四トロ同窓会二次会 2001年12月28日〜29日

まじめな議論・主張・あそび・ぐち・何でも!自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」に掲載される場合もあります。
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(無題) 投稿者:ザーカイ  投稿日:12月29日(土)23時54分01秒

 つまり人間は平等であるべきは、まっぺんさんの意見によると実現不可能であるということです。下記のハンディーキャップによって。
 だが、「人間は自由で平等であるべき」と訴える。大変難しく理解困難な話です。人権とは不公平なものということでよろしいですか?

 死刑が刑罰ではないというのは変な話で,死刑は刑法で定義される刑罰の一種です。こんなものアイデアでしかないんだから,そう定義すればそうなるだけの話。ですから,報復刑だとしてやめさせることだって可能。つまりは被害と量刑を比較衡量して、「等しい」と見なされればいいわけで,今日本では死刑は妥当だとなっている。行政が恣意的にその執行をサボってきただけのはなし。

生死の決定権は個人のものなんだそうですが,死刑制度がある中で大量殺人をするということは、死刑を覚悟したことに等しいわけで、充分個人の決定権は行使されていると思います。
少なくとも今日生きている人が生まれる前から死刑制度はありますからね。

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内ゲバ論 投稿者:まっぺん  投稿日:12月29日(土)17時54分59秒

鬼薔薇さん、ありがとうございます。
わたしは「付き合いきれない」とはいいましたが、議論としてはちゃんと付き合っていますよ。
これまでのところ、ロック・ザ・カスバさんの反論にたいしてはすべて答えてきました。

ロック・ザ・カスバさんが「攻撃」と「防御」を同一視し、どちらも「戦争の一部分」と位置づけるとき
それは「戦争」としてはただしいでしょう。しかし、鬼薔薇さんのおっしゃるとおり、
本質的にそこがちがいますね。わたしは内ゲバを「戦争」とは考えていません。
そもそも「党派対党派」の関係でしか、内ゲバを見ていない事が最大の問題です。
内ゲバ党派同士の「戦争」が結果としては大衆運動そのものを後退させてきたこと、そして
本来、社民や共産党の限界を突破して大衆をより左へ引きつける役割を期待されていたはずの「新左翼」運動が
内ゲバによってたたき合う中で、大衆的支持を失ってゆき、
結果的には左翼的展望をうしなった大衆は民主党だの自民党内改革派だのに期待し始めた。
内ゲバは左翼全体を後退させる犯罪的な行為なのです。
各党派のそれぞれの「党派闘争」は共同の闘いの構築の中で、大衆とともにやるべきなのです。

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死刑に反対する理由 投稿者:まっぺん  投稿日:12月29日(土)17時37分56秒

以前にも書いたと思いますが、簡単な理由です。
個人の生命は個人のものであって、それをどうするかはその個人にのみ決定権があると考えているからです。
「殺人者は死刑になる」のは一見公正であるようですが、結局は「報復刑」の思想でしかありません。
生きる権利が全面的に個人に属するためには「死ぬ権利」も個人に所属しなければ本物ではないと思います。
現在の制度がどうであるか、ではなく、これまでの歴史の中から人間が「人権思想」を獲得し
さらにこれを発展させていこうとするならば、死刑は廃止されなければならないでしょう。
「生きる権利」と「死ぬ権利」とは同等であり、だれにも冒されない個人のものだと思うのです。

また、刑罰とは、一定の期間、自由を奪われた状態におく事がまさに「刑罰」なのだということです。
そうしてみると「死刑」は、犯罪者に対する「刑罰」であるというよりは、刑罰を受ける権利さえも剥奪してしまうわけで
それは「刑罰」にはなりません。死刑とは、刑罰ではなく、社会からの絶対的排除でしかない。

経済的理由が犯罪の背景にあるというのは社会的な事実です。私はただそれを指摘しただけであり、
それだからといって「おれが犯罪を犯したのはおれのせいじゃないー!社会が悪いんだー」と
責任を回避する理由にはなりません。
なお」、自殺についても、アフガンと日本とはまた違うでしょう。アフガンではみんなが貧しいが、
その中でしたたかに生きようとしている。
貧困が恒常的な後進国世界と、これまで年功序列体系の中で働いてきて不況の中で会社に捨てられ始めた
中高年世代を抱える日本とを同等に比較することはできないでしょう。
おそらく終戦後の焼け跡の時代なら、今よりも生活ははるかにきびしかったと思いますが
こんなに自殺者は増えてはいなかったでしょう。
現在、年間の自殺者数は3万人を越えています。バブル時代は2万人前後だったのが
約十年で1.5倍になっったわけです。

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「存在抹殺」と「共同体」主義 投稿者:鬼薔薇  投稿日:12月29日(土)17時33分02秒

 まっぺんさんとロック・ザ・カスバさんのやりとり拝見してきて、きわめて本質的な点に触れられたと感じました。脇からということになりますけれど、別発言への補足も兼ねて、感じたことを少し述べたく思います。
 「きわめて本質的な点」に触れられたと思いますのは、ロック・ザ・カスバさんの次のご発言でございます。

>敵が明確に味方のせん滅を目的とした攻撃をしかけてきている以上、その行為主体たる
>敵の存在そのものへの反撃をおこたればその場における敗北は必死です。

 ここで内ゲバの対象たる「他党派」は、「存在そのもの」を許すべからざる「敵」と位置付けられております。それは「批判」ではなく「せん滅」=「抹殺」の対象なわけですね。この「存在そのもの」を認めない「抹殺」のための行動こそ、殺戮を目的意識化した「内ゲバ」の核芯のはずとわたし思います。「反革命」とか「ファシスト」といった対象規定は、「存在そのもの」を許さないという敵規定の政治言語化にすぎません。
 ロック・ザ・カスバさんはそのように位置付けられた「内ゲバ」を遂行する立場から発言されており、まっぺんさんはそのような位置付けそのものを拒否する立場で発言しておられます。「軍事」をめぐるやりとりがございましたが、お二人では語られている「軍事」の意味が質的に異なるのだと思います。その質の差が何であるかを解明する議論を期待いたしたく思います。わたしまっぺんさんのご意見にかなり近いのですが、この点に核心を見出しそこを掘り進めるのではなく、「付き合いきれない」といって対話を遮断されてしまうご姿勢は残念に思いました。この「核心」認識において、わたしまっぺんさんと食い違うのでしょうか。
 
 政治集団(政治党派)とは政治的存在として互いに競合する存在でございます。「綱領」的認識から革命路線、現状認識、そして具体的な闘争戦術に至るまで、その競合は多次元的でありつつ主張の一貫性を求められましょう。最初から完璧な理論などあるわけもなく、また実践は不断に新しく生起する現実を相手にするのですから、こうした諸次元での競合は、それを通じて競合する集団の理論や認識を深め広げて行くように作用するはずです。「思想闘争」という言葉の生産的な意味をそこに求めることができると存じます。「不断に新しく生起する現実」とは、この社会そのものの動きです。煎じ詰めればそれは、支配権力とその下にある大衆の行動に他なりません。党派の競合が上のような生産力をもつためには、その競合が支配権力とその下にある大衆の行動に向かって開かれていることが絶対条件となるはずでございます。そのとき政治集団は「現実」によって批判され、試される位置に立ちます。「開かれている」というのは、この批判・試練をみずから遮断せず引き受け、それに応答することを意味いたします。
 
 「存在抹殺」の内ゲバに関わる党派は、これと逆の方を向いているのではないでしょうか。権力と、また大衆と向き合うことを回避して組織に自閉し、自閉した自己を「敵」との関係で逆規定する位置に置いてしまい、その「敵」のうちに(相対する)「社会」全体を幻視してしまう、それが「存在抹殺」を正当化する論理ではないかと考えるところでございます。
 まっぺんさん(たち)の言われる「内ゲバ党派」批判は、上のような論理が「党派性」として人間の精神を呪縛していく筋道を解き明かすところへ進むのでなければ、やはりもうひとつの「党派性」の正当化に終ってしまうような気がいたしました。

 「共同体」主義に言及する紙幅がなくなりました。これにつきましてはまたあらためまして。

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kuropan 投稿者:SEOUL is snowy  投稿日:12月29日(土)16時28分54秒

ABEL PAZ wa genkisugi masu.
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(無題) 投稿者:ザーカイ  投稿日:12月29日(土)15時49分19秒

>死刑も殺人である! 
 死刑って殺人刑なんだから当然そうですよ。そしてそれ以前に殺人犯は殺人を犯しているわけです。だから死刑を宣告されたわけです。
 ですから他の人権(これ自体は後で問うが)を奪ったものに対していかなる量刑が適切かが問題ではないかというわけです。
 そして今の日本では尊属殺人や大量殺人については死刑が適切であるとなっている。立法府が決め、司法で判断したものに行政が執行しないというのはそれ相当の理由がなければならないわけで,政府はそれに答える必要がある。政府はこれまでなぜ執行しなかったかについては説明していない。
もちろん死刑反対運動の存在は知っているが、政府に「なぜ執行しないのか?」を問うことはなかったと思う。なぜそれが必要かといえば,「近年の執行率のアップはどういうわけなのか」を問うのであればそれ以前に執行しない時に執行しない理由を確認し,一定の基準を明確にさせることが可能だからだ。行政府の恣意的判断は少なくできる。

さてまっぺんさんは
>人間は自由・平等であるべきであり、それぞれの人権は守られなければならない。
といっていますが、これは憲法の人権規定にそうあるから、なのでしょうか?
それともまっぺんさんがそうあって欲しいと願っているということでしょうか?
しかしながら、残念なことに人権は守ろうとする人は加害者にはなりませんが被害者にはなります。
 そして「殺す!」人は他者の人権を奪い、生命までも奪います。
つまりハンディキャップマッチなわけです。これは平等ですか?
 死刑廃止論者は人権無視の人間には刑期覚悟なら殺す権利を認め,人権を守っている者には「ハンディーを我慢しろ」といっているに等しいと思いますが?わたしは人権とは倫理規定であり,そうあって欲しいという努力目標であり,しかし何ら実効性のあるものではないと思います。つまり現代の十戒。
刑罰あって始めて実効性が確保されていると理解しています。その刑罰として死刑がどれだけ実効性を持つか?また被害と量刑とのバランスがとれているか?これが問題だと思うので,死刑は殺人だからダメなどというのは、「殺人は死刑になるから止めろ〜〜」と呼び止めても死刑覚悟の人には何ら効力を発揮しないのと同様に無力な感情論です。

 さらに経済的理由が殺人事件の大抵の背景とあります。
わたしもそうかもしれないと思います。しかし、同じように困窮する人すべてが殺人を犯すわけではありません。つまりは殺す人個人は殺さない人とは違うなにかがあると観るべきではないかと思います。社会のせいにすることはこの個人の責任を不明確にするだけです。

また自殺者についてもですが,自殺する人はするし,しない人はしないだけです。それは個人の決定の問題です。もちろん経済的な問題をクリアーできれば,もっと人生を充実できる可能性ができますから,自殺の増減とは無関係に、よりよいとは思います。
 ただ、実際の生活困窮国などでは自殺は少ないんですよね。アフガンなどであれだけ餓死者・難民が沢山出るということ自体、生活困窮では人は自殺なんかしない証拠なんですけどね。

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せみまるさん2 投稿者:AIT久我山支部(準)  投稿日:12月29日(土)12時40分23秒

>>トロツキー研究所に問い合わせてみればより詳しい事がわかると思います。

 これはある意味,1960年代以降の日本左翼の運動状況を,ML研(て,まだ
あるの?=共産党の「理論研究所」)に聞くようなもので..(^_^;;)。
 別に「純粋な学問」なんて存在しないけど,トロ研のマフノ分析となれば,
一定のイデオロギー的制約は避けられないでしょう。アナ研があれば),その
逆も然りなのかも知れないけど。

 というわけなので,睦月さんの情報提供を踏まえつつ,

>>かかる実証が不十分の場合は,双方が,実証分析を継続していくしかないと
>>思われますが。

 というように思われます。

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内ゲバについて(3) 投稿者:小西まこと  投稿日:12月29日(土)12時21分22秒

 葉寺覚明さんから「新左翼大論争」を出して欲しいという要望がありましたが、いやー、葉寺さんにやってもらうと助かりますがー。
まあ、2/3に「検証 内ゲバ」出版記念シンポを行いますので、それを見て考えましょう(これは構想が固まったらここに告知します)。
 さて、蝉丸さんへの反論を少ししておきたいと思います。でも、活字に慣れている者としては、画面上で理論的論争をするというのは、大変ですね。

(1)内ゲバと女性差別の問題について
 まず、一般に暴力とその発展としての戦争が差別主義をともなう、あるいは、強力な差別主義の煽動をもって行使されることには、異論はないと思います。
 問題は内ゲバですが、これはとりあえず暴力・戦争一般ではなく、当事者においては「革命的暴力・革命的戦争」として位置づけられています。
 この革命的暴力・戦争の行使(内ゲバ)は、権力の暴力・戦争の行使と異なり、「差別主義」ではなく、「反差別主義」を煽動し、さらにそれへ純化することによって、成立するのではないでしょうか?
 つまり、「共産主義的人間」への徹底的純化とそれに反対する者を「差別主義者」ー反革命と規定することによって内ゲバは成立したのではないでしょうか。
 もちろん、これは政治路線上の「反革命規定」をともないながらですが。
 中核派は、ご存じの通り、この「反差別主義」=「血債主義」をイデオロギーの中心に据えていますし、運動ー組織実態の「半分」を占めていると言っていいでしょう。また、解放派の両派は、そのほとんどがイデオロギー的にも組織・運動実体的にもこの「反差別主義」を中心に据えていると思います。
 問題は、この論理構造に当てはまらない革マル派ですが、彼らの場合は、プロ的人間の論理に基づく黒田組織論が、独特の「日本型スターリン主義」として形成されたのではないでしょうか。
 蝉丸さんは、中核派メンバーの誠実さ、真面目さを言っておられますが、残念ながら彼らのこの「潔癖さ」が、「反差別主義」「血債主義」として純化したと思います。
 「前進」新年号では「13億イスラム人民への血債」などという、とんでもない血債主義が登場しています。
 そして、中核派や解放派の内ゲバが、革マル派と比較して「激しい」のも、こうした思想が背景にあると思われます。
 まあ、まだ感想的な問題提起に過ぎませんので、もう少しじっくり考えたいと思います。

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(無題) 投稿者:せみまる  投稿日:12月29日(土)10時47分09秒

AIT久我山支部(準) さん、こんにちは。
文献的にはわかりませんが、クロンシュタットをよびマフノの事が、二次会掲示板の過去ログに出てきます。
http://redmole.m78.com/1999/1999-10b.html
http://redmole.m78.com/1999/1999-10c.html
http://redmole.m78.com/1999/1999-10d.html
を見てください。投稿者トロスキーさんはトロツキーについて詳しい方で、トロツキー研究所の関係者かもしれません。
クロンシュタット反乱の最大の原因は、当時の国際的干渉による内戦のために革命政府が採用した戦時共産主義政策のために
穀物の強制徴発を強いられた農民の悲惨な生活状況によるものです。水兵のほとんどは農民出身であり、
その要求には同情せざるを得ません。そのため、反乱鎮圧に向かった赤軍兵士が次々と反乱側に寝返ったそうです。
しかし、クロンシュタット要塞の地理的位置を見ると、やがて氷がとければ外国干渉軍が突入する絶好の場所にあり、
革命の成否を左右する重大なポイントであった事が、水兵たちの悲劇となったものです。
トロツキーはクロンシュタット水兵を口を極めてののしっていますが、政治的な見地に立った発言だったと思わざるを得ません。
「革命の防衛」か「水兵の要求」かの選択を迫られて、結局革命政府は水兵たちを切り捨てたわけですが、これは結果として、
ボリシェビキによる弾圧という、革命の歴史に深い傷を残したといえますが、では、どのような解決策があったのかも
併せて考えると苦悶するものがあります。
マフノについては、スターリン一派の挑発がマフノを頑なな態度に追い込んだ、と聞いていますが詳しくはありません。
トロツキー研究所に問い合わせてみればより詳しい事がわかると思います。

「トロツキー研究」No.22はスペイン革命の特集でしたが、今後、トロツキズムとアナーキズムとの闘争史
についても特集が組まれるべきじゃないかと思います。

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お手数かけました 投稿者:睦月  投稿日:12月29日(土)09時57分05秒

まっぺんさん、ごめんなさい。
で、特に読んでほしいのは下のリンク先の「3」の「第一一項」です。

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睦月さんの投稿削除しました。 投稿者:まっぺん  投稿日:12月29日(土)09時52分26秒

せっかく「クロンシュタット」資料を載せていただいたけど、しかたありません。

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あ、ごめんね。 投稿者:睦月  投稿日:12月29日(土)04時24分34秒

引用等の転載はダメだって書いてあった(^^;
すみませんが下のは削除お願いします。
でURLの紹介だけね↓

http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kronshtadt.htm

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小西さ〜ん 投稿者:葉寺覚明  投稿日:12月29日(土)02時56分46秒

「新左翼・大論争」、今度は「内ゲバ特集」で、出してえ(←なんでココに書くんだ?)!

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せみまるさん 投稿者:AIT久我山支部(準)  投稿日:12月29日(土)01時18分57秒

 はじめまして。

>>いったん反革命側につくか、或いは反革命軍に有利な行動にたてしまった時、
>>やむなく戦わねばならなくなった、という方向で説明されるのが、最近の研
>>究的立場であるようです。

 これについては,どのような文献があるか,ご存じの範囲でいいですから,紹介してくれませんか。その研究が(これも分かる範囲で)どのような立場での研究か,ということも含めて。

 というのは,何を以て「反革命軍につく」とするのか,は極めて重要であると同時に,恣意的な視野を排除した上で分析すべき事項であるからです。
 マフノやクロンシュタットが,客観的かつ普遍的に「反革命軍についた」ことが多面的に実証されたのであれば,アナキストによるロシア革命史は書き換える必要があるからです。もし,この逆であれば,スターリニスト・ボルシェビキ・トロツキスト等々による初期ロシア革命史(と,一括りにすると,トロツキストの方は怒ると思いますが,こと,マフノ・クロンシュタットに関すれば,その視点に極端に大きな違いはないと考えています)こそが,書き直されなくてはならくなります。

 かかる実証が不十分の場合は,双方が,実証分析を継続していくしかないと思われますが。

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RE:内ゲバについて 投稿者:鬼薔薇  投稿日:12月29日(土)00時57分10秒

>せみまるさま、コメントありがとうございました。

 わたしが維新の志士などを持ち出して指摘したく思いましたのは、「心理的」親近性というより、「思想のかたち」という点にございました。ここで思想と申しますのはもちろん「革命思想」、それはなにより「権力」像に規定される主体意識の問題とわたし心得ます。
 
 維新の志士たちが彼らの構想した「国」の像を獲得するためには、「藩」という<社会的現実>から脱却したところに身を置かねばなりませんでした。戦前の講座派マルクス主義は、打倒すべき「天皇制絶対主義」という権力と理念的に対峙するために、経済社会レベルの個別利害対立の世界を超越した「革命」理念の世界に身を置くことを要求いたしました(福本和夫の唱えた「分離−結合論」はその体系化だったと存じます)。この(宗教社会学の用語を援用するなら)「現世超越的〜現世拒否的」な理念の担い手に「革命」の主体を置く思想のかたちという点で、「脱藩思想」と「講座派マルクス主義」は共通していたと思うのです。「現世超越」には独自の緊張感、強烈なイデオロギー性が働いており、そこに自己絶対化の契機が含まれていたはずでございます。
 これに対して、「現世内的」変革の論理というものが対比されます。幕末期の「藩制改革」運動や、講座派に対する旧労農派マルクス主義は、<社会的現実>のなかの諸矛盾・諸対立の次元から身をもぎ離さず、そのなから上向的に社会総体の変革を展望しようという道筋にあったといえるかと存じます。こうした上向的変革の論理が「素朴実践主義」や「個別闘争」積み重ね論を超えて社会総体の変革を展望しうるためには条件がございましょう。それは、<社会的現実>というもの自体が亀裂を生じ、そのままでは維持され得ない状況にあることを洞察し、その自己解体の道筋にそって個別利害をめぐる闘争の枠組みを内側から変えていく具体的な指導力でございます。これは理論的にも組織的にもにも大変に困難な課題でございましょう。

 ここで重要なことは、「現世超越」モデルの持つ強烈なイデオロギー性に抗することの難しさでございます。戦前の労農・講座論争が大方講座派の「勝利」に終りましたのも、資本主義分析の理論と実証の面で講座派が相対的に正しかったからというより、権力に対立する強度のイデオロギー性がもった迫力によっていたのではないでしょうか。この強度のイデオロギー性は、<現実>を(実証分析以上に)論理的に裁断し、そこでの「立場」選択を「階級性」の名のもとに迫ります。「革命か、でなければ反革命」という鮮明な分岐が一人ひとりにつきつけられます。迫られる「選択」に伴う緊張がひとつの「思想のかたち」を形成するのでございます。
 
 このようにして形成された「思想のかたち」というものは、「事実」の面でいくら「誤り」を指摘されたところで容易に崩れるものではございません。なぜなら、「事実」などは無限にあるため、指摘しうる「事実」はたえず部分的であるほかないのに対し、このイデオロギー性が描き出すのは先験的に「全体」像だからでございます。このイデオロギー性は、強い魅力をたたえてございます。およそ「革命党派」に命をあずけた人であれば、この魅力にとらわれなかったはずはございません。
 
 相手を(階級的な)「敵=反革命」と規定し、その存在そのものを抹殺の対象に据えるという「内ゲバ」の思考パターンは、こうした「思想のかたち」を否定的に純粋培養した姿ではないのでしょうか。
 
 「心理」の問題というより「思想」の問題と申します趣旨、お汲み取りいただければ幸いに存じます。
 
 なお、明治維新を「支配階級内部の権力闘争」と仰る歴史認識には、とうてい同意いたしかねます。あれは、かたちはどうあれ新しい「国」づくりを成し遂げた「近代化革命」として捉えるべき社会変革だったはずでございます。

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内ゲバについて(2) 投稿者:せみまる  投稿日:12月28日(金)16時01分49秒

●小西さんと中核派について

 私と小西さんの議論の論点のひとつは「小西さんはいつ中核派から出るべきであったか」という事だと思います。私は「さっさと出て中核派新党をつくるべきであった」と言っているわけですが、小西さんは、それを否定しているわけです。小西さんは中核派に対して辛辣な批判をしながらも、そこから脱退することを潔しとしなかった理由は、他からも指摘されているように、やはり「中核派」に対する思い入れがあるのでしょう。
 しかし、それはもっと具体的に解明されなければ論争にはなり得ません。小西さんは中核派の「どこ」に未練を懐き続けてきたのでしょうか?「組織」に対する思い入れは、考えられるとすれば4つくらいでしょう。
 (1)組織理論・綱領(2)組織のもつ大衆性(3)組織が築いてきた成果(4)組織の同盟員への期待・・・・という事でしょうか?

(1)であるならば、トロツキズムと反スタ理論との論争が必要となるでしょう。両派を分ける決定的な問題は「ソ連論」です。そこから世界革命戦略のちがいとして論争は展開されるでしょう。
(2)これまでの中核派の内ゲバ主義と、それをやめている現在でもなお他党派を「反革命」「ファシズム」などと規定し自己絶対視を続ける状態では大衆運動を広げていくことはできない。
(3)過去の成果についてはわたしも認めるところです。左翼運動にかかわった頃、私のまわりには多数の中核派がいました。そして、例えばある高校からデモに行く時に校門から3000名の白ヘル部隊が繰り出していった、などという伝説をいくつも聞いています。中核派は大衆性と戦闘性を兼ね備えた輝かしい歴史を持っています。しかし、このような歴史を再び取り戻すことは絶対にない、と断言していいでしょう。中核派はみずから、その可能性をつぶしたと思います。
(4)中核派に所属した献身的な青年たちはひとりひとり、解放された未来をめざして純粋な気持ちで闘いに参加していったのだという事は疑うべくもありません。小西さんはこうした諸君のために組織から離れることを拒んだのでしょうか? それならば、すでに「かけはし」紙上で批判したように、それは逆効果であっただろうと思います。小西さんは中核派のみならず第四インター派もふくめた多くの組織・大衆運動のなかで注目されており、「中核派である」ことの対外的デメリットを差し引いても、なお大衆運動にとって重要な存在であり続けました。しかし、それは客観的にはなにを意味したでしょうか?
 中核派は、その小西さんの大衆的影響力を組織と大衆との関係の維持に利用していたし、組織内部の「不満分子」も小西さんが中核派のメンバーであり続ける限りにおいて、なお中核派に期待をつないでいたのではないでしょうか?民主主義の存在しないスターリン主義組織の内部でメンバーが健全な意識を取り戻し、新しい可能性にむかって自立してゆくためにも、小西さんは早急に中核派から離脱し、外部から呼びかけるべきだったんではないでしょうか。

●マフノとボリシェビキ

 黒パンさんの投稿についての反論です。マフノは内戦時代、白軍と闘ってめざましい功績をあげました。しかしスターリン派赤軍からの挑発によって反革命軍へと寝返り、結果としてトロツキーは戦わねばならなくなったと記憶しています。クロンシュタットのアナーキスト水兵の弾圧でもそうでしたが、いったん反革命側につくか、或いは反革命軍に有利な行動にたてしまった時、やむなく戦わねばならなくなった、という方向で説明されるのが、最近の研究的立場であるようです。ただし、これは最近の説明であって、私が現役のインターであった頃には、マフノもクロンシュタットも反革命であったから戦った、という説明しか聞いていませんでした。

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内ゲバについて 投稿者:せみまる  投稿日:12月28日(金)13時38分49秒

●「差別」と「内ゲバ」について

 小西さんのおっしゃる事には思い当たることが非常にあります。70年華青闘発言以来、中核派は特に「差別」について非常に敏感であった記憶があります。部落解放同盟による差別糾弾闘争が高揚していた時でもあり、差別語や差別意識についての自己点検が左翼党派の中では強く意識されていきました。しかし、そこには落とし穴もあって、マスコミは「差別語」だけを切り離して「放送禁止用語」へとすり替えてゆく方向にいくし、「差別糾弾」を党派闘争の手段にするというような事もおこなわれました。しかし、それは当時、差別の実態を社会的に認識させていく、という反差別闘争が通らなければならない歴史でもあったわけで、問題があった事をもってその闘争方針そのものを否定するべきではないと思います。
 私が出会った中核派の諸君はたいていまじめで、おそらく小西さんがおっしゃるように組織内部での差別事件などは起こりにくかっただろうと想像されます。そして、それは意識が解放されていたからではなく、むしろ「自己否定理論」に基づいた「組織的道徳」によるものであったようです。まじめな青年たちの誠実さと禁欲とに依拠して中核派という組織は成立していた、といえるんじゃないでしょうか? その点では実際に多くの女性被害者を出した第四インター派組織と、内部でのそのような問題をそれほど出してはいなかった中核派との違いを認識するべきでしょう。

 しかし、中核派も女性問題が皆無ではなかった「らしい」事が『新左翼その再生への道』に明らかにされています。いま手許にその本がないので記憶によりますが、「女性問題ではないか?」と推測される問題によって中核派幹部がいつのまにか除名されていた事が小西氏によって指摘されています。組織幹部のそのような問題について、組織討議にかけられたのかどうかはわかりませんが、少なくとも、一般の同盟員には何の情報も知らされずに「問題ある幹部を除名した」組織のあり方は問題ではないでしょうか?
 第四インター派は女性差別の実態について、民主的討論の場を一応つくり、議論と糾弾の闘争を内部でおこないました。しかし、組織中央はあやまった「組織防衛」のために女性たちの追及を正面から受け止めずに官僚的な統制をおこなおうとした。それが組織崩壊のひとつの要素となったわけです。しかし、中核派はそもそもそのような事実をすら下部同盟員に知らせず、問題をヤミに葬り去った、という事ではないでしょうか? 両者のこの違いは、ふたつの組織のあり方の違いが際だっている部分であると感じます。

●明治維新と内ゲバ

 鬼薔薇さんのたいへん斬新なご指摘があったので、ちょっと考えてみます。「内ゲバと社会学」のなかで明治維新における対抗勢力同士の殺し合いを「内ゲバ」の源流と位置づけるのはあるいは「心理学」的には有効かもしれませんね。しかし、明治維新とは、旧幕藩体制に依拠する勢力と、そこから抜け出て「天皇の権威」を利用する勢力とで、近代日本の新しい政治権力を巡っておこなわれた権力抗争であるわけで、それまでの身分制社会を廃止するという意味で「平民」の一部もこの抗争に加わったわけですが、しかし、結局は下級武士を中心とする日本の支配階級内部の権力闘争なわけです。つまり明治維新ではフランス革命のような「人民の蜂起」は存在していないわけです。
 結局これまでの日本の歴史のなかにはほとんど「人民による闘争」は実現してこなかった。わずかに「秩父困民党事件」や戦国時代の一向宗信徒などの一揆、九州「島原の乱」などに見られる程度でしょう。戦後の歴史においても人民の団結によるコミューン建設などといった運動は、一部の党派新聞の中には存在しても、実現のための行動はほとんどなかったといっていいでしょう。我々の先輩達の闘争の中にそれを見るとするならば、わずかに「全共闘運動」がそれにあたるかも知れません。

 党派の共闘ではなく、地域や学園、職場規模で、様々な政治傾向、政治党派を巻き込んで民主的な討議と行動の統一をめざす運動の経験のなさが、日本の左翼に「内ゲバ」以外の党派闘争の方法をイメージさせなかったんでしょうね。もちろん、そこには分派排除と党の絶対視というスターリン主義共産党の重大な犯罪的行動も指摘されなければなりません。

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再度プレアデスさんのこと\(^o^)/ 投稿者:甘美なるまっぺん  投稿日:12月28日(金)11時34分16秒

プレアデスさんがどういう方かだいたい理解しました。「遊撃インターネット」にご登場です。
なかなか「すてき」な文章を書いておられたので、サワリをコピペします。

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●HD 題名:リトル・ペブルに与えられたメッセージ 投稿日 : 2001年12月28日<金>05時00分

以下の文章にご興味をもたれた方はどうぞ下記HPをご覧下さい。(なおここ最近、私達に成りすました一部の方による悪質な嫌がらせが続いています。万一不審な投稿、メールをご覧になられた場合はお手数ですがご一報頂ければ幸いです。)
http://homepage1.nifty.com/charbeljapan/index.htm
甘美なる子らよ、ロシアはヨーロッパと合衆国への侵略を計画しています。この国はまた日本への攻撃も計画しています。それ故甘美なる子らよ、あなたたちは祈らなければなりません。邪悪が広まるのをくい止めるために祈らなければなりません。多くの霊魂を救うために祈らなければなりません。なぜなら、彼らの多くは準備していないからです。あなたたち甘美なる子らよ、あなたたちの祈りと犠牲によって多くの魂たちを強めなさい。
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ぜひ全文読みましょう↓幸福なきもちで年を越せます(?)

http://ranking.to/freebbs/mkboard.cgi?yuugeki

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死刑も殺人である! 投稿者:まっぺん  投稿日:12月28日(金)10時46分05秒

先週「ザーカイ2」板にも書いたけど、一部コピペします。

●人間は自由・平等であるべきであり、それぞれの人権は守られなければならない。
●人権は「どんな人」に対しても平等に与えられるべきである。
●したがって、人は人を殺す権利はなく、同じ理由により「殺した人を死刑にする」権利もない。
●世の中に「死んで当然」な人はただの一人も存在しない。どんな犯罪者でも!
●世の中に「生まれてこなければ良かった」ひともただのひとりもいない。

●現代社会でわれわれが遭遇する「犯罪」の最大の原因は「経済的原因」である。
●窃盗・強盗・詐欺・殺人・保険金詐欺など、多くが経済に関わる犯罪である。
●自殺の多くも経済にかかわる。年間3万人の自殺者の大部分が失業者や経済破綻者である。
●資本主義の「自由競争経済」は多くの人々を不幸に陥れている。
●自由競争経済は人々を「強者=成功者」と「弱者」と「最弱者=破綻者」に振り分けていく。
●経済破綻者は、それでも生きていくためにやむなく犯罪を犯すか、生存を諦めて自殺する。
●したがって、資本主義経済が大量の犯罪者と自殺者を生み出しているのである。

http://6301.teacup.com/kkmk/bbs

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(無題) 投稿者:ザーカイ  投稿日:12月28日(金)01時41分25秒

 死刑制度って犯罪被害者対策じゃないと思うのですが・・・・
死刑によって遺族などにえられるものがあったらそれこそ変。最近犯罪被害者や遺族が加害者(大抵殺人犯)を死刑にしろ〜〜と声高に叫び、要求していますがね。これには不快感あり。
 とりあえずブルジョア社会で問えるのは、単に犯した罪と量刑の重さのバランスとして適切か否かだと思いますが,いかがでしょう?
 また執行もしない死刑制度はいらないともいえますし,死刑制度があるんだから執行をきちんとすることこそ適切な行政の「お仕事」ともいえそう。
すくなくとも行政判断で執行したり、しなかったりいう恣意的判断は断じて許されないことでしょう。死刑制度がある内は粛々と滞りなく執行されることがむしろ妥当であり,かつ執行においてはキチンとその事実を国民に報告すべきではないでしょうか?

国家のこれまでの執行の少なさも、執行したことの非(?)公開も論点をあいまいにする政治手段のような気がしてなりません。
以上雑感でした
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