四トロ同窓会二次会 2002年1月5日〜7日
誰でも歓迎!何でも自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」その他に掲載する場合もあります。
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「思い」と普遍性 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月 7日(月)23時59分41秒
>黒パンさま ご厚情溢れるコメントにお礼申します。
> 鬼薔薇 さんの、党派闘争の「被害者」への「鎮魂」は個人的な思いの部分だと思います。
>残された者として「鎮魂」を語る必然性があるならば、私個人の鬼薔薇さんに書いて欲しい
>という部分は、個人的な部分です。
個人的な思いは血の涙が枯れるほどございました。ご家族を含め、「思い」を直接に共有する者の間で繰り返し語り合ってもまいりました。でも、そうした個人レベルでの「思い」をもってなしうるのは、やはり個人レベルの鎮魂以上ではございません。それでは悔しさと悲しみと追憶の域を出ることはできない、それだけでは決定的に足りないというもうひとつの「思い」にも突き当たってまいりました。彼または彼女たちはただ「個人」として死んだり傷ついたりしたわけではないからでございます。そんな彼らを時間の中で遠ざかるに任せることはわたしにはできません。彼らのもひとつ向うに、50年大分裂〜六全協期の日本共産党まわりの犠牲者たちを想えばなおさらでございます。
> その「鎮魂」は限られた固有名詞の死者へなのか、自殺者も含めれば小西さんがデータ化した
>以上に多くの死者総体になのか関心があります。
ここでわたしにとって「語る必然性がある」のは後者でございます。「限られた固有名詞の死者」への個人的な「思い」は、そのなかに自覚的に織り込んでいきたいと念じております。うまくお伝えできる自信がないのは残念ですけれど、あの「データ」を冒頭に掲げた叙述にも、相通じる思いをわたし感じ取っております。
「亡くなった人は再び帰らない以上、生き残った者は何をすればいいのか」といった問いかけが敗戦後よくされました。戦争の犠牲者になら「不戦の誓い」、権力との闘いに倒れた人々に対してならその遺志を継ぐ決意、要は死者たちの思いをわが思いに引き継ぐ誓いをもってその魂を鎮めようといたします。それは生者たちが自らの生の意味を確認する手続きでもございましょう。
でも「内ゲバ」の死者たちに対しては? 「内ゲバ」を否定しようとする以上、彼または彼女たちの思いをわが思いとして「引き継ぐ」など決してできぬ道理でございます。そのような「死」そのものの否定・拒否を死者たちにあえて突き付けねば、それこそなすべき「鎮魂」ではないか、そこで初めて先のふたつの「思い」をひとつに撚り合わせることもできるのではないか、そのように考えながら、暮しの変転を含めてはや数十年を過ごしてしまいました。いえ、血の涙が枯れて乾く時間のなかで、ようやくこうした考えに至ったというべきでございましょう。
彼らが死んだ「死」の意味をどこまで根底から覆えせるか、残された者としてそれを問われていると思います。これはある意味「死者総体」との「闘い」でございましょう。その時、固有名詞の死者たちは「死者総体」のなかに数えられる存在となります。その「死者総体」に通じる言葉をもってしか、固有名詞の死者たちの魂に届くこともないとも思います。そのような言葉は、わたし自身の批判・否定を含む普遍的な地平に見出すほかないと(諦念を込めて)思うところでございます。
> 個の部分をチラツカセながら、社会運動が生み出したという「内ゲバ」一般を語るボーダーを
>踏み越えて欲しいと思っています。
死者たちの魂が虚空をさまよっているように、わたしもまた当面は、おっしゃる「ボーダー」の近傍をうろうろするのでしょうけど、お言葉は胸に刻んでおく心算でございます。ありがとうございました。m(__)m
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う〜ん・・・その頃の文献は 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月 7日(月)17時43分54秒
我が家のどこかにあるとは思うんですが、とても探し出すことはできません。
それよりは新時代社に聞いてみる方が手っ取り早いと思いますね。
どーしても、という事であればきいてみます。(^^)
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文献は見せてもらえれば 投稿者:黒パン 投稿日: 1月 7日(月)17時30分35秒
少なくとも、73年後半、74年くらいは私がチェックできます。
73年に早稲田を中心として「大衆的」にも党派闘争、もしくは革マル派
の暴力を批判する者たちへの暴力を止められられなかったことが、その後
のエスカレーションする結果をもたらしています。私の<あるいは私たち
非党派としての>考えは法政大であれば、象徴的党派としては中核派、
神奈川大であれば解放派であり早稲田と同じ事態を生じさせているという
認識はありました。解放派が明治を「制圧」して行くのは、もう少し後ですが。
あくまでも「日本」の現実の場での展開が軸ということです。
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あ、そっか!(^^;;) 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月 7日(月)17時20分24秒
読み違えだったみたいです
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あのタイトルは 投稿者:黒パン 投稿日: 1月 7日(月)17時08分53秒
「私が」なぜこだわるか、です。
こだわる理由を説明しているのが書き込みです。
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こだわっているのは黒パンさんのほうだと思う 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月7日(月)16時41分44秒
> それゆえ、73年から80年に至る主張も、これを機に「まとめられる」のが
>望ましいと思います。
それが「望ましい」かどうかはともかく、やる事は悪い事ではないでしょう。
しかし、今、それをやることに黒パンさんがこだわるのはなぜなのでしょう?
「73年まででは不足だ!それ以降の総括が必要だ!」というのは、
それがないと「反内ゲバ」の主張は本物にならないのでしょうか?
考えて見てください。73年〜80年というと、
「世界革命」は旬刊から週刊体制へと移行していった頃ですから
7年間のバックナンバーを調べるだけでも4000〜5000ページもの
新聞を調べる必要があるでしょう。
しかも、それらを抜き出して、読み、内容を整理していかなければなりません。
今のまっぺんにはその力量はありません。たぶん新時代社にもないでしょう。
それとも、その部分の「総括」をださなければ第四インターの「内ゲバはんたい」なんて
口先だけのインチキで、しょせん党派なんて信用できないという事なのでしょうか?
黒パンさんが言われた「単なる主張のための引用」という言葉は、第四インター派が
フランスであろうと日本であろうと、内ゲバ主義党派から
生命の危険をかけてもその主張を曲げずに闘ってきた事実にたいして、
あまりにも軽々しい批判に思えます。
中核派、革マル派、解放派、フロント派、共産党などから暴力を加えられ、
時には瀕死の重傷を負わされてきた同志達にたいして、
そーゆー言い方は、やっぱりひどいなー!
なお「トロツキーの時代から防衛的であった」という事の意味ですが、
これは「内ゲバを仕掛けられた時には防衛する」という意味ならば正解ですが、
それは「消極的」というような意味で理解しているのだとしたらまったくまちがいです。
過去から現在にいたるまで、第四インター派は「反内ゲバ闘争」を攻勢的に主張し実践しています。
それは「国際革命文庫」にも、99年2月発行の『共同行動の原則と「内バ」主義』にも明らかです。
内ゲバ党派が現在も存続し居直りつづけているかぎり反内ゲバ闘争はつづくでしょう。
反内ゲバ闘争は「階級闘争の原則」を貫くための闘争なのです。
そして、この闘争は、かつては新左翼諸党派の中で第四インター派だけの絶望的に孤立した闘いでしたが
今日では、その壁が破られ、多くの心ある人々が、党派人も含めて共同戦線として共に戦えるようになった事は
大きな前進であると思います。
参考文献↓「共同行動の原則と内ゲバ主義」
http://www.jrcl.net/web/p02c.html
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なぜ、こだわるのか 投稿者:黒パン 投稿日: 1月 7日(月)15時43分38秒
第四インターが「内ゲバ」反対を掲げた唯一の党派故、テキスト
と総括を期待するわけです。
もちろん、このサイトはまっぺんさんと協力者の方がたのテキスト
選択で、少しずつ整備されたもので、かつての「党」、もしくは現在の
「党」の立場を担うものではないことを承知していますが、せみまる
さんの「書評」から始った「内ゲバ」論議の中で、当時の第四インター
の内ゲバ反対の主張は、たびたび引用されています。
それは小西さんたちの「今」の作業と異なり、1960年代後半から党として主張
されていたものです。
それゆえ、73年から80年に至る主張も、これを機に「まとめられる」のが
望ましいと思います。
まっぺんさんの責に帰するものではないことは承知していますが、党派闘争に
関わる「暴力」行使を全面的に検証して行くならば、繰り返し指摘しているように
73年の党派「大衆」部隊の衝突から、革マル派の他党派を実態的にも「解体」する
という「路線」に傾く、この時期における「内ゲバ」批判がどのような質を持って
いたのか、より重要になると思われます。
トロツキーの時代から防衛的であった、フランスの同志も原則であった、というのは
単なる主張のための引用であり、<日本>の現実の運動の中で実践され、展開された活
動の総括が求められるわけです。
そういう意味では、9月までの「総括」では極めて中途半端としか言いよう
がありません。
三越屋上のノンセクトは内ゲバのために結集していたわけではなく、73年5月以降
早稲田学内での会議や集会を設定できなくなった、グループは他大学や大規模喫茶店
での集りを余儀なくされます。革マル派はレポを駆使し、隙があれば襲撃体制を構えて
いたわけです。襲われたから「内ゲバ」派という結論は短絡です。
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国際革命文庫のもくてき 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月 7日(月)14時35分50秒
「国際革命文庫」が発行されたのは、あとがきの日付から1973年10月であ
ることがわかります。その論文の多くが当時の機関紙「世界革命」からの転載です。
論文は全部で8本所収されており、そのうち3本までが川口君殺害を端緒とする早稲田闘争に関連した論文です。
そのうちの三番目の論文「内ゲバを追放せよ」には冒頭、次のように書かれています。
******************
11・8早大闘争を全国の闘う学生の力で勝利しよう
9月15日、神奈川大学で革マル派と解放派が醜悪なゲバルトを展開し、二名が死亡し、二十数名が病院に収容された。つづいて翌日には革マル派が三越デパート屋上で早大のノンセクト活動家を鉄パイプで襲い、さらに次の日鷺谷駅で革マル派と中核派が「衝突」した。こうして9月17日早大新学期明けをピークとして時と所を選ばずに異常なまでに新左翼党派は内ゲバを激化させている。
われわれは、内ゲバ主義を大衆闘争の発展の観点から常に厳しく批判してきたが、今日の局面にいたってわれわれは強く主張せねばならない。内ゲバ主義はこの悪無限の袋小路に陥いり、ついに文字通り「殺し合い」にまで発展した。
そして、その内ゲバは「党派闘争」のベールを捨てて、大衆闘争に向けられている、と。そしてまたわれわれは全ての闘う労働者、学生によびかける。内ゲバを実力で大衆運動から追放しよう。
******************
ここには革マル派がノンセクトを鉄パイプで襲撃した事が出ています。
もちろん「ノンセクトが革マル派を襲撃した」とは書いてない。ではこのノンセクトははたして「内ゲバに反対」だったのでしょうか?
この論文の著者でなければ正確には言えないと思いますが、しかし、当時はどこのセクトも、このような襲撃合戦をおこなっていました。
そうなっていった最大の原因は、革マル派による内ゲバ襲撃に対抗して、どのセクトも
革マル派との内ゲバ戦に引きずり込まれていったからだ、という見方がいちばん妥当だと思います。
「内ゲバに反対する」明確な政治的動機をもたないセクトは次々と、この革マル派の土俵に引き込まれ、
多くの活動家と大衆的支持を失っていったということです。
「国際革命文庫」に所収の論文は73年10月までですが、それをもって「それ以後の早大闘争の総括がない」というのは、
その後も引き続き発行されている「世界革命」紙を無視しているんじゃありませんか。
また、早大闘争の総括にまで話をひろげると、過去の新聞にあたっていか
なくてはならなくなりますが、それはかなりしんどい「発掘作業」になります。
そもそも、この「国際革命文庫」発行の目的は「早大闘争の総括」ではありません。
早稲田闘争や相模原闘争、また沖縄におけるフロント派による学生インターへの襲撃、連合赤軍事件など
内ゲバと、それに連なる政治的発想にたいして第四インターが主張してきた理論であり実践を広く知らしめる事なのです。
したがって、ここで問題にしなければならないのは、
「内ゲバについてどう考えるか、内ゲバについての第四インターの主張に対してどう考えるか」という事であるべきじゃないでしょうか?
http://redmole.m78.com/bunko/07/bunko07f.html
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続・1973年 投稿者:黒パン 投稿日: 1月 7日(月)13時48分58秒
下で引用した「国際革命文庫」からのテキストは明らかに73年の
9月の党派間闘争が、さらにあらたな質に入ったことを<党派内大衆部隊が暴力を目的として
結集させられたり、公の場でも激化させたこと>ふまえて書かれています。
そして早稲田解放闘争が念頭にあったと思います。それ以前にはノンセクト主義による
「内ゲバ」への批判が見受けられませんが。見落としているのかな?
もし状況一般を語るならば、検証も含めて説明すべきであると思いま
す。どちらとも取れるレベルにしても「触れてみただけ」という安易な展開です。
当時の<九月時点>早稲田解放闘争をめぐる状況に関してはネグレクト
したまの論文ではないかと思います。4月から9月の早稲田学内をめぐる状況です。
そしてまた、この後の「総括」がテキストとして書かれているのか、そうでないのか。
これだけ力を入れて、早稲田あるいは「内ゲバ」をめぐる状況を語るならば重要なポイント
だと思います。
都合がいい部分だけの論文では、唯一の「内ゲバ」反対党派としても整合がつかないのでは。
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小西さん,まっぺんさん 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 1月 6日(日)20時24分32秒
>>内ゲバ後の荒廃した左派・社会運動
>>を体験させられた若い人たち(久我山
>>さんがそうなのか推測ですが)
小西さんよりは下だと思います?が,そう大きく変わるものではないと理解して下さって結構です(つまり,目の前でその類のドンパチを見たことがないわけではない,という)。
なお,見解と『立場性』の相違を越えて,小西さんが真摯に総括しようとする姿勢は,前々から賛同しているところです。
>>内ゲバを追放するためには、理論的な解明も、もちろん重要なことにちがいありませ
>>んが、一方このような「党派や思想の違いをこえて現実の運動において団結し共闘し
>>ていく」具体的な行動が重要であると思います。
前々から表明しているとおり,まっぺんさんのこうしたスタンスにも,全面的に賛成です。
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特定の方へ向けて、書いたわけではない(汗) 投稿者:紅芋 投稿日: 1月 6日(日)20時09分00秒
小西さん。
先の投稿は、小西さんのみへ向けたものではありませんでした。タイトルがいけなかったなあ、。
ここ最近、小西さんのお名前を見るにつけ懐かしくて、ついあのタイトルへとなってしまったのでした。
で、流れを見るにつけ、党派闘争としての内ゲバに力点が置かれているように感じたものですから、つい書き込んでしまいました。
私自身、市民運動にほそぼそと関わっているものとして、革マル派の存在が許しがたいと感じる場面にしばしば出くわします。
数々の市民運動への敵対、破壊などの対象となりえている当事者であったりします。
また、右翼との実力攻防(暴力を伴う衝突、)なども、これまでの闘争経過において幾度が経験しております。
集会の防衛や、デモ等への彼らの襲撃に対しては、「断固」としてこれを粉砕すべく「暴力的対応」も辞さずです。それらは、主催する側の責任として、呼びかけを行った者の一人としてそれに「応えて」結集した方々に対する防衛、及び集会などの貫徹は責務としてあると考えるからです。
そして、ある時期(課題によっては、現在も、)、防衛隊を組織しなければ集会・デモの一つもやりきる事はできなかった事がありました。
それをも暴力一般の批判の中にすえることに関しては、それでは集会の呼びかけをする者の責任とは?という質問をするしかありません。
「防衛としての暴力」は、しかし限定的に使用されるべきだとも思います。
「革命闘争」の防衛であるとか、革命党の防衛という無限に拡大する路線としてされるべきだとも思えません。
それを言い出したら、革命を口にする者たちにとって都合の良い、いついかなる場面においても革命を口にする事で許される暴力になってしまうからです。
それでは、常に私たちを解体しようとする者たちに対して、どのような対処(日常的な、)をすれば良いのかってのは、今のところ具体的な策を持ち合わせている訳でもないのですが、。
この投稿も、もとより小西さんあてに書いたものという事でもありません。
しかし、、この投稿内容は、ここの流れについていってないなあ、、ふうー、。
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もうひとつの「四トロことば」 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月 6日(日)17時44分37秒
「内ゲバ主義」のほかにもうひとつ思い出しました。
第四インターは当時「内ゲバ」という代わりに「内部ゲバルト」という言葉を使っていますね。
国際革命文庫のタイトルも「革命的暴力と内部ゲバルト」です。
これは現場の我々学生インターにはすこぶる評判が悪いことばで
「なんで、『内ゲバ』ってストレートにいわないんかなー。『内部ゲバルト』なんて、きどった言い方すんなよなー」
と、みんな思ってましたが、この言葉も早稲田の学生大衆のあいだから聞こえてきた時
「お!浸透してる」と思ったことも付け加えておきます。
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早大闘争・補足 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月 6日(日)16時31分57秒
黒パンさんは「早稲田のノンセクトがそうじゃない」と言っているだけですが、引用された部分は
はたしてそう読むべきなのでしょうか? 早稲田以外のノンセクトは除外されるべきなのでしょうか?
「早大闘争」だから?
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早大闘争 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月 6日(日)16時26分21秒
黒パンさんの疑問は、当時、第四インターでなくとも「内ゲバ反対」を唱えていた勢力があったのではないかという疑問ですか?
また「内ゲバ」について「早稲田大学」のことに限定して議論しているのでしょうか?
72〜73年の早大キャンパスにはいろいろなセクトが外部から侵入し、ビラをまき、議論していました。
キャンパス内には自然に議論の輪ができ、学生たちが熱心に討論していました。
セクトを囲んで問いつめる場面も何度も見ました。
議論の焦点はひとつには早稲田大学自治の問題でしたが、それは同時に
学生運動における暴力の問題でもあり、セクトが「外部の学生であるかどうか」は
それほど問題にならなかったと記憶しています。
内ゲバそのものに反対する宣伝は党派としては(ノンセクトも含め)第四インター派以外には
「学園から暴力を追放しよう」という共産党・民青系の反トロキャンペーンしかなかったと思います。
我々は当時「内ゲバ主義」ということばを使っており、それはどこの党派も使用していませんでしたが
早稲田の学生大衆の中からその言葉が聞こえてきた時には
われわれの一定の宣伝効果があったと確信しました。
「それは第四インターとは無関係だ。そういう主張は党派のエゴイズムだ」と思うならば、
そう思っても結構ですが、私はそう判断しておりません。
当時、内ゲバに明確に、理論的にも、実践的にも反対していたのは我々だけでした。
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共産同蜂起派「赤星」諸君にあつい連帯のごあいさつ(^^) 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月 6日(日)15時56分11秒
模索舎に行って共産主義者同盟『赤星』新年号を買ってきました。トロツキズム・シンパのまっぺんとしては理論上、見るべきところはない、と言っても過言ではありません。三里塚闘争では中核派系の北原派だし、いまさら「bund再建」なんて言ってるし、とても賛同できません。しかし、注目したのは、この党派が反グローバリズム闘争の国際的発展に着目し、自らもこれに合流しようとしている事。彼らの「思想」はともかく、現実に世界の運動に学び、連帯してたたかおうという姿勢に対しては連帯の意志を示したいと思います。『赤星』新年号4ページにはフランスを訪問し社会運動の現状を視察してきた報告が大きく写真入りで報道されています。9月24日〜29日に訪れた反失業行動AC!、ATTAC、住宅権利協会、独立労組の事務所や、その活動現場、デモなどが生き生きと報告されています。
一方、新時代社『かけはし』新年号にはトロツキー」研究所の湯川氏が同じ時期にフランスを訪問し、同じ場所を訪れていることが報道されており、さらにAC! の全国集会に「山谷労働者のAさんが日本からの連帯のあいさつを行」なったことが書かれています。つまり、党派のちがいを越えておなじグローバリズム資本主義に反対する者同士が、ともに共同の行動をおこなっている事がここから推察されます。いまのところ気付いたのは「赤星」だけですが、ほかにも別の党派・団体の人が同行したのかどうかは知りません。
なお『赤星』7ページにはアタック・ジャパン結成集会の報告もされております。内ゲバを追放するためには、理論的な解明も、もちろん重要なことにちがいありませんが、一方このような「党派や思想の違いをこえて現実の運動において団結し共闘していく」具体的な行動が重要であると思います。
http://www.jrcl.net/web/frame0101j.html
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ノンセクト主義に触れている箇所 投稿者:黒パン 投稿日: 1月 6日(日)15時18
分17秒
仕事に出る寸前なので、質問の根拠にしたテキストの指摘だけ。
「国際革命文庫」
「革命的暴力と内部ゲバルト」
――プロレタリア民主主義の創造をめざして――
の以下のテキスト内。このテキストし72-73年の状況に限定して語っていると私は
判断しています。とりわけ以下は73年の党派間の衝突激化を踏まえている内容です。
そこに唐突に、ノンセクト主義とゲバルトに言及しています。
72年以降はノンセクトのグループは革マルとの衝突は無かったと思いますが。
まっぺんさんの聞いたという経験は71年頃までの話ではないのですか。
一般的にあったかないかではなく、早稲田解放闘争では、ノンセクトクトでもノンセクト
主義のグループでも「党派闘争による暴力」反対というのが共通項だったので、なかったと
いうことを明らかにしておきます。
自派の主張の唯一性を展開するために、検証抜きにテキスト内で触れるという、党派の
スタンスが問われるわけです。
あくまでも、以下のテキストの範疇に沿った疑問です。
http://redmole.m78.com/bunko/07/bunko07f.html
≪『内ゲバを追放せよ
11・8早大闘争を全国の闘う学生の力で勝利しよう』
●内ゲバ主義党派はすべて同罪である
だが、革マル派の「あまりにも度し難い堕落」をもって、あと一つの内
ゲバ主義者を免罪してはならない。中核派、社青同解放派そして多くのノ
ンセクト主義の諸君による内ゲバの論理にもとづいた革マル派とのゲバル
トもまた、多くの労働者学生に絶望と不信をまきちらしているのだ。≫
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セクトとノンセクト 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月 6日(日)14時57分12秒
黒パンさんからの質問にまっぺんの過去の経験から答えたいと思います。ノンセクトは内ゲバをおこなう団体かどうか?
いや、そもそも「ノンセクトとは何か?」を考えておかなくてはならないなー。ノンセクトって何でしょう?
新左翼における、一定の綱領なり革命展望なりを持ってあつまった集団セクトというなら
ノンセクトとは、そういった綱領的文書をもたない集団ですよね。
でも、たいていは、現実の学園闘争や社会問題に対して、現実的な方針をたてて闘う組織でもある。
それはそれで、たたかう事はいい事です。展望のない者は闘う資格がない、などというのはセクト主義まるだしな主張です。
しかし、経験的にいって、まっぺんが過去に出会ったノンセクトの人たちはほぼ例外なく革マル派に対する憎悪むき出しであり
「どこそこの大学で革マル派とゲバになった」というニュースも聞いています。もう遠い過去の事ですから
「何年何月何日にどこの大学であったか?」と聞かれても困るし、当時の新聞などで報道されているかどうかもわからないので
証拠を出せといわれても困りますが、「ノンセクトだから内ゲバに反対」という話はきいた事がありません。
私の大学にも黒ヘルと青ヘルのノンセクトがいましたが、彼らも内ゲバに反対ではありませんでした。
ただ、力関係で革マル派より弱小だったために手を出さなかったけど。
だからノンセクトが大きな勢力であったら、おそらく革マル派は学園から実力でたたき出されていたでしょう。
重要なのは、当時の早稲田闘争に対する姿勢として
(1)「革マル派を追放するためになんでもアリ」なのか、それとも
(2)「内ゲバ主義の追放のために革マル派を排除するのか」という事なのか、ではないでしょうか?
当時、ノンセクトも含めてすべての政治的党派・団体が(1)の立場であり、それは「内ゲバ主義」の問題を克服しないかぎり革マル派を追放しても、別の内ゲバ党派・ノンセクトによる学園支配となったにすぎないでしょう。
(2)の立場はプロレタリア民主主義を前提としなければ実現しません。当時こういう主張をしていたのは第四インターだけでした。
http://redmole.m78.com/bunko/07/bunko072.html
http://redmole.m78.com/bunko/07/bunko07f.html
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紅芋さん、こんにちは 投稿者:小西まこと 投稿日: 1月 6日(日)14時13分19秒
紅芋さんの下記の御意見ですが、結局、内ゲバを生みだした根源を僕は個人間の対立の問題を含めてレーニン型「プロ民主主義」のの誤りーひいてはマルクスの民主主義論の未成熟ーそして日本における「本物の民主主義」の未成熟の問題だと提起しているわけですが。
紅芋さん、「検証 内ゲバ」を是非お読み下さい。
個人間においてさえ、相対する者を罵倒し排除する場面はあります。時として、暴力的に「叩き出す」という場面はある訳です。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/shakai.htm
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小西さん、随分お久しぶりです(謎) 投稿者:紅芋 投稿日: 1月 6日(日)13時48分40秒
皆様の、内ゲバ論を読みながら、改めて党派闘争の「歴史」を見る思いがいたします。
私は、内ゲバとは、ある方向性を持った党派(組織)間におけるヘゲ争奪戦だという認識があります。唯一の前衛党(組織)を自称するものの必然的な到達点だと考えている訳です。
あるいは、唯一の革命路線(闘争戦術、)として、他を排除する論理だという認識です。
日和見集団、あるいは混乱を持ち込むものとして他党派・組織に対して「暴力的措置」に限定した党派闘争から、「あることをきっかけ」として一線を超えていく、目的・意識性を持った殲滅戦へと踏み込んでいく。そして、自らの正当性を表明するものとして、対立党派・組織をファシスト・反革命と規定する。
その場合、限定的な暴力である、という事と「完全殲滅」という事の間に、本質的な違いを見ることはできないように思うのです。それは、単に段階として移行したに過ぎないのではないだろうか、。
60年代の頃から、概に大衆的集会の場において、それに結集したc毎の隊列としての衝突は見られた。それらは、恒常的暴力ではなかったという事にして、あるいは目的・意識性を持ったものではなかったという事にしてしまって良いのでしょうか、。
個人間においてさえ、相対する者を罵倒し排除する場面はあります。時として、暴力的に「叩き出す」という場面はある訳です。
勿論、個人間におけるそれと、党派・組織間におけるそれとは、その重量感、現象面から言っても異なるように見えますが、線を引いていけば、延長としてのそれにたどり着くのではないでしょうか、。
党派闘争としての内ゲバという事に限定した(限定している訳でもないでしょうが、)論議だけでは、今一つ何かが足りないという思がして、書き込んでしましました。
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鬼薔薇さんの立場性 投稿者:小西まこと 投稿日: 1月 6日(日)10時47分25秒
鬼薔薇さん
僕は鬼薔薇さんの書き込みを読んでその「立場性」はそれなりに理解できます。おそらく同世代(推測です)だから、ということでしょう。
ただ、鬼薔薇さん。内ゲバの検証については、久我山さんをはじめ、「かってに殺し合っていろ」などの意見が出てくるのは当然だと思いますよ。
内ゲバ後の荒廃した左派・社会運動を体験させられた若い人たち(久我山さんがそうなのか推測ですが)にとっては、内ゲバ党派も、その関係者達も同様に「嫌悪」の対象でしょう。
だからこそ、僕などはなおさら内ゲバの検証が必要だと思っているのです。
というわけで、鬼薔薇さん、これからも御意見をお聞かせ下さい。
ただ、もう少しやさしく論理を展開してください。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/shakai.htm
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>のんきちくん 投稿者:睦月 投稿日: 1月 6日(日)10時10分50秒
俺は着てないっすよ…。<例の制服
管理人様、私信ごめんなさいm(_ _)m 不適切だったら削除してください。
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おめれとう 投稿者:梅田のんきち 投稿日: 1月 6日(日)09時19分51秒
せみまるさん、おめでとうございます。
うんと、例の制服着た人はせみまるさんだけだったですか?(謎)
ぼくはどうもCNT−AITよりFAIグループのほうを応援したくなるので(久我山さん、すみません)アナルコ・サンディカリズムの限界性とかをおもってしまいます。
LLORETでは、どちらも同じって書いてあったですが…
でも、たしかにスペイン内戦ではサンディカリストが主体だったとは、おもいますが…
レーニンはまた書きます(てへへ)。
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じゃーそのレトリックやめろよ。 投稿者:いずみ 投稿日: 1月 6日(日)01時08分33秒
という言い方には「正義」がないのはわかってますが(笑)、でも言いたくなるよね。やっぱり。
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DPRK観光 投稿者:川魚 投稿日: 1月 6日(日)00時13分22秒
話しの流れからは逸れますが。。
いま、Yahoo!ニュースを見てたら、
北朝鮮の国家観光局?かどこかが、日本人観光客向けに、サイト作成しつつある、
とありました。
http://www.dprknta.com/
ここです。
まだよう見てないんですが。
かつては、この国にも憧れてたものです〜。
まっぺんさま>びみょ〜に、トップ変わったんですね(笑)
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さらに 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 1月 5日(土)22時45分40秒
ネット上での発言は(自戒の念を込めてですが)なるべく,要約し簡潔にされた方が
よろしいと思います。無用なネット資源の浪費やスムーズな議論を妨げないためにも。
あ。これも「立場性」ですか?
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ついでに 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 1月 5日(土)22時43分15秒
>>やっぱり言葉って不完全なものですね(苦笑)。
使い方を誤ると,より不完全になることのケースと考えられます。
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その上で 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 1月 5日(土)22時40分00秒
>>わたしは「鬼薔薇」というハンドルで言葉を使うだけの存在、その「立場性」はここ
>>での発言が示す「考え」がすべてでございます。その発言を通じて、わたしの「立場
>>性」と久我山さんのそれとは、「内ゲバ」の当事者たちとの位置関係についてきれい
>>なコントラストをすでに示してございます。
>>
>>言葉の不完全さに抗いながら伝えたいことを言葉で伝えようとするとき、みずから
>>語り出したものの制約と言葉の持つ限界に対しては、なるべく謙虚でありたいと思
>>っております。
と,あなたが述べる「立場性」については,理解しました。というか,それだけでし
かないので,それ以上でもそれ以下でもないという意味で。
他の人はともかく,あなたの発言の「立場性」は,以上による,ということで,僕は
「理解」しました。以降,かかる理解に基づいて,適切な対応をいたします。
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だから 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 1月 5日(土)22時28分58秒
>>私的経歴」によって
ではありませんので。
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失念。 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 1月 5日(土)22時26分43秒
>>あの時オマエ
>>は何やっていたんだ?ということではないと思うのです。
は,「あの時オマエは何やっていたんだということだけではないと思うのです」に修正。失礼。
掲示が錯綜してますが,鬼薔薇さん,そういうことですから,以下の掲示とあわせてご理解の程を。
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「立場性」・2 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月 5日(土)22時22分32秒
ひるがえって「立場性」とは何でしょう? それは何より今現在の場にかかわることと存じます。こちらの皆さまとの関わりで申すなら、わたしは「鬼薔薇」というハンドルで言葉を使うだけの存在、その「立場性」はここでの発言が示す「考え」がすべてでございます。その発言を通じて、わたしの「立場性」と久我山さんのそれとは、「内ゲバ」の当事者たちとの位置関係についてきれいなコントラストをすでに示してございます。久我山さんが「あんまり続けたくない」とのご意向を示されたのも、こうした議論の展開と無関係ではないはずと思っております。
さてその「立場性」という用語、久我山さん御自身もお使いでしたね。
> ちなみに,僕の「個々の具体例」での立場性を予め提示しておきます。
> 僕は「これからの運動」を考えたとき,「暴力一般の否定」は必ずしも
>無意味だとも,権力を利するとも思っていません。多分,これはNOIZさん
>の立場というか,考え方とは一致しないと思いますけど(一致してたらゴ
>メンですが)。
まさしく「立場性」は、今ここでの「考え方」に他なりません。そんなものは今お前が問われている「立場性」ではない、ということでしたら、どんなものを「立場性」と考えておられるのか、お示しいただければと存じます。
最後に一点、これはご質問とはちがいますが。
> > なお、“同じことでも彼が言えば間違いだがわたしが言えば正しい”という次元が
>存在すること、わたしまったく否定いたしませんので念のため。
>
> こんなの論外.よくまあいけしゃあしゃあとこんなこと言えるものですね
そうですか? あまりいい例えではございませんが、同じ「反帝・反スターリン主義、革命的プロレタリア党の創成」を掲げる二派の殺し合いなど、どうお考えでしょう?
上の文での「彼」と「わたし」はもちろん変換可能な記号ですけど、noiz さんにはそんなご経験ございません? わたし、イヤというほど経験してまいりました。言いたい事を表現するに、言葉などけっこう不完全で不便なツールだと。久我山さんが、わたしの「私的経歴」によって「言うことの重みも変わらざるを得ない」と仰るのもまたここに根拠のあることと存じます。“言葉だけなら何とでも言える”、だからその言葉の背後に何か確からしい情報を、ということでございましょう。お気持ちはわかるつもりですが、しかしそうした背景情報のようなものもまたネット上では不確かなる言葉によるほかないのですね。そこでわたしは別な発言スタンスを採っていること、黒パンさん宛て書いたとおりでございます。
言葉の不完全さに抗いながら伝えたいことを言葉で伝えようとするとき、みずから語り出したものの制約と言葉の持つ限界に対しては、なるべく謙虚でありたいと思っております。
「謙虚」などという言葉、「傲慢」との謗りを受けている身にはおよそ似つかわしくないと冷笑されるかもわかりませんけれど(苦笑)。
失礼いたしました。m(__)m
追:>AIT久我山支部(準) さま
文中、お名前を(しかも短縮して)何度も引き合いに出させていただいておりますが、文脈上やむなきこととご了解いただきたく存じます。
なお、「そろそろお開き」〜「ごきげんよう」と申しましたのは、この間の議論に限ったことで、わたしがこの場から退出するという意思表明では決してございません。誤解を招くような表現でしたらお詫びいたします。やっぱり言葉って不完全なものですね(苦笑)。
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「立場性」・1 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月 5日(土)22時20分42秒
>noiz さま 新年早々ご不快を呼びましたそうで、まことに申し訳ございません。
ご質問いただいた点、小さくないことと思いますのでお答えいたします。短くいきたいのはやまやまでございますが、文章力の不足からつい長くなってしまいそう。問題の重要性にかんがみましてご容赦いただきたく存じます。
>「生産的な議論」って何ですか? 誰がどのように生産的か否かと決定するんだろうか?
第一義的には、議論の当事者にとっての意義でございましょう。当事者が“やる気のする”議論、“どうしてもやらなきゃ”と思える議論こそ「生産的」と呼ぶに値するものと存じます。このたびにつきましては、お相手の久我山さんから「あんまり続けたくないネタ」との意志表示がございました。「続けたくない」とは情熱の対象たり得ぬことの意とわたし受け止めますし、それを無理強いするようなことは本位ではございません。その意味で、「生産性」判断は関係に規定された主観的なもの、したがって揺れるものではございますが。
もちろんご指摘のように、別の方からみてわたしの、あるいは久我山さんの発言に議論するだけの意義が見出される場合もございましょう。そうした場合には、その新たな当事者間で別の議論が始まるものと思います。
>鬼薔薇さんが問われているのはそういうことではないと思う.属人的
云々よりただ単に
>立場性が問われているんじゃないですか?
さ、どうでしょう。久我山さんからのお尋ねは次の通りでございました。
>あなたは内ゲバの「当事者」であったのか,それとも「大衆」(無関係の人,傍観者,
>あるいは朝日ジャーナル的評論家?という意味も含むでしょう)であったのか,それ
>によって,言うことの重みも変わらざるを得ない,と思います。
これは「立場性」のことでしょうか、それとも「俗人的」なことでしょうか? わたし後者と受け取りました。“かつてお前は何者であったのか”という意味の内容だからでございます。久我山さんご自身が語られました“無党派運動からアナキズム的志向へ”という「私的経緯」もこれに対応しており、その意味でご発言は論旨一貫したものと存じます。
語られました「私的経緯」、わたしそれによって久我山さんのご意見を秤量しておりません。逆に、表明されたお考えに照らしてこの「私的経緯」は充分納得のいくもの、その意味で(「事実」など直接には何ひとつ知り得ずとも)「真実」と受け止めることができること、前回ご本人宛て書いたとおりでございます。
以上、久我山さんから問われたことは、「立場性」より「俗人的」なことであったと考える次第、そしてそれに対するわたしの立場のとり方を(繰り返しも多くて恐縮ですが)申し述べました。
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せみまるさんほか 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 1月 5日(土)22時07分32秒
せみまるさん,アベルパスのイベントに来ていたのですね!
さて,以下の
>>「内ゲバは党派があるからおこるのだ」という久我山さんの主張
は,短絡的な要約に過ぎます。というのは,僕はその後の掲示で,
>>アナだろうとボルだろうと何だろうと,「自覚した運動主体」の側が,そう
>>でない「大衆」との関係をどう捉えるか,そこで行使する戦術と運動全体の
>>利益というものをどう考えるべきなのか,..に集約される
と,文意の補強・修正を行いつつ,内ゲバは党派闘争の所産である,という総括自体は変更しておりません。但し,ここでいう「党派闘争」は70年代日本に分析課題を限定した上で敷衍する,としました。なので,そちらの解釈も訂正して下さい。
NOIZさん,あなたの立場は理解しました。やはり僕とは異なると思いますが,その辺は何も一致点共闘で全然構わないと思うので。「暴力」の定義,をより明確にした上で,「現代の課題」にどう立ち向かうべきか,じっくりと,議論を継続したいと思います(ここ以外でもいいです)。
鬼薔薇さん,まだいるようなので,NOIZさんや黒パンさんが言ったことに敢えて重ねますが,立場性とは,何も名札をぶらさげることでなんかではないです。「出自」だとか,どこの党派にいるのかいないのか,とか,あの時オマエは何やっていたんだ?ということではないと思うのです。
「今」「ここで」「あなたは」「どういう立場で」「内ゲバの問題」などを論じているのだ,ということです。
これはネットの匿名性云々とは,直接「関係ないこと」ですし,少なくともあなたの文章からはそれが伝わってこないから聞いたまでのことです。あなたは,伝えたつもりなのに,オマエ(ら)に読解力がないのだ,とさえとれるようなレスだったがゆえに「傲慢」とさせて貰ったわけです。
別に評論家の立場だ,研究者の立場だ,記者の立場だ,でも構わないと思いますよ。
このあと,話に加わるも加わらないも自由ですが,ここは「議論」の場である以上,僕に限らず,「議論の前提となる立場性(しかも議題が,鋭く見解の分かれる可能性のある問題であるだけに)」を問われることだけは間違いがありません。それは理解された方が,あなたのためでしょう。
これは僕の「勝手に全員死ぬまで殺し合ってろ!」という発言を例に取れば簡単です。僕がどのような立場であのような発言をしたのか,それを明確にしているからこそ,少なくとも,単なる揶揄や煽りでないことが明らかになるわけでしょう(あなたはそれに絶望的なものを感じたようですが)。
もとより,こういうデリケートな議題にかかる議論とは,オン−オフ問わず,そういうもんだと思いますが。
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党派闘争の激化は7273年から 投稿者:黒パン 投稿日: 1月 5日(土)18時41分01秒
鬼薔薇さん、
もっとシンプルに書き込みは位置付けでもいいのではないですか、必要以上に防衛的な
立場をとっているように思います。
「内ゲバ」論は、世代で括るのは嫌いのですが、あの時代をリアルに見て≪活動してい
なくても≫いた者と、感覚的なところで、若い世代と触れる事にすら、大
きな隔たりがあるのは事実です。久我山さんが嫌悪感を示すのは理解できます。
鬼薔薇 さんの論点は、私なりの言葉で翻意して図式的に書いてしまう
と、「内ゲバ」は党派の閉鎖的な思想形成のなかで生み出される、さらに
黒田哲学の固有性に言及。
この範囲を超えない論の繰り返しのように思います。
鬼薔薇 さんの、党派闘争の「被害者」への「鎮魂」は個人的な思いの部分だと思います。
残された者として「鎮魂」を語る必然性があるならば、私個人の鬼薔薇さんに書いて欲しい
という部分は、個人的な部分です。具体的に名を名乗ってということではなく、抽象的な書き
込みにしても表現の可能性はあると思います。
その「鎮魂」は限られた固有名詞の死者へなのか、自殺者も含めれば小西さんがデータ化した
以上に多くの死者総体になのか関心があります。
個の部分をチラツカセながら、社会運動が生み出したという「内ゲバ」一般を語るボーダーを
踏み越えて欲しいと思っています。
私自身は党派闘争が激化した状況は1972,73年の川口君虐殺糾弾・早大解放闘争にあると
思います。
昨年の書き込みでも触れましたが「田中・佐竹」問題で内部的危機、最大・中心拠点と
位置付けた早大自治会を失うという外部的危機に直面し、革マル派は73年の新学期と同時に
革マル自治会をリコールした「新」自治会のクラス委員レベルのメンバーへの鉄パイプ
襲撃を開始し怪我を負わせ、学内展開を封殺します。
9月には解放派の拠点、神奈川大学への革マル派百名を越す部隊で襲撃を行いますが、レポ
の二名を解放派に殺されるという被害も受けています。
中核派の部隊は鶯谷のホームで襲い、ノンセクトのグループは新宿三越デパートの屋上で
襲うという大衆的党派暴力を展開します。
この年か翌年は池袋駅周辺に集中していた中核派の活動家の住居を襲撃しています。
つまり、内部的、外部的危機を党として「大衆的」暴力を行使し他党派を先行的に襲撃
することで乗り切りを図り、成功します。
解放派は神大での重傷者や警察権力からの弾圧で十数名の「被告」を抱え込み、中核派
は防衛的にしか党派展開が機能しなくなったように思います。
そして、革マル派は対立党派の「指導者」殺人を遂行します。部外者として見ているので
的外れかもしれませんが、いずれも「軍事」推進派というよりは党創設の指導者だったと思
います。
死に至る党派闘争が「日本固有の現象」という言説には与しませんが、激化した現象は
非党派から見ると、この72,73年が起因であり、皮相な話ですが党派闘争の名によるリンチ
虐殺糾弾の早大解放闘争をめぐる状況を、総括することが「内ゲバ」論の大きなポイント
だと思っています。
その点、まっぺんさんが引用する「国際革命文庫」にまとめられた「内ゲバ」をめぐる
テキストは73年夏までであり、第四インターとして早大解放闘争がどのように総括されて
いるのかが興味深い所以です。
まっぺんさん、ノンセクトが一般的でもいいのですが、革マル派と内ゲバをしたという
事例を大まかにでも指摘してください。
記憶にはないのですが。
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アナーキズム 投稿者:せみまる 投稿日: 1月 5日(土)18時21分31秒
のんきちさん、あけましておめでとーございます\(^o^)/
アナーキズムはたしかに広い意味をもっています。昨年アベル・パスは「アナーキズムとは思想ではない、人間を解放するたましいのことだ!革命のおこる時、そこには必ずアナーキストがいる」と言っていましたね(多少、記憶がちがっているかも知れませんが)。かっこいいですぅ〜!とっても感動しました。しかし、スペイン革命について語る場合は、やはり「アナルコサンジカリスト」の意味で解釈する必要があるでしょう。つまり労働組合を糾合して国家統治の政治的手段として機能させ、それを基礎に無政府社会をつくっていこうとする政治的展望を持った勢力という事です。
レーニンによる弾圧とは、蜂起による政権奪取のあと、ドイツ軍との単独講和に際して、無併合・無賠償・民族自決を提案した時、ドイツ側が傀儡政権をたてて「民族自決」の名の下にドイツの占領地を確保しようとした動きに対する各党派および党内分派の反対闘争によるものではないでしょうか?トロツキーはこの講和に対して外務人民委員(=外務大臣にあたる)としてブレストリトフスクに行くわけですが「戦争でも講和でもない」という立場で調印を拒否してしまい、レーニンを激怒させます。講和推進のレーニン派をのぞいて講和に反対する勢力が多数あり、エスエル左派は戦争の継続をめざしてドイツ代表団の暗殺を企てます。またレーニンをも爆弾で暗殺しようとし重傷を負わせます。つまり、この時点で対独講和をめぐる「党派闘争・党内闘争」は内ゲバへと発展していったわけです。
ロシア革命は紆余曲折を経て達成され、その後も苦しい闘いを強いられていきました。しかし、十月革命が成功したのは、少なくとも、革命的諸党派がソヴィエトを通じてプロレタリア民主主義のもとに団結し、統一して革命闘争をたたかったからです。この点でスペイン革命が敗北したのとまったく対照的だったといえるのではないでしょうか? スペイン革命ではスターリニストがまさに革命戦争の真っ最中に革命派に内ゲバを仕掛け、革命を破産させたのですスターリニズムが十月革命の遺産を歪曲し、「一貫して正しい党派=ボリシェビキの指導が革命を成功させた」という神話を作り上げていった事が、これまで共産主義の多くの党派を誤らせた原因だと思います。
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ほえー 投稿者:梅田のんきち 投稿日: 1月 5日(土)17時41分28秒
でもレーニンは革命時にアナキストを弾圧してますが…
それとアナキズムの人全部が「革命」を目指していると考えるのもどうかとおもいますが…
ぼくのようなタイプのアナもいるのだし(ぼくがインディビディアルアナキストと過程して)。
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スペイン革命と内ゲバ 投稿者:せみまる 投稿日: 1月 5日(土)15時51分30秒
スペイン革命の悲劇はなんといってもスターリニストの階級的裏切りによって革命が破産した事につきるでしょう。もしも革命が成功していたら、革命ロシアと新生スペイン共和国とにはさまれたヨーロッパは革命派にとって有利な歴史展開となったでしょう。当時スペイン「正統ボリシェビキ」の権威を集めていたスターリニスト共産党は、革命派を背後から襲撃し文字通りの「内ゲバ」によってスペイン革命をフランコに売り渡してしまった。だから、この過程でのスターリニストによる革命派への暴力はまったく非道であり、許すべからざる歴史的犯罪と断罪していいでしょう。
ところでスペインではアナーキストが優勢であり、アナーキスト政権(って変な表現ですが…)が誕生する可能性もあったわけですが、そのアナーキストが、教会と僧侶に対しておこなった残虐を階級的な観点から切り離して論じるべきではない、という主張はもちろん当然なことです。キリスト教は当時の社会的道徳を支配し、地主やブルジョア側に味方するものでした。しかし、それはただちに彼らの「殺害」を肯定するものでしょうか? スペイン内戦のなかで僧侶が銃をとって応戦してきたためにやむなく撃ち殺したなら分かりますがそうではない者を「階級的敵対者なら処刑してもよい」と断定できるのでしょうか? 私はこれについて「肯定」も「否定」もしません。当時の歴史的な状況のなかで判断しなければならないと思うからです。
しかし、二月革命では二千人以上の犠牲者を出したロシア革命は十月革命の時にはわずか十人ほど、それもすべて革命側の犠牲者だったときいています。「戦艦ポチョムキン」でも反動の象徴として描かれているキリスト教関係者が革命の中で大量に殺されたとは聞いていません。それどころか、革命政府は最初は「死刑制度」を廃止し、内戦で攻略し逮捕した敵の兵士も指揮官も処刑せずに釈放するほどだったのです。そのような措置によって革命側に寝返った将軍もいましたが、釈放されたのを幸いに再び反革命軍を率いて立ち向かってくる将軍も多くいたために、この「温情的措置」は廃止されてしまいました。
アナーキスト諸君はクロンシュタットとマフノを「ボリシェビキ犯罪」の証拠として断罪します。それについては私は理解できます。しかしこれは未来英語変わらぬ「合い言葉」として今後の闘争の中で非和解的につづくものなのでしょうか? 私はそうではないと思います。世界的に見ればどの闘争も階級的に分析できるでしょうが個々の革命闘争はそれぞれ違った経過をたどり違った教訓を残してきました。レーニンは「国家と革命」の中でアナーキストの革命性を評価し、目的は自分たちと同じであると語っています。また実際、ロシア革命の中で多くのアナーキスト労働者、アナーキスト兵士たちがボリシェビキや左翼エスエルと共に革命闘争を最先頭で闘っています。革命闘争の発展に必要なのは「現実的な闘争課題の一致」であって「将来に向けた思想の統一」ではない、と私は思います。また、その現実的な意識にもとづく統一戦線への希求が内ゲバ主義を粉砕していくのだと思います。
あえていうなら、こんな議論ができるところに「やっと日本左翼は到達した」と言えるのかもしれません。
※黒パンさん、新時代社は社会的な影響ある内ゲバが発生した時には何か論文を発表しています。「共同行動の原則と内ゲバ」は重要だと思います。読んでください。
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暴力について 投稿者:せみまる 投稿日: 1月 5日(土)14時47分11秒
たぶん一部の人々が誤解していると思われる事実について、あえて提起しておきます。それは「暴力の本質」について、という事です。
一般的に「内ゲバはんたい」を「暴力はんたい」と混同し、なにか「平和的な手段で社会を変革し、社会主義に到達できる」かのように錯覚したり、あるいは逆に「それでは到達できないから」という理由で内ゲバも肯定する傾向があるんではないでしょうか? これまでの鬼薔薇さんや ロック・ザ・カスバさんたちの主張の中に、その傾向を看て取れるように思います。「内ゲバはんたい=暴力はんたい=平和的な政権奪取=ブルジョアへの妥協」という図式で、内ゲバへの反対者を社民などの階級的裏切りに結びつけて批判するのは「暴力」の本質について見誤っているからではないでしょうか?
「反内ゲバ闘争」は、実はそれ自身「革命的暴力」である、と私は理解しております。なぜでしょうか? それは「暴力」の意味を厳密に規定すればわかる事です。鉄パイプで敵対者のあたまをブン殴る、あるいはピストルで相手を殺す、などの行為は、「現象的」な暴力には違いないが、「階級的暴力」と規定することはできません。階級的暴力とはプロレタリアートが階級的に団結しブルジョア階級に対して支配者として強制力を発揮することで、これこそ「階級的暴力」というべきものです。相手を強制する社会的な力、それを保証するものとして存在する警察・軍隊・裁判・法律など。これらを国家機構として組み合わせたものであるがゆえにマルクスは「国家=暴力装置」と呼んだわけです。
内ゲバは、プロレタリアートの内部に分裂を持ち込み、階級的団結を妨げる役割をはたすがゆえに、大衆的に粉砕されねばなりません。これまで第四インターの自衛武装については語ってきましたが、本来は大衆的な意味で「階級的自衛武装」としてとらえるべきです。だから、たとえば第四インターでなくとも、他のどの党派であろうとどんな大衆であろうと少なくとも内ゲバを否定するすべての団体について、それを襲撃しようとする試みは実力をもって撃退しなければならない。つまり「反内ゲバ闘争」は内ゲバ党派に対する「強制力」としての暴力をともなっているのです。内ゲバに反対し、内ゲバ党派を撃退する行為は、階級的自衛武装の一環として理解する事が重要だと思います。
なお、黒パンさんからのご質問ですが、早稲田闘争において、対革マル派を「内ゲバ反対」の観点から闘ったのは、当時は第四インターだけであった、と言っても不都合はないと思います。もちろんこれは文脈からも「党派のなかでは」という意味であることは理解してもらえると思います。また「党派として登場したか」とはどういう意味でしょうか?早稲田大学の中にカマトンカチヘルメットで登場する事を意味しているのでしょうか? それは事実としてできなかったし、意味がないと思います。そのかわりに、当時学生インターのメンバーは全力で介入し、第四インター名のビラをまいて情宣し、学生集会でも主張していきました。また、ノンセクトの諸君も革マル派に対して内ゲバをおこなっていた事実はたくさんあります。つまり「党派理論が内ゲバを肯定している」とはいえないのです。これは「内ゲバは党派があるからおこるのだ」という久我山さんの主張も否定することになると思います。
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ちなみに 投稿者:noiz 投稿日: 1月 5日(土)14時20分15秒
わたしゃー,「属人的要素の稀薄な発言は現実性が乏しく」という状態のまま書いておりますがそれが何か?(笑) 鬼薔薇さんが問われているのはそういうことではないと思う.属人的云々よりただ単に立場性が問われているんじゃないですか?
> なお、“同じことでも彼が言えば間違いだがわたしが言えば正しい”という次元が存在すること、わたしまったく否定いたしませんので念のため。
こんなの論外.よくまあいけしゃあしゃあとこんなこと言えるものですね.自分は無碍に否定されているとアピールしたいわけですか? 慇懃無礼とはまさになんとやら!
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一つ 投稿者:noiz 投稿日: 1月 5日(土)14時15分15秒
「生産的な議論」って何ですか? 誰がどのように生産的か否かと決定するんだろうか? ある人にとっては非生産的であっても,別の人にとっては生産的でありうる.この可能性を拒否して「生産的ではない」と「テッケツ」してくれようという態度には非常な嫌悪を覚えます.そんなら最初から,色んな立場の人が集うここに意見を出すことそのものも否定されなければならない.冗談じゃないね.
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RE;内ゲバに関して二言め 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月 5日(土)14時14分12秒
>黒パンさま
>「内ゲバ」を論じた中で、それを「社会運動」が生み出したと
>位置付けられるならば、久我山さんが提示しているように自己との関わりが
>語られるならば説得力があるのですが。
申し訳ございませんが、「〜ならば」と仰る論理の筋道がうまく捉えられませんでした。
久我山さんにも少し書きましたように、ナマのかたちで語られずとも、「自己との関わり」は立論のなかに不可避に滲み出てしまうものでございましょう。「自己」の属性をナマに語ろうと語るまいと、ここでのテーマに関わるわたしの立論内容が特に変わるものでもございません。「説得力」の有無はその立論の内容自身に問われるべきことと承知して発言させていただいております。
「自己との関わり」は、どうしても“生臭い”ものとなります。それを直に語ることが意味を持つのは、その“生臭さ”そのものを何ほどか共有するほかない関係の中でのことでございましょう。たとえばひとつの組織を一緒に作る、ひとつの現場で行動を共にする、あるいはお金や物をやりとりする、そうした場面であればわたしも直接の面談を含め、「自己」の属人性を、そしてテーマと自己との関わりを直裁に(“生臭く”)語らねばなりません。そうした場合、ネットはネット外での結びつきを持つ者同士の連絡や情報交換の手段として機能するのでございましょう。当掲示板が「4トロ同窓会」と銘打たれておりますのも、そうした側面を持つ場として尊重されるべきことと思います。
けれどもそうした直接の結びつきのない同士での意見交換・議論の媒体として考えた場合はどうでしょうか? むしろ、発言者の直接経験や性・年齢・職業・学歴や社会的地位や権威にとらわれることなく「意見」そのもの(だけ)を純粋に評価し扱うことができるという大きなメリットを持つのではないでしょうか。それは、通信ネットワークならではの新しいコミュニケーションの可能性であり、民主主義の新たな条件のひとつともなりうるし、またそのように積極的に活かす価値あるものと考えるところでございます。まっぺんさんの新年のご発言は、そうした可能性に対して開かれた場としてここを位置付けておられることを伺わせる内容でございました。
属人的要素の稀薄な発言は現実性が乏しく説得力を欠く、と思し召しでしたら、どうぞわたしの発言など無視していただいてかまいません。それはハナから覚悟しております。中身は同じなのに俗人的な要素を添加することで増減するような「説得力」など持たぬところで評価と批判と判断を仰ぎたく思っております。
以上、それこそ「説得力」ゼロかと懸念いたしますが、こうした場での発言スタンスの取り方としてご了解いただければと存じます。
なお、“同じことでも彼が言えば間違いだがわたしが言えば正しい”という次元が存在すること、わたしまったく否定いたしませんので念のため。
※あ、これって、さらに「説得力」欠いておりましょうか?(笑)
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