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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  事項注

〔1〕 この序文は、マルクスが一八八〇年五月四―五日ごろに書いたものである。フランス語版の小冊子では、この序文は、マルクスとラファルグ両人の署名をつけて発表された。ラファルグが、本書の本文をフランス語に翻訳したのであった。最近発見されたマルクスの手稿には、次の追記がある。「親愛なラファルグ、これは(昨晩)エンゲルスと相談して書いたものです。事実をきずつけないようにして、文章をなおしてください。よろしく。カール・マルクス」
 この翻訳は、手稿にもとづいて印刷された全集版のテキストによる。ラファルグが署名して発表したもののなかでおこなわれた比較的大きな追加は、*印をつけた注のかたちで、本文中に入れてある。比較的小さな、わかりやすくするためにおこなわれた書き改めは、そのまま採用してある。
〔2〕 『ルヴュー・ソシアリスト』――フランスの小ブルジョア的社会主義者で、のちにポシビリストになったフノワ・マロンが創刊した月刊誌。はじめは共和主義的社会主義者の、のちにサンディカリストと協同組合の機関誌。一八八〇年にリヨンで、一八八五―一九一四年にパリで発行。一八八〇年にマルクスとエンゲルスはこの雑誌に協力した。
〔3〕 この本の初版は、一八七八年にライプツィヒで発行された。国民文庫版、その他、多数の邦訳がある。
〔4〕 『ノーザン・スター』――イギリスの週刊新聞で、チャーティストの中央機関紙。一八三七―一八五二年に、はじめはリーズで、一八四四年一一月以後はロンドンで発行。ファーガス・エドワード・オコナーが本紙の創刊者でかつ編集者であった。四〇年代にはジョージ・ジュリアン・ハーニーが編集にあたった。エンゲルスは一八四五年九月から一八四八年三月までこの新聞の寄稿家であった。
 『ニュー・モラル・ワールド』――一八三四年にロバート・オーウェンが創刊した、空想的社会主義者の週刊新聞で、一八四六年まで発行。はじめはリーズで、一八四一年一〇月一日以後はロンドンで発行。エンゲルスは一八四三年一一月から一八四五年五月までこの新聞の寄稿家であった。
〔5〕 ドイツ人労働者協会は、ブリュッセルにおいて一八四七年八月末に、ベルギー在住のドイツ人労働者を政治的に啓蒙し、科学的共産主義の思想を周知させる目的で、マルクスとエンゲルスによって設立された。マルクスとエンゲルスならびにその戦友たちの指導のもとに、協会は、ベルギーにおける革命的プロレタリア勢力を結集するための合法的中心へと発展した。先進的な協会員は共産主義同盟のブリュッセル地区委員会に加入していた。しかしながらドイツ人労働者協会は、一八四八年のフランスの二月革命ののち、まもなくベルギーの警察が大部分の協会員を逮捕し追放したので、その活動を停止した。
〔6〕 『ブリュッセル・ドイツ語新聞』――ブリュッセル在住のドイツの政治的亡命者たちによって創刊された新聞。一八四七年一月三日から一八四八年二月まで、週二回発行された。この新聞の傾向は、はじめは、その発行者兼編集者で小ブルジョア的民主主義者であるアーダルベルト・フォン・ボルンシュテットによって決定されていた。彼は急進民主派陣営の諸潮流をたがいに和解させようと試みていた。しかしマルクスとエンゲルスならびにその戦友たちの影響によって、この新聞は、一八四七年の夏以降、しだいに、革命的民主主義的ならびに共産主義的思想のひとつのメガホンとなっていった。一八四七年九月以後、マルクスとエンゲルスはこの新聞の恒常的な寄稿家となり、その方向づけへの直接的影響力を獲得し、一八四七年の最後の数カ月間は、事実上、編集部をにぎっていた。彼らの指導のもとに、この新聞は、できかかっていたプロレタリアートの革命的政党――共産主義者同盟――の機関紙となった。
〔7〕 エンゲルスはこの出来事を『ドイツ国憲法戦役』(『マルクス=エンゲルス全集』第七巻、大月書店版、一〇五―二〇三ページ参照)で描写している。
〔8〕 『フォルクスシュタート』――社会民主主義労働者党(アイゼナッハ派)の機関紙。一八六九年一〇月二日から一八七六年九月二九日までライプツィヒで(はじめは週二回、一八七三年七月以後、週三回)発行された。この新聞はドイツ労働運動における革命的方向の見解を反映していた。その勇敢で革命的な態度のために、この新聞はつねに警察と政府の追及にさらされていた。編集長の態度によってしばしば編集部員の構成がかわったが、しかし一般的指導はひきつづきヴィルヘルム・リープクネヒトの手中ににぎられていた。「フォルクスシュタート」出版所の支配人、アウグスト・ベーベルが新聞の性格にたいする大きな影響力をもっていた。
 マルクスとエンゲルスはその創刊以来『フォルクスシュタート』の寄稿者であった。彼らは編集に側面から援助し、その批判をつうじて、新聞が一貫して革命的路線を守ることに寄与した。
 個々の弱さや誤りにもかかわらず、『フォルクスシュタート』は七〇年代の最良の労働者新聞の一つであった。
〔9〕 『フォルヴェルツ』――一八七六年のゴータ大会以後の、ドイツ社会主義労働者党の中央機関紙。一八七六年一〇月以後ライプツィヒで発行。この新聞は、一八七八年一〇月の社会主義者取締法の施行によって、その発行を停止しなければならなかった。
〔10〕 『ゾツィアルデモクラート』――ドイツ社会民主党の中央機関紙であって、社会主義者取締法が施行されていたあいだ、一八七九年九月から一八八八年九月までチューリヒで、一八八八年一〇月から一八九〇年九月までロンドンで発行された。マルクスとエンゲルスはこの新聞の誤りを正し、この中央機関紙がマルクス主義の路線を貫徹するように援助した。エンゲルスはみずからこの新聞に寄稿した。
〔11〕 エンゲルスの著書『空想から科学への社会主義の発展』のドイツ語第一版は、ホッティンゲン=チューリヒで「ゾツィアルデモクラート」出版所から一八八三年三月に(同書の扉には一八八二年と印刷されている)出版された。同書の第二版と第三版は、同じ出版所で一八八三年に出版された。第四版は、エンゲルスの生存中の最後のドイツ語版であった。これ以前のドイツ語の諸版と同様に、この版にも付録としてエンゲルスの論文『マルク』(『マルクス=エンゲルス選集』第一六巻、大月書店版所収。また『全集』第一九巻所収の予定)が収められていた。
〔12〕 ここでエンゲルスが言及している補足は、サン−シモンについては、本訳書の六三ページ一七行目から六五ページ一一行目まで、トラストについては、一〇三ページ六行目から一〇四ページ五行目までである。後者の箇所には、現行版の三つのパラグラフの代わりに、次の文章があった。「一定の発展段階上でこの形態もまたもはや十分ではなくなる。資本主義社会の公式の代表者である国家が、生産の管理をひきうけなければならなくなる。」
〔13〕 エンゲルスがこの序文を書いた英語版は、一八九二年にロンドンで『空想的社会主義と科学的社会主義』という表題でエドワード・エーヴリングが翻訳して出版された。この版にも付録として論文『マルク』が収められていた。
 この序文の重要性にかんがみてエンゲルスは、一八九二年六月にこれをドイツ語に翻訳した。この翻訳は『ノイエ・ツァイト』誌、第一一巻第一冊第一―二号、一八九二―一八九三年に『史的唯物論について』という表題で掲載された。そのさいに同誌の編集部は、最初の六パラグラフを、ドイツの読者にとっては周知のことであるか、または興味のないことが書かれているからという理由で、その旨を編集部の注でことわって、削除した。
 この序文の若干の部分は、フランス語で、『ル・ソシアリスト』紙の第一一五、一一六、一一八号(一八九二年一二月四日、一一日、二五日)および第一一九、一二〇号(一八九三年一月一日、九日)に発表された。またこの序文は――最初の八パラグラフを除いて――ブルガリア語で雑誌『ゾツィアルデモクラート』一八九二年第三号に発表された。
〔14〕 一八七五年五月二二日から二七日までのゴータ大会で、ドイツ労働運動の二つの派――アウグスト・ベーベルとヴィルヘルム・リープクネヒトの指導する社会民主主義労働者党(アイゼナッハ派)とラサールのドイツ労働総同盟――が合同した。これによってドイツ労働者階級の党は終局的に全国民的性格を獲得した。合同した党は一八九〇年までドイツ社会主義労働者党という名称をもっていた。けれども、ゴータ大会に提出された、合同した党の綱領草案は、重大な誤りと、ラサール主義への原則的な譲歩をふくんでいた。草案の共同起草者であったヴィルヘルム・リープクネヒトは、この問題で調停者的態度をとった。マルクスとエンゲルスは、ドイツに統一的な社会主義政党が設立されることに同意したが、しかしラサール主義者とのイデオロギー的妥協に反対し、綱領草案の誤りのあるテーゼに鋭い批判をくわえた。この批判にもかかわらず、草案は本質的でない変更をうけただけで、党大会によって採択された。
〔15〕 ここまでが、『ノイエ・ツァイト』誌に掲載されたドイツ語訳では削除されている。
〔16〕 サミュエル・ムーアとエドワード・エーヴリングが翻訳し、エンゲルスが校訂した、『資本論』第一巻の英語第一版は、一八八七年にロンドンで出版された。
〔17〕 唯名論者――中世哲学の一つの流派である唯名論の代表者。この流派によれば、普遍概念とは、人間が実在する個々の現象にあたえる名まえにすぎない。ラテン語で名まえを nomina というので、この流派は nominalism とよばれる。中世哲学のもう一つの流派である実在論(実念論ともいう)は、普遍概念は物の原像として、また物の精神的源泉として実在すると主張した。唯名論者は、概念を人間の思考の所産であるとし、実在論者の見解と論争して、対象を第一次的なもの、概念を第二次的なものであると説明した。この意味で、唯名論は中世における唯物論の最初の表現であった。
〔18〕 ホモイオメレ――古代ギリシアの唯物論哲学者アナクサゴラスの説によれば、最小の質的に規定された物質の部分であり、無限に分割可能なもの。ホモイオメレはすべての存在の根源であり、事物のあらゆる多様性はそれらの結合に起因する、という見解をアナクサゴラスはとなえた。
〔19〕 『聖家族』には、このあとに次の文章がある。「物質の原始的形態は、いきいきとした、個体化するように作用する、物質に内在する種差を生みだすところの、本質の諸力なのである。」英語版では脱落しているこの一文が、ドイツ語版では補われている。なお、英語版でエンゲルスは『聖家族』からのこの引用文を、かなり自由に訳している。本訳書では、英訳のニュアンスを考慮しながら、基本的にはドイツ語の原文にしたがって訳し、比較的大きな二カ所の脱落のみを注で示した。
〔20〕 このあとに英語版では次の一文が脱落している。「肉体的な運動は、力学的または数学的運動の犠牲にされる。」これはドイツ語版では補われている。
〔21〕 J.Locke,"An essay concerning human understanding".初版は一六九〇年にロンドンで出版された。岩波文庫に加藤卯一郎氏の抄訳『人間悟性論』がある。
〔22〕 理神論――世界の創造者として神を認めはするが、世界がいったん創造されたのちは、世界の発展に神の作用が及ぶことをすべて拒否する、宗教哲学上の学説。封建制のもとで支配していた教会的世界観にたいする闘争において、理神論は進歩的な流派であった。理神論者たちは、中世の宗教的観念と教会の教義を批判し、僧侶社会が寄生的なものであることを暴露した。理神論はとくにヴォルテールとルソーにおいて顕著である。
 なお、英語版でもドイツ語版でも、さらに『聖家族』の原文でも、ここのところは「理神論〔デイズム〕」ではなくて「有神論〔テイズム〕」となっている。『聖家族』のこの部分は、マルクスとエンゲルスが、ブルーノ・バウアーが『アルゲマイネ・リテラトゥール・ツァイトゥング』に発表した論文を念頭において書いたものであるが、バウアーの論文における該当箇所は「理神論」になっている。明らかに『聖家族』の初版でこの箇所に誤植があったのである。誤植であるということは、有神論は「宗教から脱却するための便利で安易な道」ではない、ということからも明らかである。有神論は、宗教的思考を支持し、維持し、要求する。それは、人格神の存在を認めるばかりでなく、理神論とは反対に、この人格神が世界の創造者、維持者、支配者であるという考えを代表しているのである。
〔23〕 一八五一年五―一〇月にロンドンで開催された、第一回商工業万国博覧会のこと。
〔24〕 救世軍――一八六五年にイギリスでメソディスト派の伝道師ウィリアム・ブースが創立した、反動的な、宗教的博愛の団体。その後、その活動は他の国々にひろがり、一八八〇年に軍隊組織を模範として再組織されて、「救世軍」と名のるようになった。ブルジョアジーは、働く人々を搾取者にたいする闘争からそらせるために、救世軍に有力な援助をあたえた。救世軍は広範な宗教的宣伝を展開し、大きな慈善施設の網をつくった。この団体の若干の伝道師たちは、富者の利己主義に見せかけのうえで有罪を宣告するという、社会的デマゴギーに逃避した。
〔25〕 エンゲルスはその著書『ドイツ農民戦争』(『全集』第七巻、三七九―三八三ページ、および、三八四―四一八ページ)で、ドイツの貴族の反乱(一五二二―二三年)の評価とドイツ農民戦争(一五二四―二五年)の詳細な分析をあたえている。
〔26〕 名誉革命――イギリスでスチュアート家の王朝がくつがえされ、オレンジ公ウィリアム三世が主権を継承した一六八八年の国家的変動にたいして、イギリスのブルジョア的歴史家が通常用いている名称。これによって生じた政治組織は、新しい土地貴族と金融ブルジョアジーとの妥協にもとづくブルジョア的立憲君主制の形態をとった。
〔27〕 ばら戦争(一四五五―一四八五年)――イギリスの貴族の二つの家門、白ばらを紋章とするヨーク家と、紅ばらを紋章とするランカスター家とのあいだに王位継承をめぐっておこなわれた戦争。ヨーク家のまわりには、経済的により発展していた南部の大封建領主の一部、騎士、都市の市民が結集しており、ランカスター家は北部諸州の封建貴族によって支持されていた。この戦争の結果、古い貴族の名門はほとんど皆殺しになり、新しいテューダー王朝が王権をにぎるにいたったが、これはイギリスにおいて絶対主義を確立したものであった。
〔28〕 puer robustus sed malitiosus〔強健だが根性のわるい子供〕――ホッブズがその著書"De Cive"〔市民論〕で使った表現。この本は、一六四二年にパリで書かれ、はじめは手写本で普及し、一六四七年にアムステルダムで発行された。
〔29〕 デカルト主義――一七世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトの弟子たちの学説。彼らはデカルトの哲学から唯物論的な結論をひきだした。
〔30〕 一七八九年に憲法制定議会で採択された『人権・市民権の宣言』は、新しいブルジョア的秩序の政治的原理をすえたものであった。この宣言は一七九一年のフランス憲法にとり入れられ、これにもとづいて一七九三年のジャコバン派の『人権と市民権の宣言』が仕上げられた。この宣言は、一七九三年に国民公会が議決した最初のフランス国共和憲法に前文としてつけられたものである。
〔31〕 フランスの民法典――一八〇四年のフランスの民法典。これは一八〇七年にナポレオン法典として編纂しなおされた。このブルジョア的法典は、フランスから西南ドイツの占領地域にもちこまれた。ライン州ではプロイセンとの合併以後にもこれが通用していた。ナポレオン法典は本質的な程度にフランス革命の諸達成を保障しており、形式的なブルジョア的平等の基礎にたっていた。
〔32〕 フランス革命は、イギリスの小ブルジョア階級とブルジョア・インテリゲンツィアの急進的な層のあいだに、いきいきとした共感をよびおこした。フランス革命の味方たちは、主として「ロンドン通信協会」やイギリスのその他の大都市の通信協会に結集していたが、彼らは革命思想を宣伝し、普通選挙権の導入やその他の民主的改革を要求した。その組織者や加入者のうちには労働者階級の代表者たちもいた。通信協会は、イギリスを支配していた寡頭政治の側からの報復にさらされていた。
〔33〕 選挙制度改正法案――一八三一年にイギリスの下院で採択され、一八三二年六月七日に上院で最終的に裁可されたもの。この改正は、地主貴族と金融貴族の政治上の独占的地位に反対したものであり、イギリスの選挙権における最悪の封建的残りかすをとりのぞき、産業ブルジョアジーの代表者たちに国会への進出の道をひらいた。改正を求める闘争の主要勢力であったプロレタリアートと小ブルジョア階級は、自由主義的ブルジョアジーに欺かれて、選挙権を獲得しなかった。
〔34〕 一八二四年にイギリスの国会は、労働者の大衆運動に強制されて、労働者の団結(労働組合の)禁止を廃止する法律を採択した。しかし一八二五年にはすでに国会は、組合法あるいは労働者の団結にかんする法律を採択した。この法律は、労働組合の禁止の廃止を確認してはいるが、しかし同時にその活動を極度に制限した。とくに、組合に加入するように、また、ストライキに参加するように労働者のあいだで煽動することが、「強制」であり「暴力」であるとされ、刑事犯罪として罰せられている。
〔35〕 人民憲章(People's Charter)――チャーティストの要求を述べた文書。それは一八三八年五月八日に、国会へもちこまれるべき法律草案として発表された。その要求は次のようである。一、普通選挙権(二一歳以上の男子にたいする)、二、国会を毎年改選すること、三、無記名投票、四、選挙区の平等化、五、国会選挙への立候補者の財産資格の廃止、六、国会議員にたいする歳費の支給。人民憲章の採択を要求するチャーティストの三つの請願書が国会に提出され、一八三九年と一八四二年と一八四九年に国会によって却下された。
〔36〕 穀物法反対党(穀物法反対同盟)――一八三八年にマンチェスターで工場主のコブデンとブライトが創立した、自由貿易主義者の同盟。いわゆる穀物法とは、外国からの穀物の輸入の制限または禁止を目的とするもので、イギリスにおいて一八一五年に大土地所有者、土地貴族の利益のために制定された。同盟は完全な自由貿易を要求し、労働者の賃金を引き下げ、土地貴族の経済的ならびに政治的地位を弱める目的で、穀物法の廃止のためにたたかった。土地所有者にたいするこの闘争で、同盟は労働者大衆を利用しようと試みた。だがまさにこの時代に、イギリスの最も先進的な労働者たちは、独自のきわだって政治的な労働運動(チャーティズム)の道をとって進んだ。工業ブルジョアジーと土地貴族との闘争は、一八四六年に穀物法の廃止にかんする法案が採択されたことで終わりをつげた。
〔37〕 ブラザー・ジョナサン――イギリスの北アメリカの植民地の独立戦争(一七七五―一七八三年)の当時、イギリス人が北アメリカ人につけた、皮肉なあだ名。
〔38〕 信仰復興運動(リヴァイヴァリズム)――一八世紀の前半にイギリスで成立し、すみやかに北アメリカにも地歩を占めたプロテスタント協会の一流派。その加入者たちは、説教と信者の新しい共同体をつくることによって、キリスト教の退歩しつつある影響を確立し、拡大しようと努力した。
〔39〕 一八六七年に、ダービー=ディズレーリの保守的政府が施行した国会選挙制度の改正のことをいっている。
〔40〕 労働者の大衆運動の圧力のもとに一八六七年にイギリスでは第二次の国会選挙制度の改正がおこなわれた。国際労働者協会総評議会はこの運動に積極的に協力した。新しい法律が施行されたのち、州選挙区の選挙者にとっては財産資格が引き下げられた。小作人にとってそれはいまや年額一二ポンド・スターリングであった。都市では、すべての家屋所有者と、一年以上同じ場所に居住して、すくなくも一〇ポンド・スターリングの借家料を払っている借家人が選挙権を獲得した。この改正によって選挙権所有者の数は二倍以上に増加した。
 一八八四年には農村地域の大衆の圧力のもとに第三次の国会選挙制度の改正がおこなわれた。これによって農村地域は、一八六七年における都市地域のそれと同一の条件で選挙権を獲得した。けれども、かなりの住民層が、すなわち農村プロレタリアートとすべての婦人が、第三次の改正後にも選挙権をもたなかった。秘密投票制度は一八七二年に施行された。
〔41〕 講壇社会主義――ブルジョア・イデオロギーの、主として、一九世紀の七〇年代から九〇年代にドイツで成立したブルジョア経済学の一流派。講壇社会主義者たち、とりわけ自由主義的な教授連中は、大学の講壇から社会主義というかくれみのをきてブルジョア的改良主義の理論を宣伝した。講壇社会主義(その代表者は、アドルフ・ヴァグナー、グスタフ・シュモラー、ルヨ・ブレンターノ、ヴェルナー・ゾンバルト、その他である)とは、マルクス主義の拡大と労働運動の成長にたいする支配階級の恐れの表現であり、また、ブルジョア・イデオローグたちの、働く人々を階級闘争から遠ざけておく新しい道を発見しようとする努力の表現であった。講壇社会主義者たちは、搾取者の国家が諸階級を超越しており、敵対的階級を和解させることが、社会改良によって資本主義を完全なものにすることが、したがって資本家の利害を害することなしに社会主義を導入することが可能である、と主張した。講壇社会主義の綱領は、労働者保険の設立、工場立法の領域で二、三の基準を貫徹すること、等々以上にでるものではなかった。それはあらゆる階級闘争の放棄を意味した。講壇社会主義は修正主義のイデオロギー的源泉の一つであった。〔42〕 儀式遵奉派(オックスフォード大学で教えていた神学者、ピュージの名まえをとった、ピュージ主義という名称がより広くゆきわたっている)――一九世紀の三〇年代に成立した、イギリス国教会内の一流派。その主張者は、カトリックの儀式とカトリック教の若干の教義をイギリス国教会内で復活させよと呼びかけた。
〔43〕 ルヨ・ブレンターノ著『現代の労働組合』、二巻、ライプツィヒ、一八七二年を念頭においている。この本でブレンターノは、イギリスの労働組合を、資本主義の枠内で労働者の状態の根本的改善を達成し、資本主義的搾取から解放される可能性を示した、労働者階級の模範的組織であるとして、称賛している。ブレンターノやその他の講壇社会主義者たちは、良く組織された労働組合は労働者階級の政治闘争や政党を不用なものにする、と主張した。エンゲルスはその論文『ブレンターノ対マルクス事件で』において、この主張のかくされた性格の仮面をはぎ、その階級的内容を暴露した。
〔44〕 ルソーの社会契約――ジャン・ジャック・ルソーの理論によれば、人間ははじめ自然状態で生活しており、この状態では万人が平等であった。私有財産の成立と不平等な所有関係の発展が「人間を自然状態から国家市民的状態へと移行させる」原因となったのであり、社会契約にもとづく国家の形成へと導いた。けれども、政治的不平等がいっそう発展すると、この社会契約の破壊と新しい自然状態の成立がもたらされるであろう。この新しい自然状態をとりのぞくことが、新しい社会契約にもとづく理性国家の使命である。
 この理論は、ルソーの著作"Discours sur l'origine et les fondemens de l inegalite parmi les hommes"〔『人間不平等起源論』〕、アムステルダム、一七五五年と、"Du contract social; ou,Principes du droit politique"〔『社会契約論』〕、アムステルダム、一七六二年に展開されている。
〔45〕 平等派(レヴェラーズ)――エンゲルスはここで、真の平等派、あるいはディッガー(「掘る人」という意味)を念頭においている。彼らは、一七世紀のイギリス・ブルジョア革命において平等派の最左翼を形成し、革命の進行過程で平等派から分離した。ディッガーは、農村と都市の最も貧困な層の利益を擁護してたたかい、働く民衆が小作料を払わないで共同体の土地を耕作すべきだ、という立場をとっていた。若干の村で彼らは、自己の絶対的権力にもとづいて、非耕作地を占領し、国家のためにこれを堀りおこした。クロムウェルの兵隊に追いちらされたとき、彼らはなんらの抵抗もしなかった。彼らは、この闘争で平和的手段のみを用いたいと考え、説得の力を信頼していたからである。
〔46〕 とりわけ、空想的共産主義の代表者、トマス・モア("De optimo reipublicae statudeque nova insula Utopia"〔『ユートピア』〕、一五一六年出版)と、トマス・カンパネラ("Civitas solis"〔『太陽の都』〕、一六二三年に出た"Philosophie epilogistica realis"の付録として、独立の著書としては一六四三年に出版)が念頭におかれている。
〔47〕 恐怖政治時代――ジャコバン派の革命的・民主主義的独裁の時代(一七九三年六月―一七九四年七月)。この時代にジャコバン派は、ジロンド派と王党派の反革命的テロにたいする応答として、革命的テロをおこなった。
〔48〕 執政官政府――フランスの最高政府機関。五人の構成員からなり、そのうちの一人は毎年新しく選挙でいれかえられた。執政官政府は、ジャコバン派独裁の崩壊後に採択された一七九五年の憲法にもとづいてつくられた。それはボナパルトのクーデタ(一七九九年ブリュメール一八日)まで存続したが、民主勢力にたいするテロ支配をおこない、大ブルジョアジーの利益を代表していた。
〔49〕 革命のスローガン――自由! 平等! 友愛!――フランス革命のスローガン。
〔50〕 サン−シモンの『ジュネーヴの一住人の手紙』――"Lettres d'um habitant de Geneve a ses contemporains"〔『同時代人へあてたジュネーヴの一住人の手紙』〕。これはサン−シモンの最初の著作であり、一八〇二年にジュネーヴで書かれ、一八〇三年に匿名で、出版の場所と日付を示さないでパリで出版された。エンゲルスが出版の年を一八〇二年としているのは、NicolasGustave Hubbard Buch "Saint-Simon, sa vie et ses travaux"〔『サン−シモン、その生涯と著作』〕、パリ、一八五七年によったものである。エンゲルスはこの本を利用しているが、これには、サン−シモンの若干の著作の日付に不正確な点が含まれている。
〔51〕 フーリエの最初の著書は、"Theorie des quatre mouvements et des destinees generales・・・"〔『四運動および一般運命の理論』〕であった。これは一九世紀の最初の年に書かれ、一八〇八年にリヨンで匿名で出版された。扉には、出版地としてライプツィヒとしるされている。
〔52〕 ニュー・ラナーク――スコットランドの都市ラナークの近くに、一七八四年に小村落とともに建設された紡績工場。
〔53〕 この引用文は、サン−シモンの『同時代人にあてたジュネーヴの一住人の手紙』のなかの第二信からとったものである。サン−シモン著、大塚幸男訳『ジュネーヴ人の手紙。他三篇』、世界古典文庫、日本評論社、一九四八年、七九ページ。
〔54〕 サン−シモンの"Correspondance politique et philosophique. Lettres de H. SaintSimon a un Americain"〔『政治的ならびに哲学的通信。一アメリカ人にあてたサン−シモンの手紙』〕の第八信が念頭におかれている。この手紙は、一八一七年にパリで、"L'industrie, ou discussions politiques, morales et philosophiques, dans l'interet des tous les hommes livres a des travaux utiles et independants". T.2〔『産業、または、有用で独立の仕事に身をささげているすべての自由人のための、政治的・道徳的・哲学的討論』、第二巻〕という表題で発行された論文集にふくまれている。
〔55〕 連合軍のパリ入城――一八一四年三月三一日にナポレオンにたいする連合国(ロシア、オーストリア、イギリス、プロイセン、その他)の軍隊がパリに入城した。帝国は粉砕され、ナポレオンは免職されて、エルバ島へ亡命せざるをえなかった。
〔56〕 百日戦争――ナポレオンがエルバ島からパリに帰った一八一五年三月二〇日から、ワーテルローの敗戦後に彼が攻めて免職された一八一五年六月二八日までの、ナポレオン一世支配の時代におこなわれた戦争。
〔57〕 エンゲルスは、サン−シモンとその弟子オーギュスタン・ティエリ(一七九五―一八五六年)の二つの共著"De la reorganisation de la societe europeenne ou de la necessite et des moyens de rassembler les peuples de l'Europe en un seul corps politique, en conservant a chacun son independance nationale"〔『ヨーロッパ社会の再組織について、または、ヨーロッパの諸国民を、そのおのおのの民族的独立を保存しながら、政治的単一体へと結集する必要性とその手段について』〕(パリ、一八一四年)と"Opinion sur les mesures a prendre contre la coalition de 1815"〔『一八一五年の連合国にたいして取るべき方策にかんする意見』〕(パリ、一八一五年)を念頭においている。
〔58〕 ベルギーのワーテルローでナポレオンは一八一五年六月一八日にウェリントンの率いるイギリス=オランダ軍とブリュヒャーの率いるプロイセン軍によって打ち破られた。この戦闘は一八一五年の戦役にとって決定的な意義をもち、反ナポレオン連合国(イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン、スウェーデン、スペイン、その他)の終局的勝利とナポレオンの敗北へと導いた。
〔59〕 この思想をフーリエはすでに、その『四運動および一般運命の理論』で、しかも次のテーゼの形式で展開した。「社会の進歩と時代の変化は女性の解放が前進するのに照応して進む。社会秩序の衰退は、当然、女性の自由の縮小をもたらす」と、またフーリエはこの命題を次のように要約した。「女性の権利の拡大はすべての社会的進歩の主要原理である。」(シャルル・フーリエ『全集』第一巻、パリ、一八四一年、一九五―一九六ページ参照)。
〔60〕 フーリエ"Theorie de l'unite universelle"〔『宇宙統一論』〕第一および第四巻、『全集』第二巻、パリ、一八四三年、七八―七九ページ、および、第五巻、パリ、一八四一年、二一三―二一四ページ、参照。
 文明がその中で動いている「悪循環」については、フーリエ"Le nouveau monde industriel et societaire,・・・"〔『産業的・組合的新世界・・・』〕、『全集』第六巻、パリ、一八四五年、二七―四六、三九〇ページを見よ。この本の初版は一八二九年にパリで出た。フーリエ『全集』第一巻、パリ、一八四一年、二〇二ページをも参照。
〔61〕 フーリエ『全集』第六巻、パリ、一八四五年、三五ページ。
〔62〕 フーリエ『全集』第一巻、パリ、一八四一年、五〇ページ、およびそれ以下。
〔63〕 ロバート・オーウェン "Report of proceedings at the several public meetings, held in Dublin. On the 18th March―12th April―19th April and 3rd May"〔『ダブリンで開催されたいくつかの公開集合の議事録。三月一八日、四月一二日、四月一九日、および五月三日』〕、ダブリン、一八二三年、一一〇ページ以下、参照。
〔64〕 オーウェンはこの未来計画をその著書"The book of the new moral world, containing the rational system of society, founded on demonstrable facts, developing the constitution and laws of human nature and of society"〔『新道徳世界の書、証明可能な事実にもとづく合理的社会組織をふくみ、人間性と社会の基本構造と諸法則を展開したもの』〕、ロンドン、一八四二―一八四四年、で展開した。
〔65〕 一八一二年にオーウェンはグラスゴウにおけるある集合で、紡績工場で働くすべての児童と成年の負担を軽減するための一連の基準をつくることを提案した。これにかんする法案がオーウェンの発意で一八一五年六月に国会にもちこまれたが、ようやく一八一九年になって、しかもひどく引き下げられた基準で、法律として国会で採択された。
 この法律は紡績工場だけに適用されるものであって、九歳以下の児童の労働を廃止し(オーウェンの提案は、一〇歳以下の児童にたいする児童労働の禁止を規定していた)、一六歳以下のものにたいして労働時間を一二時間に制限した。これに反してオーウェンによれば、すべての労働者にとって労働時間は一〇時間半をこえてはならないのであった。
〔66〕 一八三三年一〇月にオーウェンの司会のもとに協同組合と労働組合の会議が開催され、この会議で全国労働組合大連合が形式的に設立された。綱領と規約は一八三四年二月に採択された。オーウェンの構想によれば、この連合は生産の指導をその手中ににぎり、平和な道をとおって社会の完全な改造を実現する、というのであった。この空想的計画は失敗した。この連合は、ブルジョア社会と国家の側からの強い抵抗に出会い、一八三四年八月に解体した。
〔67〕 労働市場(労働生産物の正当な交換のための市場)は、イギリスの多くの都市で労働者協同組合によってつくられた。最初の労働市場をオーウェンは一八三二年九月にロンドンでつくったが、これは一八三四年のなかばまで存続した。
〔68〕 プルードンの交換銀行――プルードンは一八四八―一八四九年の革命中にこれを実現しようと試みた。一八四九年一月三一日に彼はパリで人民銀行を設立した。それは約二ヶ月間存続したが、しかし紙の上でだけのことだった。この銀行は「正常に動きはじめるまえに、すでにひっくりかえった」(マルクス)のである。
〔69〕 ドゥニ・ディドロの対話篇『ラモーの甥』は、一七六二年ごろに書かれ、のちに二回著者によって改作された。それは最初一八〇五年にゲーテの翻訳でライプツィヒで出版された。そのフランス語版は、一八二三年にパリで出版された"Oeuvres inedites de Diderot"〔『ディドロ未刊著作集』〕で実現されたが、この本には出版年が一八二一年と印刷されている。
〔70〕 アレクサンドリア時代――その当時の精神生活の中心であったエジプトの港町アレクサンドリアにおけるプトレマイオス家の時代(紀元前三二三―三〇年)とローマの支配からアラブ人の侵入にいたる時代(紀元前三〇年―紀元後六四〇年)。アレクサンドリア時代には一連の諸科学、すなわち数学(エウクレイデスとアルキメデス)、地理学、天文学、解剖学、生理学その他が大きな発展をとげた。
〔71〕 カントの星雲理論は、一七五五年にケーニヒスベルクとライプツィヒで匿名で発行された書物『天界の一般的自然史と理論』に叙述されている。
 ラプラスは太陽系の生成についてのその仮説を、その一七九五―一七九六年に出版された二巻本"Exposition du systeme du monde"〔『世界体系の解明』〕の最後の章で展開した。この本のラプラス自身が手をくわえた最後の版は、彼の死後一八三五年にやっと出たのだが、この版では彼の仮説は注釈七で叙述されている。
〔72〕 『資本論』第一巻第四篇「相対的剰余価値の生産」のなかの、第一一章「協業」、第一二章「分業とマニュファクチュア」、第一三章「機械と大工業」をさす(国民文庫版、(3)、二三―三二二ページ。全集、第二三巻a、四二三―六五八ページ)。
〔73〕 マルク――土地を基礎とするゲルマンの古代共同体。農民はマルクとよばれる一定の土地を共有し、これを耕作していた。のちに、耕作地は私有地として分割されるにいたったが、その後も牧場、森林、牧草地などからなる土地が共有地として存続した(大月書店版『マルクス=エンゲルス選集』第一六巻、二四六―二六五ページ参照)。
〔74〕 一四九二年のコロンブスによるアメリカの発見。
〔75〕 一七世紀および一八世紀の商業戦争――インドおよびアメリカとの貿易におけるヘゲモニーをめざして、また植民地市場の略奪をめざして、ヨーロッパの大国間でたたかわれた一連の戦争をさす。たがいに競争する最強国は、最初はイギリスとオランダ(典型的な商業戦争は、一六五二―五四年、一六六四―六七年および一六七二―七四年の、イギリスとオランダとの戦争であった)であったが、のちにはイギリスとフランスであった。イギリスは、これらすべての戦争を通じて勝利者として現われ、一八世紀末には、その手中にほとんど世界貿易の全体を集めた。
〔76〕 フーリエ『全集』第六巻、パリ、一八四五年、三九三―三九四ページ参照。
〔77〕 海外貿易所――プロイセンの海外貿易会社(一九〇四年までの公式名称は、「海外貿易組合総管理局」〔General-Direktion der Seehandlungssozietat〕)。それは、一七七二年に貿易信用会社として創立され、一連の重要な国家的特権を賦与された。会社は、政府に巨額の貸金を用立て、事実上政府の銀行兼ブローカーの役割を演じた。一八二〇年に会社は、プロイセン国家の金融貿易機関と明示され、一九〇四年には「王立海外貿易所(プロイセン国立銀行)」と変えられた。
〔78〕 「自由な人民国家」は、「一八七〇年代のドイツの社会民主主義者の綱領的要求であり、流行のスローガン」(レーニン)であった。マルクスの『ドイツ労働者党綱領評注』(『ゴータ綱領批判』)の第四章のなかにあるこのスローガンの批判と、一八七五年三月一八―二八日付、エンゲルスのベーベルあて手紙を見よ〔国民文庫『ゴータ綱領批判』参照〕。なお、レーニンの著書、『国家と革命』の第二章第四節と第四章第三節(全集、第四版、第二五巻、四〇七―四一三ページと四五三―四五五ページ)を見よ。
〔79〕 ここに発表されている大ブリテンとアイルランドの富の総額の数字は、連合王国における富の蓄積にかんするロバート・ギッフェンの報告(『連合王国における最近の資本蓄積』)からとられたものである。なお、ギッフェンのこの報告は、一八七八年一月一五日統計協会においておこなわれ、ロンドンの『統計協会雑誌』(一八七八年三月)に掲載された。


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