四トロ同窓会二次会 2002年1月8日〜11日

誰でも歓迎!何でも自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」その他に掲載する場合もあります。
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資本主義を肯定するわけではありません 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月11日(金)22時25分36秒

資本主義を肯定するわけではありません。現行資本主義が私的所有を特段制限しているわけではないこともそのとおりです。その現行資本主義のシステムが生み出す飢餓・貧困・殺戮の存在も認めます。ただ、それでも、いま、それらを社会主義革命で解決しようとは思いません。いわゆる「社会主義」のもとでの飢餓・貧困・殺戮が、現行資本主義のシステムが生み出したそれよりも大きいと思うからです。われわれは民主的な社会主義を目指すといわれても、マルクスレーニン主義に由来するスターリニズムがおびたただしい飢餓・貧困・殺戮をもたらしたメカニズムの解明抜きには、信ずることはできないと思うのです。

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思想のかたち 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 1月11日(金)22時03分41秒

>すえいどんさま はじめまして。コメントありがとうございました。
>念的に肥大化した「プロレタリアート」物神化のイデオロギーですか。革マル派の理論
>的誤りの心理的基盤と言うのは目ウロコでした。しかし、世界総体に対する憎悪の感覚
>が例の「神戸謀略」論の背景にありといったら考えすぎか。

 わたし、特殊革マル派のことというより、「マルクス・レーニン主義」から「革命的マルクス主義」に至る20世紀共産主義思想の底に共通に流れるものを、「思想」のかたちとして取り出したく思うのでございます。理論としての「疎外論」では賛否対立しても、「疎外された存在という自意識」の秘める暗い因子は共通していたのではないかと。それが理論そのものを歪めていくメカニズムの解明には、考えねばならぬことまだまだ多くございます。「心理学」もそのための理論的トゥールのひとつとして援用できるのかもわかりません。
 
 こうした原理的な次元の作業に対して、あれこれの「謀略」説は、個別党派の作風に関わる具体的な次元に属するものとして、個別の検証を要するかと存じます。「神戸事件」謀略説の真意はわたしにははかりかねますけど。
 
 なお、“労働運動の現実から疎外された立場であったからこそ観念的に肥大化した「プロレタリアート」物神化のイデオロギー”と要約的に書きましたけれども、ひとたびこうしたイデオロギーに呪縛されますと、実際に労働運動に大きな影響力を持っても思想の基本構造は容易に変わらないこと、1930年代のドイツ共産党の例にみるとおりでございます。日本の新左翼も各派各様に労働運動工作を重ね、それなりの影響力と指導責任を確保できたケースもございました。そこでの「労働者階級」観というもの、もう一度検証するだけの材料はあるのではないでしょうか。「ダラ幹対下部戦闘的労働者」図式とか、「指導部の裏切りとその乗り越え」論とか。
 
 新左翼も伝統共産党の「社民主要打撃論」をほとんどそのまま継承してきたのではないでしょうか。労働運動の部分的実践だけでそれを思想的に超えることはむづかしく、第四インターの「加入戦術」もまた伝統共産党の「社民」観から脱却していたとは思いにくいものがございますね。枠組みとしては、「第2インターの左右への分裂」というヨーロッパ的構図から自由になることが必要かと考えております。

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果たして、制限できているでしょうか 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月11日(金)17時45分17秒

 掲題の件、資本主義における所有権についてです。

 もし、制限可能ならば、ジョージソロスのような投機はどうして可能なのでしょうか。ある
国々や地域の経済を崩壊させるほどに。経済当事者(勿論、崩壊させられる地域の民衆こそ最
大の当事者だ)にとっては疎外の極北です。でも、資本主義の枠組みでそれができているで
しょうか。

 なお、個体的所有論は何らかかの出来合いの仕組み(実際でもいいし、頭の中でもいい)と
言うよりは、疎外を止揚するための方向性であると考えています。それらはまさに諸関係の問
題なので、多分幾百億回と我々に刻印された市場経済は長期にわたって残存するでしょうね。

 問題は、市場を如何にコントロールするか、場合によっては制限(廃止!)するか、だと思
います。もし、大衆的にこういう制御をするようになれば、それは(低次の)社会主義と名づ
けるべきだと思います。

・・・・・・・

 1918年のレーニン(記帳と統制など)の誤りは、戦時共産主義で強制された統制経済システムを、社会主義・共産主義の方法であると見誤った点にあると思いますので、その点ではすえいどんさんに同意します。小生はこの点に、社会主義・共産主義への道を見ていませんので、ポルポトは問題外と思っています。いわゆる「行政手段のみによる廃止」は問題にならない、と。

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個体的所有? 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月11日(金)17時17分12秒

疑問です。「個体的所有の再建という共産主義の目標の一つは、小生産者としての再建ということではなく、経済運営における民主主義的な関係を作ることである」?。現在においても(資本主義のもとでも)所有権は絶対ではなく、いくらでも制限できるわけでしょう。「個体的所有」論はどこかにごまかしがあるのでは・・。私的所有(貨幣・商品・信用と言い換えた方がわかりやすいかも)の廃止を目指すのかどうかです。1918年のレーニンも、1976年のポルポトも、それを目指した、そのせいで人が死んだと思うのです。

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Re:ヘッジファンド 投稿者:せみまる  投稿日: 1月11日(金)10時38分26秒

 下で田中徹二氏がタイの金融危機を引き金としてアジア・中南米・ロシアへと世界的な経済危機へと発展したと指摘していることを紹介しましたが実は、このタイ・バーツの大規模仕手戦によってタイ経済を崩壊の淵にたたきこみ、自分は先物取引によって巨額の利益を得た張本人こそ、ジョージ・ソロスです。あらかじめ通貨の価値がさがる事がわかっていればそれにあわせて先物売りの契約をしておけば大もうけできる。世界の金融投資家は、こうやって、庶民の経済生活の破壊とひきかえに巨利をえる事をやっているわけです。3年前に日本経済新聞社から刊行されて話題を呼んだジョージ・ソロスの「グローバル資本主義の危機」という赤い表紙の本があります。noizさんが言っているのはこの本のことだとおもいますが、ここでソロスは、資本主義はいきづまっており何らかの国際的な経済の監督機関が必要であると言っています。「経済をダメにしたのはおまえだろー!」とつっこみたくなるようなひどいはなしです。

 もはや資本主義経済は出口の無い崩壊の局面に突入している。昨年10月の「エコノミスト」誌によれば、米国経済のGDPにおける金融依存度は90年に35%だったのが2001年には50%になったそうです。もはや 米国の経済は、生産活動による市場経済の発展ではなく、金融取引という、いわば「マネーころがし」が経済の半分をしめる「超バブル経済」になっているといえます。10年前の日本を襲った「バブル崩壊」がいつやってきても不思議ではありません。

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正しいからといって受け入れられないのは 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月11日(金)10時33分19秒

 宗教の世界では最早常識でさえあります。我が一派(笑)は、そういうありようを
「顛倒《てんどう》」と読んでいます。もし、そうでなければ支配/被支配の関係を
固定化することは出来ないでしょう。

 マルクス主義、まだまだ未熟(笑)。

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何百億回となく刻印されたもの 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月11日(金)10時30分44秒

 市場経済の諸関係は投機性を有するものであり、傾向としてオールオアナッシング
を人に強制するものであることは、ここの方々に説明するまでもありません。それは、
強者と弱者・あるいは勝者と敗者を作り、圧倒的な数の敗者(弱者)を生産します。
だが、マルクスが明らかにしたことはそのような敗者であるにもかかわらず、実はそ
の敗者こそが富の源泉であり、力をもっているということだと思います。このように
#実際の社会では巧みに隠蔽された力関係#がなければ、革命を夢想することさえで
きないと思います。

 一方、我々は市場経済の中で様々な取引をやっており、その習慣やルール(前提)
は変更し難く思えるほど染み付いています。市場という枠組に(否定的)批判や疑問
をもっていても、です。これをレーニンは「何百億回となく刻印されたもの」と言い
ました。こういうものを行政的に、仕組みだけを変更してなくすることはできません。
なぜならば、まさに無意識にまで染み込んだ規範ですから。先進的・自覚的労働者や
その組織が例えば「計画経済!」と言い、それまでの諸関係を一切改める、と言った
ところで、みんながついて来れるものではないでしょう。それを強制すれば、多くの
混乱を生むことでしょう。

 いくら計画経済はスバラシイと、言っても、新たなる諸関係を受け入れてもらえな
ければ、絵に描いた餅です。(本当に、計画経済がスバラシイかどうか、あるいはど
のような計画経済を絵に描くかは別として)

 計画経済が仮にいいとしても、それへの参画が意識され、当事者としての主体性が
感じられなければ、疎外感は残るでしょうし(共産主義的協働であっても残るという
話はある)、それじゃ多分市場経済を乗り越えたことになりません。程度の問題です
が。(程度の問題を測定する方法はあるのかな?)

 この辺で、小生は20世紀社会主義は大いなる失敗であったと思っています。
(勿論、制度としての成果も多数あるけど。8時間労働制、有給休暇、社会保障・・)
仕組みを作ってそれに大衆を従わせればそれでいい、と。フィードバックなし。欺瞞
の体系。幾らでも悪口を言うことが出来ますね。要は、政治的な意味合いにのみ民主
主義を閉じ込め、形骸化し、民主主義を欺瞞の体系に押し込めたブルジョア社会と同
じもしくはそれ以下のモノに「社会主義国家」は成り果ててしまった、と。(今日も
中華人民共和国では腐敗に反対するデモが軍隊などに鎮圧されたという報道がありま
す。百人以上逮捕されたとか。なんなんだかな。反革命暴動鎮圧ってか。氏ね。)

 このへんはすえいどんさんの観点とは逆に、民主主義(社会主義における民主主義
は政治の問題だけではなく、経済の問題での民主主義こそ問題となる)が実現できな
かったからこそ、社会主義はダメだったのだと思います。個体的所有の再建、という
共産主義の目標の一つは、小生産者としての再建ということではなく、経済運営にお
ける民主主義的な関係を作ることであると思っています(勿論、小生産者として生き
ることも権利として保障されなければならない)

 我々は状況の奴隷で、多くの偏見や無知から自由ではないし、急進派としてその観
念を大衆に押し付けたら痛いしっぺ返しを食うことでしょう。

 繰り返しになりますが権力奪取は比較的たやすいこと、社会主義社会建設は困難で
あること、民衆の無意識にまで作用する課題であること、多くの欺瞞を乗り越えない
といけないこと、少なくとも「市場の行政的廃止」などは問題にならないこと、を書
いておきたいと思います。
(ここでは低次の共産主義=社会主義としておきます)

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世に受け入れられない現実が「正しさ」の証し 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月11日(金)10時17分33秒

世に受け入れられないこの現実こそ「正しさ」の証し,「世界」総体との絶対的対立の意識、世界総体に対する憎悪の感覚、労働運動の現実から疎外された立場であったからこそ観念的に肥大化した「プロレタリアート」物神化のイデオロギーですか。革マル派の理論的誤りの心理的基盤と言うのは目ウロコでした。しかし、世界総体に対する憎悪の感覚が例の「神戸謀略」論の背景にありといったら考えすぎか。

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片山−西尾体制 投稿者:佐々田 格  投稿日: 1月11日(金)09時19分33秒

僕は、この掲示板の中では、異端だと思います。
家は、自民党支持者だったし。
しかし、最近は、その自民党にも辟易しています。
そこで、穏健な民主社会主義の片山−西尾体制に興味を持ち、本を読んで
いるのですが、皆さんは、この内閣について、どうお考えですか?

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社会主義革命の抑圧と虐殺 投稿者:つむじ風  投稿日: 1月11日(金)08時48分50秒

トロツキストとしてはマルクス=レーニン主義を体系化したスターリンのせいだといいたいところですがなぜそのような歪曲や圧制を行う男がソ連で支配権を握ることができたのかというと答えられません。結局ボルシェビズムが悪かったということになって社会主義の否定になってしまいます。堂々めぐりですね。短文失礼。

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ヘッジファンドで 投稿者:noiz  投稿日: 1月10日(木)22時44分48秒

一躍悪名を高めてしまった?ジョージ・ソロスもそもそも経済学徒たらんとして果たせず,投資家の道に転進した人と聞いております.短期金融市場から利潤を吸い上げてマハティールを激怒させたその彼が,「このままじゃ世界は破滅だ」とする自由資本主義批判の本を出したようです(笑).ぉぃぉぃそれでしこたま儲けてきたんじゃなかったのか? 読んでないから中身の評価はできませんが…

私的所有の否定(というよりぼくはその「相続」をも含む私有財産権の否定という方がスッキリするなぁ)→生産手段に関わる部分を問題にする,という認識に賛成します.ちなみにプルードン流の財産権否定・占有権肯定というのも一つの回答かなと思ってます.

アナルコ・キャピタリズムや市場主義としてのリバタリアニズムは生産手段や消費材の占有権のみならず相続の保証も含む私的所有権,私的財産権の擁護をします(しかも天与の自然権だと主張する).そこがいわゆる社会的アナキズムと決定的に異なるところです.後者はそれを資本制社会における抑圧の最たるもの(資本による暴力の日常化)とみなし,前者はその自然権の恢復のために国家・公的部門の役割を無化・あるいは可能な限り縮小せよといいます.無化はアナルコ・キャピタリズム,そこまで言わなくとも市場にはタッチしない小さい政府を目指すのが市場リバタリアニズム,最小政府主義(ミナキズム)など.いずれにしても市場原理主義の播種という性格を色こく持っています.

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「憎悪」のことなど 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 1月10日(木)22時21分10秒

>小西さま コメントいただきながら応答遅れまして、申し訳ございません。

> ただ、鬼薔薇さんの別の論とあわせて検討しますと、内ゲバの「主要
>因」を「対立党派の憎悪」に帰着させるのは重要な解明にはならないと
>思います。もっとも鬼薔薇さんも、それが内ゲバの主要因とは考えてお
>られないと思いますが。

 わたしが「憎悪」という言葉を用いましたのは、「対立党派の憎悪」ではなく、黒田哲学〜「革命的マルクス主義」に純化をみた特異な自意識の姿を取り上げたかったためでございました。それは「革マル主義」に特有のものではなく、広く日本の革命思想が内包してきたマイナス因子に淵源を持つものであり、ご共著でも強調されている「唯一の前衛党論」の(「理論」以前の)「思想」の体質を規定してきたのではないか、これがさしあたっての作業仮説でございます。
 
 ご共著でも指摘されているように、「唯一の前衛党」論は「労働者階級」本体論と不可分の関係にございました。これまた各国共産党が共有していたものに他なりません。それは、共産党が労働運動に大きな影響力を持っていたためではなく、逆に、社会民主主義勢力の影響下にあった労働運動の現実から疎外された立場であったからこそ観念的に肥大化した「プロレタリアート」物神化のイデオロギーだったと思うのです。「労働者階級による革命」の思想が現実の労働者から離れたところで主張されざるを得ないという逆説(実は逆説でもないのですが)のなかで、孤立の圧力に晒されたこの思想の担い手たちは、何をもって自らの「正しさ」を自己確証できたでしょうか。「正しさ」の自意識だけで自らを支え切れるものなら別ですが、人間って、たぶんそのようにはできていないのですね。そこに別の契機を導き入れる誘引が働きます。

 “正しい者がその正しさにもかかわらず世に受け入れられない”という意識が“正しいが故に受け入れられない”というふうに主観化され、それが“世に受け入れられないこの現実こそ「正しさ」の証しだ”という自意識へ転倒されると、己を受け入れようとしないこの「世の中」総体に全面対立する観念体系が成立いたします。この観念体系は、自らの「正しさ」を確証するため、本来の敵よりも身近なところに「敵」を見出す傾きを示します。悪名高い「社民主要打撃論」はそうした産物ではなかったでしょうか。伝統共産党のこれが、後年「裏切り史観」に純化されて新左翼に伝承されることとなったのではないでしょうか。
 
 「唯一の前衛党」論は、「プロレタリアート」物神化論と「社民主要打撃論」(→「裏切り史観」)とに支えられてはじめて自己運動する動力を持ったように思われます。この特殊な自意識の奥底に黒く澱む因子を、わたしとりあえず「憎悪」と呼んでみました。それは「世界」総体との絶対的対立の意識、世界総体に対する憎悪の感覚にほかなりません。ここに同じく「唯一の前衛党」を主張する別の集団が存在するのは許容し得ぬ背理でございましょう。そのような他集団は、存在そのものが許されざるものとして排撃と解体の対象とされるのは理の必然というべく、ここに「対立党派への憎悪」が隠花植物のような暗い花を開くのではないでしょうか。
 
 多くの方が「民主主義」を論じておられます。これを主体の側から考えますと、自己の存在を観念的に唯一化(絶対化)するのとは逆に、社会の現実に照らして自派も他集団もお互いに不完全な存在だという認識に立つことを意味いたしましょう。そのための力が、やさしさや謙虚さの倫理規範ではなく、自己を世界との関係で相対化する醒めた認識力にあるとすれば、それはひとつの厳しい勇気ではないかと思うのでございます。

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資本主義が「良いか悪いか」ではなく 投稿者:せみまる  投稿日: 1月10日(木)19時01分37秒

アジア連帯講座で田中徹二氏が講演した記録が「青年戦線」No.158に掲載されてます。そこから一部抜粋します。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ーー ー ー ー ー ー ー ー ー
 97年にタイで金融危機がぼっ発し、アジアの諸国が経済危機に突入しました。この危機がアジアから
中南米、そしてロシアを襲いました。各国の金融当局もヘッジファンドなどの巨額な投機的資金の前に
は、まったくの無力でした。IMFや世界銀行にとって優等生であったアジアの国々もあっけなく経済危
機に叩きこまれました。他の国は推して知るべしでしょう。極端に豊かな国と貧しい国の較差が拡がり
続けています。20世紀初頭に10対1だったのが、今や150対1に拡がってしまいました。しかも90
年以降、極端に差が開いていったのです。
 以上のようなことが、現代世界を理解するためのイメージではないかと思います。つまり、世界を支
配している先進国と国際金融機関は、貧困という問題ひとつとってみても解決できる能力はなく、まっ
たく正当性が失われているのです。(p13)
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ーー ー ー ー ー ー ー ー ー
「資本主義が悪」というのは、社会主義者が扇動手段として用いる言葉だと思います。「制度が悪いものである」というよりは、現実問題として、その制度が生み出した極端な不公平を資本主義制度には修正するちからがない、という事を認識すればいいのではないでしょうか?したがって「私有制度はひとを不自由にする」というのは、「理論」とし検討する以前に、巨万の富を独占する自由が与えられていることが貧者を作り出している現実を見れば明らかだと思います。

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私的所有 投稿者:木田  投稿日: 1月10日(木)17時54分27秒

えーと、マルクスって私的所有全般を否定していたっけ。私の理解したところでは、生産手段の私的所有が問題であるのではなかったかな。
さらに、マルクスは資本制は壊れると分析しているけど、資本制は「悪い」制度であるとは言い切っていないと思いますが、みなさんいかがでしょうか。

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さらに補足 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月10日(木)16時02分33秒

資本主義のもとで人間が自由だと言っているわけではありません。ただ、「真の自由」を求めた社会主義革命が、資本主義にも劣る抑圧と虐殺を生み出した「メカニズム」を解明すべきだと思うのです。
私は、ソ連にせよ中国にせよカンボジアにせよ、土地所有に基く家族農業〈穀物を売る自由を含む)をイデオロギー的に許容できなかったことが〈その撲滅を方針としたことが)、かなり大きなファクターではなかったかと考えました。

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この辺は 投稿者:AIT久我山支部(準)@後衛  投稿日: 1月10日(木)14時58分11秒

 「自由権の根幹」との絡みでアナキズムとの関連で言うと,アナルコキャピタリズム
とそれへの批判でも議論があったような気がします(私的所有/市場/自由権との連関)。

 ということで,私も

>>とりあえず私は「題名」だけにとどめておいて、

 で,とりあえず(^_^;;)。

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私有制度がひとを不自由にしているのでは? 投稿者:せみまる  投稿日: 1月10日(木)14時36分17秒

すごくいい問題提起ですね〜(^^)。
では「私的所有」のもんだいについて考えてみましょう。
とりあえず私は「題名」だけにとどめておいて、他に意見を求めます。

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なぜ両立しないのかの補足 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月10日(木)14時23分17秒

マルクス主義と民主主義が両立しないというのは、次のような趣旨でです。「自由と言う人権の実際上の適用は、私的所有という人権である」〈マルクス、検証内ゲバ84頁より重引)。それは欺瞞だ。私的所有を止揚してこそ、真の自由がもたらされる〈共産主義)というのがマルクス主義だろうと思うのです。ところが、現実は私的所有止揚をめざす革命がスターリニズムになったわけです。私的所有を廃止して、なおかつ人間は自由でありうるのか?取引の自由(すなわち資本主義に外なりません)こそ自由権の根幹ではないかと言う考え方さえ出ています。マルクス主義(私的所有止揚)に民主主義を単純に接木できるのかなと言う疑問です。

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「党」の意義 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月10日(木)11時42分49秒

 誤解されると困るので予め書きますが、レーニンの「なにをなすべきか」に著された党組織論
は、革命家やその周辺への容赦ない弾圧があり、かつ文盲率の高かった帝政ロシアには妥当であ
ったと思います。また、その危険性についてはトロツキーの「我々の政治的課題」に著されてい
るところであります。これらの古典を自分なりに踏まえた上で書いてみたいと思います。

 党でも組織でも何でもいいですが、これらは大衆(革命の主力)に対して二つの理由であると
思います。まず、大衆の政治的・経済的自覚を高めること。次に、大衆を行動に立ち上がらせる
こと。自覚を高めるためには、情報(知識)を収集し、わかりやすい形で大衆へ提供する機能が
重要で、またそれは行動へとつながるものであると思います。

 ただ、ここで「行動に立ち上がらせる」ことには権力奪取の瞬間の軍事行動も含まれるときも
あるわけで、そうなると大衆の中にいる警察や軍隊にも情報(知識)が行くことになるわけです。
こりゃ、敵に塩を送るようなものです。ここら辺はアンビバレントなわけで、まさに党や組織の
匙加減なわけで、それが「なになす」や「課題」で議論されていることだと思います。

 じゃあ、匙加減を如何に決定するか? 軍事行動は当然秘密(レーニン的には軍事行動(多分、
陰謀も)は技術として提起されなければならない)裡に計画・立案された上で行動されなければ
ならないわけですが、そこに至る過程で、大衆の信任を得るにはやっぱり最低限秘密にするべき
こと以外は、大衆に開放されなければならない、と思うわけです。ここら辺が今の左翼組織は全
くダメダメだと思うのです。

 スパイなどの危険性を重視する余り、大衆の知識としての党が機能していない、と。

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2/3「検証 内ゲバ」出版記念シンポジウムのご案内 投稿者:小西まこと  投稿日: 1月10日(木)11時32分37秒

 内ゲバについてのシンポを下記のように行います。是非ご出席下さい。
 また呼びかけ人も募集しています。呼びかけ人になって下さい。
 ここでの議論が2/3に活かされれば、と思っています。

2/3「検証 内ゲバ」出版記念シンポジウムのご案内

 十一月二十日、いいだもも、生田あい、栗木安延、来栖宗孝、小西誠の各氏の共著で「検証 内ゲバ―日本社会運動史の負の教訓」(社会批評社刊)という著書が刊行されました。
 同書は、戦前・戦後の日本共産党の内ゲバや一九六〇年代から現在に至る新左翼の内ゲバについてその歴史的検証・総括を行うとともに、その主要な原因を幾つかにわたって解明しています。
 私たちは、日本における社会運動の今日的危機の大きな要因の一つが、内ゲバに代表される、運動のあり方や思想によるものであることを、常に考えてきました。ところが、これほど日本での運動に多大な影響を与え、敗北の要因になった内ゲバについて、これまでのところ、これを公に検証したり、論議をすることはほとんどありませんでした。
 しかし、七〇年安保闘争から三〇年以上を経過した現在、私たちは、この内ゲバの検証・総括は、決して避けて通れない問題であろうと思います。とくに、九・一一事件以降、アメリカのアフガン戦争に呼応した日本の本格的海外派兵の動きに対して、これを許さない反戦平和運動の大衆的再生が今ほど問われているときはありません。そのためにも、この問題の徹底した検証は、必要不可欠なものであると思われます。
 「検証 内ゲバ」出版記念シンポジウムは、このような問題意識に踏まえて、広く各界各層にこれを呼びかけ、そして忌憚のない率直な議論を創り出していきたいと思います。
 どうぞ、この集いにご参加下さるようお願いいたします。
      二〇〇二年一月一〇日

●集会要綱
開会挨拶、来栖宗孝(元東海大学教授)
シンポジウム(パネラー)
   加藤哲郎(一橋大学教授)
   塩川喜信(神奈川大学教員)
   蔵田計成(アソシエ21会員)
   生田あい(コム・未来)
閉会挨拶(まとめ)    
   栗木安延(専修大学名誉教授)
司会 小西 誠(軍事・社会批評家)

●日 時  二〇〇二年二月三日(日)
      午後一時より
●場 所  専修大学二〇一番教室
     (JR水道橋駅徒歩八分)
●会場費  五〇〇円
●主 催  二・三集会実行委員会
●協 賛  社会理論学会

●呼びかけ人(敬称略アイウエオ順一月一〇日現在)
いいだもも(批評家) 生田あい(コム・未来)井上敏夫(徳田球一記念の会) 岩永達郎(元明治大学教授) 遠藤忠夫(ウニタ書房店主)上里佑子 尾形憲(法政大学名誉教授)大峰林一(在沖縄社会運動家) 片岡顕二(反戦自衛官) 加藤哲郎(一橋大学教授) 蔵田計成(アソシエ21会員) 栗木安延(専修大学名誉教授) 来栖宗孝(元東海大学教授)小西誠(軍事・社会批評家)近藤悠子(婦人民主クラブ) 酒井和子(グループあかかぶ・元豊島区議) 佐藤備三(反戦自衛官) 仏徳二(破防法被告) 塩川喜信(神奈川大学教員) 柴田友秋(農民運動家) 柴山健太郎(労働運動研究所常務理事) 常岡雅雄(「人民の力」編集長) 橋本剛(元北海学園大学教員)針生一郎(新日本文学会代表)樋口篤三(協同組合・労働運動家)中野徹三(北海道大学名誉教授) 藤尾靖之(反戦自衛官) 福田玲三 増山太助(社会運動家) 室井健二(コム・未来) 由井格(「アソシエ21」日本共産党研究会主宰者) 米沢泉美(サイバー・アクティビスト)渡辺一衛(「思想の科学」研究会会員) 渡部富哉(社会運動資料センター代表)渡辺雄三(人民新聞) 

●連絡先  社会批評社 東京都中野区
      大和町一‐一二‐一〇   
      電話〇三(三三一〇)〇六八一 
      コム・未来 東京都中野区東
      中野一‐四一‐五  
      電話〇三(三三六五)七二〇六 

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内ゲバ論の核心の民主主義論 投稿者:小西まこと  投稿日: 1月10日(木)10時57分08秒

 すえいどんさん、TAMO2さん、
 こんにちは。
 内ゲバ論の核心は、結局民主主義論にあるというのが、僕の論文の結論でした。
 この意味ではTAMO2さんの「真の民主主義の獲得」論に基本的に賛成です。
 唯一前衛党論にしても、結局は異論・反対論、つまり「批判・言論の自由」さえも認めない、民主主義の軽視です。
 また、内ゲバは、人間の解放を思想とするコミュニストがその人間ー人命ー人権さえも軽視しているものです。
 こうした人権ー自由ー民主主義の軽視がどこから来るのか。結局僕はレーニンの「プロ民主主義論」ー民主主義論の欠陥、そして同時にマルクスの民主主義論の欠陥に行きつくわけです。
 マルクスもレーニンも彼らの時代と異なる「民主主義論」の発展を認識していない、というのが結論です。

 つまり、民主主義は、例えば30年代に労働権などの社会権が広がったように、戦後の日本でも発展しています。
 例えば、環境権、平和的生存権、あるいは最近では情報公開など。障碍者などの被差別民衆への人権も恐らく60から70年代の人権概念の発展でしょう。
 我々が学校などで教えられた「民主主義」ではなく、民主主義・人権思想は、絶えず発展し、かつ思想化していかなくてはならないものだと思います。

 こういう意味で、すえいどんさん。
「真の共産主義」は、人権や自由という民主主義をもっとも大切にし、かつその徹底的な実現と獲得を思想とすべきである、というのが僕の考えです。

 この意味での民主主義論が日本の左派は、知識人を含めて充分に理論化されていないのが残念です。恐らく、日本の左派のもっとも重要な理論問題というのは「民主主義論」にあるのではないか、というのが、僕の長年の認識です。
 が、これは僕などの行動家が、とてもひとりで出来るしろものではありません。

注、僕らが学校などで教わってきた民主主義の原則の「多数決の原理」などはブル民主主義です。
 レーニンとマルクスの国家論の再検討が必要でしょう。プロ独裁論ー暴力革命論など(これは結論を言えば本質論にすぎない、と僕は考ええています。本質論としての把握が大事ですが)。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/shakai.htm

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いや、実は・・・そうなんです 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月10日(木)10時56分37秒

 労働者階級もそれ自体としては、前衛でもなんでもありません。ていうか、それ自体が前衛
ならば、党は不要でしょう。革命はたやすいことだと思います。(実はこの辺を論じると、小
生的にはレーニンも、トロツキーも批判しなくちゃならなくなるし、かなり脱線しそうなので
止めちゃいました。)

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「党=前衛」論つづき 投稿者:せみまる  投稿日: 1月10日(木)10時23分54秒

ロシア革命の歴史の中で、実際に労働者階級の前衛部分にボリシェビキが結びつく事ができ、
そのちからによって革命が成功した事を考えると、ロシア革命の一時期にはたしかに事実上
「共産党=階級の前衛」となっていた時期があった、と考えていいのではないでしょうか?
そして、スターリンは、この事実にふまえて、彼が権力を握ったときに、「党=前衛」論として固定し、
世界中の共産党を通じて、この「神話」を左翼大衆に信じ込ませていった、という風に考えると納得できます。

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「労働者階級の前衛」=「党」か? 投稿者:せみまる  投稿日: 1月10日(木)10
時12分39秒

レーニンはそのように党というものを捉えていたのでしょうか?ご存じの方にお聞きしたいです。
いま読んでいる「トロツキー研究」No.36が「党統一のための闘争」特集で、1907〜1911年頃、トロツキーが党というものをどう考えていたかがわかる文書がたくさんあるんですが、その中で彼はこんな事を言っています。

「党は労働者の上に来ることはできない。党はただ労働者の先進層の組織的手段としてのみ考えられる。」(p109)
「プロレタリアートの社会民主主義前衛は消え去っていない。彼らは存在する。しかし、彼らは分散し、ばらばらになっている。したがって、われわれの前にある課題は、彼らを党に結集することである。」(p115)

つまり、自動的に「党=階級の前衛」ではなく、労働者階級の中のもっとも覚醒した先進的部分を「前衛」と呼び「党は彼らと結びつけ!」とトロツキーはアジっているわけです。「共産党は階級の前衛である」という神話は、やはりスターリンによっって作られたものなんじゃないでしょうか?

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それも問題がちがうのでは? 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 1月 9日(水)23時54分03秒

>TAMO2さま タイミング失したかもしれないレスでございますが。

 階級間の対立と政治集団相互の対立とは問題次元が違うとのご指摘、大変もっともと存じます。でも、「農民は、それ自体としては前衛でもなんでもありません。」との点は、マルクス主義の観点からしてもいかがなものでしょうか? 労働者にしたところで、“それ自体として前衛でもなんでもない”ことは同じでございましょう?
 ある階級ないし社会層が「それ自体として」前衛かどうかという議論はできぬと存じます。
 マルクス・レーニン主義でいう「前衛」という古典的カテゴリーは、階級ではなく「党」に関わる概念のはず、とわたし一知半解・記憶半壊の「教条」をたどってみたのでございますが?

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社会主義社会建設に真の民主主義は不可欠 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月 9日(水)22時38分44秒

 すえいどんさん、じっくりやりましょう。ここで論じられていることは、様々な空間で議論されているにもかかわらず、結論めいたこと(特に厳密さにこだわる場合)は出されていない課題ですから。

 資本が社会的諸関係によって成立するものであるならば、その諸関係を打倒する側は、それに変わるものを準備しなければなりません。権力奪取(政治革命)に比して、それ(社会革命)は困難なことであると思います。前者は見かけ上の少数者革命でもとりあえず可能ですが、後者は多数者革命をせざるを得ませんから。

 では、その多数者革命をなすのに、「真の民主主義」以外に、いかなる方法が可能なのでしょうか。民主主義を機能させるには、構成員のお約束(信頼であったり、今の日本では忍従であったり)が必要です。そのような関係を大衆的に実現しなければ、多数者革命は不可能だと思います。

 マルクス主義が真の民主主義(〜近似的に、構成員の公正さが保証された民主主義とします)と両立しないならば、そんなマルクス主義は死滅しなければならないし、死滅するでしょう。前衛党がもし本当に唯一であるならば、他の党派は「大衆諸団体」と考えられるわけで、他党派に対して暴力によって殲滅するということは、まさに大衆への暴力(しかも権力に達していない党派による!)でしかないわけです。それで大衆(革命の主力部隊)を闘いに立ち上がらせることができるでしょうか。

 いわゆるマルキストがどう考えるかわかりませんが、大衆のラフな、時として粗暴な直感は、レーニン=スターリン主義としてのマルクス主義にノーを突きつけましたが、それは、小生は大衆の正しい生命力の現われであったと思います。

 時間があれば、革命直後からのレーニンの脱線がどのように「発展」したかを書いてみたいと思います。

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もとの話題で恐縮ですが 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月 9日(水)19時25分13秒

「検証内ゲバ」は拝見しております。「検証内ゲバ」の小西説も大筋納得できます。ただ、その結論部分「真の民主主義の構築」がはたしてマルクス主義と両立するのかなと言う疑問を禁じえなかったわけです。「真の民主主義」「革命の利益」の恣意性を払拭できるのかなあと。その頃、各党派は警察に依拠しないという暗黙の了解のもと,ホッブズの言う「自然状態」(それぞれ自己保存を目指し、何をやっても許される・・無倫理状態)を部分社会として作ってしまったわけです。かつ、その「自然状態」の中で(相手の善意・理性を信じてよいかと言う)抜け出せない「囚人のディレンマ」に陥っていたわけです。ホッブズは、そこ(「自然状態」+「囚人のディレンマ」)から「国家権力」(絶対王政)の正当化を導いたわけですが、レーニンの「真の民主主義の構築」〈プロ独裁〉が、そのホッブズを超えているのだろうかと言うのが、疑問であったわけです。内ゲバを規制しうる倫理はどこからくるのかということですね。「革命の利益」からは来ないだろうと思うのです。
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ぜんぜんちがう話題で恐縮ですが 投稿者:まっぺん  投稿日: 1月 9日(水)13時15分37秒

昨夜、ぐうぜんに見たテレビの話題です。あさま山荘事件ではありません。

資本主義グローバリゼーションに沿った「規制緩和」によって、ますます資本主義競争の激烈化がすすんでいるわけですが、それは「サービスの向上と価格競争をうながす」という表面的理由とは逆に、消費者にますます負担を強いていっているのが現状です。そのひとつとして、福島県いわき市のバス料金の自由化による低価格競争の結果、バス会社の経営が次々と行き詰まっていき、バス路線の大幅な廃止がすすんでいるそうです。このしわよせがバスだけを生活の足として利用していたお年寄りにふりかかることになってしまうので住民(町会)がバス会社と交渉して赤字の一部負担を考える。しかし、金額の折り合いがつかず、タクシー会社とも交渉したが、交渉成立の目途がついていないということです。

これを見ていてブラジル・リオグランデドスル州の左翼による地方自治の事を思い出しました。住民の生活防衛のための要求が市政と結びついて何らかの解決に向かうことは日本では無理なのだろうか? すくなくとも、そうした分野での具体的な提案が必要なのではないだろうか?

小泉政府はこれまでにない経済危機中で、規制緩和という手段によって資本主義競争のさらなる激烈化を奨励し、それにより生き残った企業のちからで経済再建を図ろうとしているわけです。それが、日本経済再建になる見通しもないまま、かえって庶民の生活は悪化し、そのために上記のような弱者切り捨て政策が次々と実行されていく。こんなひどい状態に追いつめられているのに、なぜ小泉政権への支持率が未だに高いのか、まったく理解できません。この閉塞状況を突破するちからが市民運動・社会運動の側に圧倒的に不足しているのが残念です。

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Re:ていうかさ、そろそろ 投稿者:蝉丸  投稿日: 1月 9日(水)12時45分29秒

出来れば『新左翼その再生への道』も併せて読むと、なお良いと思います。
さらには新時代社パンフ『共同行動の原則と「内ゲバ」主義』も読むともっといいんですが。

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ていうかさ、そろそろ 投稿者:いずみ@出向先  投稿日: 1月 9日(水)12時21分46秒

 「検証 内ゲバ」はみんな読んでから参加しましょうよ。

 もちろん読んでない人が参加したって全然OKだとも思いますが、議論の前提が成り立ってないと思うんですよ。例えばすえいどんさんの革マルへの見解など、本の中で既に検討されていることなんですから。

#すえいどんさんを例に挙げたのはたまたま直近の発言だったからだけで、特段の意図はありません。(^^)

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いやいやいや 投稿者:AIT久我山支部(準)@後衛  投稿日: 1月 9日(水)11時40分18秒

 TAMO2さんの過去発言は結構読んでますから,誤解などしていませんよ\(^-^)/
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「革命の利益」が基準です。しかし・・・ 投稿者:蝉丸  投稿日: 1月 9日(水)11時24分23秒

>「党派闘争」の段階では殺しあいはいけないが、「革命政権の防衛」のためであればいい。
>「革命の利益」にかなうかどうかが基準であるということでしょうか?

わたしは以下のように答えていますが?

>しかし、もちろん、そういったからといって後者の場合におけるレーニンの態度がゆるされるという事ではありません。

「革命の利益」が基準であるべきです。しかし、「誰が」革命の利益と考えるのか、が問題です。判断の権限の独占は内ゲバに直結するでしょう。

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「革命の利益」が基準? 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月 9日(水)11時09分28秒

前衛同志と前衛対大衆で位相が違うのでしょうか。唯一前衛の立場では自分以外の存在は所詮善導するか〈いうことを聞かなければ〉粉砕するかの対象としての「大衆」なのでは。いわゆる内ゲバについて、基本的には革マル派起動力説をとるのですが、革マル派は人類を解放できるのは、「地上の太陽」「永遠の今」である自分しかない、人類解放の唯一の担い手である自分には全てが許されているという考え方に立っていたのではないでしょうか(もちろん聖パウロが言うように、全てが許されているが、全てが利益となるわけではないことは当然です)。この考え方の当否こそ、内ゲバを規制する倫理の根本ではないのかと思えるのですが・・。「党派闘争」の段階では殺しあいはいけないが、「革命政権の防衛」のためであればいい。「革命の利益」にかなうかどうかが基準であるということでしょうか?

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あ、誤解なきよう・・・ 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月 9日(水)11時02分24秒

 小生の前衛観は、リンク先をご参考まで。
 前衛が偉い、とはツユほども思っていません。道具だし。

http://jcpw.site.ne.jp/bbs/bbs19.cgi?id=&md=viw&no=1390&tn=1367

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もんだいを分けて論じましょう 投稿者:蝉丸  投稿日: 1月 9日(水)10時54分16秒

 私が引用したトロツキーの文章は、フランス共産党主催による公開集会にトロツキーらの左翼反対派が参加した時、集会途中にテロによって放逐された事への抗議文です。トロツキーが主張しているのは、革命闘争に向けて各政党・政治勢力が相互にはげしい党派闘争をおこなっていったこと、しかしその方法は暴力によるものではなく労働者人民への宣伝を通じて理解をもとめ、その結果としてボリシェヴィキが多数派となった事です。

 一方、十月革命によって政治権力を奪取したあとの革命政権は、国際的な反革命勢力や国内反動派との永く苦しい闘いを継続しなければならなかった訳ですが、政治的主流派として政権を担当していたボリシェヴィキは、この誕生したばかりの若い社会主義権力が直面した経済問題、政治問題、軍事問題に対処していかなければなりませんでした。この中で、クロンシュタットをはじめとする多くの農民反乱に直面します。この段階は、もはや「党派闘争」の段階を越えたものとなっていると考えるべきでしょう。政権側から見れば「革命政権の防衛」を問う問題であり、反乱勢力から見れば「革命政権の内実」を問う問題であったと見ることができます。

 トロツキーが党派闘争を「鉄拳の組織的支配によって解決された例をたったひとつも思い出すことはできない」と言っているのは明らかに前者の場合です。しかし、もちろん、そういったからといって後者の場合におけるレーニンの態度がゆるされるという事ではありません。この問題は当時の状況にふまえたうえでの論争をするべきであるし、レーニンのとった行動をそのまま「正しい」と断定するかどうか、あらためて考えるべき問題だと思います。

 しかし、「後者の事情」を「前者の段階」にも適用し、レーニンの「内ゲバを否定した党派闘争」をも無意味なものと考えるのは正しい解釈なのでしょうか? それは、結局「内ゲバの勝利者が革命闘争の勝利者となる」という結論しか導き出すことは出来なくなるのではないでしょうか。むしろ、それはスターリンとその後継者たちが自らの内ゲバ主義を肯定するために「レーニン」を利用してきたのと同じ方法を反対の側から利用している事になるのではないでしょうか? これもまたレーニンの業績に対するおおきな誤認につながり、それは大衆運動の利益をそこなうものになると危惧します。

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いやいや 投稿者:AIT久我山支部(準)@後衛  投稿日: 1月 9日(水)10時30分00秒

 TAMO2さん,どうも。横からチャチャ入れの独善的一言感想なので,聞き流して貰いたいのですが(^_^;;)。

 >>農民は、それ自体としては前衛でもなんでもありません。

 いや〜,それは全く当たり前の話しですが。
 でも,改めてこうした文脈を見るたびに,自分はマルクス(レーニン)主義者にならなくて,つくづくよかった,などと考えてしまうわけです。

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そういう問題ではありません 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月 9日(水)09時59分07秒

 レーニンの農民3分解理論とでも名づけるべき「貧農を組織し、中農を味方につけ、富農を
殲滅する」という極めて恣意的な戦略を小生は支持しないことを前提して、と。小生が問題に
するのは、自称前衛同士の内部の問題と、大衆との関係における問題は位相が異なり、これを
混同することは(以下に示したように共通項はあるが)よくないのでは、と考えるわけです。

P.S.宮地さんのレーニン思想への無理解が、引用文章によーーーく現れていますね。特に、
宗教問題について。この辺は、反共主義者として党派の人間とやり取りをしたことがあります。
レーニンは、「宗教宣伝の自由と平等、ならびに無宗教宣伝の自由」を布告しました。それに
は行政として宗教を直接弾圧する表現はありません。また、「戦闘的無神論」が弾圧の手段に
変わったことはレーニン死後のことです。て言うか、レーニンはそんな非常手段が永続すると
はツユも考えていなかったことは、22年後期以降の「緩和策」、特に労働者階級の内部の民
主主義的作風についての布告に表われていると思いますが。(cf.「レーニンと労働組合」)
それさえ宮地さんはご不満のようですが。

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農民はよくて党員はいけない? 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月 9日(水)09時46分25秒

宮地健一氏によるレーニンの考え方の要約を引用します。
 「ロシアと人類を解放できるのは、自分の「鉄の手」しかない。議席獲得率25%の小数派が一党独裁権力を維持するには、ジャコバン「公安委員会」のような暴力組織が必要である。ロシアにおいては、チェーカーと赤軍の暴力機構と抵抗者銃殺・殺害システムは絶対必要条件である。よって、自分とボリシェヴィキ一党独裁権力の社会主義理論・路線・政策に反対、抵抗したペトログラード労働者・メンシェビキ、シベリア・タンボフ農民、クロンシュタット・ソヴェト水兵、他社会主義党派・アナキストは殺してもよい。また、ロシアの特殊条件においては、マルクスの「宗教批判」レベルでは反革命に対応することができない。自分の「戦闘的無神論」こそが、絶対正しい理論と方策である。その宗教根絶理論に反する聖職者・信者たちは、その「存在」自体が反革命であり、たとえ無抵抗であろうとも全員銃殺することは、許されている。・・・むしろ、自分とボリシェヴィキ一党独裁に抵抗する階層、グループ、個人、および聖職者のような本質的異端者は、積極的に銃殺、あるいは強制収容所送りで隔離、強制労働死・拷問死させるべきである」
人類を解放できるのは、自分の「鉄の手」しかない。人類解放の唯一の担い手である自分には全てが許されているという考え方の当否こそ、内ゲバを規制する倫理の根本ではないのかと思えるのですが・・。党内ではいけないが,党外に対しては許されているという線引きは何に由来するのでしょうか。

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それは問題が違うのでは? 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月 9日(水)08時38分56秒

 宮地さんのサイトは結構共感をもって見ています。多くの社会主義者が「社会主義のための
民主主義」という見地に立つのに対し、小生のような”観念論者(笑)”は「民主主義のため
の社会主義」という見地に立つわけで、その観点から、20世紀社会主義を抉る宮地さんのサ
イトは面白い。ただ、この手のサイトに良く見られる牽強付会は鼻につきますが・・・。

 さて、レーニンの酷薄非常な指令という名の農民へのテロリズムと、内ゲバにおけるテロ
リズムは別問題であると思います。農民は、それ自体としては前衛でもなんでもありません。
大衆、労働者階級が手を携えるべき大衆です。翻って、日本の内ゲバは「自称」前衛党派同
士のテロです。

 ただ、レーニンの農民へのやり方と、内ゲバでのやり方の共通点を言うとすれば、両方とも
他者を暴力で意のままにする、という点で同罪であると言うことでしょうか。

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72−73年頃のこと 投稿者:菊  投稿日: 1月 8日(火)17時58分51秒

8日ほど留守にしていました。「内ゲバ」論議がなされていたようですね。個人的にはあまり思い出したくないのですが、72−73年、そして早稲田を巡る状況について、黒パンさんとまっぺんさんが書いているので一言、付け加えます。

まず、記憶している事実から。
当時、ノンセクトが革マルを襲撃したことはありません。また党派では第4インターのみが唯一内部ゲバルトに反対していたと思います。

まっぺんさんと黒パンさんが引用していた文章で、色々思い出しました。三越屋上の襲撃、ありましたね。当時、ノンセクト(私のようなクラスから浮き上がったクラス活動家も含めて。だからノンセクトというのは正確ではない)が秘密裏に集まる場所を決めると、必ず革マルに襲撃されるので、疑心暗鬼になり戦々恐々としていました。そんな程度のノンセクトグループが革マルを襲撃できるはずもありません。

では、私も含む当時の自治会活動家−ノンセクト活動家が内ゲバ主義に明確に反対する意識を持っていたかというと、その辺は曖昧だったように記憶しています。もっというと、「許容する感覚」が少なくとも活動家には存在していたように思います。革マルの「革命的暴力」論や70年安保前後の党派間の暴力的な衝突の経験や記憶もあり、党派間、あるいは活動家個人の間での暴力的・威嚇的な関係は「当たり前」のようだった気がします。ですから、そこに「内ゲバ主義反対」を掲げて登場した第4インターは、一般の学生はともかく、政治的な意識を持ってすでに活動していた学生活動家からは、「奇異の眼」(バカにされた)という状況だったように思います。
では当時(72年から73年春頃までの)の第4インターが間違っていたかというと、そうではない。唯一トロツキー(国際共産主義運動の歴史の原則)から説いていて、正しかったと私は思っています。しかし学生活動家は受け入れなかった。というより、受け入れる力を持っていなかった。

黒パンさんが書いている時期、73年の夏以降は完全に事態が変わってくると思います。黒パンさんの72−73年の革マル派の動きと他党派への襲撃、そして内ゲバの全面化についての分析は、「なるほど」と思いました。あまり振り返ってみることもありませんでしたので、非常に説得力がありました。その通りだろうと思います。正確には73年4月だったと思いますが、革マルが無差別襲撃を開始するのは。

革マル派の襲撃が全面化するに及んで、第4インターが訴え続けてきた原則が通用しない事態になってしまった。一方、当時の日本支部が早大闘争を組織として全力を挙げて取り組むと決めたのは、多分73年の夏だろうと思います。そこで、私や何人かの最も第4インターに近いと思われる学生がオルグされるわけです。しかし、その段階ではすでに革マルの襲撃をきっかけとする内ゲバが全面化してしまっていて、学生の革マル追放のうねりは完全に引いていた。

神大で革マルが殺されたニュースをどこかの喫茶店の会議中に聞いた記憶がありますが、大衆的決起への期待と自分たちが立ち向かおうとする寒々とした現実の前で、言葉をなくした感覚が甦ってきます。
仮に、第4インターがいうような、「学生大衆の決起で革マルを追放する」、つまり私は労働者国家における官僚打倒の政治革命をイメージしますが、それができるとすれば、72年中、遅くとも73年1−2月頃の時期までだったでしょう。それを逃してしまった上での「大衆的決起」論は原則的には正しくとも、現実化する可能性は失せてしまった。

ですから、残念ながら正直いって「白々しい」感覚なしに、国際革命文庫の引用は読めませんでした。また黒パンさんのような立場(第4インターではない)からすると、「内ゲバ反対」はいっても、結局党派的な勢力の拡張のために利用したのではないかという見方も成立すると思います。

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さらに失礼を 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月 8日(火)17時19分22秒

「知礼」ではなく「失礼」です。礼を知らざる誤字でした。

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知礼しました 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月 8日(火)17時16分41秒

知礼しました。宮地健一さんのホームページです。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm

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レーニンの反内ゲバ主義 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月 8日(火)17時11分26秒

疑問です。1923年にオルジョニキーゼが同僚を殴ったことをレーニンが非難したのが、美談(反内ゲバ主義の証)とされるのでしょうか。それなら1918年5月「食糧独裁令」発令から、1921年6月タンボフ「反乱」農民への『裁判なし射殺』『毒ガス使用』指令による農民大量殺戮までの間、レーニンに「内ゲバ主義」に相当する思想と路線はなかったとでも。〈なお、宮路健一さんのホームページ参照〉

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内ゲバ主義者は反レーニン主義である 投稿者:蝉丸  投稿日: 1月 8日(火)12時10分08秒

内ゲバについての参考文献の一部を抜粋して紹介します。これはパンフレット「共同行動の原則と『内ゲバ』主義」に収められている8つの文章のうちの最後に掲載されているもので、トロツキー著作集からの転載です。まず状況の説明をしておくと、1932年7月にパリでフランス共産党呼びかけによる公開集会に左翼反対派が出席することを表明し、そして参加した時に、共産党書記長の命令により集会途中で50人のスターリニストが左翼反対派を襲撃しました。トロツキーはこの事件についての抗議を8月20日付けの「ミリタント」紙に掲載しました。
************
(前略)
 ロシア革命運動の歴史には激烈な分派闘争がとりわけ多い。35年間、私はこの闘争をごく身近なところで観察し、それに参加してきた。マルクス主義者のあいだだけでなく、マルクス主義者とナロードニキやアナーキストとのあいだでも意見の相違が存在していたが、そうした相違が鉄拳の組織的支配によって解決された例をたったひとつも思い出すことはできない。1917年のペテルブルクは頻繁に開かれる会議で沸き立っていた。ボリシェヴィキは、最初は取るに足らない少数派として、次には強力な党として、最後には圧倒的多数派として、社会革命党やメンシェヴィキをうち負かすためのカンパニアを展開した。こうしたなかで政治闘争が暴力的闘いにとってかわられるような会議を私はたったひとつも思い起こすことはできない。この2年間、私は二月革命と十月革命の歴史の全面的な研究を行ってきたが、当時の新聞でそうした事件が発生したという証拠をなんら見いだすことができなかった。プロレタリア大衆が望んでいたのは、聞いて理解することだった。ボリシェヴィキが望んでいたことは、大衆を納得させることであった。このようにしてはじめて、党を教育することができ、革命的階級を党にひきつけることができる。
 1923年、スターリニストとレーニン主義派との論争が最高潮に達したとき、オルジョニキーゼが自分と対立していた人々のひとりの顔面を殴った。重病でクレムリンに閉じこもっていたレーニンは、オルジョニキーゼの行為の報告を受けて本当に驚いた。レーニンの眼には、オルジョニキーゼがコーカサスで党機構の頂点にいたという事実は、オルジョニキーゼの罪をよりいっそう大きなものにするだけだと映った。レーニンは自分の秘書のグラッセルとフォティエヴァを私のところによこして、オルジョニキーゼを追放するよう何度となく求めた。彼は、オルジョニキーゼの粗暴なふるまいの中に、スターリン派全体および彼の体制全体を示す兆候と兆しを見てとったのだった。同じ日、レーニンはスターリンとのいっさいの「同志的関係」を断つと宣言したスターリンへの最後の手紙を書いた。それ以降、全一連の歴史的諸要因が、ソ連邦共産党だけでなくコミンテルンでも「粗暴」と「不実」に満ちたこの派に勝利をもたらした。(後略)

久我山さん。「内ゲバと党派性」について誤解してました。おわびします。当該部分は撤回します。

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(無題) 投稿者:黒パン  投稿日: 1月 8日(火)10時05分30秒

鬼薔薇さん
 いつもながら、丁寧な文体での返事を数度読ませて頂きました。
少々強引だとは思いつつ、為した問いかけへ、対応して頂きありがとうございます。

 鬼薔薇さんの

 ≪「内ゲバ」を否定しようとする以上、彼または彼女たちの思いをわが思いとして「引き継ぐ」など決してできぬ道理でございます。そのような「死」そのものの否定・拒否を死者たちにあえて突き付けねば、それこそなすべき「鎮魂」ではないか、そこで初めて先のふたつの「思い」をひとつに撚り合わせることもできるのではないか…≫

 という点は理解しました。この場合の「理解」はあくまでも、私としての理解ということですが…
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