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§ 空想から科学へ
☆ 目次
一八八〇年フランス語版序文(マルクス)
一八八二年ドイツ語第一版序文(エンゲルス)
一八九一年ドイツ語第四版序文(エンゲルス)
一八九二年英語版序文(エンゲルス)
空想から科学への社会主義の発展
一
二
三
☆ 一八八〇年フランス語版序文〔1〕(マルクス)
この小冊子におさめられている諸章は、かつて『ルヴュー・ソシアリスト』誌〔2〕に三つの論文としてのせられたもので、フリードリヒ・エンゲルスの最近の著作『〔オイゲン・デューリング氏の〕科学の変革〔3〕』〔『反デューリング論』〕から抜粋して翻訳したものである〔*〕。
〔*〕 ラファルグが署名して出版した版には、このあとに次の追加がある。「これは著者にみなおしてもらった。著者は、フランスの読者に資本主義的生産の経済的な力の弁証法的発展をわかりやすくするために、第三部にいろいろの補足をくわえた。」
フリードリヒ・エンゲルスは、現代の社会主義の最もすぐれた代表者のひとりであって、一八四四年に『国民経済学批判大綱』〔『マルクス=エンゲルス全集』第一巻、または、『マルクス=エンゲルス選集』補巻5所収〕を著わして世人の注目をひいた。この論文は、最初は、マルクスとルーゲがパリで発行した『独仏年誌』に掲載されたものである。『大綱』のなかではすでに科学的社会主義の若干の一般原則が定式化されている。エンゲルスは、その当時住んでいたマンチェスター〔ただしくはバルメン〕で、『イギリスにおける労働者階級の状態』(一八四五年)〔『全集』第二巻、または、『選集』補巻2所収〕を(ドイツ語で)書いた。これはマルクスが『資本論』で高い評価をあたえている重要な著作である。彼は最初にイギリスに滞在したときに――またのちにブリュッセルに滞在したときにも――社会主義運動の公式の機関紙『ノーザン・スター』とロバート・オーウェンの『ニュー・モラル・ワールド』紙〔4〕に寄稿した。
エンゲルスのブリュッセル滞在中に彼とマルクスは共産主義的なドイツ人労働者協会〔5〕をつくった。この協会はフランドルとヴァローンの労働者のクラブと連絡があった。また両人はボルンシュテットといっしょに『ブリュッセル・ドイツ語新聞〔6〕』を発刊した。義人同盟(ロンドンにあった)のドイツ人委員会の招待に応じて、彼らはこの同盟の会員になった。これは、カール・シャッパーが、一八三九年にブランキーの陰謀に参加したというのでフランスから逃亡をよぎなくされたのちに、設立したものである。秘密結社にありがちな形態をしりぞけたのちに、この同盟は国際的な共産主義者の同盟に改組された。だがそれにもかかわらず当時の状態のもとでは、同盟は政府にたいして秘密にしておかなければならなかった。一八四七年にマルクスとエンゲルスはロンドンでひらかれた同盟の国際会議で、『共産党宣言』〔『全集』第四巻、『選集』第二巻、または、国民文庫所収〕を起草することを委任された。『宣言』は二月革命の直前に発表されて、ヨーロッパのほとんどすべての国語に翻訳された〔*〕。同じ年に彼らはブリュッセル民主主義協会の設立に協力した。この協会は、公開の国際的団体で、そのなかにはブルジョア急進派の代表者と社会主義的労働者の代表者とがいっしょになっていた。
〔*〕 ラファルグが署名して出版した版には、このあとに次の追加がある。「『共産党宣言』は現在の社会主義の最も価値のある文献の一つである。それは今日でも、ブルジョア社会の発展と、資本主義社会を終わらせなければならないプロレタリアートの形成とを、最も力づよくかつ明瞭に述べたものの一つである。その一年まえに発行されたマルクスの『哲学の貧困』〔『全集』第四巻、『選集』第一巻、または国民文庫所収〕と同じように、『宣言』には階級闘争の理論がはじめて明瞭に定式化されている。
二月革命ののちに、エンゲルスは『新ライン新聞』のひとりになった。この新聞は、一八四八年にケルンでマルクスが創刊し、一八四九年五月にプロイセンのクーデタによって弾圧されたものである。エンゲルスは、エルバーフェルトの蜂起に参加したのちに、その当時義勇兵部隊の隊長であったヴィリヒの副官として、プロイセン軍にたいするバーデン人民の戦闘(一八四九年六月と七月)に従軍した〔7〕。
一八五〇年にロンドンで彼は、マルクスが編集してハンブルクで印刷されていた『新ライン新聞。政治経済評論』に寄稿した。その誌上にエンゲルスは労作『ドイツ農民戦争』〔『全集』第七巻、『選集』第一六巻、または国民文庫所収〕をはじめて発表したが、これは一九年後にライプツィヒで小冊子として発行され、三版をかさねた。
ドイツの社会主義運動が復活してから、エンゲルスは、『フォルクスシュタート〔8〕』と『フォルヴェルツ〔9〕』に掲載された論説のなかの最も重要なものを書いたが、その大部分は、のちにパンフレットとして刊行された。たとえば、『ロシアの社会関係』〔『全集』第一八巻、または、『選集』第一三巻所収〕、『ドイツ帝国議会におけるプロイセン火酒問題の討論』〔『全集』第一九巻、または、『選集』第一二巻所収〕、『住宅問題』〔『全集』第一八巻、または、『選集』第一二巻所収〕、『バクーニン主義者の活動』〔『全集』第一八巻、または、『選集』第一三巻所収〕などがそれである。
エンゲルスは、一八七〇年にマンチェスターからロンドンに移ってのち、インタナショナル総評議会の委員となり、スペイン、ポルトガル、イタリアとの連絡を委任された。
彼は『オイゲン・デューリング氏の科学の変革』という皮肉な題名をつけた最近の連載論文を『フォルヴェルツ』におくった(これは、科学一般にかんする、とくに社会主義にかんするオイゲン・デューリング氏の自称新理論にたいする反論である)。この一連の論文は一冊にまとめられて、ドイツの社会主義者たちのあいだで大成功をおさめた。われわれはこの小冊子で同書の理論的な部分から最も適切な抜粋をおこなった。これはおそらく科学的社会主義の入門書となるであろう。
一八八〇年五月四―五日ごろ執筆
手稿による
☆ 一八八二年ドイツ語第一版序文(エンゲルス)
この本は、私の著作『E・デューリング氏の科学の変革』(ライプツィヒ、一八七八年)の三つの章からなっている。私はそれらを友人のポール・ラファルグのためにフランス語版用に編集し、さらに若干の説明をこれにつけくわえた。私が目を通したフランス語訳は、はじめに『ルヴュー・ソシアリスト』誌に掲載され、そののち『空想的社会主義と科学的社会主義』(パリ、一八八〇年)という表題で単行本として出版された。フランス語訳からポーランド語に訳されたものが、ちょうどいまジュネーヴで出版されたが、その表題は『空想的ならびに科学的社会主義』(オーロール印刷所、ジュネーヴ、一八八二年)である。
ラファルグの翻訳がフランス語使用国、ことに当のフランスでめざましい成功をおさめたので、私は、この三章だけのドイツ語版も同じように役にたつのではあるまいか、と考えざるをえなくなった。そこへ、チューリヒの『ゾツィアルデモクラート〔10〕』の編集局から、ドイツ社会民主党内で新しい宣伝用のパンフレットを出版してほしいという要望が広く高まっているということが伝えられ、あの三章をこれにあてるつもりはないか、と言って問い合わせてきた。私はもちろんこれに同意して、私の著作を使ってもらうことにした。
だがこの著作はもともとけっして直接大衆宣伝用に書いたものではなかった。直接には純粋に学術的な著作が、どうすればこの目的に適したものになるだろうか? 形式と内容にどんな変更が必要だったろうか?
形式にかんしては、ただ外来語の多いことだけが心配だった。しかし、すでにラサールがその演説や宣伝文書でまったく遠慮なしに外来語を使っていたし、私の知る限りでは、それについてだれも苦情をいったものはない。その当時以来わが国の労働者ははるかに多くはるかに規則的に新聞を読むようになってきたし、またそのことによって同じように外来語にもずっとよく慣れてきた。それで私は、すべての不必要な外来語を除くにとどめた。さけられない外来語の場合に、いわゆる説明的訳語をつけくわえることはしなかった。さけられない外来語とは、その大部分が一般に使われている科学的術語であって、もしそれが翻訳できるものだったら、けっしてさけられなくはなかったであろう。だから、それを翻訳することは意味をゆがめる。説明するのではなくて混乱させる。そういう場合には口で説明するほうがずっと役にたつのである。
これに反して内容のほうは、ドイツの労働者にはほとんどむずかしくはない、と言えると思う。むずかしいのは、けっきょく第三章だけであるが、この章は労働者の一般的生活条件を総括しているのであるから、労働者にとっては「教養のある」ブルジョアにとってよりもずっとむずかしくないのである。この章でいくつかの説明的な補足をしたさいに、私は実際には労働者よりもむしろ「教養のある」読者を念頭においていたのである。国会議員のフォン・アイネルン氏とか枢密顧問官のハインリヒ・フォン・ジーベル氏とかそのほかトライチュケなどといった連中は、やむにやまれぬ衝動にかられて、社会主義についての彼らのおそろしい無知と、この無知から当然起こる法外な誤解とを、くりかえしくりかえし印刷して提供したがっている。ドン・キホーテがその槍を風車につきさしても、それは彼の地位と役柄に相応しているが、サンチョ・パンサにはそんなことをやるのを許しておくわけにいかない。
こういった読者たちは、手みじかに述べられた社会主義の発展史のなかでカント=ラプラスの宇宙発生論や、近代科学とダーウィンや、ドイツ古典哲学とヘーゲルに出会って、驚きもするだろう。だが科学的社会主義はたしかに本質的にドイツの産物であって、ただ、その古典哲学が意識的な弁証法の伝統をいきいきと保持していた国民のもとでのみ、すなわちただドイツ〔*〕でのみ、成立することができたのである。唯物史観は、またそれをとくにプロレタリアートとブルジョアジーとの現在の階級闘争に適応することは、ただ弁証法を媒介としてのみ可能であった。そしてドイツ・ブルジョアジーの学校教師たちが、偉大なドイツの哲学者たちと彼らによってもたらされた弁証法とへの追憶を、荒れはてた折衷主義の泥沼のなかにおぼれさせた――そしてそれだからこそ、弁証法が現実に存在することを証明する証人としてわれわれは現代自然科学を呼び出さなければならないのだ――のに反して、われわれドイツの社会主義者たちは、サン−シモン、フーリエ、オーウェンの系統をひくばかりでなく、カント、フィヒテ、シェリングの系統をもひくものであることに、誇りを感じているのである。
〔*〕 「ドイツで」というのは書き誤りである。「ドイツ人のもとで」というべきである。というわけは、一方では、科学的社会主義の発生にとってドイツの弁証法がなくてはならないものであったと同様に、この場合にイギリスとフランスの発展した経済的ならびに政治的諸関係がなくてはならないものであったからである。ドイツの経済的ならびに政治的発展段階は〔一八〕四〇年代のはじめには今日よりもまだはるかにおくれていたので、それはせいぜい社会主義の戯画しか生みだすことができなかった(『共産党宣言』第三章第一節「ドイツ社会主義または『真正』社会主義」〔『全集』第四巻、四九九―五〇二ページ〕参照)。イギリスとフランスで生まれた経済的ならびに政治的状態にドイツの弁証法的批判がくわえられたときに、そこではじめてほんとうの成果が得られたのである。したがってこの側面からみれば、科学的社会主義はけっしてただドイツだけの産物ではなく、同様にまた国際的な産物でもある。〔この注は一八八三年のドイツ語第三版でエンゲルスが加えたものである〕。
ロンドン、一八八二年九月二一日
フリードリヒ・エンゲルス
☆ 一八九一年ドイツ語第四版序文〔11〕(エンゲルス)
この本の内容はわがドイツの労働者諸君にとってあまりむずかしくはないだろう、という私の予想は正しいことがわかった。すくなくとも、第一版が出た一八八三年三月以来三版を重ね、全体で一万部売れた。しかもそれは今日では廃止されている社会主義者取締法の支配のもとでのことである。――このことは同時に、現代プロレタリアートの運動のような運動にたいして警察の禁止がいかに無力であるか、ということを示す新しい実例である。
初版以来なおさまざまの翻訳が外国語で出版された。すなわち、パスカル・マルティネッティのイタリア語版『空想的社会主義と科学的社会主義』(ベネヴェント、一八八三年)、ロシア語訳『科学的社会主義の発展』(ジュネーヴ、一八八四年)、デンマーク語訳『空想から科学への社会主義の発展』(『社会主義文庫』第一巻、コペンハーゲン、一八八五年)、スペイン語訳『空想的社会主義と科学的社会主義』(マドリード、一八八六年)、オランダ語訳『空想から科学への社会主義の発展』(ハーグ、一八八六年)。
この版ではさまざまの小さな修正がくわえられたが、比較的重要な補足は二箇所だけである。すなわち第一章では、フーリエやオーウェンにくらべていくらか短かすぎたサン−シモンについて、また第三章の終わりちかくでは、この期間中に重要になってきた新しい生産形態「トラスト」についてである〔12〕。
ロンドン、一八九一年五月一二日
フリードリヒ・エンゲルス
☆ 一八九二年英語版序文〔13〕(エンゲルス)
この小さな本は元来はもっと大きな本の一部分である。一八七五年ごろ、ベルリン大学の私講師E・デューリング氏が、突然、そしてかなりそうぞうしく、社会主義への改宗を声明し、念いりな社会主義の理論ばかりでなく、社会改造のための完全な実践的計画をもドイツの読者に提供した。彼が自分の先行者たちに襲いかかったのはもちろんのことだったが、とりわけマルクスにたいして、彼は、ありったけの憤怒をあびせかけることによって敬意を表した。
こういうことが起こったのは、ちょうど、ドイツの社会主義政党の二つの派――アイゼナッハ派とラサール派――が融合を完了して〔14〕、力を大いに増大したばかりでなく、もっと重要なことだが、この力の全体を共通の敵にたいしてふるう能力をもつようになったときのことであった。ドイツの社会主義政党は急速に一つの勢力になりつつあった。しかしそれを一つの勢力とするためには、新たに達成された統一がおびやかされないということが第一の条件であった。ところがデューリング博士は、公然と自分のまわりに一つのセクトを、将来別個の党となるべきものの中核を、つくり上げようとしていた。こうして、われわれにたいしてなされた挑戦におうじて、好むと好まないとにかかわらず、この闘争をたたかいぬくことが必要となったのである。
だがこのことは、ひどく困難な仕事ではなかったにしても、明らかに手数のかかる仕事であった。よく知られているように、われわれドイツ人には、おそろしく重々しい
Grundlichkeit〔根本性〕、つまり徹底的な深遠性とか深遠な徹底性とか呼んでよいものがある。わが国のだれかが自分で新しい説だと考えるものを述べようとするときには、いつでもまず第一にそれを一つの包括的な体系に仕上げなければならない。論理の第一原理も宇宙の根本法則も、それらが永遠の昔から存在してきたのは、けっきょく、この新しく発見された、いっさいのものの極致である理論へとみちびくためにほかならなかったのだということを、彼は証明しなければならない。そしてデューリング博士は、この点で申し分なくこの国民的標準にたっした人であった。じつに、精神哲学、道徳哲学、自然哲学、歴史哲学をふくむ完全な『哲学体系』、完全な『経済学と社会主義との体系』、そして最後に『経済学の批判的歴史』――それは八つ折判の、外見上も内容上も重苦しい三巻の大冊、およそ彼以前のあらゆる哲学者と経済学者に反対して、とくにマルクスに反対して動員された論証の三つの軍団であり――じつに、完全な「科学の変革」の企てである――すくなくもこれが、私がとりくまなければならない相手であった。私は、時間と空間の概念から複本位制にいたるまでの、物質と運動の永遠性から道徳観念が一時的なものだということにいたるまでの、ダーウィンの自然淘汰から未来の社会での少年の教育にいたるまでの、ありとあらゆる題目を取り扱わなければならなかった。とにかく、私の論敵が体系的に包括的であるために、私は、この非常に変化にとむ題目についてマルクスと私自身が主張している見解を、デューリング氏に対抗して、しかも以前にやってきたよりもいっそう連関のあるかたちで展開する機会をあたえられた。そしてこのことが、ほかの点ではありがたくないこの仕事を私があえて引き受けた主要な理由であった。
私の回答は、はじめ社会党の中央機関紙であったライプツィヒの『フォルヴェルツ』に連載論文として発表され、のちに『オイゲン・デューリング氏の科学の変革』という本として出版された。その第二版は一八八六年にチューリヒで出た。
私の友人で、現在はリール選出のフランス下院議員であるポール・ラファルグの依頼によって、私はこの本の三つの章をパンフレットに編集した。ラファルグはそれを翻訳して、一八八〇年に『空想的社会主義と科学的社会主義』という表題で出版した。このフランス語のテキストによってポーランド語訳とスペイン語版がつくられた。一八八三年にはドイツにいるわれわれの友人たちがこのパンフレットを原語で出版した。それ以来、ドイツ語のテキストをもとにして、イタリア語、ロシア語、デンマーク語、オランダ語、ルーマニア語の翻訳が出版されている。こうして、今回の英語版をくわえればこの小さな本は一〇カ国語で普及することになる。ほかのどんな社会主義の著作でも、一八四八年のわれわれの『共産党宣言』やマルクスの『資本論』でさえも、私の知るかぎりでは、こんなにたびたび翻訳されたことはないであろう。ドイツではそれは四版をかさね、全部で約二万部になっている。
付録の『マルク』は、ドイツにおける土地所有の歴史と発展についての若干の基礎的知識を、ドイツの社会党のなかでひろめる意図で書いたものである。これは、都市の労働者を同化させるという同党の仕事がかなり完成の域にちかづき、農業労働者と農民を獲得するべきときだっただけに、とりわけ必要だと思われた。この付録をこの翻訳のなかにおさめたのは、すべてのチュートン〔ドイツ語版では――ゲルマン〕種族に共通な土地保有の原形とその衰退の歴史は、イギリスではドイツでよりもずっとわずかしか知られていないからである。私は、最近マクシム・コワレフスキーが提唱した仮説にはふれないで、テキストをもとのままにしておいた。この仮説によれば、耕地や牧草地がマルクの成員たちのあいだに分割されるよりもまえに、それらは(いまなお存在している南スラヴィアのザドルーガ〔世帯共同体〕が例証しているように)数世代をふくむ大きな家父長制的家族共同体によって共同計算で耕作されていたのであるが、のちになって、この共同体が大きくなって共同計算で経営することが不便になったときに、分割がおこなわれたというのである。コワレフスキーの言うことはおそらくまったく正しいであろうが、しかしこの問題にはまだ決着がついていない〔15〕。
この本で使っている経済学上の術語は、それが新しい術語であるかぎり、マルクスの『資本論』英語版〔16〕で使われている術語と一致している。われわれは、物品が生産者の使用のためばかりでなく交換の目的でも生産されるような、すなわち、それが使用価値としてでなく商品として生産されるような経済段階を「商品生産」とよんでいる。この段階は交換のための生産のそもそものはじめからわれわれの現代にまでおよんでいる。そしてそれは、資本主義的生産のもとで、すなわち、生産手段の所有者である資本家が自分の労働力以外のいっさいの生産手段を奪われている労働者を賃金を払って雇い、生産物の販売価格が彼の投下額を上回ったその超過分を自分のものにするという条件のもとで、はじめて十分な発展をとげるのである。われわれは中世以来の工業生産の歴史を三つの時期に分ける。(1)手工業、すなわち数人の職人と徒弟を使う小手工業親方。ここではどの労働者もみな完成品を生産する。(2)マニュファクチュア。ここでは比較的多数の労働者が一つの大きな作業場のなかで組み分けされて、分業の原則にもとづいて完成品を生産する。そのさい、どの労働者も一つの部分的な作業しかおこなわず、生産物はつぎつぎに全員の手にとおったのちにはじめて完成される。(3)近代工業。ここでは生産物は動力でうごかされる機械によって生産され、労働者の仕事は機械のすることを監視し補正することに限られている。
この著作の内容がイギリスの読者のかなり多くの人々にとって気に入らないだろうということを、私はよく知っている。けれども、もしもわれわれ大陸のものがイギリスの「お上品な人々」の先入観をほんのすこしでも顧慮したとしたら、事態はわれわれにとっていまよりももっと悪くなっていたことだろう。この本はわれわれが「史的唯物論」とよんでいるものを擁護しているのであるが、この唯物論ということばが、イギリスの非常に多くの読者の耳にはいやな感じをあたえるのである。「不可知論」ならまだしもがまんできようが、唯物論ときてはまったくゆるせない、というわけである。
それにもかかわらず、一七世紀以来のあらゆる近代唯物論の本家家元は、イギリスである。
「唯物論はイギリスの生みの息子である。すでにイギリスのスコラ学者ドゥンズ・スコトゥスは、『物質ははたして思考することができないであろうか?』と、自問している。
この奇跡を成就するために、彼は神の全能にたよった。すなわち彼は神学そのものに唯物論を説教させたのである。そのうえ彼は唯名論者〔17〕であった。唯名論はイギリスの唯物論者のあいだでは一つの主要な要素となっており、また一般に唯物論の最初の表現である。
イギリスの唯物論のほんとうの先祖はベーコンである。彼には自然科学が真の科学と思われ、感性的経験にもとづく物理学が自然科学の最も主要な部分である。アナクサゴラスとそのホモイオメレ〔18〕、デモクリトスとその原子が、しばしば彼の典拠になっている。彼の学説によれば、感官は誤ることのないものであり、すべての知識の源泉である。科学は経験科学であり、感性によってあたえられたものに合理的な方法を適用するところに成立する。帰納、分析、比較、観察、実験が合理的な方法の主要な条件である。物質に本来そなわる諸性質のうちで、運動が第一の、また最も主要な性質である。つまり、たんに力学的および数学的な運動としてだけでなく、さらにそれにもまして物質の衝動、生気、緊張としての――ヤーコプ・ベーメの表現をかりるならば――物質の『悩み(クワール)〔*〕』としての、運動がそうなのである〔19〕。
〔*〕 "Qual"とは哲学的なことばのしゃれである。Qualは文字どおりには、苦悩、なんらかの行動へとかりたてる苦痛を意味する。それと同時に神秘主義者のベーメは、このドイツ語にラテン語のqualitas〔質〕の意味をいささかふくませている。ベーメの"Qual"は、外からあたえられる苦痛とは違って、Qualをこうむっている物、関係、または人の自発的な発展から生じ、また逆にこの発展を刺激する、活動化の原理であった。{エンゲルスの注}
唯物論の第一の創始者であるベーコンにあっては、唯物論はまだ素朴なかたちで全面的な発展の萌芽のうちにかくしもっている。物質は、詩的な=感性的な輝きにつつまれて人間の全体にほほえみかけている。これに反して、彼の格言ふうの学説そのものには、まだ神学的な前後撞着(ドウチャク)がうようよしている。
この唯物論は、さらに発展してゆくにつれて一面的になる。ホッブズはベーコンの唯物論を体系化した人である。感性はそのはなやかさを失い、幾何学者の抽象的感性になる〔20〕。幾何学が主要な科学であると宣言される。こうして唯物論は人間ぎらいとなる。この人間ぎらいの、肉体をもたない精神を、この精神自身の分野で、克服しうるためには、唯物論は自分自身の肉を自分で断ちきり、禁欲者にならなければならない。唯物論は、一つの悟性的存在として登場するが、また悟性の仮借ない首尾一貫性を展開する。
感性が人間にすべての知識を共有するものなら――とホッブズは、ベーコンから出発して、次のように論証する――直観、思想、観念などは、多かれ少なかれその感性的形態をはぎとられた物体世界の幻像にほかならない。科学にできることは、これらの幻像に名をつけることだけである。一つの名称が多くの幻像に適用されることもあろう。名称の名称さえありうるだろう。しかし、一方ではすべての観念の起源を感性的世界に求めながら、他方で、一つのことばが一つのことば以上のものであると主張し、われわれが表象する、つねに個別的な存在のほかに、なお普遍的な存在があると主張するのは、矛盾というものであろう。非物体的な実体ということは、むしろ非物体的な物体というのと同じくらいに矛盾している。物体、存在、実体とは同一の実在的な観念である。思想を、思考するところの物質からきりはなすことはできない。物質があらゆる変化の主体である。無限ということばは、無限につけくわえてゆくわれわれの精神の能力を意味しているのでないかぎり無意味である。物質的なものだけを知覚でき、知ることができるのであるから、われわれは神の存在については、なにも知っていない。私自身の存在だけが確実である。人間の感情はすべて、はじめて終わりとをもった力学的運動である。衝動の目的は善である。人間は自然と同じ法則にしたがう。力と自由とは同じものである。
ホッブズはベーコンを体系化したが、しかし知識と観念の起源が感性的世界にあるというベーコンの根本原理を、それ以上くわしく基礎づけることはしなかった。ロックがその人間悟性の起源にかんする試論〔21〕のなかで、ベーコンとホッブズの原理を基礎づけた。
ホッブズがベーコンの唯物論のうちの有神論的先入観をうちくだいたのと同じように、コリンズ、ドッドウェル、カワード、ハートリ、プリーストリ等々は、ロックの感覚論にのこされていた最後の神学的制限をうちくだいた。理神論〔22〕は、すくなくとも唯物論者にとっては、宗教から脱却するための便利で安易な道にすぎないのである。〔*〕」
〔*〕 マルクス=エンゲルス『聖家族』、フランクフルト・アム・マイン、一八四五年、二〇一―二〇四ページ〔『全集』第二巻、一三三―一三五ページ、または、『選集』補巻5、三五一―三五三ページ〕。
近代唯物論の起源がイギリスにあることについて、このようにカール・マルクスは書いている。もし今日のイギリス人が、彼らの先祖についてマルクスが述べた賛辞をかくべつよろこびもしないとすれば、それはただ残念というよりほかはない。それにもかかわらず、ベーコンやホッブズやロックがあの輝かしいフランス唯物論者の学派の父祖だということは、やはり否定できないことである。この唯物論者の学派のおかげで、一八世紀は、陸上や海上の戦闘でドイツ人やイギリス人がフランス人に勝ったにもかかわらず、すぐれてフランス人の世紀となったのであり、しかもこの世紀の最後を飾ったあのフランス革命よりもずっと前にそうなった。そしてこの革命の成果を、われわれ外国人は、イギリスでもドイツでも、いまなお移植しようと努力しているのである。
ここにもう一つ否定できない事実がある。今世紀のなかばごろイギリスに居住した教養のある外国人のだれもを驚かしたのは、イギリスのお上品な中流階級の人々の宗教上の頑迷さと愚昧さ――としか考えようのなかったしろもの――であった。その当時われわれはみな唯物論者であるか、すくなくとも非常にすすんだ自由思想家であったので、イギリスの教養のある人々のほとんどすべてがあらゆる種類のありえない奇跡を信じており、またバックランドやマンテルのような地質学者たちまでが『創世記』の神話とあまりひどく衝突しないように彼らの科学上の事実をゆがめていたのは、われわれには理解できないことであった。他方、宗教上の事柄についてあえて自分の知的能力をもちいる勇気のある人々を見いだすには、教育のない人々、当時のいわゆる「垢じみた大衆」、すなわち労働者、とくにオーウェン派の社会主義者たちのあいだにゆかなければならなかったのである。
しかしそれ以来イギリスは「開化」した。一八五一年の〔万国〕博覧会〔23〕はイギリスの島国的排外根性の弔いの鐘をうちならした。イギリスは、飲食でも、風習でも、考え方でも、だんだん国際化してきた。それだから、私は大陸のある習慣がイギリスでひろくうけいれられたのと同じように、イギリスのある風俗習慣が大陸でもうけいれられることをますます強く願っているほどである。たしかに、サラダ油(一八五一年以前には貴族にしか知られていなかった)が移入され普及するにつれて、宗教上の事柄での大陸の懐疑主義が不可避的にひろまった。そして不可知論が、イギリス国教会と同じ程度に良貨としては通用しないとはいえ、名声の点ではバプティスト派にほとんどおとらず、救世軍〔24〕よりは明らかに高い順位を占めるにいたった。そこで私は、こういう事情のもとでは、このように不信心がすすんでゆくのを心から嘆きかつ呪っている多くの人々にとって、これらの「新奇な観念」がじつは外国産のものではなく、ほかの多くの日用品のように「ドイツ製」ではなくて、疑いもなく昔ながらのイギリス産であり、それらを創始したイギリス人たちは二〇〇年まえに、今日の彼らの子孫があえてするよりもはるかにさきまですすんでいたのだ、ということを知るのは慰めになるだろう、と考えずにはいられないのである。
じっさい不可知論は、ランカシァの意味深長な用語をもちいれば、「恥ずかしがりの」唯物論でなくてなんであろうか? 不可知論者の自然観は、徹頭徹尾、唯物論的である。それによると、全自然界は法則に支配されていて、外からの作用の干渉を絶対的に排除する。しかし、と不可知論者はつけ加えて言う、われわれに知られている宇宙のかなたになにか至上者が存在するということを確認する手段をも否認する手段をもわれわれはもっていないのだ、と。ところで、このような保留は、ラプラスが、なぜこの大天文学者の『天体力学』〔P・S・ラプラス『天体力学論』全五巻、パリ、一七九九―一八二五年〕では創造主のことにふれていないのか、とナポレオンにきかれて、私はそのような仮説を必要としませんでした〔Je
n'avais pas besoin de cette hypothese〕とほこり高くこたえた時代なら、それでよかったかもしれない。しかし、今日のわれわれの真価論的宇宙観には、創造主も支配者もはいる余地はまったくない。それだのに、この現存する世界の全体から締め出された至上者などというものについて語ることは、それ自身に矛盾したことであるうえに、私のみるところでは、宗教的な人々の感情をいわれもなく傷つけることであろう。
さらに、わが不可知論者は、われわれのすべての知識はわれわれの感官をつうじてわれわれが受け取る情報にもとづくものである、ということを承認する。しかし、と彼はつけくわえる、われわれの感官が、この感官をつうじてわれわれが知覚する対象の正しい描写をわれわれにあたえるかどうかということを、われわれはどのようにして知るのか?と。さらに彼はすすんでわれわれにこう知らせる。自分が対象やその性質について語る場合にはいつでも、実際にはこれらの対象や性質のことを言っているのではなく――これらのものについてはなにごとも確実には知ることができない――、ただそれらのものが自分の感官に生じさせた印象のことを言っているだけである、と。さて、こういう議論のすすめ方は、疑いもなく、たんなる論証によってはうちやぶることはむずかしいと思われる。しかし、論証のあるまえに行動があった。「太初(ハジメ)におこないありき」〔Im
Anfang war dir Tat〕。〔ゲーテ『ファウスト』第一部第三場、「書斎の場」から〕。そして人間の行動は、人間の小ざかしさが困難を考えだすよりもずっとまえに、この困難を解決していた。プディングの味は食ってみればわかる。これらの対象のうちにわれわれが知覚するいろいろな性質に応じて、われわれがそれらの対象を自分の役にたたせるその瞬間に、われわれは、われわれの感官知覚が正しいか正しくないかについてまちがいのない吟味をしているのである。もしもこれらの知覚がまちがっているならば、ある対象を一定の用途にあてることができると考えたわれわれの評価もまちがっているにちがいないし、したがって、それを使おうとするわれわれの企ても失敗するにちがいない。しかし、もしもわれわれがその目的をとげるのに成功するならば、すなわち、その対象がそれについてのわれわれの観念に一致しており、われわれがそれを役立てようと思った目的に応ずることがわかるならば、そのことは、そのかぎりで、対象とその性質についてのわれわれの知覚がわれわれの外にある実在に一致しているということの積極的な証明である。また、もしもわれわれがやり損ったということがわかるときにはいつでも、われわれは、概してあまり長くはたたないうちに、失敗の原因を発見する。すなわち、われわれが行動の基礎とした知覚がそれ自身不完全で皮相なものであったか、それとも、その知覚が、事態の性質上是認されないような仕方で――いわゆる不完全推理によって――他の知覚の結果と結びつけられていたか、のどちらかであることがわかる。われわれが、われわれの感官を訓練して正しく使用し、またわれわれの行動を、正しくおこなわれ正しく用いられた知覚の定める限界内にとどめるように注意するならば、そのかぎりでは、われわれの知覚と知覚された事物の客観的本性との一致をわれわれの行動の結果が証明する、ということがわかるであろう。科学的に制御されたわれわれの感官知覚が、その本性上実在と一致しないような外界についての観念をわれわれの心に生じさせるとか、あるいはまた、外界とそれについてのわれわれの感官知覚とのあいだには固有の不一致があるかという結論にわれわれが到達させられたことは、これまでに知られているかぎりでは、ただの一度もなかったのである。
だが、そこへ新カント派の不可知論者がやってきて次のように言う。なるほどわれわれはある物の諸性質を正しく知覚するかもしれない。だが、どんな感覚過程または精神過程によっても、物自体を把握することはできない。この「物自体」はわれわれの認識範囲のかなたにある、と。これにたいしてはヘーゲルがずっとまえにこう答えている。もし諸君がある物のすべての性質を知るなら、諸君はこの物そのものを知るのである。あとに残るのは、この物がわれわれの外に存在しているという事実だけである。そして、諸君の感官が諸君にこの事実を教えるとき、諸君はこの物自体の最後の残存物、すなわちカントの有名な認識不可能な
Ding an sich〔物自体〕を把握したのである、と。これにつけくわえてこう言うことができるだろう。カントの時代には自然物についてのわれわれの知識は実際にきわめて断片的であったので、おのおのの自然物についてわれわれが知っているわずかな事柄の背後に神秘的な「物自体」があるのではないか、と彼が考えたのももっともであった、と。しかしいまでは、これらの把握できなかった事物が、科学の巨大な進歩によってつぎつぎに把握され、分析され、さらにそのうえ再生産されている。そして、自分で再生産できるものを、もちろん、われわれは認識不可能であると考えることはできない。今世紀の前半の化学にとっては、有機物質がそういう神秘的な対象であった。いまではわれわれは有機的過程の助けをかりることなしに、それらの有機物質をつぎつぎに化学的元素からつくりあげることを学んでいる。現代の化学者は、どんな物体であろうと、その化学的組成を知りさえすれば、それの諸元素からその物体をつくりあげることができる、と言明している。われわれは、最高の有機物質、すなわち蛋白体の組成を知るにはまだほど遠い。しかし、将来何世紀もたってからのことであるにしても、われわれがその知識を獲得し、この知識を武器にして人造蛋白質をつくりだすことができない、という理由はなにもない。そして、もしもわれわれがそこまで到達するならば、同時にわれわれは有機的生命をもつくりだしていることだろう。というのは、生命とは、その最低の形態から最高の形態にいたるまで、蛋白体の正常な存在様式にほかならないからである。
しかしわが不可知論者は、一度こういう形式的な心的留保をしてしまえば、彼が本質的にはそれであるものとして、すなわち頑固な唯物論者として語りかつ行動するのである。彼はこう言うかもしれない。われわれの知るかぎりでは、物質と運動、あるいはいまの呼び方でいえば、エネルギーは、創造することも滅ぼすこともできないが、しかしまた、それらがいつかわからないときに創造されたものではないという証明をもわれわれはもっていないのだ、と。だが、もしも諸君がなにかある特殊な場合にこういう承認を彼にたいして逆用しようとするならば、彼はただちに諸君を相手にしなくなるだろう。彼は唯心論の可能なことを抽象的には認めても、具体的には認めたくないのだから。彼は諸君にこう言うだろう。われわれが知っているかぎり、また知ることのできるかぎりでは、宇宙の創造主も支配者も存在しない。われわれにかんするかぎりでは、物質とエネルギーは創造することもなくすることもできない。われわれにとっては、精神はエネルギーの一様式であり、頭脳の一機能である。われわれが知っていることは、結局ただ、物質的世界は不変の法則によって支配されているということだけである、云々と。こうして、彼が科学的な人であるかぎりでは、つまり彼がなにかを知っているかぎりでは、彼は唯物論者なのである。だが、彼の科学のそとでは、それについて彼がなにも知らない領域では、彼は自分の無知をギリシア語に翻訳して、それを不可知論(アグノスティシズム)と名づけるのである。
とにかく、一つのことだけは確かだと思われる。かりに私が不可知論者であるとしても、この小さな本のなかで略述した歴史観を「歴史的不可知論」と名づけることができないだろう、ということがそれである。そんなことをしたら、宗教的な人々は私を笑うであろうし、不可知論者はおこって、君はわれわれをばかにするつもりか、と言うであろう。こういうわけだから、あらゆる重要な歴史的事件の究極の原因や大きな原動力を社会の経済的発展のうちに、生産・交換様式の変化のうちに、それによって社会が種々の階級に分裂することのうちに、またこれらの階級のあいだの闘争のうちに求める歴史過程の見方をあらわすのに、ほかの多くの国語でそうしているように英語でも「史的唯物論」という用語を私が用いても、イギリスのお上品な人々があまりひどくは怒らないようにと希望するものである。
もし私が、史的唯物論はイギリスのお上品な人々にとってもためになるだろうということを示すならば、私のこういうやり方もそれだけ大目にみてもらえるだろう。四〇年ないし五〇年くらいまえにイギリスに住んでいた教養のある外国人のだれもが、イギリスのお上品な中流階級の人々の宗教上の頑迷さと愚昧さ――としか考えようのなかったしろもの――に驚かされたという事実を、私はさきほど指摘しておいた。私はいま、その当時のイギリスのお上品な中流階級が外国の知識人の目にうつったほど愚昧ではなかったことを証明しようと思う。彼らが宗教的な傾向をもっていた理由は、次のことによって説明できるのである。
ヨーロッパが中世からぬけでたときには、都市の新興中流階級がその革命的要素をなしていた。この階級は中世の封建的組織のなかで公認の地位をたたかいとっていたが、この地位もこの階級の膨張力にとってはすでに窮屈なものになっていた。中流階級すなわちブルジョアジーの発展は、封建制度を維持することとは両立できなくなり、したがって、封建制度はたおれなければならなかった。
だが、封建制の大きな国際的中心はローマ・カトリック教会であった。それは、封建化された西ヨーロッパの全体をその内部でのあらゆる戦いにもかかわらず、一つの大きな政治的全体に統合しており、そしてこの全体は分離派的・ギリシア的世界とマホメット教世界との両方に対立していた。それは封建制度を神の恵福の後光でつつんでいた。それは、封建制度をモデルにしてそれ自身の教階制を形成していたし、また最後に、それ自身がきわだって強力な封建領主だったのであって、実際にカトリック世界の所領のたっぷり三分の一を領有していた。そこで、俗界の封建制度をそれぞれの国で個別的に首尾よく攻撃できるためには、まえもってその神聖な中心組織であるローマ・カトリック教会を破壊しなければならなかったのである。
さらにそのうえに、中流階級の勃興と平行して、科学の偉大な復活がすすんだ。天文学、力学、物理学、解剖学、生理学がふたたび研究された。そしてブルジョアジーは、その工業生産を発展させるために、自然物の物理的諸性質と自然力の作用の仕方とをつきとめる科学を必要としていた。このときまでは、科学は教会のつつましやかな侍女でしかなく、信仰によって定められた限界をこえることをゆるされていなかった。そしてまさにこの理由によって、それはまだ科学ではなかったのである。いまや科学は教会に反逆した。ブルジョアジーは科学なしにはやってゆけなかった、だからこの反逆にくわわらなければならなかったのである。
以上に述べたことは、新興中流階級が既成宗教と衝突せざるをえなかった問題のうちの二つにふれたにすぎないけれども、それだけでも次のことを示すに十分であろう。それは第一に、ローマ教会の権利主張との闘争を最も直接に利益とする階級はブルジョアジーであったということ、第二に、この当時には封建制にたいする闘争はすべて宗教的仮装をつけなければならず、まず第一に教会に鋒先をむけなければならなかったということである。しかし、諸大学や都市の商工業者が戦いのときの声をあげるならば、それは、いたるところで自分自身の生存そのもののために、精神的なものであれ世俗的なものであれ自分たちの封建領主とたたかわなければならなくなっていた農村住民、農民大衆のなかに、力づよい反響を生むにきまっていたし、また実際にそれを生みだしたのである。
封建制度にたいするブルジョアジーの長い闘争は、三つの大決戦で頂点に達した。
その第一は、ドイツのプロテスタント宗教改革とよばれているものであった。ルッターが教会にたいしてあげた戦いのときの声に、政治的な性質をもつ二つの反乱がこたえた。第一には、フランツ・フォン・ジッキンゲンに率いられた下級貴族の反乱(一五二三年)、その次には、一五二五年の大農民戦争〔25〕である。どちらの反乱も敗北したが、それは主として、最も利害関係の大きい当事者だった都市住民が決断を欠いていた結果であった。この不決断の原因は、ここでたちいって論じることができない。このとき以後、この闘争は退化して地方の王侯と中央権力との戦いになってしまい、その結果、ドイツは二〇〇年のあいだヨーロッパの政治的に活動的な国民の列から抹殺されてしまった。ルッターの宗教改革はたしかに新しい信条を生みだしたが、それはまさに絶対君主制に適応した宗教であった。北東ドイツの農民は、ルッター教に改宗するやいなや、自由人から農奴におとされてしまったのである。
しかし、ルッターがやぶれたところで、カルヴィンは勝利した。カルヴィンの信条はその当時の最も大胆なブルジョアジーに適していた。彼の説いた予定説は、競争のおこなわれる商業界では成功するか失敗するかはその人の働きや聡明さに依存するものではなく、その人の制御できない諸事情によってきまるものであるという事実を、宗教的に表現したものである。欲する者にもよらず、はしる者にもよらず〔新約聖書、ロマ書第九章一六節〕、未知のすぐれた経済力の恵みによる、というのである。そしてこのことは、ふるい商業路や商業の中心地がみな新しいものによってとって代わられ、インドやアメリカが世界に解放され、最も神聖な経済上の信仰箇条――金と銀の価値――までがよろめきくずれおちはじめた経済革命の時期には、とりわけ真実であった。カルヴィンの教会制度は徹底的に民主的で共和的であった。そして、神の国が共和化されたのに、現世の国々があいかわらず君主や司教や領主に従属したままでいることができたであろうか。ドイツのルッター教が王侯の手のなかの従順な道具になったのに反して、カルヴィン教はオランダに共和国を建設し、イングランドに、またことにスコットランドに、活動的な共和主義の政党を建設した。
ブルジョアジーの第二の大反乱は、その完成した理論をカルヴィン教に見いだした。この反乱はイギリスで起こった。都市の中流階級がそれをおこし、農業地方の自営農民(ヨーマノリー)がその勝利をたたかいとった。はなはだ奇妙なことには、ブルジョアジーの三大蜂起のどの場合にも、戦闘にあたるべき軍隊を提供したのは農民であった。しかも農民こそは、いったん勝利が得られるとその勝利の経済的諸結果によって最も確実に没落させられる、まさにその階級なのである。クロムウェルから一〇〇年後には、イギリスの自営農民(ヨーマノリー)はほとんど姿を消していた。それはともかく、もしもこの自営農民と都市の平民分子のおかげがなかったならば、ブルジョアジーだけではけっしてこの戦いを最後の最後まで戦いぬくことはなかっただろうし、またけっしてチャールズ一世を絞首台におくりもしなかったであろう。その当時すでに刈り入れできるまでに熟していたブルジョアジーの戦果を確保するだけのためにすらも、革命はかなりさきまで進められなければならなかった。――ちょうど一七九三年のフランスや一八四八年のドイツの場合と同じように、である。このことは実際にブルジョア社会の発展法則の一つであるように思われる。
さて、革命的活動のこのゆきすぎにつづいて、不可避的な反動が必然的にやってきたが、この反動がまた当然ふみとどまるべき点をこえてすすんだ。ひとつづきの動揺ののちに、ついに新しい重心が確保され、それが新しい出発点になった。お上品な人々には「大反乱」という名まえで知られているイギリス史上のあの壮大な時期とそれにつづく諸闘争とは、自由主義的歴史家が「名誉革命〔26〕」と名づけている比較的ちっぽけな事件によって幕をとじたのである。
新しい出発点になったのは、新興中流階級と旧封建地主とのあいだの妥協であった。後者は、当時も現在と同じように貴族とよばれていたけれども、彼らはすでにずっと以前から、フランスではルイ・フィリップがずっとあとではじめてなったもの、すなわち「王国第一のブルジョア」になりつつあった。イギリスにとってさいわいなことには、ふるい封建諸侯たちはばら戦争〔27〕のあいだにたがいに殺しあっていた。彼らの後継者たちは、大部分は同じようにふるい家門の流れではあったが、直系からずっとはずれた出であったので、まったく新しい一団をかたちづくっていた。彼らの習慣や傾向は封建的というよりははるかにブルジョア的であった。彼らは貨幣の価値を十分によく知っていたので、ただちに、何百という小農民を追いだして羊と入れ替えることによって自分たちの地代をふやすことに取りかかった。ヘンリー八世は、教会の領地を惜しげもなく分けあたえて、新しいブルジョア地主を大量につくりだした。大きな領地を数知れず没収して、まったくの成上り者や半成上り者に再下賜することが、一七世紀の全体にわたってつづいたが、これもまた同じ結果をもたらした。それだから、ヘンリー七世のとき以来、イギリスの「貴族」は、工業生産の発展を妨害するどころか、逆にそれから間接に利益を引き出すことに努めてきたのである。また、経済上または政治上の動機から、金融および産業ブルジョアジーの指導者とよろこんで協力しようとする一部の大地主がつねに存在していた。それだからこそ、一六八九年の妥協は容易に成立したのである。金融的・商工業的中流階級の経済的利益を十分に配慮することを条件として、「富と地位」という政治的戦利品は大地主貴族の手に残された。そしてこれらの経済的利益は当時すでに十分に強力になっていて、国の一般方針を決定するにたるほどであった。小さな問題については小ぜりあいもあったであろうが、全体としては、貴族寡頭支配は、自分自身の経済的繁栄が商工業的中流階級のそれと切りはなしがたく結びついているということを、あまりにもよく知っていた。
このとき以来、ブルジョアジーはイギリスの支配階級の、あまり目立たないとはいえ広く認められた一構成要素になった。彼らは、支配階級の他のものとともに、勤労国民大衆を隷属させておくことに共通の利益をもっていた。商人や製造業者自身は、その事務員、労働者、召使にたいして、主人、あるいは最近までそうよばれていたように「生まれながらの目上のもの」の地位にいた。商人や製造業者の利益は、これらの使用人からできるだけ多くの、またできるだけよい仕事をひきだすことであった。このためには、彼は彼らをしつけて、彼らにふさわしい従順を教えこまなければならなかった。彼自身は信仰ぶかかった。彼の宗教は、かつて彼が国王や領主と戦ったさいに旗じるしになったものであった。まもなく彼は、この同じ宗教が、彼の生まれながらの目下のものたちの心にはたらきかけて、神が彼らの上におきたもうた主人の命令に従順にならせるのに好都合であることを発見した。要するに、いまではイギリスのブルジョアジーは、「下層身分」すなわち生産にたずさわる国民大衆の抑圧に参加しなければならなかったのであって、この目的のために用いられた手段の一つが宗教の影響力だったのである。
ブルジョアジーの宗教的傾向をつよめたもう一つの事実があった。それはイギリスでの唯物論の台頭であった。この新しい学説は、中流階級の信心ぶかい感情を驚かせたばかりではなかった。それは、学者や教養ある俗人にだけ適当した哲学であると自称し、宗教はこれと違ってブルジョアジーをもふくめての無教育な大衆にとってはかなりよいものだと宣言した。唯物論は、ホッブズでは、国王の特権と全能との擁護者として登場し、絶対君主制にむかって、あの強健だが根性のわるい子供〔puer
robustus sed malitiosus〔28〕〕すなわち人民を抑圧するように呼びかけた。同様に、ホッブズの後継者たち、すなわちボリングブロークやシャフツベリその他の人々では、唯物論の新しい理神論的形態はあいかわらず貴族的・秘教的学説であり、したがって、それが宗教上の異端であることとその反ブルジョア的な政治上の結びつきとの両方の理由で、中流階級にとっては憎むべきものであった。そこで貴族の唯物論と理神論とに対立して、かつてステュアート王朝との戦いの旗じるしと戦闘部隊とを提供したプロテスタントの諸宗派が、ひきつづき進歩的な中流階級の主力を提供したのであり、今日でもなおそれらが「大自由党」の背骨をかたちづくっているのである。
そうこうするうちに、唯物論はイギリスからフランスに移植され、フランスでもう一つの唯物論的な哲学者の学派、すなわちデカルト主義の一分派と出会い、これと融合した。フランスでも、唯物論は最初はもっぱら貴族的な学説であった。だが、まもなくその革命的な性格が現われてきた。フランスの唯物論者たちは、彼らの批判を宗教的信仰にかんする事柄にかぎらないで、彼らが見いだしたありとあらゆる学問上の伝統や政治制度に拡張した。そして、自分たちの学説の一般的な適用可能性を証明するために、彼らはいちばんてっとりばやい道をとって、大胆にもこの学説を巨大な著作のなかで知識のあらゆる対象に適用した。この著作――『百科全書(アンシクロペディー)』に彼らの名〔百科全書家(アンシクロペディスト)〕は由来している。こうして唯物論は、その二つの形態のどちらかで――公然たる唯物論としてかまたは理神論として――フランスの教養のある青年たち全体の信条になった。そしてその影響は非常に大きかったので、大革命が勃発したときには、イギリスの王党派によってこの世に出されたこの学説がフランスの共和主義者やテロリストに理論的な旗じるしをあたえ、人権宣言〔30〕のために台本を提供することになった。フランス大革命はブルジョアジーの三番目の蜂起であったが、宗教的な外衣をまったくぬぎすてて、あからさまな政治的路線にそって戦いぬかれたという点では、最初の蜂起であった。それはまた、一方の交戦者だった貴族が滅ぼされて他方の交戦者だったブルジョアジーが完全に勝利するまで、ほんとうに戦いぬかれたという点でも、最初のものであった。イギリスでは革命前の諸制度と革命後の諸制度とに断絶のない連続性があり、地主と資本家とのあいだに妥協が成立したということは、裁判所の判例が継承されていることや封建的な法律形態が尊重されて保存されていることに現われている。フランスでは、革命は過去の伝統との完全な絶縁をなしとげた。それは封建制度の最後の痕跡までも一掃し、古代ローマ法――マルクスが商品生産とよんだ経済段階に照応する法的関係をほとんど完全に表現したもの――の近代資本主義的諸条件への見事な適用を『民法典〔31〕』としてつくりだした。これは非常にみごとにつくられているので、このフランスの革命的な法典はいまでも他のすべての諸国で財産法を改正するさいの模範として役だっているのであり、イギリスもその例外ではない。とはいえ、次のことを忘れないようにしよう。なるほどイギリス法は、資本主義社会の経済的諸関係を表現するのに、ひきつづきあの未開な封建的用語を使っており、この用語がそれによって表現される事物と照応する程度は、ちょうど英語のつづりが英語の発音に照応する程度――君たちはロンドンと書いてコンスタンティノーブルと発音する〔vous
ecrivez Londres et vous prononcez Constantinople〕と、あるフランス人は言った――と同じであるが、その同じイギリス法が、あの古代ゲルマンの人身の自由や地方自治や裁判所によるもの以外のすべての干渉にたいする保障――それは、大陸では絶対君主制の時期に失われてしまい、いままでのところまだどこでも完全には回復されていないのだが――の最良の部分を、ながい年月をつうじて保存し、アメリカや諸植民地に伝えた唯一の法である、ということを。
ところで、わがイギリスのブルジョアに立ち帰ろう。フランス革命は、イギリスのブルジョアにとっては、大陸の君主国の助けをかりてフランスの海上貿易を破壊し、フランスの植民地を併合し、海上での競争相手になろうとするフランスの最後の望みをおしつぶすための絶好の機会となった。これが、彼らがフランス革命とたたかった一つの理由であった。もう一つの理由は、この革命のやりくちがはなはだしく彼らの性分にあわなかったということであった。その「いまいましい」テロリズムばかりでなく、ブルジョア支配を極端にまでおしすすめようとする試みそのものが気にいらなかった。イギリスのブルジョアは、もしも貴族がいなかったならいったいどうしたらよかったであろうか。貴族は彼らにしかるべき礼儀作法を教えてくれ、彼らのために流行を工夫してくれ、国内の秩序を維持する陸軍と、植民地の領土や新しい海外市場を征服する海軍とのために将校を提供してくれたのである。なるほどブルジョアジーのうちにも進歩的な少数派があるにはあった。この少数派は、あの妥協のさいにその利益をあまり配慮してもらえなかった連中であった。この部分は、主としてあまり富裕でない中流階級からなっていて、革命に同情をよせてはいたが〔32〕、議会では無力であった。
このようにして、唯物論がフランス革命の信条になったのにたいして、神を畏敬するイギリスのブルジョアはいよいよかたくその宗教にしがみついた。パリの恐怖時代は、もし大衆が宗教的本能を失えばどういうことになるかを示さなかったであろうか? 唯物論がフランスから近隣の諸国にひろがってゆき、類似の理論的諸潮流、ことにドイツ哲学によって補強されればされるほど、大陸では唯物論と自由思想が事実上一般に教養のある人々の必須の資格になればなるほど、イギリスの中流階級はますます頑強にそのさまざまな宗教的信条にしがみついた。たとえこれらの信条がどんなにたがいに違っていたにしても、それらはすべて明白に宗教的な、キリスト教的な信条だったのである。
革命がフランスでブルジョアジーの政治的勝利を確実なものにしたときに、イギリスではワットやアークライトやカートライトたちが産業革命を起こした。この産業革命は経済的勢力の重心を完全に移動させた。ブルジョアジーの富は土地貴族の富よりもはるかに急速に増大した。ブルジョアジーそのもののなかでも金融貴族、銀行家などは製造業者によってますます後方におしやられた。一六八九年の妥協は、だんだんブルジョアジーに有利なように変化したあとでさえも、もはや妥協の両当事者の相対的地位に照応してはいなかった。この両当事者の性格もまた変化していた。一八三〇年のブルジョアジーは、そのまえの世紀のブルジョアジーとは非常に違っていた。政治権力はまだ貴族の手にのこされており、彼らは新興の産業ブルジョアジーの権利要求に抵抗するためにこの権力を使っていたが、こういう政治権力は新しい経済的利害関係と両立しなくなった。貴族との新しい闘争が必要であった。それは、新しい経済的勢力の勝利に終わるほかはなかった。第一に、一八三〇年のフランス革命の影響のもとに、あらゆる抵抗を排除して選挙制度改正案〔33〕が通過した〔一八三二年〕。それはブルジョアジーに議会内での公認の有力な地位をあたえた。次には穀物法が廃止され、これによって一挙に土地貴族にたいするブルジョアジーの優位、とくにその最も活動的な部分である製造業者の優位が確立された。これはブルジョアジーの最大の勝利であった。とはいえ、それは彼らがもっぱら自分たちだけの利益のために得た勝利の最後のものであった。ブルジョアジーはそれ以後に得たすべての勝利を、はじめは自分の同盟者だったがやがて自分の敵手になった新しい社会勢力と分けあわなければならなかったのである。 産業革命は、大工業資本家の階級をつくりだしたが、また工業労働者の階級――はるかに多人数の階級――をもつくりだした。この階級は、産業革命が工業の諸部門へとつぎつぎに波及してゆくのにつれてその人数をまし、また人数がますのにつれてその力もました。この力は早くも一八二四年には実際に現われて、頑固な議会に迫って労働者の団結を禁止する諸法律を廃止させた〔34〕。選挙法改正運動では、労働者は改正を主張する党派の急進的な一翼をなしていた。一八三二年の法律が彼らを選挙権から締め出したとき、彼らはその要求を定式化して人民憲章〔People's
Charter〔35〕〕をつくり、大ブルジョアの穀物法反対党〔36〕に対抗して、独立の党、チャーティストを組織した。これはわれわれの時代の最初の労働者の党であった。
次いで一八四八年二月および三月の大陸の革命が起こった。この革命では労働者は非常に重要な役割を演じ、すくなくともパリでは、資本主義社会の立場からはどうしてもゆるされないような諸要求をひっさげて現われた。そしてそのあとに全般的な反動がやってきた。まずはじめに一八四八年四月一〇日にチャーティストが敗北し、ついで同年六月のパリの労働者の反乱が粉砕され、ついで一八四九年にイタリア、ハンガリー、南ドイツでの惨敗があり、最後に一八五一年一二月二日にはパリにたいするルイ・ボナパルトの勝利となった。こうして、すくなくとも当時のあいだは労働者階級の権利要求というお化けは退治されたことになった。だが、なんとそれは高くついたことだろう! イギリスのブルジョアはすでに以前から庶民に宗教的な気分をもたせておくことの必要を確信していたのであるが、すべてのこのような経験のあとでは、この必要をどんなにいっそう強く感ぜざるをえなかったことであろうか? 大陸にいる自分の仲間の嘲笑には少しもおかまいなく、イギリスのブルジョアは下層身分にたいする福音伝道に年々幾千幾万の金を使いつづけた。自分自身の宗教機関には満足しないで、彼らは当時宗教的事業の最大の組織者だったブラザー・ジョナサン〔37〕に訴えて、アメリカから信仰復興運動(リヴァイヴァリズム)〔38〕、ムーディやサンキーやその他を輸入した。また最後に、彼らは救世軍の危険な援助をさえうけいれた。この救世軍は、原始キリスト教の伝道を復活し、貧民は選民であるとしてこれに呼びかけ、宗教的なやり方で資本主義に挑戦し、こうして原始キリスト教的な階級闘争の一要素を養っているのであるが、この要素は、今日こころよくそれに金をだしている富裕な人々にとって、いつかはやっかいなものになるかもしれないのである。
ヨーロッパのどの国でもブルジョアジーは政治権力を――すくなくともいくらか長い期間にわたっては――、封建貴族が中世をつうじてそれを保持したのと同じ排他的な仕方で握っていることができないということは、歴史的発展の一法則であるように思われる。封建制度があんなに完全に根絶やしされたフランスでさえも、ブルジョアジーは、階級全体としては、支配権をほんのわずかの期間しか握っていなかった。ルイ・フィリップの治世、一八三〇―四八年には、ブルジョアジーの一小部分だけが王国を支配しており、それよりもはるかに大きな部分は高額の選挙資格納税額によって選挙権から除外されていた。一八四八―五一年の第二共和制のもとでは、全ブルジョアジーが支配したが、しかしたった三年間のことであった。彼らの無能が第二帝制への道を開いたのである。やっといま、第三共和制のもとで、全体としてのブルジョアジーは二〇年間にわたって政権を握っている。しかも、ブルジョアジーはすでに明らかに衰退の徴候を示している。ブルジョアジーの永続的な支配は、ただ封建制度が存立したことがなく社会がはじめからブルジョア的な基礎から出発したアメリカのような国々でのみ可能であった。そしてフランスやアメリカでさえも、ブルジョアジーのあとつぎである労働者たちがすでに扉をたたいているのである。
イギリスではブルジョアジーは一度も完全な支配権を行使したことはなかった。一八三二年の勝利のあとでさえ、土地貴族が政府のあらゆる要職をほとんど独占的に握ったままであった。富裕な中流階級がこういうことにあまんじている温順さは私には長く不可解だったが、そのうちにある日、自由党員の大製造業者W・E・フォースター氏が公開の演説でブラッドフォードの青年たちにむかって立身出世の手段としてフランス語を学ぶようにと切望し、さらに、自分が大臣になって、フランス語がすくなくとも英語と同じくらいに必要な社交界でたちまわらなければならなくなったとき、自分がどんなにうすのろに見えたかということを、彼自身の体験から話してきかせるのをきいて、はじめてなるほどと思った! そして、じっさい当時のイギリスの中流階級は概してまったく無教育な成上り者であったから、商人的なぬけ目なさで味つけされた島国的偏狭さや島国的うぬぼれとは別な資質が必要な政府の高い地位は、貴族にまかせておくよりほかなかったのである〔*〕。今日でも、中流階級の教育についての果てしない新聞紙上での論争は、イギリスの中流階級があいかわらず自分たちを最高の教育をうけるにたりないものだと考えて、もっと控えめなものに目をむけているということを示している。このようにして、穀物法が廃止されたあとでさえ、勝利をたたかいとった当の人々、コブデンやブライトやフォースターたちの仲間がこの国の公式の政府への参加から締め出されたままでおり、やっと二〇年後に〔一八六七年〕に新しい選挙制度改正法〔36〕によって彼らに内閣への扉がひらかれたということも、あたりまえのことに見えたのである。イギリスのブルジョアジーには今日にいたるまで自分たちの社会的地位についての劣等感がふかくしみこんでいるので、彼らは自分の費用と国民の費用とで一つの装飾用の怠け者の階層を養っておき、いつでも国家的儀式にさいしてはおごそかに国民を代表してもらうのである。そして彼ら自身のなかの一人が、結局は彼ら自身がつくったものにほかならないこの選ばれた特権的集団にくわわる値うちがあると認められれば、彼らはそれを自分たちの非常な光栄とみなすのである。
〔*〕 また商売上の事柄でも、この国民的排外主義のうぬぼれは、おそまつな助言者にすぎない。ごく最近まで、普通のイギリスの製造業者は、イギリス人が自国語以外のことばを話すのは品位をけがすものであると考えていた。そこで諸外国の「あわれなやつら」がイギリスに住みついて、自分の生産物を外国に売りさばく手数をはぶいてくれることを、むしろ誇りに感じてさえいた。彼はこれらの外国人、たいていはドイツ人が、イギリスの外国貿易の大きな部分を――輸入も輸出も――彼らの手におさめてしまい、イギリス人の直接におこなう外国貿易はだんだん植民地や中国や合衆国や南アメリカだけに限られてきたということにはまったく気づきさえしなかった。また彼は、これらのドイツ人が外国にいる他のドイツ人と取引して、ドイツ人がしだいに全世界にわたって完全な商業的植民地網を組織するにいたったということにはなおさら気がつかなかった。しかしおよそ四〇年まえに、ドイツが真剣に輸出のための製造業をやりはじめたとき、この網がみごとに役にたって、ドイツはあのように短時日のうちに穀物輸出国から一流の工業国になったのである。ついに、一〇年ほどまえからイギリスの製造業者はおそれを感じて、自国の大公使や領事たちに、自分たちがもはや顧客をつなぎとめておくことができなくなったのはなぜだろうか、とたずねた。その答えは異口同音にこうだった。(一)諸君は顧客のことばを学ばないで、顧客が諸君自身のことばを話すことを期待している。(二)諸君はけっして顧客の要求や習慣や趣味に合わせようとはしないで、顧客が諸君のイギリスふうの要求や習慣や趣味にしたがうことを期待している、と。
だから、商工業的中流階級がまだ土地貴族を完全に政治権力から駆逐することができないでいるうちに、もう一つの競争者である労働者階級が登場したのである。チャーティスト運動と大陸の諸革命とのあとにやってきた反動と、さらに一八四八―六六年のイギリスの貿易の比類のない拡大(ふつうこれは自由貿易だけのおかげとされているが、鉄道や外洋汽船や交通手段一般のすばらしい発展によるほうがはるかに大きい)とによって、労働者階級はふたたび自由党への従属においこまれ、チャーティスト以前の時代と同じように自由党の急進的な一翼を形成した。しかしながら、選挙権をあたえよという労働者たちの要求は、しだいに抵抗しがたいものになってきた。自由党の指導者であるウィッグ派が「尻ごみしている」あいだに、ディズレーリは、トーリ党に好機をとらえさせて、都市の選挙区に世帯主選挙権制度を実施し、それとともに選挙区の改正をおこなって〔一八六七年〕、彼が一枚うわ手であることを示した。それにつづいて秘密投票制度が実施され、ついで一八八四年には世帯主選挙権制度が州選挙区にも拡張され、選挙区の再度の改正がおこなわれた。これによって選挙区はある程度まで平均化された〔37〕。これらすべての方策によって、選挙における労働者階級の勢力はかなり増大し、すくなくとも一五〇ないし二〇〇の選挙区では労働者階級がいまや投票者の過半数を占めるほどになった。だが、議会制度は伝統尊重の気風を教えこむのにすぐれた学校である。ジョン・マナーズ卿がたわむれに「わが由緒(ユイショ)ある貴族」とよんだものを、中流階級が畏れと尊びの念でみていたとするならば、労働者大衆もまた、「自分たちの目上のもの」とよばれていた人々すなわち中流階級を、その当時は敬いとへりくだりの念であおぎみていたのである。実際に、イギリスの労働者は一五年ばかりまえには模範的労働者だったのであって、自分の雇い主の地位にたいする尊敬の念と、自分の権利を主張するにあたってのつつましい自制心とは、わがドイツの講壇社会主義学派の経済学者〔41〕に、自国の労働者の治療のできない共産主義的で革命的な傾向のうめあわせとして慰めをあたえたものであった。
だがイギリスの中流階級は――さすがにりっぱな商売人だったので――ドイツの教授連中よりははるかに先がみえた。彼らが権力を労働者階級と分けあったのは、ただいやいやながらそうしただけである。チャーティストの時代に彼らは、あの強健だが根性のわるい子供〔puer
robustus sed malitiousus〕すなわち人民がどういうことをしかねないかを学んだ。それ以来彼らはやむをえず人民憲章のかなり大きな部分を連合王国〔イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド〕の法律のなかにとりいれてきているのである。かつてのどの時期にもましていまこそは精神的手段によって人民の秩序をたもつべきときだった。そして大衆にはたらきかけるための第一の最も重要な精神的手段はやはり宗教だった。それだからこそ、教育委員会では牧師が多数をしめているのであり、それだからこそ、儀式遵奉派〔42〕から救世軍にいたるまでありとあらゆる種類の信仰復興運動を支持するために、ブルジョアジーはますます自腹を切るのである。
こうしていまや大陸のブルジョアの自由思想や宗教的無関心にたいするイギリスのお上品な人々の勝利がやってきた。フランスやドイツの労働者は反逆的になっていた。彼らはまったく社会主義に感染しきっており、しかも、まことにもっともな理由から、自分たちが支配権を獲得する手段の合法性にはけっして夢中になっていなかった。ここでは強健な子供〔puer
robustus〕は日に日にますます根性がわるく〔malitiosus〕なっていった。フランスやドイツのブルジョアジーにとって最後の逃げ道として残っていたのは、自分たちの自由思想をだまってすてることのほかになにがあったろうか? それは、ちょうど、だんだん船酔いがひどくなってくるとなまいきな若者がそれまでとくいになって甲板上をもちあるいていたシガーをそっとすてるようなものである。以前の嘲笑者たちは次から次へと外見上では信心ぶかくふるまうようになってゆき、教会とその教義や儀式について敬意をもって語り、やむをえないときにはそれらの儀式をまもるようにさえなった。フランスのブルジョアは、金曜日に
maigre〔精進料理〕を食い、またドイツのブルジョアは日曜日に教会の椅子で長ったらしいプロテスタントの説教をおしまいまできくようになった。彼らは自分たちの唯物論でしくじった。「宗教は人民のために維持されなければならない」"Die
Religion muss dem Volk erhalten werden"――これが社会を破滅から救うための唯一のしかも最後の手段であった。彼ら自身にとって不幸なことには、彼らは、宗教を永久に滅ぼすために全力をつくしたあとで、やっとこのことに気がついたのであった。こうしていまやイギリスのブルジョアが冷笑してこう言う番になった。――「ふん、まぬけめ、そんなことなら二〇〇年もまえに私が教えてやれたのに!」と。
けれども、思うに、イギリスのブルジョアの宗教的頑迷も大陸のブルジョアのおくればせの改宗もプロレタリアの上げ潮をせきとめられないのではないだろうか。伝統は一つの大きな阻止力であり、歴史の惰性の力である。しかしそれはただ受動的でしかないのであって、いつかは負かされるにきまっている。こうして宗教もまた資本主義社会の永久的な防壁ではありえないだろう。われわれの法的・哲学的・宗教的観念がある与えられた社会で支配的な経済的諸関係の直接または間接の派生物であるならば、そのような諸観念は、経済的諸関係が根底から変わってしまえば、長い期間にわたって維持されることはできない。だから、われわれは、超自然的な啓示を信じないかぎり、どんな宗教的教理もぐらつきだした社会をささえることはできないということを認めざるをえないのである。
じっさい、イギリスでも労働者はふたたび動きだしてきた。もちろん彼らはいろいろな種類の伝統に束縛されている。まずブルジョア的な伝統がある。たとえば、保守党と自由党という二大政党しかありえず、労働者階級は大自由党によって、またそれをつうじて自分たちの救いをかちとらなければならない、というひろくゆきわたった信仰がそれである。また、独自の行動をめざす最初の手探り的な努力からうけついだ労働者の伝統がある。たとえば、非常に多くの古い労働組合が、正規の見習期間を経ていない加入希望者をみな除外していることがそれである。これは、このような組合がみな自分のストライキ破りを育てていることにほかならないのだが。だが、これらすべてのことにもかかわらず、イギリスの労働者階級は前進している。これは、ブレンターノ教授でさえ自分の講壇社会主義者仲間に残念ながらも報告せざるをえなかったことである〔43〕。彼らは、イギリスのあらゆるものと同じように、あるときはためらいながら、あるときは多かれ少なかれむだな手探り的な試みをしながら、ゆっくりと整然とした足どりで前進している。彼らは、ときには社会主義という名まえにたいしてあまりにも用心ぶかい不信を示しながら前進しているが、他方、その実質をしだいに吸収している。そして、この運動はひろがり、労働者の層をつぎつぎにとらえてゆく。それはいまでは、ロンドンのイースト・エンドの不熟練労働者をその無気力からゆりおこした。そして、この新しい勢力が逆にこの運動にどんなにすばらしい刺激をあたえたかは、われわれみなが知っている。そして、たとえ運動の歩調がある人々の性急さにあわないにしても、忘れないでもらいたいのは、イギリスの国民性の最良の素質をいきいきとたもっているのはこの労働者階級だということであり、ひとたびイギリスでかち取られた一歩ごとの前進はもはやけっして失われはしないということである。かつてのチャーティストの息子たちは、さきに述べた理由によって、かならずしも世人の期待にこたえなかったとしても、その孫たちは彼らの祖父にふさわしいものになるという見込みは十分にあるのである。
とはいえ、ヨーロッパの労働者階級の勝利はただイギリスだけにかかっているのではない。この勝利は、すくなくとも、イギリスとフランスとドイツとの協力によってはじめて確保することができるのである。あとのほうの二つの国のどちらでも労働者階級の運動はイギリスよりもかなりさきにすすんでいる。ドイツではすでに勝利に近づいていて、その時期も予測できるほどである。最近の二五年間にドイツで運動がなしとげた前進は、比類のないものである。それはますます速度をましながら前進している。ドイツの中流階級が、政治的能力や規律や勇気や精力や忍耐にひどく欠けていることを露呈しているのにたいして、ドイツの労働者階級はすべてのこれらの資質をもちあわせているという十分な証拠を示してきた。四〇〇年まえにドイツはヨーロッパの中流階級の最初の蜂起の出発点になった。現状から判断するとき、ドイツがヨーロッパのプロレタリアートの最初の大勝利の舞台にもなるということは、はたして不可能なことであろうか?
一八九二年四月二〇日
F・エンゲルス
はじめ一八九二年ロンドン発行の『空想から科学への社会主義の発展』英語版に発表
著者によるドイツ語訳(はじめの六パラグラフを省略)を、雑誌『ノイエ・ツァイト』第一巻第一、二号、一八九二―九三年、に発表
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