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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  二

 さてそのあいだに、一八世紀のフランス哲学とならんで、またそれにつづいて、近代のドイツ哲学が生まれ、それはヘーゲルによって完結されていた。近代のドイツ哲学の最大の功績は、思考の最高形式としての弁証法をふたたびとりあげたことである。古代ギリシアの哲学者たちはみな生まれながらの、天成の弁証家であった。そして、彼らのうちの最も幅の広い学識の持ち主であったアリストテレスは、すでに弁証法的思考の最も根本的な諸形式をも研究していた。これに反して近世哲学は、そのうちにも弁証法の輝かしい代表者(たとえばデカルトやスピノザ)がいたとはいうものの、とりわけイギリスの影響によって、いわゆる形而上学的な考え方にますますはまりこんでいったのであって、一八世紀のフランス人たちもまた、すくなくも彼らの専門的な哲学的著作のなかでは、ほとんど例外なしにこの考え方に支配されていた。本来の哲学の外では、彼らもまた弁証法の傑作を生みだすことができた。ここではただディドロの『ラモーの甥〔69〕』とルソーの『人間不平等起源論』とをあげるだけにしておこう。――ここでは、この二つの思考方法について本質的なことを簡単に述べておこう。
 われわれが自然、人間の歴史、ないしはわれわれ自身の精神活動を考察する場合に、まず第一にわれわれの前に現われるのは、もろもろの連関と相互作用がかぎりなくからみ合った姿である。このからみ合いのなかではどんなものも、もとのままのものではなく、もとのままのところ、もとのままの状態にとどまってはいないで、すべてのものが運動し、変化し、生成し、消滅している。したがってわれわれがまず見るのは全体の姿であって、そのなかでは個々の事物はまだ多かれ少なかれ後方にひっこんでいる。われわれは、運動し、移行し、連関しているものよりも、むしろ運動、移行、連関により多くの注意をむけているのである。この原始的な、素朴ではあるが、事柄の本質上正しい世界観が、古代ギリシア哲学の世界観であり、これはヘラクレイトスによって最初にはっきりと表明された。すなわち、万物は存在し、また存在しない。なぜなら、万物は流動しており、不断に変化し不断に生成と消滅のうちにあるからである、と。しかしながらこの見方は、諸現象の全体の姿の一般的な性格を正しくとらえているとはいうものの、この全体の姿を構成している個々の事物を説明するには不十分である。そしてわれわれが個々の事物を知らないかぎり、全体の姿もわれわれにとって明らかではないのである。これらの個々の事物を認識するためには、それらをその自然的または歴史的な連関からとり出して、それぞれ独立に、それらの性状、それらの特殊な原因や結果などにしたがって、それらを研究しなければならない。このことがさしあたり、自然科学と歴史研究との任務である。これらの研究部門は、なによりもまずそのための材料を努力して集めなければならなかったという誠にもっともな理由によって、古典時代のギリシア人のあいだでは従属的な地位しか占めていなかった。自然ならびに歴史にかんする材料がある程度まで集められてから、はじめて、批判的なふるいわけ、比較、あるいはまた綱や目や種への分類という仕事にとりかかることができる。だから、精密な自然研究は、よゆやくアレクサンドリア時代〔70〕のギリシア人のもとで始められ、のちに中世にアラブ人たちによって、さらに発展させられたのである。とはいえ、ほんとうの自然科学はやっと一五世紀の後半に始まるのであって、その時以来それは加速度的に進歩してきたのである。自然をその個々の部分に分解すること、さまざまな自然過程や自然対象を一定の部類に分けること、生物体の内部をそのさまざまな解剖学的形態について研究すること、これが最近の四〇〇年間に自然を認識するうえでなされた巨大な進歩の根本条件であった。しかし、同時にこの研究方法は、自然物や自然過程を個々ばらばらにして、大きな全体的連関の外でとらえるという習慣、したがって、それらを運動しているものとしてではなく静止しているものとして、本質的に変化するものとしてではなく固定不変のものとして、生きているものとしてではなく死んだものとしてとらえるという習慣をわれわれにのこした。そして、ベーコンやロックによっておこなわれたように、この考え方が自然科学から哲学にうつされたために、それは最近の数世紀に特有な偏狭さ、すなわち形而上学的な考え方をつくりだしたのである。
 形而上学者にとっては、事物とその思想上の模写である概念とは、個々ばらばらな、一つずつ他のものと無関係に考察されるべき、固定した、硬直した、いちど与えられたらそれっきり変わらない研究対象である。形而上学者はものごとをまったく媒介のない対立のなかで考える。彼のことばは、しかりしかり、いないな、これにすぐるは悪より出ずるなり〔新約聖書、マタイ伝第五章三七〕、である。彼にとっては、ある一つの物は存在するかしないかのどちらかであり、その物はそれ自身であると同時に別の物であることはできない。肯定と否定とは絶対的に排除しあう。原因と結果も同様にこわばって動きのとれない相互対立をなしている。この考え方は、いわゆる常識の考え方であるので、一見したところきわめて明白であるように思われる。しかしこの常識というやつは、わが家の狭い日常茶飯事にかんしては相当のしろもろであるが、研究という広い世間にのりだすと、まったく驚くべき冒険に出会うのである。そして形而上学的な考え方は、対象の性質に応じて広狭の差のある、かなり広い領域で正当でもあれば必要でさえあるのだが、つねにおそかれはやかれ限界につきあたるのであって、この限界からさきでは、一面的な、偏狭な、抽象的なものとなり、解決できない矛盾にまよいこんでしまう。というわけは、形而上学的な考え方は、個々の物にとらわれてそれらの連関を忘れ、それらの存在にとらわれてそれらの生成と消滅を忘れ、それらの静止にとらわれてそれらの運動を忘れるからであり、ただ木だけをみて森をみないからである。日常の場合には、われわれはたとえば、ある動物が生きているか生きていないかを知っているし、そのどちらであるかをはっきりと言うことができる。けれどももっとくわしく研究してみると、これはしばしばきわめて複雑な問題であることがわかる。これは、ここからさきは胎児の致死が殺人になるという合理的な境い目を見つけようとして、さんざんむだ骨おりをしたことのある法律家たちがよく知っていることである。また同様に、死の瞬間を確定することも不可能である。というのは、生理学が明らかにしたところでは、死というものは一度でかたづく瞬間的なできごとではなくて、非常にながびく過程だからである。同様にどの生物も、各瞬間に同一のものであってまた同一のものでない。それは各瞬間に、外から供給された物質を消化して、他の物質を排泄する。各瞬間に、その身体の細胞が死滅して、新しい細胞が形成される。いずれにせよおそかれはやかれある時間ののちには、この身体の物質はまったく後進されて、他の物質原子によっておきかえられる。だから、どの生物体も、つねに同一のものであって、しかも別のものなのである。さらにいっそうくわしく考察すると、肯定と否定というような対立の両極は、対立していると同時にたがいに分離することのできないものであり、まったく対立しているにもかかわらず、相互に浸透しあっているということがわかる。同様に、原因と結果とは、これを個々の場合に適用するときにだけそのままあてはまる観念であって、個々の場合を世界全体との全般的関連のなかで考察するやいなや、両者は重なりあい、普遍的交互作用という見方に解消してしまうのであって、そこでは原因と結果とはたえずその位置を取り替え、いままたはここでは結果であったものが、あちらまたはあとでは原因になり、またその逆にもなるということがわかるのである。
 すべてこれらの過程や思考方法は、形而上学的思考のわくにははまらない。これに反して、弁証法は事物とその概念による模写とを、本質的に、それらの連関、連鎖、運動、生成と消滅においてとらえるのであるから、弁証法にとっては、上述のような諸過程は、すべて弁証法自身のやり方を確証するものにほかならないのである。自然は弁証法の試金石である。そして、近代の自然科学はこの吟味のためにきわめて豊富な、日々に積み重ねられてゆく材料を提供し、そしてそのことによって、自然ではけっきょくすべてが形而上学的にではなく弁証法的におこなわれているということ、自然は永遠に一様なたえずくりかえされる循環運動をしているのではなくて、ほんとうの歴史を経過しているのだということを証明した、とわれわれは言わなければならない。この点ではだれよりもさきにダーウィンの名をあげなければならない。彼は、今日の生物界の全体が、植物も動物も、したがってまた人間も、幾百万年にわたっておこなわれた発展過程の産物であるということを証明することによって、形而上学的自然観に最も強力な打撃をあたえたのである。しかし、弁証法的に考えることを学び取った自然科学者はいままでのところ数えるほどしかいないので、発見された諸成果と従来からの考え方とが衝突をおこしており、現に理論的自然科学を支配していて、教師をも学生をも著者をも読者をも絶望に追いこんでいるはてしない混乱は、この衝突から説明がつくのである。
 だから、世界全体とその発展、人類の発展、そしてまた人間の頭のなかでのこの発展の映像を正確に表わすことは、ただ弁証法的な道によってのみ、すなわち、生成と消滅、前進的または後退的変化の全般的交互作用にたえず注目することによってのみ、達成できるのである。そして近代のドイツ哲学もまた、この精神をもってただちに立ち現われた。カントはその〔学問的〕生涯のはじめにあたって、ニュートンの安定した太陽系とその――ひとたびあの有名な最初の衝撃をあたえられてからのちの――永遠の持続とを一つの歴史的な過程に解消させた。すなわち、一つの回転する星雲の塊りからの太陽とすべての遊星との発生に解消させた。そのさい、彼はすでに、太陽系のこのような発生とともにその将来の滅亡もまた必然的にあたえられているという結論をひきだしていた。彼の見解は、半世紀のちにラプラスによって数学的に基礎づけられ、さらに半世紀のちには、このような灼熱したガスの塊りがさまざまの凝縮度で宇宙空間に存在することが、分光器によって証明されたのである〔71〕。
 この近代のドイツ哲学はヘーゲルの体系によってその完結に到達した。この体系のなかではじめて――そしてこのことがこの体系の大きな功績なのであるが――自然的・歴史的・精神的世界の全体が一つの過程として、すなわち、不断に運動し、変化し、改造され、発展するものとして把握され、叙述されたのであり、またこの運動や発展のうちにある内的連関を指示しようとする試みがなされたのである。この観点からすれば、人間の歴史はもはや無意味な暴力行為の雑然としたもつれあいとしては現われなかった。このような暴力行為は、いまや成熟に達した哲学者の理性の審判の前ではすべて一様に排斥されるべきものであり、できるだけ早く忘れてしまうにこしたことはないものである。人類の歴史はもはやこのようなものとしては現われないで、人類そのものの発展過程として現われるようになったのであって、この過程がいろいろなわき道をとおりながらもしだいに段階をおって進んでいったあとをたどり、あらゆる外見上の偶然性を貫くこの過程の内的合法則性を指示することが、いまでは思考の課題となったのである。
 ヘーゲルの体系が自分で自分に課したこの課題を解決しなかったということは、ここではどうでもよいことである。彼の画期的な功績は、この課題を提起したことであった。これはまさに、だれでも一人では解決できない課題である。ヘーゲルは――サン−シモンとならんで――この時代の最も幅の広い学識の持ち主であったけれども、しかもなお、第一には、彼自身の知識の範囲が当然かぎられていたということによって、また第二には、彼の時代の知識と見解がやはり広さからも深さからもかぎられていたということによって、制限を受けていた。だがなおそれに第三の点がつけくわわる。ヘーゲルは観念論者であった。つまり、彼にとっては、彼の頭脳のなかの思想は現実の事物や過程の多かれ少なかれ抽象的な模写とは考えられないで、逆に、事物やその発展がすでに世界よりもまえからどこかに存在している「理念(イデー)」の現実化された模写でしかないと考えられたのである。こうして、すべてのものが逆立ちさせられ、世界の現実の連関はまったくひっくりかえされていた。だから、個々の連関ではヘーゲルによって正しくかつ天才的にとらえられたものも多かったとはいえ、まえにあげたような理由によって、細部の点ではやはり多くの事柄がつぎはぎされ、作為され、こしらえられ、要するに、ゆがめられる結果とならざるをえなかったのである。ヘーゲルの体系そのものは巨大な流産であった――しかしまた、その種のものの最後のものでもあった。つまりそれはまだ、一つの内的な解決不可能な矛盾に悩んでいた。一方でこの体系が根本的な前提としていた歴史観によれば、人類の歴史は一つの発展過程であって、この過程はその本性上いわゆる絶対的な真理の発見によってその知識上の終結に達することはできないというのである。ところが、他方では、この体系こそはまさにこのような絶対的な真理の総体だと主張するのである。一切を包括し、終局的に完結した、自然と歴史との認識の体系というものは、弁証法的思考の根本法則と矛盾している。だが、こういったからといって、このことは、外的世界全体の体系的認識が世代から世代へと巨大な前進をとげることができるということをけっして排除するのではなく、むしろ反対にそれをふくんでいるのである。
 従来のドイツ観念論がまったくまちがったものであることがわかってみると、どうしても唯物論へと進まざるをえなかった。だが、よく注意していただきたいのだが、一八世紀のたんに形而上学的な、もっぱら機械的な唯物論へと進んだのではない。これまでの一切の歴史を素朴な革命家のやり方であっさりと投げすてるのとは反対に、現代の唯物論は歴史を人類の発展過程とみるのであり、この発展過程の運動法則を発見することをその課題とするのである。自然とは、ニュートンが教えたような永遠の天体とリンネが教えたような不変の生物の種とからなっていて狭い循環をなして運動しているつねに変わることのない全体だという、一八世紀のフランス人たちのあいだでもヘーゲルにあってさえもなお支配的だった自然観とは反対に、現代の唯物論は自然科学の最新の進歩を総括している。これによれば、自然にもやはりその時間上の歴史があり、天体も、都合のよい環境があるときその天体上に住んでいる生物の種も、ともに生成しまた消滅するのであって、循環は、一般にそれがひきつづきおこなわれうるかぎりでは、無限に大きくなる規模をとるというのである。どちらの場合にも、現代の唯物論は本質的に弁証法的であって、他の諸科学の上に立つような哲学をもはや必要としないのである。それぞれの個別科学にたいして、事物と事物にかんする知識との全体的連関のなかで自分の占める地位を明らかにせよという要求が提起されるやいなや、全体的連関を取り扱ういっさいの特殊な科学はよけいなものになる。そのとき、従来のすべての哲学のなかでなお独立に存続しつづけるものは、思考とその法則についての学説――形式論理学と弁証法である。そのほかのものはみな、自然と歴史についての実証科学に解消してしまうのである。
 とはいえ、自然観における急転回は、研究がそれ相当の実証的な認識素材を提供した程度でしかおこなわれえなかったが、歴史観に決定的な方向転換をひきおこした歴史的諸事実は、それよりもずっとまえから効力を現わしていたのである。一八三一年にはリヨンで最初の労働者の蜂起がおこった。一八三八―一八四二年には、最初の国民的な労働運動、すなわちイギリスのチャーティスト運動がその頂点に達した。一方では大工業が、他方では新たに獲得したブルジョアジーの政治的支配が発展してきたのにつれて、プロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争が、ヨーロッパの最も先進的な国々の歴史の前面に現われてきた。資本と労働との利害は一致するとか、自由競争の結果として全般的な調和と国民の全般的福祉とがもたらされると説くブルジョア経済学の諸学説は、事実によってますますきびしくその虚偽をたたかれた。これらのことはみなもうこれ以上否認するわけにはいかなかった。それと同様に、きわめて不完全ながらもこれらのことの理論的な表現だったフランスやイギリスの社会主義もまた、これ以上否認するわけにはいかなかった。しかし、まだ駆逐されていなかったふるい観念論的な歴史観は、物質的利害にもとづく階級闘争というものを、およそ物質的利害というものを、まったく知らなかった。生産もいっさいの経済的関係も、この歴史観のなかでは、「文化史」の従属的な要素として、ただついでに現われただけだった。
 これらの新しい事実にせまられて、これまでの歴史の全体が新しく研究しなおされるようになった。そしてその結果、次のようなことが明らかになった。すなわち、これまでのすべての歴史は、原始状態をべつにすれば、階級闘争の歴史であったということ、社会のなかのこれらのたがいに闘いあう諸階級は、いつでもその時代の生産関係と交易関係との、一言でいえば経済的諸関係の産物であるということ、したがって、社会のそのときどきの経済的構造が現実の土台をなしているのであって、それぞれの歴史的時期の法的および政治的諸制度や、宗教的、哲学的、その他の見解から成っている上部構造の全体は究極においてこの土台から説明されるべきであるということが明らかになった。ヘーゲルは歴史観を形而上学から解放して、これを弁証法的なものにした、――しかし彼の歴史観は本質的に観念論的なものであった。いまや観念論は、その最後の隠れ場所であった歴史観から追い出されて、唯物論的な歴史観があたえられた。そして、これまでのように人間の存在をその意識から説明するのではなく、人間の意識をその存在から説明する道を見いだされたのである。
 こういうわけで、いまでは社会主義は、もはやあれこれの天才的な頭脳の持ち主の偶然的な発見物としてではなく、歴史的に成立した二つの階級、プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争の必然的な産物として、現われたのである。社会主義の課題は、もはや、できるだけ完全な社会体制を完成することではなくて、これらの階級とその対立抗争を必然的に発生させた歴史的な経済的な経過を研究し、この経過によってつくりだされた経済状態のうちにこの衝突を解決する手段を発見することであった。しかし、フランス唯物論の自然観が弁証法や最新の自然科学とあいいれなかったのと同様に、従来の社会主義はこういう唯物論的な見方とはあいいれなかった。従来の社会主義は、なるほど現存の資本主義的生産様式とその帰結とを批判しはしたけれども、それを説明することはできなかったし、したがってまたそれに決着をつけることもできなかった。それをただ簡単に悪いものとして拒否することができただけだった。従来の社会主義は、資本主義的生産様式と切り離せない労働者階級の搾取を激しく非難すればするほど、ますます、この搾取の本質がなんであるか、どうしてそれが発生するのかを明らかにすることはできなくなった。だが、問題は、一方では、資本主義的生産様式をその歴史的連関のなかで、また一定の歴史的時期にとってのその必然性を明らかにし、したがってまたその没落の必然性を示すことだったのであり、他方では、相変わらずおおいかくされたままだったこの生産様式の内的性格を暴露することだったのである。この仕事は剰余価値を明らかにすることによってなされた。不払労働の取得が資本主義的生産様式とそれによっておこなわれる労働者の搾取との基本形態であるということ、資本家は、彼の労働者の労働力を、それが商品として商品市場でもっている価値どおりに買う場合にさえも、自分がそれに支払ったよりも多くの価値をこの労働力から取りだすのだということ、そして、けっきょくこの剰余価値によって形成される価値額から、有産階級の手のなかでたえず増大する資本量が積み上げられるのだということ――これらのことが証明された。こうして、資本主義的生産と資本の生産との成り行きが説明されたのである。
 これら二つの偉大な発見、すなわち唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、マルクスのおかげでわれわれに与えられたものである。これらの発見によって社会主義は科学になった。いまなによりもまず問題なのは、この科学をそのあらゆる細目と連関とについてさらに仕上げてゆくことである。


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