四トロ同窓会二次会 2002年2月10日〜12日

誰でも歓迎!何でも自由に投稿してください。投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」その他に掲載する場合もありますのでご了承ください。
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思い出した 投稿者:一同窓生  投稿日: 2月12日(火)23時38分49秒

いずみさん、私はある戦線で「大道」派の人といっしょに活動してたことがありますよ。いずみさんのご先祖ではないですか。まじめな好青年でした。いろいろな戦線をかけもちしてるようで忙しそうな人でした。竹内ブントとか三支労とかもいて、世の中いろんな人いるなーと思ってました。

竹内ブントもまじめな連中で動員数の約束はキッチリ守ってくれましたね。三支労はノンセクトにはニコニコ声をかけるのですが、党派である私には仏頂面になるという、向く方向で顔つきを変えるというワザを持ってました。セクト的!

ここで議論してるとほとんど忘れてたことも思い出すもんですね。

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わかりやすいというよりはただの学習ノート。 投稿者:いずみ  投稿日: 2月12日(火)22時59分30秒

 れんだいこという人物が、どれだけ議論というものに対して不誠実、というかそもそも「議論が成り立たない」人なのかは、いずみとれんだいこがジェンダーをめぐって一大論争したときのログを読めばすぐにわかります。あの噛み合わなさっていったらまったくわけわからなかった…(苦笑)
 でも、あれ書くことで、自分の中のジェンダーとかに対する意識がずいぶん整理されたんで、その面では感謝しています。

#でも、れんだいこ、自分のサイトにそのログまるまる乗っけてるんですよね。天然つーか…^^;;

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「分派の禁止」 投稿者:一同窓生  投稿日: 2月12日(火)22時58分32秒

小西さんRESどうも。中核派と革マル派が分派を禁止していないとは初めて聞きました。でも紙
には書いていないということは、どこかで幹部が発言したんでしょうか。実際は分派が発生した
らゲバかけるということは実質は分派を禁止しているということですね。

分派禁止問題は田口・不破論争で有名な田口富久司氏も、共産党が分派禁止を解除することは愚行
だ、とのべている(1977年時点)ように、そうとうスターリン離れをした人たちにとっても乗り越え
られない一線でした。党の円心分離をおそれるからでしょうね。私も一時そういう意見も一理あると
思ったことがありましたが、分派禁止解除で衰退するような党だったら衰退してしまえ、それが
人民にとって幸福なんだと思うようになりました。

この「分派の禁止」問題を追いかけていったのが藤井一行氏だと思います。氏の著書を読むと、分派
禁止が1921年、トロツキーが新路線を打ち出したのが1924年、手元に資料が無いので不正確ですが、
トロツキーは1937年には分派の禁止を撤回すべきとの考えに達したいうことがわかってきます。

そして1938年第四インタンショナルの創設、この当時から1960年代まで「分派の禁止」がどう取り扱
われたのか不勉強でよく知りませんが、前述のように1965年起草の第四インタンショナルの規約には
「分派の自由」がうたわれています。議論には10年近くの歳月をかけて、1974年に採択されます。
あとはご存知のように、世界と日本の第四インタンショナルの行動は「内ゲバ反対」も含めそれに
そったものだったと思います。

もちろん、「分派の禁止」問題だけで内ゲバを語れるものではありません。しかしそうとう重要な
キーワードだと思います。一つひとつ問題を明らかにしていくべきだと思ってるわけです。

白井さんの本を読んでみますと、中核派の場合、指導者の資質の問題も大きいと思います。白井さん
の文章からは、白井さんの誠実さが滲み出てきてますね。清水丈夫氏は自己の考えを押し通すためには
言論以外の様々な手段を動員するタイプの感じがします。けっこう会社組織にもいるタイプのように
見受けられます。これらの印象は私の長年の経験からのもので、確たる根拠があるわけではありませ
んが、当たらずとも遠からずと思います。そしてそういう強引な手法を周りの幹部が止められない、
イエスマンが周りをとりまいているのではないでしょうか。

「民主分権性」については昔の「ベ平連」の組織論に似てると思いました。おれが「べ平連」だ、と
いう感じですね。しばし意見を保留します。

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内ゲバ排除の原則 投稿者:黒目  投稿日: 2月12日(火)22時06分34秒

 無理矢理、話を前に進めちゃいますが(笑
実際に機能した「原則」として、いわゆる「6月共同行動枠」の、「意見の違いを暴力によって解決しようとする者とは共闘しない」という原則、これについてはどうでしょう。
これは別にナントカイズムから発生したものでも、綱領的なものから出たものでもなく、実行委を重ねるなかから、実際の運営上の理由から出てきたものであると認識しています。ひとつの「大衆運動側からの回答」として捉える事ができるものだと思いますが。
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まだ工事中のようですが 投稿者:すえいどん  投稿日: 2月12日(火)11時39分26秒

まだ工事中のようですが、わかりやすい「内ゲバについて」。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/seito_gevalt.htm

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またまた 投稿者:川魚  投稿日: 2月12日(火)09時32分26秒

>「フレッド・ジェイムソン  マルクスにおける唯物論的自己意識論の形成」中
>1994年02月号
>ーー下は書いてない
>「大学はどこへ行くのかーある大学教授への手紙」

の、下は、とは、フレッド・ジェイムソンの、「下」は、結局書いてない、との意味です。

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表三郎について 投稿者:川魚  投稿日: 2月12日(火)09時29分33秒

鬼薔薇さま>
おはようございます、表三郎については、
表の弟子たちが研究会を作っており、
そこにHPがあって、表の文献の目録や電子テキストがあったので、
それを御紹介しようと、
いま探したんですが、なぜかブックマークから落ちており、
Yahoo!で検索しても、60件のうちにはでてきませんでした、
また内紛があったんかも知れません(笑)。
尚、すみませんが、グ−グルでは検索しておりません(^^;

それで、面積を喰うて申し訳ありませんが、ここに書くことにします。
『情況』に載った、情況における最初から、2000年直前くらいまでのもののみです。

表三郎/駿台英語講師/京都在住/元ちゅうかく(笑)

「フレッド・ジェイムソン  文化の徴候的読解としてのマルクス主義」上
1993年11月号
「フレッド・ジェイムソン  マルクスにおける唯物論的自己意識論の形成」中
1994年02月号
ーー下は書いてない
「大学はどこへ行くのかーある大学教授への手紙」
1994年6月号
「現代思想と大衆民主主義」
1995年11月号
「マルクスの民主主義論(第1回)ーマルクス・バフチン・オースチン」
1996年08月.09月合併号
「知と生活の分裂ーマルクス・バフチン・オースチン(第2回)」
1996年10月号
「国家と市民社会の分離ーマルクス・バフチン・オースチン(第3回)」
1996年11月号
「近代社会の宗教性ーマルクス・バフチン・オースチン(第4回)」
1996年12月号
〜とりわけ、この辺以降で、思想的変換を遂げたようです〜
「ダイアローグ論ーマルクス・バフチン・オースチン(第5回)」
1997年5月号
「歴史に学ぶー石堂清倫先生訪問記」
1997年03月号
書評「『フォイエルバッハと現代』河上睦子著」
1997年10月号

それと、わたしの手許にはありませんが、1999年ごろにも、情況のスラブ関係の
座談会で、表が司会をつとめていたはずです。

ほかにも、表が転換をとげるまえで比較的最近の主要論文に、
80年代末期前後の、ミネルヴァ書房からでた雑誌、
『ユスティティア』の1号か2号、教育特集に、
「イロニカー・マルクス」というのがあります。

表は、いま、アソシエ21でもサルトルなんかについての新論を講議しています。
アソシエ21のサイトを御参照ください。

また、フォイエルバッハについては、わたしが今読んでいるのは、表が書評もしている、
『フォイエルバッハと現代』河上睦子/御茶の水書房/1997
『フォイエルバッハ』センチュリーブックス人と思想/宇都宮芳明/清水書院/1983
『キリスト教の本質』上・下/岩波文庫/船山信一訳
などです。

ついでに、アソシエでも一緒の、表の友人バラキンさんのサイトは、
http://homepage1.nifty.com/office-ebara/
です。

それと、以前レスし忘れて申し訳ありませんでした、
わたしは今現在、クニを離れ、外国のとある国に住んでおります、いつ帰るかは未定です。
一応、革命的警戒心を発揮しておきます(笑)、わかりにくくてすみませんです(^^
それでは。。

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interruptスマソ 米帝のオハナシ 投稿者:いずみ  投稿日: 2月12日(火)08時10分47秒

 せっかくの大事な議論に割り込むようですが、エンロン破綻について、
アカイアカイアサヒ(藁)や田中宇サイトでいろいろ記事が出ています。米
帝の検証例として読んでおきたいテキストだと思います。
 エンロン型資本主義
 http://www.asahi.com/column/aic/Mon/drag.html
 エンロンが仕掛けた「自由化」という名の金権政治
 http://www.tanakanews.com/c0204enron.htm
 エンロンが示したアメリカ型経済の欠陥
 http://www.tanakanews.com/c0211enron.htm

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雑感的に 投稿者:dk  投稿日: 2月12日(火)03時39分12秒

 この間の討論を見ていて、思ったことを書きます。

 第4インターが「内ゲバ反対」を公然と掲げたことは、当然正しい路線であった
 ということを前提にした上で、以下の点を明らかにする必要を感じました。

 まず、なぜ内ゲバ党派の間に、割ってはいることができなかったのかという問題です。
 数的な問題から不可能であったという気がしますが、「人民」防衛の観点から、抗争
党派の調停・武装した上での集会での引き離しなどは可能だった気がします。理論面、
発言面では、70年代の世界革命なり、第4インター(理論機関誌)を検討する必要を
感じました。
 内ゲバ反対をきちんとした路線と位置づけていたのか、そしてそれを展開する必要を
感じていたのか、展開していた場合、どこに問題があり、不十分だったのかを解明する
必要があると感じました。この点において、中核派とのブロックの問題(形成から崩壊
まで)をしっかりと検証する必要があると思います。

 また、早稲田などでの展開において、内ゲバ反対路線が、なぜ党派マヌーバ的に受
け止められたのか。検討が必要だと思います。
同路線が、学生、市民、活動家、大学当局にいかに受け止められていたのかを考えな
ければならないでしょう。そこに内ゲバの日本的問題を解明する手がかりがあると思
われるのです。

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世界産業労働者のHP 投稿者:AIT久我山支部(準)@後衛  投稿日: 2月12日(
火)01時17分01秒

確かに,↓をはじめ,IWWのサイトは軒並み開けないようです。

 http://iww.org/

 YAHOO/USAだと,以下のようなリストがあって,このうち1917年の
闘いなど昔のヤツに関する↓だけ,読めます。ほかはダメ。

 http://digital.library.arizona.edu/bisbee/
 http://www.pbs.org/joehill/

 YAHOO/USAでは,以下のように表示されるんですが..。

=================================================================
Industrial Workers of the World (IWW) - a Syndicalist Union with a

strong anarchist and anarcho-syndicalist history.

Bisbee Deportation of 1917 - labor dispute between copper mining
companies and their workers turned into vigilante action against
the Industrial Workers of the World.
Hill, Joe (1879-1915)@
Industrial Workers of the World - highlights from the IWW
struggles.
Industrial Workers of the World (IWW) - Portland General
Membership
Branch
==================================================================

 このほか,YAHOO/UK,AUST のほか,スゥエーデンなどの非英語圏からのアクセスでも不可。これはもしかすると,ネット上の問題だけではないのかもしれません。

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民主主義について・1補-2 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月12日(火)00時39分43秒

>小西さま

> 一九〇五年前後のトロツキーのレーニン組織論の批判ーこれはローザの批判と共通しま
>すがーは今から考えると相当の正しさを含んでいるのではないでしょうか。
> 正確な引用は忘れましたが「階級の独裁が党の独裁、個人の独裁になる」というような
>批判です。

 後年のスターリン支配の結果からすれば予言的に正しかったことは間違いございませんし、革命党が合法的に存在できる西欧の事情を背景にすれば自然な主張でもあったと思いますが、当時のロシアにそのまま適用できたかどうかは検討を要しましょう。トロツキーは後日その批判を転換いたしました。ただ、2人とも(またスターリンも)レーニン組織論の「ネットワーク型」の面をどう捉えていたのかという問題は残りそうに思います。
 
 トロツキー研究所のサイトで『ウィーン・プラウダ』期のトロツキー論文に接しての感想ですけど、「ロシア社会民主労働党」は、組織的にも財政的にもいくつもの派に分かれながらなお17年まで「党」のかたちを保った事情がわかります。つまり当時の「党」はゆるやかな連合党であったのですね。ドイツの党もまた、左派、機関中央派、右派の連合体でございました。けれどもこの連合構造は、戦争と革命の激動に揉まれて解体いたします。帝国主義戦争に対する態度決定をめぐって、また、戦争を契機に現実化した革命の権力問題をめぐって、ドイツの党もロシアの党も、それまでの各派共存の枠組を維持できなかったのは必然でございました。ロシアではソビエトという権力機関の形成が各派の関係を洗い、トロツキーが以前のレーニン批判を撤回したのもこの権力形成過程での選択として吟味されるべきかと存じます。
 
 ひるがえってわが国の新左翼はと考えますと、64年日韓闘争から3派全学連再建まで共同歩調を形成してきた党派関係は、学園闘争の拡がり、ベトナム反戦闘争の大衆化と反戦青年委員会運動の拡大のなかで、分断と抗争の時期に入り、全国反戦は第4インターの努力や、労働戦線で新左翼が少数派だった事情もあってまだしも「統一戦線」形態を維持いたしますが、主力だった学生戦線では分解が激しく進みました。この時期の3派間の内ゲバには革マル派は直接の責任はございません。
 
 こうした分解過程が、第1次大戦とロシア革命の時期のドイツ、ロシアとどこまで・どのように対比できるかはむつかしい問題がありましょうけど、「権力の問題」が如実に孕まれていたことは否定できません。各派が機関紙に書きつけた「権力闘争の時代」というアジ「理論」や、その延長上に赤軍派が発した「臨時革命政府宣言」などの観念次元ではなく、学園闘争の到達した地平、政治闘争が直面した局面、そして市民社会秩序との緊張関係、それぞれに「権力問題」が露呈したのはまぎれもない現実でございました。それは、当時の闘いが60年安保闘争と明らかに異なった次元へ入ったことを意味しておりました。問題は、新左翼の政治思想がそうした到達点をリアルに捉えらえて方針を提起できなかった(言い換えますと各派いずれも「党」ではなかった)ことにございます。

 “未だ党ならず”と「ならず者」を自称した京大パルチの滝田さん、大学院ではルクセンブルクの研究者でしたね。

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例えばかつての共労党−プロ青。 投稿者:いずみ  投稿日: 2月11日(月)23時37分21秒

 80年代のここは、組織論的にはほぼ「ネットワーク」というイメージを追及していたと思いますが、その一方で三里塚現地では「青年先鋒隊」という、めっぽう結束力の強い、軍隊チックな実力闘争先鋭部隊を擁していたような気がします。^^;;
 これなんかは、「日本でそれなりに力を持ったことがある左派政治集団」ということで参考になるのかも知れません。

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補足 投稿者:noiz  投稿日: 2月11日(月)22時59分08秒

>「民主分権性」ないし「ネットワーク型」の

「革命党」とは自らは言わないけれども、そうした在り方を目指して政治組織をつくっているアナキストの潮流があります。たとえば、US・カナダにまたがる北東無政府共産主義者連合(NEFAC: North-East Federation of Anarcho-Communists) は、内部討議には「Electronic Discussion List」を活用しています (公式メンバーとサポーターのみで外部には非公開。ネットにアクセスできないメンバーには定期的に討議内容を送ることが義務付けられています)。NEFACにはフランス語圏のメンバーもいるため、内部討議のすべては英語・フランス語で書かれることが決められているようです。
http://flag.blackened.net/nefac/const.html

ただし、実際に「民主分権」なのかどうかは、分かりません (^^;;

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noizさんに同意するのですが 投稿者:黒目  投稿日: 2月11日(月)22時52分21秒

先だって、あるセクトの人に、
「***って、ひょっとして、メンバーがそれぞれ勝手にやってるだけなんじゃないのか?」
と聞いたのですが、「その通りだ」とという返事が返ってきて、ものすげえ驚いた事があるのです。そんなんやったら、別に世界観政党を名乗らなくっても、普通に「活動家集団」でええやんけ、と思ったのですが。
軍隊持ってるとか、地下部門があるとか、「第何回大会」とかをものすご重視する作風であるとかの組織だと、イメージすらもできないような状態なのだと思うのですが、どうなんでしょうね?
とりあえず「ふつーに活動家集団になる」つー路線は。
NGOだとかわけわかんない事言い出すよりもマシなんじゃないかと思ったりして(笑

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ネットワーク(リゾーム)型、分権型ということ 投稿者:noiz  投稿日: 2月11日(月)22時26分00秒

> 全ての路線・方針が日常的に「政治局」や「大会」ではなく、組織員の大衆討議で決められる、ということはネット時代の今日、不可能ではないでしょう。この意味で、僕は「民主分権性」ないし「ネットワーク型」の革命党組織論が必要ではないか、という大胆な(冒険的な)論を出しています。

ここで言われる「革命党」とはすでに前衛ではないと思います。もちろん、政治組織を「大衆」とを弁別するならやはり「前衛」たりうるのかもしれませんが。しかし前とか後ろとか、革命家とか大衆とか、ここまでくるとわざわざ事別けするのがつまらないことのように思えてきます。

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民主主義のこと・1補 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月11日(月)20時50分13秒

>小西さま 早速のコメントありがとうございます。ご関心の内容、端的にわかります。

> 人権・民主主義が近代以後の歴史的概念であることは確かですが、これをマルクスやレ
>ーニンは発展させることができたでしょうか? とりわけレーニンのプロレタリア民主主
>義論は、新左翼運動に大きな影響を与えていると思いますが、この民主主義論の把握の問
>題が、内ゲバの根本的要因にあるように思えます。
 
 4つの問題があるように思いました。@「党」組織の内部問題(組織論)、A諸「党」間の相互関係(これを「統一戦線論」とは思いません)、B権力に対する大衆的戦線形成、C将来の社会関係(プロレタリア独裁論=プロレタリア民主主義論)。相互に関連するとはいえ、それぞれ次元を異にする問題でございましょう。60年代新左翼諸党派がこれらを切実な実践問題として自覚的にとりあげたとは思いません。これらが実践上の課題でなかったというのではございません。実践上の課題でありながら、それを自覚的に提起できなかったと思うのでございます。「内ゲバ」の主体的な要因は、レーニン理論の影響などとは別の問題だったように思うのです。
 実際にもっと重要だったのは、D「党・大衆関係」ではなかったかとわたし考えております。これがブラック・ボックスのように「党派」というかたちで閉鎖的に作られてしまっていた点、建前としての「理論」とは別に各派とも大同小異だったと存じます。
 これらにつきましては、長くなりますのでまた別に書かせてせていただきます。
 
 前半ですが、いずれも否とわたし思います。マルクスの時代はブルジョア民主主義がようやくいくつかの国で成長しようという頃で、その「限界」を説いて「発展」を示すことが実践的な課題になったとは思いにくいのです。その前にコンミュンが短命とはいえ「プロレタリア独裁」の先駆となり、『共産党宣言』に唯一の修正を加えたのでした。「発展」を考えたのは、老エンゲルスとドイツ社民党だったと思います。レーニン時代のロシア社会は、雑に言えばコンミュン前の西欧に近かったのではないでしょうか。ただしレーニン自身は、当代西欧の産業労働者の動きに感覚を研ぎ澄ませ、ロシアでこれからテーマになるだろうことがアメリカやヨーロッパですでに社会の表層に現れていることを看て取っていたと思います。アメリカIWWやイタリアの評議会運動への着目もそのように理解できるところと存じます。
 
※IWWのこと、ご教示ありがとうございました>久我山さま
 残念ながら http://www.iww.org/ が開けないのですけど、こうしたサイトの所在を
 知っただけで収穫でございます。70年前後にはアメリカでかなり研究書も出ていたよ
 うですね。
 
 分散系=ネットワーク型「組織」のご提唱には全面的に賛成でございます。現代の民衆のあり方に即しても、革命思想の分散状態に対しても、有意義でかつ実践的な方向と存じます。“党的結集”を強調する「コム・未来」とかよりここの「赤色土竜党」掲示板のほうがよほどそれに近い機能を果たしているような(笑)。いえ、冗談ではなく、こうしたサイトが実在することを含めて日本の第4インターの評価を考えねばと思っております。それに較べれば「トロツキズム」問題などほとんど「趣味の問題」かと....あっ、ごめんなさい>トロツキストの皆さま。

 レーニンの党組織論は、当時のロシアの現実に即して職業革命家の非合法・秘密組織であらざるをえないことに対応しながら、他方、広範な民衆のうねりを反映する「ネットワーク型」の面を自覚的に考えていたと思います。「全国政治新聞は組織者である」というテーゼはそれでございましょう。「通信員」システムは、単なる「情報」提供ではなく、実践経験の交換であり、生きた「組織」であり、ロシアのあらゆるところでの闘いのネットワークが、亡命革命家を中心にした秘密組織に生命力を送り込む基本要素と考えられていたのではないでしょうか。

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若干の感想 投稿者:小西まこと  投稿日: 2月11日(月)17時02分52秒

まずは、鬼薔薇さんの意見に対しての感想です。
 
〉〉「ブルジョア民主主義」対「プロレタリア民主主義」というカテゴリー的な区別にどれほどの意味があるのか、わたしよくわかりません。「人権」「民主主義」というのは近代以後の歴史的な概念で、人類普遍的なものとは考えられません

 人権・民主主義が近代以後の歴史的概念であることは確かですが、これをマルクスやレーニンは発展させることができたでしょうか? とりわけレーニンのプロレタリア民主主義論は、新左翼運動に大きな影響を与えていると思いますが、この民主主義論の把握の問題が、内ゲバの根本的要因にあるように思えます。
 これは蝉丸さんへの質問でもありますが、トロツキーにはプロレタリア民主主義論の具体的理論はあるのでしょうか? 複数政党制や分派の自由が大きなプロレタリア民主主義の原則であることはわかりますか゛、これだけでは僕は不十分のように思えるのです(一応、僕らの世代は現代思潮社の「トロツキー選集は全巻読んでいます。もちろん、ロシア革命史や我が生涯も)
 僕にはトロツキーのプロ民主主義論は、レーニンのそれの踏襲でしかないように思えるのですが。
 ーーー「天賦人権論」も、しっかり考慮する問題だと思いますが。

一同窓生さんへ
 「検証 内ゲバ」本へのコメント、ありがとうございます。
 ご意見の「民主集中性には分派禁止の概念は含まれない」というのはその通りだと思います。また、レーニンとボリシェビィキのそれは、書かれているような事実であっと思います。
 ただ、問題は分派の自由(第四インター派の複数政党制を含む)だけで組織内(外)の民主主義は本当に確保されるのでしょうか。 
 一九〇五年前後のトロツキーのレーニン組織論の批判ーこれはローザの批判と共通しますがーは今から考えると相当の正しさを含んでいるのではないでしょうか。
 正確な引用は忘れましたが「階級の独裁が党の独裁、個人の独裁になる」というような批判です。
 つまり、民主集中論のもつ「危険性」です。これは共産党のそれも含めて実態的検証が
必要と思います。(僕はレーニン組織論は、組織論として未だ越えられていない最大の組織論だと思っています)
 組織論については、僕自身、自分の今後の課題だと思っています。
 問題は「革命党・前衛党」が必要であるとするならば、もはや、組織内部における組織員の意見(外部の意見を含む)が全面的に体現されない組織は、「歴史的」に存在価値がないように思えます。これは分派の自由だけでは不十分です。引用されている第四インターの規約は、しっかりしていると思いますが。
 全ての路線・方針が日常的に「政治局」や「大会」ではなく、組織員の大衆討議で決められる、ということはネット時代の今日、不可能ではないでしょう。この意味で、僕は「民主分権性」ないし「ネットワーク型」の革命党組織論が必要ではないか、という大胆な(冒険的な)論を出しています。
 (「かけはし」も民主集中性をとっているのですね。統一共産同やブント諸派もまだこの論をとっているのが不思議です)

 以前の論議について一言
 内ゲバ本にも書きましたが、文書で「唯一前衛党論」をいっているのは、革マルはだけです。中核派では紙で書いたものはありません。中核派は七〇年前後までは「統一戦線」を主張していましたから「複数政党論が、その頃までは実践的にはあったと思います。
分派禁止も紙に書いたものはありません。しかし、実際は分派禁止です(01年2月、「我々は分派は禁止していない。だが、白井朗は分派ではない」と初めて分派承認を打ち出しました)ー革マルは一貫して「分派」を承認しています。が、分派が発生したらゲバっていることは周知の通りです。
 つまり、この現実でみるのは、規約はそうとう大事ですが、これが現実にどう生かされているかも重要です。

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ローザについて過去の活動経験から 投稿者:まっぺん  投稿日: 2月11日(月)14時15分58秒

「日本の第四インターはローザについてどう考えていたか?」について私の活動経験から考えてみます。
当時は日本の第四インターは、理論としては「アジア革命派」=「ウルトラパブロ主義」で、行動も「カゲキ」でした。
三里塚闘争についても、開講阻止決戦に典型的なのですが、日本支部方針は、
統一書記局かフランス支部か知らないけど、とにかくヨーロッパの第四インターとは方針がちがっていたらしい。
以前にここでも話題になりましたが、実力突入闘争を「やめたほうがいい」と言われたらしいですね。
当時のそのへんの事情は下っ端の私よりは菊さんの方がよくご存じと思います。
日本支部の傾向はローザに対し「レーニン主義」を対置するという立場にあったのだと思います。
解放派に対する典型的なインターの批判として「自然発生性への拝き」という批判があったのを覚えています。

しかし、80年代か90年代になってかわかりませんが、日本支部のローザに対するアプローチも変化したようです。
これは「レーニン主義」についての見直しと無関係ではないと思います。
「青年戦線」でもこの間、ローザの学習欄が連載されています。
それから「トロツキー研究」の創刊号(1991年)はローザ・ルクセンブルク特集号です。
余談ですが発刊あいさつを研究所長・塩川喜信氏が書いています。

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IWW=世界産業労働者です 投稿者:AIT久我山支部(準)@後衛  投稿日: 2月11日(月)14時11分53秒

 「アナルコサンジカリストジャーナル」のHP
      ↓
 http://www.bekkoame.ne.jp/~rruaitjtko/

 のリンクには,世界のアナルコサンジカリズム関係のアドレスが出ています。

 IWW(世界産業労働者)は,まさしく当時からの組織を受け継いで(といっ
ても実質的に,途中壊滅させられてますが)いるアナサンの組織です。
 映画「レッズ」で,主人公が死の床まで握っていたのが,このIWWのビラで
あったこと(無論脚色でしょうが)は,ロシア革命を語る上でも象徴的です。
 ということで,IWWのサイトは以下のとおり。

>>☆その他のアナルコ・サンディカリストのサイト。

 http://www.iww.org/

>>USAのIWW=世界産業労働者 のサイト。

>>Homepage of the One Big Union. Union stuff, news and lots of links

 http://www.geocities.com/CapitolHill/4811/

>>Swedish anarcho-syndicalist youth federation. In Swedish

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民主主義と生産者自治 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月11日(月)13時08分11秒

>臨夏さま

 興味深い点のコメント、ありがとうございました。
 
 「自由・平等・友愛」がフランス革命のギロチンとナポレオン戦争の血しぶきを浴びて世界史に登場したように、リンカーンのゲティスバーグ演説も、南北戦争という内乱(市民革命)をくぐって近代アメリカの精神的基軸となったものとわたし理解しております。「歴史的概念」と申しましたのもこうした文脈のことでございます。そうした市民(ブルジョア)革命を、この日本やあのロシアがくぐるとすればどこに歴史的な契機があったのか、検証すべき大事な点でございますね。市民(ブルジョア)革命が宣言し、人類史に残した課題は、社会主義革命が引き継がなければならないのでしょう。それを部分的にでも達成しなければ、社会主義革命そのものを手元に引き寄せられないような課題でもございましょう。

 マルクスはあの時代、フランス、アメリカとの対比でドイツを考えておりましたしたが、その後の資本主義の発達と労働運動の発展期に、レーニンもアメリカに注目しておりました。テーラー・システムと、そしてIWW(国際労働なんとか組合、ごめんなさい、文献が手元になくて、正式名が出てきません^^;))。IWWへの注目は、イタリア評議会運動とならんで、「生産者自治」の動きをそこに見たためと思います(フランス・サンディカリズムについてはどうだったかしら。時代が少しずれていたかもしれません)。ロシアでは主として政権奪取後の課題であらざるをえなかったものが、アメリカや西欧ではむしろ政権奪取に先立つ重要課題になるという点が、「世界革命」論者レーニンの関心だったかもわかりません。
 
 ここは、通行人さんご言及の「階級形成論」に直接関連するところかと存じます。「工場の規律」をめぐるレーニンとルクセンブルクの視角のちがいは、当時のロシアとドイツの産業社会の成熟度の差を、したがってまた「階級形成」が課題となる実践次元の差を、映し出していたと思います。この点、発達した産業社会の運動により示唆的なのは、もちろんルクセンブルクの説でございましょう。
 
 表三郎さんという方、お師匠さんと仰っておいででしたが、ご参考の論文の掲載された『情況』誌、いつのものか教えていただけますか? できたら読ませていただきたく思います。『情況』って、昔はときどき読んだのですけど。
 
 フォイエルバハ再評価は、80年前後に山之内靖さんも取り上げておられたかと思うのですが、わたし不勉強のままでございます。テキスト、何をお読みでいらっしゃいますか?

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啄木もナロードニキじゃなかったのに 投稿者:通りすがり  投稿日: 2月11日(月)07時46分49秒

「V NAROFD!」と詠んだ気持ちがよくわかった。

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議論の合間に−協同倶楽部 投稿者:AIT久我山支部(準)@後衛  投稿日: 2月11日(月)03時06分11秒

 国労本部が,3度機動隊を導入して闘争団員への「統制処分」を決定して1週間。
基本的には,闘争団が如何に自活を継続するかが,大きな鍵になってきたように思い
ます。

 ということで,旭川を中心とする闘争団が「協同倶楽部」を立ち上げました。
 手の空いた方は,是非ご検討をお願いします。

 http://www8.ocn.ne.jp/~kyodou/syouhin.htm

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追加 投稿者:臨夏  投稿日: 2月11日(月)03時03分58秒

鬼薔薇さま>

人間は、成立からして、「対話的な」・「類的な」存在であるため、
それを表現する、自律的民主主義こそが、人類普遍の、永遠の体制や、などとわたしは考えております。
対話については、人類全史のなかで、これから検証していきたいです。とりあえず、フォイエルバッハ読んでおります。

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マルクスと民主主義 投稿者:臨夏  投稿日: 2月11日(月)01時56分52秒

ほんのちょびっとなんですが(^^;、、

鬼薔薇さま>
>「人権」「民主主義」というのは近代以後の歴史的な概念で、
>人類普遍的なものとは考えられません。

マルクスは、ヘーゲルの絶対知的な国家論に対して、
「〜民主主義は、人間にとって自然な、なんら特別でない体制〜」、という感じで言うてたと思います。
曰く、ヘーゲルの主張が、「体制の人間」
マルクスの駁論が、「人間の体制」。

ここでの民主主義は、人民自治論マ
リンカーンの、あまりに誤訳が多い、
「人民に対する、人民による、人民のための支配」(でしたかね??!
冒頭の、 of the people が、「人民の」でなく、人民に対する支配、というふうに
訳さんとおかしい、という論があるのです。)というスローガンに通底します。
マルクスは、ゲチスバーグでのリンカーンに、全面的な賛意を示しています。

わたしは、
「ブルジョア民主主義は、代議制であるが、
社会主義の民主主義は、人民の直接自治であり、アナーキズムにも近いもの」、とまとめております。

論拠もわからず、あいまいですみません。
90年代の『情況』の、表三郎論文がネタです。

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階級形成論は? 投稿者:通行人  投稿日: 2月11日(月)01時16分29秒

とうりすがりです。ローザ・『社会党・社青同解放派』を論ずるのであれば、やはり『階級形成論』を考慮にいれるべきでは?

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資本蓄積論 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月11日(月)00時41分51秒

>せみまるさま

>7年前に亡くなった第四インターの理論的指導者であり経済学者でもあったエルネスト・
>マンデルはローザの理論を高く評価し、組織の理論に反映させています。またマンデルは
>ローザの資本蓄積論に非常に注目し研究の結果として経済学的な業績を残していると評価
>されています。

 マルクス学派ではございませんが、イギリスのケンブリッジ派経済学者ジョーン・ロビンソンも「資本蓄積論」を高く評価し、自著に同名の書名を冠しておりますね。
 
 『蓄積論』については、第1篇の再生産標識論と、第3篇の世界市場論のどちらにウェイトを置くかで評価の仕方が変わってまいります。つまり、均衡論的理解と動態的理解と。これはルクセンブルクに限らずマルクス経済学の理解の基本に関わる分岐点でございましょう。ブハーリンや山田盛太郎は前者、ヴァルガや野呂栄太郎、猪俣津南雄は後者でした。わたし、『蓄積論』の理論的意義は、断然第3篇にあると存じます。ロビンソンがルクセンブルクの命題に触れているのも、「対外投資」の項でございます。
 
 今世紀初頭は、ホブソン、幸徳秋水、ヒルファーディング、レーニン、カウツキー、そしてルクセンブルクなど、「帝国主義」論が多彩に花開いた時期でございました。60年代新左翼各派もまた、「帝国主義の現代的規定」をめざして各派各様の理論構築を試みました。長谷部訳『蓄積論』が11年ぶりに青木文庫で増刷されたのもこの時期でございます。「ローザ派」を自称した解放派は、残念ながらこの点ではさしてみるべきものを残していないように思うのですが、日本の第4インターではどのような展開がなされたか、要点なりとご紹介いただければありがたく存じます。
 
※そういえば、「女性」という点でローザに注目した国際的な試みが少し前にございましたね。『検証』本の著者紹介をみますと、生田あいさんもそこにご参加だったようでございます。

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分派の自由 投稿者:れんげ  投稿日: 2月10日(日)23時35分30秒

 dkさんの紹介のなかで、PDSが党内「分派」を奨励して活性化しようとしていることに中国の若い研究者が目を輝かせている、という話が印象的でした。党と国家が一体化している中国ではなおさらでしょうが、「分派の自由」が言葉のもつ力を十全に発揮しうる通路となる世界が、確かにあるのだなという事例ではないでしょうか。言葉が封じられる場所には暴力が胚胎しますから、このことは重要だと思います。
 分派の自由によって、党内のすべての人に意見が伝えられること。
 複数政党制によって、すべての民衆に当該政党の意見が伝わること。
多数派を獲得できるのは「意見」の力次第だ、というのが民主主義のメカニズムではないですか。
あたり前ですけど。でもこれが左翼の常識にはなっていませんでした。

PS 解放派については、もうちょっと考えさせてください。

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2つの「CR」と市民社会 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月10日(日)23時00分15秒

>黒パンさま 70年代の警察の弾圧布陣のこと、詳しいメモをお示しいただき、当時の記憶がよみがえってまいりました。

 当時のメモを探すのに手間取りましたが、これには「前史」がございます。1968年末、府中刑務所近くで起こった「3億円事件」に続く「犯人探し」で、当時左翼活動家が多く在住していた三多摩地区でアパートのローラー作戦がかなり徹底的に行なわれました。結局犯人は捕まらずじまいでしたが、あるいはあの「3億円事件」がその後の一連のフレームアップのハシリであったかもわかりません。72年頃になって、あれは警察の自作自演であったという趣旨の記事が某週刊誌に載りましたが、その連載はなぜか早々に打ち切られてございます。

 この時のローラー作戦が、街の不動産屋や地主など地域ボスと密接な連携をもって行われたこと、いうまでもございません。69年には23区内では商店会、町内会組織と警察との連携が進み、デモ地域を中心に「自警団」づくりも進みました。68年初めの原子力空母エンタプライズ寄港阻止闘争で、佐世保現地での住民とデモ隊との交歓という予想外の事態を見せつけられた警察側からの対応であったと思われます。
 
 ご紹介ありました71年7月の警察庁総合対策委員会中間報告『1970年代の警察のあり方 国民と警察にかける橋』の背景には、その前年2月の警察庁「都市化に伴う警察の総合対策」、これにもとづく同年秋の全国警察機構の全面再編成がございました。この一連の動きを、当時の新聞は“昭和28年に発足した警察制度のはじめての大掛かりな総合対策”と評しておりました。この段階で治安警察権力と大衆運動との闘いは、街頭での物理的衝突から「市民社会」をめぐる攻防へ進んだと申せましょう。
 
 警察の「都市化対策」は、単に左翼対策の弾圧体制を企図しただけでなく、一般犯罪の検挙率が50%近くに下がる(2件に1件が“迷宮入り”)という警察機能そのものの構造的危機に対応しようとするものでもございました。新左翼の街頭実力闘争の展開は、その意味での社会的な「権力」構造をあぶり出したとも申せましょう。フレームアップは直接の弾圧とともに、「市民社会」から「左翼」を分断する「秩序形成」の攻撃でもございました。
 
 アメリカ仕込の「CR(コミュニティ・リレイションズ)」が警察組織の「都市化対応」再編を促したのに対し、80年代の終わり頃から別の「CR」が(おそらくこれもアメリカから)持ち込まれました。CR=コンシャスネス・レイジング----「意識の発揚」とでも申すのでしょうか、同じ悩みを持つ者同士が集まってそれぞれの事情を語り合い、共感しあい、癒し合うという「運動」でございます。これは、コミュニティが実体として解体した社会状況における人為的・観念的コミュニティ形成の試みといえるかもわかりません。そして、マーケティングにおける「差別化」という用語法さながら、こうした“共感の共同体”運動は同質性を追求することから、少しの差異で相互に排他的な関係を増幅する傾向をも示しました。革マル派も連合赤軍もオウムも、こうしたものと相通ずる心理的契機を内在させていたことと思います。いわゆる「ヒーリング」ものが、書籍からCDから、山のように商品化され市場を得ている現状は、こうしたものを再生産する社会基盤の存在を示しているのでございましょう。
 
 「爆弾闘争」も、街頭闘争の急進化から「軍事主義」への転倒的延長も、「市民社会」問題を射程に入れた総括を迫る問題でございましょう。『検証』本で生田さんも触れておいでですが、「アソシエーション(協同社会)」に着目した最近のマルクス再評価の試みなども、こうした関連のなかで検討されるべきものかと存じます。

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「民主主義」のこと・1 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 2月10日(日)22時56分45秒

「>小西さま

>鬼薔薇さん。このプロレタリア民主主義論の問題について提起して貰えませんか?

 なぜまたこんな大問題がわたしなどに振られたのか、考えあぐねております。
 
> 恐らく、全共闘世代の皆さんは理解するでしょうが、我々の世代は「戦後民主主義を
>乗り越える」「ブル>ジョア民主主義を乗り越える」として、結局はレーニンのプロレタ
>リア民主主義論に依拠したわけです。

 「ブルジョア民主主義」対「プロレタリア民主主義」というカテゴリー的な区別にどれほどの意味があるのか、わたしよくわかりません。「人権」「民主主義」というのは近代以後の歴史的な概念で、人類普遍的なものとは考えられません。またそれが「暴力」と対極にあるとも思えません。これらはフランス市民(ブルジョア)革命が宣言したものですけど、それはギロチンの血の滴りを浴びてこの世に登場したのでございました(フランスでは今も死刑の方法はギロチンですね)。
 
 ヨーロッパには個人の尊重と成熟した民主主義の伝統があるのにこの日本にはそれが欠けていると言われればなるほどそうかとも思いつつ、「進んだヨーロッパ」対「遅れた日本」という対比となると、ちょっと待ってほしい気持ちになります。こうした対比は、他ならぬ「戦後民主主義」の近代主義的な図式でございましたし、ここには「権力」の問題がスッポリ抜けております。
 
 「民主主義」と一言でいわれますが、@手続きとしての「民主主義」、A制度としての「民主主義」、B支配(体制)秩序としての「民主主義」、C行動(対抗)原理としての「民主主義」、そしてD私生活原理としての「民主主義」など、いくつかの範疇を数えることができましょう。これらは相互に関連し合い、また矛盾し合っております(レーニンは「民主主義もまたひとつの矛盾である」といった意味の言葉を残しながら、内容は未展開のままでございました)。

 「分派の容認」とか「言論の自由」とかは組織内での@やAの問題でしょうし、選挙と代議制はAの範疇に属しましょう。全共闘運動が槍玉にあげた「戦後民主主義」は、なによりBと捉えられたものだったことでしょう。あの運動は、「戦後民主主義」の変質態に対する対抗運動=大衆的な反乱だったはずでございます。そして、その反乱を支えたのは、Dの私的原理を身に着けた個々人の「正義」の感覚にもとづくCの行動原理だったのではないでしょうか。そこに「プロレタリア民主主義」という観念をあてはめるのは、どこか基本的な錯誤があったように思うのでございます。

 「内ゲバ」との関連で「民主主義」が問題になるとき、それは何より闘う主体の自己規律の問題でございましょう。「闘う主体」を問題にするなら、「闘い」自体の内容が問われます。67−69年の闘いは、一方での学園闘争、他方での安保・沖縄を主題とする政治闘争でございました。その両者の関連も含めて、当時の闘いの展望と構想を抜きにするわけにはまいりません。また、その闘いが大衆武装(「実力闘争」)として表現されたこと、その退潮期に多くの党派が「軍事主義」へ傾斜したこと、それと「内ゲバ」の「暴力」との関連も、重大な要素として考えることが必要かと存じます。

 とりあえず問題の枠を風呂敷みたいに広げた上で、「権力」の問題を念頭に、少しづつ考えを進めてみたく思います。

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議論の方向性について 投稿者:れんげ  投稿日: 2月10日(日)22時35分35秒

 ↓の黒目さんの意見に賛成です。私としては「内ゲバ」をいかに克服していくか、という問題意識が第一にあり、自分自身は現在マルクス主義者ではありませんから、「トロツキズム」を厳密に定義することにはあまり関心はありません。ことのついでに「真性トロツキスト」の方に訊いてしまいましたが。概念の整理は知的な快楽ですから、つい本来の目的を忘れてしまいがちです。
 2.3シンポのときに思ったのですが、会場からの発言が「自由に」、それこそ各人思いっきり言いたいことを展開していました。様々な論点を提出するという意味では有効ですが、各意見が切り結んで新たな共通認識を形成していくという方向には収斂していきませんでした。せいぜいパネラーとの一往復の意見交換で終わっていましたね。時間の制約もあって難しいところですが、やっぱり本当にスタート地点に立ったばかりという感じです。
 掲示板で「司会進行」というのも、さてどうしたものか、できるのかな?という気がしますが、まずは各人が論点が拡散しないように意識していくということでしょう。
 分科会みたいに部屋が分かれていると便利なんですけどね。

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「司会進行の人」が必要だろうか? 投稿者:黒目  投稿日: 2月10日(日)21時44分27秒

幾つかの論点がでて、それがほったらかしになりつつ、ギロンが進行しちゃっている、という状態だと思うのですが、
1.第4インター日本支部と、「内ゲバ反対」スローガン、絡みの話
2.ヨーロッパの情勢関係
3.「トロツキズム」そのものについて
4.「内ゲバ」という現象について

ちょっと、ほったらかしにするには惜しい論点がいくつもあると思います。
あるいは「内ゲバ板」を別個に設置するようでしょうか?

んでですね、話の流れとしては、「どういった考え方が正統的であるか」てな方面に、幾度も回収されてしまうような塩梅であると思います。
某所で、それは「信教の自由」の問題である、というような話もでておりますが(苦笑

 俺としては、既に状況は、なにがレーニン主義、あるいはマルクス主義の正統であるか、てな事で、情勢を考える事などに意味はない状態である、と考えています。むしろ、内ゲバについて、なんつーか、社会学的(あるいは文化人類学的)にアプローチしやな、一体、なにが、なんで起こったのか、という事を見る事は出来ないのではないか、と考えます。

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「民主集中制」と「分派の禁止」 投稿者:一同窓生  投稿日: 2月10日(日)19時57分56秒

これについて小西さんが「検証・内ゲバ」P78で『この理論(=民主集中制)は党内異論・
分派の否定として現れており、またレーニンが言う「公開性・選挙制の原則」をも否定
している』と述べていますが、私の見解と異なるので、すこし論点整理してみます。

「民主集中制」は「民主主義的中央集権制」とも言われます。後者のほうが言葉としての
意味づけがハッキリするので議論はしやすいかもしれません。そもそも「民主」という単語と
「集中」あるいは「中央集権」という単語が矛盾するあるいは背反する意味を持っています。
したがって、使われ方もある時は「民主」を強調したり、ある時は「集中」「中央集権」を
強調したりということがあり、政治的な状況によって使い分けられるという多難な運命を持っ
た言葉でもあると思います。

 渓内謙氏の「現代社会主義の省察」(岩波現代選書)P14によれば「民主主義的中央集権主義」
はロシア社会民主労働党1905年12月の第1回党協議会の規約に明記されているとし、その
時点では「指導の中央集権制」「広範な選挙制」「最も広範は公開制」「幹部の定期的更迭」
が必要とみなし、翌年の第4回合同党大会では「党内問題についての完全な批判の自由」「少数
意見保持の権利」「さらには分派、諸傾向の権利の保障」が含まれていた、としています。

 「分派の禁止」の決定は1921年のロシア共産党第10回大会の決議「党の統一について」
だと言われています(「レーニン「遺書」物語」、P148、藤井一行著、教育史料出版会」
など多数に記載あり)。その後、党内民主主義の回復を訴えた「46人声明」を「フラクション
的分裂政策の一歩」として断罪していくわけですが、これが分派活動を根拠とする具体的処分の
最初だと藤井氏は書いています。実際は冤罪だったと思われますが、スターリンはこの手法
で後の独裁体制を築くわけで、「分派の禁止」はきわめて重要なキーワードだと認識できます。

 すなわち歴史的に見ると「民主主義的中央集権制」には「分派禁止」の概念は含まれていなかった、
と言うのが正しいと思います。「民主主義的中央集権制」の骨格は、多数決の決定には少数派は
行動においては従うが、党内で批判する権利と次回大会まで多数派をめざして活動する権利を
持つということだと思います。「分派の禁止」は「民主主義的中央集権制」とは別概念であるし、
状況においては撤回されるべきものではなかったかと思います。

 第3インタナショナルの末裔たる共産党やブント諸派、第四インタナショナルと決別した中核・
革マルは、この「分派の自由」を回復したという話は聞いたことがありませんが、第四インタ
ナショナル(統一書記局派)は国際規約で分派の権利を回復・保証しています(1965年第8回世界
大会に草案提出、1974年第10回世界大会で採択)。以下引用。

----------------- 引用(国際革命文庫「過渡的綱領」デジタル版より) --------------
g 決定は多数決によらなければならない。少数派は多数決定を遂行する義務がある。しかし
ながら、少数派は明示された政綱にもとづいて傾向や分派を形成する当然の権利をもっており、
次のような民主的諸権利をもつ。
――全国大会をまえにする予備討論期間に、当該支部全メンバーにその見解を提示すること。
――世界大会討論の期間に、内部通報をつうじてインターナショナルの全メンバーにその見解を
提示すること。
――その政治的および数的重要性を適切に考慮して指導機関に選出されること。このことは、
いかに少数であってもあらゆる少数派が指導機関に選出されうるということではない。また少数派
の数的力に比例した代表を意味するものではない。第四インターナショナルは多数規則にしたがう
ものであって、このことは鋭い対立があるとき多数派が実効ある多数を確保する権利をみとめる。
だが、少数派の権利を擁護することは多数派の義務であり、このことは少数派が少数派の立場を
保持することによって罰せられることがないということである

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理論は運動とともに前進させるもの 投稿者:せみまる  投稿日: 2月10日(日)17時25分44秒

> トロツキーがローザのレーニン主義批判を受け入れた、という話では、そもそもでんでん無い
という事を黒目さんは重視していますね。トロツキーの生涯全体を見ると、組織の民主主義について思うところがあります。

(1)1903〜6年ころ、トロツキーはレーニンのボリシェビキに対してメンシェビキ、その後は「統一派」の立場から「官僚主義」を激しく批判していました。ローザと非常に近い立場であるといえます。

(2)1920年の第10回大会では分派の自由をめぐってレーニンと衝突していますが、一方「党の独裁」を承認しています。これはローザと対立するものでしょう。

その時の情勢との関係から考えなくてはいけませんが、トロツキーはずいぶんと違った立場を表明しているように見えます。しかし、それは1920年までのトロツキーの立場に限っての考察です。トロツキーによって創設された第四インターナショナルは、その後60年以上続く運動の歴史の中で新しい経験をもとに「トロツキズム理論」を深化させています。そうした歴史を無視して、まるでトロツキズムが「1940年の時点で時間が止まっている」ような解釈をするのはまちがいだと思います。むしろそのような立場の方が「反トロツキー教条主義」というべきではないでしょうか?

7年前に亡くなった第四インターの理論的指導者であり経済学者でもあったエルネスト・マンデルはローザの理論を高く評価し、組織の理論に反映させています。またマンデルはローザの資本蓄積論に非常に注目し研究の結果として経済学的な業績を残していると評価されています。

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疑問:ヨーロッパにローザ派はいなかったのか? 投稿者:せみまる  投稿日: 2月10日(日)16時33分19秒

日本のローザ派といってもいい解放派は内ゲバのドロ沼に沈んでしまったわけですが
ヨーロッパにローザ派はいなかったのか、が気になりますね。ご存じの方はいませんか?

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喧嘩はどんどん売ってください(^^) 投稿者:せみまる  投稿日: 2月10日(日)16時31分21秒

>「正しいトロツキズム」の組織論の結果が、現状の、「元第4インター日本支部」諸派のありかたなのでしょうか?
>そうなのであれば、「トロツキズムの組織論」、かなり再検討の余地があるように思いますが?

インターナショナル建設、つまり国際的革命党建設そのものが「トロツキズムの組織論」の実践です。黒目さんが「再検討」と言っているのは「インターナショナルそれ自身をやめちゃえ!」という意味ですか? それともその一部である「旧日本支部」の失敗のことを言っているのですか? 日本支部の事を言っているようですね? それなら「トロツキズム組織論の再検討」ではなく「日本における適用の失敗についての再検討」という事ではないでしょうか? そういう意味ならば、黒目さんの指摘は正しいと思います。旧日本支部諸派がどう「再検討」するかは、ま、いっしょに観察しましょう。
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加藤哲朗さんのホームページより 投稿者:dk  投稿日: 2月10日(日)10時49分15秒

この間の論争に、少し関係すると思われますので、転載します。
やはり、共産主義/社会主義的「党」は、党であると同時に運動団体であって欲しい。
−−−−−−−−
メインの国際会議の方は、中国側の出席者が北京大学はじめ有力大学の国際関係研究者のほか、社会科学院・中央党学校イデオロギー幹部等100人近くが出席。私のペーパーは「日本の既存社会主義運動に未来はない」という観点からの報告だったので、はじめは緊張していたのですが、共産党一党支配の続く中国の政治も、大きく変わりつつあるようです。かの『歴史の審判』(石堂清倫訳『共産主義とは何か』三一書房)のメドヴェーデフ博士(写真左)をよんで「ソ連崩壊の要因」を研究し始めたこと自体画期的ですが、「社会主義」といっても旧来の国際共産主義運動はもっぱら「失政の教訓」として扱われ、もともと「社会主義と市場経済」を結びつけてきたヨーロッパ社会民主主義の経験、緑の党などを真摯に研究する姿勢が、印象的でした。私の報告は、「社会主義」概念をフランス革命期まで遡って再検討し、「インターネット時代の情報戦」と日本の社会運動に即した「市民運動・NGO・NPOの重要性」を指摘して、特に若手研究者からは大歓迎されました。古参イデオロギー幹部が「レーニンやローザ・ルクセンブルグも社会主義と民主主義の結合の重要性を述べていた」という類の旧来型説明で市場経済化から民主化への共産党主導での「秩序ある移行」を語るのに対し、文化大革命も知らない若い世代が、民主主義の指標は自由選挙と複数政党制だとか、共産党の指導を前提するならば党内「分派」や言論の自由を認めなければ民主主義とはいえない、と率直に語っているのが、新鮮でした。ただし、「市場経済」が「民主化」を自動的にもたらすような楽観論も目立ち、私は「20世紀日本の教訓」として、市場経済のもとで工業化・都市化が進むことは階層的・地域的格差の拡大を意味し、政治的民主主義にとってはむしろ新たな困難な課題をもたらすこと、中国が共産党指導下で工業化に成功しても、それは「社会主義の威信回復」につながるものではなく、先進資本主義国ではむしろ、ソ連と同じ「社会主義から資本主義へ」の開発独裁型近代化と受けとめられるだけであり、むしろ環境・生態系保護や社会的弱者救済・労働者福祉で特色を示さなければ西欧社会民主主義への合流も難しいこと、を率直に述べました。ドイツPDS(旧東独地域の民主社会主義党)のインマさんの報告も、私の報告と共通する点が多く、特に「なぜPDSはSPD(社会民主党)に合流しようとしないのか」という質問に、PDSは政党であると同時に社会運動でもあろうとしており、それを保証するために「民主集中制」型の集権的組織を採らず、むしろ党内「分派」を奨励して活性化しようとしている、と述べた時には、若い研究者は眼を輝かせ、古参イデオロギー幹部は渋い表情で、中国でも不可避になった世代の断絶が印象的でした。メドヴェーデフ博士には、名著『歴史の審判』は日本でもいまだに読み継がれているが、その翻訳者であった石堂清倫さんが亡くなったことを、お知らせしました。

http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml

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なんだか2ちゃんでいじられちゃってますが(苦笑 投稿者:黒目  投稿日: 2月10日(日)10時14分30秒

大抵の場合は、セクトに対してこーゆーギロンを吹っ掛けた場合、
1.全然関係ない話、「熱き思い」とか「昔は本気で闘った」とか、そおゆう類の話にすり替える
2.ドーカツする
3.2ちゃんで煽る(ワラ
というような類の応対がなされ、全然お話にならない、つーのが常でありまして、
こおやってやりとりが成立してる時点で、第4インターは相対的にはものすごくまともな党派である、という風に考えております。
まあ、「一般の状況」の方がトホホにすぎるのですが(ワラ

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別に4トロに喧嘩売りに来てるわけではないのですが(苦笑 投稿者:黒目  投稿日: 2月10日(日)00時07分03秒

 実際、わけわかんな話であると思いますので

>しかし、自らの組織論はなかった。というよりも、実践の中で組織建設
に成功する前に殺されてしまったわけです。もしもドイツ革命がローザ等
の指導によって成功していれば「ローザ組織論」はレーニンの組織論とは
ちがった形で形成されていたかもしれません。解放派はこのローザの物理
的限界をそのまま引き継いでいたのではないでしょうか?

そんなん、まさにトロツキーは自らがなしたロシア革命からスターリン主義を発生させ、自らの革命の途上で殺されてしまったではないですか?また、「正しいトロツキズム」の組織論の結果が、現状の、「元第4インター日本支部」諸派のありかたなのでしょうか?そうなのであれば、「トロツキズムの組織論」、かなり再検討の余地があるように思いますが?

マンデルがなんと言ってるか知りませんが、元ネタは、トロツキーが、スターリンがレーニン派と社民派を分類して見せたときに、ローザをカウツキーの一派として整理した、という事に対して、噛み付いたものであると思います。
「ローザは我々の仲間である」という言い方をしていたと思います。
これは勿論、自らがレーニン主義正当派である、という自覚の上にたった発言であって、また、ベルンシュタイン派vsレーニン派、という関係の中でのポジションの話であって、トロツキーがローザのレーニン主義批判を受け入れた、という話では、そもそもでんでん無いと思いますが。

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