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##戦後資本主義の相対的安定と「平和共存」の経済的基盤##

           ##(一)##

 一九四八年のマーシャル・プランにもとずく「援助」によって急速に回復にむかったヨーロッパ経済は、一九四九年九月のポンドの切下げをはじめとする通貨調整、五〇年に成立した欧州支払同盟によって、その経済発展の基盤が固まった。加えて、朝鮮戦争による世界的な軍需ブームは、ヨーロッパと日本の経済拡大をより一層促進した。軍需生産の増大によって飛躍的に高められた工業生産は一九三七年を基準として、アメリカ一八〇、西ドイツ一〇〇、日本七〇であった。
 他方アメリカは、戦略物資の輸入増加、輸出余力の減退によって、経常収支の黒字が大巾に減少していった。さらにこの朝鮮戦争を契機として、対外軍事援助は大巾に増大し、ヨーロッパとアジアの軍事基地群を含む戦略体制が整備され、巨大な対外軍事支出が恒常化される体制がつくられた。フランスのベトナム「戦費」の約三分の二は、アメリカの援助であがなわれた。
 かくして、一九五○年以降ヨーロッパのドル不足は急速に緩和にむかったが、その分だけアメリカの総合国際収支は赤字をつづけることになった。アメリカの国際収支は四九年まで黒字で推移したあと五〇年に三五億ドルの赤字、五一〜五六年までほゞ 一二〜一五億ドルの赤字(五七年はスエズ動乱にともなう輸出増で六億ドルの黒字)、その後五八年に三四億ドル、五九、六〇年にそれぞれ三九億ドルの赤字をつづけている。IMF体制のもとでは、国際通貨であるドルが供給されるのは、アメリカの国際収支の赤字をつうじてである。しかもアメリカ資本主義の貿易構造が――貿易依存度が低く、工業国であると同時に農業国であるという点から――輸出超過型であるために、その赤字部分は大規模な非商業的支出によらなければなやらない。 #戦後の世界貿易における国際的支払いの連鎖は、まさにこのドルの大量な非商業的支出によって貫徹されたのである# 。
 そこでアメリカの国際収支のパターンを検討してみると、一九五〇年から五七年の累計で、主たる黒字要因は貿易収支二三五億ドル、民間投資収益の本国送還一五八億ドルである。他方、赤字要因は政府の対外軍事支出一八三億ドル、政府贈与・投資二〇一億ドル、民間対外投資一一五億ドルとなる。結局この非商業的支出の圧倒的部分は政府の軍事支出と対外援助である。
 ちなみに、一九五五年のアメリカの「国防費」は連邦政府支出の六五%を占め、それ以後も六〇%をこえつづけている。さらにこれは同年の国民所得の一三%を占めた。このような厖大な価値の再生産過程からの脱落がアメリカにおけるインフレーションを昂進させる重要な原因であることは明白である。もちろん個別独占資本にとっては政府から莫大な注文を受ける利潤の源泉なのであるが。
 ところで一九五○〜五七、五八年までは、ひきつづく国際収支の赤字にもかかわらず、この間に、アメリカの金保有高はほとんど減少していない。アマメリカの金保有は、一九四九年には世界の公的基準の七〇%を超える二四六億ドルであったが、一九五七年末には、なお二二八億ドルを保有していた。一九五〇年から五七年までの国際収支の赤字約一〇〇億ドルのうち、大半の八二億ドルは各国の対外準備に吸収されたため、金の流出はわずかに一八億ドルにすぎなかった。
 このように、この間のアメリカの国際収支の赤字は、ヨーロッパ、日本の急速な経済発展を軸に、拡大する世界貿易のために必要なドルを撒布しつづけたということを意味するのであった。また一九五〇〜五七、八年まで、先進各国の経済発展が主要に国内経済の確立にむけられていたあいだ、アメリカの赤字はこれらの国々の対外準備に吸収され、そのドル保有によってまかなわれたのである。
 このようにして、一九五〇年代いっぱいと六〇年代はじめにかけて、戦後資本主義は全体として相対的安定期をむかえる。そしてこの間の経済の相対的安定を基礎にした資本主義世界のの政治構造は、一九四九年の年頭教書でトルーマン大統領によって提起されたフェア・ディール政策によって特徴づけられる。それは「自由経済の補完物としての国家の役割りを重要視し、進歩的な社会保障、労働者保護(改良主義的労働運動の育成!)……」政策を国際政策として展開しようとするものであった。
 一言でいえば、ニューディール体制を国際的な規模で展開しようとするものであった。

           ##(二)##

 戦争直後、あいついで政治的独立を達成した旧植民地・後進国は一九五〇年前後にかけて、土地改革を含む経済改革にのりだした。中国革命の勝利と朝鮮戦争を契機として大巾に増大したアメリカの対アジアにむけた軍事援助や経済技術援助も手伝って、それらの国々があたかも経済的にも自立した国民経済を形成できるかのような幻想がもたれた。たしかに戦前の極めて貧弱な生産水準に比べるとき、一定の工業化と農業の近代化がおしすすめられたし、「後進国の産業開発による購買力の増加は先進諸国の大きな利益であった」といわれるように、戦後の世界経済にとって無視できない大きさで市場を拡大していった。
 しかしながら極度に立ち遅れた自然経済の残存する土台のうえで、しかもなお帝国主義の支配が残した構造的歪みのうえに資本主義的国民経済を接木しようとすることは至難なことであった。そこではヨーロッパとは反対の理由から、すなわちまさにその後進性の故に国民的規模で経済を組織して飛躍を試みないかぎり、たちまち先進資本主義諸国の生産力的重圧に押し潰されてしまうという事情があった。ところがこの後進国の「国家資本主義」は、一方で私的利潤のメカニズムと土地所有に依拠しつつ、他方でその封建的土地所有を解体し、貿易を国家の手に集中せざるをえないというジレンマにとらえられている。結局、これら植民地・後進国の経済発展は社会主義的に解決されるのでないかぎり、再び資本主義的ウクラッドの中に包摂される。こうしてまたもや帝国主義の新たな支配のなかにくみこまれる以外になかった。
 ところが朝鮮休戦協定の成立、一九五四年のジュネーブ会議、そして五五年、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議に象徴されるように、これら植民地・後進諸国におけるボナパルト体制のもとに、自立した国民経済を樹立できるという幻想がつづいたあいだアメリカ帝国主義と労働者国家圏との政治的対立の谷間に、ひとつの中間的緩衝地帯をつくりだすことになった。
 そしてこの一九五五年以降の時期はまた、ヨーロッパの資本主義諸国が経済的安定を確実にとりもどしていく時期であり、アメリカ帝国主義の「平和的ポーズ」をとった経済的世界支配が最大限に展開されていった時期であった。
 他方労働者国家ソ連も戦後の荒廃から立ち直り、工業生産力の発展をかちとるとともに、核・ミサイルを含む強大な軍事力を実現し、勝利した中国革命・東欧圏を含めて政治的にも経済的にも極めて大きな力をもつにいたった。
 ところが、スターリニストの「一国社会主義制」の立場と“現状維持”の外交路線は、その立場をなんら変えることもなく、資本主義世界の一定の安定に対応して、「経済競争」と「平和攻勢」の没階級的路線を積極的にうち出していくのである。ソビエト共産党二〇回大会とフルシチョフの「平和共存路線」はそのもっとも典型的なものであった。だがこれによってスターリニストは、後進国革命を公然と外交上の道具にし、帝国主義との妥協=「平和共存」によって革命を凍結する努力をした。コンゴとラオスでフルシチョフはアメリカととりひきして革命を抑制したし、イラク共産党に闘争をやめてカセムを支持するように圧力をかけた。
 だが、ジュネーブ協定からスエズ問題にいたるまで、アメリカ帝国主義の側からの平和的ポーズのすべては、旧植民地帝国であるイギリス、フランスから市場を奪還していく過程でしかなかったし、より強固にして全面的な軍事的世界支配の拡大の過程でしかなかった。とくに相つぐ核実験と、核・ミサイル網による世界戦臨体系の整備をはかった時期であり、エレクトロニクスを中心とした産軍体制のもとで、巨大な軍需をつくり出してアメリカ経済を支えた時期であった。
 その侵略的帝国主義の素顔は、その後ただちにレバノン、ベトナムにおいてあますところなく暴露されていく。
 こうして五〇年代の半ばから六〇年代初期までは、あたかも三ブロックの均衡と調和のうえに戦後の安定が確保されたようにみえたし、スターリニスト官僚はアメリカ帝国主義の「平和外交」に忠実な対応を示して「平和共存」を謳いあげたのであった。
 ところがその間においてさえ、この戦後構造の均衡はたえずその破綻を露わにし、植民地人民の闘いによってたびたび重大な危機に直面させられていた。
 スエズ国有化問題、イラク革命、レバノンのクーデター、インドネシアの西イリアン解放闘争(工場と農園の占拠、オランダ人財産の国有化)、スターリン批判とハンガリーの政治革命、アルジェリアをかかえたフランスの危機などはすべてこの時期に属するものである。ただ注意すべきなのは、この国際政治における「平和共存」の時期は、資本主義経済の相対的安定の確立した時期とのあいだに、ほぼ五年程度のズレをみせている点である。

##インフレの昂進とドルの没落―没落する帝国主義の危機の構造##

           ##(一)##

 ドル危機の最初の徴候があらわれたのは、はやくも六〇年代初頭であった。六〇年一〇月にロンドン金市場の自由金相場が一オンス=四一・六ドルにまで暴騰して、世界にドル不安の時代の到来をつげたのである。
 一九五八年以降アメリカの国際収支は恒常的に大巾な赤字をしるすようになった。赤字は五八年三四億トル、五九・六○年に各二九億ドルに達し、これを反映して、アメリカからの金の流出がはじまった。その結果金準備は減少し、六一年から六四年まで毎年二二〜二六億ドルの赤字をつつけながら、一九六四年末には金準備は一五四億ドルにまで減少し公的流動債務と同額になった。ドルはこれ以上の金準備の減少と公的流動債務の増加を許しえないところまできたのである。
 このことは、五〇年代後事からのヨーロッパと日本における急速な経済成長が、アメリカ経済の絶対的優位を切り崩しはじめたことを示している。それは明らかに世界経済に占めるアメリカの相対的地位の低下を表現していた。
 ところで戦後のヨーロッパと日中の急速な経済成長を推進したのは、技術革新にもとつく近代化・合理化投資であり、産業構造の重化学工業化への転換であった。一九五〇年代から六〇年代にかけて、生産力の飛躍的拡大をみたヨーロッパと日本では、いずれも鉄鋼・機械・化学などの重化学工業部門の著しい発展がみられた。
 そしてこの戦後資本主義の重化学工業化を基礎にして、今日の不均等発展が顕在化しているのである。 #従って、今日のドル危機なり資本主義経済の危機について、それをただ一般的に「資本主義経済の不均等発展」に帰すのでなく、まさに重化学工業化を基礎に、今日の不均等発展が顕在化している点に、現代資本主義の危機の特質をみなければならない# 。なぜなら、この重化学工業化の進展を土台にしてはじめて、今日の、資本主義体制の国際化現象と「多国籍企業」の登場がみられるのであり、そこから、今日のさまざまの矛盾が生み出されているからである。
 さらにまたさきに指摘した戦後資本主義の構造的変化のうえでのみ、この重化学工業化を基礎にした飛躍的な経済成長が可能だったからである。換言すれば、戦後資本主義の構造変化のうちに示されていた帝国主義の没落期の矛盾とジレンマが、この車化学工業化を基礎にした不均等発展の進展とともに、より一層露わになるのである。

 ともかくこのようにして経済成長を達成した西ヨーロッパ諸国は、一九五八年に全体として輸出増、輸入減のパターンを実現し、ドル不足を完全に解消したばかりか、ドル過剰の状況をつくり出すにいたった。そしてこうした事情を背景に、同年末に通貨の交換性を回復した。さらに五九年一月には∃ーロッパ共同市場(EEC)を発足させ、域内における関税引下げ、輸入制限の緩和、資本・技術・労働力の移動の自由を実現して市場の飛躍的拡大をはかった。たしかに「歴史的にみて、共同市場の形成は、ヨーロッパにおいてそれ以前に行われた資本集中の結果」であった。だが、国境の壁を越えた、資本の国際的集中・集積が進行する条件は、戦後のヨーロッパ資本主義の構造的特質である一定の組織化 経済的統合によってのみ与えられたのである。ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)、ヨーロッパ支払同盟および通貨協定、ヨーロッパ石炭・鉄鋼共同体がそれであった。そして共同市場(EEC)はこれらの活動をとおして形成されたのである。
 明らかにヨーロッパ資本主義は、この戦後構造の土台のうえで重化学工業化を推進しえたのであり、さらに、この重化学工業化にともなう生産力体系の高度化は、生産と資本の巨大な蓄積をもたらし、資本主義体制の国際化現象をひきおこす物質的基礎となった。
 また、これがEECを土台とする西ヨーロッパ資本主義のアメリカからの自立化の過程を促進したことは云うまでもない。
 もう一つ、この重化学工業化の過程を促進した重要な要素は、アメリカの圧倒的に優位な技術格差と技術独占に基礎づけられた援助と民間資本投資であった。これがヨーロッパと日本で、技術革新をともなった急速な設備投資の増大をひきおこし、重化学工業化を促進したのである。そしてこのアメリカの技術上の優位は、巨額の軍事支出にともなう研究開発費によって保障されていた。

           ##(二)##

 いづれにせよこのようにして達成された経済成長と産業構造上の変化、その結果としての不均等発展は、当然貿易構造を変化させ、さらに国際金融面における変化をもたらした。
 その変化のあらわれは、生産力格差の縮少によるアメリカの輸出市場に占めるシェアの低下であった。五三年の二一%から、六〇年には一八%に、そして六五年には一六・五%にまで低下した。これにくらべてEECは(五三年の一八・九%から)、六〇年の二六・三%、そして六五年には二九%に達した。日本は、一・七%から、三・六%、五・一%へそのシェアを急速に拡大した。工業製品輸出のシェアでみると、アメリカは五三年の三七・四%から、六〇年には二四・一%へ大巾に低下したのに、EECは逆に三三・三%から四二・八%に増大した。
 さらにこの時期――五六〜六五年の実質経済成長率を比較してみると、日本の九・八、西ドイツの六・四、イタリアの五・五にくらべて、アメリカ二・二、イギリス二・六である。
 このように西ヨエロッパ諸国が戦後復興期から高度成長期にかかっている一方、国内経済の停滞にかこっていたアメリカ資本は、新しい投資機会をヨーロッパに見出した。アメリカ内部の過剰資本の体制的定着化と利潤率の低下は、技術独占を武器とした民間直接資本投下を促進したのである。
 これは当然ヨーロッパに集中した。そこでは通貨の交換性が回復されており、∃-ロッパ諸国の通貨をいつでもトルと交換して投資収益の本国送還を容易にしたし、なによりも高度な生産力体系にうらづけられた広大な市場が横たわっていたのである。
 アメリカの民間資本の流出は五八年から六七年までの一〇ヵ年平均で四一億ドルでそのうち五〇%以上がヨーロッパにむけられている。六〇年代の一〇年間にアメリカのヨーロッパへの投資はほゞ四倍に達し、その直接投資残高は六○年末の六七億ドルから、七〇年末には二四四億ドルに達している。しかもその投資収益率は極めて高く、年々の民間直接投資をはるかに上回る収益が本国に送還されている。民間投資収益の本国送還分は、五五年の二二億ドルから、六〇年三〇億ドル、六五年五四億ドルにものぼっている。
 このようにして六〇年代に入って急速し増大したアメリカの民間直接資本投資と「多国籍企業」の登場は、「国際資本戦争」、「トルの侵略」と騒がれるほどその侵略性を発揮した。アメリカ企業のヨーロッパ進出件数は五八年から六六年の期間に三七一三件にのぼり、その時期で、イギリスでは計算機の七五%、洗濯機の七〇%、通信設備の四二%がアメリカ企業によって生産されており、フランスでも冷蔵庫の五〇%、トラクター・農業機械の四〇%以上がアメリカ企業によって生産されている。そして、世界の「多国籍企業」最大二〇〇社中、その四分の三は実にアメリカに親会社をもつアメリカ系資本であるといわれている。

 以上みてきたように、アメリカ国内における過剰資本の定着と利潤率の低下、輸出市場に占めるシェアの低下と貿易収支の黒字中の減少、その結果としてのドルの信用の低下という事態のなかで、 #この「多国籍企業」の登場こそ、アメリカの技術独占を武器にした経済的世界支配の新たな形態にほかならない# 。そのことは、ヨーロッパ進出業種の先端をになっているのが、化学、医薬品、電子機器、金属製品など比較的最近開発された技術にもとづく製造業であり、それが全体の約六〇%を占めていることからも明らかである。だがいづれにせよこれはアメリカ帝国主義の寄生性と腐朽化のあらわれである。
 ところで、この経済的世界支配の新たな形態である「多国籍企業」の登場は、戦後資本主義の重化学工業化を背景にしていることはくりかえすまでもない。
  #だがそれ以上に重要な点は、これがIMF体制下の基軸通貨としてのドルの特権に支えられてのみ可能であったということである# 。基軸通貨としてのドルの特権は、国際収支の不均衡にもかかわらすデフレ政策を強制されずにすむという点にあり、これがドルのタレ流しを長いあいだ放置してきたのである。実際、ドルの信用が大巾に低下した六〇年代後半になっても、この民間直接資本投資は資本収支全体のなかでますます大きな割合を占めていったのである。たしかにこれは、アメリカにとっては海外における長期資産の増加であるが、同時に海外における短期ドル債務(外国企業、外国の通貨当局、外国金融機関)の集積以外のなにものでもない。ユーロ・ダラー市場に溢れているのは、このようにして撒布された過剰ドル残高にほかならず、これが今日のインフレを昂進させている重要な原因である。そしてアメリカ帝国主義はこのドルの特権によってのみ、世界的規模における反革命の秩序を暴力的に維持してきたのである。
さらに「多国籍企業」によるアメリカの新たな世界支配の形態に関して、さらにもう一つの重要な問題がある。それは、「多国籍企業」がたんに一国市場内での独占ではないために、その種の企業が大巾に進出している諸国の金融政策、財政政策、所得政策等の諸政策と衝突せざるをえないということである。
それは明らかに、完全雇用や物価安定を目的とする国民経済の枠と衝突する。今回の国際通貨危機と「多国籍企業」のビヘイビアーとの関係が最も良くこれを示している。このように経済の次元では生産は国境をこえて結合しつつあるのに、政治の次元ではあいかわらず旧態然たるブルジョア民族国境の枠を出ることができないという、帝国主義の没落段階の矛盾を極端に示している。もはや、どの一国の経済政策も、この「多国籍企業」の発展が生み出す矛盾と景気後退に対処することができない。
そしてこの矛盾は、今日世界貿易からますますしめ出され、切り捨てられ、構造的に分断され、外貨危機と食糧危機に悩まされている植民地・後進国の危機のうちにもっとも端的に示されている。

           ##(三)##

 重化学工業化を軸にして急速にすすんだ戦後資本主義の不均等発展は、アメリカ帝国主義の一元的支配を突き破って帝国主義諸国間の競争の激化をもたらすとともに、植民地・後進国経済の完全な切り捨てと、もはや回復しがたい構造的分断をつくりだした。
 重化学工業化の進展とともに、商品と資本の流れは圧倒的に先進国中心に偏っていたことについてはすでに述べた。すなわち、ヨーロッパ諸国が重化学工業化と量産体制をすすめることによって、一方で輸出競争力を強めるとともに、他方で原材料の節約あるいは代替化をおしすすめ、第一次産品の市場を極端に狭くした。それは同時に、先進国の工業製品の価格の上昇と対極的に一次産品の著しい価格下落をまねいた。たとえば、アルゼンチンでは一台のトラクターを買うのに、一九三七年には五〇トンの小麦を売ればよかったが、五六年には一一一トンも売らねばならなかった。ウルグァイでもこのために、五〇年には〇・九トンの羊毛を売ればよかったが、五六年には二・三トンも売らねばならなくなった等々。また鉱産物や、石油の採堀・精製にいたっては技術と資本の優位をとおして先進国の手にとりあげられてしまう。
 また、小麦、羊毛、食肉なども、徹底した機械化と化学肥料の投入、農業技術の改善によって生産性を高めた先進国の農業によって圧倒されている。そしてしばしば先進国の農業は、国家による価格支持や輪出補助、高い関税障壁と数量制限によって保護されている。
 このような条件のもので、後進国は恒常的な貿易収支の逆調から慢性的外貨危機に見舞われた。そしてこれを理合わせるために受け入れる新たな借款と援助は、その八〇%から九〇%近くがヒモつき援助で、援助からの輸入代金にあてられるかプラント類の購入をとおして、そのほとんどが先進国に還流してしまう。そして輸出の増大によって借款の利払いをまかなうことができないために、利払いと償還のために新たに借款をつづけなければならないというジレンマにとらえられている。一九五五年に約一〇〇億ドルであった後進国の債務残高は、六五年には三五〇億ドルを超えたといわれている。
 そのうえ、「援助」や「贈与」によるドルの流入も封建地主と結びついた投機的商人の寄生的な層に有利にはたらくだけであった。
 こうして国内における経済的均衡はますます破壊され、世界市場からはしめ出されて、食糧危機と外貨危機に象徴される慢性的な経済危機に追いやられているのである。
  #そしてこれこそ、先進国を中心にした重化学工業による戦後資本主義の高成長がつくりだした富の偏在と、植民地・後進国の文字通りの切捨てなのである# 。ほとんどの植民地・後進国は、もはやその社会・経済的支配をとおして資本主義陣営にとどめておくことができず。帝国主義とくにアメリカ帝国主義のむきだしの軍事力による支配をとおしてのみ、その体制を暴力的に維持したにすぎなかった。
 それでもなお、キューバ、ベトナムにおいてはなんらかの形で土地改革を達成しないかぎり、人民の生活の破産と執拗な反逆をおしとどめることはてきなかった。とくに経済的統合体としてしか発展しようのないインドシナにおいて、帝国主義的支配によって寸断され、北部の工業地帯から切離された南ベトナムでは、土地革命の完遂による南北の統一以外にいかなる発展の道もない状態にあった。
 帝国主義の没落と不均等発展による矛盾の蓄積は、必然的にべトナル革命をはじめ、植民地・後進国における永久革命の進展を生み出したのである。
 このように、資本主義の発展がもたらす一切の矛盾(マルクス主義的分析の一切の結論――絶対的窮乏化、利潤率の低下、飢餓的失業者群と慢性的恐慌の深化)は、一国的規模の資本子義経済においてあらわれるのではなく、まさに世界的規模においてこの法則と矛盾を展開するのである。
 ベトナム革命は、このような戦後資本主義がつくりだしてきた不均等発展――極端な富の偏在と植民地・後進国の切り捨て――のなかで、必然的に世界社会主義革命の永久的発展の突破口をつくり出したのであった。それは不可避的に、帝国主義世界を根底から解体打倒する質をもって、永続的に発展する、そのような革命でしかありえなかった。
 そして、ベトナム革命こそがこの役割りをになう歴史的必然性をももっていた。ベトナムにおいては、はやくも一九二四年頃から、鉱夫、紡績工場労働者を先駆とするストライキ闘争が激発し、一九三○年代には、ゲ・アンの首都を中心とする鉄道工場とマッチ工場のストライキにはじまる農民の武装蜂起と、「ゲ・ティンソビエト」を樹立した。(戦前において、トロツキズム=第四インターナショナルの東洋最大の支部が、ここに存在していたという歴史的事実は決して偶然ではない)
 このような歴史的経験のうえに、一九四〇年代以降、日本、フランス、アメリカの三つの帝国主義を相手に三〇年以上にわたって闘いつづけ、勝利してきているのである。
 こうして、戦後のアメリカ帝国主義の反革命戦略体系に対抗する労働者国家群の中から、中・ソ両労働者国家を動員しつつ、この戦後の世界構造を突破したのであった。

           ##(四)##

 そしてこのベトナム革命の勝利的前進が、アメリカ帝国L義の危機を深め、崩壊を促進したことは、疑いもない事実である。
 すでにみたように、六〇年代以降、アメリカの経済的地位が相対的に低下するなかで、アメリカ独占資本は「多国籍企業」による新たな形態をとおして世界市場に進出した。だが民間資本投資による企業進出は、基軸通貨としてのドルの特権をフルに利用して、はじめて可能なのであった。ところが、この基軸通貨としてのドルの地位は、戦後におけるアメリカの圧倒的な経済力にその基礎をもっていたと同時に、はじめから政治的に支えられたものでしかなかった。政治的に支えられていたというのは、第一に、基軸通貨としてのドルの支配が、IMF体制という国際的機関によって補完され、それによってドルの安定が「政治的」に承認されていたということであり、第二に、さきにも指摘したように、世界貿易におけるドルの流通回路がアメリカの非商業的スペンディンク――多額の経済・軍事援助――によって完結させられていたということである。
 かくして、そのドル支配を政治的に支える構造は、基本的には労働者国家と植民地人民に対する世界反革命戦略体制によって維持されているということにほかならなかった。
 アメリカ帝国主義が、ドルの信用を政治的に支えつづけるためには、この軍事戦略体制に基礎をおくフェア・ディール体制を維持しつづけなければならなかったし、とくにアジアにおける反革命体制を貫徹しきらなければならなかった。六〇年代に入ってアメリカの経済的地位の低下からドル危機が表面化するのと、アジアの一角でアメリカの反革命支配がほろびるのとほとんど並行しているのはそのことと無関係ではない。
 だがアメリカ帝国主義のベトナムへの介入は、朝鮮戦争のときとその事情が全く異っていた。朝鮮戦争のときはアメリカ帝国主義はなお絶対的な経済的優位を保っていたし、全体として経済成長率もまだ低落傾向を示してはいなかった。このようななかで、朝鮮戦争は、四八〜四九年の一時的不況局面からの脱皮をもたらした。軍需の急速な拡大が経済に与えた影響は、アメリカ経済の成長をもたらすとともに、世界経済全体の急速な拡大をもたらしたのである。
 ところが六五年以降のベトナムは、ケネディ大総領のもとで六三年以来おしすすめられてきた赤字財政と信用膨張をテコにした経済政策によってインフレが強まっていた時期であった。しかも全体としてのアメリカの経済力は下降しはじめている段階であった。そのうえ一九六四年には金準備が一五四億ドルと公的流動債務と同額にまで減少し、ドル危機は決定的な転機に直面していた。
 この時期に、ベトナム反革命戦争の拡大がもたらした軍需は、たしかに利潤率の低下によって停滞していた国内経済にある程度の需要の増大と活況をもたらした。
 一九六五〜六七年の二会計年度にわたる二〇〇億ドルの「ベトナム戦費」がおよぼした一次的な影響により、全体として一〇〇万ないし一四〇万の新しい雇用が生み出されたと推定される」(ベトナム戦後の経済影響に関する特別報告・経済企画庁訳一六頁)
 そして六九年までの戦費累計は一〇〇〇億ドルをこえ、そのうち約六〇%=六〇〇億ドルが米国内企業に直接撒布されたといわれている。とくにベトナム軍需に関して特徴的なことは、「高度かつ最先端の設備が重視された冷たい戦争の時の構成とは対照的に、その設備と物資の構成は、自動車、機械、繊維、ゴム等の伝統的な産業であり、これらが戦略物資の重要な供給源となっていた」(同上二九頁)すなわち、ベトナム軍需によって刺激を与えられたのは、主として、国内にあって利潤率の低下傾向に悩まされていた伝統的な産業部門であった。とはいえ、こうした直接的な経済的利害とからみつつも、ベトナム・エスカレーションはあくまでもアメリカ帝国主義の世界支配を維持するための軍事介入であったことはいうまでもない。
 だがこのベトナム・エスカレーションは、アメリカにおける急速なインフレの進行をもたらした。卸売物価は六〇〜六五年の一・五%に対して、六五〜六八年の間に平均二・三%、約二倍の上昇率を示し、さらに六九年に四・七、七〇年に五・一とその上昇テンポは急速に加速化していった。このインフレの昂進は、アメリカの輸出競争力を低下させ、自動車をはじめとする工業製品の輸入増加をまねいた。その結果貿易収支の黒字中は急速に減少し、六四年の六バ億ドルが、六七年に二八億ドル、六八・六ル年には七〜一〇億ドル程度に急速に減少していった。ところが六五年以降、対外軍事支出は大巾に増え、六四年の二九億ドルが、六六年三八億ドル、六八年四六億ドルにまで増加した。この国際収支の大巾な赤字にともなって、金準備も急速に減り、ついに一九六八年のドル危機によって、ドルは事実上金との交換を停止(金プール制の廃止と金の二重価格制)せざるをえないところにまで追いこまれたのである。ベトナム革命の勝利的前進は、確実にアメリカ帝国主義の支配を解体させていったのである。
 これ以後、七一年のニクソン声明によってドルは名実ともに金との交換を停止され、さらに同年末のスミソニアン合意をとおして、ドルの切下げが迫られ、危機はますます深刻さを増していった。ところが金の裏づけを失ってもなお、ドルは基軸通貨としての役割をになわなければならなかったし、国際収支の赤字をとおして流出しつづけたのである。この過剰ドルの流出テンポは七一年になっていちだんと加速化した。それは貿易収支がはじめて赤字(二九億ドル)になったのを反映して、一挙に二一九億ドル(七〇年は三八億ドルの赤字)もの巨額の赤字を記録したのである。これによって世界的なインフレはますます加速化されていった。ヨーロッパ諸国はもはやドルのこれ以上の流入によるインフレの昂進を許容しえなくなった。ドルを支えるために自国の経済を犠牲にすることを拒否しはじめたのである。マルク投機に際して、西ドイツ当局が固定相場制の維持を放棄して変動制に移行したのはそのためであり、明らかにアメリカに対する対抗措置であった。こうして、スミソニアン合意をとおして、かろうじて固定相場制を維持した新たな平価体系も、翌七二年六月にはポンドが変動制に移行して早くもその一角がくずれ、今年(七三年)三月には全面的に崩壊し、ドルはさらに一〇%の切下げを余儀なくされた、ドルの信認はますます低下し、その後もドル売りと金への投機がつづいている。かくして、ドルはアメリカの国際収支の改善と金との交換性の回復をとおして、信用を回復することが迫られている。だがこのどちらも絶対に不可能である。なぜなら、七一年のアメリカの国際収支の大巾に赤字は、ニクソンが六九〜七一年の景気後退からぬけ出すためにとったインフレ政策と赤字財政の結果でしかなかったし、危機的な それこそ命とりになるほどの――デフレ政策を強行しないかぎり、この赤字を回復することはできないからである。さらにアメリカの国内市場が世界市場の圧倒的割合いを占めているなかで、保護主義による対応は世界貿易そのものを危機に陥し入れることになるだろう。いまやアメリカ帝国主義による戦後のドル支配は決定的な崩壊の危機に直面している。アメリカによる金の独占的管理は明らかに堀り崩された。それとともに、工業生産、貿易、金融等あらゆる面でその優位を喪失しつつある。一九三〇年代の不均等発展と危機の時代に、アメリカ経済は急速な成長と上昇局面にあったし、貿易・金融上の覇権を獲得しつつ、金はアメリカにむけて集中していった。だがいまや全く逆の事態が進行している。「アメリカが、不均等発展における喪失者の側に立ったことはかつてなかった」――このようななかで、拡大ECと日本とアメリカ帝国主義との間の競争の激化と利害の対立はますます深刻になっている。スミソニアン合意の崩壊後は、ほとんどすべての国が変動相場制に移行して一方的なレートの切上げを拒否しており、事実上の「為替切下げ競争」ともいえる事態をつくりだしている。こうして保護主義の治頭とともに世界貿易の拡大を脅かす金融危機が深まっている。
  #だがこのような危機にもかかわらず、帝国主義間の矛盾と対立は全面的な金融戦争となって爆発してはいないし、いまなおドルの世界支配の枠内での矛盾・対立の激化という形をとっている# 。それは第一に戦後の世界経済がドルによって「組織」され、ドルによる支払い連鎖によって構成されているからであり、第二に、相対的な地位を失ってきているとはいえアメリカ帝国主義が世界経済において占める位置はなお巨大なものだからである。ヨーロッパ諸国の金・外貨準備のうち、ドルの占める比重は一九六三〜六四年の八〇%から、六九年の五〇%に低下した。しかし、資本主義陣営全体の外貨準備中五二%というドルの地位は、絶対的にほかのいかなる国の通貨も、これにとってかわることはてきない。また、植民地・後進国のほとんどは恒常的なドル不足のもとで経済建設が阻害されたままであり、逆説的ではあるが、その破産した経済によってドルの地位を支えているという関係にある。そしてもう一つ重要な点は、「アメリカの国内市場は、今日、アメリカ以外の資本主義列強すべてにとって世界市場のかぎをにぎるセクターになっている」(マンデル『世界革命』三〇六号より)という点である。結局、アメリカ資本主義の危機は資本主義世界全体を揺がすのである。これらの点で、今後世界経済のかぎを握るのは拡大ECの統一達成への動向と世界市場構造の変化の中に占めるアメリカの位置と対応であるだろう。だがこの二つともすでに暗い影に脅かされはじめている。つい先だっての金一オンス=一二〇ドルにまで暴騰した投機筋の動きは、執拗にECの共同フロートを切り崩す方向でアタックをかけていたし、アメリカの世界貿易と金融における構造は、ますますその寄生性と腐朽化の傾向を強めている。すなわち.貿易収支の黒字中の極端な減少を「多国籍企業」を軸にした民間資本投資による投資収益の増大によってカバーし、金融資本の収奪傾向を強めているとともに他方では、植民地・後進国にむけた軍事支出・政府贈与・借款をとうして、これら諸国との間の貿易収支の黒字を保っていることである。(アメリカの対外援助のうち、ひもつき援助の分は八〇%から九〇%にその比重が高まっており、もしこれがなければ、アメリカの貿易収支の黒字はさらに大巾に減少し「六七年の実績で、三七億八三〇〇万ドルの黒字額のうちわずか二億五〇〇〇万ドルにすぎなくなる」という実態である。)
 このようにして、戦後資本主義はいま急速に衰退と崩壊の斜面をころげ落ちており、ますますこの寄生性と腐朽化の度合を強めつつ、利害の対立と競争の激化をもたらしている。
 そして帝国主義的ブルジョアジーは、この危機に対応するために、その犠牲のすべてを自国の労働者・人民だけでなく、多くの植民地・人民に、より一層暴力的な形をとって転嫁しようとしている。
 ドルの切下げとインフレの昂進は、植民地・後進国の経済に致命的な打撃を与えている。インフレの加速化と「所得政策」等による賃金の凍結は、先進国の労働者・人民に耐え難い犠牲を押しつけている。
 ところがまさに、戦後資本主義が構造的な特質としてもっていた帝国主義の没落期の構造――すなわち、労働者階級を中心に諸階級が国家的な規模で政治的に「組織」され、動員されることによって支えられた構造――の全面的な崩壊によって、いまや帝国主義の支配は、全世界労働者人比の攻勢的な闘いによって、より一層深い危機の淵に追いやられているのである。もはや、相つぐ倒産と失業の増大といった経済的レベルのパニックが起こる前に、政治の腐敗に対する反乱が先行するだろう。実際、公害や都市の破産、民主主義の侵害と権力の横暴に対して近代的な青年労働者を先頭とする全人民的な闘いが展開されてきた。現代帝国主義の危機は、このような労働者・人民の攻勢的な闘いそのものによって始まり、表現され、促進されるだろう。そして帝国主義の寄生性と腐朽化が進めば進むほど、このように危機の構造をますます全面的に展開するだろう。
 ここに現代帝国主義の危機の構造が典型的に表現されている。

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