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§ 国家と革命

☆  目次

国家と革命 マルクス主義の国家学説と革命におけるプロレタリアートの諸任務
 第一版序文
 第二版序文
 第一章 階級社会と国家
   一 階級対立の非和解性の産物としての国家
   二 武装した人間の特殊な部隊、監獄その他
   三 被抑圧階級を搾取する道具としての国家
   四 国家の「死滅」と暴力革命
 第二章 国家と革命。一八四八―一八五一年の経験
   一 革命の前夜
   二 革命の総括
   三 一八五二年におけるマルクスの問題提起
 第三章 国家と革命。一八七一年のパリ・コンミューンの経験。マルクスの分析
   一 コンミューン戦士の試みの英雄精神はどういう点にあるか?
   二 粉砕された国家機構をなにととりかえるのか?
   三 議会制度の廃棄
   四 国民の統一を組織すること
   五 寄生体としての国家の廃絶
 第四章 つづき。エンゲルスの補足的な説明
   一 『住宅問題』
   二 無政府主義者との論戦
   三 ベーベルあての手紙
   四 エルフルト綱領草案の批判
   五 マルクスの『フランスにおける内乱』への一八九一年の序文
   六 民主主義の克服についてのエンゲルスの見解
 第五章 国家死滅の経済的基礎
   一 マルクスの問題提起
   二 資本主義から共産主義への移行
   三 共産主義社会の第一段階
   四 共産主義社会の高い段階
 第六章 日和見主義によるマルクス主義の卑俗化
   一 プレハーノフと無政府主義者との論戦
   二 カウツキーと日和見主義者との論戦
   三 カウツキーとパンネクックとの論戦
 第一版あとがき

国家について スヴェルドロフ大学での講義 一九一九年七月一一日

事項訳注

☆ 国家と革命〔*〕
 マルクス主義の国家学説と革命におけるプロレタリアートの諸任務

     一九一七年八月―九月に執筆
 一九一八年に単行の小冊子として「ジーズニ・イ・ズナーニエ」出版所から発行
     全集、第二五巻、四一一―五三三ページ所収

☆  第一版序文

 国家の問題は、現在、理論的な面でも、実践的・政治的な面でも、特別の重要性をおびつつある。帝国主義戦争は、独占資本主義の国家独占資本主義への転化過程を非常に促進し、激化させた。全能の資本家団体とますますかたく融合した国家による勤労大衆にたいする法外な抑圧は、ますます法外なものになっている。先進諸国は――その「銃後」のことを言うのだが――労働者にとって軍事監獄に変わりつつある。
 長びいている戦争の前代未聞の恐ろしさと惨禍は、大衆の状態をたえがたいものにし、彼らの憤激を強めている。国際プロレタリア革命は、明らかに成長している。この革命の国家にたいする関係の問題は、実践的意義をもつようになってきている。
 比較的平穏に発展した数十年間に蓄積された日和見主義の諸要素は、全世界の公認の社会主義諸党を支配する社会排外主義の潮流をつくりだした。この潮流(ロシアではプレハーノフ、ポトレソフ、プレシコフスカヤ、ルバノヴィッチ、つぎにすこしばかり隠蔽されたかたちではツェレテリ、チェルノフ氏らの一派、ドイツではシャイデマン、レギーン、ダヴィッドその他、フランスとベルギーではルノーデル、ゲード、ヴァンデルヴェルデ、イギリスではハインドマン、フェビアン派〔*〕、等々)――口先では社会主義、行動では排外主義――の特徴は、「社会主義の指導者」が、「自分の国」のブルジョアジーの利益だけでなく、ほかならぬ「自分の」国家の利益に、卑しい従僕的な仕方で順応している点にある。なぜなら、いわゆる大国の大多数は、はやくから、幾多の弱小民族を搾取し隷属させているからである。そして、帝国主義戦争は、まさに、こういう獲物の分配と再分配のための戦争である。一般にブルジョアジー、またとりわけ帝国主義ブルジョアジーの影響下から、勤労大衆を解きはなつためのたたかいは、「国家」についての日和見主義的偏見とたたかうことなしには不可能である。
 われわれは、はじめに、マルクスとエンゲルスの国家学説を考察し、この学説の忘れさられたか、日和見主義的歪曲をこうむっている側面を、とくに詳しく論じる。つぎに、この歪曲の主要な代表者であるカール・カウツキー、現在の戦争中にみじめな破産をとげた第二インタナショナル(一八八九―一九一四年)のもっとも有名な領袖であるカウツキーをとくに研究しよう。最後に、一九〇五年の、またとくに一九一七年のロシア革命の経験から得られる主要な結論をまとめてみることにする。一九一七年の革命は、見たところ、現在(一九一七年の八月はじめ)その発展の最初の段階を終ろうとしているが、この革命全体は、総じて、帝国主義戦争によってひきおこされたプロレタリア社会主義革命の鎖の一環としてはじめて理解されるものである。プロレタリアートの社会主義革命の国家にたいする関係の問題は、こうして、実践的・政治的意義をもつようになってきているだけでなく、資本の束縛から自分を解放するために近い将来になにをなすべきかを大衆に明らかにする問題としても、このうえなく切実な意義をもつようになってきているのである。
     著者
  一九一七年八月

     ――――――――――

☆  第二版序文

 この第二版は、ほとんど変更をくわえずに印刷される。つけくわえられたのは、第二章第三節にすぎない。
     著者
  モスクワ 一九一八年十二月十七日

☆  第一章 階級社会と国家

★   一 階級対立の非和解性の産物としての国家

 いまマルクスの学説には、解放のためにたたかう被抑圧階級の革命的思想家や指導者の学説について、歴史上再三起こったと同じことが起こっている。大革命家の生前には、抑圧階級はたえまない迫害を彼らにむくい、野蛮このうえない敵意、狂暴あくなき憎悪、うそと中傷の乱暴きわまる攻撃でその学説をむかえた。彼らの死後には、革命的学説の内容を去勢し、その革命的な鋒先をにぶらせ、それを卑俗化するとともに、被抑圧階級を「慰め」、欺くために、彼らを無害の聖像に変え、彼らをいわば聖列にくわえ、彼らの名まえにある栄誉を与えようとする企てがなされる。マルクス主義をこのように「加工する」点で、いま、ブルジョアジーと労働運動内の日和見主義者とは一致している。彼らは学説の革命的側面、その革命的精神を忘却し、抹殺し、歪曲している。そして、ブルジョアジーに受けいれられるもの、あるいは受けいれられるように見えるものを、全面におしだし、礼賛している。すべての社会排外主義者が今日「マルクス主義」である――冗談ではない! そしてきのうまではマルクス主義撲滅の専門家であったドイツのブルジョア学者たちは、略奪戦争をおこなうためにあれほどみごとに組織された労働組合を育てあげたという「ドイツ民族的な」マルクスを口にすることが、ますます頻繁になっている。
 事態はこのとおりで、マルクス主義の歪曲が未曾有にひろがっているこのさい、われわれの任務は、なによりもまず、マルクスの真の国家学説を原状に復することである。このためには、マルクス、エンゲルス自身の著作から、多くの長い引用をする必要がある。もちろん、長い引用文は、叙述をおもくるしいものにし、叙述の平易化にはすこしも役だたないであろう。だが、引用文なしですますことは全然不可能である。読者が、科学的社会主義の創始者たちの見解の全体とこの見解の発展とについて、自分なりの見解をもてるようになるためには、また、今日支配的な「カウツキー主義」がこの見解を歪めていることを文献的に立証して、明瞭に示すためには、マルクスとエンゲルスの著作から、国家の問題について述べた個所をみな、すくなくとも決定的な個所はみな、できるだけ完全な姿で、ぜひ引用しなければならない。
 もっとも普及しているフリードリヒ・エンゲルスの著作『家族、私有財産および国家の起源』から始めよう。この著作は、一八九四年にシュトゥットガルトですでに第六版が出ている。われわれは引用文をドイツ語の原書から訳さなければならない。なぜなら、ロシア語訳は、たくさん出てはいるが、多くは不完全なものか、きわめて不出来なものだからである。
 エンゲルスは、彼の歴史的分析を総括してこう述べている、「国家はけっして外から社会におしつけられた権力ではない。またそれは、ヘーゲルの主張するような、『人倫的理念が現実化したもの』、『理性が形象化し、現実化したもの』でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決できない矛盾にまきこまれ、自分でははらいのける力のない、和解できない対立物に分裂したことを白状するものである。ところで、これらの対立物が、すなわちあい争う経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争によって自分自身と社会を滅ぼさないようにするためには、外見的には社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』のわく内にたもつべき権力が必要となった。そして、社会から生まれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」(ドイツ語第六版、一七七―一七八ページ)〔選集、第一三巻、四七三―四七四ページ〕。
 ここには、国家の歴史的役割とその意義の問題についてのマルクス主義の基本思想が、まったく明瞭に言いあらわされている。国家は、階級対立の非和解性の産物であり、その現われである。国家は階級対立が客観的に和解させることができないところに、またそのときに、その限りで、発生する。逆にまた、国家の存在は、階級対立が和解できないものであることを証明している。
 ほかならぬこのもっとも重要な根本的な点について、マルクス主義の歪曲が始まる。それは二つの主要な方向をとっている。
 一方では、ブルジョア・イデオローグ、とくに小ブルジョア・イデオローグは、――議論の余地のない歴史的事実にせまられて、国家は階級対立と階級闘争のあるところにしか存在しないことを、承認せざるをえなくなって――国家は諸階級を和解させる機関であるといったふうにマルクスを「やや修正」する。マルクスによれば、諸階級を和解させることができるようなら、国家は発生することも存続することもできないはずである。ところが、小市民的で俗物的な教授や政論家たちによると、――たえず、マルクスをご親切にも引合いに出してはいるが!――国家はまさに諸階級を和解させるものだということになる。マルクスによれば、国家は階級支配の機関であり、一階級が他の階級を抑圧する機関であり、階級の衝突を緩和させながら、この抑圧を公認し強固なものにする「秩序」を創出することである。小ブルジョア政治家の意見によれば、秩序とは、ほかならぬ階級の和解であって、一階級が他の階級を抑圧することではなく、また衝突を緩和させるとは、和解させることであって、抑圧者を打ち倒すための一定の闘争手段と闘争方法とを被抑圧階級から奪い取ることではないのである。
 たとえば、一九一七年の革命で、国家の意義と役割の問題が全貌を現わし、即時の行動、しまも大衆的な規模での行動の問題として実践的に現われたとき、エス・エル(社会革命党)とメンシェヴィキはみな、「国家」は階級を「和解」させるという小ブルジョア理論へ、たちまち完全に転落してしまった。これら両党の政治家の無数の決議や論文には、この小市民的・俗物的な「和解」論が骨の髄までしみこんでいる。国家は、自分の対立者(自分に対立する階級)と和解できない一定の階級の支配の機関である。――このことが小ブルジョア民主主義派にはどうしても理解できないのである。国家にたいする態度は、わが国のエス・エルやメンシェヴィキが、けっして社会主義者ではなく(それは、われわれボリシェヴィキがつねに証明してきたことである)、社会主義まがいの物言いをする小ブルジョア民主主義者だということの、もっとも明瞭な現われの一つである。
 他方、マルクス主義の「カウツキー主義的」歪曲は、はるかに巧妙である。国家が階級支配の機関であることも、階級対立が和解できないことも、「理論的には」否定されていない。しかし、つぎの点が忘れられるか、あいまいにされている。すなわち、もし国家が階級対立の非和解性の産物であるなら、また国家が社会のうえに立ち、「社会にたいしてますます外的なものになってゆく」権力であるなら、明らかに、被抑圧階級の解放は、暴力革命なしには不可能なばかりでなく、さらに、支配階級によってつくりだされ、この「疎外」を体現している国家権力機関を破壊することなしには不可能であるということが、それである。理論的には自明なこの結論を、マルクスは――あとで見るように――革命の諸任務の具体的・歴史的分析にもとづいてきわめて明確にひきだしている。ところが、ほかならぬこの結論を、カウツキーは――以下の叙述で詳しく示すことにするが――なんと・・・・「忘却し」、歪曲したのである。

★   二 武装した人間の特殊な部隊、監獄その他

 エンゲルスは、こうつづけている、・・・・「古いゲンス」(氏族またはクラン)「組織にくらべてみた国家の特徴は、第一に、国民を地域によって区分することである」。・・・・
 この区分は、「自然なこと」のように思われる。しかし、それには、血族または氏族別の旧組織との長いたたかいが必要であった。
 ・・・・「第二は、自分を武装力として組織する住民とはもはや直接には一致しない一つの公的権力をうちたてることである。この特殊な公的権力が必要なのは、階級に分裂して以来、住民の自主的に行動する武装組織が不可能になったからである。・・・・こういう公的権力はどの国家にもある。それは武装した人間から成っているばかりでなく、さらに氏族社会」(クラン社会)「のまったく知らなかった物的な付属物、すなわち監獄やあらゆる種類の強制施設から成っている」・・・・〔選集、一三巻、四七四ページ〕。
 エンゲルスは、国家とよばれる「権力」、すなわち、社会から生まれながら、社会のうえに立ち、社会にたいしてますます外的なものとなってゆく権力の概念を展開している。この権力は、主としてなににあるのか? それは、監獄等を意のままにする武装した人間の特殊な部隊にある。
 われわれが武装した人間の特殊な部隊と言うのは、正当である。なぜなら、あらゆる国家に特有な公的権力は、武装した住民や、住民の「自主的に行動する武装組織」とは、「直接には一致しない」ものだからである。
 すべての偉大な革命的思想家と同じように、エンゲルスは、世間一般の俗物どもにはなにも注意するにあたらない、もっともありきたりのものと思われているもの、強い偏見どころか、いわば石のようにこりかたまった偏見によって神聖視されているもの、ほかならぬこうしたものに自覚した労働者の注意をむけようとつとめている。常備軍と警察とは、国家権力の主要な力の道具である。だが、――はたしてそれ以外のものでありうるだろうか?
 エンゲルスが話しかけている一九世紀末のヨーロッパ人――大革命を体験したこともなければ、またこれを目(マ)ぢかに見たこともなかったヨーロッパ人――の大多数の見地からすれば、それ以外のものではあるはずがなかった。彼らには、「住民の自主的に行動する武装組織」がどんなものか、まったく理解できない。社会のうえに立ち、社会にたいして外的なものとなってゆく、武装した人間の特殊な部隊(警察、常備軍)の必要が、どうして現われたのかという質問にたいしては、西ヨーロッパやロシアの俗物は、スペンサーやミハイロフスキーから二、三の文句をかりてきて、社会生活の複雑化とか、機能の分化などを引合いにだして答えるのが好きである。
 こうした引証は「科学的」に見える。そして、和解しがたく敵対する階級へ社会が分裂したという、主要で基本的なことをぼかすことによって、俗物をみごとにねむらせる。
 この分裂がなかったとすれば、「住民の自主的に行動する武装組織」は、棒をもつ猿の群や、原始人や、あるいは氏族社会に統一された人間やの原始的な組織とは、その複雑さや、その技術の高さや、その他の点で違うではあろうが、しかし、そういう組織は可能であっただろう。
 そういう組織が不可能なのは、文明社会が、敵対する諸階級に、しかも和解しがたく敵対する諸階級に分裂していて、もしこれらの階級の「自主的に行動する」武装があったなら、これらの階級間の武装闘争をもたらすにちがいないからである。国家が形成され、特殊な力、武装した人間の特殊な部隊がつくりだされる。そして、どの革命も、国家機関を破壊することによって、われわれにむきだしの階級闘争を示しているし、支配階級は、自分に奉仕する武装した人間の特殊な部隊を復活させることにどんなに努力するものであるか、被抑圧階級は、搾取社会ではなく、被搾取者に奉仕しうるこの種の新しい組織をつくりだすことにどんなに努力するものであるかを、われわれに如実に示している。
 エンゲルスは、前提の考察のなかで、あらゆる大革命が、われわれのまえに、実践的に、明瞭に、しかも大衆行動の規模で提起する、ほかならぬこの問題、すなわち、武装した人間の「特殊な」部隊と、「住民の自主的に行動する武装組織」との相互関係の問題を、理論的に提起している。この問題がヨーロッパとロシアの革命の経験によってどのように具体的に例証されているかは、あとで見るとおりである。
 しかし、エンゲルスの叙述にかえろう。
 彼は、ときとすると、たとえば、北アメリカのここかしこでは、この公的権力は弱いが(ここで問題になっているのは、資本主義社会としてはまれな例外であり、自由な植民者が優勢であった、帝国主義前の時代の北アメリカの諸地方である)、一般的には、それが強化されつつあることを指摘している。
 ・・・・「国家の内部の階級対立が激しくなるにつれ、また境を接する諸国家が大きくなり人口がふえるにつれて公的権力は強化する――まあ今日のわがヨーロッパを見るがよい。そこでは、階級闘争と侵略競争とが公的権力を増大させて、いまにも全社会を、いな国家をすらのみこもうとするほどの高さにおしあげてしまった」・・・・〔選集、第一三巻、四七五ページ〕。
 これが書かれたのは、おそくも前世紀の九〇年代のはじめである。エンゲルスの最後の序文は、一八九一年の六月十六日付になっている。当時帝国主義への転換は、――トラストの完全な支配という意味でも、巨大銀行の無制限の権力という意味でも、大がかりな植民地政策等々という意味でも――フランスでは、ようやく始まったばかりであり、北アメリカやドイツでは、なおいっそう微々たるものであった。そのとき以来、「侵略競争」は一大前進をとげた。二十世紀の一〇年代のはじめに、地球が、これらの「競争する侵略者」すなわち大きな強盗国家のあいだに、最後的に分割されてしまったので、ますますそうである。そのとき以来、陸海軍備は、信じられないまでに増大し、そして、イギリスが世界を支配するか、ドイツが世界を支配するかをめぐり、獲物の分配をめぐって起こった一九一四―一九一七年の略奪戦争は、盗賊的国家権力が社会のすべての力を「のみこむ」過程を、完全な破局へと近づけたのである。
 エンゲルスは、はやくも一八九一年に、「侵略競争」を、大国の対外政策のきわめて重要な特徴の一つとして指摘することができたが、社会排外主義の悪党どもは、まさにこの競争が何倍も激化して帝国主義戦争を生みだした一九一四―一九一七年に、「自国の」ブルジョアジーの略奪者的利益の擁護を、「祖国擁護」とか、「共和制と革命の防衛」とかいった空文句でおおいかくしているのだ!

★   三 被抑圧階級を搾取する道具としての国家

 社会のうえに立つ特殊な公的暴力を維持するためには、租税と国債が必要である。
 エンゲルスはこう書いている。「公的暴力と徴税権とをにぎって、官吏は、いまや社会の機関でありながら、社会のうえに立っている。氏族」(クラン)「社会の諸機関にはらわれていた自由な、自発的な尊敬では、たとえ彼らがそういう尊敬を得られるにしても、この官吏には十分でない」。・・・・官吏の神聖不可侵性についての特別な法律がつくられる。「もっともみずぼらしい警察吏でさえ」クランの代表者より大きな「権威」をもっている。だが文明国家の軍事権力の長でさえ、社会の「強(シ)いられざる尊敬」をうけているクランの首長をうらやんでよい〔選集、第一三巻、四七五―四七六ページ〕
 国家権力機関としての官吏の特権的地位の問題が、ここで提起されている。なにが官吏を社会のうえに立たせるのかということが、基本的なこととして指摘されている。この理論上の問題が、一八七一年にはパリ・コンミューンによって実践的に解決されたこと、また一九一二年にはカウツキーによって反動的にあいまいにされたことは、あとで見よう。
 ・・・・「国家は階級対立を抑制しておく必要から生じたものであるから、だが同時にこれらの階級の衝突のただなかで生じたものであるから、それは、普通、もっとも勢力のある、経済的に支配する階級の国家である。この階級は、国家を手段として政治的にも支配する階級となり、こうして、被抑圧階級を抑圧し搾取する新しい手段を獲得する」。・・・・古代国家と封建国家が奴隷と農奴を搾取する機関であっただけでなく、「近代の代議制国家は、資本が賃労働を搾取する道具である。しかし、例外として、あいたたかう諸階級がほとんど力の均衡をたもっているため、国家権力が、見かけのうえの調停者として、一時両者にたいしてある程度独自性を得る時期がある」。・・・・十七世紀と十八世紀の絶対君主制、フランスの第一および第二帝制のボナパルティズム、ドイツのビスマルクがそうである〔選集、第一三巻、四七六ページ〕。
 われわれのほうでつけくわえれば、革命的プロレタリアートの迫害に移ったのちの共和制ロシアのケレンスキー政府、すなわち、ソヴェトは小ブルジョア民主主義者が指導していたためにすでに無力であったが、ブルジョアジーはまだソヴェトを直接に解散させることができるほど強くはなかった時期のケレンスキー政府がそうである。
 エンゲルスはこうつづけている。民主的共和制では、「富はその権力を間接に、しかしそれだけにいっそう確実に行使する」。すなわち、第一には、「直接に官吏を買収する」(アメリカのばあい)ことによって、第二には、間接に「政府と取引所の同盟」(フランスとアメリカのばあい)によって行使する〔選集、第一三巻、四七七ページ〕。
 今日では、帝国主義と銀行の支配とは、どんな民主的共和制にあっても、富の無制限の権力を擁護し実現するこれら二つの方法をなみなみならぬ技量に「発達」させている。たとえば、ロシアにおける民主的共和制の最初の数カ月、エス・エルおよびメンシェヴィキの「社会主義者」とブルジョアジーとの結婚のいわば蜜月に、連立政府にあってパリチンスキー氏は、資本家と彼らの略奪行為、軍需品納入による彼らの官金横領を抑制する措置をまったくサボタージュしていたが、その後内閣を去ったこのパリチンスキー氏が(もちろん、まったく同じ別のパリチンスキーと交替したのであるが)、年俸一二万ルーブリというちょっとした地位を資本家から「褒美にもらった」のは、あれはいったいなにか? 直接の買収か、それとも、間接の買収か? 政府とシンジケートとの同盟か、それとも友人関係に「すぎない」のか? チェルノフとツェレテリ、アウクセンチエフとスコベレフといった連中は、どういう役割を演じているのか? 彼らは、官金私消者である百万長者の「直接の」同盟者なのか、それともたんに間接の同盟者にすぎないのか?
 「富」の無制限の権力が民主的共和制ではいっそう確実なのは、この権力が資本主義の質の悪い政治的外被にたよっていないからである。民主的共和制は、資本主義の最良の政治的外被であり、そのために、ひとたびこの最良の外被を(パリチンスキー、チェルノフ、ツェレテリの一派をつうじて)わがものにすると、資本は、その権力をきわめて信頼できる確実な土台のうえにきずくために、ブルジョア民主共和制では、人物や、制度や、党派のどのような交替も、この権力を動揺させることができないのである。
 なお注意しておかねばならないのは、エンゲルスが、きわめて明確に、普通選挙権をブルジョアジーの支配の道具とよんでいることである。彼は、明らかにドイツ社会民主党の多年の経験を考慮しながら、つぎのように言っている。普通選挙権は、
 「労働者階級の成熟度の計器である。それは、今日の国家では、それ以上のものとはなりえないし、またけっしてならないであろう」〔選集、一三巻、四七七ページ〕。
 わが国のエス・エルやメンシェヴィキのような小ブルジョア民主主義者、そしてまた、彼らの実の兄弟である西ヨーロッパのすべての社会排外主義者や日和見主義者は、普通選挙権にまさに「それ以上のもの」を期待している。彼らは、「今日の国家で」普通選挙権が実際に勤労者の大多数の意志を表明し、その実現を確保できるかのような、誤った考えをいだき、またそれを人民にふきこんでいる。
 われわれは、ここでは、この誤った考えを注意しておくことしかできないし、また、エンゲルスのまったく明白で、正確で、具体的な言明が「公認の」(すなわち日和見主義的な)社会主義諸党の宣伝・扇動のなかではいたるところでゆがめられていることを指摘することしかできない。エンゲルスがここでしりぞけているこの考えがまったく誤りであることは、「今日の」国家についてのマルクスとエンゲルスの見解をのちに述べるさいに、詳しく解明しよう。
 エンゲルスは、彼のもっともひろく読まれている著作のなかで、自分の見解をつぎの言葉で総括している。
 「こうして、国家は永遠の昔からあるものではない。国家なしにすませていた社会、国家や国家権力のことを夢想さえしなかった社会が、かつてはあった。諸階級への社会の分裂を必然的にともなった経済的発展の一定の段階において、この分裂によって国家が一つの必要となったのである。いまわれわれは、これらの階級の存在が必要でなくなるばかりか、かえって断然生産の障害となるような、そういう生産の発展段階に急歩調で近づいている。階級は、以前にその発生が不可避的であったように、やはり不可避的に消滅するだろう。階級が消滅するとともに、国家も不可避的に消滅する。生産者の自由で平等な協同関係(アソツィアツィオン)にもとづいて生産を組織しかえる社会は、国家機構全体を、そのとき当然おかれるべき場所へ移すであろう、――すなわち、糸車や青銅の斧(オノ)とならべて、考古博物館へ」〔選集、第一三巻、四七八ページ〕。
 今日の社会民主党の宣伝・扇動文書のなかで、この引用文に出会うことはまれである。しかも、この引用文が出てくるばあいでも、それは、たいていは、聖像に礼拝でもするような調子で、すなわちエンゲルスに公式の敬意を表するために、引用されるにすぎず、この「国家機構全体を考古博物館へ移す」ことが革命のきわめて幅広い深刻な展開を前提していることなど、考えてみようともしない。エンゲルスが国家機構とよんでいるものにたいする理解すら、たいていは見られないのである。

★   四 国家の「死滅」と暴力革命

 国家は「死滅する」というエンゲルスの言葉は、ひろく知られており、頻繁に引用され、マルクス主義を日和見主義に偽造する普通のやり方の急所がどこにあるかをあざやかに示しているので、これは詳しく論じる必要がある。この言葉の出所となっている考察を全文引用しよう。
 「プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまずはじめには国家財産に転化させる。だが、そうすることで、プロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を廃絶し、そうすることであらゆる階級差別と階級対立を廃絶し、そうすることでまた国家としての国家をも廃絶する。階級対立のうちに運動してきたこれまでの社会には、国家が必要であった。すなわち、そのときどきの搾取階級が自分たちの外的な生産諸条件を維持するため、したがって、とりわけ現在の生産様式によって決められている抑圧条件(奴隷制、農奴制あるいは隷農制、賃労働)のもとに被搾取階級を暴力的におさえつけておくための組織が必要であった。国家は全社会の公式の代表者であり、目に見える一団体に全社会をまとめあげたものであった。しかし、国家がこうしたものであったのは、それがそれぞれの時代にみずから全社会を代表していた階級の国家――古代では奴隷所有市民の、中世では封建貴族の、現代ではブルジョアジーの国家――であったかぎりにすぎなかった。それは、ついに実際に全社会の代表者になることによって、自分自身をよけいなものにする。抑圧しておかなければならない社会階級がもはやなくなるやいなや、階級支配と、これまでの生産の無政府性にもとづく個人の生存闘争とがとりのぞかれるにともなって、そこから起こる衝突と暴行もまたとりのぞかれるやいなや、特殊な抑圧力である国家を必要としたような、抑圧しなければならないものがもはやなくなる。国家が実際に全社会の代表者としてたちあらわれる最初の行為――社会の名において生産手段を掌握すること――は、同時に国家が国家としておこなう最後の自主的な行為である。社会関係にたいする国家権力の干渉は、一分野から他の分野へとつぎつぎによけいなものとなり、それからひとりでにねむりこんでしまう。人にたいする統治に代わって、物の管理と生産過程の指導とが現われる。国家は『廃止される』のではない。それは死滅するのである。『自由な人民国家』という文句は、この点にてらして評価しなければならない。つまり、それが一時的に扇動上の理由から是認できるという面と、最終的には科学上不十分であるという面とを、評価しなければならない。国家をきょうあすにも廃止せよという、いわゆる無政府主義者の要求も、同様にこの点にてらして評価しなければならない」(『反デューリング論』ドイツ語版、三〇一―三〇三ページ)〔選集、第一四巻、四七三―四七四ページ〕。
 誤りをおそれずあえて言うならば、エンゲルスの驚くほど思想ゆたかなこの考察のなかで、今日の社会主義諸党のあいだの社会主義思想の真の財産となったものは、無政府主義者の国家「廃止」説とは違って、マルクスによれば国家は「死滅する」ということだけだ、と言ってもいい。しかし、マルクス主義をこういうふうに切りちぢめるのは、それを日和見主義にしてしまうことである。なぜなら、こういうふうに「解釈」するばあいには、緩慢で、穏やかな、徐々に生じる変化があって、飛躍と激動はなく、革命はないといったえたいのしれぬ観念しかのこらないからである。世間一般の、ひろく流布した、大衆的――こう表現してもよければ――な理解による国家の「死滅」とは、疑いもなく、革命をあいまいにする――たとえ否定しないまでも――ことを意味する。
 ところが、この種の「解釈」は、ブルジョアジーにだけ有利な、はなはだしいマルクス主義の歪曲であって、理論的には、たとえば、われわれが全文引用しておいた、エンゲルスのあの「総括的」考察のなかに述べてある、きわめて重要な事情や論点を忘れたことによるものである。
 第一に、この考察の最初でエンゲルスは、プロレタリアートは国家権力を掌握し、「そうすることで国家としての国家を廃絶する」と言っている。これがなにを意味するか、それについて考えることは「慣例になっていない」。普通それは、完全に無視されるか、そうでなければエンゲルスの「ヘーゲル主義的弱点」のようなものだと見なされている。実際には、これらの言葉には、最大のプロレタリア革命の一つである一八七一年のパリ・コンミューンの経験が、簡潔に言いあらわされている。この経験のことは、適当な場所でもっと詳しく述べよう。実際には、ここでエンゲルスが言っているのは、プロレタリア革命によるブルジョアジーの国家の「廃絶」のことである。ところが、死滅という言葉は、社会主義革命後のプロレタリア国家組織の残存物にかんすることである。エンゲルスによれば、ブルジョア国家は「死滅する」のではなく、革命のあいだにプロレタリアートによって「廃絶される」。この革命のあとで死滅するのは、プロレタリア国家または半国家である。
 第二に、国家は「特殊な抑圧力」である。エンゲルスの、このみごとな、きわめて深遠な定義は、ここで、このうえなく明瞭にくだされている。ところで、この定義から出てくることは、ブルジョアジーがプロレタリアートを、ひとにぎりの金持が数百千万の勤労者を「抑圧するための特殊な力」は、プロレタリアートがブルジョアジーを「抑圧するための特殊な力」(プロレタリアートの独裁)と交替しなければならない、ということである。「国家としての国家の廃絶」とは、まさにこのことなのである。社会の名において生産手段を掌握する「行為」とは、まさにこのことなのである。そして一つの(ブルジョア的な)「特殊な力」ともう一つの(プロレタリア的な)「特殊な力」とのこのような交替は、けっして「死滅」というかたちで生じうるものではない。
 第三に、エンゲルスが「死滅」と言い――もっとくっきりと、あざやかに――「眠りこみ」と言っているのは、まったく明白、明確に、「国家が社会の名において生産手段を掌握した」のちの、すなわち社会主義革命後の時代についてである。この時期の「国家」の政治形態がもっとも完全な民主主義であることを、われわれはみな知っている。だが、恥しらずにもマルクス主義を歪曲している日和見主義者は、したがってエンゲルスがここで問題にしているのは民主主義の「眠りこみ」と「死滅」であるということに、だれひとり気づかないのである。これは、一見はなはだ奇異に思われる。しかし、このことが「理解できない」のは、民主主義もまた国家であり、したがって、国家が死滅するときには民主主義もまた消滅する、ということをよく考えたことのない人だけである。ブルジョア国家を「廃絶」することができるのは、革命だけである。国家一般、すなわちもっとも完全な民主主義は、「死滅」するほかはない。
 第四に、「国家は死滅する」という有名な命題をかかげたのち、エンゲルスは、ただちに、この命題が日和見主義者にも無政府主義者にも鋒先をむけていることを、具体的に明らかにしている。そのさいエンゲルスは、「国家は死滅する」という命題から生まれる。日和見主義者に鋒先をむけた結論を第一においている。
 賭(カ)けをしてもよいが、国家は「死滅する」ということを読むか聞いたかした一万人のうち九九九〇人は、エンゲルスがこの命題からの結論を無政府主義者だけにむけたのではないということを、まったく知らないか、あるいはそれを記憶していない。ところで、残りの一〇人のうちおそらく九人までは、「自由な人民国家」とはなにか、なぜこのスローガンにたいする攻撃は日和見主義にたいする攻撃を意味するのか、を知らない。歴史はこうして書かれるのだ! 偉大な革命的学説が、こうして流行の俗物主義にこっそり偽造されるのだ。無政府主義者に鋒先をむけた結論は、千回もくりかえされ、卑俗化され、浅薄きわまるかたちで頭にたたきこまれ、偏見の強靭(ジン)さをもつようになった。ところが、日和見主義者に鋒先をむけた結論はあいまいにされ、「忘れさられた」!
 「自由な人民国家」は、一八七〇年代のドイツの社会民主主義者の綱領的要求であり、流行のスローガンであった。このスローガンは、民主主義の概念を小ブルジョア的に誇張して言いあらわしている以外に、政治的内容はなにもない。そのなかに民主的共和制が合法的な仕方で暗示されていたかぎりにおいて、エンゲルスは、扇動上の見地から、このスローガンを「一時」「是認する」ことを辞さなかった。しかし、このスローガンは日和見主義的であった。なぜなら、それは、ブルジョア民主主義の粉飾をあらわしていただけでなく、あらゆるたぐいの国家一般にたいする社会主義的批判についての無理解をもあらわしていたからである。われわれは、資本主義のもとでプロレタリアートにとって最高の国家形態として、民主的共和制に賛成である。だが、もっとも民主的なブルジョア共和制のもとでも賃金奴隷制が人民の運命であることを忘れる権利は、われわれにはない。さらに、あらゆる国家は、被抑圧階級を「抑圧するための特殊な力」である。だから、あらゆる国家は不自由で、非人民的である。マルクスとエンゲルスは、七〇年代に、このことを党のどうしにむかって再三説明した。
 第五に、そこに国家死滅論が述べられていることをだれでも思い出すエンゲルスのあの著作には、暴力革命の意義の考察があるのだ。暴力革命の役割の歴史的評価は、エンゲルスにあっては、暴力革命にたいするまぎれもない賛辞になっている。このことを「だれも思い出さない」。この思想の意義を語ること、それどころか、それを考えることすら、今日の社会主義諸党では慣例になっていない。大衆のあいだでの日常の宣伝・扇動では、この思想はなんの役割も演じていない。ところが、この思想は、国家の「死滅」と不可分に結びついて、整然たる一体をなしているのである。
 エンゲルスの考察は、つぎのとおりである。
 ・・・・「暴力は、歴史上で、他のもう一つの役割」(悪いことをするという以外の)、「つまり革命的な役割を演じるということ、暴力は、マルクスの言葉によると、新社会をはらんでいる旧社会の助産婦であるということ、暴力は、社会的運動が自己を貫徹し、硬直し死亡した政治的諸形態を打ち砕くための道具であるということ、――こういうことについては、デューリング氏は一言も語らない。彼は、搾取経済を転覆するためにはおそらく暴力が必要となるかもしれないということを、嘆いたり、うめいたりしながら、やっと認めている。――残念なことに! というのは、すべて暴力の行使は、それを行使するものを堕落させるからだという。勝利に終わったどの革命からも、大きな道徳的・精神的高揚が結果として生じているという事実をまえにしながら、こういうことを言うのだ! ドイツでは、実際に人民は暴力的衝突をやむなくされるかもしれないが、すくなくともそれは、三十年戦争の屈辱の結果として国民の意識にしみこんだ下僕根性を根絶するという利益があるだろうに、そのドイツでこういうことを言うのだ! それでもなお気のぬけた、ひからびた、無力な説教師的考え方が、おこがましくも、歴史上に知られたもっとも革命的な党にあえて自分を押し売りしようとするのか?」(ドイツ語第三版、一九三ページ。第二編第四章のおわり)〔選集、第一四巻、三三二―三三三ページ〕。
 エンゲルスが、一八七八年から一八九四年まで、すなわちその死にいたるまで、ドイツの社会民主主義者にむかって根気よく説きつづけた、暴力革命にたいするこの賛辞と、国家「死滅」論とは、どうやって一つの学説に結合することができるだろうか?
 ふつう両者は、折衷主義の助けをかりて、すなわち、あるときは前者の、あるときは後者の議論を、無思想的にあるいは詭(キ)弁的に、勝手気ままに(あるいは権力者を喜ばせるために)つかみだすことによって、結合されている。しかも、一〇〇回のうち九九回――それ以上ではないとしても――は、ほかならぬ「死滅」が全面に押しだされている。弁証法が折衷主義に代えられている。――これが、マルクス主義についての今日の社会民主党の公認の文献で、もっとも普通な、もっともひろがっている現象である。もちろん、こうしたとりかえは新しいことではなく、ギリシア古典哲学の歴史にさえ見うけられることである。マルクス主義を日和見主義に偽造するさいには、弁証法の折衷主義的偽造がもっともやすやすと大衆を欺き、外見的な満足を与え、また過程のすべての側面、すべての発展傾向、矛盾にみちたすべての影響、等々を考慮しているかのように見えるが、しかし実際には、それは、社会的発展過程の統一ある革命的な理解を、すこしも与えるものではない。
 暴力革命の不可避性についてのマルクスとエンゲルスの学説がブルジョア国家について言われたものであることは、すでに前述したが、以下の叙述でさらに詳しくそのことを示そう。ブルジョア国家がプロレタリア国家(プロレタリアートの独裁)と交替するのは、「死滅」によっては不可能であり、それは、通例、暴力革命によってのみ可能である。エンゲルスが暴力革命にささげた賛辞は、マルクスのたびたびの言明と完全に一致しているが(われわれは、暴力革命の不可避性を誇らかに公然と言明している『哲学の貧困』と『共産党宣言』との結語を思い出すし、また、それからほとんど三〇年後の一八七五年の『ゴータ綱領批判』――マルクスは、そこでは、この綱領〔*〕の日和見主義を容赦なく糾弾している――を思い出す)――この賛辞は、けっして「陶酔」でもなければ、大言壮語でもなく、また論戦上の脱線でもない。暴力革命についてのこのような――まさにこのような――見解で大衆を系統的に教育する必要が、マルクスとエンゲルスの学説全体の基礎になっている。今日支配的な社会排外主義的傾向とカウツキー主義的傾向とがマルクスとエンゲルスの学説を裏切っていることは、両者ともにこのような宣言、このような扇動を忘れているところに、とくにあざやかに現われている。
 プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能である。プロレタリア国家の廃絶、すなわちあらゆる国家の廃絶は、「死滅」の道による以外には不可能である。
 マルクスとエンゲルスは、個々の革命的情勢を一つ一つ研究し、一つ一つの革命の経験の教訓を分析することによって、これらの見解を詳しく具体的に発展させた。つぎに、彼らの学説のなかで無条件にもっとも重要なこの部分に移ろう。


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