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ハンガリア革命の歴史的意義
――トロツキー著『スターリンの暗黒裁判』あとがき


 一九五六年十一月二十三日に執筆され、トロツキー著『スターリンの暗黒裁判』(東洋経済新報社、五六年十二月刊)の「あとがき」として発表された。

 わたくしがこのあとがきを書いているいま、新聞とラジオはハンガリーの労働者評議会がふたたびゼネストを宣言し、全国の活動が完全に停止したことを報じている。評議会はカダル政権との協定にしたがって、十六日いったんストライキ中止を指令したのである。ところが、クレムリンは東欧諸国に大軍団を進駐させるといっしよに、ハンガリーにも二十万の歩兵軍団を増援して労働者に強圧を加え、その上軍隊をつかって全国評議会を解散させようとした。この暴挙に怒って、四十八時間の抗議のゼネストを宣したのである。そして全労働者は、怒溝のような力と鉄の規律をもって、ソ連軍にたいするこの抗議の指令に従ったのである。全国の主要都市はソ連軍の砲火で完全に廃嘘と化し、外部からの支援を断たれた労働者は、飢餓と寒気と悪疫のため、死に脅かされているのだ。それだけではない。この熾烈な闘争の中に、いかに多くの指導者や、戦友や、親や兄弟を失ったことであろう。残虐な砲火の下に、刀折れ矢尽きて、労働者の英雄的抵抗もついに血の海の中に圧殺され、ハンガリーの革命は終ったと、全世界の報道陣が報告したのは、ほんの昨日のことではなかったか。しかも、不死鳥の如く、血の海と廃嘘の中から起ち上って、圧倒的な敵の軍隊の暴圧にたいし、巨人のように、断固として挑戦する! 何という崇高な革命的英雄性であろうか! 何という偉大なモラルであろうか!
 チェッコや東独、ブルガリアやルーマニアの党幹部はブダペストに急行し、カダル政権支持を示威し、仏伊をはじめ世界各国の共産党は、ハンガリー労働者の英雄的闘争を反革命と断じ、その武力弾圧に拍手をおくる。カダル政権は自らを革命的労農政権と名乗りている。だが、たった一人の労働者の支持もえられず、全労働者を敵に回している労農政権なるものが、いったいありうるだろうか!
 圧倒的な敵の砲火にも、飢餓にも、全世界の友党の裏切りにも、屈することを知らぬハンガリーの労働者は、その英雄的闘争によって、現にいま新しい世界史の鉄の扉を開きつつあるのだ。ハンガリー労働者はソ連軍が撤退するまでは闘争を止めないと宣言している。だが、ハンガリー労働者の勝利は、ソ連の撤退とハンガリーの民族的独立だけに止まらないであろう。それはハンガリーにおけるプロレタリア民主主義の完全な実現を意味するとともに、クレムリンが分割支配のため、武力をもって辛うじて維持している東欧諸国の国境、税関、 #独自の# 通貨等々、資本主義時代の反動的遺物の一掃と、東欧社会主義連邦の実現に向って巨歩をすすめることになるであろう。それはまたソ連自体の政治革命を意味する。ソ連と東欧を一体にした全ソ連圏社会主義連邦が生まれ、何億の大衆の創意が全面的に生かされ、統一されるとしたら、どんなに素晴しい偉力が発揮されるだろうか、まことに想像を絶するものがある(しかも、そのための歴史的条件は、すでに熟しすぎていて、腐りかけているのである)。全人類のために、この壮大極まる展望を開きつつあるハンガリー労働者の英雄的な世紀の闘争は、東欧や西欧の労働大衆や知識階級をどんなに激しく揺すぶり動かしていることだろうか! この震憾と共感を食いとめようとして必死になっているこれらの国々の、民族主義的スターリニスト幹部たちの努力も、この闘争と偉大な展望のまえには、悲惨なほど空虚であり、いかにも田舎じみた、小っぼけな小人たちの狂奔か、蟻の逆立ちのように見えないだろうか。
 新聞はモロトフの国家統制相就任を報じ、「スターリン主義の復活」を論じている。だが、フルシチョフ=ブルガーニン=ジューコフの第二次三頭政治が、マレンコフ=べリヤ=モロトフの宥和政策に反対して、厳然として登場したときのスローガンは、消費物資のかわりに重工業、自由のかわりに団結、生活緩和のかわりに一層の耐乏生活であり、本質的にはいわゆる「スターリン主義の復活」であったのではなかったか! そしてこの強圧政策が労働大衆の憎しみと反感に遭い、その鬱積した反撃のバロメーターが危険なほど上昇したために、フルシチョフ本来の使命であるこのスローガンを全線にわたって引っこめるという、総退却を行なったばかりでなく、自分たちの特権体制の集中的象徴であり、官僚独裁のよって立つ主柱である「スターリン崇拝」を、自分の手で、上から叩き壊すという文字通り命とりの芸当を演じねばならなかったのではなかったか!
 世界スターリニズム全体の危機にあたって、貧して鈍したクレムリン官僚の間の無慈悲な内部闘争が激化することは当然である。だが、モロトフもマレンコフも、東独労働者の反撃に遭って退却させられた敗北者だということを忘れてはならない。ハンガリー労働者の、ソ連増援軍団にたいする不死鳥のような新たな闘争宣言は、クレムリン寡頭独裁内部に、新たな亀裂と葛藤を激発させずにはおかないだろう。新聞は戦闘の最中も、ブダペストのソ連戦車兵たちがみなむっつりして、罪ありげな不機嫌な顔付をしていたと言っている。そればかりではなく、三千のソ連兵が、戦車もろとも革命軍側に走り、彼らとともに戦ったと報じた。クレムリン独裁官僚が、そのかいらいたるカダル政権の労働者にたいする譲歩と妥協にもかかわらず、さらにハンガリー革命の弾圧をつづけるとしたら、一弾は一弾と全欧労働大衆の怒りと抗議をまきおこすことになることは火をみるよりも明らかである。すでに世界労連は、ハンガリー労働者(ソ連やカダル政権と戦っている)にたいして、一万ポンドの救援金を送ったということである。これは、消極的な形をとった抗議である。だが、揺すぶられている下部大衆の圧力によって、消極的抗議は積極的攻撃に移行せずにはいないであろう。
 「ファシスト諸国におけると同様、官僚の主要な力は、それ自身の中にはなくて、大衆の幻滅の中に、大衆が新しい展望をもっていないということの中にある。」(トロツキー『過渡的綱領―資本主義の死の苦悶』)スターリニズムの経済的・政治的基盤が崩れ、大衆が新しい展望を得はじめて、攻勢に転じているとしたら、クレムリン官僚の首のすげかえは、ただ「集団指導」官僚たちの混乱をばくろし、大衆の確信を強化するだけであるだろう。
 ハンガリーの事情調査と救援を、現在のような国連にまかせておくことは、非常に危険である。調査と救援の国際運動のイニシアティヴは、労働階級と知識階級がとらねばならぬ。それは一刻の逡巡もゆるさない。それだけが帝国主義の干渉と、ひいては第三次世界大戦の危険を防ぎとめることができるからである。
 ポーランドやハンガリーの労働者や大学生の直接闘争の激しさに目を奪われて、もう一つの重要な発展を見落してはならない。それは、これらの国々の労働者と知識階級がスターリニズムのドグマから決定的に解放されて、徹底的に自由な立場から、独立的に物を考え、公然と主張しているということと、この激しい渦巻の中で急速に高い社会主義的立場に立ちかえり、本来のマルクス主義のイデオロギーを発展させつつあるということである。そうした彼らの眼には、スターリニズムのドグマなどは、何とも惨め千万な、空虚な、子供騙しにもならぬ託亘としか映らず、彼らはそれを軽蔑と嫌悪をもって破棄していることである。彼らの闘争の直接のきっかけは、生活の悪条件であったが、しかしこの闘争は苦しまぎれの絶望的な後衛戦的反抗ではなくて、生産力の偉大な発展から生れたはるかに高い展望から、必然的に、自然に、燃えあがったものであり、ソ連兵士の不機嫌な渋面と対照し、たえがたいほどの確信と誇りと楽観主義に貫かれており、それが氾濫しているのである。
 トロツキーはスターリン独裁の暗黒時代を通して、スターリニズムの分析とこれとの闘争に死力をつくした。そして、スターリニズム的官僚独裁は、過渡的な、危機的存在であり、やがて崩壤しなければならぬと断じ、それをくりかえし解明して、革命的楽観主義の権利を主張しつづけた(本書ならびに『裏切られた革命』)。その予言がいま、想像を絶する激しい力をもって実証されつつあるのである。刻々重大性を加えていく東欧と全ソ連圏の発展を理解し、明日の展望を明らかにするために、彼のこれらの輝かしい論文を、一人でも多くの人が読まれんことを切望してやまない。
 本書は解説〔本巻前章〕でも述べておいたよつに、デューイ委員会の審問でのトロツキーの最終弁論であって、同委員会の報告書『トロツキーの立場』と『無罪』に収録された。一九五〇年、ニューヨークのパイオニア・パブリッシャは、この演説だけをとり、ハンセンの序文をそえて、『スターリンの陰謀 モスクワ裁判』の表題で発表した。本書の翻訳を喜んで快諾された未亡人ナターリヤ・セドヴァ・トロツキーに深く感謝したい。
 未亡人はいまもメキシコ市郊外コヨアカンの、一九四〇年八月二十日、トロツキーがスターリンの手先に暗殺されたあの家にあって、世界の動きに深い関心をはらっておられる。
 一九四五年十一月二十日、ニュールンベルグ裁判が開かれた。モスクワ裁判で、トロツキーその他の被告にたいする重要な告発はヒットラーと共謀したということであった。モスクワ裁判では、ニュールンベルグ裁判の被告の一人であるルドルフ・ヘスは、トロツキーとヒットラーとの間の長い交渉の連絡係をつとめたとされた。ナチスの秘密文書はすべて判事のまえにおかれた。判事席には、クレムリンの代表も坐っていた。一九四六年一月、第四インターナショナルのイギリス支部革命的共産党は、ニュールンベルグ法廷にたいしてモスクワ裁判の誹謗的告発に関する厳重な調査を要求した。ついでH・G・ウェルズを首班としたイギリスの著名な政治家や文学者たちの一団と国会議員たちは、ナタリヤ・トロツキーの代表を法廷に出席せて、ヘスを訊問することをゆるすこと、そしてもしトロツキーとヒットラーとのいわゆる陰謀に関する文書を――そんなものがあるとしたら――提出することを要求した。アメリカ合衆国では、百名にあまる著名な政治家、労働組合指導者、牧師、大学教授、作家たちが、トロツキーその他とナチスとの対ソ戦準備の陰謀なるものを調査することをもとめる請願書を提出した。一九四六年五月には、アルバート・ゴールドマンは、未亡人の顧問弁護士として、「この問題に関して証言するすべての証人を反対訊問し、ロシア人が彼らの陰謀裁判を支持するために提出する一切の文書を調べる」権利を要求した。
 だが、クレムリン官僚の代表は頑として沈黙を守り、米、英、仏等の代表者も、クレムリンの代表を困惑させはしなかった。こうしてすべての要請は無視され、スターリニストはモスクワ裁判の告発事項に関しては一言も発しえずに終った。
 本年二月、ソ連共産党第二十回大会で、フルシチョフが演説した後も、未亡人は直に大会議長にあてて打電して、モスクワ裁判の再審と、一切の文書の公表を要求したが、もちろん何の反応もなかった。
 だが、ソ連の労働者は、そして世界の労働者と知識階級は、クレムリン独裁官僚にたいし、一切の事実の公表をいよいよ激しく要求するであろう。
  〔追記〕
 校正締切り直前のいま、明日の展望を予測するためにぜひとも重要だと考えられることを、ここに列記しておく。
 一、ハンガリーの二重政権。労農ソヴィエト新聞はソ連の戦車に支持されてわずかに息するカダル政権と、全国民に支持された革命的労働者全国評議会との二重政権が存在することをつたえている。カダルはいわば冬宮の一室から一歩も外へ出ることのできなかった、最後の瞬間のケレンスキー(トロツキー『ロシア革命史』第五巻参照)と同然であって、ただソ連の戦車に守られて、いちじくの葉っぱほどの役にもたたぬ存在をつづけている。 一方、闘争の最中に全国の都市の工場や職場で、民主的選挙によって、労働者の革命的闘争機関として生れた労働者評議会は、市民の日常生活から一切の行政面の指導権を握り、評議会を通さなくては何一つできず、 #農民# は食糧を提供して評議会を支持し、その指導に服している。都市の #小市民# 層また然り。 地方都市では、評議会の指令のもとに、労働者、 #兵士# 、 #学生# が組んで、警察のかわりに市内をパトロールしている。つまり、評議会はもはや労働者だけの闘争組織ではなくて、労働者、兵士、農民、学生の #ソヴィエト# であって、労働者が完全に指導権を握っているというのである。労農ソヴィエトは国境地方や炭鉱地方で、広範な地域にわたり「自治政権」を樹立しているという。このソヴィエト網の中核体をなす労働者の評議会は、 #国有財産化# された #社会主義的生産機関# を基盤とし、これを掌握し、この防衛のために闘っており、兵士も農民も小市民も、それを絶対に支持している。このことは、ハンガリー・ソヴィエトが、ロシアの十月革命当時のソヴィエトよりもいっそう高次のものであり、はるかに強力であることを証している。
 二、クレムリン官僚や各国共産党はいまでも反革命分子を口実にしている。反革命とは資本主義への復帰である。革命勃発の混乱当初、かつての政治屋の一握りほどの生き残りが集って、西欧への接近を策したことはありうるだろう。だが、 #生産機関一つもたぬ# これらの失業政治屋たちは、迷って出た亡霊のようなもので、蠢動する余地はなく、鉄火の洗礼にあってたちまち雲散霧消してしまった。都市の小市民も農民も、支持どころか一顧もあたえないで、強力に労働者評議会のもとに立っている。
 三、クレムリン官僚独裁の集団指導者たちは、ハンガリー国境を地雷と戦車で封鎖し、この密封した蟻地獄の中で革命的労農ソヴィエトを絞殺しようと狂奔している。評議会内にある帝国主義の手先やファシスト分子を弾圧するのだと称し、ソ連軍の出動は国際プロレタリアのソリダリティのためだとうたっている。国際プロレタリアのソリダリティを口にするなら、なぜ武力行使のまえに、まず全世界の労働階級に檄し、各国の労働団体代表を動員し、この帝国主義的策謀の事実の調査をもとめ、全世界の労働階級のまえに暴露させないのであるか! 共産党はなぜそれをしないのか! 何が恐しいのか!
 四、ハンガリー革命の直接目的は、 #民族の独立# であり、この中心スローガンはソ連軍の完全撤退とクレムリン官僚独裁からの解放である。ということは、クレムリン官僚からの独立であって、ソ連大衆との断絶ではない。反対に、自由平等の立場でソ遵と真に統一結合することを妨害している独裁官僚にたいする闘争である。ハンガリーの国有生産機関は、ソ連や東欧諸国の計画経済と融合しなかったら完全に機能を発揮しえないことを、ハンガリーの労働者は知っている。 したがって、彼らの民族の独立闘争は、民族主義や国家主義でなく、真の社会主義的国際主義を指向しているのである。
 五、ハンガリー革命の口火は、二十回大会のスターリン批判に端を発していることを忘れてはならない。ミコヤンやフルシチョフにスターリン批判をさせたのは、ソ連の勤労大衆の強力無比な圧力であって、この圧力のバロメーターが危険点に急臘したためであり、ハンガリー革命は早晩ソ連の大火薬庫に引火せずにはいないことは、先に指摘したところである。すでに新聞は、モスクワ大学生の動揺、フルシチョフが狼狽して、学生の説得に狂奔していること、ついに急進学生の逮捕にまで発展し、モスクワ大学生の地下組織が問題にされているということをつたえている。
 これは非常に重大な兆候であって、激動の舞台はいつソ連本国に移るかわからないと見なければならない。この兆候の重大性をはっきり理解するためには、レーニン主義学生の地下組織のITLを知る必要がある。これについては、ドイツ人のブリギッテ・ガーラント女史とドイツ人医師ヨゼフ・ショルマールが詳しく報道している(ガーラント女史『スターリンの囚人収容所の生活とヴォルクタの大ゼネスト』邦訳パンフレットあり、ショルマール『ヴォルクタ』参照)。
 レーニン主義学生たちは "Istnni Trud Lenina" (「レーニンの真の活動」)といっていて、その宣言には、官僚と軍隊に基礎をおく支配体制を政治革命によって打倒する労働者、農民ソヴィエト政府による完全な民主主義の樹立、工場ソヴィエトと集団農場ソヴィエトは秘密投票による普通選挙で選出され、立法、行政、司法権を執行する、職業的官僚を廃して、労働者、農民委員会がこれに代る、職業的将校団をもつ常備軍を廃し、民兵にする、民兵の唯一の上官は、全兵士によって選挙された兵士ソヴィエトである。このためには官僚と軍閥の夢頼政治を一掃しなくてはならぬと規定している。この宣言は一九四八年、十名あまりのモスクワ大学生によって起草され、複写されて秘密に大学内にまかれた。このテーゼはたちまち多くの学生をひきつけ、ほんの数ヵ月のうちにモスクワばかりでなく、レニングラード、キエフ、オデッサなどの大学に数百名の同志と支持者を獲得した。
 ITLの基本的綱領の一つは、共産主義への移行は「あらゆる国々の労働階級が全世界を包含する革命に共同して活動することによってのみはじめて達成される」というのである。したがって、スターリン主義者の民族主義的領土拡張政策を徹底的に排撃し、戦後のソ連の一切の領土併合を否認し、東欧政策を批判し、これはレーニンの民族自決の原則を犯すものだと規定した。ITLの地下活動は口頭宣伝と秘密文書により、まる二年間、激しくつづけられ、都市の大工場の労働者たちとも連絡をつけることに成功した。が、ついに最初の打撃により、一夜のうちに数百名の同志が逮捕された。このニュースはモスクワ全市にひろがった。逮捕された同志たちは二十五年の刑を宣告されて、極北やシベリアの各地の収容所に数名ずつ分散追放され、さらに当局から危険視されて、収容所から収容所へとたえず移動させられた。だが、そのおかげで、彼らはほとんどすべての重要な強制収容所の政治犯たちと接触連絡することができ、いたるところで指導的立場に立つようになった。モスクワ北部の極北地の囚人都市ヴォルクタは二十五万の囚人を収容する重要な炭鉱地帯であるが、ここでは彼らの指導のもとに、一九五〇年ごろ数百マイルにひろがる五十の収容所の秘密連絡が確立され、ストライキの準備態勢ができていた。一九五三年三月スターリンの死、六月の東独反乱、五月のナリンスク収容所大反乱に確信をえた彼らは、七月ついにゼネストを宣言、彼らの完全な指導下に三ヵ月にわたる闘争をつづけ、ついに目的を達成した。イェニセイ河口に近いナリンスク収容所のおなじく三ヵ月にわたる大反乱は、日本人捕虜により詳細につたえられたが、ここでもITLの同志が先頭に立っていたという。今日のモスクワ大学生の動揺の背後には、彼らの地下組織の組織的活動があること、それは全国的な組織をもっていて、すでに大衆闘争の経験によってきたえられていることを見落してはならない。
 六、ウクライナの民族闘争。ウクライナ人の民族独立闘争は大戦前よりつづけられ、その犠牲者はソ連収容所の政治犯囚人の半数をしめていることを忘れてはならぬ。

  一九五六年十一月二十三日


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