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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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§ 共産主義の原理
   ――共産主義者の信条草案――

☆ 一 問 共産主義とはなにか?
    答 共産主義とは、プロレタリアート解放の諸条件にかんする学説である。
☆ 二 問 プロレタリアートとはなにか?
    答 プロレタリアートとは、ただその労働〔力〕を売ることにだけによって自分の生活をささえ、どんな種類の資本の利潤によってでも、自分の生活をささえていない、社会階級をいう。プロレタリアートの禍福、その生死、その全生存は、労働にたいする需要のあるなし、したがって景気のよしあしや、制御できない競争の変動によって左右されるのである。要するに、プロレタリアートまたはプロレタリア階級とは、一九世紀〔以後〕の労働する階級のことである。
☆ 三 問 では、プロレタリアートは、いつでもいたわけではないか?
    答 そうだ。貧乏ではたらく階級は、いつでもいた。そしてまた、はたらく階級は、ほとんど貧乏であった。しかし、いまいったような状態でくらしていた貧乏人、労働者、すなわちプロレタリアというものは、いつでもいたわけではない。ちょうど、競争が、いつでも自由で、また無拘束であったわけでなかったのと同じことである。
☆ 四 問 プロレタリアートは、いかにして発生したか?
    答 プロレタリアートは、産業革命によって発生した。その産業革命は、一八世紀の後半にまずイギリスにおこり、それから世界のあらゆる文明国で、つぎつぎにおこったものである。この産業革命は、蒸気機関や、さまざまな紡績機械や、力織機、その他あらゆる機械装置の発明によってひきおこされた。これらの機械は非常に高価で大資本家だけが調達できたのだが、いままでの生産様式全体をかえてしまい、これまでの労働者をおしのけた。機械はこの労働者がその不完全な紡ぎ車や機(ハタ)でつくるよりは安価な、良質な商品をつくることにより、それができたのだ。こうして、これらの機械は、工業をそっくり大資本家の手にひきわたし、労働者のわずかな財産(道具、織機、等々)をまったくがらくたにした。そのため、資本家は、まもなくすべてのものを自分の手におさめたのに、労働者の手にはなに一つのこらなかった。こうしてまず、衣料の製造に工場制度が導入された。――いったん機械と工場制度とを導入する衝動があたえられると、たちまち、そのほかのあらゆる工業部門、おとに捺染、印刷、製陶、金属品工業にも、この制度が使用された。労働は、ますます個々の労働者のあいだに分割されるようになり、以前は一製品を完全につくっていた労働者も、いまではこの製品の一部分だけをつくった。この分業は、生産物を、いっそう急速に、したがっていっそう安価に、提供できるようにした。それは、ひとりびとりの労働者の作業を、はなはだ単純な、短時間ごとに同じことをくりかえす機械的な操作に還元した。機械をつかうと、この操作は、人間と同じどころか、むしろはるかにうまくやることができた。こういうふうにして、これらすべての工業部門では、ちょうど紡績業や織物業のように、あいついで蒸気力や機械や工場制度が支配するにいたった。それと同時に、すべての工業部門は完全に大資本家の手にうつり、労働者は、ここでもまた、その独立性の最後の一片までもうばいとられてしまった。本来のマニュファクチュアのほかに、手工業もまたしだいに工場制度に支配されるようになったが、それは、ここでもまた、大資本家たちが莫大な費用の節約ができ、分業が十分おこなわれる大作業場を建設することによって、小親方をどしどし駆逐していったからであった。こうして現在文明諸国では、ほとんどすべての労働部門が工場式に経営され、ほとんどすべての労働部門で手工業やマニュファクチュアが大工業のためにおしのけられてしまったという状態になっている。――そのために、これまでの中間層とくに小手工業の親方はますます破滅し、労働者の状態は以前とはまったくかわり、だんだんと他のすべてのものをのみこむ二つの新しい階級がつくりだされた。すなわち、
 T 大資本家の階級。これは、すべての文明諸国で、いますでにあらゆる生活資料と、その生活資料の生産に必要な原料と手段(機械、工場)とを、ほとんど一手に独占している。これが、ブルジョア階級またはブルジョアジーである。
 U まったくの無産階級。これは、生計に必要な生活資料を得るためには、自分の労働〔力〕をブルジョアに売るのをたよりにしている。この階級のことを、プロレタリア階級またはプロレタリアートという。
☆ 五 問 プロレタリアはこのようにその労働〔力〕をブルジョアジーに売るわけであるが、それはどんな条件でなされるか?
    答 労働〔力〕は他のすべての商品と同じように一つの商品であるから、その価格は、他の商品のばあいと精密に同じ法則によってきめられる。大工業または自由競争の支配――この二つは、あとで説くように結局同じものであるが――のもとでは、一商品の価格は、平均してみれば、いつでもこの商品の生産費にひとしい。だから、労働〔力〕の価格も、同様にその生産費にひとしい。ところが、この労働〔力〕の生産費は、労働者がつづけて労働しうる状態にあるために、そして労働者階級が死にたえないために、ちょうど必要なだけの生活資料からなりたっている。だから、労働者は、自分の労働〔力〕の償いとして、この目的に必要なものだけしかうけとらないであろう。こうして、労働の価格すなわち賃金は、生計に必要な最低、最小限となるだろう。しかし、景気はよいときもあればわるいときもあるのだから、彼も、あるときはこれより多くの、あるときはこれよりすくない賃金をもらうだろう。まさに工場主が、自分の商品にたいして、あるときはその生産費より多くの、あるときはそれよりすくない代金をもらうように。しかし、工場主が、景気のよいときとわるいときを平均すれば、自分の商品の対価としてうけとるものは、とにかくその生産費より多くもすくなくもないように、労働者がうけとるものもまた、平均すれば、たしかにこの生計に必要な最小限より多くもすくなくもないのである。しかしながら、この賃金の経済法則は、大工業がすべての労働部門を支配すればするほど、ますます厳格におこなわれるであろう。
☆ 六 問 産業革命のまえには、どんなはたらく階級がいたか?
    答 社会の発展段階がちがうにしたがって、労働する階級はそれぞれちがった状態でくらしていたし、また所有し支配する階級にたいするその地位もそれぞれちがっていた。古代には、はたらくものは所有者の奴隷であった。それは、多くの後進国で、またアメリカ合衆国の南部でさえ、いまだにそうである。中世には、はたらくものは土地所有貴族の農奴であった。今日でもまだ、ハンガリア、ポーランド、ロシアではそうである。中世および産業革命までは、そのほか都市には手工業の職人があって、小ブルジョアの親方のもとにやとわれてはたらいていた。そして、マニュファクチュアが発展するにつれてマニュファクチュア労働者もだんだんあらわれてきたが、これはすでに大資本家にやとわれていた。
☆ 七 問 プロレタリアは、どういう点で奴隷とちがうか?
    答 奴隷は、いちど売られたら売られきりである。ところが、プロレタリアは、日々刻々、自分を売らなければならない。個々の奴隷は、一所有者の財産であって、この所有者の利益という点だけからいっても、どんなみじめな生存にしろ、とにかく生存の保証がある。ところが、個々のプロレタリアは、いわばブルジョア階級全体の財産であって、ブルジョアのだれかがプロレタリアの労働〔力〕を必要とするときにだけ労働〔力〕を買いとられるので、〔個々人としては〕なんら生存の保証はない。この生存は、ただプロレタリア階級全体に保証されているだけである。奴隷は競争の圏外にあるが、プロレタリアは競争のなかにあって、競争のあらゆる変動を身に感じる。奴隷は、一個の物とみなされて、市民社会の一員とはみとめられないが、プロレタリアは、一個の人間として、市民社会の一員としてみとめられている。だから、奴隷はプロレタリアよりは生存条件のよいこともあろうが、しかし、プロレタリアは奴隷よりも社会のいっそう高い発展段階のものであって、またそれ自身としても奴隷よりは高い段階に立っているのである。奴隷がみずからを解放するには、すべての私的所有関係のなかで奴隷関係だけを廃止し、これによってまたみずからプロレタリアになればよいのだが、プロレタリアは、私的所有一般をなくすことによってはじめて解放されうるのである。
☆ 八 問 プロレタリアは、どういう点で農奴とちがうか?
    答 農奴は、収穫の一部をおさめたり、労役に服したりする代償として、生産用具、すなわち一片の土地の占有〔権〕と用益〔権〕とをもっている。プロレタリアは、生産物の一部をうけとる代償として、他人の生産用具をつかってこの他人のためにはたらく。農奴はさしだし、プロレタリアはうけとるのである。農奴は生存の保証があるが、プロレタリアはそれがない。農奴は競争の圏外にあり、プロレタリアはそのなかにある。農奴は、都会に逃げだして、そこで手工業者となるか、または労役や生産物でなしに、金銭を地主におさめて自由借地農になるか、あるいはまた、自分の封建領主を追いだして、自分自身土地の所有者になるか、つまりどういう方法をとるにせよ、とにかく有産階級になり、競争の仲間入りをすることによって自分自身を解放するのである。プロレタリアは、競争や、私的所有や、またすべての階級対立をなくすことによって、解放されるのである。
☆ 九 問 プロレタリアは、どういう点で手工業者とちがうか?
   〔答 欠〕
☆ 一〇 問 プロレタリアは、どういう点でマニュファクチュア労働者とちがうか?
    答 一六世紀から一八世紀までのマニュファクチュア労働者は、ほとんどどこでも、まだ生産用具を自分の所有物としてもっていた。すなわち、自分のつかう機械や家族のつかう紡ぎ車、ひまひまに自分でたがやす小さい畑をもっていた。プロレタリアは、こんなものをまったくもっていない。マニュファクチュア労働者は、ほとんどいつでも、いなかで、そして自分の地主または雇主と多かれすくなかれ家父長制的関係のうちで生活している。プロレタリアは、たいていは大都市で生活し、その雇主と純然たる金銭関係にある。マニュファクチュア労働者は、大工業によってその家父長制的関係からひきはなされ、まだもっていた所有物をうしない、そこではじめてプロレタリアになるのである。
☆ 一一 問 産業革命のために、また社会がブルジョアとプロレタリアとに分裂したために、まずはじめにおこった結果は、なんであったか?
    答 第一に、機械作業によって工業生産物の価格がますます安価になってゆく結果、マニュファクチュアあるいは手労働をもとにした工業の古い体制が、世界各国で完全に破壊されてしまった。すべての半未開国は、これまで、歴史の発展にたいして多かれすくなかれ円がなく、その工業がマニュファクチュアをもとにしていたが、このためむりやりに鎖国状態からひきはなされた。それらの国は、イギリス人の安価な商品を買いいれて、自国のマニュファクチュア労働者を没落させた。こうして、幾千年来すこしも進歩がなかったインドのような国もすっかり変革され、中国でさえも、今日では革命に近づいている。今日イギリスで発明される新しい機械が、一年もたたないうちに、幾百万の中国労働者からパンをうばうというようになった。こうして、この大工業は、全世界の国民をたがいにむすびつけ、すべての地方的な小市場をいっしょにして一つの世界市場とし、いたるところに文明と進歩とを準備させた。そして、もう今日では、文明諸国におこるすべてのことは他のすべての国々に影響せずにはいないほどまでになったのである。だから、もし現在イギリスまたはフランスで労働者が解放されたとすれば、それはかならず、ひきつづいて他のすべての国々にも革命をおこさせ、おそかれはやかれ、その国々の労働者の解放をもまねくというほどになった。
 第二に、マニュファクチュアにかわって大工業がおこったところではどこでも、ブルジョアジーを、その富と権力とを、最高度に発展させ、彼らを国内第一級の階級にしてしまっている。その結果として、ブルジョアジーが政治権力をにぎり、これまでの支配階級、すなわち貴族と同業組合員、およびこの両者を代表する絶対王権をおしのけた。ブルジョアジーは、貴族の勢力をうちほろぼし、長子相続権や、土地の売買禁止や、その他いっさいの貴族の特権を廃止した。同業組合の勢力をうちたおして、またいっさいの同業組合や手工業上の特権などを廃止した。この両者のかわりに、彼らは自由競争をもってきた。すなわち、だれでも任意の産業部門をいとなむ権利をもち、そして、経営に必要な資本のたりないこと以外には、なにもその営みをさまたげるものがないというような社会状態をもってきたのである。だから、自由競争をみちびきいれることは、こんご、社会の成員はただ各自の資本に大小があるという点にだけ不平等であるということ、資本こそは決定的な力であり、したがって資本家すなわちブルジョアが社会の第一階級になったことを、公然と宣言することである。しかしながら、自由競争は、大工業の始まりには、必要欠くべからざるものである。なぜなら、それは大工業がおこりうる唯一の社会状態だからである。ブルジョアジーは、こうして貴族と同業組合員との社会上の勢力をうちほろぼしたのち、また彼らの政治上の勢力をもうちほろぼした。そして、社会のなかで第一階級になりあがったように、政治的形態においてもまたみずから第一階級たることを宣言した。彼らは、代議制の採用によってこれをなしとげたのだが、代議制というのは、法律のまえでのブルジョア的平等、すなわち自由競争の法律的承認にもとづくものであって、ヨーロッパ諸国では立憲君主制の形で採用された。この立憲君主制のもとでは、一定の資本をもったもの、したがってブルジョアだけが、選挙権をもっており、これらのブルジョア選挙人が代議士をえらび、これらのブルジョア代議士が租税拒否の権利をつかってブルジョア政府をえらぶのである。
 第三に、産業革命はいたるところで、それがブルジョアジーを発達させたのと同じ割合で、プロレタリアートを発達させた。ブルジョアが富むにつれてプロレタリアはその数をました。なぜなら、プロレタリアはただ資本だけがこれをやとうことができ、また資本は労働をやとってはじめてふえるのであるから、プロレタリアートの増加は、資本の増加とちょうど歩調をあわせるのである。同時にまた、産業革命は、ブルジョアとプロレタリアとを産業の経営にもっとも有利な大都会にあつめ、こうして大ぜいの人を一つの場所に密集させることによって、プロレタリアに、彼ら自身の強さを意識させる。さらに、産業革命がますます発展して、手労働を駆逐する新しい機械がますます多く発明されるにしたがって、大工業は、まえにいったとおり、賃金を最低限におしさげ、これがプロレタリアートの状態をますますたえがたいものにする。こうして、それは、一方ではプロレタリアートの不満が増大することにより、他方ではプロレタリアートの勢力が増大することによって、プロレタリアートによる社会革命を準備するのである。
☆ 一二 問 産業革命の結果は、そのうえになにであったか?
    答 大工業は、蒸気機関その他の機械をつくりだし、これを手段として、工業生産をいっそう短い時間といっそうすくない費用とで無限に増加させた。生産がたやすくなったので、この大工業から必然にうまれてくる自由競争が、すぐさま、非常に激しい性格をもつようになった。多くの資本家が工業に身を投じ、すぐに生産が消費を追いこした。その結果は、製造された商品が売れなくなること、いわゆる商業恐慌がはじまることであった。工場は休業しなければならず、工場主は破産し、労働者は食いはぐれた。極度の窮乏がいたるところにおこった。しばらくすると、過剰な生産物もさばけてしまい、工場もまた仕事をはじめ、労賃はあがり、しだいに景気もまたいつもよりはよくなった。しかしまもなく、またもやあまりに多くの商品が生産され、新しい恐慌がはじまり、この恐慌もまえとまったく同じ経過をたどった。このように、今世紀〔一九世紀〕の初めから、産業の状態はたえず好況期と恐慌期のあいだを変動してきた。そして、ほとんど規則的に、五年から七年ごとにこのような恐慌がおこり、この恐慌は、いつも労働者のひどい貧乏や、一般的な革命的な激動や、現存状態全体にたいする最大の危険とむすびついていた。
☆ 一三 問 規則的にくりかえされるこの商業恐慌からどんな結果が出てくるか?
    答 第一に、大工業はその最初の発展段階で自分で自由競争をうみだしたにもかかわらず、いまでは、この自由競争ではまにあわなくなったこと。競争と、一般に個人による工業生産の経営とは、大工業にとって足かせになってしまい、それは爆破されなければならないし、また爆破されるであろうということ。大工業は、現在の土台のうえに経営されるかぎり、七年ごとにくりかえされる一般的な混乱によってのみ永続するのであり、この混乱はいつも全文明をおびやかし、ただプロレタリアを悲惨なめにつきおとすばかりでなく、また多数のブルジョアをも破滅させること。こうして、大工業自身をまったくすてなければならない――これは絶対に不可能である――か、さもなければ、まったく新しい社会組織、すなわち、もはやたがいに競争する個々の工場主ではなく、全社会がしっかりした計画にしたがって、またすべての人の欲望に応じて工業生産をやる、まったく新しい社会組織が、どうしても必要になるということ。
 第二に、大工業と、それによって可能になった生産の無限の拡張とのために、あらゆる生活必需品がたくさん生産されるので、社会のあらゆる成員が各自の全能力と素質とをまったく自由に発達させ発揮させうるような社会状態が可能になったということ。そこで、今日の社会で、あらゆる悲惨、あらゆる商品恐慌をうみだしている、この大工業の特質こそが、別の社会組織では、まさにこの悲惨とこの不幸をひきおこす景気の変動とを絶滅する特質であるということ。そこで、つぎのことがきわめてはっきり証明されたわけである。 (1) いまから以後、これらすべての害悪は、もはや事情に適合しなかった社会秩序の責任であるということ。そして、
 (2) 新しい社会秩序をうちたてることによって、この害悪を徹底的にのぞくための手段はちゃんとあるということ。
☆ 一四 問 この新しい社会制度は、どんな種類のものでなければならないだろうか?
    答 それは、なによりもまず、工業および一般にあらゆる生産部門の経営をたがいに競争する個人の手からとりあげ、そのかわりに、すべてこれらの生産部門を、全社会によって、すなわち共同の計算で、共同の計画にしたがって、また社会の全員を参加させて、経営させるようにしなければならないであろう。こうしてそれは、競争を廃止し、そのかわりに、協同社会をもってくるであろう。さて、個人による産業経営はその必然の結果として私的所有をともなうものであり、また競争は個々の私的所有者が産業を経営するやりかたにほかならないから、私的所有は、産業の個別的な経営や競争から切りはなすことができない。だから、私的所有もまた廃止されなければならない。そしてそのかわりに、あらゆる生産用具を共同で利用し、みなの合意によってあらゆる生産物を分配する、いわゆる財産の共有があらわれるであろう。しかも、私的所有の廃止は、産業の発展から必然的にくる社会制度全体の変革を、もっとも簡潔に特徴をつかんで総括したものであるから、共産主義者がこれを主要な要求として強調するのは当然のことである。
☆ 一五 問 では、私的所有の廃止は、もっと以前にはできなかったか?
    答 そうだ、できなかった。社会秩序のあらゆる変化や、所有関係のあらゆる変革は、古い所有関係にもう適合しなくなった新しい生産力がうまれたことの、必然的な結果であった。私的所有自身もまたこうしてできたものである。なぜなら、私的所有はいつでもあったものではなく、中世の終りごろ、当時の封建的な、また同業組合的所有に従属させることのできない一種の新しい生産がマニュファクチュアの形でうまれたとき、この古い所有関係でまにあわなくなったマニュファクチュアが、一つの新しい所有の形態すなわち私的所有をうみだしたのである。しかし、マニュファクチュアにとっても、また大工業の最初の発展段階にとっても、私的所有よりほかの所有形態はありえなかったし、私的所有を土台にした社会秩序以外の社会秩序はありえなかった。たんにすべての人のために十分にあるというだけでなく、社会資本を増加するための、生産力をいっそう発展させるためのよぶんな生産物がまだのこるほど豊富に生産されないあいだは、いつも、社会の生産力を左右する支配階級と貧乏な抑圧される階級とがかならずあった。これらの階級がどういうものかは、〔その時代の〕生産の発展段階に依存するであろう。農業にたよっていた中世には領主と農奴とがあり、中世後期の都市には同業組合の親方と職人や日雇人とがあった。一七世紀にはマニュファクチュア業主とマニュファクチュア労働者とがあり、一九世紀には大工場主とプロレタリアとがある。これまでは、生産力がまだあまり発達していなかったので、すべての人のために十分なだけ生産されてはいなかったし、また私的所有が、この生産力にとって足かせになり、じゃまにはなっていなかったことも、はっきりしている。しかし、今日では、大工業が発達したので、第一には、資本と生産力とがこれまで知られなかったほどにつくりだされ、またこの生産力を短期間のうちに、無限にふやす手段がある。第二には、この生産力が少数のブルジョアの手にあつめられているのに、国民の大多数はいよいよプロレタリアになり、ブルジョアの富がふえてゆくにつれて、プロレタリアの状態はますます貧しく、ますますたえがたいものになっている。第三には、この巨大な、たやすくふやすことのできる生産力が私的所有やブルジョアをはるかにのりこえて成長したので、それは刻々、社会秩序のうちにじつに強力な混乱をひきおこしている。そこで、今日はじめて、私的所有の廃止がたんに可能であるばかりでなく、まったく必然にさえなっているのである〔27〕。
☆ 一六 問 私的所有の廃止は、平和な方法で可能だろうか?
    答 そういうことがおこりうることはのぞましいことであろう。そして共産主義者はうたがいもなくけっしてそういうことには反対しないだろう。共産主義者は、あらゆる陰謀は無益なばかりか、むしろ有害でさえあることを知りすぎるほど知っている。また革命というものは、故意に、またほしいままにおこされることはなく、それはいかなるところ、いかなる時代にも、個々の党派とか階級全体とかの意志や指導にまったく左右されない情勢の必然的な結果としておこるということをも、共産主義者は知りすぎるほど知っている。しかしながら、彼らはまた、ほとんどすべての文明国で、プロレタリアートの発展が力ずくでおさえつけられていること、また、これによって共産主義の反対者が革命へむけてあらゆる努力をしていることも、知っている。このため、抑圧されたプロレタリアートがとどのつまり革命にかりたてられるとすれば、そのときにはわれわれ共産主義者は、現在ことばをもって擁護しているように、行動をもってプロレタリアの大義を擁護するであろう。
☆ 一七 問 私的所有の廃止は、一挙にできるだろうか?
    答 いや、できない。それはいま現にある生産力を、共同社会をうちたてるために必要な程度にまで一挙に何倍にもふやせないのと同じことだ。したがって、おそらくきたりつつあるプロレタリアートの革命は、現在の社会を徐々にのみ変革し、そしてそのために必要な生産手段の量がつくりだされたときに、はじめて私的所有を廃止することができる。
☆ 一八 問 この革命は、どんな発展の道をたどるだろうか?
    答 それはなによりもまず、民主主義的国家制度を、そしてそれによって、直接にまたは間接に、プロレタリアートの政治的支配をうちたてるであろう。イギリスのようにプロレタリアがもう人民の大多数をしめているところでは直接に、フランスやドイツのように人民の大多数がプロレタリアだけでなく小農民や小市民からなっている国々では間接に。この小農民や小市民は、いまやっとプロレタリアートのがわに移行しはじめ、その政治上のすべての利益も全面的にますますプロレタリアートに依存するようになり、したがって、遠からずプロレタリアートの要求にむすびつくにちがいない。このためには、おそらく第二の闘争が必要であろう。だがその闘争は、プロレタリアートの勝利をもっておわるほかはない。
 民主主義は、私的所有を直接に侵害しプロレタリアートの生存を保障するいっそう徹底した方策を遂行する手段としてただちに利用されなければ、プロレタリアートにとってまったく無益なものとなるであろう。すでに今日、現存諸関係の必然的な結果として出てくる諸方策のうちもっとも主要なものは、つぎのものである。
 (1) 累進税、高度の相続税、傍系(兄弟、甥などの)相続の廃止、強制公債等による私的所有の制限。
 (2) 地主、工場主、鉄道所有者、船主の財産を、一部は国有産業の競争により、一部は直接に政府紙幣(アツシニア)での補償により、徐々に収用すること。
 (3) 大多数の国民に敵対したすべての亡命者と反逆者との領地没収。
 (4) 国有農場、国有工場、国有作業場において、労働を組織し、あるいはそこにプロレタリアを雇用すること。それによって労働者間の競争をなくし、また工場主がまだのこっているあいだは、その工場主に、国家が支払うのと同じ高さにひきあげられた報酬〔賃金〕を強制して支払わせる。
 (5) 私的所有が完全に廃止されるまで社会の全員にたいする平等の労働義務、産業軍の編成、とくに農業のために編成すること。
 (6) 国家資本をもった国立銀行を通じて、信用制度と貨幣取引とを国家の手に集中し、すべての民間銀行や金融業者を禁止すること。
 (7) 国有の工場、作業場、鉄道、船舶の増加、あらゆる土地の開墾、および、すでに開墾された土地を、国民の自由に処理できる資本と労働者とが増加するにしたがって改良してゆくこと。
 (8) すべての子供を、母親の養育なしでやってゆけるようになるときからただちに、国家の施設で、国家の費用で教育すること。教育と生産との結合。
 (9) 国民の共同団体のための共同住宅として、国有地に大住宅をつくる。そしてこの共同団体は、農業と工業とをいとなみ、田園生活と都市生活との長所を結合し、その両生活様式の一面性と不便とをまぬかれる。
 (10) そまつにつくられた不健康な住宅と市区とをすべて破壊すること。
 (11) 私生児に嫡出子と平等な相続権をあたえる。
 (12) 国民の手にいっさいの運輸機関を集積すること。
 すべてこれらの方策は、もちろん、いちどにやりとげられるものではない。だが、その一つはそれにつづいていつも他の方策にすすむであろう。ひとたび私的所有にたいする最初の根本的な攻撃がくわえられると、プロレタリアートはどしどし前進し、いっさいの資本、いっさいの農業、いっさいの工業、いっさいの運輸、いっさいの交易をますます国家の手に集積せざるをえないことがわかるだろう。すべて上記の方策は、これをめざして努力するものである。そしてこのばあい、国の生産力がプロレタリアートの労働によって数倍にされるのに正確に比例して、これらの方策は実現されるようになり、またその集中化の結果を発展させるであろう。最後に、もしもすべての資本、すべての生産と交易が国民の手に集められるならば、私的所有は自然になくなり、貨幣は無用になり、生産がふえ、また人間が変化するので旧社会の最後の交易状態がなくなるであろう。
☆ 一九 問 この革命は、ただ一国だけでおこりうるだろうか?
    答 いや、おこりえない。大工業は世界市場をつくりだして、すでに地球上のすべての人民、とりわけ文明国の人民をたがいにむすびつけているので、どこの国の人民も、よその国におこったことに依存している。さらに、大工業は、ブルジョアジーとプロレタリアートとを、すでに社会の二つの決定的な階級にし、またこの二つの階級のあいだの闘争を、現在の〔世界の〕おもな闘争にした。この点で大工業は、文明諸国における社会の発展を、すでに均等にしてしまっている。だから、共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで、同時におこる革命となるであろう。この革命は、これらの国々で、どの国が他よりも発達した工業、より大きな富、また生産力のより大きな量をもつかにしたがって、急激に、あるいは緩慢に発展するであろう。だから、この革命を遂行するのは、ドイツではもっとも緩慢でもっとも困難であり、イギリスではもっとも急激でもっとも容易だろう。それは、世界の他の国々にも同じようにいちじるしい反作用をおよぼし、それらの国々のこれまでの発展様式をまったく一変させ、非常に促進させるだろう。それは一つの世界革命であり、したがって世界的な地盤でおこるだろう。
☆ 二〇 問 私的所有を最後的にとりのぞいた結果は、どうなろうか?
    答 社会が、全体の生産力と交通手段との利用ならびに生産物の交換と分配とを私的資本家からとりあげ、そして手もとにある手段および社会全体の欲望から出てくる計画にもとづいてこれを運用するが、このことによって、なによりもまず、今日なお大工業の経営につきまとっているすべての有害な結果がのぞかれるだろう。恐慌はなくなる。そして、拡張された生産は今日の社会秩序にとっては過剰生産であり、また悲惨の非常に有力な原因の一つであるが、そのときには、いくら拡張してもけっしてたりるということはなく、なおはるかに拡張されなければならなくなるだろう。社会の当座の欲望をこえた過剰生産は、悲惨をひきおこすかわりに、あらゆる人の欲望をみたす保証となり、新しい欲望と、同時にこれをみたす手段とをうみだすであろう。それは、新しい進歩の条件と動機になり、もうこれまでいつもあったように、社会を混乱にみちびくこともなく、この進歩を完成するだろう。私的所有の圧迫から解放された大工業は非常な大きさに発達し、それにくらべると現在までにできあがった大工業も、ちょうどマニュファクチュアを現在の大工業とくらべるように、きわめてこせこせしたものに見えるだろう。このような工業の発達は、すべての人の欲望をみたすにたるだけの生産物を社会の用に供するだろう。同じようにまた、私的所有や土地分割の圧迫によって、これまでの改良や科学の発達による成果をとりいれることをさまたげられていた農業もまた、まったく新しい飛躍をして、不足なく十分な生産物を社会の用に供するであろう。このようにして、すべての成員の欲望がみたされるように分配を整備しうるほど十分な生産物を社会はつくりだすであろう。これとともに、社会がたがいに対立する種々の階級に分裂しているのは、よけいなことになるだろう。しかしそれは、ただよけいなものになるだけではなく、新しい社会秩序と両立しないものにさえなる。階級の存在は分業からくるのだが、これまでの様式の分業は、まったくなくなってしまう。なぜなら、工業生産と農業生産とを、いまいったような高さにひきあげるには、機械的な、また化学的な補助手段だけでは十分でないからだ。このためには、こういう補助手段をつかいこなす人間の能力も、同じようにこれに応じて発達していなければならない。前世紀〔一八世紀〕の農民やマニュファクチュア労働者が大工業にまきこまれたとき、その生活様式全体をかえ、まったくちがった人間になったのと同じように、社会全体による生産の共同経営や、そこからくる生産の新しい発展は、まったく別の人間を必要とし、またこれをうみだすであろう。各人が、ただ一つの生産部門に従属し、その部門にしばりつけられ、その部門によって搾取され、他のすべての素質を犠牲にしてただ一つの素質だけをのばし、一つの部門あるいは生産全体の一部門のなかの一部門だけしか知らないような今日の人間では、生産の共同経営などはやれない。現に今日の工業でさえ、ますますこんな人間を必要としなくなってゆくのである。社会全体が共同で、また計画的に経営する産業は、あらゆる面に素質の発達した、生産の体系全体を見とおせる人間をなによりも前提としている。ひとりが農民に、つぎが靴屋に、第三のものが工場労働者に、第四のものが株式の投機屋になるというような分業は、もういまでも機械によってくずれている。だから、こんな分業はまったくなくなるだろう。教育は、若い人々が生産の全体系を非常にはやく経験できるようにするであろう。それは、彼らが、社会の必要や各人の好みに応じて生産部門の系列を順々にうつることができるようにするであろう。この教育は、こうして現在の分業が各人におしつけている一面的な性格をとりのぞくであろう。このようにして、共産主義的な組織になった社会は、各人に、彼らの全面的に発達した素質をあらゆる方面にのばす機会をあたえるだろう。こうして、いろいろな階級も必然になくなる。だから、共産主義の組織になった社会は、一方では階級の存続と両立しないし、また他方ではこの社会の構造そのものがこの階級的差別をなくす手段をあたえるのである。
 ここから、都市と農村との対立もまたなくなるだろう。二つのちがった階級が農業と工業とを経営するかわりに同じ人間が農業と工業とを経営することは、まったく物質的な原因だけからでも、共産主義協同社会の必然的な条件である。農村で農業をいとなむ人口が分散し、これとならんで大都市で工業に従事する人口が密集していることは、農業と工業とのまだ発達していない段階に応じた状態であり、これが将来のあらゆる発展のじゃまになることは、今日すでに感じられている。
 生産力を共同で計画的に利用するための社会全員の一般的な結合。あらゆる人の欲望をみたすほどの生産の拡張。ひとりの欲望が他の人を犠牲にしてみたされる状態がおわること。階級と階級的対立とがまったくなくなること。これまでのような分業をなくすことによって、産業教育および仕事の交替によって、すべての人の生産した利益にあらゆる人があずかることによって、都市と農民との融合によって、全社会成員の能力を全面的に発展させること。――以上が私的所有を廃止したおもな結果である。
☆ 二一 問 共産主義の社会秩序は、家族にどんな影響をおよぼすであろうか?
    答 それは、男女の関係を、当事者だけが関係し、それについて社会が干渉してはならない、純粋に私的な関係にするだろう。この社会でこれができるのは、私的所有をなくし、子供を共同で教育し、またそれによって、これまでの結婚の二つの基礎、すなわち私的所有によって妻が夫に従属し、また子供が両親に従属することをなくしてしまうためである。ここに、共産主義の婦人共有などという道徳堅固な俗物どもの非難にたいする答えがある。すなわち、婦人の共有とは、まったくブルジョア社会だけにあるもので、現在売淫の形で完全に実在しているような関係である。売淫は私的所有にもとづくもので、したがって私的所有がなくなるとともになくなる。だから、共産主義の組織は、婦人共有をもちこむのではなく、むしろこれを廃止するのである。
☆ 二二 問 共産主義の組織は、いまの国民性にたいしてどんな関係にあるか?
   〔答 欠〕
☆ 二三 問 共産主義の組織は、いまの宗教にたいしてどんな関係にあるか?
   〔答 欠〕
☆ 二四 問 共産主義者は、社会主義者とどうちがうか?
    答 いわゆる社会主義者は、三つの部類にわかれている。
 第一の部類は、大工業、世界貿易により、またこれら両者によってつくられたブルジョア社会によって、もはや破壊された、またいまでも日々破壊されている、封建的な、また家父長制的な社会を支持しているものからなっている。この部類は現在の社会の害悪から「封建的な家父長制的な社会を再建しなければならない、なぜなら、この社会にはこのような害悪がなかったからだ」という結論をひきだす。すべて彼らの提案は、直接にしろ間接にしろ、この目的にむかっている。この部類の反動的社会主義者は、プロレタリアートのみじめさにたいして、表面上は同情したり熱い涙をながすにもかかわらず、いつも共産主義者から攻撃されるであろう。なぜかといえば、
 (1) 彼らは、まったく不可能なことをもとめて努力するからであり、
 (2) 彼らは、貴族、同業組合の親方、マニュファクチュア業主の支配を、またそれにともなう専制君主または封建君主、官吏、兵士、坊主などの復活をのぞんでおり、しかも、いまの社会にあるようなわるい状態はなかったが、そのかわり別の害悪を、すくなくとも現在と同じくらいもち、また抑圧された労働者を共産主義組織によって解放する見通しをけっしてしめさなかった社会の復活をのぞむからであり、
 (3) 彼らは、プロレタリアートが革命的になり共産主義的になれば、いつでも彼らの真実の意図をさらけだし、ただちにプロレタリアに対抗してブルジョアジーと同盟するからである。
 第二の部類は、いまの社会の支持者からなり、彼らはいまの社会から必然に出てくる害悪を見て、この社会が永続するかどうかに懸念をいだいている。それで彼らは、現在の社会は維持して、これにつきものの害悪だけをのぞこうと努力する。この目的のために、あるものはたんなる慈善的な方策を提案し、他のものは大げさな改革計画を提案する。この計画たるや、社会を再組織するという口実でいまの社会の土台を維持し、またそうすることによっていまの社会そのものを維持しようとするものである。このブルジョア社会主義者にたいしても同じように共産主義者はたえずたたかわなければならない。なぜなら、彼らは共産主義者の敵のためにはたらき、また共産主義者が打倒しようとしているまさにその社会を擁護しているからである。
 最後に、第三の部類は、民主主義的社会主義者からなっている。彼らは、共産主義者と同じ方法で、第一八問のなかでしめされた方策の一部をとることをのぞんでいるが、共産主義にうつるための一時的な手段としてではなく、窮乏をなくし、現在の社会の害悪をなくすために十分な方策だとして、それをのぞんでいるのである。これらの民主主義的社会主義者は、自分の階級の解放条件についてまだ十分におしえられていないプロレタリアであるか、あるいは小ブルジョアの代表者――すなわち民主主義の達成と、ここから出てくる社会主義的な方策の実現までは、多くの点でプロレタリアと同一の利害をもつ階級の代表者か――どちらかである。だから、共産主義者は、これらの社会主義者が支配者たるブルジョアジーに奉仕して共産主義者を攻撃しないかぎり、行動のときにはこの民主主義的社会主義者と妥協し、また一般に、さしあたってできるだけ彼らと共通の政策をまもるべきであろう。この共同の行動という方法が、彼らとの意見の相違を討議することをしりぞけるものではないことは、いうまでもない。
☆ 二五 問 共産主義者は、現在の他の政党にたいしてどんな関係にあるか?
    答 この関係は、国によってちがう。――ブルジョアジーが支配しているイギリス、フランス、ベルギーでは、共産主義者はいまのところ、なおいろいろな民主主義の党と共通な利害をもっている。しかも、この民主主義者が、今日いたるところで彼らの主張している社会主義的方策が共産主義者の目的に近づけば近づくほど、すなわち彼らがプロレタリアートの利益を擁護することがますます明確になればなるほど、また彼らがプロレタリアートにたよることが大きくなればなるほど、共産主義者との共通な利害も大きくなる。たとえばイギリスでは、労働者からなるチャーティストのほうが、民主主義的小ブルジョアまたはいわゆる急進派よりも、はるかに共産主義者に近い。
 民主主義的憲法の採用されているアメリカでは、共産主義者は、この憲法を武器としてブルジョアジーにさしむけ、プロレタリアートのためにこれを利用しようとする政党、すなわち国民農業改革党と提携しなければならないだろう。
 スイスでは、なおはなはだ雑然たる党ではあるが、急進党が共産主義者と提携できる唯一の党である。そしてまた、これらの急進派のうちでも西部スイス人とジュネーヴ人とがもっとも進歩的である。
 最後に、ドイツでは、ブルジョアジーと絶対君主制との決戦がようやくせまっている。しかしながら、ブルジョアジーが支配するまでは共産主義者とブルジョアジーとのあいだの決戦はあらかじめ期待できないから、共産主義者の関心は、むしろブルジョアをまたできるだけはやくたおすために、ブルジョアができるだけはやく政権をにぎることを援助することである。だから、共産主義者は政府に対抗して、いつも自由主義ブルジョアの党を支持しなければならない。しかし、ブルジョアのおちいる自己欺瞞に感染したり、またはブルジョアジーの勝利の結果はプロレタリアートにも有益だという彼らの誘惑的な保証を信用しないように警戒しなければならない。ブルジョアジーの勝利が共産主義者にあたえる唯一の利益は、つぎの点にある。(1)共産主義者が、その原則を擁護し、討論し、普及させ、それによってプロレタリアートを、かたくむすばれた、戦闘的な、組織された階級に統合しやすくするための、いろいろな自由。(2)絶対政府が瓦解する日から、ブルジョアとプロレタリアとのあいだの闘争の順番がやってくることの確実さ、のなかにある。この日から、共産主義者の党政策は、現在すでにブルジョアジーが支配している国の党政策と同じものになるだろう。

     一八四七年十月下旬パリでエンゲルス執筆
     テクストはエンゲルスの遺稿中にあったものにより、その訂正、挿入、抹殺、強調されたものをとる。


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