四トロ同窓会二次会 2002年1月16日〜19日

誰でも歓迎!何でも自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」その他に掲載する場合もありますのでご了承ください。
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横須賀で 投稿者:千葉学班協  投稿日: 1月19日(土)15時06分53秒

青葉白址決戦?ほど大げさじゃなかったのですが、81年ごろにも解放派と横須賀市民公園
でも”内ゲバ”もどきがあって機動隊に止めに入られたことありました。
いきさつは忘れましたが、横須賀市民連合(だったかな?)主催の集会で朝早い集会でした。
ちょうど元駐日大使の”核持込み発言”の後ミッドウエーが入港、その入港阻止闘争で
大いに盛り上がった後、二度目ぐらいの横須賀での朝早い小さな集会でした。

男全員に軍手とマスクが渡され、市民グループが不思議な顔で見守る中、解放派20人ぐらいが
全員メットに旗竿でコールしながら登場。狭間派が整列して止まるなり、いきなりインターの
部隊は殴りかかりました。集会に参加するのが2〜3度目の私には事情が飲み込めず、
あっ! −という間の出来事でしたが、ケンカは最初に仕掛けた方が優勢で狭間派は
旗竿は使う間もなかったと記憶しています。機動隊が「ヤメロヤメロ」と割って入って終了。

その日の午後芝浦工大で日大支援の会議があり、始まるまで”あちらこちらで”
どったんばったん音が聞こえて来ました。
私は会議室に先に入り、弁当をパクパク食べながらも完全に顔に「怒」と書いてある
明大の狭間派の怖い顔を半べそ状態でチラチラ見ていました。

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鬼薔薇さんの質問に対して(続きです) 投稿者:菊  投稿日: 1月19日(土)10時57分15秒

鬼薔薇さんの「立場が逆だったらどうか?」のご質問ですが、当時の私であれば、「好きなように登場させておく」です。襲撃を準備しているのであれば、最低限の反撃準備はしますが、それも自分たちの武装で跳ね返すのではなく、学生自身の自主性を尊重しながら反撃するようにしたと思います。どうしてか、といえば、東北大の事件に関連して書きましたが、そんな登場は所詮カンパニア的であり、政治組織の政治的影響力の浸透度合いとは何の関連もないからです。そうした感覚は私だけではなく、当時の第4インターメンバーは持っていただろうと思います。そしてそれが、他党派と第4インター派の大きな違いであったことも事実です。

また、党派支配の固定化は、72−3年頃からです。それ以前は各大学に色々な党派・グループが混在していましたし、青葉城址さんが書かれていたように、ある意味で「仲良く」やっていたのです。そんな存在だったので、自分たちが空間を支配するなどとは考えたこともなかったように思います。

青葉城址さん、76年ではなく、75年かもしれません。76年の2月は、三里塚現地で翌年の実力闘争につながる転機になった「産土参道攻防戦」があったから。いずれにしても、そのあたりよく覚えていないのですね。というか、忘れようとしてきたので。

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「認識のズレ」がわかりました。 投稿者:菊  投稿日: 1月19日(土)10時55分53秒

青葉城址さん、ご回答ありがとうございます。当時の両派の認識の「ズレ」がよくわかりました。東北大の状況を当時の学生インターはよく認識いなかった、それがあのような方針を採用する根拠のひとつになったのだろうと思います。
もちろん、これは私の記憶なので、学生インターの東北大のメンバーに聞けば、「それはきちんと提起した」となるかもしれません。誰かなあ、当時の東北大のメンバーは。。。
つまり、当時の私たちの学生運動状況を巡る認識と個別東北大の状況は違ったわけですね。それでは、当時の東北大の解放派が「どうして、インターがここに登場するの?」と思うのは当然のように思います。

実は私は東北大の「衝突」事件については、「おずおず」と書いてきました。それ以前に、何よりあまり思い出したくない事柄でもありました。というのは、隊列の一番先頭で竹竿を振るっていながら、「これは間違っているのではないか」と当時思っていたからです。それで、ここの掲示板などでその事件に触れた書き込みを目にするのは(しかも茶化したように書き込まれるのは)、大変イヤでした。

当時の「間違っているのではないか」とは、単純に「内ゲバ反対だから」というのではありません。多くの学生インターメンバーはそう考えていたかもしれませんが、私の場合、東京のマンモス私大で支配的党派の裏をかきながら、組織拡大していくような学生運動(少しかっこよくいえば、「レジスタンス的な」)をやっていましたから、「組織の拡大」を目的にした場合、部隊での登場は何のプラスにもならない(当時の言葉で言えば「カンパニア主義だ」)と経験的に考えていたからです。

しかし、私も「全体状況から一般化する」「個別の状況を細かく見て方針を出せない」という点では、当時の指導的部分と大差なかったように今回の青葉城址さんの話しを聞いて思います。

しかし、そうした感覚は、当時の学生インターの指導的部分には共有されていなかった。同じ現場メンバーでも、解放派の鉄パイプ襲撃を素手で受け止めて撃退するような「九州男児」的な九大の学生インターは、また違った感覚だったろうと思います。余談になりますが、最近ペシャワール会の中村哲医師の本を読んでいて、「なるほど。これだ」と、九大理学部出身で仲の良かったYを思い浮かべました。中村医師は日野葦平の「花と龍」の主人公の孫で、筑豊の「川筋者」のようですから本物です。

話は戻りますが、「東北大登場」が唐突な方針であったことだけは確かです。そこには、前回書いた以外にも色々な要因があるように思いますが、当時の学生運動の指導部分の「人間的なタイプ」も影響していたように思います。その人たちの感覚は当時の学生運動方針の立案にはマッチしていなかった、しかし彼らはその後の三里塚の実力闘争場面では有能な働きをしました。つまり、与えられた明確な目標に向けて組織を動員していく、「軍人」的な能力にすぐれていたのですが、変化する状況のなかで、方針を出して党派間の駆け引きや党派闘争を展開していく能力は、あまりなかったように思います。また訓練もされていなかったのです。

なぜ、こうしたことをしつこく書くかというと、それが鬼薔薇さんや一同窓生さんの書き込みに対する私の意見につながるからです。鬼薔薇さんは「党派として」という点を問題意識として上げていらっしゃいますが、「内ゲバ反対−プロレタリア民主主義」をたとえ掲げていたとしても、その構成員(指導的メンバー)の方針いかんによって、その原則をうち捨ててしまいかねない危険な局面をも招来しうる。しかもそれはメンバーの性格や個性に、大きく左右される場合もあるということをいいたいのです。

幸いにも、当時の第4インター系の学生運動は、東北大事件以外には「内ゲバ的なすれすれの手段」を採用することはありませんでした。これはせめてもの救いだと考えていますが。

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歴史探訪? 投稿者:一同窓生  投稿日: 1月19日(土)05時49分59秒

青側の現場にいた青葉城址さんと赤側の現場にいた菊さんとで、語られる青葉城址会戦秘話
たびたびTVで放送される関ヶ原合戦の裏話のようで興味深いですね。

第四インターが綱領的に「党内分派の承認」しかしながら「民主集中制の承認」またしたがって
「多党制の承認」を持っていたし今も持っている、これが「内ゲバ主義反対」の綱領的基礎
なんだ、単純に言えばそいうことでしょう。

では他党派に対して暴力を振るわないかというとそんことはなくて、自衛武装はあたりまえの
ことですからそういう場面は少なからずあった。革マルの集会破壊に対する「自衛的戦闘性」
はけっこうなものでしたからね。

しかし、それと、夜陰にまぎれて活動家のアパートを襲い鉄パイプやバールで脳天をかち割る
ような行動、総括と称して死に至るリンチを加えるような行動、また党派機関誌で実行を煽る、
「戦果」を公表するなどという行為は全く異質なものであり、一線を画した扱いをしなければ
なりません。

これと自衛武装の暴力が同一だと認識してしまったら議論の基礎がなりたちません。ものごとは
厳密に見ることが必要ですが、これだけの大差・落差を差と認識できない場合はもっと小さな
差の認識・議論は不可能になってしまいます。

日本共産党を始めとするスターリン派(後期第三インターナショナル)の末裔たちの綱領には
「分派承認」「多党制承認」の文言は見あたりません。第四インターナショナルのアドバンテ
ージはここに集約されているというのが私の見解です。

追記:でもそんなの狭い「新左翼」(第四インターは自分は「新左翼」ではないと自称してます
が)のコップの中のアドバンテージであって、今の日本では常識=あたりまえです。

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71.6.15のこと 投稿者:青葉城址  投稿日: 1月19日(土)01時46分53秒

また出て来ました。(^^;)

>70年6月に明治公園であったからです。沖縄返還をめぐってふたつに分裂
>した「全国全共闘」のうち中核派と第四インターとで開催予定の明治公園に
>解放派が内ゲバのために先に来ていて演壇前を占拠していたのです。この時、
>第四インターは、その演壇のうしろの青年会館前で前段集会をおこなってい
>たそうです。ちなみに、解放派はそれを知っていたけど、彼らもまた第四イン
>ターには手を出さなかった、と聞いています。

σ(^^)はこの場にも居りましたので、私の記憶している範囲において事実関係
を訂正させていただきます。
日付は、70年安保のあった6月ではなく、71.6.15です。
主宰は、中核派と第4インターではなくて、この6.15の分裂の直接的な原
因となった5.30集会(於明治公園)と同じく「東京入管斗、関東叛軍、な
んたらかんたら」で、要するに「八派共闘」的な枠組みのままです。このこと
は以前にマル共連で小西さんからも「歴史の正しい継承のために」と言った感
じで訂正のコメントをいただいています(より正確には「全国全共斗」は71
年には既に機能していなかったとの文脈だったような)。
と言う訳で、「解放派が内ゲバのために先に来ていて」と言うのはそのとおり
かもしれませんが(^^;)、分裂が既成事実化したのは、形式的には6.15夜
以降のことでして、明るい内は「未だ分裂していなかった」のです。あくまで
「形式的には」ですが(^^;)、解放派としては従前の枠組みとしての「統一集会
を追及するために」あるいは「中核派による統一集会破壊を防衛するために」
そこに来ていた……、なる屁理屈も一種有り得た訳です。(^^;)
ただし、第4インターについては、分裂前だからと言う理由ではなく、衝突す
ることは有り得なかったと思います。有り得たら、そもそもそこで第4インタ
ーが集会を開いていたかどうか?(例えばフロントが早々に別公園の集会に行
っていたように)。両者が武装衝突する理由はなかったからです。
武力衝突はひとえに中核派と解放派だけの問題でした。

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菊さんへ 投稿者:青葉城址  投稿日: 1月19日(土)01時36分20秒

菊さん、ご丁寧なコメントをありがとうございました。
投稿に際しては結構びびったところがありましたから、正直言って、ホッと
いたしました。さて、お言葉に甘えて、部分的ながらコメントを返させてい
ただくことにします。

>75年、いや76年だったでしょうか?私がまだ現場メンバーだった頃だ
>から、76年ですね、

そうかもしれません。

>そこには、当然「東北大でも他大学のような厳令的な支配が行われている」
>という前提的な認識がありました。特にその前に九大で解放派に鉄パイプで
>襲撃されていたことがメンバーの大きな憤激を呼んでいたこともあったよう
>に記憶しています(この時期は私の記憶違いで、もっと後かもしれませんが)。

九大のことは存じませんが、少なくともその頃より前で、東北大で解放派が
第4インターをテロったと言うことは無かったと思います(70年代の末以降
は全く知りませんが)。また、多少のひいき目は勘弁していただくとして、
当時、東北大(教養部)で解放派が「戒厳令的な支配」を行っていたとの認
識はありません。革マル派は別格として(^^;)、中核派や第4インターは「党
派として」はさすがに登場できませんでしたが(その故をもって、革マル派、
中核派、第4インターから見れば「戒厳令」だったかもしれませんが)、親
解放派ではないノンセクトやフロント、ブント系などそれなりの多様性は存
在しえていたと、私は認識しています。
その傍証としては、その頃、東北大(教養部)には未だ大衆運動が実態的に
あったことです。70年代半ばのエポックと言えば、ひとつは処分撤回斗争に
何と勝利してしまったことと、ふたつめにはサークル棟斗争の勝利(これは
詳しくは知らないですが)など。私は一種「時代錯誤」めいたもの(^^;)を
感じてしまったくらいですが、これらは、私自身は解放派のヘゲモニー以外
の要因の方が遥かに大きかったのではないかと読んでいます。解放派はむし
ろ彼らと「折り合いよく」やっていたのだと。

余談ながら、70年代半ばにおいてすら一種「69年的」な大衆運動を展開できて、
全国に名を轟かせた(?)東北大の(新左翼)学生運動にあっても、その運動
は殆ど教養部に限定されていたものでした。何より、あの69年においてすら、
東北大には「全学共闘会議」は結成できなかった。できたのは「全C共闘」、
すなわち全教養部共闘会議だけだったのです。それほど民青の力は(学部含め
て)強かったことと、もう一面では教養部の闘いがそれだけ苛烈であったとも
言えそうです。
その結果、教養部では激しく反目しあっていても、学部では、ノンセクト、解
放派、フロント、第4インター、ブント(叛旗系)、さらには当時「マル研」
と名乗っていた(?)中核系までが「まるでひっそりと肩を寄せ合うように」、
学部自治会への立候補等の取り組みを行っていたりしました(ただし70年代半
ばまでの話)。

これらをして、「東北的牧歌性」と言い得るのかどうかはわかりません。

>東北大に対する日本支部政治局レベルの「思い入れと拠点意識」

それはあるでしょうね、歴史的にも本来拠点であるべきだったところです。
その奪還は一種の「悲願」だったと想像します。

ps:
もしよろしければ、次回にでも、話は71年に遡って、なぜ第4インターが(中核
派とともに)、東北大教養部に「党派として」登場できなくなったか、その特殊
な顛末でも書かせていただこうとも思いますが、よろしいでしょうか?

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RE:感想:青葉城址会戦 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 1月19日(土)00時16分32秒

>まっぺんさま お答えいただきありがとうございました。

>もしも第四インターと解放派とが逆の立場にあったら、第四インターは、解放派が登場す
>るのをさまたげたかどうか分かりません。たぶん当時の状況では妨げる必然性はないんで
>はないかと思います。

 その傍証としてあげられた明治公園問題のご説明は、「解放派対インター」という個別党派関係のことのように思いますが、わたしの関心は少し別のところにございました。つまり、キャンパスのようなある社会空間(「拠点」)を排他的に独占(制圧)することを是とするか、それともそこは「公共空間」として他党派との併存を当然とみるの問題でございます。
 実証・理論いずれにしても簡単には結論付けにくいものがあろうかと思いますが、わたし考えますに、「党派」というのはこの排他的独占を是とし併存を否定する一般傾向を内在させていたように思うのですね。事実として併存している場合でも、それは「力の均衡」の結果にすぎず、可能であればいつでも排他的独占へ移ろうとする傾向、それは私的独占の論理でございましょう。
 
 ひとつの海のような「公共空間」とそこに浮かぶ島のような私的イニシアティブ・グループとしての政治集団(党)というイメージと、「公共空間」の私的領有(覇権)をめぐる利害集団としての党派というイメージと。おそらく「内ゲバ」と「(プロレタリア)民主主義」という(ここで話題の)テーマをここに投げ入れて考えますと、「必然性」とおっしゃるものの中身が解析を必要といたしましょう。「党派として」というところがキーではないかと申した理由もそこにございました。

 第四インターの「反内ゲバ」政策は、上の私的独占の傾向が他派より相対的に稀薄だったという程度問題にすぎないのか、それともこうした傾向とは本質的に異なる行動原理の表明であったのか、それはご同窓の皆さまの総括テーマかと思いますので立入りませんが。

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感想:青葉城址会戦 投稿者:まっぺん  投稿日: 1月18日(金)22時43分37秒

もしも第四インターと解放派とが逆の立場にあったら、第四インターは、解放派が登場するのをさまたげたかどうか分かりません。たぶん当時の状況では妨げる必然性はないんではないかと思います。というのは、これに類似する事態が、70年6月に明治公園であったからです。沖縄返還をめぐってふたつに分裂した「全国全共闘」のうち中核派と第四インターとで開催予定の明治公園に解放派が内ゲバのために先に来ていて演壇前を占拠していたのです。この時、第四インターは、その演壇のうしろの青年会館前で前段集会をおこなっていたそうです。ちなみに、解放派はそれを知っていたけど、彼らもまた第四インターには手を出さなかった、と聞いています。残念ながら、第四インターに関しては伝聞です。当時私はまだノンセクトで、中核派と解放派との内ゲバ戦を観戦していました。

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感想:「青葉城址会戦」 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 1月18日(金)20時03分58秒

 事実経過についてなにごとか申し上げる立場にはございませんが、関係のご報告とやりとり、なにかしらほっとするものを感じながら読ませていただきました。青葉城址さんのお書き込み、心温まるものがございました。まっぺんさんの困惑には、すえいどんさんとご一緒に同情申し上げたく存じます。キーワードは「党派として」という点にございますね。
 
 ところでまっぺんさん。もし立場が逆であったら、「内ゲバ反対」の方針に照らしてインターはどのような対応をされたとお考えでしょう。つまり、教養部キャンパスはインターの「制圧」下にあり、そこに解放派が「党派として」登場しようとしたとすると、インターも「党派として」これを実力で阻止したのか、それとも、「攻撃」がなされない限りはこれを放置されたのか、でございます。
 
 歴史に「もし」はないと申しますし、こんな仮定の話には意義を見出さぬということであれば、やりすごしていただいてかまいません。ただ、こうした思考実験を通して、「党派として」という場合の「党派」という存在に少し光を当てることもできるのではないか、とわたし思うのでございます。
 「内ゲバ」というのはなにより「党派」の問題でございますね。「良い党派=内ゲバ反対党派」と「悪い党派=内ゲバ党派」に振り分けてみるだけでなく、そもそも日本新左翼における「党派」というのはいったいいかなる存在だったのか、あらためて考えてみるのも意味のないことではないと思うのですけど?

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きちんと説明してくれませんか? 投稿者:まっぺん  投稿日: 1月18日(金)18時41分33秒

ヨセフさん、いらっしゃいませ〜\(^o^)
あなたの信ずるものをここで宣伝なさるのはいっこうにかまいません。しかし
なんのコメントもなく、ただ貼り付けるだけでは、その意図を量りかねます。
どうか説明をおねがいします。

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リトル・ペブルに与えられたメッセージ 投稿者:ヨセフ  投稿日: 1月18日(金)17時30分23秒

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2.リトル・ペブルに与えられたマリア様のメッセージ
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 No.001  1983年11月11日 金曜日
  11番目の月の11番目の日の11番目の時刻

 この大いなる広大なオーストラリア大陸の我が愛する子らよ。
今日は特にロ一マ・カトリック教会のすべての聖職者と、司祭
たちに語ります。私、あなたの天なる愛の母は、光の王国にま
します永遠なる御父から、大変重要なこのメッセージをあなた
に送るために、遺わされてまいりました。

<以下、管理者権限により削除しました。何の説明もなく貼り付けるはやめてください>

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細かい訂正 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月18日(金)15時01分34秒

「動いていました」>「身構えていました」

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死刑判決がまた出ましたね・・・ 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月18日(金)15時00分00秒

 別のテーマ(但し、過去に議論されたテーマ)ですいません。新宿通り魔殺人事件の犯人
に掲題の判決が出ました。小生は、原則的に死刑廃止論者ですが、まあ、その代わり終身刑
や懲役200年とかの判決が「バンバン」でない限りは現状では死刑廃止には消極的です。
(以前、書いた通りです)

 遺されたご遺族の方の立場が非常に社会的に不利な状況が、リンク先に書かれています。

 ちなみに、包丁を振り回す人間に出会ったら、ここの方々はどうされますか? 実は、
小生、昔そういう目に遭いました。余り自慢にはなりませんが、護身術という名の殺人術
を若干体に染み込ませた時期があり、気づいたらカバンの紐を相手の首にかけて、締め殺そ
うと動いていました。包丁を振り回していた御仁は、小生のいた方向とは違う方向に行って
しまいましたが・・・。なお、これは「過剰防衛」だそうです。わけがわからんな、と思い
ました。
http://www.campus.ne.jp/~zonozono/ane/index.html

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青葉城址さん、初めまして。 投稿者:菊  投稿日: 1月18日(金)12時53分54秒

解放派サイドから見たご意見、ありがとうございました。
私は先日も書きましたが、現場の赤ヘル部隊にいました。前後の状況についてまったく記憶に残っていなかったのですが、青葉城址さんの書き込みで少し思い出したところがあります。

事件は74年2月ということはないですね。75年、いや76年だったでしょうか?私がまだ現場メンバーだった頃だから、76年ですね、きっと。その事件について1メンバーとして参加していただけなので、当時の東北大での状況や指導的な部分の方針について残念ながら、全くわかりません。

そこで76年として、当時の第4インターの現場学生メンバーの立場から少し書いてみましょう。以前、黒パンさんも書いていたように、73−74年と内ゲバが激化し、集団での内ゲバ襲撃が繰り返されていました。そういった中で革マル、中核、解放の3派の拠点大学はそれぞれ「戒厳令」的状況になっていました。にもかかわらず(そういう状況だからこそ、と言うべきか)、学生インターは学生運動の歴史的な拠点にメンバーを獲得、拡大し始めていました。早稲田、法政、明治、神大、広島大、九州大、北大、、、、。これについて、各党派はかなり「神経質」になっていて、いかにしてインター系活動家をつぶすかに必死だったという印象があります。どこの大学でも新しく加盟したメンバーは自分の大学を拠点にしている各党派活動家に殴られ続けていたので、全国のメンバーが集まる会議の場では、いつも「いかにして内ゲバ党派の支配を打破し、戦闘的な学生運動を再建するか?」というテーマが、「重苦しい」雰囲気の中である種の確信と共に(メンバーが新しく増え続けているわけで、それが自分たちが正しいという根拠になっていた)語られていました。

そこで、どうして東北大に登場することになったのか。そこは全く記憶にないのですが、学生インターのメンバーは、内ゲバ党派の暴力的な支配を打破するという共有感覚のもとに、自分たちの大学での困難な状況を突破するのと同じだという意識で動員されたのだったと思います。そこには、当然「東北大でも他大学のような厳令的な支配が行われている」という前提的な認識がありました。特にその前に九大で解放派に鉄パイプで襲撃されていたことがメンバーの大きな憤激を呼んでいたこともあったように記憶しています(この時期は私の記憶違いで、もっと後かもしれませんが)。

衝突事件自身の経緯は、ほぼ青葉城址さんの書かれている通りではなかったでしょうか。学生インターの部隊は慣れていないというだけでなく、「躊躇」があったように思います。つまり「内ゲバ反対」といいながら、こんな形で衝突をしていいのか、ということです。

なぜ、東北大であのような事態になったのか。これは私にもわかりません。東北大に対する日本支部政治局レベルの「思い入れと拠点意識」(他党派がそれぞれの拠点大学に「思い入れ」があるように)があったのかもしれません。

それからほどなくして、私は学生運動の指導的メンバーの一員になりました。そして東北大の事件もその象徴だった「戦闘的民主的学生運動の再建」という、それまでの方針から、三里塚を始めとする大衆運動に集中する方向に学生組織全体が転換していくことになります。そしてそこでは学生運動の進め方も、それまでのようなやり方ではなく私が早稲田でやっていたようなやり方でメンバーと影響力の拡大を図っていくようになります。
また、東北大事件の当時の指導的メンバーのほとんどは、その後三里塚現地の実力闘争を準備するグループの中心を構成することになっていきます。

歴史や真実は「個人個人のそれぞれの記憶を突き合わせる」ことによってしか、明らかにすることはできないと考えています。その意味で、青葉城址さんの書き込みは(書きたくなかったかもしれませんが)、私にとっても思い出したくない経験のひとつをもう一度、見直すきっかけになりました。再度お礼を申し上げます。ありがとうございました。

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真実を認識することがいかに困難か 投稿者:すえいどん  投稿日: 1月18日(金)10時22分14秒

攻撃と防御の逆転?まっぺんさんの困惑に同情します。これも、また、
「<真実>を認識することがいかに困難かを示す一例でもある」のでしょうか。

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貴重な資料をありがとうございました(^^) 投稿者:まっぺん  投稿日: 1月17日(木)21時28分11秒

ひえ〜・・・・ほぼ完全にはじめて聞く内容です。そうだったんですか。
「内ゲバ反対」の立場から、これをどう解釈するべきなのか?・・・判断停止状態ですねー。

>以上です。長々と失礼いたしました。何だか本論的話題を中断してしまった
>かもしれませんね。申し訳ありません。

いや、そんな事はないと思います。
「論理」としての議論ばかりじゃなく、こうした「具体的エピソード」も
含みつつ議論する方が、実際に即した議論ができていいと思います。

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青葉城址の衝突(4)←最後です 投稿者:青葉城址  投稿日: 1月17日(木)21時15分12秒

(続きですが、これが最後です)

元稿は以上のとおりで、これで私が見た本件衝突に関する概要は伝達できて
いると思いますが、少し追記します。
この「会戦」の位置付けは、解放派の側からすれば前述したとおり、第4イ
ンターの「党派として」の東北大教養部への登場「阻止」に尽きますから、
相手部隊の深追いを含めて(特に非武装の本隊への)「襲撃」や「せん滅」
など有り得ないように思えます。要するにセレモニーとしての登場を単に阻
止すればよかっただけですから。但しドンパチの過程で「行き過ぎ」めいた
ものは少しは有ったかもしれませんし、無かったかもしれない。
片や、第4インター側の位置付けは・・・・、すみません、実は私はそのこ
とに関する記憶が片鱗もないし、よくわからないのです。ただ、既出のよう
に解放派による「襲撃」に対する「防衛」であるとだけ仰られても、どうに
も腑に落ちないのです。まさか襲撃を「引き出す」ために進軍して来た訳で
はないでしょうから。
少なくとも川内(東北大教養部)に「党派性を前面に出して」登場しようと
しなければ衝突は起こらなかった。これがもし東北大片平(教養部ではない
地区)で開いていた集会を解放派が「襲撃」したのなら、それは文字どおり
「襲撃」にあたるでしょう。しかし、当時の党派間の事情としてそのような
ことが起こる必然性は無かった筈です。とすれば、この衝突がなぜ起こった
かの考察が不可欠だと思います。やはり「教養部への登場vs阻止」の文脈を
抜きには語れないのではないでしょうか?

※推測ですが、第4インターの方から解放派に、東北大教養部への「平和的」
登場の申し入れを行ったが、解放派の方から強く拒否された、と言うシナリ
オは十二分に有り得たと思います。そして、その結果どうするか、第4イン
ターの方で色々と議論されただろうことも想像できます。その議論の中味は
知るべくもありませんが、結果としてはあのような形に落ち着いたと言うこ
とでしょうか。

言うまでも無いことかもしれませんが、ある党派(複数)を学内に登場させ
まいとするスタイル(つまりは縄張り争い)それ自体を、正しかったと見な
している訳ではありません。これも数多ある悔恨のひとつではあります。併
せて、この件に関して「解放派が正しかった」などと申すつもりも毛頭あり
ません。しかし、事実経過は正しく認識してもらいたい、少なくとも「とも
かく解放派は内ゲバ主義者だから、訳もなく襲撃して来た」かのようにしか
取られかねない記述は誠実ではないと思ったのです。

以上です。長々と失礼いたしました。何だか本論的話題を中断してしまった
かもしれませんね。申し訳ありません。

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青葉城址の衝突(3) 投稿者:青葉城址  投稿日: 1月17日(木)21時12分39秒

(続きです)

次に、上記リンクの2番目(8902.html)の文を引用・コメントします。

>再現!青葉城決戦!!(Re: 東北大)
>投稿者 ザーカイ 日時 1999年 10月 06日 14:48:44:
>回答先: 東北大 投稿者 トンペ−生 日時 1999年 10月 05日 14:32:16:
>
>>(略)80年代 になって中核が奪い取ったと聞きましたが、学生
>>運動退潮時にどう やって勢力を拡大できたのですか。また、イ
>>ンタ−が一番強かったとか、インタ−と解放の青葉城決戦があ
>>ったとかって本当ですか。
>>内ゲバ反対のあのインタ−が。

ザーカイさん。まず「青葉城」と言うのは残存していません。あるのはちっ
ぽけな城址(しろあと)だけです。ただし、衝突の場所はまさしく青葉城址
のところでした。確か「青葉城址前」なるバス停が在ったような・・・・。
次に(新左翼系で)「インターが一番強かった」と言うのは疑問です。東北
大にあっては、60年代前半ならいざ知らず、70年代前半〜半ばにかけて
はひいき目でも2番手、もしかすると4番手だったかもしれません。

>しかし退潮期の青葉城決戦ですかあ・・・ロマンチックだなあ―。
>(イメージ・アナウンサー古館伊知郎風)
>
> 冬将軍の足音が聞こえ始める頃
>   黄昏時の青葉城
>  古城のふもとに向かい合う勇者たち
>   一方は蒼の兜
>    一方は紅いに鎌鎚紋章の兜

季節は初冬ではなかったような、どちらかというと春だったような・・・。
時間は丁度昼休み時間です。でも場所がキャンパス外だったため、観客(一
般学生)の数が少なかったことが少々残念と言えるかも。(^^;)

>  現代のカインとアベル
>
>両雄の手にはいくつもの激戦を闘い抜いてきた相棒のバール
>  中世の騎士のようないでたちの彼ら
>    心には「約束の聖地=自治会」の防衛/奪取を秘めて

さすがに双方「バール」は無かったはずです。
当時自治会は民青だったと思いましたから「防衛」ではないし、勝敗の結果
が「奪取」に繋がる訳でもありません。ま、その後の主導権には若干の影響
を与えたかもしれないが。
「中世の騎士」かぁ。なるほど、いでたちはともかく、中味は確かにドンキ
ホーテだったのかも?

>     否応なく高まる緊張感・心臓の鼓動
>        
>   どこかのお寺の鐘が不意に「ゴ〜ン!!」
>  驚き、鳩が飛び立つ音とともに静寂は破られた
>   「突撃〜」
>     自らの恐怖感を掻き消すが如き雄叫び
>         「ウオ―!!!」
>   青葉城決戦の火蓋は今切って落とされた!!!

この部分は事実です(なんてウソですよ〜)。(火暴)

>#こんな感じだったのかなあ(笑)すべて想像ですので、関係者各位は怒らないでね。
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全然怒りはしませんけど、事実経過として気づいた点を修正させていただき
ました。
以上、もし私の記憶違いでなければ。
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(つづく)

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青葉城址の衝突(2) 投稿者:青葉城址  投稿日: 1月17日(木)21時11分52秒

(続きです)

まっぺんさん、私の記憶によれば一部事実関係が逆です。(^^;)
先ず次のことを前提として承知しておく必要があります。
第4インターはこの頃、党派としては東北大(正確には教養部)には登場で
きない形になっていました。これは、71年時の沖縄闘争を巡って全国反戦
全共闘が中核・インター組と解放派・フロント・その他組に分裂したことが、
その是非はさておき、まだ尾を引いていたことによっています(ローカルに
はさらにプラスαの事情もありますが省略)。ただし、そのことはあくまで
も「党派として」であって、東北大学新聞社(第4インター系)等の大衆サ
ークルとしての活動については特に制約はありませんでしたし、実際、人脈
的にも彼らとの関係は別にまずいこともありませんでした。いずれにせよ、
そのような事情にあって、第4インターが「党派性を前面に出して」東北大
に再登場するには、解放派のバリアを武力で突破する必要があったと言うこ
とです。

上記引用からは、第4インターが(党派として)学内で恒常的に活動してい
るようなところを、解放派が襲撃して来るので、そのための正当防衛である
かのようにも読み取れますが、私の認識は違っています。むしろ形の上では
攻守は逆で、第4インターが攻める側、解放派の方が防衛側にあたっていま
す。その意味で、「攻める側」が「防衛を目的とした武装」として語るよう
に思えて、読んでいてかなり違和感があったことは否めません。
場所は、後述のとおり、青葉城址前。ここは緩い坂になってまして、坂を登
り切ったらキャンパスになります。青の部隊は、赤の学内突入を阻止する形
となりますから、キャンパスを背にして坂の上の方に位置しました。赤の部
隊が坂の下から攻め登って来る形です。動員のレベルのためでしょう、上か
ら見た記憶では、赤の方が青よりも随分多かったと思います。とは言え、ド
ンパチ自体は数十人規模、百人は居なかったと思います。だから大会戦と言
うよりは精鋭部隊(?)による中会戦と言ったところでしょうか。

さて、勝敗ですが、これは簡単に決着がつきました。私の印象では、申し訳
ありませんが、この時赤はすごく弱かったのです。ことの是非は別として、
これは明確に「熟練」の差によるのだと思います、数は少なかったけれども、
始めから青が負ける気は全然しませんでしたし。かくして、この中会戦で青
の阻止線を突破できなかったことによって、第4インターの「党派として」
の学内再登場は失敗に終わった(解放派から見れば学内登場を阻止した)と
言う顛末であります。これも一種のセレモニーだったと思います。

ただそれだけのことであって、私のおぼろげな記憶によれば、その後も(大
衆サークルとしての)第4インター系の諸君との関係が特に悪化したような
印象は残っておりません。だから、少なくともこの間の経緯を知っている東
北大の第4インターの諸君にとっては「解放派に襲撃されてこれを防衛した」
ではなく「党派としての武装登場は阻止されてしまった」と認識している面
もあるんじゃないかと、いえ、これは私の全くの思い込みに過ぎませんが。(^^;)

なお、第4インターの「内ゲバ反対主義?」と本件の関係は私には分かりま
せん。個人的には、「路線的な若干のブレ」もしくは一寸「勇み足」程度の
ものは内部的にあったのではないかと想像していますが、はて?

(つづく)

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青葉城址の衝突(1) 投稿者:青葉城址  投稿日: 1月17日(木)21時10分55秒

まっぺんさん、コメントをありがとうございました。
そうですか、まっぺんさんがその場に居た訳ではなかったのですね。
でも、コメントの流れから、問題が例の「青葉城址」での衝突にあることは
間違いないようですから、そのことについて書かせていただきます。
以下は、一昨年にマル共連に投稿しようとしていた文章なのですが、今一つ
気後れめいたところがあったことにプラス、当時マル共連のBBSが頻繁に
壊れていたこともあって、投稿しないままにハードディスクの中でゴミと化
していました。本件に関する概要を記述したつもりだったので、ここに挙げ
させていただくために、この度、検索・再発掘(^^;)したところです。文体が
少しふざけた感じになっているのは、趣味者系のBBSでの投稿を意識して
いたためですので、その点ご諒承下さい。また、表記が一部逆になっている
用語もありますが、ママとしておきます。
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実は私のこのハンドルは次の過去ログを発端として採用したものです。

http://marukyo.cosm.co.jp/BBS/OLD-LOG21/8855.html
http://marukyo.cosm.co.jp/BBS/OLD-LOG21/8902.html
http://marukyo.cosm.co.jp/BBS/OLD-LOG21/8862.html
http://marukyo.cosm.co.jp/BBS/OLD-LOG21/8891.html

おそらく74〜75年頃だったと思います、σ(^^)はこの場にも居りましたので
(但し青ヘルを被って)、私が承知している事実関係に基づいてコメントし
ておきます。但し私の記憶が間違っている可能性は無いとは言いません。(^^;)
まず、上記リンクの最後(8891.html)の文を引用・コメントします。

>Re: 内ゲバとは  投稿者 まっぺん 日時 1999年 10月 06日 10:01:25:
>
>回答先: Re: 東北大 投稿者 Ques que c'est? 日時 1999年 10月 05日19:03:31:
>
>> > インタ−と解放の青葉城決戦があったとかって本当ですか。
>> > 内ゲバ反対のあのインタ−が。
>
>>  「内ゲバ反対」って言って、他党派を「内ゲバ党派」なんて誹謗しながら、
>> しっかりやってたんだよ。実は。
>>  全く、一番タチが悪い。
>
>はっきり言っとくが、第四インターは革命党派であってガンジー主義者ではない。
>明らかに解放派が襲ってくるとわかっていて何も武装していないと思うのかね。
>内ゲバ反対の意味が君には全然分かってないね。
>当時、叩きのめされた解放派の泣き言のように私には聞こえるゾ。

(つづく)

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Re「青葉城祉会戦」というのですか 投稿者:青葉城址  投稿日: 1月17日(木)20時32分13秒

イレギュラーずさん、さっそくのコメントを有難うございます。
先ずタイトルの「『青葉城祉会戦』というのですか」については、多分そうは
言わないと思います。この言い方は、別稿で挙げるマル共連での古い書き込み
から一寸拝借させていただいただけです。(^^;)

>確か、6大学自治会何とかということで、大衆的に東北大学に登場する(いわ
>ゆる党派利害としてではないと私は認識しております)ということが目的では
>ありませんでしたか。

その辺りの記憶は私は殆ど無いのですが(^^;)、なるほど、イレギュラーずさん
はそのような認識であると言うことですね。
逆に、第4インター系が自治会を押さえている大学から大衆動員をかけ、さら
におそらくは党派の精鋭(?)による鉄パイプ武装の「防衛」部隊を最終的に
は準備して(せざるを得なくて?)の登場であると言うふうに、うがって見る
ことも不可能ではありません。(^^;)
とすれば、「党派性が無い」あるいは「大衆的」と言い得たかどうかは、見解
が別れやすいところかと思いました。少なくともかなり「紛らわしい」とは言
えそうです。

初対面なのに、何だか意地悪な言い方になってしまって、すみません。

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東北大「衝突」事件と映画「光の雨」 投稿者:菊  投稿日: 1月17日(木)14時40分11秒

「東北大の衝突」事件、私は当事者のひとりです。今はほとんど記憶にないのですが、まっぺんさんの意見にほぼ同意します。加えれば、「衝突」に至る前にそれを回避するような東北大での運動方針をどれだけ模索したのか、が大きな総括点になると思います。「衝突」を「自己目的化」していたはずはないので、本当に回避できなかったのかどうか、です。

先日、高橋伴明が監督した立松和平原作の「光の海」を見ました。劇中劇の形を取っているので、悲惨さが少し救われるような気がしましたが、最後の「彼らは君らと同じ人間だ」という立松和平の痛切なナレーションが胸にしみました。

ちょうど浅間山荘事件の日が大学入試だった私は、政治活動を始めて以降も「連合赤軍のリンチ殺人は我々とは無縁」と思ってきました。しかし、組織活動を離れ、連合赤軍の当事者の手記やドキュメントを読むうちに、自分が連合赤軍のメンバーたちと大した違いはなく、組織の方針と指導的な活動家のイニシアティブの取り方ひとつで自分たちも連合赤軍のようになることも当時の時代状況のなかではあり得かもしれないと、思うようになりました。

それは、まっぺんさんが↓で書いていることと繋がるような気がします。つまり、組織の方針や理論、規律が作り出す「雰囲気(作風)」と構成員の「個性や資質」の問題です。第4インターの場合は、「内ゲバ反対」の大方針がありましたから、党派闘争や組織内の「暴力」に対しては相対的に敏感だったと思います。しかし、70年代の運動状況の中では、一般的には「暴力」に対する感覚は鈍いというか、むしろ「肯定」されていた側面があります。連合赤軍の悲劇を生み出した要因はいろいろな角度から考えられると思いますが、「暴力を振るうことを積極的に肯定」していたところにひとつの原因があると考えています。そういう土壌の中で、非常に権力志向で暴力的な構成員が指導者になったらどうなるか?

そんな観点で映画を見ると、森恒夫と永田洋子のしゃべり方がまるでチンピラのようで、非常な違和感を感じました。当時の活動家は、あんなチンピラのようなしゃべり方はしません。恐らくもっと確信ありげな口調で(本当は自信がなくても)「革命の展望」を語り、確信を持って「総括」という名でなぐり、リンチしていたのではないかと思います。

「総括のもとは唯銃主義という理論に気付き自死したる君」
「総括は気絶したらば成し得ると撲りに撲る真摯な友を」
「問いたれば『頑張ります』と理不尽な総括に堪える縛られし君は」
「リンチ死を敗北死なりと偽りて堕ちゆくを知る全身に知る」

これは浅間山荘事件の坂口弘さんの歌ですが、何とも考えさせられます。
組織が掲げていた理論の問題、暴力が蔓延している様子、組織と指導部に忠実なあまりの無惨、そして偽りの傲慢さ、ちょっと言葉がありません。

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そうだ。「フォード1927」だ。 投稿者:菊  投稿日: 1月17日(木)14時27分11秒

白石さん、「しろいし」、「しらいし」ですか?
おっしゃる通りだと思います。小林勝の小さい頃を描いた小説です。小林勝の所感派活動家時代を描いた小説はとても暗く、出口がないような印象でした。朝鮮半島で生活していた小さい頃を描いた小説はとても明るいというイメージがあります。1927年というのは彼の誕生年。植民者としての責任を自覚して小説に描いているとばかり思っていたのですが、違いますか?

小林勝作品集をもっていたのですが、何回かの引っ越しで処分してしまいました。あまり見たくない時期もあったし。白石さんは小林勝をよくご存じですね。

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新時代社が「内ゲバパンフ」全部公開! 投稿者:まっぺん  投稿日: 1月17日(木)12時22分56秒

83年の中核派によるインターへの襲撃をめぐる論文をまとめた、
新時代社の『共同行動の原則と内ゲバ主義』が
新時代社「かけはし」サイトに公開されました。議論・検討の参考にしてください。
http://www.jrcl.net/
の左側にある「内ゲバ批判」をクリックするか
http://www.jrcl.net/web/pgeba.html
へ直接どうぞ。
なお、国際革命文庫「革命的暴力と内部ゲバルト」サイトと
社会批評社「検証・内ゲバ」サイトにもリンクされています。

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東北での対解放派内ゲバ戦 投稿者:まっぺん  投稿日: 1月17日(木)10時32分56秒

青葉城址さん、初めまして。投稿ありがとうございます。
まっぺんは現役時代に「東北大学で解放派と内ゲバになった」というニュースを
聞いていました。私はその時には学生インターから労働戦線に移行していました。
内ゲバの現場にいたわけではないので詳しい事を知っているわけではありませんが
東北での第四インター派の立場を、これまで聞いたかぎりでは総合的に擁護します。
しかし、メンバーの行動の中に行きすぎがあったのではないか?
という意見も、実は個人的見解として聞いています。

組織の理論や方針・規律などは組織メンバーの生活や思考を支配しますから
セクトによって、構成メンバーの「カラー」が生まれてくるでしょう。
しかし、セクト性とは別個の「個人の資質」も否定できません。
以前にもちょっと話した事がありますが、
組織のメンバーの中には私がものすごく不快感を持つ人物がいました。
かれの個人的資質は官僚主義と、エリート意識と、内ゲバ主義に支配されていました。
もし東北での解放派諸君との内ゲバ戦闘にこういうタイプの人物が参加していたら
非難を受け入れねばならない局面も一部あるのではないか?
そいう不安も持っています。

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「青葉城祉会戦」というのですか 投稿者:イレギュラーず  投稿日: 1月17日(木)00時55分22秒

横からで申し訳ありません。青葉城址さん、まっぺんさん。

私は、70年代中半からのJCYでしたが、多分青葉城址会戦=宮城県スポーツセンター前の出来事だと思います(まだこのときはメンバーでも当事者でもないのですが)。その後、解放派東北大キャップの××さん他は、「2・10を四トロはどう総括するんだ」と言っていたと記憶しています。

確か、6大学自治会何とかということで、大衆的に東北大学に登場する(いわゆる党派利害としてではないと私は認識しております)ということが目的ではありませんでしたか。その後、「6大学自治会〜」は、東北大学片平キャンパスで総括集会を開いていますが。

これは、当時TVニュースにもなりました。

その後は一坪共有化(大地共有化委員会)を巡って、中核派による組織的集会破壊(仙台市内××ビルホール内外で)。これは、集会参加者が撃退しましたが(内では素手でのつまみ出し)。「個別訪問」(私の家にもきました)もありました。

青葉城址さん
どういう事実認識だったのでしょうか。本来の流れから外れたことになりますが。私もROMが多いので、応えるべきものを持っていません。

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フォード1927 投稿者:白石  投稿日: 1月16日(水)23時05分25秒

 菊さんの言っていた小林勝の小説とは、「フォード1927」という題名だったような気がします。
 1927は、1918か1928だったのかもしれません。
 植民地で育った少年が感じる支配民族としての何気ない態度が後年負い目となっていることが上手く書かれていますが、それよりも故郷を失った小林の寂しさがよく表現された私小説と読んでしまいました。
 小林勝が朝鮮半島を返せと言う訳はないのですが、「俺の少年時代を返せ。」と叫んでいるような気がします。
 プロットはもう忘れたのですが、朝鮮人の女の子との他愛のない喧嘩が支配・被支配の様相を呈した状況を鮮やかに描いたと今も印象に残っています。
 もちろん27年型フォードにに乗っているのは日本人で、原因はたいした事ではないのですが、非のある日本人の子供と喧嘩した朝鮮人の女の子が是非もなくちょうちゃくされたことを小林自身と思われる少年が理不尽と感じながら何も言わなかったことが書かれていました。

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ひとつ質問させて下さい(内ゲバ) 投稿者:青葉城址  投稿日: 1月16日(水)23時00分09秒

皆さん、はじめまして。たまに、ここを覗かせていただいています。
私は主義者でも趣味者でもありません。遥か昔にこの道に足を突っ込んでい
たことがあり、今はやや悔恨の日々を送っている者です。悔恨の最たるもの
はやはり「内ゲバ」関連です。これは既に如何ともし難いものと、溜め息を
つきつつ、その後の推移を見てきたところでありますが、ここを読ませてい
ただいたり、この度の小西さんを中心とする試みに、まだ諦め切るものじゃ
ないかもしれないとの気持ちが少し出て来ました。近日中に本を入手して読
んでみようと思います。

さて、私自身は、本件に関して、議論できるような気力も能力も持ち合わせ
ておりませんから、議論に参加することはいたしません。が、かねてより疑
問に感じているところがありましたので、遅ればせながらこの機会にまっぺ
んさんにご質問させていただくことにします。

>----------------------------------------------------------------------------
>自衛武装は当然です。 投稿者:まっぺん  投稿日:12月23日(日)18時38分41秒
>
>わたしがJCYに在籍中、組織的「内ゲバ」襲撃を2度受けています。
>ひとつは東北大学における解放派からの襲撃。
>もうひとつは革マル派からの襲撃です。両方とも武装防衛をしていました。
>解放派に対しては完全撃退しましたが

申し遅れましたが、私は70年代初めから中半にかけて、東北大で青ヘルを
かぶっておりました(少なくともその周辺にはおりました)。しかし、第4
インターを「襲撃」した記憶は全くないし(したがって「撃退」された記憶
も)、また私がいなくなった後もそのようなことがあったと言う話は聞いた
ことがないのです。
これはいつ頃、どのようなことを巡ってのことなのでしょう?
もしかして、(マル共連でかなり前に出ていた話題ですが)70年代中半の
いわゆる「青葉城址」の会戦のことだとすれば、事実経過が私の認識とはか
なり異なるのです。

ps:
まっぺんさんにはマル共連で一度コメントをいただいたことがあります。(^^;)
71.6.15について。あ、その時、小西さんからも少し。

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求められているのは「新左翼運動の再生」でしょうか? 投稿者:せみまる  投稿日: 1月16日(水)21時08分14秒

 これまで、『検証・内ゲバ』を読み、その批評を書いてから『新左翼その再生への道』を読みました。ちょっと失敗!『新左翼』本を読んだあとに批評を書くべきでした。それからトロツキー研究No.36「党の統一」特集を読み、現在『アタックの挑戦』を読んでいます。一連の読書と思索の中で、また昨年の反戦運動に参加していくなかで、いま我々が考えていかねばならないのは「新左翼の再生」なんだろうか?という疑問が強くわいています。

 党と大衆運動の関係について考え直す作業のなかで、「内ゲバ」の問題は避けて通れない重要な問題として浮上してきています。党の中に分派の存在を承認し、分派独自の意見の公開と議論の権利を認めること、さらには、党外の勢力とも連合して党派同士が相互に批判し議論しあうこと、その上で行動の統一の原則に従うこと。これはそれぞれの党派が大衆と共に運動をすすめていく上で欠かせない「モラル」として確立していかなければなりません。まさに「プロレタリア民主主義」の作風です。かつて新左翼運動が「課題」にさえしなかった、この問題をわれわれは原則として確立していかねばならないと思います。

 しかし、「運動のスタイル」についての論議にとどまって「現在、どんな運動が求められているのか」という、現実の「運動課題」についての議論なしに討論を進めるとしたら、それは「たてまえ論」「形式論」にしかならないんじゃないでしょうか?「どんな大衆運動が今もとめられているのか?それに向けてどのような方針をうち立てていくのか?」という具体的な課題が「総合的な大衆運動のレベル」で求められているように思うのです。そのような現実の運動の中で「原則」は鍛えられていくのではないでしょうか?

 新左翼運動は、80年代にはすでに衰退の局面にありました。その中で、運動はいくつかに分裂していきましたが、その流れは、あくまでもセクト主導型の60〜70年代型「反権力闘争」に固執するものと、レーニン主義、さらにはマルクス主義そのものへの疑問を抱き、社会主義を捨ててエコロジーなどの行政的運動へと向かう流れへとおおきく二つに分断されてきたように思います。党派人であったものがセクトを離れ、個人的にそうした制度圏内部での行政への介入をおこなってゆく流れもずいぶんあったと思います。

 現在の社会情勢において、かつての新左翼勢力を主力とする「闘争型」の運動が、過去のスタイルのままで展望を切りひらくことは難しい。しかし、他方、「制度圏」でのいわば「改良的資本主義」を求める運動には今日のグローバリゼーションを打破する力はないのではないか。そのような運動ではかならず「行政の壁」にぶつかった時に権力の支配下に服属してしまう事になるでしょう。今読んでいる「ATTAC」の運動は、このふたつに分断された運動を統合し、個別戦線に分断されていた各方面の運動(失業者、野宿者、外国人など)が「金融投資への課税を求める」という、それ自身は極めて改良的な要求のもとに団結し、資本主義中枢を揺るがす運動へと発展していった事実が描かれています。

 我々が追求していかなければならないのも、こうした運動ではないでしょうか? はじめから「左翼の統一戦線のための反内ゲバ運動」と限定する必要はまったくない。それどころか、そのような規定は「党派の壁」を超えているかも知れないが、「確信的社会主義者・左翼」だけのカラに閉じこもった「せまい統一戦線」となってしまうでしょう。「根本的な解決は社会主義である」というのは、少なくとも私には自明の事ですが、現在はまだ「一般的・社会的」ではありません。しかし、現にグローバル資本主義の嵐は世界に吹き荒れ、すさまじい勢いで大衆の生活を奪っています。こうした現実を直視させ、このシステムを拒否させるために「自覚的左翼」とそうでない者との広範な統一戦線をつくりあげ、運動の中で参加者の覚醒を求めていくべきなのではないか、と思っています。私は「かけはし」での批判の中で「大衆に向かう事」が内ゲバを排除する道である事を語ってきたと思いますが、いま、その「大衆」の運動の中身が問われているのではないでしょうか?

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「新左翼」本の訂正ほか 投稿者:小西まこと  投稿日: 1月16日(水)15時32分30秒

鬼薔薇様
「新左翼」本の脱行、すみません。203頁の脱行は以下のとおりです。
「しかし、その一国社会主義をもって、スターリン主義の本質とすることについては、再検討が必要である」
 以上です。
 鬼薔薇さんの言われるスタの本質についてはいずれ、書き込みしたいと思います。

すえいどんさんへ
 「検証 内ゲバ」の「改訂版」についてのご提起、ありがとうございます。
 これはおそらく「改訂版」というよりは、「検証 内ゲバ」に続くパート2の本が必要かもしれません。
 このまっぺんさんの掲示板で行われている内ゲバ論争もその大きな材料になりえます。
 そして2/3に出版記念シンポを予定していますが、ここでの議論も材料にしながら、そのパート2の本も考えていきたいと思います。
 そのときは論客の方々のご協力をお願いします。

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機軸通貨国の強みと弱み 投稿者:まっぺん  投稿日: 1月16日(水)14時30分32秒

ドル危機によって金本位制から離脱したのが73年でしたか?
それ以後、変動相場制に移行した事はドルを著しく弱めたといえるんじゃないでしょうか?
もちろん裏付けもなくドル札をじゃんじゃん印刷できるわけですから、
アメリカにとっては強みともいえる。しかし、恐慌の局面に入ってしまったら
ここから脱出する道はなくなってしまいます。
「裏付けのない札」の弱点をカバーする経済活動として、さらに「裏付けのない有価証券」の売買投機によって
とりあえずの利益を確保してゆく、ドロ沼敵投機競争が拡大していってる。
TAMO2さんご指摘のようにアメリカ指導者(政治・経済とも)たちは
自らの「没落の恐怖」を感じているんじゃないでしょうか?

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ドルの暴力性 投稿者:TAMO2  投稿日: 1月16日(水)10時34分09秒

 「国債」は「国際」の間違いです。ほんで、問題となるのはキャッシュフローというよりは
ストックであるというご指摘、フツーならばそのとおりです。ですが、実体経済の百倍を上回
る投機がなされている現状では、両者の差異は余り意味がないと思います。

 ほんで、そんなドルがなぜ「唯一の基軸通貨」たりえるか(フツーの経済学に閉じた理屈な
らばとっくの昔にドルはワン・オブ・ゼムのはず)を考えますに、やっぱりかつての西側の雄
として、君臨してきた歴史というか、慣性があるわけでして、はっきり言えばアメリカの暴力
(強制力)にあると思っています。それは実体であると同時に、多くは幻影ではないか。

 かつての軍事力・経済力ともにスーパーパワーの片方(軍事力)#のみ#が本当は残ってい
るだけなのに、アメリカ外の国々はその幻影に引きずられている、と考えます。これは軍事力
を行使するとき、やけに#協調#(爆笑)を求めたり、資金源を日本に求めたりする彼らの姿
に心の底ではアメリカ指導者は力の没落を感じているのではないか、と思います。

 思い出すのは「花の応援団」の先輩小切手で、今のドルはそのようなものではないでしょうか。

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すえいどんさん、藪ちゃんさん、 投稿者:菊  投稿日: 1月16日(水)09時31分52秒

すえいどんさん、ありがとうございました。
なるほど。引用文中の高野という人が誰かわからず、武井昭夫さんの追悼記を再読してわかりました。森田は森田実(政治評論家、これはわかった)、高野は高野秀夫という人。60年安保で全学連に対立していた全自連委員長だった人のようです。それで、島さんの高野に批判されたという文脈がわかります。第1次全学連の生き残りとして一緒にやっていた仲間が、安保全学連と全自連に別れて、島さんたちが批判されたという関係でしょう。

武井さんの文章では第4インターはさんざんですね。確かに島さんと最初にお会いした時に、「第4インターだった」といったら、「えーっ」というような顔をされました。「60年では星宮くらいだったなあ、第4インターでいい奴は」というので、「60年と70年以降の第4インターは違います」といったら、「そうだなあ、60年と70年のブンドも全く違う」という話になりました。

武井さんの文章に出ていた人で懐かしかったのが、小説家の小林勝。私が活動家時代、好きな小説家でした。所感派に属した数少ない学生活動家といわれ、火炎瓶闘争での下獄体験を「断層地帯」として小説に書いています。小林勝に旧制高校時代、島さんは学ぶことが多かったようです。小林勝は朝鮮半島での植民者体験を最も早い時期に小説にしていますが、題名を忘れてしまいました。今はほとんど忘れ去られた小説家になってしまいました。

島さんと小林勝の関係を見ても、当時の学生党員の所感派・国際派の関係というのは、それほどはっきり線引きができるものではなく、もっと曖昧だったような印象を受けます。経験していないのでよくわからないことも多いのですが、自分たちの活動経験や党派間の対立を見ても最初は非常に曖昧で、対立している当事者同士もよくわかっていないのが、後から振り返ってみれば、最初から明確に決定的に分立していたように見られることはよくあります。

藪ちゃん様、どうも初めまして。同窓のようですね。
加瀬さんは、薄くなった長髪の髪の毛を振り乱すようにして、ちょっと古風な朗々たる大演説をしていた姿が印象的でした。

>みんな逮捕・投獄されるのを覚悟しての闘争への参加でしたから、菱田ブロックは。その
>後、2次決戦は何時かの指令を待っておりました。私としては。

おっしゃるとおりで、確かに全員逮捕や死ぬかもしれない覚悟でした。しかし翻ってみると、2次決戦の指令に対して、「もはや、これまで」という政治的判断を下せなかったことが第4インターの政治的な敗北だったのではないかと、今は考えています。

島さんの葬儀の際に、全逓南部の吉野さんという人(多分伝送便グループの吉野さんだと思うのですが)の弔辞に、「国会闘争を見てブンドにはせ参じた共産党南部地区の労働者たちの『なぜ、もっと闘わないんだ』という突き上げに、『もはや、これまで』と言ったきり、ひとことも言葉を発せず、ブンドが解散した60年7月の会議での島さんの姿を思い出す」というのがありました(その結果、残った活動家が革共同に流れるのですね)。

菱田ブロック、そして第4インターは、3/26で自分たちの持てる力以上の闘いをやってしまった。5/20に向けては、「もはや、これまで」だったと思うのです。これ以上は不可能だという決断を下せなかったところに当時の判断の問題があり、それが5/20を頂点とする「戦術主義」への傾斜を生んだと考えています。日本支部の政治局−指導部の決定的な弱さは、人格的にいえば島さんのような指導者を持ち得なかったことに行き着くと私は思っています。

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