四トロ同窓会二次会 2002年1月12日〜15日
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基軸通貨国の特異性 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月15日(火)23時46分59秒
> だが、双子の赤字の時代から(バブルの化粧の下に今は隠されてはいるが)の世
>界第一の国債収支の大赤字を抱えるアメリカは、国家としての力はかなり没落し、
それを言うなら「世界最大の債務国に転落したアメリカ」ではございませんか? フローの赤字よりストックの赤字のほうがよほど大きいはすと思うのですが。でも、それが「国家の力」の低下につながるという通常の法則は、ことアメリカについては成り立たぬと存じます。対外債務の累積は、長期・短期の資本がアメリカに流入し続けた結果にほかならず、それが「ニュー・エコノミー」なる幻想を肥大させたのでしょう。ご指摘のバブルでございます。対外債務が長期成長の源泉となる、これはアメリカが唯一の基軸通貨国なればこその特異な結果と存じます。
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「不審船」問題補足 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月15日(火)23時35分22秒
>その意味で、今回の論評が純国内的な射程に自己規制しているという印象は否めません。
と書きましたのは言葉不足。「今回の」の前に「問題が国境を超えた領域にあるのに」と補足させていただきます。
それで、あらためて考えますと、「世界革命」を綱領的に掲げておられるのであれば、これはある意味致命的ではないのでしょうか。立派な党派にケチをつけるつもりではございませんが、少々気になる点ではございます。
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資本論電子化粗入力完了! 投稿者:TAMO2@サヨ 投稿日: 1月15日(火)22時08分52秒
一部の人にはわかることですが・・・広く大衆に公開できるのは
何時の日なんでしょうか・・・。俺にもわからん。誰にもわからん。
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国家主権と矛盾する憲法9条 投稿者:TAMO2@若干ウヨ厨 投稿日: 1月15日(火)22時03分04秒
小生思うに、元々米帝の意図で作られた日本国憲法は、米軍の軍事力とセットの
平和憲法であると思っています。軍事力なき国家主権は、武装と暴力に溢れた現状
にあっては、片肺の、保障なき主権であると思います。
米・ソ冷戦時代はそれでも日本が表立って世界政治の舞台に立たされることはあ
りませんでしたので、アメリカ軍の補給部隊としての自衛隊で十分であった、とエ
スタブリッシュメントの主流は考えていたと思います。特に、政治のみならず経済
的にも圧倒的にアメリカが強かった時代は。
だが、双子の赤字の時代から(バブルの化粧の下に今は隠されてはいるが)の世
界第一の国債収支の大赤字を抱えるアメリカは、国家としての力はかなり没落し、
また一方経済力がかなり上がった日本は#分相応の、主権国家に相応しい#武装を
要求するようになっています。これは、国家の本能のようなものであると思います。
信じられるものは己のみ、己の力のみ。その意味で、不審船撃沈は他の国の事例と
も合わせ(ソ連に銃撃された日本漁船など)、わからないでもないです。
「憲法9条を守れ」という訴えは、心情的には判りますが、それは論理的には国
家主権の否定を内包する故、今の保守化している大衆にはなかなか受け入れられな
い「理想」であると思います。これは護憲派も自覚しておいた方がいいかと。
(大体、革命をやるとして、武装なしで帝国主義の介入をどうやって防ぐのだろう
か。自衛隊は大衆の獲得対象だと本気で思っています。その点、中核派は若干偉い。)
では、憲法9条を守る運動は意味がないかと言えば、決してそうではないと思い
ます。(詳細はいずれ。)
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不審船と東アジア政治構造 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月15日(火)18時30分09秒
『かけはし』高島論文拝読いたしました。詳細にわたる分析は貴重なものと存じます。ただ、あえて不満をのべさせていただくなら、これだけの紙面を費やしながら、東アジアの政治関係についての鳥瞰的な視点が示されていないのが残念でございました。中国・韓国・北共和国・日本、というこの地域の政治力学、それに関るアメリカの極東政策、こうしたものの見取り図があったなら、今回の警察軍事行動の意味もよりリアルに浮かび上がったと思うのでございます。
北共和国が挑発的な外交政策を採ってきたことはひとつの政治的現実でございましょう。それが日米の軍事行動を正当化する理由となっていることも否定できぬところと思われます。
その意味で、今回の論評が純国内的な射程に自己規制しているという印象は否めません。
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でも内ゲバ論に多少つなげるとすれば 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月15日(火)17時38分12秒
「かけはし」の共産党批判は「統一戦線論」観点から
「しんぶん赤旗」の「不審船」報道がまったく論評抜きの「政府広報」と
化している事を批判し
不審船撃沈批判を唯一社民党だけがおこなっている事を紹介しながら
社共共闘によって政府に抗議していくように共産党に要求しています。
http://www.jrcl.net/web/frame0114c.html
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不審船問題ぎろん 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月15日(火)17時08分55秒
また脱線してすいません。
某所(?)で有名な村岡到氏の「不審船」問題をめぐる議論がaml 上であり、
それがなかなかおもしろかったので紹介します。
村岡氏は「北朝鮮の行動の問題性を明確にする必要」を述べ、さらに
「かけはし」が北朝鮮に対して何の批判もしていない事に不満を述べたうえで
> ともかく、この1点――「不審船=北朝鮮」――に関しては、私と同じような認識
>が示されていますから、個人紙「稲妻」よりは影響があるだろう「かけはし」紙と、
>「不審船」が何者かについて論議を深めてください。
と書いています。はて?「かけはし」高島論文がそういう認識をしめしたんだっけ?
違うんじゃないかなー? ともかく眺めてみてください。\(^o^)
http://www1.jca.apc.org/aml/200201/25890.html
http://www1.jca.apc.org/aml/200201/25891.html
http://www1.jca.apc.org/aml/200201/25917.html
http://www1.jca.apc.org/aml/200201/25923.html
http://www1.jca.apc.org/aml/200201/25998.html
http://www1.jca.apc.org/aml/200201/26033.html
http://www.jrcl.net/web/p01b.html
http://www.jrcl.net/web/frame0114a.html
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所感派と第1次ブントの補足 投稿者:すえいどん 投稿日: 1月15日(火)15時03分12秒
「日本共産党史<私の証言>」(日本出版センター昭和45年刊、第三章全学連六・一事件、島成郎)もう少し詳しく引用しますと
「いわゆる国際派がでてきたのは、ぼくとか、高野とか、そのぐらいのものです。むしろ、所感派のゴリゴリだった奴が中心になったという感じですね。森田にしても、死んだ生田にしても、所感派だったわけですからね。それに、50年分裂を知っている六全協後の全学連の活動家と言うのはぼくぐらいまでです」121頁
「当時は・・中国派という言葉はありませんけれども、今考えてみると中国派みたいな主張が全学連のなかにあったと思います。だから高野なんかが『あの頃の全学連主流派は中国派だ』と非難した。そういう意味ではむしろ、頑固派スターリン主義というかたちでいわれたことがあった。」119頁
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山口さんと加瀬さん 投稿者:藪ちゃん 投稿日: 1月15日(火)01時33分38秒
ご無沙汰しております。
山口さんは『情況誌』でパルチの滝田さんと対談してましたね。加瀬さんはとある地区の交流会
で「3,26の時は三里塚闘争の勝利のために全党派を潰す気でいた」と発言されておりました。
連帯する会・調整委が戦闘を繰り返している間、中核派・解放派へも戦闘への合流を説得されて
いたそうです。みんな逮捕・投獄されるのを覚悟しての闘争への参加でしたから、菱田ブロック
は。その後、2次決戦は何時かの指令を待っておりました。私としては。
北原さんに対しての意識は同盟の方々は色々でしたね。これ以上はって、ところですか。
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第1次ブンドと所感派、三里塚など 投稿者:菊 投稿日: 1月14日(月)21時41分41秒
すえいどんさん、初めまして。鬼薔薇さんとすえいどんさん、そしてわかもの社さんのやりとり、興味深く読ませて頂きました。私は70年代前半からの「同窓生」ですが、関連していくつか気になったことがありますので少し書きます。
実は先年亡くなった島成郎さんの晩年の7−8年、個人的におつきあいがありました。そんなこともあって、島さんの遺稿やさまざまな通信などはざっと目を通していますが、第1次ブンドが所感派主体というのは、違うのではないでしょうか。
安保ブンドの中では島さんがひとり年長で国際派経験者、あとは皆1956−7年以降に学生になった年代の人たちで、6全協前後の経験者はいないように思うのですが。そう考えないと、年齢的に合わない。
島さんは「あいつは、まるで何々みたいだよな」と、あっけらかんと明るくいう人でした。ですから、すえいどんさんが引用された文章も「それじゃ、まるで所感派じゃないか」と、「たとえのように」いったという印象をうけます。
島さんを追悼する武井昭夫さんのコメントに、安保ブンド結成に至る流れが詳しく書いてあります。この文章を読むと、国際派から安保ブンドへの流れがわかります。ここには、大屋史郎氏や塩川喜信氏のことも「陰謀家集団的イメージ」で出ています。
http://www.bund.ne.jp/shima/takei.htm
それから三里塚は、戦後直後の常東農民組合の指導者・山口武秀さんが早い時期からずっと関係を持っています。彼と日農のオルグだった加瀬勉さんが色々な局面での戦略・戦術の立案と闘争展開の上で大いに力を発揮しています。三里塚闘争の歴史の中で、山口武秀さんと加瀬勉さんはもっとスポットをあて、評価されるべきだろうと思います。二人とも、野武士のような人でした。特に山口武秀さんは長いオーバーを肩からかけて軍師のように立っていた姿を今でも思い出します。
北原鉱二さんは呉服屋の親父さん(いかにもそんな感じですよね)で、戦略的な考えで政治勢力を結びつけるような動きをする人ではないと思います。
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「ふつうの人」トロツキー 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月14日(月)19時39分42秒
>せみまるさま いささか趣味に走りますこと、お許し下さいませ。
>現在の共産党は、以前よりはいくらかましになり、すくなくともトロツキーに対して(た
>ぶん、いやいやながら)再評価していますね。
昔の「トロツキー・アレルギー」など現役党員からもなくなり、党の公式用語(?)からも「トロツキスト」は消えて「ニセ『左翼』」とかに変わっているようですね。共産党の影響が強いと噂の岩波でも、続々とトロツキーの著作が文庫に入っております。では何が変わったのかと考えるのですが、要するに「トロツキー」という存在からかつてのあの魔力が消え、「歴史上の人物」、衛生無害な研究対象になったということではございませんか?
40年以上前、まだ「トロツキー」は悪魔の代名詞、「トロツキスト」といえば「反革命・挑発者」の呪われたイメージでございました。そんな雰囲気の中でトロツキーの著作を手にするのは、ちょっと、いえ、かなりスリリングな経験だったものでございます。市販本といえば角川書店(その前に弘文堂から出たとのことですが)の『ロシア革命史』(山西英一訳、最初単行本、そのうち文庫化)と、論争社という怪しげな(笑)出版社から出ていた『裏切られた革命』(やはり山西訳)くらいなもので、あとは古本屋の戦前版か第四インターの自費出版物しかなく、入手もむつかしゅうございました。
現代思潮社から『トロツキー選集』が斬新な装丁で刊行され始めたとき、ようやく全貌がみえるようになりました。最初の配本が「中国革命論」というのも意外でございました。でも、あの『選集』けっこうお高く、セミ・ルンペン・プロレタリアの身にはなかなか手が届きませんでした。そのうち『わが生涯』が瀟洒なデザインの3巻本で出たときはどうしても欲しくて、共産党本部近くの古本屋さんで1割引のセットを見つけたとき、後先顧みずに買ってしまいました。その後同じ紙型で並製本2分冊になりましたが、やはりこの函入り3巻本は別格、今も大切にしております。
トロツキーの評伝としては、ドイッチャーの「預言者」3部作がつとに有名でしたが翻訳はなし(新潮社から完訳が出るのはかなり後になります)、原書(英語)は目の玉が飛び出るほどのお値段(1ドル360円の時代でしたし)、指を咥えているほかございませんでした。さすがの第四インターも「海賊版」までは出してくれませんでしたしね(笑)。
岩波文庫版は、きわめて良質の訳だと思います。現代思潮社版の『わが生涯』はフランス語版からの重訳で、訳者たちは専門外の文学畑の方々、それもかなりいそぎの仕事ではないかと思われる訳文でございました。岩波版はロシア語原典からの直訳で、テキスト・クリティークもきちんとされたものとのこと、訳者の解説からわかります。
学問研究恐るべきと感じましたのは『ロシア革命史』。訳者は3種のロシア語版と英独仏日語訳、そしてオリジナル原稿を一字一句比較対照し、ついにもっとも正確な「ロシア語原版」をまず自力で編集した上での訳業なのですね。そのオリジナル原稿を北大の研究所で(判読不可能な部分を含む)マイクロフィルムで発見したというのも驚きでございます。第一分冊巻末にその経緯を記した「底本をめぐって----『ロシア革命史』各国語版の問題点と本訳書のテキストについて」という文章は、訳者藤井一行さんがこの訳業にかけた学問的良心と情熱をすさまじい迫力で伝えております。これは『ドイツ・イデオロギー』の広松訳に匹敵する仕事ではないでしょうか。なお、“藤井編ロシア語テキスト決定版”はCD−ROMで提供されるとのことでございます。
「トロツキー」が“ふつうの人”として市民権を得、優れた訳文でその著作を読めるようになったのはもちろんよいこと。同時にそれは、「トロツキー」と「トロツキズム」の革命性が蒸発したことをも意味いたしましょう。残るのは、研究者にとっては「仕事」、一般読者にとっては「趣味」。ということで、しごく「趣味者」的な発言となりましてございます(笑)。
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人物論 求む! 投稿者:佐々田 格 投稿日: 1月14日(月)17時54分46秒
私は人物論に興味があるので、次のような方の人物論を、どなたか書いて頂けないでしょうか。
[社会党]
●西尾 末広
●平野 力三
●和田 博雄
●森戸 辰男
[共産党]
●徳田 球一
●野坂 参三
●宮本 顕治
●袴田 里見
どうぞ、よろしくお願いします。
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共産党との共闘は可能か? 投稿者:せみまる 投稿日: 1月14日(月)15時56分31秒
わたしが学生運動に関わっていたころ、「代々木系」対「反代々木系」のゲバがどこでもありました。共産党は新左翼を古典的・スターリン主義的な意味で「トロツキスト」と呼び、かれらがいかに「権力に泳がされた暴力的破壊者集団か」を宣伝していたわけです。しかし、現在の共産党は、以前よりはいくらかましになり、すくなくともトロツキーに対して(たぶん、いやいやながら)再評価していますね。また、党自身、革命戦略をおおきく右に転回させ、「スターリニスト」よりは「ポストスターリニスト」という呼び方の方がふさわしい。
それにしても、日本の共産党は世界の多くの共産党と比較しても、いまだにセクト主義です。他の多くの国々で、スターリニストの系譜に連なる党派は社民化するとともに、他の政党と左翼統一戦線を組んで共闘しています。日本共産党をそのような「外部にも開かれた」政党にするには、大衆運動の発展が必要でしょう。運動を発展させ、そこに共産党を巻き込んで行くことで統一戦線がつくられていくと思います。
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スターリニズムのどこを批判するべきか 投稿者:せみまる 投稿日: 1月14日(月)15時40分04秒
中核派が、「世界革命戦略」として一国社会主義を批判したのは小西さんの説明でわかりました。それに対して小西さんは(内ゲバ克服のためにも)スターリニズムが持つプロレタリア民主主義の欠如を批判するべきであるという事ですね。
●一国社会主義について
スターリニズムを真に理解するためには、一個の完成された「体系」であると考えるべきです。私はロシア革命の歴史を「ヨーロッパ社会主義革命」の挫折の歴史の一部分として捉えています。もしもスターリンが権力を簒奪しなかったら、あるいは、レーニンがもうちょっと長生きしていたら、ロシア革命は「一国社会主義」に押しとどめられることなく、帝国主義諸国労働者階級の「共同事業」としてのヨーロッパ革命が20世紀の歴史をまるでちがったものにしたでしょう。レーニンもトロツキーも、また多くの当時のロシア共産党員も、「一国社会主義」などとは考えていませんでした。遅れたロシアの社会主義事業を前進させるためにはドイツの工業力が必要であると考えていたわけです。
●スターリンが勝利したのはなぜか?
革命ロシアにおいてなぜトロツキーが敗北しスターリンが勝利したのかを、「技術的・戦術的」にとらえ、「スターリンの側が積極的にあらゆる手段を講じて党派闘争をやったから勝てたのだ」とする分析の方法が、これまで唯一トロツキストをのぞいて一般的に行われてきました。それを「レーニンの組織論の勝利」と考えるものは「トロツキーには組織論がなかった」と考え、スターリン主義者によって宣伝されてきた「レーニン主義組織論」なるものが共産党にも、また「反スターリン主義」を自認する反スタ主義者にも無批判に受け入れられてきた。それどころかトロツキストさえも、この「レーニン主義組織論」の魔術にひっかかっていた面があったといえるでしょう。
しかし、それでもトロツキストは「スターリンの勝利・トロツキーの敗北」をまったく違った観点から分析してきました。それは「革命情勢」との関係において分析されてきたものです。ロシアの革命情勢が成熟していた時期には、労農大衆が活性化し、闘いの勝利を確信し、あらゆる問題について積極的に議論し、行動していきました。労農兵ソヴィエトにおける大衆の積極性こそがなによりも革命のエネルギーの源泉であり、そこには「官僚的操作」なども入り込むスキはなかったでしょう。しかし、革命闘争の敗北がはじまった時、大衆の意識は防衛的になります。積極性よりも、懐疑性、消極性が優勢になる。スターリンが台頭し、党の権力を通じて大衆を官僚主義的に掌握していったのは、なによりも、このような情勢の変化によるものだと思います。また、レーニン死去の直後、共産党は一挙に大量の党員を募集しました。これも革命政府の行政的な防衛を意識していたんだと思いますが、すでに革命が勝利し、共産党が権力の座を占めたあとで入党してきた者の中には時期的に見て「出世主義者」も大量にいたでしょう。また、新入党員は「党員」としての訓練を積んではいなかったわけです。それが20数万にふくれあがる。24年以降のロシア共産党は、したがって「革命の党」としての成果を失っていき「官僚の党」に変化したのではないでしょうか?スターリン主義は、こうした党の体制の中で「官僚主義体制」として成長していった、と見るべきです。
●官僚主義との対決の決め手は民主主義
官僚の特徴は、自己保身意識が強いことですね。これは例えば田中麻紀子外務大臣と外務省官僚のやりとりをみてもよくわかります。官僚は自分の地位の保全のためなら国益に反していようと何であろうと関係ない。結果的に「責任がひとにふりかかれば良い」とおいう事です。この偏狭な官僚意識は、ロシア国家の行政と産業の末端まで浸透し、官僚に支配された人民にはもはやプロレタリア民主主義など消滅してしまった。私も、小西さんと同じく、スターリン主義打破の決め手はプロレタリア民主主義を復権させる事だと思います。そして、その闘争はただちに「官僚主義」の壁に突き当たるでしょう。さざなみ通信に結集する共産党員の人々も、まさしく共産党内部で、この壁につきあたっている。
民主主義への要求は官僚主義にするどく対決し、官僚組織そのものを破壊しかねない「ネック」です。組織や運動内部で民主主義を追求していく事が、スターリン主義の克服につながり、内ゲバの克服につながり、大衆的社会運動を拡大してゆくために重要であると思います。
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RE:旧所感派と第1次ブント 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月14日(月)12時01分14秒
>すえいどんさま
>戦後学生運動「第2期黄金時代」を指導したのは国際派系とは単純にはいえないようです。
>むしろ旧所感派の方が力があったと思われます。----中略----
>旧所感派的パトスが第1次ブントをつくるのに力があり、旧国際派はむしろ高野・安東のよ
>うに党忠誠派として、ブント弾圧の尖兵になったのでは。
わたしの「歴史認識」に重大な修正を迫るご指摘。ご紹介の文献を含め、再検討してみたく思います。大事な契機を与えていただき、お礼申し上げます。
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思いつくまま 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月14日(月)11時43分00秒
>わかもの社さま さっそくのコメント、とても興味深く読ませていただきました。「ご教示」お願いしたのは間違っていなかったと、嬉しく存じます。
「赤ランプ闘争」のこと、たぶん北海道ならではの活動形態だったことと存じます。全体に北海道党の気風のようなものを感じ取れたのは貴重な経験と新しい知見でございます。ありがとうございました。
「朝鮮人党員」のこと、これは戦後党史の暗部に属する重要問題のひとつでございましょう。新左翼にもっとも継承されなかった点でもございます。「民戦」と「祖防」のこと、「金」名のふたりの朝鮮人中央委員のことなど。あらためて主題的に取り上げられたらと存じます。あわせて、北海道の炭坑労働組合の結成が、捕虜として連れてこられた中国人グループによって防衛され実現したこと、かつて平岡正明『中国人は日本で何をされたか』という詳細なレポートがございましたが、関係者の方から何かお聞き及びでしょうか?
戦後革命(という用語法は共産党にはないかもしれませんけど)に対する中国共産党の関わりはきわめて組織的で、戦時中は強制連行される「捕虜」の中に党員を意識的に潜入させ、敗戦直後にはGHQ要員として来日したアメリカ党員と連携して日本の党再建に関わったこと、松本健二『戦後革命の内幕』というレポートにございます。そこでは、「大東亜戦争」を「大東亜革命」に転化することが構想されていたにちがいございません。でも「獄中18年」の出所組にとって、この構想はアタマもカラダもついていかぬものだったのでしょう。5年後の「軍事路線」は、その観念的な反動だったのかもしれません。
>旧所感派は私党・私兵の集まりであって決して近代政党とは言えなかったが、
それに対して「宮本体制」が“近代的”であったことはたしかでございますね(苦笑)。
>武闘路線のゲバルトで傷ついた末端の「組員」をそれなりにケアして
>いた ---これは当時の在北海道共産党員の多くが述懐しています。
新左翼もまた同じ問題に深刻に直面しておりましょう。共産党より深くかつ広いかと思います。中国の「文革」ほどではないにしても。
>異文化ともいえる作風の違い、議論を忘れて立ち枯れていく左翼・・・こうした障害を乗
>り越えて、われわれの個人レベルの協同が何よりも重要だと思います。
わたしも同じように考えております。「乗り越えて」というのは、それぞれの経緯と立場を突き合わせながら各々それを相対化していく困難な作業となるでしょう。でも、通信技術の発達と篤志の方のご努力でこうした場が現に提供されていること、とても貴重なことと存じます。ここの管理者まっぺんさんにはお礼の申しようもございません(礼)。
>私もまもなく3時から日刊赤旗の配達です(笑)。
お寒いのにご苦労様です。配達を終えられたら少しはお休みになれるのですか? 今日はたまたま休日ですけど、普段の日はお仕事もございましょう。若さにまかせての無理はなさいませぬよう、歳とってから響きますよ。知り合いの党員の方々、皆さんお歳を召して身体の不調をかこちながら、それでも「終りなき日常」の活動に黙々と従事しておられる姿には、やはり敬意を禁じ得ません。組織というのはそういう現場メンバーの目立たぬ日常活動に支えられていること、わたしもいくつかの場所で経験してまいりましたから。
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「スターリン主義」の問題構成 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月14日(月)11時41分27秒
>小西さま コメントありがとうございました。
「一国社会主義」論批判だけでは「スターリン主義」批判として不充分とのお説、『再生への道』5章でも展開されておりますね。前回発言では、運動思想の過程として「一周回ってしまった」感じを書き留めた次第ですが、ご指摘を受けて問題の枠組を少し考えてまいりたく存じます。
※『再生への道』の関係個所、203ページ末尾で文章が途切れているのですが、失われた続き(つなぎ)の部分----たぶん1行----補足をいただけないでしょうか?(204〜205ページでは1行ダブっておりますね。)
「スターリン主義」というとき、「制度」と「イデオロギー」と、大きく二つの論点があるかと思います。「一国社会主義」論は主に50年代末、前者に関連しては「ソ連論」、後者に関しては「革命路線」の問題として議論されたかと存じます。小西さんご指摘の「官僚的独裁主義が党と国家のすべてに貫かれた社会的・政治的体制」とは主に前者にかかわることとここでは仮に理解しておきますね(取り違えておりましたらご指摘を)。
とりあえず結論めいたことだけ書き留めておきますと、「一国社会主義論批判」だけだったから問題を残したというより、その「一国社会主義論批判」がいかにも手薄だったとわたし思うのです。他方、「官僚的独裁主義が党と国家のすべてに貫かれた社会的・政治的体制」をスターリン主義の「本質」と考えてよいのかどうか。たしかにスターリン権力が作り上げた旧ソ連国家の特徴付けにはなるでしょうけれど、それだけで「本質」規定になるだろうかという疑問が残るのでございます。
これに関連して「ロシアマルクス主義」という言い方がございますね(たとえば吉本隆明さん)。たしかにレーニンやスターリンの政治思想や政策が、“遅れたロシア”の政治条件や社会風土に強く規定されていたことは間違いありません。それだけに、民主主義がそれなりに成熟した西欧や日本の運動でスターリン主義が蔓延したのはなぜだったのか、重たい問いになります。これはある種の普遍的な思想因子を考えねば理解できぬことと思うのでございます。
そういたしますと、「官僚的独裁主義が党と国家のすべてに貫かれた社会的・政治的体制」そのものに「本質」があるのというより、そのような体制を不可避に導くようなイデオロギーとして「スターリン主義」を把握することが必要と思います。この点で、『検証内ゲバ』第2章の「国家・党(癒着・一体化)中心の革命構想」という指摘は、きわめて重要と思われ、それだけに未展開がとても残念に思われました。ここは、断片的に触れられる「民主主義」問題を革命構想の筋道に位置付ける端緒となるはずのところ。ここでマルクスの「自立した生産者たちの協同社会」といった未来像を「オルタナティブ」として対置するだけでは、もうひとつのイデオロギーや党派性の提起に流れかねません。むしろ『再生への道』第4章でご紹介のイタリアの経験などの意味を踏まえた議論が必要ではないでしょうか。具体的な展開はまた別に書かせていただきたく存じます。
連合赤軍「軍の共産主義化」と黒田哲学「プロレタリア的人間」の親近性は疑う余地ございません。ただ、前者が後者の影響の産物とは考えにくく、自己運動的にそこへ達してしまったところに問題の根深さ・恐ろしさを感じる次第でございます。これまた未展開で申し訳ないのですが、スターリン主義の含む思想因子に関わって重要な点と考えております。
新左翼の「一国社会主義論」批判の浅薄さの問題も残りました。宿題とさせていただきたく存じます。
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旧所感派と第1次ブント 投稿者:すえいどん 投稿日: 1月14日(月)11時10分51秒
>さらに、所感派の影響と言うことでいえば、第1次ブント自体「所感派のゴリゴリだった
>奴が中心になったという感じ」(島成郎)で「当時は・・中国派という言葉はありません
>けれども、今考えてみると中国派みたいな」(島成郎)ものであったと思われます。
>ここはちょっと理解に苦しみますね。第1次ブント結成の中心は、全学連8回大会に象徴さる
>戦後学生運動「第2期黄金時代」を指導した国際派系の活動家だったのではございませんか?
> 当事者の島さ>んがこのようにおっしゃるとは....。典拠は『ブンド私記』でしょうか?
出典は「日本共産党史<私の証言>」(日本出版センター昭和45年刊)第三章全学連六・一事件。戦後学生運動「第2期黄金時代」を指導したのは国際派系とは単純にはいえないようです。むしろ旧所感派の方が力があったと思われます。なお、陶山健一の回想には「(生田浩二の)『所感派スタイル』とわれわれが呼んだこの実践性は、言い知れぬ倫理的力で活動家を引きつけていた。・・・彼はよく冗談に『銃殺だ』と引金をひくかっこうをしてみせた。腕をまっすぐのばし、時に左の指を耳の穴に入れる仕草は『所感派』の実感をみせつけるに十分だった」とあります(生田夫妻追悼113頁)。旧所感派的パトスが第1次ブントをつくるのに力があり、旧国際派はむしろ高野・安東のように党忠誠派として、ブント弾圧の尖兵になったのでは。
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RE:新左翼と共産党 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月14日(月)08時42分45秒
>すえいどんさま コメントありがとうございました。以下、論点ごとの応答となります。
7回大会前後の日本共産党は、おそらく党史上に例をみない民主的な空気(党中央の統制が効かない状態)だったと存じます(全党あげての綱領論争にわざわざ特別の討論誌『団結と前進』が出されたり)。ですから“沈黙させられ”というのはいかがでしょう。ただ、「六全協ノイローゼ」は党内に根強く、「軍事路線」の責任者は行方不明、実行者たちの多くは党に残っても深く傷つき、意気消沈し、あるいは“青春を返せ”ふうの被害者意識に内向していたことと思います。「党の再生」を第一義に、暗い経験は墓場まで持っていくつもりの沈黙ももちろんあったことでしょう。その結果「まともな総括」よりも一方的な責任追及や、それに対する「前向きの建設的議論」要求の雰囲気が強かったことは事実でございましょう。「禁断」のトロツキズムが一部に新鮮な感じで受け入れられたのも、そんな空気の中でのことだったのではないでしょうか。
70年代新左翼について申しますと、各派に「50年」の経験者がほとんどいなくて「経験」の伝承がなされず、その結果無自覚・無意識に「所感派路線(および政治体質)への回帰」が進んだという面が大きいように思うのです。そして、無自覚・無意識に進んだことそのものが深刻と考えております。この点、革共同系には(インターも全国委員会両派も)経験ある幹部がまだしも残っておられたはずで、それだけにその後の事態が残念でございます。
>さらに、所感派の影響と言うことでいえば、第1次ブント自体「所感派のゴリゴリだった
>奴が中心になったという感じ」(島成郎)で「当時は・・中国派という言葉はありません
>けれども、今考えてみると中国派みたいな」(島成郎)ものであったと思われます。
ここはちょっと理解に苦しみますね。第1次ブント結成の中心は、全学連8回大会に象徴される戦後学生運動「第2期黄金時代」を指導した国際派系の活動家だったのではございませんか? 当事者の島さんがこのようにおっしゃるとは....。典拠は『ブンド私記』でしょうか?
>三里塚での北原派と中核派との連携にも、旧「所感派」人脈が働いていた、本多と北原が
>50年当時の所感派軍事組織で関係があったという話は初見です。典拠があればご教示く
>ださい。
申し訳ございません。ここはまったくの伝聞。旧所感派系の方と関東農民運動の関係者の話として伝え聞いたものですので、「典拠」と呼べる文献は確認しておりません(あるいはどこかに存在するかもわかりませんが)。50年当時に直接のご関係だったかどうかも含め(別々に「Y」関係だったお二人がたまたま三里塚で会われたということかも知れず)、前発言で断定的な言いかたを避けたゆえんでございます。本多さんすでにご他界の今、北原さんにお話うかがえたら一番よろしいのでしょうけど。
ただ、繰り返しになりますけれどわたしの主要な関心は、「所感派」的(と仮に言っておきますが)路線と体質が無意識・無自覚に新左翼の中に再生産されたことそのものの深刻さにございます。直接経験の伝承がむつかしい問題は、思想的に継承し総括する以外、道はないと思うのでございます。共産党からの「別党コース」選択から40数年、革共同第3次分裂からまもなく40年、赤軍派結成から30年、「殺し」の内ゲバが一般化してからも30年近く、という時間の重みは、日本の社会・経済と文化や生活様式の変転に重ね合わせてみますとき、おそろしい長さといわねばなりません。
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(無題) 投稿者:佐々田 格 投稿日: 1月14日(月)05時51分56秒
すみません。
眠くて、下の書き込み、途中で文体が変わっちゃいました。
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>鬼薔薇様 投稿者:佐々田 格 投稿日: 1月14日(月)05時47分45秒
確かに片山内閣は、戦後の占領下でしか出来なかった内閣でしょう。
第1党にはなったものの、議席数は140強。
自由党の大野幹事長は「民主党と連立する」とコメントしています。
また、当の西尾書記長でさえ「社会、自由、民主、国協(=共産以外)で、連立を組み、吉田首班で」と思っていたようです(これがポシャったのは、自由党が、共産容認の社会党左派を嫌ったため)。
また、結局、片山が首相になったのは、GHQ、特に民政局の意向が大きかったでしょう。これは、その後の芦田内閣の成立や、幻の山崎首班、民自党大勝が見込まれる解散→選挙の妨害を見れば分かります。
しかし、この一連の行動パターンを見てください。
民政局は、保守政党に政権を渡したくない一念で動いているではありませんか。
大体、彼らは、アメリカで左がかってるとレッテルを貼られ、日本に追いやられた側面があるのです。
だから、日本で「穏健な民主社会主義」を実現することに飢えていたはずです。
農地改革や、異例に高い相続税は、その表れでしょう。
さて、日本側はどうでしょう?
西尾官房長官は、労働者あがりの叩き上げ。
平野農相は、農民運動の闘士。
片山首相は、東京帝大出の弁護士というエリートだが、貧しい者のために、ボランティア同然で法律相談をやっていた。
このようなメンバーで内閣を構成すれば「穏健な民主社会主義」を志向するのも理の当然では?
ただ、哀しいかな経験不足。この内閣には、行政能力が欠けていた。また、保守系の民主党との色合いの違いは、あまりに大きかった。
選挙で第1党になった時、西尾が思わず発した言葉。
「えらいこっちゃ」
哀しいかな、西尾の危惧は現実となるのだ。もう少し、実力を蓄える時間が欲しかったのに…。
だが、片山内閣が「穏健な民主社会主義」を志向してたのは、前述の通りだと思う。
この後、平野は公職追放、西尾は汚職事件に巻き込まれ、右派は力を弱めて行く。
そして、片山も、西尾も、平野も社会党を去らざるを得なくなる。
これにて「穏健な社会主義」は、息の根を止められたのではないだろうか。
片山は言った。
「青い鳥は、きっとどこかにいるはずだ」
しかし、今の所…。
そして、これからも…。
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私は1965年生まれのため、 投稿者:わかもの社@共産党員 投稿日: 1月14日(月)02時21分36秒
同時代で色々なことを体験しているわけではないんです >鬼薔薇さま
ですから「教示」などとてもとても身に余ることです (>_<;)ワナワナ
ただ白鳥事件当時の関係者が肉親にいることで、50年代共産党軍事部門の後始末に
長い間関心をもってきました。『流されて蜀の国へ』という本を著した川口孝夫氏は
六全協翌年の1956年、党命により中国四川省に流され17年の亡命生活を強いられます。
たまたま川口氏が親戚だったことで、私はちょっと現代的でない事に興味を持つ
共産党員になったのかもしれません。
『流されて蜀の国へ』でも白鳥事件の詳細には触れていませんし、川上徹『査問』131頁に
おいても「(50年代軍事路線)当時の詳しい活動については、広谷(俊二)は『まだ言える
段階ではない』と言って話そうとはしなかった。」と書かれています。さらに、現在も中国に
いる鶴田倫也氏は三者のなかで最も札幌の「中核自衛隊」現場に近かった方ですが、彼もまた
白鳥事件についてだけは今もまだ話せないという態度です。長く続くこういう非公然性が、
残念ながらその後の検証を妨げ、新左翼の多くが同じような問題を繰り返していく伏線に
なったのはこちらで議論されている通りです。
以下、断章風に:
<村上(国治)さんについて
獄死は免れましたが、埼玉県の自宅火災で亡くなったのは残念でした。
故・村上さんの関与度は判決よりは低く、救援運動のパンフレットに書かれていた冤罪説よりは
高いといったところでしょう。しかしながら村上さんの救援運動は中央でも社共や各労組に加え
公明・民社が参加し、地元北海道・旭川近郊の比布町周辺では自民党議員までも巻き込んだ
ものでありました。その意義を些かも軽視できません。
<赤ランプ闘争
これは産炭地において石炭輸送を行う列車を赤信号によって停止させ、その隙に乗じて
「人民」が生活物資としての石炭を奪取するというものです。北海道ではたくさんの
朝鮮人共産党員や自由労働者がこの闘争に動員されました。
>ぬやま・ひろし(西沢隆二)氏のあのぬめぬめした「わかもの」論に抱いた生理的嫌悪感
なるほど、私も『グラフわかもの』のバックナンバーを何やらぬめぬめしたキッチュな
ものとして紐解いていたので、嫌悪感はわかります。
ちなみに西沢氏は息子さんにナポリ、娘さんにミラノと命名した人物です。
ここで問題を立てるならば、蔵原惟人vsぬやまの「社会主義文化」をめぐる論争後ぬやま氏が
公式に排除されるまでなぜ時間がかかったのかという議論も良いかもしれません。
思えば、志田重男も六全協後、それまでの腐敗と悪行の数々を党から指摘され放逐されても、
なぜか彼の機関紙を関西で発行し続けることができました。
旧所感派は私党・私兵の集まりであって決して近代政党とは言えなかったが、資金は潤沢で、
また武闘路線のゲバルトで傷ついた末端の「組員」をそれなりにケアしていた ---これは当時の
在北海道共産党員の多くが述懐しています。志田-広谷のラインも、ぬやま系列にしても、
ミヤケンが君臨し議会主義に全面シフトする党内で、路線上のイニシアチブを失いながら
長らくそれなりの地位を占めていられたのは、全くこういった人的ケアを行ってきたことに
よると、私は考えます。翻していえば、ミヤケンは「冷たかった」のでしょう。
でも彼は「革命近し」的な極端な主観主義や浪漫を捨て「終わりなき日常を生きろ
(宮台真司風)」な党風を造りあげたのです。
私は小西誠さんが
>新左翼と日本共産党の統一戦線などが可能なのかと問い、
>「可能であり、それが形成されないならわれわれは滅びるほかない」
と結論付けておられますことを心から歓迎し、いささかでも協力したく思います。
しかし、わが党はあまりにも「終わりなき日常」活動に淫する党になってしまいました。
私もまもなく3時から日刊赤旗の配達です(笑)。異文化ともいえる作風の違い、議論を忘れて
立ち枯れていく左翼・・・こうした障害を乗り越えて、われわれの個人レベルの協同が何よりも
重要だと思います。
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小西誠さんへのお願い 投稿者:すえいどん 投稿日: 1月13日(日)20時02分16秒
「新左翼運動その再生の道」「検証内ゲバ」拝読し感銘を受けました。こういう作業に真剣に取り組まなかったことが、今日の「左翼の疲弊」をもたらしたのだなと思います。ただ「検証内ゲバ」について言えば、左翼思想の再生と内ゲバ経験の継承という一個二重の課題という問題意識からは、4章、5章に不満が残ります.どの程度、売れたかは存じませんが、是非、改訂版をご検討いただければと思います。
現第四章の差し替えとして(いいだもも氏に執筆お願いは無理とは思いますが)
第1章 治安維持法弾圧下のもとで、党は自らを守るための行為としてどこまで許されるのか
1 スパイを処刑してよいか
2 処刑してよいとして、どの程度の証拠でスパイと認定してよいか
3 スパイ被疑者査問のための監禁・拷問はどうか
4 資金獲得のための強盗はどうか
5 資金獲得のための詐欺、横領、背任はどうか
6 偽装のためのハウスキーパー制をとることはどうか
7 逮捕に抗しての武器の使用はどうか
現第五章の差し替えとして、(なお、50年分裂の問題は外してもよいのではと思います)
第2章 武装闘争方針(5全協)のもとで党の行為としてどこまで許されるのか
1 治安維持法弾圧下のもとで、党は自らを守るための行為としてどこまで許されるのかと同一の設問にどう答えるか
2 政治家、高級官僚、資本家(いわゆる支配階級)は殺害してよいか
3 警察官、自衛隊員(いわゆる暴力装置)は殺害してよいか
4 民間人が死傷する可能性のある軍事行動をとってよいか
以上、日共の戦前、戦後の実践についての、小西さんの問題意識のもとでの検証として、小西さんが執筆されればよいのではないかと思うのですが・・・・
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新左翼と共産党 投稿者:すえいどん 投稿日: 1月13日(日)18時11分19秒
日本共産党を「スターリン主義」と規定して50年代後半にそれから分離した「新左翼」が20年足らずで先祖がえりしてしまったとの鬼薔薇さんの考察は納得できます。そうなってしまったことについては、50年代前半の軍事方針を、命令した人間は沈黙し、実行した人間は沈黙させられ、まともな総括は全く無かったということの影響が大きかったのでは。その禍根が、70年代に全面展開したのではないでしょうか。さらに、所感派の影響と言うことでいえば、第1次ブント自体「所感派のゴリゴリだった奴が中心になったという感じ」(島成郎)で「当時は・・中国派という言葉はありませんけれども、今考えてみると中国派みたいな」(島成郎)ものであったと思われます。その、第1次ブントを「左翼スターリン主義」として叩いていた黒田寛一が、さらに悪性のスターリン主義であったことが、その頃はわからなかったという経過ではないでしょうか。なお、三里塚での北原派と中核派との連携にも、旧「所感派」人脈が働いていた、本多と北原が50年当時の所感派軍事組織で関係があったという話は初見です。典拠があればご教示ください。
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>わかもの社さま 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月13日(日)15時02分27秒
コメントありがとうございました。広谷さんのお名前のこと、さっそくのご訂正にお礼申し上げます。きちんと確かめるべきところ手抜きをして、故人にも失礼してしまい、お恥ずかしいかぎりでございます^^;)。
現役党員でいらっしゃるとのこと、いろいろご教示えたいこと少なくございません。
「白鳥事件」といえば、病身にもかかわらず長年網走刑務所に投獄されていた村上さんのことを『アカハタ』で知り、悪くすると獄中死かと心痛めたものでございました。
「赤ランプ闘争」というのは寡聞にして存じません。どんな闘争だったのでしょうか。
『グラフわかもの』は見た記憶ございます。でも、ただ「見た」にすぎません。当時の感覚で申しますと、ぬやま・ひろし(西沢隆二)氏のあのぬめぬめした「わかもの」論に抱いた生理的嫌悪感と重なり、“大衆迎合へ転じた旧所感派の「歌と踊り」マヌーバー路線”という偏見でながめておりました。その頃の民青同盟には、「若い根っこの会」の共産党版といった印象しか持てませんでした。これは学生のエリート意識からくる偏りも働いていたと今は振り返って思うのですが。
わたし学生運動上がりのため、党青年学生対策部関係者でのお知り合いは旧国際派の方が多かったのですが(やがて皆さん8回大会で除名)、労働運動畑の旧所感派の合法部隊にむしろ信頼に足るリーダーが多くおられたこと、後に地区党の元レ・パ関係者を通じて知りました。中核派で労働運動対策に専念された陶山健一さんが尊敬しておられた故斎藤一郎さんも、あるいはそのお一人かと思います。
『新左翼運動再生への道』で報告されている中核派の内部風景は、わたしなどの印象では50年当時の日本共産党にぴたりと重なってしまいます。同書お読みでしたら、そのあたりご意見・ご感想など伺えればとても嬉しく存じます。
中核派と共産党との大きなちがいのひとつに対外組織関係がござますね。戦後日本共産党にとって中国共産党との関わりは無視できぬ大きさと存じます。党内「中国派」の存在も、単なるイデオロギーや路線問題以上の意味をもって検証されるべきかと思うところでございます。後年の文革期、わたしは“毛沢東は好きだけど「毛沢東思想」はキライ”という感覚でおり、お付き合いもございませんでしたが。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。m(__)m
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新左翼はスターリン主義に転落 投稿者:小西まこと 投稿日: 1月13日(日)11時45分00秒
鬼薔薇さん、「新左翼ー」本を読んでいただき、ありがとうございます。
さて、鬼薔薇さんの論旨の新左翼はスターリン主義に転落した、という結論に全く賛成です。これは貴説の50年問題ー所感派問題の再検討も必要かと思いますが、僕は同時に新左翼の「スターリン主義論」の再検討が必要かと思っています。小論でも提起していますが、新左翼のスターリン主義論は、「一国社会主義論」にこだわりすぎて本当のスターリン主義像を見失ってしまったと思っています。
こういうことから、もっともスターリン主義的な内ゲバに行きついたものと思います。
とりわけ、革マル派は「日本独特のスターリン主義」というべきでしよう。
連赤事件が出てきましたので、一言。連赤事件の思想的根源には、黒田寛一の組織論が孕まれているのではないか、とというのが僕の感想です。
それは連赤のリンチ事件の引き金となった「軍の共産主義化」というものがそうです。これは黒田のプロ的人間の論理に通じるものですが、この「共産主義化」というものが、組織論が欠落していた当時のブントに相当広範囲に広がっていった、という風に聞いています。恐らく戦旗・荒派の組織論はその典型でしょう。
この辺はブントの方々の検証が必要なところですが、「検証 内ゲバ」で詰められなかった所です。
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RE:片山−西尾体制 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月13日(日)11時30分36秒
>佐々田 格さま こんにちは。わたしもここでは「異端」らしゅうございます(笑)。
せっかくのご発言にどなたからもコメントないようですので、同じ「異端」のよしみでわたしから少々。
わたしの場合、片山内閣の問題と、民主社会主義系の評価とは必ずしも重なりません。
片山内閣は、占領下の保守党政権の危機の狭間に押し出された臨時政府的なもので、おっしゃる「穏健な民主社会主義」の理念にもとづく独自の政権基盤があってのものとは思いません。この前の村山内閣によく似ていたのではないでしょうか。その点、第一次大戦後のドイツのワイマール政権のほうがはるかに本格的な政権でございましたし、それゆえその崩壊の意味も重大な検討課題として残されたと存じます。
「穏健な民主社会主義」の系譜は戦前の友愛会につながり、生活協同組合運動や地域セツルメント活動などを含む社会運動を基盤にしていたと存じます。その代表人格は、神戸の造船ストを指導した牧師さん・賀川豊彦氏でしょうか(生協運動では今も「神様」でございます)。
戦前から戦中にかけての動きは重要ですね。麻生久氏を代表とした社会大衆党と総同盟は、「広義防衛論」で軍の革新派と連携し、統制経済によって社会政策の実現をめざしました。資本主義リベラル派が社会政策にあまりに無関心だったための選択かと思います。
社会主義と労働運動の流れが軍ファシズムと同調したのは裏切り・転向だとの見方ももちろんございますし、それはそれで正しいと思うのですけど、多少なりと具体的要求の実現をめざしたときの選択については別な判断が必要な場合も否定はできぬと思います。女性の権利拡大をとっても、国防婦人会をどうみるのか、そのリーダーだった市川房枝さんなどの行動評価は単純ではございません。
戦時下の統制経済政策は戦争に勝つには役立ちませんでしたが、戦後復興には大きな力を発揮したと存じます。経済安定本部(略称「安本」)を中心とした戦後経済復興の政策プランの多くは、労農派マルクス主義者と革新官僚との合作でございました。戦後民主化がGHQによるものとの説は一面的で、この戦時統制経済の担い手たち抜きにはありえなかったと存じます。食糧管理制度や借地借家法などついこのあいだまで存続いたしましたし、最低賃金制も戦時賃金統制政策の延長にございました。戦後いっせいに花開く労働運動でも、戦後労働歌のいくつかは軍歌の替え歌でございました。
保守合同と社会党の左右統一以後、「穏健な民主社会主義」は、独自の政治的役割を果たしていないように思います。後年の「民社党」が結局ミニ政党の域を出ぬまま消滅したのは象徴的でございましょう。政治理念だけ考えれば今の「民主党」の主流となってもおかしくなかったと思われますが、それだけの政治意志も人材も育たなかったのではないでしょうか。ヨーロッパ諸国と日本との大きな相違点かと存じます。
この点、共産党の動きとの関連もございますが、戦後社会党の独自性とその遺産を検討すべきかと思います。「新左翼」にしたところで、戦後社会党のつくったものに助けられていたことは否定できぬところとわたし心得ます。その社会党の崩壊は、やはりきちんと跡付けられる必要がございましょう。
またご意見お聞かせ下さいませね。
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>鬼薔薇さん 投稿者:わかもの社@共産党員 投稿日: 1月13日(日)01時13分03秒
興味深く御投稿を読みました。ただ一件だけ訂正させて下さい。
(誤)故広中俊二氏 →(正)故広谷俊二氏
広谷氏は確かに旧所感派でありますが、当時の共産党北海道委員会はほぼ100%所感派でした。
当時「赤ランプ闘争」等に加わった北海道の私の肉親によると、広谷氏は白鳥事件の真相を
知っているが故にミヤケン時代も長くポストを保っていたなどと言われています。
私はガセだと思いますが。
ちなみに広谷氏は72〜73年頃のいわゆる「新日和見主義」事件前、わかもの社という
会社をつくり、日本共産党青年学生対策部キモ入りの雑誌「グラフわかもの」を
発行していました。この雑誌が「青年スポーツ祭典」という民青系イベントを特集し、
「最も人民的なスポーツ」としてマスゲームを取り上げていた(^^;ことを、
私は83年頃民青地区委員会事務所にあった同誌の束で知りました。
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日本共産党と「新左翼」 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月12日(土)23時05分58秒
「内ゲバ」議論のなかで、しばしば「スターリン主義」に触れられておりますが、それは思想と理論の普遍レベルだけでなく日本での問題として、特に共産党との関連で歴史的に検討すべきことと思います。結論から申せば、日本共産党を「スターリン主義」と規定して50年代後半にそれから分離した「新左翼」が20年足らずで先祖がえりしてしまったと申せましょう。それを衝撃的に示したのが「連合赤軍」でございました。
赤軍派の一部と日本共産党革命左派との合同は、その「武装闘争」像といい、山岳ベース方式といい、50年期の共産党主流派(〜「所感派」)の再現にほかなりませんでした。かつてこの主流派が、大学地下室での凄惨なテロ・リンチ事件(立命館事件)で全学連の指導権を掌握したことはよく知られております(『検証・内ゲバ』では第5章)。
三里塚での北原派と中核派との連携にも、旧「所感派」人脈が働いていたと思います。中核派革共同書記長だった本多さんと反対同盟リーダーのお一人北原さんは、たしか50年当時の所感派軍事組織「中核自衛隊」と「山村工作隊」でご関係ではなかったでしょうか?
さらにまた70年代初頭の日本共産党にあっても、宮本主流派から組織的に排除されたいわゆる「新日和見主義」派の理論的指導者だった故広中俊二氏が旧「所感派」の流れを汲む方だったこと、当事者の中心にいた川上徹さんの手記『査問』に語られております。
雌伏20年で旧「所感派」が再び頭をもたげたというのではなく、「新左翼」が混迷のなかで旧所感派的発想を胚胎させたということでしょう。それだけに問題はいっそう深刻とわたし考えます。それは、旧「所感派」人脈とは無縁だったはずの赤軍派がまず先行的に示しました。旗揚げ当時の「前段階蜂起・国際根拠地・世界革命戦争」論が示した情勢認識と行動方針は、50年期の党主流派学生指導者の“僕たちは今、勝とうとしている!”という極端な主観主義発想とうりふたつだったこと、ひどく印象的で、この時、戦後日本「新左翼」はその“栄光の歴史”に自ら幕を降ろし、日本共産党の枠組みに回収されたと思わずにはおれませんでした。それはまた、かつての「所感派・国際派」という党内亀裂の区分が最終的に意味を失ったことを意味するはずでございます。新左翼はこの共産党の党内亀裂の幅をついに抜け出ることができず、多くの若い命がこの狭間の圧力に失われて行ったと感じられてなりません。『検証内ゲバ』第2章には“「スターリン主義の半スターリン主義的清算」の限界”という記述がみえます、けれども「限界」と捉えるのは中途半端と申すべく、「先祖がえり」という事態から目を逸らすことともなりかねぬと存じます。
“腐っても新左翼は新左翼、まちがっても「日共」と同列ではない”という線引きを温存したい志向はございましょう。けれども、30年にも及ぶ「内ゲバ」と真摯に向き合おうとすれば、共産党に対する「新左翼」の優位性などとうの昔に血の海に没している事実を直視すべきではないでしょうか。『検証内ゲバ』は、それを体系的に抉り出してはいないにしても、そのための検討素材は提供していると存じます。この30年間の負の遺産たる「内ゲバ」が「新左翼」の産物だったこというまでもなく、それを清算するには、「新左翼」という枠組みそのものの清算に踏み込んだ検討が必要ではないかと、切実に思うところでございます。
※これを書いた後、白井明『中核派民主派宣言』と小西誠『新左翼運動その再生の道』を拝読いたしました。白井さんは「左翼スターリン主義への先祖がえり」と表現されていますが、問題把握の見取り図は、(お立場上やむを得ぬこととはいえ)「清水憎し」のバイアスが強すぎるように感じられ残念に思いました。ご経歴からして、共産党問題にさらに踏み込んで書き込んでいただきたいものと思います。
※※小西さんは、共産党や社民勢力を含む「改憲阻止の左翼統一戦線」を提唱された終章で、新左翼と日本共産党の統一戦線などが可能なのかと問い、「可能であり、それが形成されないならわれわれは滅びるほかない」と結論付けておられます。長文にわたる本文の中核派内部批判はこの大胆かつ斬新な提起に至る過程だったかと、最後になって思い知らされました。示された勇気と率直さに対し、心からから敬意を表したく思います。
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ウォーゲーム、、懐かしい。。 投稿者:臨夏 投稿日: 1月12日(土)22時21分48秒
こんばんは〜、わたしは、まだプレイステーションなんかが出るまえに、青春時代を過ごしましたが、そのころは、ウォーゲーム、正確にはシミュレーションゲームいうて、6角形のマス目に区分された、紙の盤の上で、紙の軍事コマを動かして、サイコロと表で戦闘結果を決める、いう優雅で古典的な遊びしてました。
当事、高かったな〜、ロンメルのエルアラメインとか、スターリングラードとか、
バルジ大作戦とか。。
外交ゲームで、「マキャベリ」いうて、イタリアの統一するゲームもありました。
フィレンツェ役で参加して、見事、トルコ皇帝蹴散らして、全土統一したりもしました。
日露戦争やってたとき、やはり、友人に、「昔の人が一生懸命戦ったもので遊んで、、」
と批判され、確かにうっ、となったことを思い出しました。
しかし、南京大虐殺は、テーマがテーマですねえ〜、、、
第ニ次大戦を勝ち抜いたドイツと日本が決戦する、いうのもありましたが。
ガンダムなんかもあった、何百種類もありました、いまどないなってんにゃろ?
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「グローバル資本主義の危機」後 投稿者:noiz 投稿日: 1月12日(土)21時11分59秒
ソロスまた出してます.また市場原理主義批判+「提言」.
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「南京大虐殺」のゲームソフトが発売 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月12日(土)09時51分03秒
またまた脱線してもうしわけありませんが、aml に以下のような情報が発信されていました。転載です。
http://j.people.com.cn/2002/01/11/jp20020111_13131.html
吉林省長春市の街頭や店頭で「南京大虐殺」のゲームソフトが発売された。
長春欧亜商都電脳科技城のゲームソフト販売店の店主によると、「帝国時代2」
の「南京大虐殺」のゲームソフトは最近発売されたばかりという。このゲームは、
南京市民が旧日本軍の攻撃から逃れるように操作しながら遊ぶもので、最後に5人
が生き残れば勝ちとなる。武器をもたない数十人の南京市民が旧日本軍に追われ、
ひとりずつ銃殺されていく殺害場面は極めて残酷。旧日本軍による殺害が行われる
中、コンピューターの画面には、建物の中で旧日本軍が女性を暴行し、殺害したこ
とを知らせる説明書まで表示される。
このゲームソフトの製造元は、北京中竜科学技術発展有限公司と印刷されている。
「人民網日本語版」2002年1月11日
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中国政府は批判的には書いていないらしい。日本の戦争犯罪を宣伝するうえでいいことだと思っているのかもしれませんね。
でも、そう遠くない歴史的事実がゲームにされるのって、なんだか死者をもてあそぶようで、やだなぁ・・・・・
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