四トロ同窓会二次会 2002年1月20日〜22日
誰でも歓迎!何でも自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」その他に掲載する場合もありますのでご了承ください。
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たぶん確かな記憶 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月22日(火)18時13分33秒
>まっぺんさま
>その後、フランス支部は「共産主義者同盟」の名前で再生したんじゃなかったっけ?
記憶ちがいでなければ、68年段階ですでに《league communists》と称していたかと存じますが? 《rouge》という名の機関紙にございました。それを見せていただいたのが68国際反戦集会だったと思うものですから。
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Re:Cサ協さん 投稿者:イレギュラーず 投稿日: 1月22日(火)18時12分47秒
>第四インターが東北大からいなくなったのはいつ頃からなのでしょうか?
いなくなったかどうかという意味ではわかりませんが、知る限り80年代前半ぐらいではないでしょうか。ちょうど、中核派による第4インター・JCYメンバーへの襲撃があった頃でしょう。それよりちょっと数年前には、教養部に新歓時期情宣に行けました。
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青葉城址さん、そうです。大衆運動の復活を熱望したのです 投稿者:菊 投稿日: 1月22日(火)17時34分20秒
何かしばらくご無沙汰しているウチに、話はずーーと、さかのぼってしまいました。私がわかるところから、少し書きます。
>革マルの襲撃(下宿テロ含む)に対して、正々堂々とした「大衆運動の攻めぎ合い」と言
>う方針で臨んで来たが(この点は早稲田解放派独特のカラーもありそうですが)、結局は
>駄目だった、と。この総括がその後の解放派の行方を規定して来た(私の主観では「革マ
>ルに合わせた=似せた」)ことになったのだと思います。
私は72年に早稲田に入りました。川口君は同じ中国語クラスの1年先輩。
72年当時は、「べ平連・クラス活動家」。73年秋に当時の学生インターのメンバーになります。ここでも先頃、まっぺんさんと黒パンさんの間で72−3年頃をめぐるやりとりに絡んで、第4インターの方針に「白々しさを感じていた」と書き込みました。それは、現実がスローガン通りになっていかないことに対する「不全感」だったような気がします。
なぜ、私が73年当時、極少数派だった学生インターに入ったか?それは、「戦闘的大衆的学生運動」=大衆運動の復活を、第4インターが主張し続けていたからです。ですから、大衆運動の復活・内ゲバに戦闘的大衆運動を対置する。それは私の70年代の学生運動の全てだったといっても、言い過ぎではないと思います。
早稲田の政経を中心とした解放派も、どんな状況に追い込まれようとも、それを追求すべきだったのではないでしょうか。解放派にはいい人がいました。私の先輩では、佐世保高校の応援団長だったMちゃん。応援団長らしい、いい声でアジテーションしていました。しかし内ゲバへと力を入れ込むようになってしまうと、Mちゃんのような人は表に出てこなくなり、陰険そうな奴が出てくるようになりましたね。これは革マルも同じ。「こぶし派」と「こぶし書房派」がいて、哲学青年が多かった「書房派」活動家は姿が見えなくなりました。入学時の担当だったAさんも、川口君虐殺糾弾闘争の過程でいつのまにか、いなくなってしまった。民青もそうですね。新日和見派と呼ばれた活動家は、腹の据わったきっぷのいい活動家が多かった。彼らが追放された後、残った民青は「陰険」だった。
人と組織の話に戻ります。これは内ゲバに手を染めたからそうなったのか、それとも大衆運動の波が引いたからそうなったのか、わかりませんが、組織のための組織活動家のようなタイプの人(軍人的なタイプも)がヘゲモニーを取るようになると、組織はおかしくなると考えています。第4インターもそんな時期があったと個人的には思います。
青葉城趾さんの第4インターの考え方の要約。ほぼその通りですが、「内ゲバ的手段」の公使は、積極的ではなく、あくまで「向こうが攻める可能性があるから準備する(自衛)」とという位置付けです。
それにしても、どなたか当時の東北大の学生インターのメンバーで、書き込む人いませんか?
読んでいるとは思うので。。。。。。当事者の発言として貴重だと思うのだけれど、そこだけ空白のままなのは残念だ。
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HN違い 投稿者:千葉学班協 投稿日: 1月22日(火)17時27分21秒
まっぺんさん、
レスの付け方下手ですみません。↓の鬼薔薇さんの
>パリからきた第四インター幹部(きれいな女性でしたけど発言はゴリ:-))が某書評紙のインタ
>ビューで(かな?)“日本の第四インターは「新左翼」の傾向が強い”とか批判的に語っていた
>記憶がございます。
に反応したんですが。書き方が下手でした。
今度、フランス支部のメル友に聞いてみます。68年の大集会はカッコ良かった。
演説はアランクリヴィーヌ?だったかな?
でも、ヨーロッパはVHSビデオがPAL方式なので日本で変換しなきゃなりませんが
お金出せば出来るでしょう?
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(無題) 投稿者:Cサ協 投稿日: 1月22日(火)16時29分08秒
第四インターが東北大からいなくなったのは
いつ頃からなのでしょうか?
また,Cサ協に対する影響力が解放派から中核派へ
と移行したのはいつ頃のことなのでしょうか?
教えて君ですみません.
当方は90年前半に東北大にいました.
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Re:フランス支部のビデオ 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月22日(火)13時52分30秒
おお!それ見たいですう〜!
対ファシスト戦闘とは、例の「オルドル・ヌーヴォー」(新秩序)っていう集団ですね?
悪名たかいルペンが党首だったと思います。
この衝突の結果、フランス革共同(フランス支部)と右翼は組織破防法により解散させられて
その後、フランス支部は「共産主義者同盟」の名前で再生したんじゃなかったっけ?
う〜ん・・・・趣味者てきには、ぜひぜひ見たいものです。どこかで入手できないでしょうか?
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青葉城址の衝突・前史の補注の2 投稿者:すえいどん 投稿日: 1月22日(火)09時51分07秒
アクティブイベントの終結については、解放派と中核派のえらい人が話し合いをして、事実上の停戦にもちこんだと仄聞します。この事態の恒常化を双方が望んでいなかったということでしょう。6・23自体が偶発的な(そんなに大事になると思わず、解放派が実力行使に出たという意味で)ものであったと思われます。しかし、この経過での双方の被害はそれぞれ大きく、報復行動の拡大的繰り返しもありえたのだから、英断というべきでしょうか。
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(無題) 投稿者:雲雀丘 投稿日: 1月22日(火)07時11分28秒
わけわかんねぇ
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フランス支部のビデオ 投稿者:千葉学班協 投稿日: 1月22日(火)00時55分00秒
フランス支部の闘いの記録って感じのビデオ見たことありますが、
68年の闘争では大きな会場にマルクス、エンゲルス、トロツキーのドデカイ写真掲げて
何かボルシェビッキーってなイメージ作ってるけど、やる事は実力闘争で
74年ごろの対ファシスト戦ではバイクヘルに鉄パイプもって、いっけん見た目には
日本支部とあまり変わらない記録だったと思います。
ただ、時代の変化とともに闘争のスタイルも変化させている印象を受けました。
それに比べて日本は何か時代と反りが会わなくなってるのに中身もスタイルも
変われなかったのでしょうか?
市民運動とかと一緒にやる時より三里塚でメット被る時の方が嬉しそうに見えたのは
気のせいか。自分は嬉しかったです。新左翼のカッコするのが(笑)
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あなたがインチキだと思う宗教とは!? 投稿者:インチキ宗教ランキング 投稿日: 1月21日(月)22時43分43秒
宗教・霊感商法に関わる団体であればいかなるものでも結構です。
どうか振るって御投票ください。
なおランキングはリアルタイムで更新されます。
http://www.kenshoukai.net/nayami/cgi-local/r-1/choice.cgi
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Re>青葉城跡の衝突前史・補注 投稿者:青葉城址 投稿日: 1月21日(月)21時55分00秒
すえいどんさん、補注をありがとうございました。
ちなみに私は、6.23を初めとするその後の(6月の)動きは全く知りません
でした。思うに、これは忘れたのではなく、実は6.15明治公園のイベントで
私が一寸怪我をしていたからだと思います。そのことに加え、6.15でのいわ
ゆる「内ゲバ初体験」による精神的なショックや疑問があったのか。
そうでなければ、6月後半の一連のイベントに、性懲りも無く参加していた可能
性の方が高かったかもしれません。秋には、参加するようになっていますから、
その間にどのような心境の変化があったのかは、機会を見て内省を試みてみたい
と存じます。
この年の初夏の出来事と秋の出来事を挟んだ夏休み、私は女川(原発)の現斗に
暫くの間行っています。そこでは在仙台の中核派や第4インターの諸君とひとつ
の部屋で起居していたりしました。中核の某君の喰い意地(笑)のためか、若干
食い物の恨みはありましたが(あ、それとイビキも)、概ね和気藹々にやってい
たと思います。このことも、何だか不思議な光景のように思えます。
〜のような自分史はさておき(^^;)、この度のすえいどんさんの書き込みで、事
態のさらなる複雑さを思い知らされました。色々な要素と多様な解釈が、文字ど
おり絡まり合って進行して行ったのですね。
仰られる10.8片平での衝突は解放派・フロント組が「勝って」いますが、そ
の次に設定された(日付不明)片平での集会では、中核派が大動員でもって完全
制圧し、解放派はぶつかるどころか、登場すらできなかったと記憶します。
そのことに前後する10.12川内教養部での出来事を最後に、中核派・第4イ
ンター組vs解放派・フロント組の衝突・襲撃と言った一連のアクティブイベント
は終結しました。あとは、各種集会も含めて、分裂(「住み分け」若しくは「出
入り禁止」)が固定化して行くことになります。
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第四インターは「新左翼」ではない 投稿者:一同窓生 投稿日: 1月21日(月)19時17分18秒
についてと書こうと思ってたら、鬼薔薇さんが書いてたのでちょうど良かった。確かに鬼薔薇
さんの「新左翼」定義は一般的で市民権を得ていると思います。だとすれば、第四インターも
「新左翼」の範疇です。世の中では普通そう見られてると思います。
日本支部が「われわれは新左翼ではない」と言ってた意味は、「新左翼」全般の傾向として
あった、街頭闘争での戦術急進主義とその延長上に革命があるかのごとき発想、そして
「血債の思想」等に見られる決意主義・主観主義、これらブント以降生じた思想とは無縁、
という意味だったように思います。
じゃ、決意主義・主観主義はともかく、三里塚での管制塔占拠は戦術急進主義ではないのか?
ということになりますが、傍目で見たら区別はつかないし、パリの第四インター統一書記局から
は明らかな戦術急進主義にしか見えないわけですね。したがって当時の日本支部指導部は統一
書記局からの疑問に答えるのに苦労してたと聞いています。鬼薔薇さんの言う68年の女性
幹部の話もそれに近いと思います。
三里塚農民の怒りの頂点にやむにやまれぬ実力行使、大衆運動の最高揚局面での最も効果的な
暴力の行使。これは戦術急進主義ではない、革命的暴力の戦略的行使だ、という自負が日本支部
にはあったと思います。しかし、世間一般から見れば街頭ハネ上がり区別するのは難しいかろう、
これもうなずけます。
要は世間では「新左翼」と見られている、本人はそうではない、と言っている、という状況ですね。
本論に戻りますと、鬼薔薇さんの『「新左翼」という枠組みそのものの清算』という発想は上記
のように第四インター自身が自己を「新左翼」と位置づけていないために課題として立てようが無い、
ということだと思います。むしろ、「社共政府」スローガン(今ではありえない発想ですが)
を唱えた立場からすれば、即「社共統一戦線」という課題が第四インターにとってはある、という
のが現状ではないでしょうか。
そしてもっと大きな課題、「社会主義の復権」、ソ連邦崩壊以降の展望喪失状況の克服がある
のだと思います。ソ連邦崩壊とともにスターリン主義は崩壊したが、それはトロツキーが目指
した第二の補足的革命=政治革命ではなくて資本主義への回帰という形であらわれ、「20世紀
社会主義」は終りました。今世界にあるのは資本主義の死の苦悶とその苦悶ゆえの新自由主義=
グローバリズムの嵐、中国もWTOに加盟し、ベトナムもまた呑み込まれようとしているという
シビアな情勢ですね。21世紀初頭、第四インターのみならずすべての社会主義勢力はそれに
直面してるわけで、そこに『「新左翼」という枠組みそのものの清算』という課題が必須かなのか、
私にも疑問です。
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党派の重要性 投稿者:せみまる 投稿日: 1月21日(月)12時22分07秒
mao さん、こんにちは。あなたの指摘、非常に重要なものだと感じました!
先進的な労働者学生は、何らかの「組織集団」に結集することによって、その行動目標に組織的・系統的に集中し、そうする事によって効果的に敵に対抗し、闘争の前進を期待できると思います。その組織が一定の「綱領」なり「組織方針」なりを持っている事は非常に重要です。スターリンによって偽造され宣伝されてきた「党=前衛」論について、これまでも議論しましたが、こういう固定した意識は間違いといっていいでしょう。しかし「党派」の意味ではなく、文字どおりの「前衛」の意味つまり、先進的な意識に到達している労働者や大衆、それと「党派」が結びつくことは闘争の前進にとって大きな貢献となるでしょう。トロツキーはこれを大衆の側の観点から「労働者階級が闘争手段を獲得」と表現しています。maoさんの証言は、内ゲバによって「党派への失望観」がかなり広まっていたにもかかわらず、党派を「闘争手段」として認識する意識が先進的大衆の中に、この時まだ健在であった事を意味するのではないでしょうか?
鬼薔薇さんのご指摘ですが、私たちの「相違」は、むしろ「考察対象のちがい」あるいは「過去と未来のちがい」のようにも思えます。80年代までの大衆運動は、「共産党に代わる新しい共産主義前衛」をめざして各党派が「党派運動」としての政治闘争を繰り広げてきた時代と言えるのではないでしょうか? だからmao さんのご指摘にもあるように「どこかの党派にはいらないと運動ができない」状況にありました。現在、その「運動意識」自体が変化しているように思うんです。フランス・アタックを紹介したわけですが、その他にもさまざまな社会的運動団体が世界各地で名乗りをあげ、それらの運動が横に連帯しながら前進を続けている。もちろんそれらの闘争の中にいくつもの左翼組織が混在しているわけですが、その指導はかつてのようにあからさまには見えない。
あえて誤解を恐れずに単純化して言うなら、「党派」と「大衆」との関係を、かつては「党派による大衆指導」の面を強調した運動が主流であったと思うのですが、今、世界で始まっているのはむしろ「大衆が闘争集中の手段として党派を利用する」かたちでの運動の前進ではないかと思っています。そのように考察するならば、内ゲバ主義についての総括はなによりもまず「大衆と党との関係の総括」でなければならないし、何よりも日本の地で今始まりつつあり、進行し始めている運動について、「党派」の立場の人々は大衆運動に対してどう介入していくのか、「大衆運動の側」に位置する人々は「党派」に対してどういう形で受け入れていくのか、が問われているのだと考えるのです。そうした現実の運動を意識的に「射程」に入れて考える事が、内ゲバ総括を「一般論」におわらせず、確かな成果として残していけるものになるのではないか、と思っています。
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解放派と第四インター 投稿者:まっぺん 投稿日: 1月21日(月)11時39分38秒
●解放派と第四インター
そういえば、早稲田のキャンパスで議論がはじまった時に内ゲバ主義反対を言うと、
学生のひとりが「ウソつけ!おまえらは中核派と共闘してたじゃないか!」と言われたのを覚えています。
あれはたぶん解放派だったんだと思います。
「共闘」の中身がどこまでか、は非常に重要ですが、はたして当時中核派と「攻守同盟」を結んでいたのだろうか?
私の記憶ではそんな同盟は結んでいなかったし、結んだとしたら、まちがいだと思います。
当時の私の認識では「沖縄返還」に対する方針の違いからの統一戦線であって、「内ゲバ共闘」ではなかった。
だからもし東北で第四インターが「中核派といっしょに襲撃した」のが事実だったら問題ですね。
明治公園会戦は70年じゃなく71年でしたね。失礼しました。青葉城址さんもその場にいたんですかぁ!(^^)
●ここの掲示板サブタイトル
すえいどんさん、気付きましたか〜(^^)
いままでの内容を変更したわけではないんですよ。ただ「まじめな議論・ぐち」といちいち書かなくても
「何でも自由に」とすればいいと思ったんですよ。そうして短くなった分、「誰でも歓迎!」を入れて
四トロ同窓生じゃない人にも気がね無く書き込んでもらおうと思ったんです。
いろいろ考えましたが、タイトルは「四トロ同窓会二次会」のままにしておくことにしました。
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青葉城跡の衝突前史・補注 投稿者:すえいどん 投稿日: 1月21日(月)10時54分50秒
1971年の戦いは、秋からではなく、6月23日から始まっています。
この日、片平(学部)の集会で、解放派が、6・15の件を自己批判しろといって、中核派をたたき出してしまいました。中核派が反撃に出て、今度は解放派を学外までたたきだしてしまい(第四インター不参加)、北門で対峙。解放派は暗くなってから、ぐるっとまわって,南門から学内突入をはかり、ここでも中核派が勝ったのですが、このときは第四インターも衝突に加わったのです(これで恨まれた要素は大きいと思われます)。ちなみに、ここから東北大での解放派の「主流派」の位置が揺らぎ始めます。この報復が10月8日で、(前回中立の)フロントも加え、鉄パイプを用意して、片平の集会を襲撃、中核派をたたきだし、その際新聞社にいた人間にテロをくわえたようです(6月23日の報復?)。10月12日、今度は中核派・第四インターが川内(教養部)にその報復に行ったという経過となります。いずれも解放派が先に喧嘩を売った形ですが、第四インターの去就の理由はよくわかりません。東北大では永らく解放派と第四インターが覇権〈社青同の看板も?)を争ってきた歴史があり(中核派は後発、67年ころできた)その因縁もあるかもしれません。
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京大の場合 投稿者:TAMO2 投稿日: 1月21日(月)09時42分24秒
maoさんの書かれた東北大の状況と、西の中核派の拠点の一つである京大の状況は違うよ
うです。
中核派が党派的伸張を果たした80年代の京大の状況について。
中核派が熊野寮にボックスを構えたのは83年と聞いておりますが、それまではノンセクト
赤ヘルが一番強かったようです。そうは言っても、党派的なものがないわけではなく、赤ヘル
系で一番関係が深かったと思われるのは、烽火ですが、余りそういうことは意識しませんでし
たね。ヘルメット学生運動にもまだ大衆性はありました。廃寮化攻撃に対する一般学生・教職
員の同情と支援もありましたし。(小生、84年入学です。)
そう言った状況で、阪大などの拠点をなくした(と聞いている)中核派が登場するわけです
が、「学園主義」と揶揄されることも多かった京大赤ヘルには党派に対する反発も強く、また
中核派の所業も聞いているわけで、まあ、これ無事に登場できず、結構ゲバ行使をしていたと
聞いています。
なお、登場後、寮内でのテロ支配については友人・知人が色々と被害を受けていますので、
また別に書きたいと思います。
いずれにせよ、選択肢を一つにしたのは、中核派ではないのか、と言いたいです。
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訂正^^;) 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月21日(月)01時02分30秒
大変な間違い。「国際反戦集会」は、「88年」ではなく「68年」のことでございました。
ああ、時間観念がはやそうとうに狂っております。お恥ずかしい^^;)
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「新左翼」という用語法 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月20日(日)22時36分54秒
>追記:でもそんなの狭い「新左翼」(第四インターは自分は「新左翼」ではないと自称し
>てますが)のコップの中のアドバンテージであって、今の日本では常識=あたりまえです。
一同窓生さんによる「追記」でございますが、内容につきましては別発言にゆずりましてここでは用語法の問題だけ。ほんの雑談でございます。
「新左翼」というのは元はジャーナリズム用語ですし、第四インターのみならず諸党派で「新左翼」を自称したところは寡聞にして存じません。「新左翼」を自称したのは60年前後のイギリスの「ニュー・レフト・レビュー」グループでございました。およそ“過激派”とは縁の薄い知識人集団でしたが、動脈硬化も極まれりといった風情のイギリス共産党しかマルクス派のいなかったイギリスで、「マルクス・ルネッサンス」の先駆けとなった運動であったかと存じます。
当時日本で「革命的左翼」を自称していた各派に与えられた総称は「反日共全学連」、それが10.8羽田頃には「三派全学連」となりましたのは、「平時の民青、戦時の三派」と言われるように左翼の主流に踊り出た存在を「反日共」では説明し切れぬためだったかもわかりません。やがてベトナム反戦とステューデント・パワーが世界現象となるにおよび、マルクス主義とはあまり縁のない左翼も続々登場(たとえばアメリカの黒人運動やヨーロッパの「意義申立て」運動、アフリカやラテンアメリカの革命派、フォークソング・グループなどなど)、これらを総称した国際的潮流として「新左翼」という用語がジャーナリズムに市民権を獲得いたします。「三派」も当然そのなかに数えられます。
この「新左翼」はひとつの“時代風俗”でもございました。運動靴にストレートのGパンとジャンパー、長髪頭にヘルメットにタオル、といういでたちがファッション雑誌のページを飾るほどでした(笑)。さてこうなると元からのマルクス主義左翼は独自性の表現にちょっと困りました。特に第四インターは伝統ある国際組織でしたから、そこの本部は正統性を誇示するためにも「新左翼」ではないことを強調していたのではないでしょうか。88年でしたか、反戦・全共闘各派が集まって「国際反戦集会」を開きました折、パリからきた第四インター幹部(きれいな女性でしたけど発言はゴリ:-))が某書評紙のインタビューで(かな?)“日本の第四インターは「新左翼」の傾向が強い”とか批判的に語っていた記憶がございます。
でもまあかなりいいかげんな要素(*)の強かった日本の左翼諸派、いつのまにやら「新左翼」と言われてもあまり気にしなくなりました。ギターを抱えた渡り鳥ならぬ「フォーク・ゲリラ」、このサイトでも特別席を割り振られているジョン・レノンを一員とするビートルズのファン、ヒッピー、“フォークとニューロックは白人文化”だとして“ジャズと歌謡曲”を対置する「珍左翼」、その路線で「歌謡曲ゲリラ」で登場しようという「新宿ホステス・ウェイトレス反戦」まで現れれば、「新左翼」でもまあ政治的と言えば言えた状況ではございました。
実を申せばわたしも、「新左翼」という用語法にはいささか抵抗感なくもございません。でもまあ、大きな誤解なければよろしいかと(笑)。
※この「いいかげんな要素」、それは「大衆的規律」の一面であったと思います。それを基盤にした戦闘性を各派それぞれ発揮したことも事実でございます。けれどもそれはまた「弱さ」でもございました。そこで必要とされていた「強さ」をついに見出すことも生み出すこともできなかった結果として日本新左翼は「自壊」を遂げたのではないでしょうか。
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中核派が一定勢力拡大したわけ 投稿者:mao 投稿日: 1月20日(日)21時58分15秒
内ゲバ批判は正しいにもかかわらず、なぜ内ゲバ批判党派が勢力拡大できなかったのかについての私見です。
時期は三里塚的に言えば1978年3月26日から、1985年10月20日の話です。この時期中核派は黒ヘルとの統一戦線を行っていたと思える。とりわけ、東北大はそうであろう。この場合黒ヘルは寮の部隊であることが多かったであろう。黒ヘルの中で党派的確信をえたものが白ヘルに結集したのである。1980年代初期に中核派の方針は内ゲバから国家権力への武装闘争へと転換した。三里塚でも空港を突入・占拠・解体をスローガンに、していた。一方労農合宿所系の赤ヘル君は、飛行阻止闘争が行き詰まり、プロ青的に言えば、既成事実の前に屈しつつあった。このあと、反対同盟が分裂するわけだが、この時期の中核派の方針は、ノンセクトの心をつかむものがあったと考える。
このころ、白ヘルに結集した人物が言っていた。「他に結集する党派がないんだ。」
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青葉城址の衝突・前史(2) 投稿者:青葉城址 投稿日: 1月20日(日)20時23分25秒
(続きです)
さて、このふたつの「襲撃」事件、見方によっては確かに「目糞・鼻糞」でも
ありましょうし、別な見方では後の方をより重大と見なすこともできます。
東北大教養部では、当時の政治力学からして当然のように、後者が公式見解と
なりました。以降、中核派と第4インターは、「党派として」東北大教養部に
「出入り禁止」となって行きます、その後の長きにわたって。
「党派としての教養部への登場vs阻止」を巡る「青葉城址」の例の衝突は、こ
の「出入り禁止」を未だ「有効」と見なす解放派と、それをもはや「時効」と
見たい第4インターとの間の、「有効期間」(^^;)を巡る一大セレモニーでも
あったのです。ですから、71年を起点としていることも含めて、「住み分け」
に基づき徐々に進行しつつあった各大学における一般的な「戒厳令」化関連と
は性格が異なるところがあったと私は見ています(出入り禁止措置を妥当だと
言っている訳ではありませんが)。
※この71年秋の出来事について、その後に加わった(これを経験していない)
東北大の第4インターの諸君にとっては、全く伝承されていないか、あるいは
全く別な解釈でもって語り継がれている可能性はあるかもしれません。
※個人的には、中核派は自らの意志に基づいた一種の確信犯的なイメージがあ
ります。片や第4インターの方は、中核派と付き合ったばっかりに、利用され
たり引き回されたり(後年いぢめられたり)、凄い貧乏クジばかりを引かされ
たような印象をどうしても持ってしまいました。あ、これは一寸筆ならぬキー
ボードが滑ってしまいました。<(_ _)>
※以上は私の個人的記憶に基づくものですから、例によって誤っている可能性
は否定しません。その点、予めご諒解下さい。併せて、私がこのような衝突を
是と認識して叙述している訳ではありません。文面に反省が滲み出ていないと
すれば、それは私の筆力の未熟の故です。
「青葉城址の会戦」を巡る一連の投稿はこれで最後とさせていただきます。
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青葉城址の衝突・前史(1) 投稿者:青葉城址 投稿日: 1月20日(日)20時22分05秒
「青葉城址」での衝突については、やはり東北大教養部における、特殊な経緯を
お話しておかないとわかりにくいと思います。書いてもよいとは言われてません
が(^^;)、成り行き上、投稿してしまうにします。
なぜ、第4インターが(中核派とともに)教養部に党派としては「出入り禁止」
となったのか? それは、学内の力関係による「住み分け」の結果だけでもな
かったのです。実は、このことをタラタラ書いてはみたんですが、内容があま
りに生々しくなってしまって、そのまま公開するには諸々支障がありそうです
から、大幅に端折ってしまうことにします(端折った中に大事なことがあるか
もしれませんが、ご勘弁を)。
さて、これもまたご多分に漏れず、幾つかの「偶然性」とその微妙な「解釈」
の違いによって、その後の事態が変わって行ったものなのかもしれません。
71.6.15明治公園(沖縄返還協定調印阻止斗争)において、全国的な共
闘(8で括れたか否かはさておき、いわゆる「八派共闘」)の枠組みが壊れ、
中核派・第4インター組と解放派・フロント・その他組に別れて行ったことは、
周知のとおりです。そして、中央での中核派vs解放派の武力衝突は(学生戦線
に限りですが)、その後は地方展開されて行くことになります。
仙台の地ではそれは同じ年の秋、沖縄返還協定批准阻止斗争から始まりました。
東北大片平(川内の教養部ではなく、当時文系の学部があった地区で、街の中
心部にある)構内において、仙台における従前の枠組みを前提とした集会・デ
モが設定されており、そこが舞台でした。この場合は中央とは逆に、先に入っ
ていたのが中核派(インター含む)で、解放派(フロントも加わっていたよう
な記憶もあるような無いような?)が外から「襲撃」する形となりました。
この中味を詳しく書くのは避けることにいたしますが、この過程で、結果的に
は東北大学新聞社(第4インターの学内不抜の拠点サークルで部室が片平構内
にあった)の部室も巻き込まれることになります。
ここまでは解放派の方にやや「正義」が薄い感がありそうです(^^;)。ただ、
東北大教養部については、解放派・フロントと言った「返還粉砕派」(中核派
から見れば「宮下右派ブロック」でしたっけ?)が相対的に強かったため、秋
以降の斗争はスローガン等においても、おのずと中核派・第4インター(「奪
還」もしくは「復帰斗争無条件支持」でしたっけ?)抜きで進められて行くこ
とになります。この時点ではまだ「排除」と言うよりは「抜き」のニュアンス
が当たっていると思います。
71年秋の批准阻止斗争に向けて、東北大教養部では確か「10−11月共闘」
(だったか?)なるものを組織しました。解放派とフロントが中心とはなった
ものの、ノンセクト含めた(革マル・中核・第4インター以外の)全勢力を結
集した、いわば全共闘スタイルです。学生大会でストライキを決定できた程度
(全学生の1/4だったか1/6だったか以上の支持が必要)の大衆性がありました
(いえ、ストライキになると当然授業が行われない→東北大教養部の学生はサ
ボるのが大好き→ストライキに賛成、との見方も結構説得力ありましたが)。
ここでひとつの事件が起こりました。この「10−11月共闘」の会議の席を、
中核・インター組が「襲撃」したのです。先の「新聞社への襲撃」への「報復」
と言うことになります。すみませんが、この過程も詳しく書くことはやめてお
きます。
(また長過ぎると叱られました、以下、つづく)
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「どうしてインターがここに登場するの?」(2) 投稿者:青葉城址 投稿日:1月20日(日)19時56分16秒
(続きです)
次、当時の東北大教養部が解放派の「戒厳令」的状態にあったか否かについて
の私見は、前投稿のとおりです。補足するに、この点に関しては上述のとおり
「程度」の判断が必ず付随します。そしてこの判断には、当然立場による「主
観」が大きいと思います。その意味では、時期的に「過渡期」だった(過渡期
の前期)と言い換えておきましょう。つまり「戒厳令」的な要素はあったにせ
よ、その程度はまだかなり弱かったのだ、と。
だから、「どうしてインターが登場するの?」の疑問は、この「時期」の点か
らしても、それなりの幅広い妥当性はあったように思えます。
※余談ながら、東北大のその後の流れとしては、解放派ではなく、中核派がそ
の傾向を体現して行くことになるようではありますが。(^^;)
3点目。上記で私なりに理解した第4インターの側の論理が成立するには、次
のことが必要かと思いました。
それは、一般的な党派間の対立・反目の他に、イデオロギーとしての「内ゲバ
主義」と「内ゲバ反対主義」の対立と言う構図が存在していなければならない
のではないか、と言うことです。さらに言えば、ふたつのイデオロギーの対立
であることが、当事者双方および一般的に諒解されている必要がある。とすれ
ば、そのような相互諒解は存在していなかったと思います。第4インター側が
反「内ゲバ主義」で対決しようとしても、相手側が「内ゲバ主義」の旗を擁護
するつもりが全然ないとすれば(実際に無いのだから)、そもそも空振りに終
わってしまいます。
個別東北大の事情に引き寄せてみれば、第4インター側の思い入れはさておき、
「内ゲバ主義」を掲げる解放派が、その「内ゲバ主義」イデオロギーを守るた
めに、もしくは「内ゲバ反対主義」イデオロギーを憎んだために、第4インタ
ーとぶつかった訳ではありません。当時の東北大において、そのような構図と
して理解した人は、第4インター関係者以外には居なかったと思います。
と書いていて、何だか展開が変なので、この部分は完全な私の誤解かもしれま
せん(^^;)。だとしたら、すみません、無視するか、ご訂正下さい。
この段落は「どうしてインターが登場するの?」の疑問が、要するに「内ゲバ
主義vs内ゲバ反対主義」の構図が、当時の東北大においては全く当てはまらな
いことからも言えそうだ、との趣旨です。
※「内ゲバ反対主義」ではなく「内ゲバ主義反対」だったかもしれませんが、
叙述の流れから、「内ゲバ反対主義」または「反内ゲバ主義」の表現で統一さ
せていただきました。
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「どうしてインターがここに登場するの?」(1) 投稿者:青葉城址 投稿日:1月20日(日)19時53分35秒
菊さん、
>つまり、当時の私たちの学生運動状況を巡る認識と個別東北大の状況は違っ
>たわけですね。それでは、当時の東北大の解放派が「どうして、インターが
>ここに登場するの?」と思うのは当然のように思います。
全く言い得て妙です。解放派以外でも「どうしてインターが登場するの?」と
思った人は、(けっして多いとは言いませんが)意外と少なくなかったのでは
ないかと思っています。
でもお蔭様で、当時の第4インターの諸君の気持ちが少しわかってきました。
一寸乱暴ながら、とりあえず次のように理解してみましたが、どうでしょう?
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各地で「内ゲバ党派」がキャンパスを武装制圧し、その党派の方針に批判的な
潮流を認めず(とは言っても実際には「程度」の大小の判断は必ず付随するの
だが)、結果として「のびのびとした大衆運動」(うまく言えませんが)を阻
害している、云い換えれば「戒厳令」的な憂うべき大情況がある。
この大情況を、はなっから諦めてしまうのではなく、何とか打破すべく行動を
起こそうとする一種の「使命感」。そのことのために、同憂の志を求め勇気づ
けるためにも、我々の姿を大衆に公然と示すべく、全国を伝道しよう。
しかしながらその際、先方の「内ゲバ主義」者が、「内ゲバ反対主義」を憎む
あまり、武装襲撃して来るのは間違い無い。とすれば、我々も「防衛・撃退」
するために「武装」することは、理の当然であり「正義」である。したがって
「内ゲバ主義」者による「理不尽な」攻撃に対して行うゲバルトは「内ゲバ」
には当たらない(すいません、最後のセンテンスは少し変ですね)。
=====================================================================
私の理解が誤っていればご指摘いただくとして、とりあえず上記の理解のまま
で話を続けます。
気持ちとしてはかなり理解できます。それでうまく行くなら、日本の左翼事情
はもっとまともなものだっただろうとも思います。と言うのは、この筋の私の
知り合いに、兄貴が早稲田の政経だった(弟は兄貴の影響でこの筋に入った)
って奴が結構おりまして、その関係で聞いた話を思い出したからです。解放派
の66〜68年の早稲田の運動にかかる総括を文書として見たことはありませんが、
聞いたところでは、革マルの襲撃(下宿テロ含む)に対して、正々堂々とした
「大衆運動の攻めぎ合い」と言う方針で臨んで来たが(この点は早稲田解放派
独特のカラーもありそうですが)、結局は駄目だった、と。この総括がその後
の解放派の行方を規定して来た(私の主観では「革マルに合わせた=似せた」)
ことになったのだと思います。その後、69年と言う大衆的大ブレイクを間に挟
みはしたものの、党派間の衝突を巡る事態はその後ますますエスカレートして
来る過程で、「大衆運動の対置」と言う「夢よもう一度」を信じるには、自分
的には既にかなり「シラケて」いたからです。その意味で、どなたかが仰って
いた川口くんの頃の、WACの第4インターへの視点には首肯するところがありま
した。残念ながら。
(つづく)
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気がつくと 投稿者:すえいどん 投稿日: 1月20日(日)16時10分58秒
議論のレベルが高くて、ついていくのが大変ですという愚痴を書こうとして気づいたのですが、今年から「まじめな議論・主張・あそび・ぐち」が「誰でも歓迎に」ひそかに(?)書き換えられているのですね。管理人さんのポリシーの変更を読み取るべきでしょうか?
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RE:求められているのは「新左翼運動の再生」でしょうか? 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月20日(日)15時16分38秒
>せみまるさま やや遅れ気味のレスでございますが、「青葉城」をめぐる意義あるお話の進展にかんがみましてお許し下さいませ。
さて、タイトルでございますが、「答えはNO」、という点で大まかな合意はあると存じます。それでもなおタイトルのような疑問が出されるのは、その「NO」の中身がさだまっていないためでございましょう。
☆今回ご発言------------
我々が追求していかなければならないのも、こうした運動ではないでしょうか? はじめから「左翼の統一戦線のための反内ゲバ運動」と限定する必要はまったくない。それどころか、そのような規定は「党派の壁」を超えているかも知れないが、「確信的社会主義者・左翼」だけのカラに閉じこもった「せまい統一戦線」となってしまうでしょう。
☆小西さん『検証』(p.93)------
広い意味での新左翼運動が崩壊していったのは、権力の弾圧でもなければ、70年代以降の受精を要因としたものでもない。まさに、それが崩れていったのは、党派間の、そして党内のあり方をめぐってであり、内的な崩壊であった。
☆鬼薔薇発言 日本共産党と「新左翼」 1月12日(土)23時05分58秒
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30年にも及ぶ「内ゲバ」と真摯に向き合おうとすれば、共産党に対する「新左翼」の優位性などとうの昔に血の海に没している事実を直視すべきではないでしょうか。----中略----この30年間の負の遺産たる「内ゲバ」が「新左翼」の産物だったこというまでもなく、それを清算するには、「新左翼」という枠組みそのものの清算に踏み込んだ検討が必要ではないかと、切実に思うところでございます。
この3発言を較べてもちがいは明瞭でございましょう。小西さんやわたしは「新左翼」にこだわり、「自壊」したその枠をあらためて主体的に解体せねばという、いわば「内省的」思考をとるのに対し、せみまるさんはむしろ外向的、運動論的な姿勢を強く示しておられます。他方、日本共産党との関係について、せみまるさんが一番否定的なご姿勢ですね。
「左翼」が「サヨク」になってしまった状況を反転しようと考えれば、従来の「左翼」の枠組にこだわらぬ新しい大衆運動の展開が必要だとのご意見に意義をはさむ理由はございません。“革命は大衆自身の事業である”ことを前提にすれば、それは「公理」とも申せましょう。けれども『検証』本が指摘するとおり左翼の「自壊」にほかならぬ問題は、「大衆運動」の発展で自動的に解決されると考えるわけにもまたまいりません。
「左翼」が負うべき独自の責任は、大衆運動とは独自にそれ自体として解決するのでなければ、「左翼」がふたたび大衆運動から信頼される政治的地位を占めることもむづかしいと存じます。不気味なことをあえて申し上げますと、かつてのファシズムの故事を振り返るまでもなく、「左翼」ではない、「左翼」を飲み込んでしまうような種類の「大衆運動」だってありうるのでございます。ナショナリズム、エコロジイズム、フェミニズムなど、いずれもその可能性を孕んでいるとわたしひそかに思っております。
それでもなお「新左翼」にこだわる積極的な理由があるとすればただひとつ、ベトナム反戦〜安保・沖縄〜三里塚という過程のなかに、「支配の暴力」に対する「民衆の暴力」というものを垣間見た歴史経験を、日本の階級闘争の歴史のなかに正当に定位したいがためにほかなりません。ここでの主題「内ゲバ」は、そこに垣間見た「民衆の暴力」を見失ってしまった結果生じた「自傷行為」として総括し、克服をはかるべき課題と理解し、議論に加えていただいているところでございます。
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一同窓生さんへ:私は一貫して「ネガティブ」トーンなので 投稿者:菊 投稿日: 1月20日(日)11時33分57秒
やはり、自分が関わっていた「場」=戦線の違いは大きいと思います。3/26−5/20を境に、それ以前とそれ以降とでは大きな違いがあります。それ以前は労働戦線が、官公労を中心に大変活気がありました。学生戦線は「内ゲバ殺人や襲撃」に直面するなかで、「暴力反対」の民青とは違うのだといいながら、「内ゲバ反対=プロレタリア民主主義」を基本的な行動原理にすえて必死に方針を出し、なかなか理解を得られない中で活動するという厳しい状況におかれていました。東北大の事件もその中で起こったことです。
78年以降は、これが逆転。労働戦線は国家権力=資本からの全面弾圧で、全面的に封じ込められます。一方学生戦線は、一転して党派的な力関係が変化して、数少ないノンセクト諸君も第4インターの主張に耳を傾けるようになります。そこでは、党派としてのおごりや傲慢さも生み出してしまうのですが。
そうした違いはあっても一同窓生さんがいわれるように、原則的立場を堅持した。それは確かにその通りなのですが、私はその上で、どうしても「その限界」を考えてしまうのです。ですから、紹介された織田進の「労働者の力」の今野求さんへの追悼論文を読んでも、「確かにそういう側面はあったけれど、でも・・・」と違和感を感じてしまうわけです。
たとえば、上に上げたような違いを組織として、どうして統一的な認識として持てなかったのか?これは私自身の責任もあるので書きますが、80年頃のJCY内部の「対立」は、そうした置かれている状況の違いに起因するものが多いわけですね。
織田進の追悼論文は、追悼論文という性格を割り引いたとしても、彼自身の行動や責任を含めて政治局としての責任と限界を曖昧にして、きれい事を書いているように私には思えます。これは亡くなった人には申し訳ないのですが、今野さんについても同じように感じる疑問、違和感です。まあ、昔から「きれいごとを書く人だ」と言ってしまえば、それまでなのですが。
織田進論文のご紹介、ありがとうございました。久しぶりに彼の文章を読みました。表に出ずに過ごすよりも、ああやって論文を発表してもらう方がイイですね。今読むと、昔とは違った感覚で読めるし、結構面白いです。
それから、今野求さんの追悼文集が仙台で発行されているようですが、これもネット上で読めるといいですね。私などは仙台グループについてもよく知らないところもあるし、昔のイメージのままだとあまり良い印象を持っていないので、自分の認識を改めるためにも役立つような気がしています。
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RE:菊さんの言うこともよくわかります 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月20日(日)09時36分16秒
>一同窓生さま
>人間が1000人も集まったらいろんな人がいる。内ゲバが横行する学生戦線で獲得
>された人と、労働者戦線から参入した人では自ずと行動・意識が違うよね。ましてや
>高校生戦線とでは世代ギャップとも言える感覚のズレがあったのは記憶しています。
おっしゃることわかるのですが、ベトナム反戦〜70年安保・沖縄〜三里塚という運動過程は、いわゆる「世代ギャップ」や社会層ギャップを崩すだけの動力学を産んだこともまた事実かと存じます。「高校全共闘」もそうですし、労働者部隊がゲバ棒を握り火炎瓶を投擲したのもそうでしょう。街頭実力闘争に対する大衆的な支持も広くございました。佐世保現地闘争のニュースが伝えられるなかの街頭カンパには1000円札がたくさん集まりました(大学卒初任給が今の8分の1だった頃の1000円でございます)。「2つ、3つ、もっと多くの『ベトナム』を!」というゲバラ・アピールが熱く受け止められました。支配と抑圧の暴力に対する「闘う民衆の暴力」という対比が鮮明にあったと存じます。
>しかし、それと、夜陰にまぎれて活動家のアパートを襲い鉄パイプやバールで脳天をかち
>割るような行動、総括と称して死に至るリンチを加えるような行動、また党派機関誌で実
>行を煽る、「戦果」を公表するなどという行為は全く異質なものであり、一線を画した扱
>いをしなければなりません。
賛成でございます。そして、ここの区別建ての先にあるのも、実は上の「支配の暴力」と「民衆の暴力」との区別にあるのではないかと愚考する次第でございます。反戦・全共闘に結集した諸党派と民青や革マル派とを分かつのもこの点だったのではないでしょうか。70年代の「内ゲバ」の昂進過程と申すのは、前者諸党派がこのふたつの暴力の差を忘れて行った過程だったのではないかとわたし考えます。「民衆の暴力」から「民衆」が抜け落ちて行ったとき、残る暴力はただ物理力にすぎず、主張すべき正当性を失っていったと思うのでございます。
主張すべき正当性とは、行動の政治性にほかなりません。この政治性を新左翼諸派はなにより「ベトナム革命」から受け取ったはずでございます。「侵略戦争反対」から「革命連帯」へ、といったとき、ただ「反戦」だけでいいのか、自ら「革命戦争」へ進むべきではないかとの問題意識もそれ自体として正しいものだったとわたし思います。そのとき「民衆の暴力」の意味がほんとうに問われたのだと思います。党派にとっての「綱領」問題が総括されなければならないのはこの点ではないでしょうか。
「反帝・反スタ」綱領からすれば、ベトナムの事態は「帝国主義とスターリン主義の代理戦争」にすぎず、「革命」などと呼べるものではございませんでした。ゲバラ・アピールはそれを現代革命の前衛と位置付け、その拡大を呼びかけました。日本の新左翼はこの大きなギャップに政治的に引き裂かれていったように思うのでございます。そこを「党・軍建設」といった主観的願望で乗り越えようとしたとき、暴力の民衆的基礎を失って党派組織が自己回転し、民青や革マル派と区別できない「暴力」観へ絡み取られて行ってしまったのではないでしょうか。その意味で、党派にとっての「内ゲバ」問題は「綱領」問題にほかならぬとわたし思います。
白井明さんは『民主派宣言』で「民族問題」を強調しておられます。書かれた内容には多くの異論を持ちますし、中核派主流に対する批判としての有効性もわたし疑問でございますけれど、新左翼諸派にとってのアキレス腱のひとつをご指摘であることはたしかかと存じます。
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菊さんの言うこともよくわかります 投稿者:一同窓生 投稿日: 1月20日(日)06時59分02秒
人間が1000人も集まったらいろんな人がいる。内ゲバが横行する学生戦線で獲得
された人と、労働者戦線から参入した人では自ずと行動・意識が違うよね。ましてや
高校生戦線とでは世代ギャップとも言える感覚のズレがあったのは記憶しています。
わたしの場合、紳士的な人・組織が多い戦線で活動していたので、内ゲバの最前線に
立ったことはなく、結果、意見もスッキリしたものになってるわけです。
こういう人間の集団行動の場合、この指とまれの「綱領」が機軸になるわけで、それ
中心に構成メンバーは右に左に幅を持って分散することになります。内ゲバ側への
許容幅がどれほどまで持つかも決まるでしょう。「分派の承認」「多党制の承認」
「内ゲバ主義反対」の綱領性を持った組織がどこまで内ゲバ的行為を行使するかも
決まるでしょう。
仲間がやられたら頭にきて仕返しをしたい、人間の当たり前な人間的感情です。そん
なものは否定できません。やられないように自衛武装をして未然にふせぐ、やってき
たらやりかえすぞという体勢が、襲撃を未然にふせぐわけです。当然現場はそんな
キレイ事ではなかったのでしょう。「内ゲバ主義反対だ?ウチの中央はまったく現場
を知らねー」と考えてた現場メンバーもいたことでしょう。現にさまざまな衝突が
あった。やってきてから中央には黙ってたなんてこともあったのでしょう。
しかし、個々の内ゲバ的事態があったからといって日本支部は一時も綱領的主張から
「分派の承認」「多党制の承認」「内ゲバ主義反対」下ろしたことは無いわけで、
ここが大事なんだと思います。この綱領性があればこそ、思想といってもいいですね、
「青葉城址会戦」以降は「内ゲバすれすれ行動は」とらなかったのだ、そう確信します。
たとえ一線を超える意見が一部に出てたとしても、組織内でそれを多数派に押し上げる力は
働かなかったし、内ゲバ賛成の少数分派を生むこともなかった、という歴史的事実は
重要だと思います。それが綱領の力なんだ、と思います。
「メンバーの考え方で決まる」という菊さんの意見については、今野求氏への織田進氏
の追悼文(「労働者の力」第139号=HP参照のこと)がフォローになるかなと思い
ます。「我々の運動があまりに人間的であり...」この一言、重いですね。私は人間
的だからこそ「分派の承認」「多党制の承認」「内ゲバ主義反対」の綱領に集まってき
たのだ、そうも確信します。
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こちらも本質には関係ないのですが 投稿者:AIT久我山支部(準) 投稿日: 1月20日(日)01時14分50秒
元民青の「暴力」も凄まじいものであった(全共闘全盛時以降も)と聞いて
いましたが,今,マル共連に立命館民青の「暴力」の実態が報告されてます。
http://marukyo.cosm.co.jp/forum/index.cgi?id=7&stat
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RE;「認識のズレ」がわかりました。 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 1月20日(日)00時53分57秒
>菊 さま 横からごめんなさい。
>何よりあまり思い出したくない事柄でもありました。というのは、隊列の一番先頭で竹竿
>を振るっていながら、「これは間違っているのではないか」と当時思っていたからです。
やはり「内ゲバ反対」を掲げながらなお「内ゲバ」やっていた当時の(元)民青の活動家からも、似たような悩みを聞いたことがございます(大分後になって「社会人」として出会ってのことなのですが)。せっかく獲得したシンパから、「キミたちだって結局『暴力』に訴えるのか、批判している『暴力学生』と同じではないか」と論難されて反論できなかったのだそうでございます。
“似たような”などと軽々しく申し上げてはいけないのかもしれません。第四インターと民青を同一視するのかと叱られるかもわかりません。でも、この悩みや逡巡に秘められた問題は、決して小さくはないように感じましたため思わず一言。ごめんあそばせ。
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まー全然本質には関係ないのですが、 投稿者:いずみ 投稿日: 1月20日(日)00時28分17秒
「男全員に配る」ってどういうことなんでしょうか?
男でも「弱い」人とかは外したほうが軍事的に有利なハズだと率直に思うんですが。
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