“市街戦”を口にしたとき、そこでは一般論がのべられていたのではなく、五・一八とそれにひきつぐべき具体的な市街戦が予定されていたのである。
 すでにのべたように、五・一八闘争は不発に終った。社民との全面対決も、五・一八にひきつづく全国の人民と米軍との衝突も起らなかった。
 こうして、五・一八の総括をめぐり、全面的な論争が開始された。論争の口火を切ったのは、GやSらの旧JRの活動家であったが、論争はすぐに全体にひろがった。
 五・一八をめぐって発生したJR内部の対立のなかで、KとYは、突如としてこれまでと異なる立場に立つ声明を発表した。それは「解党提案」であった。
 彼らは、問題の根源は単に太田個人の誤りにあるのではなく、太田をそのような限界に立たせている第四インターナショナルの歴史的位置そのものなのではないかと考えたのである。この提案は、「徳川・中曾根提案」と呼ばれて、関東の同盟員に深刻なショックを与えた。
 「T・N提案」の骨子は、次のようなものである。
 @ われわれの運動は、いま大衆から孤立しつつある。この孤立は、部分的な方針のあやまりから出て来るのではなく、第四インターナショナルのあらゆるたたかいが経験して来た孤立と同根である。
 A 第四インターナショナルは、思想としては生きのびて来たが、世界党としての実体は失なってしまった。世界党は、世界革命の現実の発展に依拠しなければならない。世界革命はヨーロッパでは敗北したが、中国からアジアにむけて前進してきた。だが第四インターナショナルは中国革命に重心を向けず、ヨーロッパに依拠しつづけた。ここに第四インターナショナルの実体喪失の根拠がある。
 B われわれは第四インターナショナルを脱退して日本とアジア革命に依拠する新しい党建設の道を歩むべきである。
 この考え方は、実は、彼らがはじめて打ち出したものではなかった。太田自身の思想のなかに含まれていたものを端的に結論化したというべきものであった。
 太田は、六四年に、「第四インターナショナルの歴史入門」を発表した。そのなかで太田は、第四インターナショナルの歴史的孤立にふれ、次のようにのべた。
 「我々は、第四インターナショナルの危機を正面から見すえなければならない。この危機は実に深刻であり、あと一歩すすめば危機から破局に突入せざるを得ない地点に来てさえいる。
 我々は中国に影響力を持っているか? 否、亡命した若干のトロツキスト(ICC派)が香港に生活しているのみだ。
 我々はキューバにメンバーを持っているか?
 然り。だがキューバのトロツキストはポサダス派である。
 我々はアルジェリアに力を持っているか?
 然り。そしてしかもパブロはベンベラの有力な政治顧問である。だが今日パブロはジェルマン(マンデル)らのために指導部を追われ、インターナショナルのなかで事ごとに圧迫される少数派である。
 今日の世界革命の前衛であるこれら三つの国の運動をこのような形に追い込みつつジェルマンらのインターナショナル多数派は折衷主義的、日和見主義的路線を頑として推進している。
 真に世界革命の利益とダイナミックスを表現するインターナショナルであるならばキューバやアルジェリアの内部の運動を代表する傾向がインターナショナルの少数派になるなどということは、絶対にあり得ないことである。だが現実には、我がインターナショナルは立ち遅れ、腐敗した西欧の労働運動に依拠する部分――ジェルマン、フランク、リビオのトリオによって代表される――が多数となることをかくも容易に許容しているのだ。」
 「第四インターナショナルは今日までのところ、レーニン、トロッキーの第三インターナショナルの崩壊過程から救い出された一つの宝物の水準を脱していない。この意味でそれはあくまで『コミンテルンの遺児』でしかなかった。コミンテルンの正統性はことごとくこの中に残存し、保持されている。
 にも拘わらず、なぜそれが今日の如き激動的な革命の時代に、世界史の主人公となることができないのか。
 我々の持論は、すでに述べたごとく、世界革命の前衛的民族が不在であったということである。この前衛的民族は、
1 国内的に巨大な現状変更の力に充満し
2 国際的に矛盾の結節点となっており、
3 そして全民族的な革命の英雄を大量に産出し
4 そして最後に世界革命のその瞬間における利益が民族の利益と合致しているがゆえに、大衆の中に高度の世界革命の意識が成熟しうるような、
そういう一民族でなければならぬ。
 我々は、我が国の被支配階級こそが現瞬間においてそのような特性を備えている世界革命の前衛の候補であると確信する。」
     (六四年一月)
 この考え方が、「T・N提案」の結論に到るためには、わずか半歩だけ歩めば良いのである。なぜなら、この考え方の結論は、第四インターナショナルを復活するためには、一の前衛民族を構成しなければならず、それが日本民族であるというのであるが、この前衛民族の構成じたいが、第四インターナショナルのもとではじめて可能となるとは、言わないのである。むしろ現実の第四インターナショナルは、腐敗した西欧労働階級の利益を代表するにすぎないというのであるから、日本を前衛民族に押し上げるたたかいは日本の“党”自身の任務として、完全に一国的な作業として遂行されなければならない、つまり第四インターナショナルがその名に値いするものとなるまでは、一国主義で行こうということになる。KとYが「解党提案」のところまでたどりつく論拠は、彼らが学んだ太田の「教え」自身のなかにあったのである。
 太田は、五・一八をめぐる論争のなかで活動家の不信にとりかこまれつつあった。そこへ「T・N提案」問題が生じた。これは劣勢をはね返し、三多摩のヘゲモニーを再び掌握するチャンスであった。市街戦がダメなら分派闘争で行け、というわけである。
 「T・N提案」を発表する前に、KとYは太田と討論する時間を持った。太田は、賛成も反対もしなかった。というのは、太田にとってはまずKとYにこれを発表させ、そののちにたたくことが必要だったからである。
 「T・N提案」発表の直後、太田は「全同盟員への手紙」を書いた。手紙で彼は、K・Yの二人が、札つきの解党主義者であり、今回が始めてでないこと、彼自身は終生変らぬ忠誠を第四インターナショナルにたいして誓って来たこと、二人の解党主義者と対決するためには、JR旧関西派と結ぶ決意であることを表明した。
 二つの方面に広がった論争は、八月のJR第二回大会にもちこまれた。
 大会にたいしてKとYは、一切の役職を辞退し、場合によっては脱盟をえらぶ決意であった。だが、東北の同志達が、その決意を押しとどめた。東北の同志達は、第四インターナショナルにたいする根本的な再検討という点では、問題意識を同じくすること、だが結論の出し方が、「T・N提案」は早急にすぎること、長期にわたる同盟内討論が必要であること、まず太田のジグザグな「指導」と組織的冒険主義を粉砕するために、ブロックを結ぶ用意があることを申し出た。KやYにとっても、「T・N提案」が粗雑な論理の組み立てになっていて、一時の勢いにかられた感をまぬがれないことは自覚されていたし、またここで脱盟を選ぶとすれば、ともにたたかって来た多くの同志達とのつながりを絶たねばならず、心情としては耐えがたいものであった。KとYは、東北の同志達の提案を受け入れ、「T・N提案」の結論部分は撤回され全体としては継続審議になった。
 大会の討論につづいて、太田の立場にたいする批判と擁護の応酬となった。東北の同志達の批判は、太田のインターナショナルにたいする立場が、パブロ派とポサダス派との間で、つねに動揺して来たことに向けられた。太田は大会の席上で、パブロ派を全面的に支持する旨を回答した。だがこれにたいして、パブロ派は中・ソ論争については中国批判派であり、中国核実験に反対している事実のうえに立ってもなおパブロ派を支持するのかと、かさねて追及され、太田は混乱のなかで沈黙した。また、関西の同志達も太田のジグザグ路線に全面的に反対であると表明、太田の手になる全ての議案が却下された。
 ここで三多摩のSから、太田の指導の個人主義的性格を暴露する発言と糾弾が展開された。太田の対女性関係における政治的ひきまわし主義の実態、太田が運動の“領有”の欲望を、“女性の領有”の欲望にまでひろげている事実の劇的な暴露によって、太田の権威は一挙に破壊された。この糾弾発言ののちに太田は自ら「一切の責任ある地位からの一定の期間の辞任」を表明し、大会は新しい議案を作成する任務を帯びた一〇名の新中執を選出して閉会した。太田は大会の決定にもとづき査問委員会に付されることになった。
 大会のこのような結末が、何を生むか、それはすでに明らかであった。太田は大会の会場を後にするその足で、分派の結成にとりかかった。三多摩の活動家の一部を中心とする新太田派が結成された。
 新太田派はやがてボリシェビキレーニン主義派(BL派)と名のり、活溌にオルグ活動を展開した。その要求は、@太田路線支持 A「T・N提案」=解党主義粉砕 B太田の個人問題については政治問題化するな C人事については太田派と他派の同数委員会設置、の四点である。太田はこの闘争の前面には出ずCやMなどがもっぱら同盟員のあいだを動きまわって、関東内部の多数派工作をすすめた。
 BL派の分派工作は、大会での劇的な逆転が同盟員のあいだに強い印象をのこしている六五年一一月頃までは、さほど派手なものではなかった。他方、新中執多数派においても、太田批判という点での一致は見られたものの、それに代る路線を提起する準備が出来ている部分は存在しなかった。機関紙「世界革命」の発行も途絶えがちになった。
 階級闘争は秋の日韓条約批准阻止闘争にむけて動き出していた。だが、JR内部には、奇妙な空白が生じた。六五年春の激突を走り抜けた後の第二回大会における急激な逆転に直面した三多摩の活動家もまた一人一人が考え込みはじめた。一人一人がとらえ得た問題領域がどれほどのものであったかは別として、過去五年間の三多摩の運動を特徴づけた指導と路線の「一枚岩的団結」や戦略的一貫性が、確実にくずれ去っていることに、気づかされたのである。ベクトルは分散の方向にむいた。
 KとYが「T・N提案」徹回にあたって発表した第二声明は、次のように訴えている。
 「われわれは、インターナショナルを再検討し、新しいインターナショナル建設を主体的に受けとめていく努力は、解党主義であるどころか、不可欠な問題意識であり、理論的作業であり、これなしにはいかなる前進もないと考える。国内党建設と国際党建設は一つの過程であるから、インターナショナルの再検討は、当然、われわれの国内組織の再検討へとつながるのである。むしろ我々が自己批判すべきなのは、大川の個人独裁的傾向と断乎として闘うことを怠り、従って我々自身が、自立した革命家に、自立した指導部に成長するように、あらゆる努力を払って来なかったことである。太田への依存こそが責められるべきである。」
 「以上の自己批判に立って、我々は、全党の同志、とくに東京の同志に訴える。
 自立せよ。
 自らの足を、自らの頭脳に従属させよ。
 内部の声を重視せよ。
 党建設は、偉大な一個の頭脳の下に、幾百方大衆がひざまづく過程ではない。自立した幾千幾方の前衛が、一個の巨大な思想の潮流へと、合流していく過程なのだ。真の指導部はこの過程そのものを指導する部隊なのだ。
 あらかじめ我々の足をすくませる教条を排して、運動の真実以外は何物をも信じない頑強な懐疑派の立場から、われわれ自身の自立の基礎を、共同で追求しようではないか。」

 B 日韓闘争の敗北と、分派闘争のはじまり

 八月三〇日、全国反戦青年委員会が結成された。社会党、総評、社青同の呼びかけによって、社会文化会館でひらかれた結成総会には、主要単産青年部、学生諸組織、さらに民青までが参加した。討論は民青の提起した二点の要求、@安保廃棄のスローガンを入れよ A青学共闘を再開せよ、をめぐって紛糾、民青は反戦青年委員会への加入を拒否した。
 結成総会は「ベトナム侵略反対、日韓批准阻止の一点に向かってすべての青年を結集しよう」との決議を採択し、「一〇・一五全国統一行動」を呼びかけた。ここに、日韓闘争の主要な推進組織が生まれたのである。
 日韓闘争の主要な経過を、以下、順を追って示そう。
 六五年六月二二日、首相官邸で、日韓条約調印。総評は三〇〇〇の動員を官邸前に指令した。だが結集した部隊わずか三〇〇名。うち半数は社青同動員。夜、都学連二〇〇〇名が機動隊と激突。
 八月二五日。韓国では一万人をこえる学生が決起。軍隊の学園乱入。八一五人の逮捕者を出した韓国学生のたたかいに呼応して、社青同東京地本一〇〇〇名が決起集会とデモをおこなった。
 一〇月五日。都学連三〇〇〇がデモ。機動隊と激突、逮捕者多数。夜、社青同東京地本五〇〇と都学連残留部隊一〇〇〇が国会デモ、参議院面前で坐り込み。機動隊のゴボウ抜きと衝突、日枝神社周辺までかけて投石と棍棒の乱戦。重傷者多数。
 一〇月一二日。全国実行委員会一〇万五〇〇〇人が第二波統一行動。うち七万人が国会デモ。参院議面前で都学連二〇〇〇、社青同一〇〇〇、社会党五〇〇が坐り込み。機動隊の弾圧で一〇名入院。
 一〇月一五日。一万八〇〇〇人を全国各地から集めて、全国反戦青年委員会の第一派中央行動。午后八時、地方代表を先頭にデモにうつり、国会西側の道路上をはじからはじまで埋めつくして坐り込み、約一時間。機動隊は手出し出来ず。
 このようにして一〇月に入ってからの闘争は日を追って拡大し、戦闘化した、驚いたのは警視庁だけではなかった。社会党、総評は、エスカレートしていく闘争の深まりに恐怖して、闘争に空白期間を置いた。その口実とされた一〇・二二ストライキは、全単産でくずれ去った。一〇月中旬までの連続闘争の波で高まった大衆の戦闘意欲は、強引にねじふせられた。
 一一月に入ると、日韓特別委員会の強行採決が日程に上った。だが、社会党、総評は“中間がヤマ”といつわって、闘争スケジュールを一一月九日以降に設定した。こうしたなかで社青同東京地本が中心となった東京反戦青年委は、独自闘争に立ち上った。
 六日に強行採決の報が伝えられた前日の五日夜、八〇〇〇の青年労働者が日比谷に結集して国会デモに出発。幾度も機動隊と激突しながら坐り込み闘争を追求。国会前で乱闘をくりかえし、四〇名の逮捕者と多数の負傷者を出した。とりわけ、最先頭に立った全逓青年部に弾圧が集中し、八日、全逓本部は一一日以降の反戦青年委の行動に青年部が参加することを禁止した。
 九日。第一波国民共闘が、全国、中央両実行委員会の一日共闘としてもたれたが、民青系全学連と都学連が会場内で乱闘。夜のデモでは、都学連と社青同東京が機動隊との乱闘で八〇名の負傷者を出したが、共産党の“民医運“は、「トロツキストの手当は拒否する」として、“診療拒否”を行った。
 一一日、本会議採決阻止の決定的闘争にたいして、総評単産委員長会議は「坐り込みはさせない」方針を確認。徹夜を決意して集った地方代表三〇〇〇を含む労働者全てを流れ解散させた。こうして、すべての闘争が解体された後の一二日未明、衆院本会議は日韓条約を四五秒の「瞬間採決」で通過させたのであった。
 これに先立って総評は、一一月四日評議員会で一三日のストライキを決めた。一部から「政府の緊迫した情勢の中で、ストライキが一三日では遅すぎないか」との指摘がなされたが、「院内闘争の状況から見てヤマは一三日」という社会党の情報を根拠に、一三日ストの方針がきめられた。一二日未明の強行採決のあとでは、気のぬけたビールのような一三日のストが、なんの役にも立たなかったのは当然であった。
 日韓国会審議の参院段階への移行とともに闘争は小規模となった。一一月一九日、二六日、一二月三日四日、六日、七日、八日とデモは続いたが、参加者数は日一日と減少した。一七日、社青同東京地本は、参院議面前で一五分間の坐り込みをおこなった。だが、脇を通る労組の隊列は、奇妙なとまどいの表情をうかべ、合流しようとはしなかった。この日、一七人が逮捕された。最後の坐り込み闘争であった。
 一二月一一日、参院本会議は日韓案件を一括採択した。佐藤政府は、自然成立を待ってはいなかった。
 日韓闘争全体を通じて、警視庁の弾圧体制の強化が目立った。二〇〇〇の機動隊を中心に、常時一万五〇〇〇の警察官が待機した。
 学生を除く社青同東京地本の犠牲者は、次のような数にのぼった。
 九・一四、逮捕一名。九・二一逮捕一名。一〇・五逮捕五名、起訴一名、重傷一名。一〇・一五逮捕三名、起訴二名。一〇・二九逮捕三名。一一・五逮捕一四名、起訴二名、重傷一名。一一・六逮捕一四名。一一・七逮捕一名。一一・九逮捕一五名。一一・一一逮捕一三名。一一・一二逮捕四名、起訴一名、重傷一名。一一・一九逮捕一名。一一・二六逮捕二名。一二・七逮捕一九名。合計、逮捕九八名、起訴六名、重傷四名。

 JR内部のBL派と中執多数派の対立は、三多摩社青同内部に陰然と持ち込まれていた。だが、日韓闘争の過程では、この対立が表面化するところまではいかなかった。一方、三多摩社青同の部隊は、五月までの集中性と確信をすでに失ない、多くの同盟員は疲労感にとらえられてはいたが、それでも全力を尽して日韓のデモに、往復の時間に三〜四時間もかけて、国会に出かけていった。
 都内の杜青同の主流は解放派であるが、どういうわけかこの派は、デモの指揮や行動隊が苦手である。たたかいに結集する同盟員には元気で戦闘的な青年が多いのだが、指導部が“権力ぎらい”で、なかなかデモの先頭に立とうとしない。そのため、三多摩の活動家が入れかわり立ちかわりデモ指揮をつとめ、逮捕され、釈放されたその日のデモでまた指揮をするというような例もしばしばあった。
 だが、三多摩社青同の日韓闘争には、すでに戦略的展望が失なわれていた。息つく間もない連続闘争にむけ、肉体にむちうって、ただ感性的に左翼的にひた走るのみであった。彼らが叫び得たのは、ベトナム革命と、韓国学生運動と、日本人民のたたかいを結合させよ、ということだけであった。実力闘争をつらぬけと絶叫するのみであった。それでも三多摩社青同のたたかいは、首都の社青同の最先頭にあった。“党”的な混乱にもかかわらず、消え行く最後のエネルギーの全てをこの闘争にかけ、出しつくした。そして、敗北したのである。
 展望の喪失は、一般の同盟員にもあらわれた。社会党の幹部にたいする怒りが、公然と表現されるようになり、個々の同盟員の非組織的なはね上りが目立つようになった。たたかいのなかにあって、焦燥感がふかまっていった。
 BL派と、それに属する社青同活動家は、日韓闘争を巧妙にサボタージュしながら、分派闘争の準備に専念していた。「市街戦」が大好きなはずの太田は、その「市街戦」がくりかえされていた一〇月〜一 一月初旬にかけて、日韓闘争の戦略と展望について、只の一言も語らなかった。だが、彼は何もしなかったわけではない。来るべき分派闘争にむけた自派の意志統一と、その作戦を練っていたのである。
 太田は、自派を社青同内に登場させるために、マルクス主義研究会(=マル研)を足がかりにすることに決めた。マル研はもともとは統一JRの関東における社青同内フラクとしてつくられたもので、太田派のものではない。太田派は、このマル研の多数派を掌握することにした。というのは、マル研は非合法組織であって、社青同活動の中心活動家が直接たずさわっていないからである。
 太田の最初の発言は、一一月一二日に、「マル研派の当面の任務」と題して発表された。ここで彼は、「実力阻止」はこれからはじまると主張した。なんというおろかな情勢判断であろう。少なくとも二ヵ月前に言わなければならなかったことなのだ。そして闘争の決定的なヤマは越してしまっていたのだ。
 つづいて一九日には、「公然たる左翼反対派活動の端初は切り開かれた!」と題する論文が発表された。ここで彼は、社青同東京地本が(したがって、JR中執多数派の社青同部分が)、行動左翼にすぎぬことを冷笑し、問題は社会党内闘争だと主張した。
 「社青同の現時点における役割は、社会党の革命的潮流(それはまず社研―佐々木派―革命派である)の前衛部隊でなければならない。それと別個の、社青同を一つの別個の単位とした発想――それは全く時代遅れである。だから、いかに社青同内で行動左翼として自認していようとも、そうした人々は情勢からとり残され、やせ細り、客観的には党主流の馬のアシの役割を果すことになるのである。党主流の議会主義の極左的アクセサリーになりおわるのである。そのようなアクセサリーを、党主流はチヤホヤするであろう。『若い者は元気があった方かいい』などと彼らはニヤニヤしている。」
 市街戦派であったはずの太田のこのような発言は、当初、信じがたいように見えた。BL派の日韓闘争サボタージュの事実をふくめて、その真意ははじめわからなかった。だがしばらくたつとそのねらいはあきらかになった。
 BL派のねらいは、JR中執多数派と、そのもとにある三多摩社青同指導部に打撃を与えることにあったのである。この部分は、社会党加入活動の一番奥深くに送り込まれた部分である。この部分に、社会党内での公然たる分派闘争を、「革命的」分派闘争を強要することこそ、もっとも致命的な打撃を加えることになろう。彼はそのように戦略を設定した。「革命的社研」づくり――これが太田派の新路線であった。市街戦路線が、大衆運動における最後通謀主義であったとすれば、これは組織活動としての最後通謀であった。
 太田の主張は次の通りである。各拠点に、佐々木派=社研の地域組織をつくり、これをのっとる。その場合、従来の議会主義的社研とはちがうことを明らかにするため、かならず「革命的社研」と名のらなければならない。「革命的社研」は機関紙誌を発行して、これまで社会党内では誰もしゃべったことがないような革命的思想を公然と発表する。それはかならずや党内に衝撃を与え、分派闘争を激化させるであろう。これこそ、真の加入活動というものだ。
 BL派の「革命的社研」路線は、六五年いっぱいかかって意志統一された。この路線のもとで、JR内解党主義潮流との分派闘争は有利に展開されるはずであった。社会党、社青同の金でメシを食っている奴ら(彼らは、三多摩社青同の指導部や、JR中執多数派に属する活動家をそう呼んだ)には、「革命的社研」をつくる勇気はないだろう。彼らの正体をあはく道が出来た……と。
 太田派の眼中には、すでに日韓闘争もなければ、労働運動もない。二重の分派闘争――社会党内分派闘争とJR内分派闘争――を推進すること、ここに総路線が設定されたのである。
 社青同東京地本と三多摩社青同は、日韓闘争をたたかいぬいて、総括に入った。三多摩社青同はこの総括を主導できなかった。もちろん解放派の側からも、なんら明確な展望は出されなかった。三多摩社青同と解放派のあいだに、もっとも同志的な連帯感が生まれたのはこの時期であったろう。ともに激烈な闘争をにないぬいて、いま、全力を出しつくして敗北したものだけが味わうことのできるすがすがしさと、たたかいをサボり、日和ったものにたいする怒りを共有して、戦場の跡に立っているのだ。挫折感が活動家をとらえていた。だが、もう一度やるのだというなにかしらはっきりしない決意のような、衝動のようなものは、お互いのなかに確認し合えたのである。
 暮も押しつまった一二月二〇日、社青同東京地本は、日韓闘争を集約し、これからのたたかいにそなえる総括、決起集会を杉並公会堂で主催した。二〇〇〇の動員予定にたいして集まった参加者はなんと三〇〇名、惨たんたる状況であった。社会主義協会派は一名も参加しなかった。人影まばらなロビーで、解放派の新宿支部Kは、三多摩の同志にむかって、いつもの、憎めない大笑いをしながら叫んだ。
 「こうなったらしょらがねえからよ、こんどはバンドを呼んで来てよ、ダンスパーティーやって、ドバーッと集めようじゃねえか!」
 この日の舞台で、東京地本執行委員のI(解放派)が、詩の朗読をおこなった。波はそれを、吠えるようにやった。

   キッチンカー
   ウンチング・カー
   パクリング・カー
   バー・カー
   バカヤロー
   ホット・ドック
   頭にきた犬
   もうれつ真っ赤な面
   目玉と見れば指を突っ込み
   尻 けとばし 首しめ ッバかけ
   吠え かみつき 時計泥棒 めがねこわし 最大の交通妨害者
   デカ・デッカイつらするな!

   赤じゅうたんの上のアメリカン・フットボール
   ビフテキ対野菜サラダ
   ライオンの鼻先で踊るウサギ
   大江健三郎よ 君は傍聴席でへドをするべきだった。
   ダッタ ダッタ ダッタ・・・
   国会に突入すべきだった

   血を流すべきだった
   ゼネ・ストやるべきたった
   ダッタ ダッタ ダッタ・・・

   ああ 壮重なバッハ風のフーガ
   《ダッタ》と《スベキ》のフーガ
   けれども けれども 見てくれ!
   わが真紅の旗とたちなおる隊列を!
   《陽気に、もっと陽気に》

 多少の自嘲と、景気づけと、自負をこめたこの詩の気分以上に、六五年末のわれわれの状況を言いあてているものはない。このようにして、六五年はくれた。
 .六六年は、激しい分派闘争の年となった。

 C 社青同東京地本の分裂

 三多摩社青同の分裂が進行していく過程に並行して、東京地本を中心とする社青同自身の分裂がすすんでいき、それは、六六年の九月に破局に達した。ここに到る背景を説明しておく必要がある。今日、社青同は、社会主義協会派の全一的指導下にある。だが、社会主義協会派が社青同を完全に支配する最大の契機となったのは、この六六年九月の「東京地本事件」であった。
 六〇年一一月、浅沼委員長暗殺の直後に、「安保と三池」の旗をかかげて出発した当時の社青同の中央指導部は、社会党青年部、総評重要単産青年部の、構造改革派青年幹部、いわゆる「江田派の若手」がにぎっていた。社青同結成は、この派の奔走によるものであって、当時、向坂氏のひきいる社会主義協会派は、どちらかといえば消極的であった。彼らは、社青同結成が、青年部という社会党の「左翼バネ」を党外に押し出す右派の陰謀なのではないか、とうたがっていた。
 こうしたわけで、はじめは構造改革派の指導下で歩みはじめた社青同であったが、一年もたたないうちに全国的な分派闘争かはじまった。中執多数をにぎる横革派にたいして、社会主義協会派が「左派」として挑戦を開始したのである。構革派の方針は「いかなる国の核実験にも反対」をメイン・スローガンにする「反戦・反核」運動であり、この立場から国際交流や、カンパニア運動がとりくまれていったが、これにたいして協会派は、その職場闘争論、三池闘争をモデルとする「長期抵抗大衆路線」に基礎を置く「改憲阻止・反合理化」の総路線をかかげた。
 分派闘争の焦点は東京にあった。社会党本部のオルグ団と、都労運の各労組青年部、それに学生同盟員によってつくられている左派フラクが、東京地本執行部の構革派をくつがえしたのは、六三年の第四回大会であった。この左派フラクは協会派の指導下にあったが、そのもっとも行動的な部分は、ひそかにつくり出されていた解放派フラクにも結集していたのである。解放派という分派が、いつ、どのようにして正式に誕生したのかという点については、筆者自身も詳らかではない。だが、おおむね次のような経過と性格をもっているものとおもわれる。
 解放派という名称自身は、社青同全国学生班協議会機関紙「解放」から来ている。五九年まで学民協(第一章参照)に参加していたS (滝口弘人)が、六〇年に東大に移り、安保闘争後東大本郷班を組織した。この東大本郷班で、滝口の主宰する研究会が開かれ、その「成果」が、のちに解放派結成宣言とされる「解放六号論文」として発表される。
 「解放六号論文」は、六〇年安保闘争のブント的急進主義に影響された社会民主主義と規定すべき性格をもっている。まずそれは、スターリン主義を「代行主義」として批判する。つづいてその批判を「レーニン主義」にむけ、「レーニン主義」の「外部注入論」こそ、スターリン主義のほんとうの「生みの母」であると規定する。つぎに、トロツキズムもまたレーニンという同じ母から生れた、スターリニズムの双生児であるとして排除する。したがって、スターリニズムの批判はトロツキズムからではなく、レーニン以前のマルクス主義の立場からなされるべきだというのである。
 ところでこういうマルクス主義、すなわちレーニン化されていないマルクス主義が生きのこったのは、日本社会党の「山川均」の思想だけであるという。だが、この山川イズム=左派社会党は、自分を「共産主義」として登場させてはいない。ここに欠陥がある。彼ら(将来の解放派)の役目は、社会党を強制して真実の共産主義の旗をかかげさせ、レーニン以降のマルクス主義の「自己疎外」を逆転させることにある。
 解放六号を「綱領的文書」とする学生班協の組織化とともに、そのカードルを社会党の地区オルグに送りこんで労働運動に介入しはじめた解放派フラクは、東京を中心に力をのばし、池田の高度成長下においてもっともするどい攻撃にさらされた都労連労働者のなかに影響を拡大した。東交、東水労、都職労などである。これらの組織には伝統的に社会党の活動家層が強く、しかも合理化にたいする社会党指導部の裏切りに反発する青年活動家が社会党最左派=反幹部派としての解放派に結集していったのである。
 解放派の反合闘争論は、非常に素朴な理論であった。「合理化は、労働の資本にたいする『絶対的隷属』の深化である。機械化・合理化も首切り合理化も、スクラップもビルドも、この本質においてなんら変りはない。合理化は資本主義社会の固有の運動法則である。したがって合理化にたいして反対するのは、その結果に反対するだけではなく原因に反対することでなければならない。つまり資本の秩序にたいする叛乱を組織することでなければならない。そのたたかいをまず一点から始め、つまり、一労働者の拒否からはじめて全体へ拡大していく。「『一点突破、全面展開』の方法で、組織していかなければならない」というものである。本来、指導部にとって、結果が原因から出てくるというのは自明なことであって、問題にとり上げなければならないのは、「結果にたいする反対」をどのようにして「原因にたいする反対」にまで高めていくのかという点であり、ここに政治方針が必要なはずである。ところが解放派の反合闘争論は、政治方針を一般的な組織論にすりかえ、その組織論も個々の労働者の構えの問題に還元されてしまうような最後通牒主義であった。
 それにもかかわらず、解放派の反合闘争論は、一定の影響を与えた。つまり、現実の都労運の反合闘争と、その指導部としての社会党・民同の立場が、あからさまな「結果だけを問題にする」視点で貫ぬかれ、その条件闘争も、結局は明白な裏切り、既得権の売り渡しにしかなっていないことにたいする青年労働者の憤激が充満していたために、資本論を昨日読んで感激した学生のような解放派の「反合闘争論」ですら、彼らの反幹部闘争の武器となり得たのである。
 だが、このような素朴すぎる議論が、問題を全体として解決する政治的役割を果すにいたり得ないこともあきらかであった。解放派の影響力は、都の合理化の焦点であった東交において(ここでは、都市問題にたいする戦略的な方針をもたなければ、敗北は不可避であった)、やがて闘争の敗北と共に完全に衰退し、都職労でも後退の途をたどった。組合結成の特異な事情によって、絹合創成期の第一次カードルを獲得することに成功していた東水労の解放派だけが、今日でも主流的な位置を残しているのみである。
 六三年に社青同東京地本の構革派指導部をひっくりかえした左派連合は、協会派の指導下にあったとはいえ、その推進力はこれらの解放派フラクションであった。協会派自身の組織的力は未だよわく、議員の秘書や、地域活動家と、「まなぶ」読者――民同幹部候補生からなっていたにすぎなかった。だが協会派は歴史的な蓄積をもった全国分派であり、全国社青同と社会党の内部に持つ力とつながりの点では、解放派の比ではなかった。
 東京地本をにぎった左派は、六四年二月の第四回全国大会で、「改憲阻止・反合理化」のスローガンを、社青同の綱領を補足する「基調」として採択させ、右派H構造改革派を中執から追い落した。こうして六四年以後は、協会派によって社青同中央がになわれることになったが、今度は東京地本内部で、協会派と解放派が対立しはじめた。
 すでにのべたように解放派の主要な構成部分は、学生と都労運活動家であり、その両者をまとめてひきいていくのが学生出身の社会党都本部の各地区オルグである。学生は、はげしい街頭政治闘争を求め、都労連各労組の青年活動家は、反合理化闘争を裏切っていく民同にたいする反幹部闘争のエネルギーで戦闘化している。どちらも協会派の「長期抵抗大衆路線」には無縁であった。中央本部の「左転換」までつづいたアベックは、六四年にはこわれた。このことを明確にさせたのが、六四年九月〜一一月の原潜寄港反対・横須賀闘争であった。「突如」として登場した三多摩社青同のヘルメット部隊の「過激」なたたかいが、解放派の活動家をひきつけた。協会派にかわる新たな同盟者として、三多摩の部隊があらわれたのである。
 解放派は、東京地本の三分の一弱にあたる三多摩と連合して、東京地本のヘゲモニーから協会派を排除する方針をさめた。六五年にはいると、すでにのべた四・二六事件が起った。この事件は、協会派と、解放派の最初の公然たる衝突になった。両派は、社青同の中央本部と東京地本の機関をそれぞれ代表している。
 六五年八月の第六回東京地本大会は、協会派対、解放派・三多摩の左派連合の激突になった。議事運営をめぐるトラブルはあったが、大会は新執行部を選出し、協会派が排除された。一方で社会党本部は、佐々木派=社研派のヘゲモニーがかためられ、その実力者である曾我都本部書記長と解放派との提携が約束されていた。
 協会派と左派連合の対立は、運動上でもつぎつぎと発生した。六五年八月に、中央本部が組織活動の焦点として提唱した「改憲阻止・反合理化、三〇万人署名運動」なるものは、東京地本の反対で事実上つぶされた。もっともこの署名運動は、奇妙なしろものである。「改憲阻止・反合理化」というのは、社青同の「基調」なのであり、この「基調」に署名するのは自分が社青同のシンパであることを証明する以外にはなんの意味もない。三〇万人のシンパ登録運動を署名運動としてやろうというのであるから、東京地本が反対しなくても、つぶれたであろう。
 中央本部はさらに、六六年一月一六日、一七日の両日に、社青同結成五周年記念集会なるものを開催することを決めた。東京地本のヘゲモニーから除かれた協会派は、中央本部自身の発議による大衆運動を次次と展開して、運動の主導権をにぎらねばならなかった。渋谷公会堂に五〇〇〇人を集め、千駄谷体育館に一〇〇〇〇人の文化祭をひらこうとするこの五周年記念行事が、敗色濃い日韓闘争のさなかに提起されて来たのは、東京地本に苛酷な動員を押しつけ、協会派による動員と東京地本左派の動員を競わせ、全国の協会派の力量によって左派を圧倒しようとする意図にもとづくものであったことは疑いない。東京地本は、日韓闘争との断絶を理由に、この行事に反対を主張した。彼らは、「闘争が重要か、お祭りが重要か?」と反発した。
 文化祭は中止されたが、記念集会は強行されたo東京地本執行部の意識的なサボタージュを粉砕すべく、中央本部は各支部にオルグを投入し、協会派の同盟員は逆上してあちこちでこぜり合いが起った。たとえば、協会派の同盟員がわずか二名しかいない三多摩にたいして、その事務所に十数名の中執オルグ団を押しかけさせ、いあわせたIを袋だたきにするというような事件も起った。こうしたなかで東京地本K書記長(解放派)の、S中執にたいする暴行事件が発生した。五周年記念行事をめぐる対立は、一転してK書記長の処分問題にうつった。
 六六年一月一七日、前日の五周年記念集会に三〇〇〇名を集めた成功の圧力のもとで、第六回全国大会が開かれ、東京地本のK書記長にたいする統制処分問題が議題の中心となった。協会派は、大会代議員の圧倒的多数をにぎってはいたが、彼らは五周年行事のオルグの過程で、かなりのいきすぎを働いていた。東京地本による事実の詳細な暴露と、必死の防戦によって、協会派等の代議員のなかにも中央の「大人気ない」やり方にたいする疑いが生れていた。大阪地本を中心とする構革派系代議員団は、東京地本防衛派であり、協会派フラク内で重要な発言権をもつ宮城、福岡は処分反対派であった。このため、一度は強行採決を決意していた協会派も、慎重派が制することとなり、大会での処分決定は見送られ、東京地本にたいして「反省を求める」勧告を採択するにとどまっな。
 六五年四・二六事件、五周年記念問題と、すでに二度にわたって、東京地本にたいする統制処分攻撃ははね返された。協会派のあせりはふかまった。一方、東京地本の左派連合の結束はますますかたく、反戦闘争でも中軸を占める東京反戦青年委員会の比重が大きくなっていた。協会派にとっては、劣勢をいっきに挽回させる最後のチャンスは、第七回東京地本大会であった。こうして、六六年九月東京地本大会の激突が準備されていったのである。六六年九月、大会当時の勢力比は、ほぼ次のようであった。
 協会派―約七〇〇名(墨田、葛飾、中野、世田谷、港、北、練馬、千代田で主流派杉並で反主流派)
 解放派―約八〇〇名(東部五支部、渋谷、新宿、南部三支部、北部二支部、調布で主流派、千代田で反主流派)
 第四インター派―約四五〇名(三多摩九支部、中央、目黒で主流派、世田谷、港、千代田で反主流派・杉並がシンパ)
 その他―約五〇名(板橋支部に横革派等)
 大会をめざす抗争は、六六年春闘後から激烈にはじまった。すでに、東京地本全体の三分の二の勢力を固めていた左派連合は、代議員選出を通じていっそう力関係を有利にすべく、次のような代議員選出基準を決定した。「大会代議員は、各班に一名ずつ割り当て、他に、支部にたいして同盟員数二〇名に一名ずつを割り当てる」
 こうした代議員割り当ての方法は、規約第三五条「班は地区本部大会、支部大会で最低一決議権をもつ」と、同じく規約第一五条の「各級大会代議員の選出基準は、比例代表制による」という条項の両者を満足させようとしたものであった。というのは、従来地本大会代議員は、班数を無視して支部に単純比例代表制で割り当てられており、第六回大会ではそのことを理由に協会派の議事妨害がなされたという経過がある。また、各班一名の代議員割り当てということになれば、民間中小企業に多くの班をもつ三多摩にとって有利な配分になるという思惑もあった。
 八月から開始された代議員選出の過程で、左派連合と協会派の抗争は激化の一途をたどった。とりわけ、東京地本最大の支部であり、両派の競合支部であった千代田支部では暴力的衝突がくり返された。千代田支部では法政・中大などの学生班と全逓中郵などが主力であったが、解放派は全逓中郵を拠点にして法政に力をのはし、協会派を脅やかしはじめた。さらに都本部の曾我書記長を通じてここに自派の党地区オルグを配置し、中大・法政両学生班と官公庁を中心とする協会派の支部執行部との間で二重権力状態をつくり上げた。第四インター派もまた、法政大に活動家を送り、中大でも有力な反対派を組織した。千代田支部の力関係は協会派に不利に傾むいていった。千代田支部の支部委員会や支部大会には、地本H委員(解放派)K組織部長(三多摩)などかのりこみ、同盟員の面前で公然と支部執行部に罵倒を加えた。
 地本大会を迎えるころには、左派連合は協会派を完全に圧倒した。協会派にとって有利な材料はなにもなかった。彼らの最大拠点である千代田支部では、代議員の約四割が左派に移り、従来の拠点であった杉並でも、その全国に誇る拠点職場班であった岩通班が、まるごと反協会に立場を変えた。
 こうして協会派には、すでに道は二つしかのこってはいなかった。一つは、交渉による講和か、もう一つは、大会そのものを無効にしてしまうかのどちらかである。
 地本大会前夜、協会派は都本部曾我書記長を通じて「三役のうち一つ、専従一〜二名、執行委員数名」をよこせと持ちかけてきた。だが、力の優位に確信を持つ左派連合は、これを一蹴した。すでに彼らは、東京地本執行部からは協会派を完全に締め出すことで決意がかたまっていたのである。こうして「交渉」のとびらは閉ざされた。

 九月三日、第七回東京地本大会がひらかれ社会党・社青同の歴史に残る「東京地本事件」が発生した。概要を知るために、まず、協会派の眼で「事件」を見てみよう。
 九月八日に発表された社青同中央本部機関紙「杜青同」号外。
「東京地本大会の暴力行為を糾弾する
極左分子が同志に暴行
同志百数十名が重軽傷」
「残虐な集団暴行
   肋骨折ってさらにコズク
     ――目撃者A君の話」
「ゲンコッの雨にやられた
   背骨骨折のK君」
こうした見出しの後にのっているうちの一つの報告記事。
「『本部の奴がきた』
合図にフクロだたき
   本部K君の話
 中央本部の書記をしていますが、当日は中野支部の一代議員として大会に参加しました。大会ははじめから、傍聴席で、早大の連中が中心になって、江戸川の永田さんや新宿の橋本さんなどをふくろだたきにしていました。しかし、十一時頃だったろうか、来ひんの挨拶がはじまりました。その中で最後に立った中央本部の挨拶にたいして、地本執行委員会は、時間ぎれと称して妨害をはじめました。中執にたいするきたないヤジがとぶなかで、大会は昼の休憩に入りました。
 休憩ののち、歌唱指導が終ると議運委員長が議運の報告をすると称して出てきました。ところが数名の議運委が『議運委で報告をするということは決っていない』と抗議に演壇にかけあがりました。ぼくもまだ中執の挨拶も終っていないし、決っていないことをおこなうのはけしからんと思い演壇に抗議のためつめよりました。
 数時間、同志とともに演壇でスクラムをくんで抗議をおこないました。
 やがて、話し合いかついたので壇上を下りようということになり『約束』に従って防衛のためにもっていた棒などをすてました。整然と下りはじめると、ワーッと時のこえをあげて極左の連中が角材をもって襲いかかってきたのです。ぼくたちは演壇から下りることができず二階の照明室ににげこみました。気がつくと角材でなぐられ、血まみれの同志も十数名いました。
 しばらくすると、話しがついたから二列に整然と出てくるようにといわれました。心配だったけれども、指示に従って出ていくとあんの定なぐられているようです。しかし他に脱出のしかたがないので、思いきって廊下に出ていきました。
 でるやいなや『こいつ本部だ。中央本部だ』とだれかがさけびました。それからというもの、頭、顔、腹、腰、背中、脚等々ところかまわずなぐられ、蹴あげられました。どこをどのようになぐられたかはわかりません。とにかく、数十、数百の手足がばくのからだをめったうちにしました。
 夢中で廊下をかけぬけ、ほっとしてみると顔がはれぼったく、鼻がズキズキと痛みはじめました。
 たしかにぼくは、中野支部の代議員として地本大会に出席したのだが、暴行をうけたのは中央本部の人間だからということです。上部機関の人間をそれを理由にして暴行をうけるなんて常識ある人間のできることではないと思う。」
 つづけて、中央執行委員会の声明。
 「一、ベトナム侵略戦争の激化、日本独占の反動攻撃の進展という重大情勢のもとにあって全ての闘う青年と全国の同盟員が総力をあげて、闘いに決起している時、わが日本社会主義青年同盟の首都の組織である東京地区本部は第七回定期大会において、重傷者三六名負傷者一二〇名を出すという流血の惨事をひきおこした。
 二、この結果は、同盟の歴史にかつてない汚点を生み出し、全同盟に損害を与えたのみならず階級的青年運動と民主諸勢力の戦列に重大な損害を与えたことについて、日本社会主義青年同盟中央執行委員会は、全同盟員ならびに社会党をはじめとする民主諸勢力に対し、衷心よりいかんの意を表明する。
 三、同時に、中央執行委員会は、重大な決意をもって、かかる不祥事を発生せしめた同盟内の要因を徹底的に糾明し、わが同盟の組織と民主諸勢力の闘いの利益を守るために、暴力と流血をもって同盟組織と民主勢力の戦列を破壊しようとする分子を断固として処断する決意を表明する。
…………………………………………………………………………
 五、このような東京地本指導部を先頭とする残酷無比な暴力行為は、大会における対立状況から生まれた偶発的行動ではなく、彼らの暴力至上主義の本質をバクロしたものである。
 東京地本指導部を先頭とする暴力分子は、全国の同盟員が、反独占、社会主義の旗のもとに、青年大衆の信頼を結集し、青年大衆、労働者階級の組織的団結の力によって独占資本と対決するという運動の観点に反対し『山猫スト方式』や『一点突破』等の主張が大衆的に批判されるや、革命的空語と暴力をもって、常に同盟の規律を乱し、団結を乱し、独善的指導を行なってきた。
 四〇年におけるデモ指導に対する東京地本の暴力行為、四一年一・一六同盟五周年集会に対する暴力行為、第六回全国大会における暴力行為に如実に示されるように、同盟内における異った意見を相互に討議し、少数は多数の決定に従うという、同盟の規律を無視し自らの運動の破産を、暴力的地本運営によっておおいかくしてきた。これまで、同盟内における東京地本に対する数次の統制問題に示されるように、全国の同志は、東京地本のたび重なる暴力行為に対し、東京地本執行委に対する警告処分、神谷書記長に対する権利停止処分勧告を第六回全国大会において決定しつつも、忍耐づよく、説得と、討論によってその自己改造を求めてきたのである。
 東京地本指導部は、このような同盟の全国の同志の忍耐、強い説得を、暴力に対する後退と思いあがり、全同盟と、階級的青年運動全体に暴力的挑戦を行なったのである。
 六、東京地本大会において、その本質を明らかにした東京地本指導部を先頭とする暴力行為を許すならば、労働者階級の『生命と生活を守る』ことを第一義的課題とかかげるわが同盟の基本理念は空語と化すであろう。
 かかる暴力行為を断固として、克服しなければ、わが同盟の破壊につたがるだけではなく、社会党をはじめ、全民主勢力内部に、暴力的分子の拡大を許し、労働者階級と勤労大衆の期待を裏切る結果となるであろう。
 すでに事態は東京地本内部の問題ではない。わが同盟と階級的青年運動を暴力と流血をもって破壊せんとする分子に対し、全同盟員は断固として反撃し、闘う同盟の戦列を守り抜こう。
 ………………………………………
 時を同じくして、社会主義協会は、月刊誌「社会主義」の号外――社青同東京地本大会の真相・暴露された極左トロツキストの正体――なるものを発行した。
 「声明・社青同東京地本大会にあらわれた極左の暴力行為を弾劾し、独占資本の別動隊である極左トロツキスト集団を排除しよう!

 九月三日におこなわれた東京地本大会における暴力事件は、極左の本質を暴露するとともに、その行動は完全に暴力集団と化していることを明らかにした。無抵抗の協会員をはじめとする真面目な同盟員に加えられた集団リンチは、重傷三六名をふくむ百数十名の負傷者を出し、そのやり口は、社青同の同志としての範囲を完全にこえ、およそ人間と呼ぶことさえはばかられる卑劣で残酷な暴力行為である。われわれは断じてこれを許すことはできない。
 背後から角材でなんどもなぐられた一人の同志は、上半身が麻痺し、回復するかどうかあやぶまれている。またある同志は、全身に打撲をうけ、特に眼球を強打され、眼底出血のため失明の危険にさらされている。傍聴席で状況を見守っていた一人の同志は、なぐられて失神したあと逆さにつるされて床にたたきつけられ、その後も踏む、打つ、けるの暴行をうけ、全治一ヵ年という重傷を負わされている。このように社青同東京地本内の極左は『平和共存ナンセンス』『平和革命ナンセンス』『社会党・総評ナンセンス』という理論を背景にしており、日本資本主義の政治的・経済的危機が深まるにつれて、いっそう助長される社会的基盤をもっている。特に一九七〇年の安保再改定をめざして、労資の対決が深まり、ベトナム反戦、原潜反対等のいわゆる街頭行動が活発化する場合は、いっそうその勢力が拡大していく危険が十分考えられる。
 問題は、社会党、社青同内に彼等の潜入を許してきたというところにある。社会主義協会は、すでに数年前から『社会主義』『新情報』を通じ、極左冒険主義の本質と危険、その克服の必要性を一貫して強調してきた。しかし、社会党や総評のなかには、単なる青年のハネ上がりとして、この問題を軽視する傾向が強かった。昨年の日韓闘争のなかで、ようやく極左の街頭行動が、いかに有害であるかが社会党や総評のなかに認識されるようになった。しかし、早稲田闘争等を通じて、急速に組織暴力化したこれらの勢力は、すでに通常の極左的行動の枠をはるかにこえていた。無抵抗の同盟員に対して、石を投げ、こん棒でなぐりつけ、意識を失ったものに、さらに凶行を加えるという行為は、すでに人間としても許しえない行為であり、単なる極左の行為としては理解に絶するものである。
 今回の極左派の暴力事件を通して明らかになったことは、もはや通常の対策では、極左主義の克服と根絶は不可能であるということである。社会党、社青同、総評のすべての同志が、力をあわせてこの克服のために抜本的対策を講じなければならない。
 九月七日の横須賀における原潜寄港反対のデモにおける極左の行動も、暴力化した彼らの正体を示している。労働者階級の規律ある組織的行動による国民の共感をぶちこわし、市民のひんしゅくをまねき、原潜闘争がひろく市民の間に浸透することを妨げる役割を果たした。こんど十月二一日のベトナム反戦闘争の盛り上りのなかで、彼らはさらに労働者と国民を離間させる暴挙を行ない、トロツキストの本質である独占資本の別動隊としての役割を演じつづけようとするであろう。
 社会党、社青同、労働組合のみなさん!
 われわれはこの機に、ためらうことなく、極左の正体を全国民の前に明らかにし、われわれの隊列から組織的に排除していくための決然たる態度をかためなければなりません。
 社会主義協会は、全力をあげて極左撲滅のために先頭に立ってたたかうことを明らかにするとともに、みなさんに極左撲滅の重要性とそのための緊急な行動を訴えるものです。
   一九六六年九月九日
     社会主義協会中央常任委員会」
 組織と運動の両方において、次第に追いつめられていった協会派にとって、九月三日の「事件」は、思いがけない好機となった。「三役一つ、専従一〜二、執行委員数名」というような控え目の要求どころではない、思い切って左派連合全体を社青同から排除してしまい、完全に自派で構成される東京地本を再建するチャンスなのである。二つの声明には「暴力」にたいする「憤激」の見せかけの裏にある「このチャンスを最大限に活用しよう」との決意にみちた目的意識が共適しているのである。
 ともあれ、事実はどうであったか。ここに、事実を忠実に再現してみよう。
 九月三日、大会は八時に受け付けを開始した。協会派代議員団・傍聴者約百七十名が、大会わきの国会図書館前でフラクションの意志統一をおこなっていた。八時につめかけた解放派等の千代田支部代議員約二〇名は、支部執行部が受けつけを済ませないと入場できないため、いらいらしていた。一〇時を過ぎてから、協会派代議員が一団となって受け付けに来た。待ち受けていた千代田支部解放派系代議員が、口々に「なぜこんなに遅くなったのか」「なにをしていたのだ」などとなじり、小ぜり合いが起った。だが、その場はそれでおさまった。
 来ひんあいさつには、打ち合わせでは中央本部委員長深田が来ることになっていた。だが、開会予定の九時を過ぎ、一〇時から来ひんあいさつが始まったにもかかわらず、深田は来なかった。再三の催促ののちに、一一時、中執を代表してあらわれたのは、無能さと、それに比例するセクト的官僚主義で左派同盟員からいちばんきらわれている佐藤中執であった。K書記長が「つばを吐きかけ、つきとばした」とされて六回全国大会で除名されかけたときの相手というのが、この男であった。
 因果を含められて来たこの哀れな小官僚のあいさつは、まさに挑発そのものであった。「オレは全国大会で圧倒的に信任された中執だ。オレの言うことをきけない奴は今すぐ会場から退場しろ」と叫ぶなり、極左攻撃を延々四〇分にわたって展開、「わが同盟にいる極左トロツキスト分子は直ちにたたき出さなければならん。」「東京地本は、一・一六をボイコットした。全国大会は東京地本を処分したのだ。この処分を直ちに受け入れて自己批判しろ。」「オレは挨拶に来たのではない。中執として大会を指導しに来たのだ。」…顔面蒼白、額に油汗をうかべながら、この挑発劇のトップ・バッターは、自分の役割を必死に果たした。会場は騒然となり、野次と怒号がとびかうなかで、地本執行部は佐藤中執の演説を強制的にやめさせ、休憩を宣した。
 一方、開会と同時に始められた議運は、休憩中も続けられた。議運一二名は、左派連合七、協会派四、その他一、の割合である。協会派委員からは、三つの異議申請が出された。代議員資格に関する具体的な異議は、三多摩の四名に関するものであり、他は、規約解釈上の問題である。この時点で、代議員総数三八〇名中、出席代議員は三三二名であった。地本執行部は、異議申請が出ている四名の代議員資格を保留のまま、出席代議員三二九名について資格審査を終えて開会を宣言し、残る四名についてはひきつづき議論をおこなうこと、規約解釈の問題については大会の議論にゆだねることを提案した。議運委員長M(解放派)はこの案を採択することを提案したが、とたんに協会派の四名が立ち上って乱闘となり、混乱のなかでMは、賛成6、反対0、保留1を確認して、議運閉会を宣した。
 休憩終了後の冒頭に、資格審査報告がおこなわれることになっていた。Mが、議運の部屋を出て会場に向おうとしたとたん、協会派の十数名がMをとりかこみ、別室にひきずり込もうとした。江戸川の党オルグで、立派な体格をしているが温厚な青年であったMは、この時蛮勇をふるい、一人で協会派の封鎖線を突破し、演壇にたどりついた。
 Mがマイクをにぎり、「大会資格審査委員会の……」と発言したところで、四名の協会派議運を先頭に、一二〇名の代議員、八〇名の傍聴者計二〇〇名が、「資格審査に異議あり!」とさけびながら壇上にかけ上ってきた。アットいう間に、Mはもちろん、地本執行部全員が、机もろともたたき落された。二〇〇名はそのまま壇上を占拠し、舞台の裏手からこん棒、石、消火栓などを持ち出して武装し、スクラムを組んで「インター」の合唱をはじめ、シュプレヒコールをやった。シュプレヒコールは、「大会を民主的にやれ」「三多摩代議員団の資格を停止しろ」などというものから、「東京地本を解散しろ」「三役をよこせ」などというエゲツないものまであった。この部隊の戦闘隊長は、前中央副委員長の永田であった。永田は、これ以上に無能な官僚というものを見ることが困難なほどの男で、あまりのひどさに、第六回全国大会で協会派フラクから副委員長をやめさせられたばかりであり、汚名挽回の最後のチャンスとして、戦闘隊長をひきうけたのである。
 左派連合の代議員は呆然として、総立ちになったまま成り行きを理解しようとした。地本執行部は緊急会議をひらいた。一部からは実力排除の提案が出されたが、Hが、「それはまずい」とかさねて斥けたため、しばらく事態を見守ることになった。この間、代議員は徐々に舞台の下を埋めるように集って来ており、両派代議員は演壇の上と下でにらみ合うような形になっていた。解放派の学生のなかには、飛び込んでいこうとするものもいたが、上からこん棒でなぐられて果せなかった。
 時間は次第に過ぎて、夜が近づいた。にらみ合いのまま四時間がたった。協会派のなかに疲れが出て来た。彼らにしても、このあとどうなるかという方針を持っていなかった。彼らがえがいたコースは、壇上占拠→乱闘→退場→流会宣言→中央の介入、という段取りであった。壇上占拠までは予定通りだったのが、そこで事態はとまってしまったのである。彼らが壇上を四時間にわたって占拠している事実だ
けかのこり、大会破壊者のイメージが、打ち消しかたくクローズアップされてしまったのである。
 協会派の指導部は、日和見主義に転じた。都本部を通じて彼らは、地本執行部に交渉を申し入れた。彼らの申し入れは、「こん棒をすてて壇から降りる。そのかわり、二〜三〇分間の休憩をくれ。行動については自己批判するが、大衆の面前ではさせないで欲しい。」というものであった。
 地本執行部は、この事態は、政治的な勝利であると判断した。協会派は自ら墓穴を掘ったのであり、彼らの申し入れは降伏である。だから、ここは彼らの提案を受け入れるべきである。というのが一致した結論であった。
 壇上では協会派がこん棒をすてた。地本執行部は、各支部毎に意志統一をおこない、所定の代議員席に着席するよう求めた。半数ほどこれに従ったが、まだ半数ほどはスクラムを組んで舞台の下方を占拠していた。地本執行部は彼らのスクラムを解かせ、協会派に退路を提起した。武装解除した協会派は、さきほどまでとはうってかわったおびえた表情で一列になって退場しはじめた。退場していく彼らにむかって、左派代議員の自己批判要求と罵声があびせかけられた。
 半数の百名ほどが退場したとき、事態が一変した。解放派の早大班Oを先頭とする数名が、壇上にとびあがり、退場していく協会派の列になぐりかかったのである。これは、怒りが頂点に達していた解放派代議員の突撃の合図になった。地本執行部の制止のスキもあらばこそ、数十名の代議員が協会派の列にとびかかり、おそいかかった。退場しつつあった協会派の列のまんなかで分断され、後方の部隊は舞台裏ににげ込み、はしごをのぼって照明室に閉じ込もった。前方の部隊は、なぐられたりけられたりしながら、ほうほうのていで脱出した。ここで最初の負傷者が発生した。
 地本執行部はふたたび対策を検討した。逃げ遅れた数十名が、照明室に立てこもってふるえている。社会党都本部からは、彼らを安全に退場させるように強硬に申し入れて来ている。だが、今連れ出せば、もっとひどいテロが彼らを見舞うであろう。
 そこでまず、協会派の指導者に壇上で自己批判させよう。この自己批判を納得させたうえで退場させる。そうすれば、代議員も手を出さないだろう、ということになった。照明室から永田が呼び出され、自己批判を要求された。身の危険から逃れることだけが意識にあった彼らは、この要求に応じた。
 永田は、三度にわたって自己批判を表明した。「壇上占拠は誤まりであり、自己批判する」「こういうやり方では勝てない。自分達の力の弱さを反省し、今後は運動を通じて勢力を拡大したい」などとのべた。会場内の代議員は一応納得したように見えた。そこで、地本執行部は照明室に逃げ込んでいる数十名を退場させることにした。「俺たちは勝ったんだ。いいか、手を出すなよ」大声で叫びながら、地本執行部は会場内の秩序を守った。テロは避けられたかに見えた。
 だが、まったく予想外の事態が、会場の外に待っていた。やる気十分の解放派代議員百名以上が、地本執行部の統制をのがれて、あらかじめ会場の外の廊下の両側に立ちならび、退場して来る協会派に「一発くらわせてやろう」と待ち受けていたのである。最悪のテロがここで発生した。坐り込みを排除する機動隊のトンネルが、両側に五〇名ずつ並んでいることを想像してみれば良いだろう。一人に一発ずつなぐられるとしても、百発なぐられることになる。狭い廊下を一列になって、協会派の一人一人がこのトンネルをくぐらされたのである。最初の時とはちがって、このときは一人一人を識別しながらなぐることができた。「こいつはHだ」「Tが来たぞ」「中央だ」などとどなりかわしながら、一人に百発ずつの打撃が見舞ったのである。トンネルをくぐりぬけた時には、全員、顔の形が変っていた。鼻骨を折られたもの、眼をつぶされたもの、気を失ったもの、肋骨を折られたもの……社会党史上で最悪の集団テロがここにしるされたのであちた。
 こうして地本大会の流血は終了した。退場した協会派代議員は再び戻って来ず、国労会館に結集して分派集会をもった。中央本部の深田委員長は、よれよれの状態で集った二百名の代議員傍聴者にたいして、「良くやってくれた。これで東京地本を解散できる」と感謝した。社会主義協会関東支局長山本政弘が、新聞社に連絡して、国労会館には多勢の記者が呼びつけられ、翌朝の新聞ではこの「不祥事」が大々的に報道された。
 左派連合は、千代田支部のK、三多摩のTを議長にえらび、大会を続行し、全議案を満場一致で可決し、新役員を選出し、統一のための臨時大会を協会派に呼びかけて第七回大会を終えた。

 協会派の意図は、このうえもなく見事に実現した。しかもそれは、彼らの予定した以上であった。東京地本排除のための材料はそろいすぎるほどそろった。
 協会派は交渉の窓口を閉じ、中央本部の事務所を移転し、ただちに全国オルグを展開した。九月一八日、第二二回中央委員会が、大牟田でひらかれた。中央委員会開催が東京地本に知らされたのは、二日前のことであった。大牟田は三池労組の地であり、東京地本が大量動員をかけるためには、政治的にも距離的にも最悪の場所であった。中央委員会には、解放派のHとI、三多摩のKの三名が飛行機で飛んだ。到着したその夜から、三名の行動は看視され、中央委員会にはHの出席だけが許された。
 中央委員会は圧倒的多数で「東京地本の解散、同盟員の再登録」を決定した。この決定は直ちに社会党中央にもち込まれた。協会派は、社会党都本部が左派連合に近いため、党中央の統制をきかせようとしたのである。
 社会党第三〇回中央執行委員会は、「九月一八日の社青同中央委員会における組織解散は慎重さにおいて問題が存するが、やむを得ざる処置であった」とし、「将来、再度かかる傾向の再現せざる様、全党あげて思想闘争を行い、規律を守り、同志的な力を結集し、大衆闘争を通じて、社青同を大衆的基礎のうえに建設する」という方針を決定した。これをうけた党都本部執行委員会は、「都本部は党中央執行委員会で決定した方針を認め、具体的には、社青同東京地本再建強化委員会の指導をうけながら東京地本の再登録再建にとりくむ」と確認した。
 外濠も、内濠も埋められた。社会党をふくめ、地本解散、再登録の方針が既定のものとなったのである。これを受け入れるとすれば、協会派が、基本的に左派の指導部分を排除して自派でかためた東京地本を再建しようとすることは確実であった。だが受け入れないとすれば、社青同はもちろん社会党総体から孤立させられ、場合によっては切られることも覚悟しなければならなかった。
 解放派の動揺がはじまった。明白な二者択一をつきつけられた彼らは、妥協の路線を追い求め、この妥協を、どの程度の犠牲に食いとめられるかということをめぐって右往左往した。彼らは、党内の情報収集にあけくれ、一喜一憂した。地本事務所を移動し、流浪の生活を送りながら、事態を“収める”ことにきゅうきゅうとした。
 これに対し社青同中央本部は、既定の路線を歩みつづけた。
 九月二〇日、中執は次のような告示を発表した。
 一、九月一八日付をもって、東京地本の組織は解散され、東京地本登録の同盟員は一切の資格を喪失する。
 一、再登録の事務については、中央執行委員会があたる。
 つづいて一〇月一一日、中執は第二の告示を出した。
 一、「再登録申込書」の配布。受け取ったものは郵送してこれに応ずること。
 一、期限は一〇月二七日までとする。
 この「再登録申込書」には、次のような事項が註されていた。
 (1) 二二中委決定にたいする態度。
 (2) 地本大会における暴力行為について。
 (3) 日本社会党にたいする考え。
 (4) 東京地本再建の方針。
 つまりこの再登録は、それに名を借りた思想調査であることが明らかになった。むろん協会派の同盟員はよろこんで応じた。だが、左派の同盟員は誰一人応じるものがなく、また主要な左派活動家のところへは、ことに三多摩にたいしては、ほとんど送付されて来なかった。
 この段階では解放派は、未だ三多摩とともに二二中委決定撤回、再登録反対、東京地本厳守の建て前で行動していた。一〇月一五日に出された地本通達は、「非常事態――中央本部一五日再登録用紙発送確定的――に対し、全同盟員が決意を新たに再登録拒否の意思統一を行い、用紙を支部単位に回収し、速かに一括して地本に送付せよ! 再登録に応じる同志に対しては極力に説得し、脱落者は分裂主義者として断固たる処置をとるべし!」と書いていた。
 予定日の一〇月二七日を迎え、中央本部は再登録を完了したと宣言した。たが、再登録申込者を提出したのは、わずか三百名であり、他の協会派系同盟員は、紛争に嫌気がさし、あるいははじめからペーパー同盟員だったためか、再登録に応じなかった。
 それにもかかわらず協会派は強硬路線を走りつづけた。再登録に応じた同盟員の審査を一一月中旬までに行い、社青同再建東京地本を一二月初旬に発足させると公言したのである。党中央はこれを支持した。
 解放派は方針転換を検討しはじめた。党の有力者に働きかけ、「再登録」に応じた場合の犠牲がどの程度軽減できるかの交渉をくりかえした。ようやく一一月中句、次のような三者委員会メモ(社会党中央、社青同中央、社会党都本部による東京地本再建のための指導機関)を入手した。
 「一一月一九日の三者委メモ
 一、一一月中〜下旬に第一次再登録事務を完了する。第一次再登録受けつけに際して慎重審査を要する者は保留する。その数はおおむね一五〇名。
 二、一月末までに保留者の審査を完了する。処分者の数は保留者の約半数とする。
 三、労働者同盟員については、最終的には排除者を出さないよう努力する。
 四、党、地区オルグについても、最終的に排除者を出さないよう努力する。
 五、地本執行部については一名を排除する。
 六、一二月上旬に六〜八名の臨時執行部をおき、具体的活動の指導を行う。」
 このメモをもって、解放派は処分が思ったよりも軽いとの判断をとり、「統一のための再登録」の方針を提起した。
 解放派の方針は、
 一、「二二中委決定反対、組織統一のための再登録」をおこなう。
 一、再登録は東京地本執行委員会が一括して提出する。
 一、暴力行為については、壇上占拠、大会破壊の行為と同時に取り扱え。
 一、この再登録闘争をすすめるために、従来の東京地本は存続する。
というものであった。この方針は、三多摩はもちろん、解放派のなかでも不評であり、採択に到るまでに、三回の地本委員会がひらかれた。ようやく、わずか二票の差で「統一のための再登録闘争方針」を決定した解放派は、一一月三〇日、一括して再登録申し込み書を三者委員会に提出した。その数は正確に記録されてはいないか、解放派のうちの半分以下の同盟員でしかなかったであろう。
 だが、図にのった協会派は「すでに再登録の期限はすぎている。これから持ってくるものは再加盟にすぎない」と主張し、「すでに一八支部、一〇二班が再建された」として、一二月四日、「東京地本再建準備・班代表者会議」を六〇名で強行した。左派はこの集会に押しかけたが、自らの「暴発」が大きな政治的不利をまねいた苦い教訓をかみしめている解放派の気勢は上らず、集会に抗議しただけで解散した。
 一二月四日のこの集会は、決定的な意義を持っていた。協会派はこれをもって社青同東京地本は再建されたと強弁し、新執行部を選出、再登録――再建の手続きはすべて終ったと首言したのである。
 「社青同東京地本再建のお知らせ
 社青同東京地本は、貴労組、団体の熱意によって、ここに再建をかちとったことをお知らせ致します。
 ………………………………………
 この現状のなかで、再建された社青同東京地本を名のる破壊分子がまぎらわしい行為をおこなうとおもいますが、社青同東京地本とはいっさい関係のないことを強く訴えておきます。
 一九六六・一二・一二
     委員長 山崎耕一郎」
 解放派が三者委員会に提出した「再登録申請」は宙に浮いてしまった。協会派は、一人二人の排除を問題にしていたのではなく、完全な自派のヘゲモニーによる社青同東京地本の再建以外は、絶対に認めない立場に立っていたのである。その限りでは、三者委員会の「指導」すら、無力であった。一〇〇名を超える負傷者を出した彼らにしてみれば、その心情は充分根拠のあるところであった。
 「統一のための再登録」への方針転換にともない、左派連合の解放派と三多摩との間には、ヒビが入った。三多摩は、マル研派(BL派)と分室主流派とに分裂していたが、この問題に関する限り一致していた。KとSの名による「東京地本執行部少数派見解」が発表され、「再登録を拒否して地本解散撤回をたたかいぬこう」と訴えた。この訴えのもとに、マル研派をふくめた、「再登録拒否連絡会議結成アピール」が出された。
 「全都の同盟員諸君! 再登録、再加盟拒否・第二地本粉砕連絡会議に参加しよう!
   一
 社会主義協会の右翼的大会破壊攻撃から三ヶ月が経過した。この永い三ヶ月の間にどんな事柄がおこったろうか。
 社会主義協会は、断固とした攻撃の姿勢を一歩もくずしていない。彼等は、戦闘的な東京同盟に、『資本の手先、極左暴力集団、トロツキスト』の称号を与え、官僚と右翼社民、右翼労働官僚とガッチリとスクラムを組んで、真一文字につきすすんでいる。
 社青同第二二回中央委員会での前代未聞の『東京地本組織解散』決定。それにひき続く再登録工作。そして一二月四日には、社青同東京の第二地本、分裂地本を公然と結成した。
 彼等は、彼等が決定した一〇月末〆切りの『再登録申請』以外のどんな妥協も認めず、社会党指導部が苦心してつくり上げた『地本問題処理三者委員会』を公然と無視し、彼等なりの運動(社民、労働右翼幹部と合法主義者の同盟の促進)を寸時も休まず続けている。
 これに対して、東京地本(多数派)指導部の『三ヶ月』はどうか。地本指導部は動揺と不決断を続け通し、いまだ明確な結論と方針をもらえていない。
 『大会破壊者粉砕』という最初の掛け声は『統一のための再登録』という大会破壊者=右翼カウツキー主義者との長期共存の方向にかわった。自らの組織と運動の強化に最重点を置くのではなくて、社会党=社青同官僚の『三者委員会』の動向に歩調を合わせるボス取り引きがくりかえされた。
 そしていま、『第二地本の公然化』と『旧地本の再登録を拒否する』という社会主義協会の挑戦の前に、一二月二五日に予定されていた地本委員会を延期させるという無方針で優柔不断な態度を依然としてとり続けている。
 『統一のための再登録』をわずか二票差で決定した第五回地本委員会では、『再登録は単なる戦術』であることが多数派の諸君によって強調されたはずである。『協会派が第二地本を結成した場合には再登録はとり下げる』という点も強調されたはずである。さらに、地本臨時大会を開いて再登録問題を決定せよというわれわれの主張に対して『再登録問題を臨時大会で決定している余裕はないが、年内に大会を開くのは当然である』と強調したはずである。
 ――第二地本は結成された! だが『再登録撤回』の声をわれわれは地本指導部の諸君から一言もきかない。それどころか、意見を出し合い、基本的な方向を論議するための地本委員会さえ延期されてしまった。
   二
 全部の同盟員諸君!
 われわれはこの時点に立って、全都の戦闘的同志諸君に心から訴える。
 いまこそ、公然化した第二地本に対決して『再登録、再加盟拒否、第二地本粉砕』の公然たる旗印をかかげ、社会主義協会の改良主義、議会主義者に対する徹底的な暴露と攻撃を開始しようではないか。
 言葉だけの『革命的オシャベリ』ではなくて、具体的な行動を!
 具体的な行動を維持するための公然としたわれわれの組織を!
 ――それはいま、『社青同東京地本再登録再加盟拒否、第二地本粉砕連絡会議』を断固とした決断のもとに結成し、社青同東京地本の左翼的、戦闘的伝統を強化、拡大する原点に立つことからはじまる。
 全都の同志諸君!
 われわれと共に『連絡会議』の旗の下に結集せょ!
     一二月二六日」

 事態は解放派にとって最悪となった。協会派の姿勢はくずれず、社研派(佐々木派)をふくめ社会党はその圧力に屈している。だが他方で東京地本内部では左派が叛乱を開始した。進むもならず、退くもならずというのはまさにこのような事態であった。
 再登録申請書は宙に浮いたままであった。三多摩を中心とする「公然左派地本」派の提起を拒否したにもかかわらず、解放派の現実は「公然左派地本」そのものであった。彼らはみっともない位置に立った。「降伏」を申し出ながらそれを拒否され、不本意な「独立」を強いられつづけたのである。この立場はやがて急進主義の高揚のなかで、彼ら自身の分解へとすすんでいくことになった。一方は、より深く社会党の体内へ、一方はすでに事実上強制されてきた「第三潮流」の位置を追認する方向へと。
 この事件は、日本の社会民主主義の歴史のなかで、第一級の重要性をもっている。この事件以後、社青同の針路は右へむかって急速に振れ、全国の左派勢力を次々と排除し、社会主義協会の全一支配を打ちかためていくこととなった。もしこうした処置が、六六年〜七年のうちになしとげられていず、六七年一〇・八闘争以後の局面をむかえていたとしたら、社青同全国の力関係がどうなっていたか、余断を許さないものがあったであろう。もし東京地本が左派の指導のもとで首都の労働情勢に一定の影響力を行使する事態がつづいていて、羽田、佐世保、三里塚等の闘争局面に青年運動が突入していった場合には、力関係において孤立を余儀なくされていったのはむしろ協会派だったであろう。だから協会派にとって六六年の分裂は、むしろギリギリのところで間に合ったのだといわなければならない。
 それにしてもこの事件には、奇妙な性格がある。九月三日の協会派代議員による壇上占拠は、むしろ協会派の政治的敗北に終るはずのものであった。彼らの賭けは、空振りに終っていた――少なくとも中途までは。だが、早大班の○をはじめとする数名の衝動的な暴発が、事態をすっかり変えてしまった。地本執行部の解放派指導部は、政治的損得勘定のソロバンをはじくだけの冷静さをもってはいた。彼らに欠けていたのは、彼らの活動家を統制し、納得させる能力であった。九月三日のわずか数名の暴発が、彼らに「時期尚早の分裂」を強い、数年後には、「第三潮流」以外のどんな道を歩むこともできなくさせてしまったのである。
 権力と資本との暴力的対決においては充分に準備され、社会党の党的本質についてもいささかの幻想をも有していなかった三多摩の代議員団は、九月三日当日、指導部のもとで会場の一角を占め、解放派による集団テロには指一本加担しなかった。したがって、協会派の組織的攻撃に対しても、いささかのうしろめたさもなく政治的に対処し、自らの立場を動揺させることがなかった。
 だが、暴発によって不利な現実を自らまねいた解放派には悔恨の念がつねにつきまとい、事態の進展をおそれ、動揺をくりかえした。政治における「怒り」は最悪であるというレーニンの訓戒ほど、反レーニン主義者である解放派にとって有効な忠告はないであろう。彼らを亡ぼしつつある事態は、まさに自然発生的な「怒り」に身をゆだねてしまった九月三日の暴発から始まったのである。だがそうした暴発=自然発生的な衝動にもとづく個人行動をつねにかかえざるをえないところに、前衛党とレーニン主義を否定する解放派の綱領的な必然があったとも言いうるであろう。「目的意識的な組織活動」にたいして、「自立」による「一点突破」を対置する解放派には、九月三日の暴発を防ぐ綱領的立場がはじめからなかったのである。
 こうして解放派は、その社民性のゆえに、社会民主主義の陣営から排除される歴史を、自ら歩みはじめたのであった。歴史には、皮肉がつきものである。
 これにたいして三多摩=第四インター派の立場は、きわめてすっきりしていた。三多摩には、問題にするほどの協会派の影響力がなく、社会党の三多摩の活動家にとって、社青同というのは第四インター派の三多摩分室以外には存在しなかったのである。社会党の三多摩分室青対部会は二回にわたって総会をひらき、「協会派糾弾、二二中委決定撤回、党中央、都本部抗議」の決議をその都度決定した。各総支部の大会でも、同趣旨の決議が採択された。親がわが子をかばう心情は、政治の世界でも変らない。
 三多摩社青同にとって問題はむしろ、自らの内部にある深刻な分裂なのであった。だが、三多摩社青同自身の分裂が、その崩壊へと転落していった経過については、次章のテーマとしよう。
 宙に浮いた「再登録申請」をかかえたままで、六六年は終った。六七年にはいってからも、解放派にとって有利な事態は生れなかった。協会派の東京地本は既成事実化し、社会党都本部のなかでは協会派の力が増大して曾我の覇権を脅やかしはじめた。この圧力のもとで、社会党都本部は協会派東京地本を承認した。
 それにもかかわらず解放派は、未練がましい「統一のためのたたかい」=復職運動を、一年にわたってつづけた。解放派の内部では「暴発」にたいしていっそう深く反省する傾向と、「いいじゃないか」とする「急進主義」の傾向の対立が深まっていった。すでにのべたように、六七年羽田闘争以後、この対立は分裂に「発展」していくことになるが、その問題はもはや「三多摩社青同闘争史」があつかう範囲をはずれるであろう。
 一年にわたる解放派の未練の「復職運動」にたいして、三多摩社青同の偽わらさる感情は、「馬鹿馬鹿しくてつき合いきれない」ということで共通していた。六七年の左派東京地本は、したがって、すでに「解放派」社青同の実態しかもたなくなっていった。こうして、われわれが今日見ることのできる解放派=革労協と、「社青同」の奇妙な「分業」ができ上っていったし、彼らが特別の感情をこめて「社青同」を名のりたがる歴史的根拠が与えられたのである。

 東京地本の分裂は、社青同内部だけではなく、社会党の分派関係にも、重大な変動をもたらした。社会党都本部の曾我書記長を中心とする佐々木派=杜研派は、政治路線を中国の方向にむけながら、党の主流の位置を占めていた。これにたいして、歴史的に「ソ連盲従主義」である向坂教授を頭にいただく協会派は、右派=構造改革派との分派闘争では統一戦線を組みながらも、党=社青同の各分野で陰に陽に対立をつづけていた。向坂教授は、その「学問」=資本論研究においては、それなりの「功績」を持ってはいるが、政治路線では完全なソ連派スターリストの枠内にはいる。もっとも向坂式スターリニズムというのはは、ソ連派スターリニズムの合法主義的・平和主義的一面を純化したものである。つまり向坂教授の政治的心理は、第二次世界大戦に先立つ数年間にヨーロッパの社会民主主義、労働組合主義者の陣営に、少なくない数で輩出し、その俗物根性と破廉恥をトロツキーによってするどく批判された、いわゆる「ソ連邦の友」の類と同一のものであろう。
 一方、佐々木=曾我派の「中国派」というのは、どの程度本物であろうか。もちろん、中国共産党が提唱する「鉄砲から権力が生れる」という思想を、この派が真面目に受け取っているはずはない。協会派が主として労働組合活動家と「向坂学校」の学者グループによってつくられているのにくらべて、佐々木派はいっそう強く議員派閥としての実態しかもっていない。地方議員に根を置く佐々木派が、暴力革命の戦略・戦術を真剣に実践にうつすなどということがあったとしたら毛沢東もびっくりということになるだろう。
 合法主義・平和主義の議会革命戦略においては、協会派と佐々木派のあいだには一ミリの違いもないのである。ちがいは、協会派と佐々木派がそれぞれ依拠する基盤のあいだにある。
 協会派の意図するものは、労働組合の民同官僚機構を向坂教授の「学説」によって教育し、組織していくことである。彼らは、組織労働者の統制された政治行動にもっとも信頼を置く。カウツキーのもとでつくり上げられたドイツ社民党こそ、彼らの理想である。だが、アジア革命の巨大な圧力に包囲された日本労働者階級の内外には、そうした古典的社会民主主義にたいする左からの攻撃力が広範に存在する。ソ連派スターリニズムの教義を借用して、自らを「マルクス・レーニン主義」に見せかけるのは、そうした攻撃力から身を守るためなのである。協会派が中国共産党の教義には絶対に近寄らないようにするのは、彼らの基盤=「組織労働者の統制された議会主義政治」の、必然の行動である。
 佐々木派の場合は、その基盤はいっそう広範で、未定形なエネルギーである。地方議員集団としての彼らは、ときどきの情勢によって左右に動揺する人民の政治的雰囲気に適合していかなければならない。彼らの基盤は、組織され、統制されていない人民大衆である。世界情勢のなかで次第にその位置を決定的なものにして来た革命中国の牽引力は、こうした人民大衆のなかに巨大な魅力を生みつづけている。佐々木派においては、もともと戦略と戦術の厳密な一体性などはどうでも良いのである。六〇年代後半の風向きが、「東風が西風を圧する」方向に吹いているのであるから、自らを東の方に向けることこそ、彼らの急務である。こうして彼らは、自らの戦略をそのままにして、北京に通い、「中国の友」の称号を得ようと懸命に努めたのであった。
 このようにして、社青同内部の左派と協会派の対立に並行して、社会党左派の内部にも佐々木派と協会派の抗争が深まっていき、ふたつの対立がからみ合って増幅した。佐々木派にとっても協会派にとっても、都本部の指導権をどちらが握るかが、天王山である。東京地本分裂が発生した当時、都本部の指導権は佐々木派の若手ナンバーワンである曾我氏のもとに属していた。曾我氏は、その卓抜な「腹芸」を駆使しながら、解放派のカードルを都内の各総支部におくり込み、一時期は「天皇」とまで呼ばれた独裁的権力を手に入れていた。だが、曾我氏の不幸は、佐々木氏のような「大人」的魅力や政治的感覚のするどさも、また向坂氏のような「理論的体系」も持ち合わせていないで、「伏魔殿」ともいうべき東京都政に立ち向ったことであった。曾我氏は、組織工作によって機関を掌握したが、それを支持し、推進する政治的な潮流を独自に形成することができなかったのである。彼を支えた解放派のオルグ団とのあいだには、相互利用の契約関係しか存在しなかった。他方で波は、「極左派の後見人」と目されて、協会派の憎しみを集中して浴びたのである。
 東京地本の分裂に直面した彼は、あいまいな態度で終始した。彼は解放派を防衛しようとした。同時に、将来の禍根を絶つべく、解放派の「学生部分」と第四インター派のふたつの過激派、つまりもはや社会党の枠をはみ出している部分を排除しようとした。こうした中間主義に助けられて、協会派の強行突破が成功し、気がついたときには、解放派の総体が社青同から追放されるという趨勢は、すでにくつがえせないところまで来ていたのである。解放派を社青同から排除した協会派の攻勢は、直ちに、党内へもちこまれた。敵の「糧道」を絶つ決意のもとに、協会派は都本部曾我書記長の責任追及にのり出した。解放派という「足」を切られた曾我天皇は、たった一突きで、もろくもたおれた。
 都本部曾我体制の崩壊は、社会党総体の佐々木派主流体制の中枢がくずれ去ったことを示したのである。基本的な基盤をそれまで佐々木派に置いて来た成田は、急速にこの派から身を退きはじめ、一本の足を協会に、もう一本を勝間田派に、それだけでは足りず、教本の指をのばして各派にのせて、派閥均衡の力学の上を「弥次郎兵衛」のようにつなわたりしはじめたのである。
 こうして、社青同東京地本の分裂は、社会党分派関係をも大きく変えた。


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