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国際革命文庫 15
党史編纂委員会・編

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電子化:TAMO2
●参考文献
現古研党派・団体別目録

「日本革命的共産主義者同盟小史」
――日本トロツキズム運動の20年――

第五章 同盟の再建
  ――急進的青年運動の中での苦闘――

 1 再建への着手
    
――「三者協議会」の発足

 同盟の全国指導機能は、一九六六年五月の第四回中央執行委員会をもって崩壊した。BL派を除く多数派は、残念ながら中央指導機関を維持し、機関紙の発行を担うことかできなかった。「世界革命」は、BL派によって潜称されるという事態にたいして、なんらの積極的な対応もおこなうことができなかった。こうして、六六年の秋から六七年の春にかけて、わが同盟は、各地方グループと各傾向に分散化してしまった。
 われわれの崩壊とは対照的に、全世界の人民による革命運動と日本の急進的な運動は、一九六七年に入って急速に発展の兆しをみせていた。ベトナム人民の武装解放闘争の進展は近代技術を総結集させたアメリカ帝国主義の軍事的堅陣をかいくぐり、その一角を食い破り、ますますアメリカが反革命戦争の深みに入っていくことを強制していった。そして、なかでもこの年のケサン渓谷の戦闘は激烈なものであった。この戦闘において、ベトナム人民は、単にゲリラ闘争によって敵にたいする打撃と自らの前進を切り開いていっただけでなく、正面からの正規軍戦によってもアメリカ帝国主義と闘争し打ち勝つことができるところまで成長していることを示していた。ベトナム人民の闘争は、アメリカ帝国主義との対峙・力関係の均衡状態から一歩飛びこし、勝利を獲得できる兆しをはっきりと示しつつあったのである。
 このように真向うから史上最強のアメリカ帝国主義に抵抗し、そして打ち破るべく闘いぬいていたベトナム人民の闘いは、全世界の新たな闘う人民・青年たちに無限の感動を呼びおこすこととなった。第二次世界大戦と朝鮮戦争の過程でつくられた神話、それは、アメリカ帝国主義が史上最高の、そして不敗の帝国主義ということであった。事実、アメリカ帝国主義にたいして戦争を挑み、そしてその敗北を強制させるなどということは、一九四〇年代の戦争を経験し、そして、五〇年代と六〇年代前半のいく多の敗北と後退をなめさせられてきた帝国主義・植民地陣営の労農人民にとって、想像さえすることができない超常識のことであった。だから、ベトナム人民が幾多の犠牲をものりこえて果敢にこの常識に挑戦し、しかも十分に渡りあって闘っている姿をみて、全世界の労農人民は、なおのこと感動を深くしてへトナム革命にひきつけられていったのであった。
 このような全世界の人民・青年たちの感動を、きわめて文直に、感情あふるるばかりに表現し、そして訴えたのが、あのボリビアの軍事政権の銃弾の前に倒されていったゲバラであった。「二つ、三つ、そしてもっと多くのベトナムを!」。この呼びかけは、本当に心から抑圧と搾取からの解放を願おうとする者はだれでも、ただちに、ベトナム人民の闘いの支援にかけつけ、ともにアメリカ帝国主義と自国帝国主義の打倒にたちあがらなければならないとする、アピールであった。
 こうして、全世界の人民、青年たちは、このベトナム人民の英雄的な闘いとゲバラの呼びかけをとおして、時代の歴史的な転換、新たな時代の到来の息吹きを確実に感じとって次々に急進的な闘争の世界に入っていったのである。
 日本におけるこの時代の転換と新たな闘争の発展は、なによりもまず、六七年二月と七月における砂川闘争の発展としてはじめられた。とりわけ、七月の闘争には、全国の急進的学生活動家が六千人結集したのみならず、日韓闘争以後事実上冬眠状態であった各県、各地区反戦の活性化がはじまっていることを示していた。そして、このときの闘いにおいて掲げられた「この米侵略機をベトナムに送るな!」というスローガンこそが、日本の発展しはじめた反戦闘争とベトナム人民の闘争との結合を物語るものであった。こうして、農民、学生、青年労働者が固く団結して闘いぬいた砂川闘争の発展は、日本の反戦闘争と急進的大衆運動のその後の全面的な高揚の幕明けになった。
 崩壊したわが同盟が、一年も経過しないうちに再結集への動きをはじめることができた理由は、なによりもこのようなベトナム人民の英雄的な闘いの前進と日本における急進的な大衆運動の発展の兆しであった。六七年の八月、ともかくも各地方と各傾向の代表者とを集めて、全国代表者会議を開催することができたのは、このような情勢の圧力によるものであった。だが、この会議は、ベトナムを軸とする新しいアジア情勢について、日本における反戦闘争の高揚の新たな兆しとその可能性について、さらに社青同・社会党加入活動の全国的点検とその展望・路線について何らの具体的討論も展開できなかった。同盟を再建していく根本課題であると共に具体的な活動の軸とならねばならないこれらの問題でなんらの討論もできなかったという点に、当時のわが同盟の政治的崩壊の深さを知ることができる。会議は、ともかくも同盟の再建に着手しなければならないこと、そのためにまず関東の再建が図られなければならないとして、「三者協議会」(社通派、ML研、関東社研の代表で構成)の発足を確認した。
 したがって、その後の政治情勢と大衆運動の展開にとって決定的ともいえる新たな地平を切り開いた六七年十・八佐藤訪べト阻止羽田闘争にたいして、わが同盟は、地方グループと各傾向がそれぞれの位置づけや目的にもとづいて参加せざるをえなかったのである。
 学生グループは、すでに八月半ばより十・八闘争への取り組みを独自に精力的にはじめ、一つの全国潮流として羽田闘争を闘いぬいていった。学生において、同盟の再建より一歩早く全国性を形成しえたのは「三派」、「急進派」による全国学生運動が、六五年の「都学連再建」から六六年「全学連再建」というようにすでに統一的に展開されていたからにほかならなかった。こうして、全国の学生同盟員グループを先頭にして、東北の各県、関東の同盟員は、自らの指導する大衆運動団体を率いて、十・八、十一・一二羽田闘争を闘いぬいたのであった。
 「三者協議会」が実際に機能をはじめたのは、この巨大な十・八闘争以後であった。全国代表者会議がベトナム人民の闘いと砂川闘争で獲得されたように、この会議の成果である「三者協議会」の発足は、実に十・八羽田闘争で獲得されたものであった。
 こうして、ベトナム、砂川、羽田闘争という三つの闘いこそが、わが同盟を本気で再建させようとする気運、テコをつくりだしたのであり、ひいては同盟の再建、統一をかちとる過程において加入活動から独立活動へと転換させる契機となったのであった。
 「三者協議会」は、その何回かにわたる会議の積み重ねによって、同盟の全国的再建のためには、まずなによりも関東地方委員会の再建から手がけていくことを確認した。
 関東同盟員総会は六七年十二月、何年かぶりで開催された。そして、当面の全国と関東における政治的な意志統一を図るために「第四インターナショナル」の復刊発行を決定し、かつ三グループの活動の強化を確認した。その三グループとは、関東――全国学対活動の強化、社会党・社青同内における急進的大衆活動の発展が呼びおこしつつある新たな政治的分化を発展させていく活動の強化、ならびに三多摩、都内における独自的な青年労働者活動家集団の形成であった。
 こうして、復刊された「第四インターナショナル」は七号までの発行をかちとることができ、全国と関東の政治的な再結集のために一定の、少なくない寄与をはたしたのである。

 2 「世界革命」の復刊と中央機関の再建

 六八年二月、佐世保エンタープライズ闘争の高揚の後を受けて、「全国代表者会議」が開催された。
 ここで確認されたのは、次の三点である。
 第一に、砂川、羽田、佐世保エンタープライズの三つの闘いによって、いよいよ日本における急進的な大衆運動の発展は不可逆的で、かつ激化していくであろうこと。第二に、その発展は、ベトナムを軸とする世界的な革命と反革命の力関係の転換に依拠した世界的な青年の急進化の一翼としてあること、第三にその発展の性格は、社会党・民同、共産党を直接に通過して、独立的な大衆運動として成立していること、この点から加入活動再検討と独立活動への転換が真剣に検討されねばならないこと。
 こうして、われわれは、この全国代表者会議において、ようやく現実の政治情勢と大衆運動を媒介として、各地方、各傾向の分散からその政治的統一に向かうこととなったのである。そして、この会議での基本的な確認こそが、その後のわれわれの活動と同盟再建に向かっての加速度的な闘いのための土台となったのであった。そして、このような三点の確認は、三月の三里塚闘争の高揚、そこでの全国反戦青年委員会の大衆的な急進化を見てとった社会党・民同官僚が、それまでの妥協的なポーズを捨て去って全国反戦の抑圧に回った、いわゆる「三月逆流」によってなお一層確証づけられるものであった。
 この時点での急進的大衆運動への参加・介入は、依然として学生グループ、ならびに東北各県反戦の闘いに分断されていたままであった。
 学生は、王子・三里塚・拝島米タンク車闘争を闘いぬき、「急進的学生運動」の一翼に国際主義の旗をひるがえす活動をつづけていった。また、宮城反戦は三里塚闘争における機動隊の包囲にひるまず闘いぬいたその大衆的な戦闘性のゆえに、全国の青年労働者の注視を浴びることとなった。
 そして、わが同盟の政治的統一を促進させ、再建への歩みを決定づけたものは、ベトナムのテト攻勢、フランスの五月、そしてチェコスロバキアの反官僚闘争の勃発であった。
 ベトナムのテト攻勢は、きわめて明白に、ベトナム人民がいついかなるときでもアメリカの軍事的堅陣を打ち破って、都市に突入する能力をもっていることを高らかに宣言するものであった。
 これまでは、帝国主義の軍事的エスカレーションを通してしか知ることができなかったベトナム・インドシナ人民の英雄的な闘いの前進が、今後は直接に報道され、その一挙手一投足は全世界の人民の共通の関心事になっていった。三月、ジョンソンは、北爆の停止とパリ会談の開催に同意することを余儀なくされた。こうして、一〜三月にかけてのテト攻勢と北爆の停止は、アメリカ帝国主義のいかなる軍事的エスカレーションを通してもベトナム人民の闘いを抑止することができないとの告白にほかならなかった。五九―六〇年にかけてはじめられたベトナム人民の闘争とアメリカ帝国主義との息をつかせぬ八〜九年間の闘争は、前者の勝利への道、そして後者の敗北への道を分かつ歴史の重大な峠にほかならなかった。こうして、また、ベトナム人民の英雄的な闘いに感動し、ひきつけられていった真実の反帝国主義的な感情をもった人民と青年たちは、今や世界革命の勝利ということが、けっして架空のロマンではなく、現実のものであることを確信したのである。
 フランスの五月は、このベトナム革命がつくりだした全世界的な青年の急進化の尖鋭な感動的な爆発にほかならなかった。腐れきった帝国主義とその支配体制にたいして、偽善と不正、それを支える怠惰な秩序全体を打倒し、生き生きとした、そして自らが本当に参加し意欲を感ずることができる社会をつくりだそうと決意したフランス、パリの青年、学生たちは、臆することなく大胆に決起した。このように青年たちが新しい感性と尖鋭さ、そして断固たる大胆さをもって決起したがゆえにパリの労働者たちもすぐさま闘いの戦列に投じたのであった。大学は数十万の学生で占拠され、労働者たちは工場占拠とゼネラル・ストライキで応え、そして街頭では警察・機動隊がみごとに殲滅させられた。これは、まさしく、文字どおり、革命のはじまりであった。そして、パリの青年・学生たちの数十万の隊伍の先頭には、わが第四インターナショナルの旗の下に闘う「革命的共産主義青年」(JCR)がたちつづけていた。
 このようにして、フランスの五月は、全世界の急進的な青年・学生運動を鼓舞するとともに、分裂と停滞という苦難の道を歩みつづけていたわが世界的な第四インターナショナルの建設に、決定的な展望と確信を与えるものとなったのであった。
 わが「世界革命」紙の復刊は、このベトナム革命の前進とフランスの五月革命によって決定づけられたものでありった。
 「関東臨時ビューロー」という機関名によるこの復刊第一号〔通刊第一六五号)は、五月三日、突如としてフランスの五月革命が勃発し、そしてわが第四インターナショナルの同志たちがその最先頭にたって闘うことを知るや否や、いよいよ日本支部も今や闘いに突入しなければならないと決意した酒井が、木原と織田の同意をえて発行に踏みきったものである。
 フランスの五月革命の勃発、わが「世界革命」紙の復刊の敢行とその後の発行の持続、そして「八月国際反戦会議」の開催は、いよいよわが同盟の政治的統一と再建への歩みを決定的なものにしていった。
 そもそも、この集会は、中核派と分裂していたいわゆる「反帝全学連」を担う共産主義者同盟=ブント社青同解放派、同国際主義派、社会主義労働者同盟によって企画され、準備されていたものであったが、その主たる推進者は、ブントであった。彼らは、全世界的な青年の急進化という新しい情勢のなかで、自らの「共産主義者同盟」としての発展の展望を「第五インターナショナル」の建設におき、かくて国際的な急進的闘争の団体を結集させようとした。他方、第四インターナショナルの建設を支持するわが社青同国際主義派は、かかるブントの誤まった、かつ幻想に満ちた展望と闘いつつ、この「会議」を真に国際的な反帝国主義闘争の戦線の形成に導びき、また日本の戦闘的な青年・学生を、国際主義の下に獲得していく絶好のチャンスと把え、積極的に推進しようとした。そして、海外から結集した諸代表の多くもまた、第五インターナショナルの建設が夢想にすぎないこと、もっと現実の大衆運動において国際主義的な連帯を深め、ベトナム革命支援の国際的運動をつくらねばならないと強調した。こうして、この「国際反戦会議」は、わが同盟ならびに社青同国際主義派の活動家にたいして、わが第四インターナショナルが世界的な青年の急進化という新たな状況のなかで、具体的に前進しつつあることを実感として感じさせ、深い確信を植えつけたのであった。こうして、また、この「国際反戦会議」は、急進的大衆運動のなかにおけるわが同盟の国際主義的な位置と役割を刻印させたのであった。
 六八年九月、このような国際反戦集会におけるわれわれの全国的な前進という成果を土台として、同盟の再建に直接に挑戦しようとする全国代表者会議が開催された。
 この会議の宣言は次のように訴えている。
 「昨年一二月、関東臨時ビューローが再建への出発を開始して以来九ヶ月を経て、今日全国同盟体制再建のための全国代表者会議を成功裡に迎え得たことは、世界革命の現実的主導的一翼たらんと闘う我々にとって、巨大な意義を有する前進である。
 本代表者会議は、明らかに革命的な転換を示しつつある当面の情勢に立ち向う全国的な統一方針と統一指導体制を確立することに成功した。今日以後我々は、有機的に結合した前衛の部隊として、あらゆる闘争へ主体的に介入するであろう。
 当面の情勢が何に向かって激動しているのかを端的に指し示しているものは、日大を先頭とする全世界的なスチューデント・パワーである。ここでは、文字どおり過渡的綱領とその思想だけが、闘う大衆に有効な唯一の政治的理論であることが鮮明にされている。フランス五月革命、チェコ政治革命をその劇的な象徴とするこの間の世界情勢もまた、闘争とそれが破壊したブルジョア的秩序の廃虚のなかに、この不滅の思想にだけ生き残る権利を与えている。まさに、今日は、トロツキズムの時代であり、社会民主主義とスターリニズム、そして一切の中間主義左翼が死に向って解体する時代である。
………………
 我々日本支部と第四インターナショナルはこの戦場においてはじめて真実の力を獲得しうるのである。それ故我々はまた、この戦場できたえられることを通して我が思想と組織を大衆の武器として真実に強化することを、全世界のプロレタリア人民に深く負う責任であると自覚する。
 再建された政治局、全国指導部を武器に、我が全国同盟はこの自覚の実現のために奮闘するであろう。

 永続的世界革命方才ノ1
 全世界にソヴィエト権力を樹立せよ!
 第四インターナショナルの旗の下、全世界に新しい共産党を組織せよ。」(「世界革命」第一七三号、六八、一〇・五、縮刷版第一集四五二ページ)
 この宣言がのべているように、統一第二回大会(六五年八月)によって選出された中央執行委員会の崩壊からほぼ二年間の空白をへて、ここに全国的な指導機関としての「中央政治局」が選出され、また中央委員会に相当する「全国代表者会議」が公式の常設機関として確認された。
 こうして、わが同盟は、この「中央政治局」の下で、急進的大衆運動への精力的介入を主軸とし、旧関西地方委員会との内部闘争を副軸として、いよいよ、全国大会の開催をめざして意欲的な闘いにのりだしていったのであった。

 3 急進的大衆闘争の展開

 統一した全国指導体制の下に高揚する急進的大衆運動に介入した最初の闘争は、六八年夏から秋の日大闘争、十・二一の新宿闘争、そして、あの六九年一月の東大闘争という三つの闘いであった。この三つの闘いによって、わが同盟は、不十分とはいえ、同盟としての統一した指導の下に運動への介入を図ることができたのであった。
 六七年の砂川・羽田闘争を突破口として発展しはじめた六〇年代後半の急進的大衆運動の頂点を最も端的に記録したのは、六八年夏から秋にかけての日大闘争、そして十・二一新宿闘争、さらに六九年一月の東大安田講堂という三つの闘いであった。六九年十一月に至っても、急進的大衆運動は青年労働者と市民にむけてその裾野を広げて拡大していったが、運動の深さと鋭どさを鮮明に刻みこんだのは、この三つの闘いにほかならなかった。
 以前とは異なった、中央機関紙「世界革命」をもってその急進的大衆運動に参加していったわれわれはこの三つの闘いにおいて、特筆すべき二つの意義もしくは成果を印すことができた。
 その第一は、五九年から六〇年にいたる安保闘争にたいするわが同盟の当時のかかわり方とは全く異なって、対立的に外から闘争の発展に対応したのではなく、独自な革命的な内容をもってその闘いに参加、介入し、その革命的な発展をかちとろうとしたことである。
 その第二は、十・二一新宿闘争や東大一月安田講堂への意識的な参加によって、そして国家権力の強力な弾圧によって、かえって、後の七〇年代のわが同盟建設を最前線で担う鍛えられた学生活動家カードル層を、けっして少なくない数で獲得したことである。
 復刊された「世界革命」紙第一七三号(六八、十・五)は、次のように闘いの方針を提起している。
 「6、全共闘指導部多数派は『九・三〇団交確約事項の実質化、完全実施』をスローガンにかかげている。……
 これらのスローガンや方針は、一〇月一日以降のブルジョアジー、その政府、自民党の意図と企図の本質を見ぬいていない。このスローガンや方針はいまや客観的にはブルジョアジーに有利に作用する。対立するのは『大衆団交』についてであり、若干の人事権についてである。
 問題の中心は、私有財産権そのものである。ブルジョア私学日本大学の私有財産権の全構造そのものに肉迫するスローガンと闘争路線をうちたて、永続的に深まりゆく攻撃性をもって全闘争を政治的に再武装しようとすることである。理事会=評議会の行政、財政権と財産権、教授会の自治とその人事、カリキュラム権――これらに闘いの矛先きを設定することである。私有財産権を強制的に侵害し、学生自身に直接に基礎づけられた自己権力=学生評議会権力の闘争と運動にむけてつき進もうとしなければならない。……学生自身に基礎をおく評議会権力が財政・経理を直接に統制監視しようとすべきである。われわれは全財産権そのものを奪取しようとしなければならない。
 公共的その他諸々の施設、設備にたいする大学当局の私有権を否認せよ! 学生自身の管理のもとに学生自身が自由にすべきであり、働く民衆とそのための運動と闘争にこれを解放すべきである。
 全都学生統一自衛隊を形成せよ! 官憲は日大闘争にたいする攻勢を開始した。全共闘指導部を官憲の弾圧逮捕から実力で防衛せよ! バリケードをうちかためよ! 全都の学生のあいだに日大闘争防衛を中心にする全都学生統一自衛隊をつくれ!
  ――一九六八、一 〇・七――」(「世界革命」縮刷版第一集、四五五頁)
 以上の闘いの内容は、いつわりの過激派、まがいものの「革命派」の立場ではなくして、本物の過激派であり、本当の革命派の立場であった。
 このような革命への発展をめざそうとするわれわれの主張は、東大一月闘争にも貫徹されていた。
 あの壮絶であった一月十八日、十九日の闘いの攻防戦を総括して、わが同盟中央書記局は、「戦略的勝利へ向けて」と題するアッピールを次のように寄せている。
 「国家権力、文部省当局の現在の意図は自己の支配構造の弱い環としての大学行政の全面的再編にある。警察力を背景とした文部省直接統制のもとで、進歩派教授の追放から学生自治の圧殺に到るまでを、強権をもって断行せんとする。そしてこれが七十年代革命の恐怖におびえる帝国主義ブルジョアジーの共同意志であることは論を待たない。だとすれば全国学園闘争の新局面を主導せんとする我々革命派のプログラムは何でなければならないのか? 学内改良が結局のところテルミドール反動のための短い幕間劇にすぎないのだとすれば、“改良闘争を革命的に闘う”などと寝言を言っているうちに敵の攻勢は直接本丸に迫ろうとしているのだ。
 “帝国主義秩序のための既存の全大学機構の解体”これが我々が国家権力とブルジョアジーにつきつける要求であり、“全大学と知的文化的施設の労働者人民への解放と、労働者・人民による管理”これが我々が大衆に向けて提起する目標である。
………………
 東大闘争はこうした全国戦線の焦点である。東大生も、教官も、もはやこの闘争を終らせることができない。入試は阻止された。だがわれわれはさらに要求する。入試制度そのものの永遠的破壊へと前進すべきである。この制度は、労働者・人民とその子弟に対して選別的に閉じられた知的文化的施設のブルジョア私有制に他ならないのであるから……。全ての労働者・人民は、自己の欲する学習や研究をこの“最高学府”で自由に享受すべきであり、まさにこのことのために東大闘争は実力を行使するものであることを示さなければならない。入試と共に制度としての“卒業”も破壊されねばならない。生産的闘争にプロレタリアートとして参加するに際し、支配秩序への帰順の度合いを当局の発行する一片の証書でブルジョアジーに証明してもらうこの制度は粉砕されなければならない。労働者・人民とその子弟が、自らの欲する時に来、欲する時に出るべきであって、ブルジョアジーによる一切の強制は拒否されなければならない。
 東大闘争の戦列の中に、かかる根本的にラディカルな戦略を自覚した部分が、今こそ組織され、結集されなければならない。改良主義“秩序派”の破産と分化のなかにこのような“戦略左派”の陣地を構築することによって、東大闘争の新局面に於る新しい前進が開始されるのだ。」(「世界革命」紙第一七九・一八〇号、一・二〇日、「縮刷版第一集」四八三〜四八四頁)
 当時の急進主義運動や急進諸派の水準から見るならば、かかる光り輝やくようなこの革命的な内容は、全くかえりみられなかった。その内容は、日大十万、東大、そして全国の急進的活動家層に全く注目されなかったし、わが同盟の運動を学生の分野において担っていた「国際主義派」のすべてがここに武装されきっていたわけでもない。
 だが、われわれは、繰り返し次のように言うことができる。
 われわれのそのような内容は、急進的運動をまさに発展させんがために、その運動をともに担いぬくなかで提起されたのである、と。したがって、一九五八年から六〇年に至るわがJRの致命的な弱点を、この時点で実践的にはじめて克服できたとする評価は、けっして誇張ではないことを。そして急進的大衆運動を自らが担いながらも、それにたいして確固たる批判的な見地を堅持したことこそが、七〇年代に入っての一方における急進諸派の衰退、堕落と他方におけるわれわれの政治的成長とをはっきりと画したものである、と。
 それでは、第二の点についてはどうか?
 十・二一のあの新宿における人民的な闘争の高揚によって国家権力は驚がくし、十五年ぶりで騒乱罪の適用による弾圧で報復しようとした。
 「国際主義派」は、およそ八百名以上の大部隊でこの闘争に参加した。それ以前の闘争では、常に百名前後の少数部隊で参加して闘っていたことと比較するならば、これは驚くほどの急成長であった。そしてそれ故にこそ、国家権力は、中核派にたいするとともに、「国際主義派」にたいして、全面的な弾圧をかけてきた。これによる事後逮捕者は十数名にも達し、その内三名が騒乱罪という罪名で起訴、長期拘留された。このような弾圧は、「国際主義派」がはじめてこうむった経験であり、しかもカードル層の薄さと経験不足のゆえに、重大な打撃をもたらすものとなった。十・二一新宿闘争の直後の十一・七日比谷闘争への参加者がわずか十数名というあまりにもみごとな後退ぶりは、事実上「国際主義派」の潰滅を印象づけるものであった。
 だが、かかるはじめての弾圧をくぐりぬけることによって、国家権力と闘いぬきえるという太い一本の骨格をうちたてることができた「国際主義派」は、十一月・十二月の東大闘争への参加をとおして闘争体制の整備、再結集を図っていったのであった。
 そして、東大のあの安田講堂への壮絶な篭城戦には、国際主義派は、関東のみならず全国の精鋭活動家を結集させて(―かき集めて)参加した。その数は、およそ二百名であり、これは、あの東大闘争の戦力にとって不可欠な、きわめて重要な役割を担いぬくものであった。とぼしい財力、したがって貧弱な食糧にもかかわらず、わが同盟と国際主義派の戦士たちは、どこの党派よりも立派に、敢然と、そして最後まで闘いぬいていった。それは、全国大学闘争の発展と革命への大道を切り開くことに意識的であっただけでなく、第四インターナショナルの旗を急進的大衆運動のなかに打ちたてるには、かかる激烈な犠牲がほんのささやかな投資のはじまりにすぎないことを確信しきっていたからであった。
 この闘いにおいて、「国際主義派」は約一〇〇名が逮捕され、約四〇名が長期拘留され、そして起訴された。
 こうして、全国のわが同盟の学生カードルの圧倒的多くは、二つの闘争によって獄中に閉じこめられることとなった。したがって、「国際主義派」を発展的に解消して結成された「学生インター」は、かかる骨格的なカードル層を失なったために、ほとんど未経験な新しい活動家群によって担われ、それゆえ、展開される急進的大衆運動にやっと参加していくという実状であった。
 近視眼的に見れば、たしかにこのように犠牲は巨大であった。だが、それに余りある以上に、自らの力一杯に国家権力と闘いぬき切ったという政治的資産をわれわれは獲得することができたし、なによりも次の同盟建設をその最前線で担うべき一定の重大な試練をくぐり抜けた新しいカードル層を獲得することができたのであった。この点で、六一〜二年から六五〜六六年に至る加入活動とその一定の成果とともに、かかる急進的大衆運動への全力をつくした介入は、わが同盟建設のための新たな土台をつくりだした、と評価できるのである。したがって、十・二一新宿闘争や東大闘争への介入を決定するに際しては、全く無
意識であったが、この二つの大闘争をやり切ったことは、次の同盟建設の前進にむけての乏しい財布をはたき切った貯金となったのであった。

 4 旧関西指導部との闘争と第三回大会

 中央政治局を先頭とする急進的学生運動や青年労働者運動への全力をつくした介入の体制が強化されるにしたがって、中央政治局内の矛盾が激化し、やがて内部闘争に発展することは事態の発展の当然の成り行きであった。なぜならば、中央政治局は、新たな傾向が多数となっていたにもかかわらず、それは、依然として暫定的な連合体制にほかならなかったからである。
 すでに中央政治局内部において、東大闘争の評価をめぐって旧関西地方委員会の指導的同志の方から批判的な意見が展開されていた。だが、このときは、公然たる論争にまでは至らなかった。
 このような深い潜在的な対立が、公然たる非妥協的な対立に発展していった最初の問題は、六九年の五月三一日におこった、いわゆる大教組集会の「五・三一」事件であった。このときにはじめて、中央政治局は公然たる多数派・少数派に分割され、双方の見解が「世界革命」紙上に発表された。
 この論争の性格は、単なる「五・三一」事件にたいする態度に限定されたものではなかった。それは、当時激烈に闘いぬかれていた急進的大衆運動の発展全体にとどまらず、五八年〜六〇年にいたる旧JRの評価、政治体系・路線・体質の評価に深くかかわるものであった。
 この「五・三一事件」において、当初旧関西地方委員会は、次のような声明文を発表した。
 「五月三一日大阪扇町プールで開かれた大阪教職員組合主催の“沖縄奪還大教組全員集会”に約二一〇人といわれるいわゆる反戦高校生が主催者の制止を破って乱入し、一時演壇を占拠し、この争いで数名の組合員が傷つけられるという事件が起った。
 乱入した高校生が何を求め、いかに主観的に判断したかにかかわらず、かようなかれらの行動が革命運動と反戦・沖縄奪還闘争にたいする許しがたい破壊行動であることは明白である。大教組の教員たちがこの高校生の行動をいかに見、いかに対応するかにかかわらず、われわれはこれら高校反戦派と称する青年の行動を断じて容認することができない。
 ……われわれは大教組の指導方針について意見がないわけではない。いかしながら大教組が昨年来沖縄教職員会との連帯を発展させ、沖縄奪還闘争に真剣にとり組もうとしてきたことをわれわれは知っている。……。たとえ、高校生が大教組の方針にどんな不満をもっていようと、教師にたいする彼らの批判に若干の正当性があろうと、このような客観的意義は明白である。それは、教員の自主的大衆行動にたいする破壊挑発の行動であって、それはかれらが叫ぶスローガンの主観的善意とさえ全く反対の結果をしか生み出せないことは確実である。」(「“沖縄奪還大教組全員集合”における高校生反戦諸組織の行動について」「プロレタリアート」第三五号、六九、六・一〇)
 この声明文の客観的な政治的位置が、「国際主義高校生戦線」を中心とする高校生の行動に真向うから敵対し、大教組、つまり、社会党・民同官僚と共産党の側にたつものであることは明白であった。したがって、それは、すでにのべてきたような、六七年以後の急進的大衆運動の発展にたいして過少評価もしくは否定的な見解がはらまれていたことも当然であった。この点で、旧関西地方委員会書記局の声明は、五八年から六〇年の旧JRの路線をそのまま踏襲するものであった。
 これにたいして、中央政治局の多数派は、この問題が運動の利害ならびにわが同盟の再建にとって決定的な分岐をなすものであるとして認識し、ただちに、旧関西地方委員会の声明に反対し、その撤回を要求した。
 政治局会議の多数で採択された「中央政治局」による「五・三一大教組沖縄集会及び関西地方委声明にかんする声明」は、次のように言っている。
 「2、前記の同盟関西地方委員会書記局声明は、高校生活動家たちが政治的に代表しているものと他方民同官僚と共産党の官僚的統制下に組織されたこの沖縄集会が政治的に代表しているものを単に並列的においており、この二つのあいだにある重大な政治的かつ歴史的対立についてまったく無自覚である。前記声明の致命的な誤まりはここにある。今日の大学闘争一般、そして高校生大衆がいまや参加しつつある闘争が既存のブルジョア的管理と統制の秩序そのものにたいする反乱として闘争を形成しつつあるとき、つまり伝統的ブルジョア社会と国家の強権的秩序および改良主義的支配の均衡そのものを部分的かつ過渡的に崩壊させはじめているとき、この闘争を伝統的な改良主義運動と政治的に並列して論じることは絶対にできない。フランスの五月革命についてふれるまでもなく日本の青年労働者が現に課題として直面しつつあるのは、いま大学生と高校生たちが経験的かつ手さぐりのうちに挑戦している闘争なのである。われわれは青年の文字どおり急進的な大衆闘争の発展を伝統的改良主義運動の抑圧から防衛しようとしなければならない。」(「世界革命」第一九〇号、六九、六・二〇、縮刷版第一集五一七頁)
 ここに引用した二つの声明の立場は、相入れることができない、深刻な、非妥協的な対立であった。とくに、旧関西地方委員会を代表する指導的同志たちが、「中央政治局声明」に反対する声明として、次のようにのべたとき、その対立はきわめて明白なものとなっていった。
 「(五・三一事件の)事の本質は今日の左翼の運動、特に学生運動におけるいわゆる旧三派と革マル派によって代表される極左急進主義的、最後通謀主義的傾向が重大な危険となりつつあるという兆候を明瞭に示したことである。そしてまたこの極左セクト主義的急進主義に対し、わが同盟自体が全体として正しく対処しえず、それに引きずられてきたということをはっきりと認識しなければならない。」(「世界革命」第一九一号、六九、七・五、縮刷版第一集、五二〇頁)
 蛇足ながら、その声明から明らかなように旧三派と革マル派を並列してのべ、革マル派が日大、東大闘争から惨めにも逃亡し、かつ急進的大衆運動に敵対していた重大な事実を旧関西地方委員会の指導的同志たちは知らなかった。ここにも、極左セクト主義反対として、運動の現実の生きた発展を見ることができない伝統的な弱さがうかがい知れる。
 こうして、わが同盟の影響下にあった「国際主義高校生戦線」自身の闘いによって、わが同盟と中央政治局は、政治的な二つの路線によってきわめて明白な政治的分化をとげることとなったのである。この過程はまた、同時に、ほぼ一〇年間にわたって政治的に一元的であった旧関西地方委員会内部自身におけるその後の三〜四年間をかけた新たな傾向と伝統的な傾向との闘争の起点ともなったのであった。
 旧関西地方委員会との闘争にかんする二つめの基軸は、全国社青同運動の展望、なかんずく全国反戦の再建問題であった。この問題は、いうまでもなく、急進的な大衆運動の評価を土台として、加入活動をつづけるのか、それとも独立活動へ転換するのかにかかわる、きわめて本質的な問題であった。
 五・三一事件で大激論を交わした政治局会議は、同盟第三回全国大会を準備する直前の七月、引きつづいて今度は「社青同」、「全国反戦」問題で激烈な議論を交わした。
 この問題にかんする中央政治局多数派の見解は、当時の「書記局通達」の第一一号において、次のように記録されている。
 「六七年以後、全般的に登場した青年労働者の政治闘争の参加の度合いはますます全国的で、一般的な性格をもっている。しかも、この立ちあがりの性格は、全く組合を媒介としないものであり、下からの自発的な参加として特徴づけられる。これに対して、総評・民同は完全に敵対的立場をとり、社会党はやや動揺的で、かつこの両者の非和解的な関係の調停的立場にある。したがって、全国反戦の再建については明らかに総評・民同に期待せんとすることや、社会党の調停に委ねることは反動的な試みであるといわねばならない。……。
 しかしながら、かかる全国的な青年労働者自身の闘争を一つの全国機関へと集約していく困難性は、総評・社会党だけではなく、一方では解放派、埼玉などに代表される左翼社会民主主義的、組合主義的政治勢力の存在に、他方ではいわゆる「新左翼」各派に代表されるセクト主義的傾向に帰因している。だが、われわれは、この両者の傾向を機械的に把握したり、あるいは両者の均衡の上に立ち、これを調停する役割を買うものではない。中核・ブントに代表されるこの傾向は、青年労働者自身の全般的政治傾向を政治的に混乱し、かつ過渡的に代表するものであり、真の指導的政治方針、組織の不在の故に表現されているものである。
 したがって、われわれは、今日の青年労働者の全般的な政治的活発化を、一地方にあるいは分断的に諸政治グループに集約させることで放置させるならば、この積極的諸傾向は、自然発生的な、あるいは盲目的な反乱にとどまってしまう危険性にあることを見ねばならない。
 この状況の克服にたいして、われわれは解放グループに一片の期待も計算することはできない。したがって、全国的な状況を少なからず掌握している埼玉グループがその意味で最大のネックといわねばならない。このグループ(「主体と変革」)が今日はたしている役割は、全国反戦の再建にブレーキをかけていることは間違いなく、しかも由々しき問題は、このグループの政治的基盤が、わが関西地方委員会が指導している大阪社青同である。それ故に関西地方委員会が指導しているこの間の大阪社青同における活動、および全国反戦の再建についての態度をどのように総括し、評価し、方針を提出するのか。」
 これにたいする旧関西地方委員会を代表する指導的同志たちの見解は、基本的に「五・三一事件」にたいする態度と同一のものであった。この同志たちの見解は、同じ「書記局通達」によって、次のように記録されている。
 「関西は第一に、今日の東京におけるわが同盟の状況では全国反戦のヘゲモニーは不安定であり、結局のところ解放、社民内構革派と街頭主義的六派との調停的役割に終ってしまうであろうこと。第二には東京(関東)における政治的傾向がいくつかの点で難点をもっていること。特にこの間の『世界革命』の沖繩・反戦青年委員会・青年労働者大衆の闘争の評価に行きづまりがあること。それは一言にしていえば、総評民同・組合・社会民主主義に対して最後通諜主義的、セクト主義的偏向をとりもっていること。それ故に関西(大阪)は信頼してこの間関東とともに行動することはできなかったこと。」
 以上の見解は、わが同盟の東京が弱体であり、かつ政治的な路線の相違があるゆえに、「全国反戦」の再建にたいして行動をともにすることはできないし、大阪社青同にたいする指導も従来どおりである、とするものであった。ここには、自らが意識的に関西における加入活動を進展させて、全国反戦の再建に寄与しようという立場を全くもたなかったばかりか、「五・三一事件」への評価と同様に、社会党・民同・既存の社会民主主義的左翼の枠内に自らを委ねるものにほかならなかった。
 こうして、政治局会議は、多数意見と少数意見とが全く並行し、その解決をきたる第三回全国大会へ持ちこそう、として集約しなければならなかったのである。そして、結論からいえば、第三回全国大会は、この点について明白な解決をおこなえず、関西(大阪)における加入活動を全く残したまま、六九年から七○年にかけて、全国的な独立活動への転換をなしとげていったのであった。
 六九年の八月、同盟第三回全国大会が開催された。それは、六五年八月の第二回大会から数えて、丁度四年の歳月が経過していた。「三者協議会」の発足を起点とすれば、ほぼ二年間の準備によって、第三回大会の開催に成功したといえる。               ・
 六六年当時の、あの見事な崩壊ぶりからするならば、同盟第三回大会がこれほど早く開催できたことは予想だにできなかったことであった。ベトナム革命の発展と急進的大衆闘争の発展は、それほどにわれわれの意識を尖鋭化させ、そしてその統一を促進させたのであった。
 なるほど、今から想起してみれば、同盟第三回大会への準備は、けっして万全とはいえるものではなかった。否、大会を招集した中央政治局会議は、ただ議題と日時と代議員数を決定しただけであり、大会の議案の内容そのものは、なにも討論をしなかった。大会議案は、本当にその当日の朝にできあがったのであった。にもかかわらず、乱暴な言い方をすれば、六七年八月の「三者協」の発足以後の全活動が、そして六八年九月以後の「中央政治局」を先頭とする必死の急進的大衆運動への介入のすべて自身が、第三回大会の議案にほかならなかった、といえよう。当時、中央政治局の多数派は、大会そのものにむけて議案を執筆し、全同盟への事前討論にかけ、さらに完成された議案を再提出するというような力量をとても持ちえていなかった。日常の大衆運動を追いかけ、方針、戦術を提起しただ「世界革命」紙を発行することだけに精一杯であった。そして、このような苦しい台所のなかで、なおかつ第三回大会の開催に踏み切ったこと自身が、同盟の本当の再建の確認となったあの第四回大会への道を切り開いていったのである。
 同盟第三回大会の主要な議題は、次のとおりであった。
 一、当面するアジア情勢と日本帝国主義および極東解放革命について
 二、大衆運動の情勢と統一青年同盟について
 三、一一月に至る行動方針
 そして、この三議題のうち、特に討論と対立の基軸となったのは、次の四点であった。
 第一に、提起された「極東解放革命」論そのものについて。
 第二に、「沖縄本土復帰闘争」の展望、路線、スローガンについて。特に「沖縄本土復帰闘争無条件支持」と「沖縄に無条件かつ無際限の財政支出を」とするスローガンについて。
 第三に、「全国反戦」の九月再開と大阪における加入活動について。
 第四に、きたる六九年の十・一一月闘争にたいする方針として、「職場拠点政治スト」をかかげるか否かについて。
 第三回大会は、その二日間、この四点をめぐって、終始一貫した激論の展開であった。そして、中央政治局(正確には多数派と規定すべきであるが)提出の方針は、すべて採決に付され、どの採択事項も必らず多数見解と少数見解に分かれるか、もしくは重大な保留の見解に遭遇した。それは、再建過程にあったわが同盟の当時のカオス状態と、そして新旧の二つの路線の深い対立を卒直に反映するものであった。
 事実、大会の冒頭には、旧関西地方委員会選出の代議員から大会として開催することに反対する旨の、そして、一定の文書による理論闘争を経た継続大会を開催すべきであるとの見解が提出された。また、学生代議員団の方からは、第一議題の情勢・任務方針から提案、討論に入るべきでなく、なによりも同盟建設の歴史的かつ根本的な総括から入らねばならないとする、反対動議が提出された。大会の第一日のかなりの時間が、このように大会とするべきか否か、そしてどのような大会とずべきかについての討論に費やされ、そして、結局前者の問題は、大会自身によって(多数決)決着をつけられたのであった。
 「極東解放革命」論の紹介や簡単な検討は次節に委ねることにして、ここでは、同盟第三回大会を構成していた主要な政治的諸傾向についてみておかねばならない。なぜならばそれは、第四回大会の獲得の仕方、水準が、それ以後の同盟第八回大会に至る同盟建設の苦闘の過程と深くかかわっているからである。
 第三回全国大会を構成していた主要な政治的諸傾向が、新たな路線派と古い伝統的な路線派(旧関西地方委員会)に大別されていたことは、いうまでもない。だが、大会は、単純なこの二色だけではなかった。新たな路線派のなかには「極東解放革命」に批判的、もしくは保留的であった宮城の代議員同志たちの傾向があったし、とりわけ「中央政治局多数派」の路線にたいする急進主義的反対派としての学生代議員グループの傾向が存在していた。したがって、各議案、各方針について、一方では旧関西地方委員会代議員同志との激論が展開され、他の議題では学生代議員同志たちとの激論が展開されるという状況であった。
 「極東解放革命」論をめぐっては、主として旧関西地方委員会同志との論争であった。ここで、代表的な同志たちが提出した反論は、その導き方があまりに軍事主義的方法すぎ、「軍事構造の帝国主義的再編と日本帝国主義のアジアへの経済進出との関連をもっと明らかにすべきである」、さらに、「今日都市労働者の闘争がきわめて重要となっているから、とくに日本帝国主義の内的メカニズムを明らかにすべきである」というものであった。そして、結論的にいえば、提起する側においても、反論する側においても、この第三回大会時点では、「極東解放革命」にかんする本質的な深みを十分に獲得することができなかった。
 全国反戦の再建問題ならびに「反合理化闘争」の評価をめぐっては、当然のように旧関西地方委員会代議員同志と他の全国の代議員同志との激論であった。すでに大会直前の中央政治局会議でおこなった論争が、ここでそのまま再現された。そして、全国反戦の「九月再開」という中央政治局多数派提案が、旧関西地方委員会代議員同志たちの賛成を含め圧倒的多数で採択された(保留一)。だが、不思議なことに、この全国大会の決定は、旧関西地方委員会として、一度として責任をもって実践されたことはなかった。このことは、第三回全国大会が、当然のようになお政治的権威をもっていなかったことを物語るものとともに、旧関西地方委員会が運動に本当に責任をもつ機関として建設されていなかったことをも物語るものであった。
 「沖縄本土復帰闘争無条件支持」「沖縄に無条件かつ無際限の財政支出を」とするスローガンをめぐっては、学生代議員グループを中心とする傾向との討論であった。ここで、中央政治局多数派が提出した沖縄本土復帰闘争の方針は、社会党・共産党や新左翼各派の本土平和主義の立場からする「核つき返還」反対や「返還粉砕」論やその逆の「沖縄独立論」を排して、沖縄労農人民の「自治権」「自決権」の擁護を根幹とした沖縄本土復帰闘争にたいする永久革命の立場であった。そして、これに反対する大会での有力な意見は、現にある沖縄本土復帰闘争の平和主義的側面を批判する見地から「無条件支持」に反対したり、あるいは沖縄独立革命論的な立場から反対するものであった。そして、この傾向が急進主義的であったことは、その後の沖縄本土復帰闘争の発展とその性格によって明らかであった。
 一○・一一月を「拠点政治スト」を土台とした街頭闘争の高揚でかちとれとする方針は、同様に、学生代議員団から強力な反対をこうむった。その見解は,このように提起することで、一〇・一一月決戦の意義が過少評価される、とするものであった。だが中央政治局多数派の見解は、多くの急進主義諸派が一〇・一一月決戦を文字通り次の展望をもたない「これっきり」の決戦として位置付けて闘うことしかできていない水準にたいする、深い、本質的な批判によって貫かれていたのであり、一〇・一一月闘争を、本当に青年労働者の拠点的闘争を土台として発展させようとする立場にほかならなかった。また、この見解が五八年から六〇年の旧JRがとっていたような、工場における闘争と街頭闘争とを対立的に提起するものでなかったことも、自明である。この点でも、学生代議員団の傾向は、明らかに急進主義的な当時の水準にそのまま屈服する弱さをもっていた、といえよう。
 こうして、第三回全国大会は、旧関西地方委員会の傾向と路線を圧倒的な少数派として全国的に確定させ、学生代議員の急進主義的傾向にブレーキをかけつつ、中央政治局多数派を軸として新たな中央政治局を選出し、かくて、一〇・一一月闘争体制への政治的整備を図ったのであった。
 同盟第三回大会は、それ自体として独立的にその意義を論じることはできない。これは、同盟第四回大会とあわせて一体の大会であった。その意味で、第三回大会は、客観的に第四回大会への準備大会として位置していたのであり、第四回大会の獲得にむけて、きわめて重大な血路を切り開いたものとして評価されよう。そして、この点にまた、第三回全国大会の意義がすべて刻印されているのである。

 5 六九、七〇年安保開争

 急進的大衆闘争の高揚の三年目にあたる六九年の闘い全体をふり返って理解するために、二つの事実を把握しておかねばならない。
 その第一は、あの壮絶であった東大一月闘争が新たな青年労働者に無限の感動をあたえ、そのことによって急進的大衆闘争の発展のための巨大かつ貴重な戦力が形成されたことである。事実、一月と二月、全国の主要都市で開催された「東大闘争報告集会」は、どこも圧倒的な成功をおさめ、しかも会場は、新鮮な青年労働者の闘う意欲と溌剌さでみなぎっていた。
 その第二は、二月四日、それこそ全島的な規模において、本土復帰を要求する「沖縄全島ゼネスト」が展開されたことであり、ここでも巨大な感銘を青年労働者、学生にあたえることとなった。
 この二つの事実こそが、六九年沖縄安保闘争の展開における横糸と縦糸をなすものであり、急進的大衆闘争が一層深くかつ広がりをもって発展していったことを示すものであった。
 この二つの事実は、急進的大衆闘争に無条件の政治的飛躍を強制するものであった。
 第一に、拡大をはじめつつあった自発的な青年労働者の戦列を、党派軍団的に囲いこむのではなく、いかに社会党・民同に対抗する新たな政治ヘゲモニーの形成をもって急進的大衆闘争の発展を図るのか、として。
 第二に、沖縄本土復帰闘争の勝利のために非政治的な戦術主義的闘争ではなく、いかに政治的に応えて闘いぬいていくのか、として。
 六九年安保・沖繩闘争は、四・二〇、四・二八の四月闘争、六・一五闘争、そして一〇・一〇、十・二一の十月闘争、一一月佐藤訪米阻止闘争として激烈に展開されていったが、これらを通して問われつづけていた課題は、一貫してこの二つであった。
 たしかに、六九年闘争の前半と後半の大きな山場であった四・二八闘争と十、十一月闘争において、国家権力・機動隊との激闘の最前面に登場して闘ったのは、中核派であった。われわれは、この中核派の旗の下に結集して闘いぬいていった多数の青年労働者の戦闘性と献身性にたいして、心から称賛を送っておきたい。
 だが、なお再建途上の渦中にあった当時の限定されたわれわれの力量一杯で、わが同盟が六九年安保・沖縄闘争の発展に寄与して闘いぬいたことも、巨大な事実である。われわれは、このことを確信をもっていい切ることができる。
 その第一の貢献は、なんといっても、六九年、七〇年、そして七二年までの急進的大衆闘争を支えきっていった「全国反戦」の再建に大きな寄与をはたしていったことである。
 六九年安保・沖縄闘争の口火を切っていったのは、四・二〇の青年労働者自身の闘いであった。この闘いは、一四の各県反戦青年委員会の「一日共闘」としてもたれたものであり、画期的な意義をもつものであった。すでにのべてきたように、六八年の「三月逆流」以来、全国の反戦青年委員会運動は一つの大きな壁にぶつかっていた。それは、いうまでもなく、社会党・民同の「凍結」という攻撃にたいして、いかに突破するのか、という課題であった。しかも、同じ年の六・一五闘争が中核派の壇上占拠に示されていたように、反戦青年委員会運動が、社会党・民同の枠をこえきれない流れ(革マル派や社青同解放派など)とこの枠にただ単にセクト主義的に対立するだけの中核派とに分裂していたのであった。こうして、かかる課題への突破は、ただ社会党・民同に訣別して闘うことのできる自発的な青年労働者の全国的な政治的イニシアチブの形成を通してのみ可能であった。
 そして、この最初の突破口こそが、四・二〇の「一日共闘」の圧倒的な成功であり、これは、ついには九月の「全国反戦」(全国各県反戦代表者会議)の再建をもたらしていったのであった。一〇・一〇の日比谷野音の内外を埋めつくした「全国反戦」、「全国全共闘」、「べ平連」の共闘集会の圧倒的な成功は、まさしく「全国反戦」の存在なしには考えられないことであった。
 そして、この「全国反戦」再建のイニシアチブをとったのは、わが同盟の指導下にあった宮城県反戦を中心とする東北の反戦青年委員会運動であった。
 第二の貢献は、わが同盟だけが、アジア革命・極東解放革命の観点から沖縄本土復帰闘争の位置や発展の必然性を正しく分析し、その勝利の展望をはっきりと提起したことである。なるほど、このわれわれの内容は、急進的大衆闘争全体をとらえ、政治的に再組織化するところにまでは至らなかった。むしろ、この提起は、急進的な各派によって全く理解されなかったといって良いであろう。だが、沖縄本土復帰闘争と、「返還」協定粉砕闘争の最終局面となっていった七二年の五・六月闘争において、急進的大衆闘争が沖縄人民に敵対する「返還粉砕派」(社青同解放派やつロント派など)を生みだしてしまったことを見るとき、われわれの主張や提起は、まさしく問題の環をついていたのであった。六九年闘争において発行されつづけた「世界革命」紙の紙上は、終始一貫して沖縄本土復帰闘争の方針のためにほとんどもっぱら埋められている。こうして、われわれは、いわゆる「国民平和主義」的なその最左翼としての急進的大衆闘争がもっていた政治的弱点の克服にむかって、全力をつくして闘いぬいたのであった。
 六九年沖縄・安保闘争は、文字どうり街頭における激闘として展開されつくした一一月佐藤訪米阻止闘争をもって幕を閉じることとなった。われわれは、各県の反戦青年委員会と学生インターの隊列として、この闘争を闘いぬいていった。われわれは、六九年沖縄安保闘争の全体を、自らの力の枠一杯で、しかも政治的に闘いぬくことができた。それゆえわれわれは、はっきりと確信をもつことができた。十一月闘争を自ら闘いぬいたことによって、急進的大衆闘争は今や新たな地平に飛躍しなければならないし、それを担いぬけるのは、ただわが同盟だけである、と。
 事実、一〇、一一月闘争が終るや否や、すべての急進的諸派のなかには、政治的空白感、どこに向かって闘いぬいていくべきかという方向感覚の喪失、そして次第にしのびよる混迷が支配していった。
 すでに、ML派は、方向感覚を喪失したその結果として、七〇年六・一五を総決戦として投機主義的に位置づけ、「街頭武装」闘争を展開し、そして見事に四散した。ブント=共産主義者同盟の内部では、次の路線をめぐる分派闘争が激化し、やがて内部ゲバルトに発展し、四分五裂し、そしてその最精鋭の活動家たちは軍事的蜂起路線に走って散ってしまわねばならなかった。
 中核派もまた、献身的な活動家によって構成される相対的に巨大な部隊をどこにむけて発展させるべきかの方向感覚を完全に喪失してしまった。
 七〇年の四月闘争、そして六月安保闘争にたいして、急進諸派はどのような政治方針や主張をもたないまま、ただ参加しただけであった。そして、明確な路線と主張をもちえた急進派の場合には、それは皮肉にもただ完全に誤った路線だけだったのである。
 他方、急進的大衆闘争が発展していた間は、ただひたすらそこから逃亡し、いつ終ってくれるのかと必死に待ちつづけていた革マル派は、一〇、一一月闘争が終るや否や、反動的にも急進的大衆闘争とその主導者中核派への内部ゲバルトによる敵対を開始しはじめようとした。あの東大安田闘争から惨めにも逃亡したがゆえに、数千の急進的活動家から指弾された六九年二月の中大大集会における彼らの醜態から比較するならば、急進的大衆運動の一時的後退は、まさしく彼らにとってその反動的な気分を解放させるものであった。
 こうして、急進的大衆闘争を担い、参加したすべての党派に、苛酷な試練が押し寄せることとなった。すなわち、「次はなにか?」という試練である。
 この「次はなにか」という問いにたいして、われわれは基本的に二つの方向を確認していた。
 その第一は、一国主義的な急進的大衆闘争が本当に国際主義的なものとして生まれ変わり、発展していくという方向性である。その第二は、学生・青年労働者に限定されていた急進的大衆闘争を社会党・民同共産党、革マル派から防衛しつつ、広範な労働者人民に波及させていくという方向性である。
 そして、この二つの必要な方向性のうち、第一のものをもっとも具体的に指し示していたのは、七・七集会における「華青闘」の告発であった。試練は、実に早くやってきたのである。
 このとき、多くの急進的党派は、自らの政治的言葉を失うか、すっきりと自己否定して清算するかのどちらかであった。そして、わが同盟だけが、華青闘の告発を正しく受けとめ、日本の労働者人民による真実に兄弟的で国際主義的な闘いの構築の必要性を訴えたのであった。
 こうして、七〇年安保闘争、四月闘争から七月闘争の過程は、他方ではこのような激烈な急進的大衆闘争の政治的再編成のはじまりでもあった。そして、このなかで、わが同盟は、唯一の国際主義的な党派として自らの役割の重要性を確認できたし、新たなみなぎるような意欲で、急進的大衆闘争の政治的な再編成期にのりだそうとしたのであった。
 このような意欲と確信は、そのまま同盟第四回全国大会への準備として表現されていったのであった。

 6 第四回大会

 同盟第四回全国大会は、七〇年の八月に開催された。同盟は、すでに第三回大会当時のカオス状態から脱出し、第四回大会の開催を当然のものと受けとめ、比較的集中した雰囲気と部分的な熱狂のうちに大会を迎えた。
 大会の主要な議題は、次の三つであった。
 第一に、同盟建設――総括・展望・任務
 第二に、当面する情勢と大衆闘争におけるわれわれの任務
 第三に、新しい全国青年同盟の建設について
 この第四回大会は、それまでの同盟建設上の過程において、あらゆる意味で、歴史的で画期的な意義を有するものであった。その意義をほぼ次の三点にまとめてみることができる。
 その第一は、すでにのべてきたように、われわれは大会という最高の権威のもとに、全国的に統一して加入活動から独立活動への転換をなしとげ、第四インターナショナル日本支部=日本革命的共産主義者同盟として公然と全労働者人民の前に登場していったことである。
 六七年から六九年の三年間の闘いの過程は加入活動から独立活動への過渡期であった。もっとも早く独立活動への先駆を切り開いていったのは、学生運動であった。そして、つづいて東京=三多摩の青年労働者グループがICY(国際主義共産青年戦線)として独立活動に参加していった。宮城県を中心とするわが東北の青年労働者運動は、六九年一〇・一一月闘争を社青同・各県反戦として闘いぬいていた。だが、その活動の実態は、次第に各県反戦の活動に重点を移しているものであり、実際上半独立活動の性格を深めていた。そして、関東において社会党にもっとも深く加入活動をとっていたグループは、「根拠地活動」を軸としながら、七〇年四月まで社会党内で活動を進めていた。
 したがって、六八年六月復刊された「世界革命」紙は、学生と一部の青年労働者を除いては、なお依然として純然たる「内部機関紙」にとどまっていた。
 第四回大会は、これらの過渡性と制約性という壁を完全に取り払い、かくて直接労働者階級と被抑圧人民のなかにわが同盟をつくりだしていく、新たな闘いへの道を切り開いていったのであった。だから、換言すれば、六七年から六九年の急進的大衆運動へのわれわれの意欲的な参加は、加入活動の一定の成果を急進的大衆運動のなかで政治的に再組織し集約させ、かくて公然たる独立活動への意識的な準備を図ることにあった、といえよう。
 その第二は、深い崩壊と経験的な再建過程で当然にも形成されてきた、同盟としての地方分散的な性格が克服されて、一つの全国的に統一された同盟が誕生したことである。
 すでにのべてきたように、三者協議会(六七年八月)、中央政治局(六八年九月)、第三回大会で選出された中央政治局は、それぞれ次第に発展を深めていたものの、諸傾向の連合、もしくは地方連合的な暫定指導部にすぎなかった。それは、だから、民主中央集権的な強力な中央指導部をつくりだしていくための助走、テスト期にほかならなかった。
 だが、同盟第四回大会が選出した新たな中央政治局は、同盟建設と大衆運動に本当に責任をもちぬこうとする最強の指導体制であった。同盟の全国的な統一性の度合いが、中央指導部の強弱で判断される以上第四回大会をもって、はじめてわれわれは、同盟としての再度の全国的で、政治的な統一をなしとげた、といえる。このことは、裏を返せば、旧い政治傾向を体現していた旧関西地方委員会が、急速に後退してしまったこととしても表現されていた。そして、これ以降、わが同盟は、この新中央政治局と新中央委員会のもとに、新たな困難な闘いへの挑戦をはじめていくのである。
 最後に画期的な意義の第三は、崩壊期における深刻なわれわれ自身の政治的・理論的再検討(その最高が「解党提案」)と急進的大衆闘争への介入という時期全体において、そのさまざまな機会に発表され深められてきた新たな綱領と新たな政治路線のための闘争が、この第四回大会において、新たな体系としてはじめて定式化されたことである。
 六七年から六九年の三年間をとおした、きわめて実践的・理論的活動は、すべてその期間に発行された復刊「世界革命」紙および復刊「第四インターナショナル」の第一号から七号までに収録されている。(なお、その重要な著作は、「ベトナム革命と世界革命」「アジア革命と極東解放革命」という本文庫の第四号と第十二号に再収録されている)。
 こうした政治的・理論的作業の積み重ねの一切が、第四回大会において、「極東解放革命」という表現をとおして定式化され、集約されたのであった。
 われわれの「極東解放革命論」は、極東という相対的に一体となりつつある極東帝国主義体制の打倒のために、朝鮮、沖縄、日本本土の労農人民が一つとなって闘わねばならないとする、そのような単純なものではない。もっとも、ここに日本の新左翼各派がもっと早く到達していたならば、彼らの受ける打撃はそれだけ少なく、そして急進的大衆闘争はもっと素晴らしく発展していたであろうが。
同盟第四回大会で定式化された新たな体系の特徴と意義を、同盟第六回大会(一九七三年二月)は次のように整理している。
 「第一は、国際情勢の構造と世界革命の展望を時代的かつ単一的に把握せんとしたことである。
 第二は、戦後国際帝国主義の性格にかんする全体的、歴史的な規定であり、具体的には戦後の国際帝国主義支配体制のなかにしめるアメリカ帝国主義の主導的な位置・役割にかんする規定であり、他の帝国主義諸国の歴史的な政治的衰退にかんする把握である。すなわち、アメリカ帝国主義を除いた他の帝国主義がもはや自立的には政治的に自己の支配体制を防衛しえない歴史的位置に立たされていることの把握である。
 第三は、この戦後国際帝国主義支配体制と全世界の被抑圧労働者人民との関係を世界的二重権力関係として把え、この観点から労働者国家とスターリニズムやアジア革命・植民地革命を把握せんとし、かかる把握のうえにたってこの世界的二重権力関係が戦後を転機として帝国主義にとっては不利に、被抑圧人民にとっては有利なものに転換していることの時代的な認識である。つまり、戦後国際帝国主義もそれゆえにまたスターリニズムも歴史的な政治的衰退過程に入っているという認識である。
 第四は、今日の世界的二重権力関係を世界革命にむけて前進させている決定的環としてのベトナム・インドシナ革命の積極的な位置についての主張である。第四回大会テーゼは、ベトナム・インドシナ革命を、まさしくアメリカ帝国主義の軍事的支配体制と根本的に対決する世界的永久革命の見地から把握しようとするものであった。……。すなわち、今日の反革命の抑止力はアメリカ帝国主義によってのみ担われていること。アメリカ帝国主義の反革命的抑止力は軍事的かつ政治的な性格をもっていること。それゆえにアメリカ帝国主義とベトナム・インドシナ人民との対決は反革命的極としての世界史を決定する闘争として位置していること。したがってベトナム・インドシナ人民の闘いはまさに帝国主義の戦後の国際的支配体系に敢然と挑戦している決定的環として位置していること、等の発見・規定であった。
 第五は、以上のベトナム革命にかんする把握を歴史的なアジア革命の流れのなかに位置づけようとした(ことである)。つまり、近代以降のアジア帝国主義支配体制にたいするアジア革命という連続的な政治史のなかでそれを把えんとしたことである。ロシア革命の影響とアジアにおける全大衆的な民族的覚醒を呼びおこした第一次中国革命(一九一一―二八)を中心とする第一次アジア革命、旧日本帝国主義にたいする徹底的な武装抵抗闘争を貫徹した第二次中国革命を中心として全アジアで民族解放闘争が展開された第二次アジア革命をうけつぐベトナム革命の歴史的位置とアジア革命の新たな再生を展開したのであった。かくしてこの第三次アジア革命(極東解放革命もこの同一概念のうちに含まれる)という新たな概念の提出こそ、旧体系を克服し前進する最大の出発点であった。
 第六は、この第三次アジア革命の概念を武器として、日本プロレタリア革命がもつべき国際的・政治的な基本任務、この勝利のための国際的・政治的条件、この勝利のために要求される今日の党建設の内容等を明らかにするために、近代以降の旧・新日本帝国主義の衰退と発展の歴史的把握がなされたことである。すなわち、近代以降の日本史を旧帝国主義支配体制と被抑圧アジア人民との闘争関係のなかでさらに戦後では新帝国主義・アメリカ帝国主義の一元的・軍事的支配体制と第二次・第三次アジア革命との闘争関係において分析し把握せんとしたのであった。かかる分析は旧体系のように日本階級闘争の展望と任務を一国主義的に理解するものではなく、まさに国際帝国主義と闘争するアジア永久革命との有機的な関係のもとにたてようとするものであり、また旧体系のようにプロレタリア階級がそれ自体として革命的であると把握するのではなく、アジア永久革命という展望と課題にむけてそれを政治的に再組織しなければならないという党建設の根本課題を明らかにするものであった。真実の党建設はあるがままの即自的な民族プロレタリアートに依拠して達成されるのではなく、国際的な階級闘争の歴史的発展とその最高度に結晶された革命的イデオロギー、現実のもっともすぐれた国際的な革命運動に依拠して遂行されるものである。
 第七は、以上のような全体的把握のゆえに新日本帝国主義の本質的な政治的衰退過程や危機の基本的展望を明らかにしえたことであり、したがって全人民的な急進的大衆闘争の発展を予測しえたことである。そしてまた、かかる展望を予兆するものとして六七―六九年の沖縄・本土の急進的大衆闘争の高揚を把握したのである。」(理論機関紙「第四インターナショナル」第一〇号、九八―九九頁)
 以上は、六七年からのわれわれの理論作業、そしてなかんずくその集約としての第四回大会テーゼを、見事に要約している。第四回大会は、「極東解放革命」として表現したその衣のなかに、かかる核心的な内容を提起していたのであった。
 それでは、ここにのべられている「旧体系」とはなにか? それは、どんな特徴をもっていたのか?
ふたたび、この第六回大会における規定を引用してみよう。
 「20 旧体系の政治的特徴は以下のところにあった。
 第一は、戦後帝国主義の時代的特徴と全世界の帝国主義と被抑圧労働者階級・人民との時代的な力関係の現状にたいする明白な認識の欠如である。
 したがって第二には、当然にも世界革命の展望が抽象的なものにとどまっているということである。
 第三は、日本革命・日本階級闘争の展望と、世界革命・国際情勢とが有機的に組立てられていないことである。
 第四は、第三と基本的には同一の問題なのであるが、植民地革命と帝国主義本国のプロレタリア革命との関係において、両者を政治的に切断し、あるいは後者を現実の方針において一般的に強調することである。このことは、現実の世界的な革命運動において、進んだ運動にたいして消極的かつ否定的な態度をとり、遅れた運動を防衛せんとする誤まった態度を導びくこととなっている。
 第五は、具体的には日本革命と日本階級闘争の一国主義的展望のゆえに、現実の政治方針が労働者主義、経済主義として帰結せざるをえなかったのである。
 第六は、以上の理由のゆえに日本帝国主義と日本大衆運動の歴史的な政治的・社会的分析にもとづく把握の欠落を招き、一般的なプロレタリア階級生産点闘争至上主義とでも呼ぶべき傾向とあいまって、急進的大衆運動の積極的過程にたいして敵対する日和見主義を生み出したことである。」(同、九六〜九七頁)
 歴史的にも現在的にも存在し発展をとげようとする第四インターナショナルの戦列のなかにあるわれわれにとって、単純素朴に、非政治的な態度で、実践と運動にかかわることは不可能である。このことは、旧体系が事実上破産し、それに代る新たな体系をもちえなかったとき、たちまちのうちに同盟の統一した全国機能が崩壊してしまったことに、見事に表現されている。逆にいえば、新たな政治体系に挑戦しようとする創造的な確信があったからこそ、われわれは急進的大衆闘争への積極的参加をなしとげていったのであり、またこの参加の過程こそが、旧JRの体系に代わる新たな綱領的・政治的体系の形成にほかならなかったのである。そして、第三回大会、とりわけ第四回大会こそは、後に全面的に発展させねばならない、いくつかの見解の対立をはらみつつ、基本的にこの新たな体系による同盟の全国的統一の達成にほかならなかったのである。
 こうして、以上の三点の意義をとらえ返してみるとき、同盟第四回全国大会こそは、六七年以後のみならず、六〇年直後からの加入活動以来の、大衆運動への介入と同盟建設のための一切の闘争を総集約した大会であり、また、それゆえに、七〇年以後の新たな闘いのための土台、出発点をきづいた、と評価されるのである。
 この画期的な意義をもった同盟第四回大会の成果を大衆的に一層かため、同盟の強固な全国的統一の方向に導いていったのは、その年の九月に全国の主要都市で開催された、わが同盟の「政治集会」であった。
 この政治集会は、わが同盟が公然と活動的な労働者大衆の前に登場したものとして、はじめての本格的なものであった。そして、この政治集会は、わが同盟が新たな政治路線のもとに前衛的指導部に挑戦することの深い決意を公然と宣言したものであり、また新たな闘争体制をつくるための「閲兵式」にほかならなかった。政治集会は、関西を除いた全国の主要都市で圧倒的な成功をかちとり、かくて、第四回大会に対応するものとして、わが同盟の出発点を活動的労働者・学生のなかで印すことができたのであった。
 第四回全国大会とこの全国政治集会によって、わが同盟の独立活動体制の整備と強化は、以後急速なテンポで進められていった。
 同盟としての全国労働運動対策会議がはじめて開かれたのは、この直後の十月であった。そして、この会議は、加入活動を展開してきた指導的な同志たちによる全国労対を発展させ、以後新たな独立活動の観点からする労働者運動への介入とそのための指導体制が強められていった。
 同様に、この年の同じ十月、新しい全国青年同盟をめざす「国際主義労働者委員会」(ILC)を建設するための、同盟としての「全国対策会議」が開催された。この会議は、きわめて克明に、内外の急進的な青年労働者運動の現状と性格を分析し、またILCを建設していくための基本的なプログラムと指導体制を決定した。そして、この会議の決定にもとづいて、七一年一月、全国の青年労働者が一堂に会し、第四インターナショナルの旗の下に急進的な青年労働者運動の指導的潮流に挑戦することを誓いあったし、それは、この年の八月のILCの実際上の結成をつくりだしていったのであった。
 こうして、同盟第四回全国大会は、わが同盟の独立活動体制を急速に整備・強化し、かくて、七一年から七二年の沖縄、三里塚闘争体制をつくりだしていったのである。


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