I 共産主義における「左翼」小児病(レーニン)
―国民文庫に収録―
1 「左翼」共産主義とレーニン・トロツキー
レーニンはこの論文「共産主義における『左翼』小児病」を一九二〇年五月十二日に書きあげた。そして、自らかってでて、この著作の植字から印刷の進行状況を監督した。数多くの論文を著したレーニンではあるが、自分が先頭にたって、印刷を急がせたのはこの論文くらいのものであろう。レーニンはなぜ「共産主義における『左翼』小児病」を急いで印刷させたのであろうか。
レーニンはコミンテルン(第三インターナショナル)第二回大会にこの論文を間に合わせねばならなかった。第二回大会は七月十九日からモスクワで開催されたが、この「共産主義における『左翼』小児病」は第二回大会に出席したすべての参加者に配布された。レーニンは第二回大会をコミンテルン内部に発生した「左翼」共産主義(=『左翼』小児病)との論争の場と考え、トロツキーと手を組んで『左翼』共産主義批判の大論陣を展開したのである。「共産主義における『左翼』小児病」はこのための大きな武器であった。
一九一七年のロシア革命を契機として、第一次世界大戦末のヨーロッパ世界は革命的激動の情勢のなかに突入した。レーニンは、この世界革命の攻勢の局面を領導して、全ヨーロッパ的プロレタリアートの攻勢を、ヨーロッパ革命の勝利、プロレタリア権力の樹立に到達させるために、第二インターナショナルの日和見主義から訣別した革命の党を全世界的に建設しなければならないと決断した。レーニンとトロツキーのイニシアチブによって、第三インターナショナルの設立と、各国においては社民党から分離した共産党の結成が相次ぎ、この若い共産党が各国の階級闘争の指導部となるのである。
一九一八年十月、キール軍港に停泊していた軍艦の水兵たちは、汽缶の火を消して出撃命令を拒否し、兵士評議会を結成して革命的反乱に決起した。キール軍港の水兵の反乱は文字通り火花となって、全ドイツに革命的闘争がひろがり、労兵評議会(レーテ)はドイツの全都市に樹立され、ここにドイツ革命の火ぶたが切られた。
レーニン、トロツキー、ロシアボルシェビキのすべてが、ロシアプロレタリアートのすべてが、ドイツ革命をかたずをのんで見守り、ドイツプロレタリアートの勝利を心から待ちのぞんだ。ヨーロッパ革命の帰趨はドイツプロレタリアートの双肩にかかっており、ドイツプロレタリアートこそ、その伝統と先進性を誇る組織されたプロレタリアートこそ、孤立と後進性の圧力のもとで危機に立つロシアの労働者権力を困難から救い出してくれるであろう、と期待したのである。
ドイツプロレタリアートは権力樹立の可能性をもっていた。レーニンは次のようにいう。
「ドイツでは、労働者が右から左へと、同じようなまったく同じ性質の移行(ロシア革命における労働者のエスエル、メンシェビキからボリシェビキ支持への移行のこと――引用者注)をおこなったのに、それがすぐに共産党員の勢力をつよめず、まず『独立社会民主党』といった中間的な政党の勢力をつよめるようになったのはなぜだろう? この党は、なに一つ独立の政見も独立の政策ももったことがなく、シャイデマン派と共産主義者のあいだを動揺していただけであったのに。
あきらかに、その一つの原因は、ドイツ共産党員のまちがった戦術であった。彼らは、この誤ちをおそれずに、正直にみとめ、それをなおすことをまなばなければならぬ。誤ちは、反動的なブルジョア的な議会と反動的労働組合への参加を拒絶したことにある。誤ちは、いまでははっきりしている『左翼』小児病の多数の現われにある。そして、この病気は、はやければはやいほど治療もよくおこなわれ身体にもよいのである。」
ドイツ共産党は誤った方針によって、革命的情勢を生かし、利用することができず、労働者を権力に到達するまで指導することができなかった。ドイツ革命は一頓座した。ロシアの労働者権力が待ちのぞんだヨーロッパ世界革命は少し後方におしやられてしまった。したがってレーニンやトロツキーの任務は、一九一七年から一八年につづく労働者階級の直線的攻勢の局面にとられた戦術を転換し、大衆を獲得して、次の革命的攻勢にそなえさせるため、コミンテルンにおいて「左翼」共産主義の路線を徹底的に批判することにあった。
2 党と大衆の結合
レーニンの「共産主義における『左翼』小児病」は、ひとことでいって、組織活動における「過渡的綱領」である。トロツキーの「過渡的綱領」は労働者階級の大衆的要求、その現実の政治的、経済的、社会的、文化的水準から出発して、いかに労働者権力樹立にむかわせるのか――これに集約されている。ちょうどこのような役割と位置をレーニンの「共産主義における『左翼』小児病」は組織戦術の分野でもっているといえる。
レーニンは次のようにいう。「……なるほど、ドイツの共産主義者たちにとっては、議会主義は『政治的に寿命がつきている』。だが、問題はまさにつぎの点にある。つまり、われわれにとって寿命のつきたものでも、それを階級にとって寿命のつきたもの、大衆にとって寿命のつきたものととりちがえるべきでないということだ。まさにこの点でわれわれは、また、『左翼』が階級の党として、大衆の党として判断することもできず、行動することもできないのを知る。諸君は、大衆の水準まで、階級のおくれた層の水準までさがってはならない。この点はまちがいない。諸君は彼らににがい真実をはなす義務がある。諸君は彼らのブルジョア民主主義的な、議会主義的な偏見を偏向だという義務がある。だが同時に諸君は、まさに全階級(その共産主義的前衛だけではない)、まさに全勤労大衆(そのすすんだ人たちだけではない)の意識と覚悟の現実の状態を冷静に注視する義務がある。」
レーニンがこの文章において示した方法は、トロツキーが「過渡的綱領」で展開した方法と同一である。レーニンは、革命党は自己の政治的独立性の確保とその政治内容を、一方的に大衆に押しつけることをいましめている。それは労働者の組織においても同様である。労働者は労働組合やブルジョア議会や日和見主義的労働者党のもとにおかれている現実をとびこえて、一足とびに、一挙に、革命党の意図にこたえてソビエトを組織したり、革命党の支持に移行したりはしない。ドイツ共産党「左翼」共産主義はまさに自分の頭脳の中で寿命のつきたものを、大衆の政治的経験と確認をぬきに、飛び越えさせようとしたのであり、その結果、最後通牒主義とセクト主義に陥ってしまったのである。
3 ボルシェビキの経験から学べ
「共産主義における『左翼』小児病」は十の節から構成されている。それは次の通りである。
一、どのような意味でロシア革命の国際的意義をかたることができるのか?
二、ボルシェビキが成功した一つの重要な条件
三、ボルシェビズムの歴史のおもな段階
四、ボルシェビズムは労働運動内部のどのような敵との闘争のなかで成長し、つよくなり、きたえられたか?
五、ドイツの「左翼」共産主義。指導者―党―階級―大衆
六、革命家は反動的な労働組合のなかではたらくべきか?
七、ブルジョア議会に参加すべきか?
八、妥協は絶対にいけないか?
九、イギリスの「左翼」共産主義
十、結論
この構成からもわかるように内容は大きくは五つに整理される。
第一にロシアボルシェビキの総括、そこからの教訓
第二に党と大衆との関係
第三に反動的労働組合にたいする方針
第四にブルジョア議会にたいする方針
第五にイギリス労働党にたいする加入戦術の問題.
レーニンの組織論をあげよといわれれば十人中十人までが、「何をなすべきか?」をあげる。そしてそのことはまったく正しい。しかし、「何をなすべきか?」だけではレーニンの組織論は完成していない。この「共産主義における『左翼』小児病」とをあわせて、はじめてレーニンのプロレタリア革命の党の組織論が全体的に把握される。
「何をなすべきか?」は基本であり「共産主義における『左翼』小児病」は応用である。数学の公式を知っていても問題が解けなくては何の役にも立たない。英語を知っていても使わなくては役に立たない。「共産主義における『左翼』小児病」は革命党の応用能力の重要性を提起している。
レーニンはまずロシアにおいてプロレタリア革命が勝利し、プロレタリア独裁が樹立された経験を総括してのべる。
「プロレタリアートの独裁は新しい階級がより強力な敵にたいして、うちたおされたためにその反抗が数倍にもなったブルジョアジーにたいしておこなうもっとも献身的でもっとも無慈悲な戦争」であり、ブルジョアジーにたいする勝利は、
「長い、ねばりづよい、猛烈な、死物ぐるいの戦いなしには不可能であり、この戦いは、忍耐、規律、剛毅、不屈、意志の統一を要求する」のであり、そのためには、
「プロレタリアートの無条件な中央集権ともっとも厳格な規律こそがブルジョアジーに勝つための根本条件の一つ」である。
レーニンは、この主張はロシア革命を論ずるときに多くのひとびとが是認しており、ボルシェビキのロシア革命における決定的な役割として、歴史的にも認められたことであるといいつつ、しかし、なぜに、ボルシェビキがこのような革命を勝利させるための規律を獲得したかについては軽視されていると警告する。そして、この点をもっと真剣に検討すべきであるといっている。
レーニンは<プロレタリアートの革命党の規律>はなにによってたもたれるかという問題について、つぎの三つによって説明している。
第一にプロレタリア前衛の意識、革命にたいする献身、その忍耐、自己犠牲、英雄主義
第二に、広範な勤労者の大衆(プロレタリア的、非プロレタリア的)とむすびつき接近し、必要とあればある程度まで彼らととけあう能力
第三に政治的指導のただしさ、政治的戦略と戦術のただしさ
ボリシェビキはこの三つの要素をすべてあわせもっていたがゆえに、革命党となり、プロレタリアートに革命的規律をつくりあげることができ、勝利することができたのである。
この三つの要素―革命的パトス、大衆との結合、正しい理論―はレーニンの組織論の中枢をなすものであり、この要素は、今日のわれわれにとってもまったく必要なことであり、このうちのどれひとつでも欠落させてしまっては、われわれは革命党に自らをつくりあげていくことはできないのである。
4 日和見主義と小ブル的革命性との闘い
レーニンがあげた三つの要素のなかで、当時、レーニンが特に強調したかったこと、「共産主義における『左翼』小児病」を著わす契機となったのは、第二番目の要素――大衆との結合の問題であったことはあきらかである。レーニンはロシアの階級闘争の歴史において大衆との結合の問題を総括している。
階級闘争の前進、昂揚のときにおける革命党の大胆かつ断固たるイニシアチブと、階級闘争が後退、敗北、退却しなければならないときの革命党の役割、――後退をくいとめ、戦線を整備し、大衆を獲得して、つぎの攻勢を準備する――を具体的な歴史的経験にそってのべている。大衆のなかへ、大衆との結合の問題は、革命の<力学>をもっとも効果的に利用することと不可分であって、大衆と結びつくことは単なる技術の問題や、方法の問題ではないことはあきらかである。
レーニンのこの指摘がまったく正しいということは、この数年間、われわれが日本の「新」左翼諸派の崩壊を経験しているのをあげれば、りっぱな証拠となるであろう。
革命の力学を知らぬ党派はふたつの誤りに落ちこむ。ひとつは日和見主義であり、ひとつは小ブル的革命主義である。片や万年待期論であり、片や万年攻撃論である。そして両者は一対のものである。
レーニンのボルシェビキはロシアにおいてメンシェビキ、エスエル、ナロードニキなどの日和見主義と小ブル的革命性と闘うことによって、プロレタリアートの革命的指導部となりえた。このことについて、レーニンは本書のなかで、ボルシェビキは日和見主義とよく闘ったことは知られているが、小ブル的革命性とも長年の間にわたって闘ってきたことを強調している。
「ボリシェビズムは小ブルジョア的革命性にたいする長年の闘争のなかで成長し、しっかりしたものになり、きたえられたのであって、この小ブルジョア的革命性は、無政府主義と似たものか、ないしはそれからの借りものであって、また、なにはともあれその本質的な点では一貫したプロレタリア的階級闘争をやりおおせるための条件と要求からそれているのである」
5 反議会主義の誤り
レーニンの組織論の中心的思想として「何をなすべきか?」を集約して<外部注入論>を指摘するひとが多い。正しい理論、戦略、戦術をもち、独立した革命党が「外部から」プロレタリアートにこれを注入するのがレーニンの組織論の中心的思想であるというものである。しかしこの外部注入論は図式的に現象面でのみ理解すると、セクト主義、最後通牒主義となってしまうし、前衛党の代行主義と官僚化を正当化させてしまう誤りにおちこむ危険がある。レーニンは決して<外部注入論>的に問題はたてていなかった。このことは、本書の第五節においてレーニンが展開したドイツ共産党「左翼」への批判において立証されている。党にとって「歴史的に意味のないもの」「反動的なもの」になってしまったブルジョア議会や、反動的労働組合をボイコットするよう大衆に呼びかけることは間違っている。レーニンはこういっている。革命党はこれを飛び越したり、飛びこすことを大衆に押しつけてはならない。
レーニンは「左翼」小児病をもっとも典型的にしめす政治的立場として、ブルジョア議会へのボイコット派、反動的労働組合のボイコット派をあげてこれを批判する。
ヨーロッパ資本主義各国ではロシアにくらべてはるかに強力で伝統的な改良的、社民的「労働貴族」層が形成されていた。ヨーロッパ各国の共産党はこの社民(=社会党)から自らを区別し組織的に分裂することによって成立した。この過程が一九一八年から一九二二年ごろにわたる全世界的な共産党の成立の状況である。
社民から自己を区別しようとした若い共産党が学ばねばならないのは、二十年にわたって闘いつづけられてきたロシアボルシェビキの経験であったはずである。しかし、ドイツをはじめとして発生した「左翼」共産主義は、初歩的誤りにおち込んでしまったのである。
「ところで『労働貴族』との闘争を、われわれは労働者大衆を代表して、労働者大衆をわれわれのがわにひきよせるためにおこなう……このもっとも初歩のわかりきった真理をわすれることはおろかなことだろう。しかも、まったくこんなばかげたことをドイツ『左翼』共産主義者たちはやっている。彼らは労働組合の上層部が反動性と反革命性をもつからといって、労働組合から脱退しろ!! 組合内の活動を拒絶しろ!! 新考案の形の労働者組織をつくれ!!……といった結論をひきだす。これは――ゆるすことのできないばかげたことであり、共産主義者がブルジョアジーに最大の奉仕をささげるのと同じことである」
そしてレーニンはつぎのようにきわめてわかりやすく、党と大衆の関係を語っている。
「『大衆』をたすけ『大衆』の同情、共鳴、支持をかちとるためには、困難をおそれてはならないし、『指導者』たちのがわからする言いがかり、あげ足とり、侮辱、迫害をおそれてはならない。そして、ぜひとも大衆のいるところでこそはたらかなければならない。たとえもっとも反動的なものであろうともプロレタリア大衆あるいは半プロレタリア的な大衆さえいるなら、その機関、団体、組合内であらゆる犠牲に耐えぬき、最大の障害にもうちかって系統的に頑強に、ねばりづよく、しんぼうづよく宣伝扇動を実行しなければならない。」
そしてレーニンはさらに批判をすすめて
「ドイツの(そしてオランダの)『左翼』はこの義務をはたさず、そのあきらかなまちがいについてとくに注意ぶかく、きちょうめんに、慎重に研究しなかったが、このことこそ、彼らが階級の党ではなくて、サークルであり、大衆の党ではなくて、インテリゲンチャとインテリゲンチャ階級がもついちばんわるい面にかぶれた少数の労働者とのグループであることを証明している」
レーニンは本書の終りで「反議会主義」を批判し、イギリス労働党へのセクト主義をとるイギリス「左翼」を批判する。
「ただ議会的日和見主義をののしるだけで、議会への参加を拒否することだけで、自分の『革命性』をしめすことは、しごくやさしい。だがこれがまったくやさしいことだからこそ、これは――困難なうえにも困難な任務の解決とはならないのである」
「この困難を『避け』て反動的議会を革命的な目的のために利用するという困難な仕事を『とびこそう』とこころみることは正真正銘の子供じみたふるまいである」
なんとわれわれのまわりには「子供じみた」ひとびとが多いことであろう、本書はいまのわれわれ、いまの日本の階級的状況にとってきわめて生き生きとした示唆にとむ内容で満たされている。しかし多くのひとびとがこのレーニンの批判を黙殺して「左翼」小児病を再生産している。
本書はレーニンの主要著作のなかにおいてはもっともわかりやすく、平明で、歴史的背景や著作の動機もあきらかである。しかし、この内容上の容易さは逆にわれわれが実践のうえてレーニンの批判を生かすことの困難さをいささかも軽減してはいない。著作を理解するうえでは簡単であるが、実践に生かすにはきわめて高度の訓練を経なければならない。しかし、この過程を経なければ、ほんとうの革命党にわれわれは成長することができない。
(西山次郎)
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