四トロ同窓会二次会 2001年3月16日〜19日

まじめな議論・主張・あそび・ぐち・何でも!自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」に掲載される場合もあります。
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RE:水戸労農文化協会2  投稿者:AIT久我山支部(準)  投稿日: 3月19日(月)19時29分26秒

 アラブ復興車界党さま,どうも。
また見に行きました(^^;;)。

 でもやっぱ,「一体ここ何?的な感じ」は拭えませんな〜(^^;;)
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若干のヨコレスなど・・・ 投稿者:まっぺん  投稿日: 3月19日(月)14時26分03秒

>鐘野夢心さんおひさしぶりです〜(^^)
「ユダヤ人=金の亡者」・・・ヨーロッパに広く流布されたユダヤ人のイメージですね。差別を生むことになった「事実」は差別からうまれたものでもあるという、好例です。ユダヤ人には「金貸し」などの職業にたずさわる者が多く、「守銭奴」として嫌われる原因ともなりましたが、そもそもの理由はヨーロッパの多くの都市にあった職人組合から排除されていたため職人になれず、土着ではなかったから農民にもなれず、当時「道徳的にいやしい」職業とされていた金融業などの第三次産業にたずさわるしかなかったからです。そういえば、10年くらい前だったか『ベニスの商人』を戦前のドイツを舞台とした現代劇にしたてたのが話題になったことがあります。法廷にはドイツの軍服を着た軍人が配置され、裁判官ポーシャはナチス。・・・話が脱線していくので、この辺で止めておこう。(^^;;)

>赤い山女魚さん
「クレタ人が全員うそつきではない」というのは現実のはなしで、数学で「クレタ人はうそつき」といったら全クレタ人はうそつきという事でないと話が通じなくなるのです。あくまでも数学上の問題なので。・・・これもこまかいつっこみだぁ(^^)

>旧ベ平連のページ
アラブ復興車界党さん、いい情報をありがとう!!\(^o^)/まっぺんが高校時代、「ベ平連」の名前はずいぶん使わせてもらいましたよ。リンクします。

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「英語で送り直してね」 投稿者:まっぺん  投稿日: 3月19日(月)13時09分24秒

・・・という返信しました。
なんか反応あるかな?

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そのヘッダ行だけみても正確なことは何もわかりませんが、^^;; 投稿者:いずみ 投稿日: 3月19日(月)12時41分41秒

>カタカナと漢字はハングルが化けたものでしょうか?

 というので99%アタリだと思います(^^)

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謎のメールは韓国から発信か? 投稿者:まっぺん  投稿日: 3月19日(月)12時04分45秒

メールのソースを見ると発信は
from 3w-pop3-ae.korea.com
になっています。
カタカナと漢字はハングルが化けたものでしょうか?

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謎のメール(?_?) 投稿者:まっぺん  投稿日: 3月19日(月)11時03分12秒

おとりこみちゅう、別話題ですいません。
実はへんなメールが来ていました。
新しくメールが来ると必ずメッセージが出るようになってるんですが、
「2月7日受信」となっているのに、なぜか今までそのメッセージが出て
いなかったのも“謎”です。文面も意味不明です。なんじゃこりゃ(?_?)

Subject: テオネイタフカ タフクァタクキホ ネイアケタクチサ鄲フニョソ。アロタサ ソテキネエ サ邯タヤエマエル.
  Date: Thu, 8 Feb 2001 06:15:19 +0900
  From: タフチセネュ <yamahaxg@kebi.com>
   To: <mappen@mb.neweb.ne.jp>

照括馬淑艦猿!煽澗 析沙嬢研 繕榎鉱拭 公馬澗 廃厩紫寓脊艦陥.
還戚虞檎 薦亜 持唖馬壱 壱肯馬澗 依級聖,
背衣 背 爽叔呪 赤聖依 旭精 厳尻廃 奄企姶生稽,戚 五析聖 左垣艦陥.
獣娃戚 買喰馬重陥檎 採巨 薦 戚醤奄拭 企廃 企岩聖 採店球軒畏柔艦陥.
穿 号榎穿猿走澗 析沙拭 硲税旋昔(?) 紫寓戚醸柔艦陥.戚訓 戚醤奄 政帖馬陥壱
持唖馬叔走亀 乞牽畏走幻,析沙嬢研 繕榎精 拝 呪 赤醸揮 幾拭 酔尻備級鍵 伐厩 穿諺戚空
紫戚闘研 左壱 鉢亜 蟹辞 越亀 臣軒逸 梅醸柔艦陥.繕榎梢 益 紫戚闘拭越亀 臣軒悟
醤板仙寅惟獣毒 食奄煽奄研 却君 左陥亜 衣厩拭澗 杉球津塘波引食楳塘波税 廃厩去拭
臣形閃 赤澗 越級聖 左逸 梅柔艦陥.嬢薦猿走幻 背亀 益級聖 嬢胸惟 戚背獣佃醤 拝 依昔走
蟹硯企稽澗 食君亜走 持唖亀 梅醸柔艦陥. 社是 析沙酔斥戚虞澗 紫寓級税 帖腔(?)馬壱 繕送旋戚延
楳殿研 左壱亀 煽澗 嬢巨猿走蟹 砧 肯膳 蝕紫昔縦税 雌戚敗幻聖 舘授備壱形廃 辰

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連続体仮説 投稿者:いずみ  投稿日: 3月19日(月)00時20分39秒

>証明できないことも証明されていません

 厳密にはそうですね^^;;
 これは、円周率の10進数における小数展開表現に何らかの「規則性」が発見されれば、一応は証明可能ということになり得ます。その可能性はまずないとは思いますが。(他の「証明が予想し得る未解決問題」とはレベルが違う気がします)

 「連続体仮説」は、集合論の創始者であるカントール(精神病院被拘禁中に死んだ数学者)が提唱した仮設で、「アレフとアレフゼロの中間の濃度は存在しない」という仮説でした。
 集合論では、「無限」に大小関係が存在することを示しました。同じ「無限大」というモノ(要素を無限に持つ集合の、その要素の総数)について、その大きさを表すのが「濃度」という尺度で、自然数の濃度(アレフゼロ)はあらゆる濃度の中で最小であること、有理数や代数的数の濃度は自然数の濃度と同じであること、実数の濃度(アレフ)は自然数の濃度よりも大きいことなどは比較的簡単に証明できるのですが、では、「自然数の濃度より大きく実数の濃度より小さい濃度は存在するのか?」というのが「連続体仮説」です。

#おっと、これで思い出したよ「代数的」数なんて表現^^;;

 ラッセルのパラドクスは、確か背理法じゃないとそれがパラドクスであることすら言えない代物なのでしたっけ?>赤い山女魚同志

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旧ベ平連情報のページ 投稿者:アラブ復興車界党  投稿日: 3月18日(日)23時23分58秒

イスラム関係の論争が続いている中、またしても関係のない投稿をして流れを中断させてすみません。 私もまだ詳しく見ていないのですが・・・。
http://www.jca.ax.apc.org/beheiren/

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細かいつっこみですが 投稿者:赤い山女魚  投稿日: 3月18日(日)21時53分41秒

いずみ同志の

(1)「円周率を小数展開すると、0から9までの数字が並んで登場する部分がある」
 今のところそのような個所は見つかっていません。
 で、「神」はこの命題の真偽は知ってるハズですが、もしそれが「偽」なのだとすれば、それを人間、つーか数学が示すことは絶対にできないわけです。

というところは、「偽」であったとしても、必ずしも証明可能とは限らないと言うことだと思います。ブロウワーの直観主義というのは、反戦数学者ラッセルの提出した「ラッセルのパラドックス」によって危機に陥った数学をいかに救うかと言うことから出てきました。で、「無限」を扱う数学では安易に背理法を使うべきでないと言うようになりました。ある公理系に対してにたいして「真であることが証明できる」「偽であることが証明できる」と言う以外に「真であることも偽であることも証明できない命題」というのが必ず存在すると言うのがゲーテルの定理(数学の定理ではなく「数学の定理」についての定理なので「超数学の定理」となります。)です。
 円周率の例では、012・・となる箇所は発見されていませんが、そういう箇所がないことも証明されていまん。でも、証明できないことも証明されていません。
集合論という数学分野の「連続体仮説」は1960年代にイスラエルの数学者が「真であることも偽であることも証明できない」事を証明してフィールズ賞を獲得しています。この集合論というのは面白くて結構はまって、そこで使われるヘブライ語のアルファベットの最初の文字アレフを塾の名前に使ってました。突然「日本で初めてヘブライ語を見た」とイスラエル人が入ってきたことがあります。「兵役でパレスチナ人に発砲したこともある」と言ってまして、それ以上話をするのが怖くなりました。今はもちろん名前を変えました。

それから「クレタ人」ですが「全てのクレタ人がうそつき」とあるクレタ人が言った場合、そのクレタ人がうそつきで、事実はクレタ人全員がうそつきと言うわけではないと、解釈すれば矛盾は無くなります。クレタ島はイタリアかどっかの島らしいのですがあ、昔なんで「クレタ人」なのかと疑問に思って調べようとしたけど分かりませんでした。

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頓珍漢からジョハルさんへ 投稿者:ザーカイ  投稿日: 3月18日(日)21時32分31秒

 うにうに・・・。脳味噌がうにに!新鮮でいいです。知らないことを少しだけでも知るって面白いですね〜。で、ジョハルさんご紹介の岩波新書(赤)「イスラーム教入門」は読んでいるはず。たぶん記憶に残らないほど理解できなかったんだと思います。井筒の「意識と本質」も同様に。
 でイランでの地震復興が国家ではなくコミュニティーの自律性のもと行われた話は、たぶん聞いたことがあります。山川暁男(建党協)さんからです。ついでに、ムスク(寺院)のネットワークでイスラム世界からカンパ(というか無期限、無利子の融資か?)が大量に集まったとも聞きます。
この辺は知られていないイスラムの実体なんでしょうね。

 ただし、イスラムの寛容さとは、いかなるものかといえば、他宗派のものを官僚として登用するとか、他宗派はモスリムより多く税を払うことで信教の自由が得られるといものでしたよね「過去」は。今後についても暗中模索なんだと思いますが、やはり、イスラムの統治はムスリムにとっては居心地よさそうですが、共同体内の他宗派にとっては居心地悪そうだな-ということ。無神論者には、さほどいやじゃないかもしれませんけど。それはジョハルさんが「イスラームにいたっては、聖職者組織など皆無で、神と個人が直接結びついているという発想をするので、各人はまったく多様に、そういった「宗教間対話」作業を進めています。」というように現場ごとに様々な解釈があり、それを声明する聖職者組織(代表機関)もないとすれば、イスラム統治の他者にとってのわからなさは底知れないんじゃないかな?と思うわけです。
他宗派がイスラムの考えを知らねばならないいわれはないのに、イスラム統治下にすむ他宗派はそれを手探りで(聖職者組織がないから)見つけなければならない。
それはまるでインターネットでは英語ができなきゃ、ドメスチックネットに過ぎない(100%ネットの価値を享受できない)というのに似ているなー、と思いました。

これ以上は門外漢のグチに過ぎなくなるので、紹介された本を読んでみます。ご紹介ありがとう!
#世界が変わって見えたりして(爆)

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水戸労農文化協会2 投稿者:アラブ復興車界党  投稿日: 3月18日(日)20時43分43秒

 何とも迅速にホームページの刷新にあたったようでメールを出した方が恐縮しています。
(何でも私以外からもメールが結構きたそうです。 掲示板等は準備中ですが。)
 実用度はかなり増したかと思います。(「ソ連文化財」でエイゼンシュタインの映画と一緒に「ウクライナ共和国製放射線測定機」があったのには笑ってしまい、それがなくなったのは多少残念ですが。 あ、笑っちゃいけないか。チェルノブイリの皮肉としか取りようがなかったから。)
 リンク欄は考えて作成されたようです。
http://www.oak.dti.ne.jp/~mlak/

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国際主義? 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月18日(日)20時19分40秒

そうでしょうか。
ヨーロッパの様なナショナリズムが確立されていない上に、
民族よりも、より細かい部族間の差異が多くある為、
共通項としてのイスラムが多用されるのではないでしょうか。

アフガニスタンが良い例ではないでしょうか。
余りにも細分化され、強固な地縁血縁主義という状況を打破するために
共通項としてのイスラムでナショナリズムを確立する。
たとえばタリバンもそうですし、
イスラム運動出身のリーダーが率いるヘクマチアル派もそうですね。
(現実的には古い体質から抜け出れていない面も大いにあるのですが)
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(無題) 投稿者:ジョハル  投稿日: 3月18日(日)20時00分49秒

>●イスラム教徒は「国際主義だなあ」と感じた事があります。
知り合いにバングラディッシュ人がいるんですが、かれが「ワ
タシのクニのあいさつです」と言って教えてくれた言葉が「サラワレク
ン」というものでした。ところが、後で実は
全てのイスラム教徒がこの同じ言葉で挨拶していると知った
時、ちょっとショックを覚えました。イスラムの世界観の一端が、そこで
見えたような気がしましたね。・・・ひき
つづき皆さんのご意見を拝聴します\

ぼくの知りあいのムスリムには、トルコ人、日本人、アラブ人(パレスティナ人を含む)、パキスタン人、タジク人、カザフ人、マレー人(インドネシア人、アチェ人を含む)、ウイグル人、回族、ガーナ人、バングラディシュ人その他諸々の地域から来た人たちがいますが、みんな金曜日に集まって同胞であることを確認します。また、メッカには毎年無数の人たちが集まって、同じ儀礼によって礼拝を行います。今年のハッジ(3月はじめにあったメッカ巡礼)には188カ国のムスリムが参加したそうです。ぼくたちは、日本で、最終日にお祝いしました。        
                                 
                                 
         

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国家とイスラーム 投稿者:ジョハル  投稿日: 3月18日(日)19時59分27秒

すみません、どうもぼくの説明のしかたがうまくないですね。できるだけ、マルクス主義に親しんでいる人に理解しやすいように、と思っているのですが。

>アルジェリアやトルコの苦悩も経て、権力奪取以外の方法で主権国家を形骸化していこうという戦略が、今後は主流になると思います。
?理解するのがむずかしいですね〜。単にEUのように部分的に各国の主権を委譲させて、各国レベルでは主権が形骸化してい
くって事かな?でもよくみりゃ、イスラム共同体という巨大な擬似主権国家判ではなく、うまく理解できない。
    
むしろ、国家の主権を無視していくといういい方が適当ですね。これは、フーコーが、「大地が揺れるとき軍は」や「シャーは百年遅れている」といったルポルタージュであげている例なのですが、イランのある地方で地震があった時、当時の極めて中央集権的な官僚機構は、それまでその地方にあったのとはまったく別の、一つの工業都市をつくりあげるという再建計画をたてました。しかし、その計画はまったく実行されることなく、実際は各地域のコミュニティ―によって自律的な復興がなされ、それを全世界に広がるイスラームのネットワークが支援しました。少なくとも、フーコーが、そして多くのイランの人々が「イスラームの統治」という言葉で表していたのは、こういう統治です。無論、その後成立したホメイニーによる政体は、これとは別のものです。率直にいって、国家とイスラームの関係、イスラームの統治といったテーマはいまだ多くの人々が暗中模索しているところです。公正の実現のために統制経済を訴える人たちも以前はいましたし、ハリ―ファ(カリフ)の再選出と、そのもとでの統一されたイスラーム圏をめざす人たちもいます。やはりどうも「一元」という言葉が誤解を招いたようで、ぼくがこの言葉に意味させたかったのは、一極集中ではなくむしろその反対で。イスラームの統治における原則は、各人の主体が、神との関係をもとに、明確に確立されることだと思います。

> そうでしたっけ?例が思い出せないんですが、オスマントルコ帝国などの領土拡大は、一元であれば、植民地宣教とワンセットでは?特にインドネシアなどは元はヒンズー教が強かったと思いますが・・・・。バリ島はその名残だとか・・・勘違いだったかな?#いろんな意味でイスラムには興味あります。よろしければ、まず宗教としてのイスラム教の入門書をご紹介ください。

このあいだ、トルコの人と、トルコのEU加盟について話したのですが、その人の話の趣旨は、経済的優位を背景に、ヨーロッパは文化的にもトルコを併合しようとしているということでした。最近はトルコも欧米化が著しいようです。ぼくは、しかし、イスラームもかっては交易によって広がっていったのではないかと指摘しました。すると、その人がいうには、確かにそうだが、イスラームは、交易を通した各人間のコミュニケーションによって広がっていったんであって、自分たちは植民地主義的な収奪も文化の破壊も行わなかったとのことでした。それはともかく、ムスリムになるのは、本人の自覚的な信仰によるのであって、強制はなんの意味もありません。オスマン・トルコの占領下では、明らかに強制としか思えないようなしかたでイスラームがおしつけられていたことがあり、このことは明らかにコーランに反しており、ぼくもイスラームに基づいて批判しています。イスラーム復興は、このような、イスラーム圏内で起こっていたイスラームに反する行いを是正していこうという企図でもあります。イスラーム圏の多くは、かっては別の一神教、あるいは多神教が広まっていた地域でしたが、社会というのは変わっていくものであり、社会の変容可能性こそがイスラームのダイナミズムを保証しています。イスラームも、ギリシアやキリスト教、インド哲学などから、幾度も存亡にかかわるほどのインパクトを受け、変容を繰り返しました。イスラームについては、とりあえず、岩波新書(赤)からでている「イスラーム教入門」がわかりやすいと思います。現代のイスラームについて知るには、講談社現代新書の「イスラームの世界史第五巻 イスラーム復興はなるか」が詳しいです。哲学に興味があれば、井筒俊彦「意識と本質」なども、タウヒードについて知るのに最適です。

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いすらむのお話、勉強になります。 投稿者:まっぺん  投稿日: 3月18日(日)18時23分37秒

●クレタ人はうそつき
私が読んだ本では、この命題はクレタ人の外側からアカイア人なら言える。ではアカイアも包括して「ギリシャ人はうそつき」という命題をたてようとすると、その外側にいるヨーロッパ人なら言える。それも包括して「ヨーロッパ人はうそつき」というのはヨーロッパの外側の人なら言える・・・というような説明だったと思います。何かを定義する時には定義者自身は除外されなくてはならない。定義者も含む新しい定義には、その新しい定義者は含まれない。こうしてこれが無限に続いていく。でもまっぺんはこの方面にはいずみさんの足下には遠く及ばないのでこれ以上の説明はできません。

●イスラム教徒は「国際主義だなあ」と感じた事があります。
知り合いにバングラディッシュ人がいるんですが、かれが「ワタシのクニのあいさつです」と言って教えてくれた言葉が「サラワレクン」というものでした。ところが、後で実は全てのイスラム教徒がこの同じ言葉で挨拶していると知った時、ちょっとショックを覚えました。イスラムの世界観の一端が、そこで見えたような気がしましたね。・・・ひきつづき皆さんのご意見を拝聴します\(^o^)/

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(無題) 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月18日(日)12時12分13秒

聖と俗という言葉を使うのは分かりにくくて良くないのかも知れませんね。
聖や俗が何を指すのかという点で。

タリバンの大仏破壊は、国内の引き締めと、国外へのヒステリックなまでの反応という点で、
大いに政治的、俗っぽい話です。
その行為の正当性に宗教教理(正しいかはともかくとして)を使う時点で、
その理論は俗っぽい物になってしまいますからね・・・。

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何やら 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月18日(日)11時09分09秒

>なお、彼は革命の永続化を図っていて、革命のエネルギーによってに一気にイ
>スラーム圏を再統一し、イスラーム圏内での主権国家の消滅を狙っていたようです

何やら聞いたことがある理論ですね(笑)。

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>ジョハルさん 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月18日(日)10時53分10秒

私の不勉強で、どうも貴方が説明する意味を良く理解出来ない部分もあります。
また、イスラムに関する書物の解説とも違う気がする部分もあります。
しかし宗派、師によって、解釈や教義が違ってくる部分もあるでしょうし、
いま少し勉強してみるつもりです。
いささか私には高度だったかもしれません。

とはいえ、こういう論理で、こういう結論、表現に結びつくのは不思議だ
なぁ・・・という部分もありまして、
そこに相互の世界観、宗教観の違いを感じました。
同じ事を話していたとしても。

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? 投稿者:ザーカイ  投稿日: 3月18日(日)10時47分34秒

>アルジェリアやトルコの苦悩も経て、権力奪取以外の方法で主権国家を形骸化していこうという
>戦略が、今後は主流になると思います。
?理解するのがむずかしいですね〜。単にEUのように部分的に各国の主権を委譲させて、各国レベルでは主権が形骸化していくって事かな?でもよくみりゃ、イスラム共同体という巨大な擬似主権国家が成立し、そこにイスラム世界観を流し込む。政教一致、司祭(僧)と権力者が一致・・・。そういう一元しか理解できないもので・・・・。批判ではなく、うまく理解できない。
>ムハンマド(SAS)にしてからが、交易で食っていた人で、イスラームというのは、交易と、
>その基点である都市からなる社会において、公正な法を確立していく中で、ユダヤ教以来の一神
>教の系譜をもとに確立された文明です。要するに、都市と交易の共同体の集合意識であって、イ
>スラームがどこか外からやってきて、文化と社会を支配した、というような、植民地支配の宣教
>のようなことはありません。
そうでしたっけ?例が思い出せないんですが、オスマントルコ帝国などの領土拡大は、一元であれば、植民地宣教とワンセットでは?
特にインドネシアなどは元はヒンズー教が強かったと思いますが・・・・。バリ島はその名残だとか・・・
勘違いだったかな?
#いろんな意味でイスラムには興味あります。よろしければ、まず宗教としてのイスラム教の入門書をご紹介ください。

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>ザーカイさんへ 投稿者:ジョハル  投稿日: 3月17日(土)19時05分13秒

ちょっと誤解されるかもしれないので、補足を。聖と俗の分離がないから、だから主権国家においてイスラーム法の導入を、ということにはイスラームではなりません。主権国家というものが、そもそもイスラームとならびたたないのです。この前も少し書きましたが、ホメイニーの画期的だったのはこの点で、彼は主権国家とイスラームの社会を一時的に一致させようとしました。なお、彼は革命の永続化を図っていて、革命のエネルギーによってに一気にイスラーム圏を再統一し、イスラーム圏内での主権国家の消滅を狙っていたようです。もちろん、非現実的であり、ホメイニーの試みは、多くの誤りを含んでいたと、今日ではみるむきが強いと思います。アルジェリアやトルコの苦悩も経て、権力奪取以外の方法で主権国家を形骸化していこうという戦略が、今後は主流になると思います。

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クレタ人 投稿者:鐘野夢心  投稿日: 3月17日(土)18時25分24秒

いつもROMしつつ勉強させてもらっています、鐘野夢心と申します。
以前に一度だけ登場していますが、ご無沙汰しているので再度の挨拶です。
次回に書き込む時には、挨拶抜きで済むようにしたい(^^;

政治や思想ではなく雑談的な部分に飛びついて恐縮なのですが、「××人はうそつき」というのはすごく興味があります。一般的には「クレタ人」ですよね。『あるクレタ人が「全てのクレタ人は如何なる時でも嘘をつく」といった』“あるクレタ人”の発言を真/偽のいずれに仮定しても必ず矛盾に陥るので、真偽判断の対象として扱わない、というお約束だと記憶しています。
コレ、予備校の先生(なぜか英語)に紹介してもらった時は「メタフィジックス」と言っていました。また、大学のサークル仲間では「(命題の)自己言及」と呼んでいました。うかつに「世界に普遍な真理など存在しない」と口にすれば、「はいはい、自己言及ね」と軽くイナされます。
実際のところ、コレは一般的に何と呼ぶのでしょうか? 検索をかけてみると「クレタ人のパラドックス」「エピメデニスのパラドックス」とか、いろいろ出てきます。“矛盾律”“排中律”のように、論理学のタームとしてビシッとしたのがあったら、教えてください(^^;

思いっきり脱線しますけど、エピメデスのお陰である時期まで、「クレタの人=嘘つき」という紋切り型があったのかしら? 「ユダヤ人=金の亡者」というそれは、『ベニスの商人』のシャイロックが典型的ですよね。陰謀論を唱える人って、この手の抽象作業をしくじっているのかなぁ、と心情を察しています。実際、資本主義は見方によっては“ユダヤの精神”とも言えますし。
誰かがこの手の命題を提示して有名になり、“ニホンジン”のステレオタイプを作ってくれないかなぁ、と無責任な願望を(密かに)抱いています(^^;

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(無題) 投稿者:ジョハル  投稿日: 3月17日(土)17時58分53秒

>ザーカイさんへ
一元論の話しは、結局政教分離などはできないという結論でしょうか?つまり、イスラムとは心の領域に留まらず、世俗といわれる政治までイスラムが支配することを考えている宗教なんですか?
確かに法がその地域の文化慣習を土台にしているので、深く根付いた宗教戒律にもとずく文化習慣は法に影響を与えるとは思いますが・・・。

というより、聖と俗の区別、よいう発想がはじめからまったくないんです。一神教の世界では、どこにおいても、これが当然の発想です。また、政治という言葉でイメージされるものからして、まったく違っていると思います。ムハンマド(SAS)にしてからが、交易で食っていた人で、イスラームというのは、交易と、その基点である都市からなる社会において、公正な法を確立していく中で、ユダヤ教以来の一神教の系譜をもとに確立された文明です。要するに、都市と交易の共同体の集合意識であって、イスラームがどこか外からやってきて、文化と社会を支配した、というような、植民地支配の宣教のようなことはありません。

政教分離というのは、ウェストファリア条約が調印された時、つまり主権国家が成立した時に起こったわけですが、政教分離と主権国家の成立というのは、同じ一つのこと、つまりキリスト教共同体の分裂ということを意味していました。ただ、これはあくまで緊急避難的な措置だったのであって、その後も各主権国家の法の根拠は宗教でした。どうもキリスト教世界には一元論が徹底していないところがあります。

>赤いお母さんへ
その「一元論」というのは神と自分との一体性という様なものでしょうか?
具体的に発展させると「神秘主義」(イスラムならスーフィズムが当たるのでしょうか)につながるそれ」でしょうか?

いや、そういうことではありません。タウヒード(一化の精神などと訳される、イスラームの世界観の原則)とスーフィズムは関係あるのでしょうが、ぼくはスーフィズムには詳しくないので、とりあえず、そういうことだけではないといっておきます。一元論などと書くと、流出論を思わせるかもしれないので、本当はタウヒードと書いたほうがいいのですが。タウヒードというのは、むしろソシュールの言語学や構造主義を思い浮かべていただくのが適当で、世界の中で、対称性がありえず、意味が他との関係性のなかでのみ形成されていくような発想と思っていただければいいです。この発想は神にも、人間にも、小石にも花にも適用されます。例えば、偶像をさしてこれが神であるといったり、肖像画をさしてこれは誰それであるといったりすることは思いつかないわけです。コーランは、この世界観のもとに、自然や社会をたたえる言葉に満ちています。イスラームでは、政治論も経済論もここから敷衍されていきます。構造主義やポスト構造主義が、イスラームと驚くほど相性のよいことは、イラン革命の理論的指導者であったシャリアティーもつとに指摘していたことです。

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まとめてレス 投稿者:ザーカイ@組合事務所  投稿日: 3月17日(土)16時23分45秒

>いすみどん
サンキュウです。
 ソーカルの「知の欺瞞」って本みたいなことになってしまいましたね。
>赤いお母さん
>もし、同じ社会共同体で公理系が違えば、全く相対する政治勢力になるでしょう。
>価値観が全く違う集団という事になりますから。
う〜ん。だから宗教戦争があるんじゃないですかしですか??その意味ではまさに聖(宗教)と俗(政治や経済)は分けがたい存在なんじゃないですか?社会において。

>ですから、純粋に政治の話という事を言ったのです。
純粋に政治というのが逆にわからない。例えば宗教戦争は、政治経済などの社会事情の背景を有しつつ、ある不利益を被るものを分類するとある宗教集団(共同体)とかぶさっていたりすることではじまったりすることが多いですよね〜。
で、そういう社会事情がおきるには、宗教・文化・慣習がその背景だったりと、循環しているように思えるのです。唯物論ぽく言うと、下部構造(経済)が上部構造(法など)を規定し、規定された上部構造が下部構造を規定する(だったっけ?)」みたいな。

そうなると、わたしが、絶えず強制は存在する。宗教間対話などは新たな強制力を生むという話は、それなりに成立するのではないでしょうか?そして対話や戦争という「政治」=利害関係の調整と対決を語るべく外部に視座をおく営為は思想的営為いたりえるのではないですか?(たいした中身じゃなくとも)

いずれにせよ、
わたしには赤いお母さんとそんなに違うことを言っていないと思うんですが?
各宗教の教義・思想に優劣つける気もないだろうし、宗教紛争は純粋に思
想だけの違いでおきるとは限らないだろうし・・・・・。
もし赤いお母さんとわたしとに違いがあるとすれば、タリバンの一件を素に語りたいことが違うのでは?と思う。
 たとえば、国連安保理が人命より、文化遺産なる人類のコレクションの
ために人命を軽視したという赤い山魚女さんの情報も、「そりゃ-ひどい」という人は人命尊重をすべきという前提から語っているし、「当然だ、タリバンの行為は宗教対立を生み、それによってユーゴのような大虐殺を起こさない為の予防措置なんだから」という人も「人命尊重すべし」と思っているわけ。でも前者は「1の人命は地球より重し」で、後者は「より多くの幸福(少々の犠牲は大きな犠牲を防ぐには仕方がない)」が思想背景でしょ?国連理事国はそれぞれの支配力・影響力の維持だけが前提でしょうが。これも思想の違いが政治の問題になることは考えられます。というかなっている。いづれかが国論→政策となれば、そうでない側は非支持な政策に税金が使われる。

このように、つねに強制と被強制は存在し、それが対立になったり、共通の社会の土台にしがみついて共生しても、じつは共通の土台の価値観にそれぞれが支配されているともいえるわけです。
弁証法的に使用した価値観で包括したとてそれも同じ事。
 これがわたしの書きたかったことです。
混乱して、仏像破壊のはなしからかなり離れたので、わたしのカキコはこの辺で。

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おっと大ミス^^;; 投稿者:いずみ  投稿日: 3月17日(土)15時26分04秒

>「実閉区間内で有界な実関数は最大値・最小値を持つ」

 すみません、大ウソです^^;;

 「実閉区間内で有界な連続関数は最大値・最小値を持つ」

 です。

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それは「自己矛盾命題」という奴で、不完全性定理とはちと毛色が違うのでは? 投稿者:いずみ  投稿日: 3月17日(土)15時11分02秒

 論理つーのには、他にもいろいろなネタがあります。

(1)「円周率を小数展開すると、0から9までの数字が並んで登場する部分がある」
 今のところそのような個所は見つかっていません。
 で、「神」はこの命題の真偽は知ってるハズですが、もしそれが「偽」なのだとすれば、それを人間、つーか数学が示すことは絶対にできないわけです。

(2)そもそも背理法ってどうよ?
 背理法、すなわち、「pならばqである」ことの証明を、「qでないと仮定すると矛盾が生じる」ことの証明で代行する手法は、それこそユークリッドの第5公理くらい、「アッタリマエだけど、他の公理に比べて著しく複雑で“違和感”がある」というものです。
 そのため、背理法を使わないでどこまで数学を記述できるのか?というトンデモ系?のロジックも登場します。それが「直感主義」。
 背理法を使わないと、「古代のオウム真理教=ピタゴラス学派が極秘裏に発見し、外部に漏らした出家信者をポアした」つー「有理数でない実数が存在する(=無理数)」とか、あと「実閉区間内で有界な実関数は最大値・最小値を持つ」とかが証明できません。特に後者は、微積分の基礎の基礎で、これが使えないとそもそも「微分」ちゅーのが成り立たない、ということで、まず実数を再定義するところからはじめてるみたいです。
(詳細は耳学問のため知りません^^;;)

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おお!げー出る。 投稿者:まっぺん  投稿日: 3月17日(土)14時55分15秒

「××人はうそつき」というのがよく例に出されるヤツですな。「日本人はうそつき」と言えるのは日本人以外の人でないと矛盾します。10年くらい前に「ゲーデル・エッシャー・バッハ」というぶ厚い本があって、ゲーデルを面白く書いていました。数学に無知な私でも読めた。たいへんおすすめです。

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ついでに補足「ゲーデルの不完全性定理」 投稿者:いずみ  投稿日: 3月17日(土)13時44分36秒

 つーのがあって、これは「無矛盾な公理系は、自身が無矛盾であることを証明できない」というものです。これの対偶を取ると「自身が無矛盾であることを証明できた公理系には内部矛盾がある」ということであって、(数学用語の)直感主義に基づくのでなければ、これは世の中の例え話にはレトリックとして多用できます。例えば「そんなに自分がエラい、エラいって言って、ということは不完全性定理からあんたらはエラくないんだね」とか。(笑)

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いちおうひとこと 投稿者:いずみ  投稿日: 3月17日(土)13時42分00秒

 まず細かいツッコミ。

 ユークリッド幾何学と非ユークリッドが「正反対」というのは、yes ornoというレベルではまぁそうでしょうけど、実態としてはそれだけじゃ非ユークリッド幾何学は成立しないのです。
 ユークリッドの第5公理「直線上にない点を通り元の直線に平行な直線が1本だけ引ける」を否定するから「非ユークリッド」なのですが、ここから新しいモノを組み立てるには、次の、各々相反する命題のいずれかを取捨選択しなければなりません。
  ・直線上にない点を通り元の直線に平行な直線は存在しない
  ・直線上にない点を通り元の直線に平行な直線は無数に存在する
 そして、これによって導かれる諸命題は当然差異が出ます。
 ということなので、実際には「ユークリッド」「非ユークリッドその1」「その2」の3つが3すくみ状態、ということになりますかね。

 とまぁこれは本題には全然関係ないですが、続いて関係あるお話。

>この公理系がローカルルールというところです

 というのはまさにそうですが、「同じ社会」を「互いに相反する公理系」で分析した場合、それぞれの結果は「相互不干渉」です。
 なぜなら、公理は「絶対無矛盾な前提」であり、それらによって導かれた結論が矛盾するのはあたりまえだからです。
 そして、その結論が、それら公理系のいずれとも無矛盾に見える全く別個の公理系により検証され、優劣の差異が評価されたとすれば、その検証に用いた公理系からすれば、「劣」の公理系に「限界がある」という結論が出るだけです。

 よーするに、やっぱり実世界を切り取る方便として、数学は使えないんじゃないかと…^^;;

 「××的」と、「的」をつけるのであれば、そのうちのごく一部をこじつけ比喩的に表す、というレトリック程度の意味はもつとは思いますけどもね。

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補足 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月17日(土)12時25分24秒

>別の文化

別の宗教文化、文明、自然観と申しましょうか。
価値観、世界観の違うという意味です。

宗教性、地域性、ジェネレーション・・・等々を含めて文化と言いました。
・・・上手く伝え切れていない気がします。

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(無題) 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月17日(土)09時08分38秒

>例えばユークリッド幾何学と非ユークリド幾何学は、正反対の命題なんですが、

私はユークリッド幾何学について知りませんので、一寸分からないです・・・。
辞書を引いても良く分からないです。
すいません。

>ですから聖と俗は公理系が違う為、完全に分離独立したものではありえ
なくとも、それらの視座から導き出される結論は違ってきますよね。

公理系が違うとなると、それはもう別の文化ではないでしょうか?
もし、同じ社会共同体で公理系が違えば、全く相対する政治勢力になるでしょう。
価値観が全く違う集団という事になりますから。
ですから、純粋に政治の話しですか?という事を言ったのです。
聖(宗教勢力)と俗(大衆、世俗集団)が公理系、
つまり社会に対する思考が同じ価値観に基づいている事も往々にしてあります。
そうなれば、どちらの視座からであろうが導き出される結論は同じだと思いますが。
立場の違いで結論が違ってくるという話しになれば、
それも又思想の話ではなく、政治・経済の話しではないでしょうか。

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(無題) 投稿者:ザーカイ@組合事務所  投稿日: 3月17日(土)01時05分44秒

>・・・んんん。
>逆に貴方のいう「ローカルルール」というのが分からないのですが。
すみません。わたしの学のなさがわかりにくくさせていると思ってください。
 例えばユークリッド幾何学と非ユークリド幾何学は、正反対の命題なんですが、ともに証明可能(といっても数学がわかっているわけではない)です。このようにどのような公理系かによって導き出される結論が違います。この公理系がローカルルールというところです。
つまり言語で「ありのままの世界」を切り抜いた枠組みの中でも、公理の違いによって世界が違って見えてくるということです。
ですから聖と俗は公理系が違う為、完全に分離独立したものではありえなくとも、それらの視座から導き出される結論は違ってきますよね。

>ジョハルさんへ
一元論の話しは、結局政教分離などはできないという結論でしょうか?つまり、イスラムとは心の領域に留まらず、世俗といわれる政治までイスラムが支配することを考えている宗教なんですか?
確かに法がその地域の文化慣習を土台にしているので、深く根付いた宗教戒律にもとずく文化習慣は法に影響を与えるとは思いますが・・・。

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>ジョハルさん 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月16日(金)19時24分18秒

その「一元論」というのは神と自分との一体性という様なものでしょうか?
具体的に発展させると「神秘主義」(イスラムならスーフィズムが当たるのでしょうか)につながる「それ」でしょうか?

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>>赤いお母さんへ 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月16日(金)19時20分03秒

>?どうしてなんでしょうか????

・・・んんん。
逆に貴方のいう「ローカルルール」というのが分からないのですが。
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人命より仏像が大切な国連安保理 投稿者:赤い山女魚@静共闘  投稿日: 3月16日(金)18時20分39秒

タリバンの肩を持つつもりは毛頭ないが、98年8月、米軍が「大使館爆弾テロへの報復」として行ったアフガン、スーダンへのミサイル攻撃に対して国際社会は何をしたのか!しかもスーダンの場合、「テロ組織の兵器を作っている」と米国は言っていて、「そんなことはない、ただの薬品工場だ、国連は調査に来てくれ」というスーダン政府の要望を無視した。結果イラクに輸出されるはずだった薬品が灰になった。国連安保理にタリバンを非難する権利はない。
 そもそもタリバンは冷戦時代に米国が肩入れしていた勢力じゃないか!今回の騒動で私は本多勝一が書いてた文章を思い出しました。つまり「京都を爆撃しなかったので多くの文化財が戦災を免れた。米国はすばらしい」というが、ドイツのドレスデンは珍しくもないヨーロッパ風の建物しかないので爆撃したが、京都は「東洋のエキゾチックな」建物や美術品があるので爆撃しないで残しただけ。そこに住む人のことなど考えていない。仮に日本人全員がある地域に疎開して京都に人が一人もいない状況になったとして、米軍が日本人が疎開している地域か京都を爆撃することを計画するとする。日本人は「頼むから殺さないでくれ。どうしても爆撃するなら人のいない京都にしてくれ」と頼むだろうが、米国は「いや京都には大切な文化遺産がいっぱいあるから」とこれを拒否し日本人が疎開している地域を爆撃するだろうと言うもの。じっさい米国に良心があれば敗戦が確実だった日本の都市住民を無差別に爆撃することもなく、アジア侵略戦争の最高責任者=天皇がいる皇居を爆撃したはず。
 それから文化財の破壊と言うことで言えば公共事業で十分な調査もなされないまま破壊される遺跡はいっぱいある。

話は変わるがタリバンを承認している国はパキスタン、サウジ、アラブ首長国連邦だが、うしろの2カ国はアラブ内でも親米路線でたしか湾岸戦争でも多国籍軍側についたはず。リビアあたりが承認してるのなら話はわかるが、どうもよくわからない。何でしょうね?

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>赤いお母さんへ 投稿者:ザーカイ@組合事務所  投稿日: 3月16日(金)17時50分04秒

>>でなければ、世俗と聖、政治と宗教というような話自体が成立しませんから。

>つまりこれは思想といった話ではなく、純粋に政治勢力の話し、政治の話しと言うことになりま
>すね?
?どうしてなんでしょうか????

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宗教と社会 投稿者:ジョハル  投稿日: 3月16日(金)17時38分54秒

>世俗と宗教・・・分けられるのでしょうか?
特にイスラムでは、その傾向が強い様ですが。
既に文化の中に宗教的要素が入り込んでいる事は往々にしてあります(その逆もあり)。
政治的、経済的、主観的に分離していたとしても、
俗と聖は独立している訳ではないのではないでしょうか?

イスラームには、聖と俗の分離はありません。また、魂と肉体の分離といった発想はありません。
これもイスラームが一元論的な宗教であるためであり、一元論とは、こういうことでもあります。
この原則が美術に適用される時は、アラベスクになり、偶像という発想もありえなくなります。
ただし、イスラームは全世界で統一されていると同時に多様でもあり、各々の土着の文化においてはこの限りではありません。

宗教と社会の不可分なことについては、マルクス主義という、一神教の典型のような思想に慣れ親しんでいる方々には、理解しやすいと思います。「マルクス主義はプロテスタントの一分派」といったのはトインビーですが、要するに、社会のいかなる現象も、史的唯物論とは無縁ではありえないというのとよく似た発想です。ヴェーバーの指摘を待つまでもなく、宗教と政治、経済というのは、別のものではありえまえせん。デュルケームやレヴィ=ストロースの業績も、宗教が社会を形成するうえで不可欠であることを明らかにしています。例えば、経済における信用といったことも宗教に基づくものです。日本で自由主義が徹底しえないのも、結局はここに原因があると思うのですが。政教分離なるものの起源は、宗教改革と三十年戦争であり、これを最も徹底させようとしたのはフランスの共和制ですが、所詮は緊急避難的措置であり、根本的解決は今に至るまで先延ばしされたままであることは、カール・シュミットも指摘しています。

>さて、宗教間対話に話をスライドさせますと、世俗的な価値観から宗教交差婚(?)を見ると麗しい話なのですが、宗教的な熱心さから見るとどうなんだろうかという疑問が湧きます。教義・戒律的には共通点を結べば済みそうですが、心の王座を何が占めるのか?という意味では、民主的に「人それぞれですね」では済まされない話だと思う。だってそれじゃー、心の王座に民主主義を据えたってことなんですから。この姿勢は西洋合理主義を経由した「原理主義」の裏焼きとしか思えないです。

いや、これは単なる麗しい話ではないんです。おそらく、どちらかが改宗するか別れるかするまで
決着しない話なんです。二人はそれぞれの教会を案内しあい、教義について議論しつづけるでしょう。日本人の恋愛にくらべるとずいぶんシビアですが、彼らにとっての恋愛というのは、本来このような相互理解を前提とするものです。

対話というのは、衝突もなく、すんなり解決するようなものではありえないはずです。そうでなければ、何も話さないのと同じことでしょう。なにやら弁証法のようですが、両者が変わっていくからこそ対話が成立したといえるのだと思います。

>まっぺんさんへ。「復古主義」が大きな動きをするのは大抵「反米」と結びついています。イラン・イスラム革命の時もそうでしたね。マルクス主義者が注目し自らの問題として考えなければならない切り口はやはりここじゃろう、と思います。

イラン革命は、復古主義の例ではまったくありません。ホメイニーの編み出した政体(司法と立法の一部を法学者の会議が担い、立法は議会、行政は直接選挙で選ばれた大統領が担当)は、近代でなければみられないものであり、イスラームの政治論や経済論を、当時ものすごい勢いで構成しようとしていたシャリアティ−やバッキール=サドルがめざしていたのは、近代を乗り越えることです。当時、「監視と処罰」を発表したばかりだったミシェル・フーコーは、この事件に近代の瓦解をみて、熱狂し、学生や労働者、法学者のあいだを駆け回っていました。「近代世界のシステムに対する、最初の、もっとも熱狂的な反抗」と、フーコーはイラン革命のことを呼んでいます。

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>赤いお母さんへ 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月16日(金)14時49分27秒

>でなければ、世俗と聖、政治と宗教というような話自体が成立しませんから。

つまりこれは思想といった話ではなく、純粋に政治勢力の話し、政治の話しと言うことになりますね?

>世俗抜きに聖の視点で聖を生きることはどうやら不可能のようですね。

人間である以上、その通りだと思います。
ですから聖とは神の領域であり、司祭などは俗と聖との仲介者になるわけです。
(だから所詮は言葉等の媒体を使う限り、聖そのものを伝えられないわけですね。
イスラムではアラビア語が最も神の言葉を正確に伝えられるとされていると聞いた事があります)
もし、人間が聖に住すとなると、死を持ってあがなわなければならないと。場合によっては。
(悟りを開いた者は自殺するという慣習もあったようですね・・・インドでは)

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赤いお母さんへ 投稿者:ザーカイ@組合事務所  投稿日: 3月16日(金)11時29分23秒

>政治的、経済的、主観的に分離していたとしても、俗と聖は独立している訳ではない
>のではないでしょうか?
 ふふふ、毎度補足説明の場を提供してくれてありがとう。欲しいところに鋭い突っ込み。
わたしの視点から言えば、仮にありのままの世界というものがあって、政治的、経済的、または、聖と俗などなどと世界を言語によって分離させるのは、「あくまでも人間にとって便利だったするからであり、ありのままの世界を既述したことにはならない」と考えます。その意味ではどれも独立などしていないでしょう。
 ただし、わたしのカキコの大前提には、「ありのままの世界」という枠組みではなく、人間にとって便利なように言語で分離させた枠組みの中での話をしているのだ、というのがあります。
でなければ、世俗と聖、政治と宗教というような話自体が成立しませんから。つまり、分離を前提にせねば、聖と俗を分ける宗教自体を根底から否定し、存在しないものとみなさないといけないですよ。ネットぽく言えばローカルルール内での話というわけ。
ついでいえば、聖と俗はその枠内でも完全には独立していないでしょう。でもプリズムを通した光のスペクトルのような意味での差はあるんじゃないですか?そして世俗の視点で世俗を生きるか、聖の視点から世俗を生きるのか?ともに可能ですが、世俗抜きに聖の視点で聖を生きることはどうやら不可能のようですね。ですから完全独立はしていないと思いますよ。
 
 ちなみに分離の中でのわたしの立場は、世俗90%、無自覚(曖昧?)な宗教性に10%で、そうというところから発言しています。

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宗教間対話 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月16日(金)02時28分27秒

たいていは「愛」だの「慈愛」だのをキーワードにしてお茶を濁している様ですね。
で、「そうではない宗教は本当の宗教ではない」とか言っちゃって。(例、オウム等のカルト)
・・・それもまた大人の解決方法なのかもしれないな・・・。

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(無題) 投稿者:赤いお母さん  投稿日: 3月16日(金)02時22分38秒

>心の王座をアラーに譲るか、それとも世俗的
>な価値に譲るかの、それとも他の宗教に譲るのか?こういう問題なんだと思うのです。

世俗と宗教・・・分けられるのでしょうか?
特にイスラムでは、その傾向が強い様ですが。
既に文化の中に宗教的要素が入り込んでいる事は往々にしてあります(その逆もあり)。
政治的、経済的、主観的に分離していたとしても、
俗と聖は独立している訳ではないのではないでしょうか?

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ジョハルさんへ 投稿者:ザーカイ  投稿日: 3月16日(金)00時27分57秒

>証人をたてる云々というのは、自分の信仰を社会に宣言するための作業で、本人がムスリムじ
>ゃないというならもちろんその人はムスリムではありません。
ふんふん、でしょね〜、やっぱり。
>おそらくイスラミックセンターにいらっしゃったのかと思いますが、日本に来ているムスリム
>の中には、イスラームについて伝えようとするのに熱心なあまり、配慮を欠いた一方的な会話
>をしてしまう人もいるようです。ムスリムの一人としてお詫びします。
あ、いえ、すでに書いたように不快ではないんです。その場ではイスラムコミュニティーに友として受け入れますよ、というような友愛の行為と理解していたんです。でも、知人が「洗礼を受けたから、これで君はムスリムだね」というもんで困惑したわけです。もう少し困惑の内容を語れば、その人はとても大切なものをわたしにプレゼントするような口ぶりだったんで、「ゲ!俺ムスリムになんてなる気ないよ」と言いにくく、それゆえその先をあまり詳しく聞けないでいた状況に困惑していたんです。ですから、イスラム的な文脈において、本人の自覚で決まるというのであれば、問題なしです。
お詫びいただくどころか、教えていただき感謝しています。
#きらいでも好きでもない(ついでに知らない)ものを「拒否」するのって難しいね(^^;)

ところで、追論
>人は社会の中で常に熱狂しているわけにはいかず、むしろそれは一瞬です。ムスリムにとって
>も日常の実践が重要なわけで、それは地道な善行の積み重ねであり、またイスラームの実践に
>ついてなされる思考の多くも日常に関することです。
たぶん「宗教的熱狂」についてなんでしょうね、このレスは。どうも熱狂という時、踊念仏とか、一種のお祭ごとのように想起されるようです。
それは当然かと思います。
しかし、私はそれは取るに足りないことだと考えます。むしろ、心の領域のうちでどれだけ、宗教教義が、信仰が占めているかだと思うわけです。キリスト教なんかでは「心の王座に主が座する」等と表現するようなんですが、まさしく、心の王座をアラーに譲るか、それとも世俗的な価値に譲るかの、それとも他の宗教に譲るのか?こういう問題なんだと思うのです。整理すれば、宗教的熱狂とは、自分の信じる神(教え)に心の王座を明渡すことだと思うわけです。
単純にいえば儀式・形式化ではない信仰の実践=宗教的熱狂なんだと思う。
ですから
>ムスリムにとっても日常の実践が重要なわけで、それは地道な善行の積み重ねであり、またイス
>ラームの実践についてなされる思考の多くも日常に関することです。その中にはいかにして利子
>が蓄積されることなく経済活動の自由が保証されうるのかということや、いかに個々人の自由を
>保証しつつ倫理を形成していくかといったようなことも含まれます。
というようなことも「宗教的熱狂」といってよいのではないでしょうか?ただ、わたしも曖昧なマスコミ用語を定義なしに羅列しているのですから、ココでの理解の齟齬はわたしに非があると思います。特にマスコミ用語は無宗教者からの視点ですので、宗教者にはしっくりこないし、ネガティブな意味合いを含んでいるように感じられるでしょうね。やはり「狂」という字を使わず、「熱心」というべきなんでしょうね。失礼しました。

さて、宗教間対話に話をスライドさせますと、世俗的な価値観から宗教交差婚(?)を見ると麗しい話なのですが、宗教的な熱心さから見るとどうなんだろうかという疑問が湧きます。教義・戒律的には共通点を結べば済みそうですが、心の王座を何が占めるのか?という意味では、民主的に「人それぞれですね」では済まされない話だと思う。だってそれじゃー、心の王座に民主主義を据えたってことなんですから。この姿勢は西洋合理主義を経由した「原理主義」の裏焼きとしか思えないです。
 とりあえず素人ゆえ、この辺にしておきます。
<おまけ>
>右翼推進会さんへ
いや、街頭宣伝は単に表現活動ですから、受け手に選択の自由がありますんで、気にすることはないでしょ。葛藤して欲しいなーと思うのは、受け手に選択権があるとはいえ、努力が実る=勢力が広がることは、闘争としての政治においては強制力を行使する一歩手前だって言うことです。だって「こういう社会を造りたい」というのがあるから運動しているんでしょ?反対陣営と距離はつまっていくんですから前線でぶつかる日も想定しているんでしょ?
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こじつけ 投稿者:アラブ復興車界党  投稿日: 3月16日(金)00時12分50秒

松永の暴力はアナ−キー化を加速させ、信長の暴力は中央集権化を加速させるものだったから。
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矛盾 投稿者:アラブ復興車界党  投稿日: 3月16日(金)00時02分08秒

しかし、何故か東大寺を焼いた松永久秀は好きなのですが。 でもって、
織田信長の比叡山焼き討ちには反感を持っています。

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