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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital
Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。 http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html |
§ 共産党宣言
一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義の妖怪が。旧ヨーロッパのあらゆる権力が、この妖怪にたいする神聖な討伐の同盟をむすんでいる。法王〔6〕とツァーリ〔7〕、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派〔8〕とドイツの官憲も。
およそ反政府党で、その政敵たる政府党から、共産主義だといってののしられなかったものがどこにあるか、およそ反政府党で、より進歩的な反政府派にたいしても、また反動的な政敵にたいしても、共産主義という烙印をおす非難をなげかえさなかったものがどこにあるか?
この事実から二つのことがあきらかになる。
共産主義は、すでにヨーロッパのあらゆる権力から、一つの力としてみとめられている。
共産主義者がその見解、その目的、その傾向を全世界のまえに公表して、共産主義の妖怪談に党自身の宣言を対置すべき時が、すでにきている。
この目的のために諸民族の共産主義者がロンドンにあつまって、つぎの宣言を起草した。宣言は、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、フランドル語〔9〕およびデンマーク語で発表する。
☆ 一 ブルジョアとプロレタリア(*)
(*) ブルジョアジーとは、近代資本家、すなわち社会的生産の諸手段の所有者で、また賃金労働者の雇傭者の階級のことである。プロレタリアートとは、自分の生産手段をもたないので生きるためにその労働力を売るほかない、近代賃金労働者のことである。〔一八八八年英語版へのエンゲルスの注〕
すべてこれまでの社会の歴史は階級〔10〕闘争の歴史である(*)。
(*) すなわち、すべての文書によってつたえられている歴史の。一八四七年には社会の前史、記録された歴史の以前にあった社会組織は、ほとんど知られていなかった。その後、ハクスタウゼンは、ロシアの土地共有制を発見し、マウラーは、土地共有制こそ、チュートン種族が歴史に出発した社会的基礎であったことを立証した。そしてしだいに、村落共同体が、インドからアイルランドまでのいたるところで、社会の原始形態であること、あるいはあったことがあきらかになってきた。この原始共産主義社会の内部的組織は、氏族の真の性質、およびそれの部族にたいする関係にかんする、モルガンの仕上げとなるべき発見によって、その典型的な形態においてあきらかにされた。この原生の共同体の解体とともに、社会は別々の諸階級、そしてついには相対立する諸階級へ分化しはじめる。私は『家族、私有財産および国家の起源』(第二版、一八八六年、シュトゥットガルト)のなかでこの解体過程をあとづける試みをした。〔一八八八年英語版へのエンゲルスの注〕
自由民と奴隷〔11〕、貴族と平民〔12〕、領主と農奴〔13〕、ギルド〔14〕の親方(*)と職人、つまり抑圧するものと抑圧されるものとは、つねに対立し、ときには隠然と、ときには公然と、たえまない闘争をおこなってきた。そしてこの闘争は、いつでも全社会の革命的改造におわるか、さもなければ、あいあらそう階級のともだおれにおわった。
(*) ギルドの親方とは、ギルドの正規の組合員、すなわちギルドに所属する親方のことで、ギルドのかしらではない。〔一八八八年英語版へのエンゲルスの注〕
以前の歴史上の諸時代には、ほとんどどこでも、社会はいろいろな身分に完全に区分されており、社会的地位はさまざまな段階にわかれていた。古代ローマには、貴族、騎士〔15〕、平民、奴隷があった。中世には、封建領主、家臣、ギルドの親方、職人、《徒弟、》農奴があり、なおそのうえ、これらの階級のほとんどいずれにも、さらにいろいろの階層があった。
封建社会の没落からうまれた近代ブルジョア社会は、階級対立を廃棄しはしなかった。それはただ、新しい階級、新しい抑圧条件、新しい闘争形態を、古いものにおきかえたにすぎない。
けれども、われわれの時代すなわちブルジョアジーの時代の特徴は、階級対立を単純にしたことである。全社会は敵対する二大陣営に、直接相対立する二大階級にますます分裂しつつある。すなわち、ブルジョアジーとプロレタリアートに。
中世の農奴のなかから初期の諸都市の特許市民(プファールビュルガー)〔16〕が出てきた。そして、この特許市民のなかから、ブルジョアジーの最初の分子が発展した。
アメリカの発見、アフリカの回航は、勃興しつつあるブルジョアジーのために新しい活動分野をひらいた。東インドや中国の市場、アメリカへの植民、植民地との貿易、交換手段および一般に商品の増加は、商業に、航海に、工業に、空前の飛躍をもたらし、そのことによって、崩壊しつつあった封建社会のなかの革命的な要素を急速に発展させた。
これまでの封建的な、すなわちギルド的な工業の経営方法では、新しい市場とともに増加する需要にもはや応じえなかった。マニュファクチュアがそれにかわった。ギルドの親方は、工業的中産身分におしのけられた。いろいろな同業組合間の分業は姿をけして、個々の作業場そのものの内部の分業があらわれた。
だが、市場はますますひろがり、需要はますますふえた。マニュファクチュアでも、もう不十分になった。そのとき、蒸気機関と機械とが工業生産を変革した。マニュファクチュアにかわって近代的大工業が、工業的中産身分にかわって工業的百万長者、全工業軍の指揮官たち、すなわち近代ブルジョアが、あらわれた。
大工業は世界市場をつくりだした。これは、アメリカの発見によってすでに準備されていたのである。世界市場は、商業に、航海に、陸上交通に、はかりしれない発展をもたらし、その発展がまた、工業の拡大に作用した。そして、工業、商業、航海、鉄道の拡大に比例して、ブルジョアジーは発展し、その資本をふやし、中世からうけつがれたすべての階級を背後におしやった。
これで知られるように、近代ブルジョアジー自身が、長い発展行程の産物、生産と交通との様式におけるかずかずの変革の産物なのである。
ブルジョアジーのこれらの発展段階は、いずれも、それに応じた政治的前進をともなっていた。ブルジョアジーは、封建領主の支配下にあっては被圧迫身分であり、コンミューン(*)においては武装した自治団体であり、あるところでは独立の都市共和国、あるところでは君主制下の納税義務を負う第三身分〔17〕であり、ついでマニュファクチュアの時代には身分君主制〔18〕あるいは絶対君主制下の貴族の対抗勢力であり、また、一般に大君主国の主要な基礎であり、そして最後に、大工業と世界市場とが形成されてからは、近代代議制国家のなかで排他的な政治的支配をかちとった。近代の国家権力は、全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会にすぎない。
(*) 「コンミューン」とは、フランスでようやくうまれようとしていた都市が、まだ封建領主と親方から地方的自治と「第三身分」としての政治的権利とを獲得しない以前から、採用していた名であった。一般的にいって、本書では、ブルジョアジーの経済的発達についてはイギリスを、その政治的発達についてはフランスを、典型的な国として引例している。〔一八八八年英語版へのエンゲルスの注〕
イタリアとフランスの都市の市民は、彼らの封建領主から最初の自治権を買いとるか、うばいとったのちに、自分らの都市共同体をこう読んでいた。〔一八九〇年ドイツ語版へのエンゲルスの注〕
ブルジョアジーは、歴史上きわめて革命的な役割をはたした。
ブルジョアジーは、彼らが支配権をにぎったところでは、封建的な、家父長制的な、牧歌的な関係を、のこらず破壊した。人間をそのうまれながらの目上とむすびつけていた色とりどりの封建的なきずなを無慈悲にひきちぎり、人と人とのあいだに、ろこつな利害、無情な「金勘定」のほかには、なんのきずなをものこさなかった。ブルジョアジーは、敬虔(ケン)な法悦、騎士の感激、町人の感傷といった神聖な情熱を、利己的な打算の冷水におぼらせた。彼らは、個人の品位を交換価値に解消し、特許状でゆるされ、りっぱにかちえられたかずかずの特権を、ただ一つの非情な商業の自由ととりかえてしまった。一言でいえば、ブルジョアジーは、宗教的・政治的な幻想でおおわれた搾取のかわりに、公然たる、あつかましい、直接の、むきだしの搾取をおいた。
ブルジョアジーは、これまで貴いものとされ、敬虔なおそれをもってあおがれてきたいっさいの仕事から、その後光をはぎとった。彼らは、医者や法律家や僧侶や詩人や学者を、自分たちのおやといの賃金労働者にかえてしまった。
ブルジョアジーは、家族関係からその感動的な感傷のヴェールをはぎとって、ただの金銭関係に還元した。
ブルジョアジーは、反動がしきりに讃美する中世の蛮力の発揮が怠惰をきわめた安逸生活と格好な表裏一体をなしていたことを、暴露した。ブルジョアジーは、人間の活動がどれほどのことをやれるかを、はじめてあきらかにした。彼らは、エジプトのピラミッドやローマの水道やゴシックの大伽藍とはまったく類を異にした大事業を完成し、民族移動〔19〕や十字軍〔20〕とはまったくちがった種類の大遠征をおこなった。
ブルジョアジーは、生産用具を、したがって生産関係を、したがって全社会全体を、たえず変革しないでは生きてゆくことができない。これに反して、古い生産様式を変化させずに維持することが、これまでのすべての産業階級の第一の生存条件であった。生産のたえまない変革、あらゆる社会状態のたえまない動揺、永遠の不安定と変動とは、ブルジョア時代を以前のいっさいの時代から区別する。あらゆる固定した、さびついた関係は、それにともなう年ふりた貴い観念や見解とともに解体され、新しく形成された関係は、すべて化石化するひまもないうちに古くさくなる。すべて固定的・恒常的なものは煙ときえ、すべて神聖なものはけがされ、こうして人間はついに、彼らの生活状態、彼らの相互の関係を、ひややかな目でみつめざるをえなくなる。
自己の生産物にたいしてたえず販路をひろげなければならない必要は、ブルジョアジーを駆って全地球をかけまわらせる。彼らは、いたるところに巣をつくり、いたるところに住みつき、いたるところに取引先をつくらなければならない。
ブルジョアジーは、世界市場の開発を通じて、あらゆる国々の生産と消費とを超国籍的(コスモポリティッシュ)なものにした。彼らは、産業の足もとからその民族的な基盤をとりさって、反動家どもをいたくかなしませた。古来の民族的産業はすでに破壊されてしまい、また、日に日に破壊されている。それは、新しい工業によって駆逐されてゆく。そして、この新しい工業を採用することはすべての文明民族の死活問題となる。それは、もはや国内の原料ではなく、きわめて遠い地方で産する原料を加工する工業であり、その製品は、自国内ばかりでなく、同時に世界のあらゆる地域で消費される。国産品によってみたされていた昔の欲望にかわって、もっとも遠くはなれた国々や風土の産物によってはじめてみたされる新しい欲望があらわれる。昔の地方的・一国的な自給自足と隔離のかわりに、全面的な通交、諸民族の全面的な依存関係があらわれる。そして、精神的な生産においてもまた物質的生産と同様である。個々の民族の精神的産物は共同の財産となる。民族的な一面性や偏狭はますます不可能になり、多くの民族文学や地方文学から、一つの世界文学が形成される。
ブルジョアジーは、すべての生産用具の急速な改善によって、また無限に容易になった交通によって、あらゆる民族を、もっとも未開な民族までも、文明にひきいれる。彼らの商品の安い価格は、中国の城壁をもことごとくうちくずし、未開人の頑固きわまる外国人ぎらいをも降伏させる重砲である。ブルジョアジーはすべての民族に、滅亡したくなければブルジョアジーの生産様式を採用するように強制する。彼らはすべての民族に、いわゆる文明を自国にとりいれること、すなわちブルジョアになることを、強制する。一言でいえば、ブルジョアジーは、自分の姿に似せて一つの世界をつくりだすのである。
ブルジョアジーは、農村を都市の支配下に屈従させた。彼らは、巨大な都市をつくりだし、都市人口の数を農村人口にくらべていちじるしく増加させた。このようにして、人口のかなりの部分を農村生活の愚昧からすくいだした。ブルジョアジーは、農村を都市に従属させたように、未開国と半開国とを文明国に、農業国民をブルジョア国民に、東洋を西洋に、従属させた。
ブルジョアジーは、しだいに、生産手段、所有および人口の分散をなくしてゆく。彼らは、人口をよせあつめ、生産手段を集中し、所有を少数者の手中に集積した。その必然の結果は政治上の中央集権であった。それぞれに利害を異にし、法律や政府や税制のちがう、ほとんどただ連合していただけの独立の諸州が、一つの国民、一つの政府、一つの法律、一つの全国的な階級利害、一つの税関線に、結集された。
ブルジョアジーは、彼らの百年たらずの階級支配のあいだに、過去の全時代をあわせたよりもいっそう大量で、いっそう巨大な生産力をつくりだした。自然力の征服、機械、工業と農業とへの化学の応用、汽船航海、鉄道、電信、全大陸の開墾、河川航路の開発、魔法で地下からよびだしたような全住民群――これほどの生産力が社会的労働の胎内にねむっていると、以前のどの世紀が予想したであろうか?
ところで、われわれがすでに見たように、ブルジョアジーの成長する土台となった生産手段と交通手段とは、封建社会のなかでつくりだされたものである。この生産手段と交通手段との発展のある段階で、封建社会が生産し交換をおこなっていた関係、農業と工業との封建的組織、一言でいえば、封建的所有関係は、すでに発展した生産力にもはや適合しなくなった。それらは生産を促進しないで、かえってこれをさまたげた。それらはすべて桎梏となった。それらは爆破されなければならなかった。そして爆破された。
これにかわって自由競争が、それに適合した社会的ならびに政治的制度、すなわちブルジョア階級の経済的ならびに政治的支配をともなってあらわれた。
現在われわれの目のまえに、これに似た運動が進行している。ブルジョア的生産関係と交通関係、ブルジョア的所有関係、すなわちこのように強大な生産手段と交通手段とを魔法でよびだした近代ブルジョア社会は、自分がよびだした地下の魔物を、もはや統御しきれなくなった魔法使に似ている。この数十年来、工業と商業との歴史は、もはや、ブルジョアジーとその支配の生存条件である近代的生産関係、所有関係にたいする、近代的生産力の反逆の歴史でしかない。これには、週期的にくりかえされるごとに、ますますはなはだしく、全ブルジョア社会の存立をおびやかす商業恐慌をあげれば、十分である。商業恐慌のときには、既製の生産物ばかりか、すでにはたらいている生産力までも、その大部分が、週期的に破壊される。恐慌期には、これまでのどの時代の目にも不条理と思われたであろうような社会的疫病――すなわち過剰生産の疫病が、発生する。社会は突然一時的な野蛮状態につきもどされたことに気づく。なにか飢饉が、なにか全般的な破壊戦争が、社会からいっさいの生活資料の供給を断ったかのように見える。工業も商業も、破壊されたように見える。いったいなぜか? あまりにも多くの文明、あまりにも多くの生活資料、あまりにも多くの工業、あまりにも多くの商業を、社会がもっているからである。社会の使用にゆだねられている生産力は、もはや、ブルジョア文明とブルジョア的所有関係を促進する役にはたたない。反対に、この生産力は、この所有関係にとって強大になりすぎてしまい、これによってさまたげられている。そして、生産力がこの障害にうちかつやいなや、それは全ブルジョア社会を無秩序におとしいれ、ブルジョア的所有の存立をあやうくする。ブルジョア的諸関係は、あまりにもせまくなって、自分のつくりだした富をいれえなくなった。――ブルジョアジーはなにによってこの恐慌を克服するか? 一方では、おびただしい生産力をやむなく破壊することにより、他方では、新しい市場を獲得し、また古くからの市場をいっそう徹底的に搾取することによって。結局、それはどういうことか? より全面的な、より強大な恐慌を準備し、恐慌を予防する手段をすくなくすることによって。
ブルジョアジーが封建制度をうちたおすのにもちいたその武器が、いまや、ブルジョアジー自身にむけられている。
だが、ブルジョアジーは、自分に死をもたらす武器をきたえたばかりではない。彼らは、この武器をとるべき人々をもつくりだした。――すなわち、近代労働者、プロレタリアを。
ブルジョアジーすなわち資本が発達するに比例して、プロレタリアートすなわち近代労働者の階級も発達する。彼らは、仕事のあるあいだだけしか生きられず、そしてその労働が資本をふやすあいだだけしか仕事にありつけない。自分の身を切り売りしなければならないこれらの労働者は、他のあらゆる売買される品物と同じように、一つの商品である。したがってまた、同じように、あらゆる競争の浮沈、あらゆる市場の変動にさらされている。
プロレタリアの労働は、機械の普及と分業との結果、その独立性と、したがってまた労働者にとっての魅力とを、まったくうしなってしまった。プロレタリアは機械のたんなる付属物となり、きわめて単純単調な、ごくたやすくおぼえられる操作を要求されるにすぎない。したがって、労働者の要する費用は、ほとんど、彼の生命をささえ、彼の種属を繁殖させるために必要な生活資料だけにかぎられる。ところで、一商品の価格は、したがってまた労働の価格も、その生産費にひとしい。したがって、労働のいとわしさがませばますほど、賃金はさがってゆく。それだけではない。機械と分業とがすすめばすすむほど、労働時間の延長によってであれ、一定の時間内に要求される労働の増加、機械の運転速度の増大等々によってであれ、労働の量もまた増大する。
近代工業は、家父長制的な親方の小さな仕事部屋を工業資本家の大工場にかえた。労働者大衆は、工場につめこまれて軍隊式に編成される。彼らは、平の産業兵として、下仕官と将校との完全な職階制の監督のもとにおかれる。彼らは、ブルジョア階級の、ブルジョア国家の奴隷であるばかりでなく、毎日毎時間、機械の、監督の、そしてなによりも工場主たる個々のブルジョア自身の奴隷にされている。この専制は、営利がその終局の目的である、と公然と宣言するようになればなるほど、ますますけちくさく、ますますあさましく、ますます腹立たしいものとなる。
手の労働が熟練と力わざを要しなくなればなるほど、つまり近代工業が発展すればするほど、男子の労働は、ますます婦人や子供の労働によって駆逐されてゆく。性や年齢のちがいは、労働者階級にとってもはやなんの社会的な意味ももたない。いまでは、年齢と性とに応じて費用のちがう労働用具があるだけである。
工場主による労働者の搾取が一段落して、労働者がその賃金を現金ではらってもらうと、たちまちブルジョアジーの他の部分、家主、小売商人、質屋などが、彼におそいかかる。
これまでの下層の中産身分、すなわち、小工業者や、小商人や、小金利生活者や、手工業者や、農民や、これらすべての階級は、なかばは彼らの小資本が大工業の経営に十分でなく、より大きな資本家との競争にまけるために、なかばは彼らの熟練が新しい生産様式によって価値をうばわれるために、プロレタリアートに転落する。こうしてプロレタリアートは、人口中のあらゆる階級から補充される。
プロレタリアートは種々の発展段階を順をおってとおる。ブルジョアジーにたいする彼らの闘争は、その存在とともにはじまる。
最初は個々の労働者が、ついで一工場の労働者が、ついで一地区の一労働部門の労働者が、彼らを直接に搾取する個々のブルジョアとたたかう。彼らは、その攻撃を、ブルジョア的生産関係にむけるばかりではなく、生産用具そのものにもむける。彼らは、競争の相手である外国商品を破壊し、機械をうちこわし、工場に放火する。彼らは、すでに中世の労働者のほろびさった地位をとりもどそうと努力する。
この段階では、労働者は、全国に分散し、競争のためにばらばらになっている大衆である。もし労働者がいくらか大量的に結集するとすれば、それはまだ、彼ら自身の団結の結果ではなく、ブルジョアジーの団結の結果である。というのは、ブルジョアジーは、自分自身の政治的目的を達成するために全プロレタリアートを運動にひきいれなければならず、またしばらくはそれができるのである。だから、この段階では、プロレタリアは、自分の敵とではなく、敵の敵とたたかう。すなわち、絶対君主制の残存物、地主、非工業的ブルジョア、小ブルジョアとたたかう。全歴史的運動はこうしてブルジョアジーの手に集中され、このようにしてかちとられる勝利はすべてブルジョアジーの勝利となる。
だが、工業の発展とともに、プロレタリアートはその数をますばかりではない。それはますます大きな集団に結集され、その力は増大し、そしてますます自分らの力を感じるようになる。機械がますます労働の差異をけしさり、賃金をほとんどいたるところで同一の低い水準にひきさげるため、プロレタリアートの内部の利害も生活状態も、ますます均等になってくる。ブルジョア相互の競争の増大と、そこからおこる商品恐慌とは、労働者の賃金をますます不定なものとする。ますます急速にすすむたえまない機械の改良は、労働者の全生計をいよいよ不安定なものとする。個々の労働者と個々のブルジョアとの衝突は、ますます二つの階級の衝突の性質をおびてくる。労働者はブルジョアに対抗する組合をつくりはじめる。彼らは、その賃金を維持するために同盟する。彼らは、このようなときおりの反抗にそなえるために、永続的な結社さえもつくる。ところどころで闘争は暴動となって爆発する。
労働者はときどき勝利を得るが、それはほんの一時にすぎない。彼らの闘争の真の成果は、直接の結果にはなく、労働者の団結がますます拡大することにある。大工業によってつくりだされる交通機関の発達は、ちがった地方の労働者をたがいに連絡させ、労働者の団結を促進する。だが、いたるところで同じ性質をもつ多くの地方的闘争を、一つの全国的闘争に、すなわち階級闘争に結集するには、ただこのような連絡さえあればたりるのである。ところで、階級闘争はすべて政治闘争である。田舎道しかもたなかった中世の市民が数世紀を要したこの団結を、鉄道をもつ近代プロレタリアは数年にして達成する。
この、階級への、それとともにまた政党への、プロレタリアの組織化は、労働者自身のあいだの競争によってたえずくりかえしうちくだかれる。だが、それはいつも、いっそう強力な、いっそう強固な、いっそう有力なものとなって復活する。それは、ブルジョアジーのあいだの分裂を利用することによって、法律の形で労働者の個々の利益の承認をかちとる。たとえば、イギリスの十時間労働法がそれである。
一般に旧社会内部の衝突は、多くの点でプロレタリアートの発展の歩みをはやめる。ブルジョアジーはたえず闘いのうちにある。はじめは貴族とたたかい、のちにはその利害が工業の進歩とあいいれなくなったブルジョアジー自身の一部とたたかい、またつねにあらゆる外国のブルジョアジーとたたかっている。すべてこれらの闘争においてブルジョアジーは、プロレタリアートに呼びかけ、その助けをもとめ、こうしてプロレタリアートを政治運動にひきいれざるをえない。このようにして、ブルジョアジー自身が、自分自身の文化の要素を、いいかえれば自分自身にむけられる武器を、プロレタリアートに供給する。
さらに、すでに見たように、工業の発展によって支配階級の多くの構成部分がプロレタリアートのなかにつきおとされるか、あるいはすくなくともその生活条件をおびやかされる。彼らもまた、多くの教養の要素をプロレタリアートに供給する。
最後に、階級闘争が決戦に近づく時期には、支配階級の内部、全旧社会の内部の解体過程は、きわめて激しい、鋭い性質をおび、そのために支配階級の一小部分はこの階級から離脱し、革命的階級に、すなわち未来をその手にになう階級に加担する。したがって、以前に貴族の一部がブルジョアジーのがわにうつったように、いまやブルジョアジーの一部が、とくに全歴史的運動を理論的に理解するところまで努力して到達したブルジョア思想家(イデオローグ)の一部が、プロレタリアートのがわにうつってくる。
今日ブルジョアジーに対立しているすべての階級のなかで、ひとりプロレタリアートだけが、真に革命的な階級である。その他の階級は、大工業とともにおとろえ没落する。プロレタリアートは大工業のもっとも特有な産物である。
中産身分、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらがブルジョアジーとたたかうのは、すべて中産身分としての彼らの地位を没落からまもるためである。彼らは、したがって革命的ではなく保守的である。それだけでなく、彼らは反動的でさえある。なぜなら、彼らは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。もし彼らが革命的になるとすれば、それは彼らが、自分らがプロレタリアートへ移行する日のせまっていることを見てのことである。そのばあいには彼らは、彼らの現在の利益ではなしに将来の利益をまもっているのであり、彼ら自身の立場をすててプロレタリアートの立場に立っているのである。
ルンペン・プロレタリアート、旧社会の最下層からうみだされるこの無気力な腐敗物は、ところどころでプロレタリア革命によって運動になげこまれるが、彼らの生活状態全体から見れば、むしろよろこんで反動的陰謀に買収されやすい連中である。
プロレタリアートの生活条件では、旧社会の生活条件はすでに破壊されている。プロレタリアは無所有である。彼の妻子にたいする関係には、ブルジョア的家族関係と共通するものはもはやなにもない。近代的工業労働、資本への近代的隷属は、イギリスでもフランスでも、またアメリカでもドイツでも、プロレタリアからすべての民族的な特徴をはぎとった。法律、道徳、宗教は、プロレタリアにとっては、そのいずれも、背後にブルジョアの利益をかくしもったブルジョア的偏見である。
すべてこれまでに支配権をにぎった階級は、自分自身の取得の諸条件に全社会をしたがわせることによって、自分のすでに獲得した生活上の地位を確保しようとつとめた。プロレタリアは、自分自身のこれまでの取得方法と、それと同時にまたこれまでの取得方法の全体を廃止することによってのみ、はじめて社会的生産力を獲得することができる。プロレタリアには、確保すべき自分のものはなに一つない。彼らのしなければならぬことは、これまでのすべての私的安全と私的保証とを破壊することである。
すべてこれまでの運動は、少数者の運動か、もしくは少数者の利益のための運動であった。プロレタリア運動は、圧倒的な多数者の利益のための圧倒的な多数者の自主的な運動である。現代社会の最下層であるプロレタリアートは、公的社会を構成する諸層の全上部構造を空中にふきとばさなければ、おきあがることも、身をのばすこともできない。
ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの闘争は、その内容からではないが、その形式上、最初は民族的である。いずれの国のプロレタリアートも、当然まず自国のブルジョアジーをかたづけなければならない。
プロレタリアートの発展のもっとも一般的な諸段階をのべながら、われわれは、現存社会の内部の多かれすくなかれかくされた内乱をあとづけ、ついにそれが公然たる革命となって爆発し、そしてプロレタリアートがブルジョアジーを暴力的に転覆して、自己の支配権をうちたてるところまで到達した。
われわれがすでに見てきたように、すべてこれまでの社会は、抑圧する階級と抑圧される階級との対立のうえに立っていた。だが、一つの階級を抑圧しうるためには、抑圧される階級に、すくなくとも奴隷的な生存をつづけられるだけの条件が保障されていなければならない。農奴は農奴制のもとでコンミューンの一員になりあがり、小市民は封建的絶対主義のくびきのもとでブルジョアになりあがった。これに反して、近代の労働者は、工業の進歩とともに向上するどころか、反対に、自分自身の階級の生存条件以下にますますしずんでゆく。労働者は窮民となり、極貧は人口や富の増大よりもなお急速に増大する。このことからあきらかになるのは、ブルジョアジーには、もうこれ以上社会の支配階級としてとどまり、自分の階級の生存条件を規制的な法則として社会に強制する能力がなくなったということである。彼らに支配する能力がないというのは、彼らには、彼らの奴隷にその奴隷制の内部での生存さえも保障する能力がないからであり、自分が奴隷にやしなわれるどころか、かえって自分で奴隷をやしなわなければならないほどの状態に奴隷をしずませざるをえなくなっているからである。社会は、もはやブルジョアジーのもとでは生きてゆくことができない。すなわち、ブルジョアジーの生存は、もはや社会とあいいれないのである。
ブルジョア階級の存在と支配とのためのもっとも根本的な条件は、私人の手中への富の集積、資本の形成と増大である。資本の条件は賃労働である。賃労働はもっぱら労働者相互の競争にもとづいて成立する。ブルジョアジーがいやおうなしにその担い手となっている工業の進歩は、競争による労働者の孤立のかわりに結合による彼らの革命的団結をつくりだす。だから、大工業の発展とともに、ブルジョアジーが生産し、その生産物を取得するための土台そのものが、ブルジョアジーの足もとからとりさられるのだ。ブルジョアジーはなによりもまず自分自身の墓堀人をつくりだす。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利とは、ともに避けられない。
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