四トロ同窓会二次会 2003年8月19日〜21日

誰でも歓迎!何でも自由に投稿してください。
投稿内容は過去ログに保存します。「赤色土竜新聞」その他に掲載する場合もあります。
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黒目 さま 投稿者: 伝説のワル  投稿日: 8月21日(木)10時54分55秒

いつも、いいご意見勉強になります。有り難うございます。ところで、2ちゃんねらーって何人のことをおっしゃっているのでしょうか。それともなにか思想的な人のことを2ちゃんねらーと言うのでしょうか。よく目にしますが、わからなくて・・・教えていただければ嬉しいです。好奇心ばかり強くて・・・すみません。

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レス・名前が書いてありません様 投稿者: 伝説のワル  投稿日: 8月21日(木)10時32分05秒

>悪意があってもたった一人じゃ、威力を持たないんですね・・・いいえ、都知事は一人でも威力(影響力?)を感じます。悪意があるか、ないか・・・その場にいたら子供でもわかると思いますが・・。つうか、私は言葉ばかりが制限されている今の世の中が異常な気もしています。確かに悪意はなくても「善人のもっている無神経さ」も人を傷つけていることはあります。・・・えーっとなんだかごめんなさい。一生懸命答えようとすればするほど、自分の言いたかったことから遠ざかっていくようで・・・しばらく考えてみます。

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>悪意を持って使わなければ差別用語ではない 投稿者:.  投稿日: 8月21日(木)06時35分47秒

知らないうちに絡め捕られない自信があるならばね。
例えば極端な話、「あのひと馬鹿ジャン。」って周りの人が全員言い出したらどうしますか?いや、自分は悪意を持ってないんだっていっても、相手はどう感じますかね。

っていうか、悪意があってもたった一人じゃ、威力を持たないんですね。逆を言うと、1人ひとりは悪意がなかったとしても、それが集まれば巨大な威力を持つと思うよ。
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考えさせられました 投稿者: 伝説のワル  投稿日: 8月21日(木)02時56分27秒

みなさまの貴重なご意見・・・色々な思いで読まさせていただきました。有り難うございます。私は、いいことも、悪いことも、こうして大人の人達から学んでいっているんだなぁって、素直に思いました。生意気書いてごめんなさい。私はいわゆる差別用語は、悪意(攻撃や憎しみも含め)を持って使わなければ差別用語ではない言葉はたくさんあるんじゃないかなと思っています。この頃・・・と言っても(中等部の三年の時ですが)差別用語?に敏感になりすぎているのではないかなぁと感じはじめました。ニュースキャスターの人が「先程の説明の中で不適切な表現がありましたことをお詫びいたします」と言われても(このあたりから、考えるようになったのですが)まったく何が不適切なのか恥ずかしいけどわかりませんでした。今でもその時のどの言葉が不適切だったのかわかりません。最近はニュースのおかげで、やっと在日と不法滞在者の区別がつくようになりました。リアルではまわりに在日と称する人がいないので、正直その時にならないとわかりませんが「だからなに?ずーっと日本で生まれ日本に住んでいるんでしょ!たまたま日本人じゃないだけでしよう?」の気持ちをもっています。だけど私の親に「ね、ね、私に在日の友達が出来たらどうする?」って聞いたら明らかに動揺していました。
私は冗談で聞いたので忘れていましたら三日後に「どこで知り合ったの?」と聞かれ「誰と?」と問いましたら「そのおぉぉ・・・在日の友達と言う人・・・」その時強く思いました。我が家は「在日」とお友達になることは、大変なことなんだと・・・私事ですみません・・・例えばの話ですが、こうして私たちは知らないでいいことも身近な大人から感じて、いつの間にか心の中で差別的になったりしていってるような気もするのです。もちろん最終的には自分が決めればいいことなんですが、常日頃「人には優しく、思いやりを持って、先入観で判断する人間にはならないで欲しい」とうるさいくらいに言う親でさえも「対岸の火事、自分にふりかかるとこうなんだ・」って、心底がっかりしました。幸か不幸か今のところ親を心配させることもありませんが、いつかは反抗する時がくるかもしれないし、又は親と同じ考えになるのかもしれません。私は今、全てにおいて発展途上人だと思っています。だからここで色々な考えを聞きたいのだと思います。かなり程度の低い事を書いてるのかもしれません。ここの掲示板の趣旨を落としていたら、ごめんなさい。私はいっぱい学びたいのです・・・もちろん自分のためなので、ご迷惑をかけていましたら、どうぞ、ご指摘、ご指導を宜しくお願いします。野次馬さま・・・いいサイトを教えていただき有り難うございます。

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しかし、 投稿者:黒目  投稿日: 8月21日(木)00時52分27秒

コジコジさん、
>「シナ」に関して言えば、勘違いな反差別主義がつくりだした「差別用
語」でしょう。「シナ」という言葉が「社会的」に排斥されたのは1972年の
国交回復以降です。その点に関しては、残念ながら石原が正しいといわざ
るを得ません。

というのは端的に間違ってるんじゃないでしょうか?
中国政府自身が、「それは蔑視を表す語であるから使うな」と表明してい
る、という事実があり、それを「勘違いな反差別運動」が言い出した事で
あるからという理由ですっとばしていいという事にはそもそもなりえない
のではないですか?
また、これは日本に在住した中国人の人々が、日本において「シナ」とい
う語が差別的ニュアンスで使用されているという事実を持ち帰った事か
ら、これが問題化されてきた訳ですが、この日本在住経験のある中国人が
受けた差別、それを回復しようとする運動、これは「勘違いな反差別運
動」でしょうか?
また、「語源は『秦』が訛ったものであるから、そもそも差別性はない」
てな主張がなされる訳ですが、「ジャップ」というのもそもそもは
「JAPANが訛ったもの」に決まっておるわけです。このことが「ジャッ
プ」という語に差別性がないという事を意味するでしょうか?

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猛獣文士さんへ 投稿者:コジコジ  投稿日: 8月21日(木)00時29分10秒

【石原都知事があえてシナという呼称にこだわるのは、明らかに政治的な意図があると思います。】全くそのとおりだと思います。私としては“ミギッパ”の2チャンネラーと同様にうけとめられてしまうような書き込みをしてしまったのかな…と若干反省しております。私は“シナ”とは絶対に表現、表記しませんし、周囲にそのような人間がいたら、不快感を持ちます。ただ、それはそのような感覚を持つ者同士でのことです(私は70年代の反差別闘争の問題はそこいらにあるのでは、とも思うのですが)。他人の神経を逆なですることに矮小な喜びを感じるようなくだらない2チャンネラー的ミギッパと受け止められたのだとしたら実に心外なので、一応…。そして黒目さんへ…↓の内容については共有しているつもりです。それを深化させたいと思うがための書き込みだったのですが、ちょっと入り口がずれちゃったかなぁ、という思いです。
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インドシナ 投稿者:葉寺覚明  投稿日: 8月20日(水)23時58分49秒

中核派は「インドチャイナ」と書いていますし、どこの誰が書いたか忘れましたが
「インド中国」と書いている文献もあります。念のため。

ちなみに、文革期には「印度支那」とピケを張った人民解放軍の例があります。
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義さんが言われるところの「公と私」的な問題として 投稿者:黒目  投稿日: 8月20日(水)23時48分33秒

中国自身が「シナと言うな、中国と呼べ」とはっきりと言っているところへさして、「シナシナ」といちびって言うような、んな2ちゃんねらーみたいなんが政治家やっているという、実に寒々とした状況があるわけですが、こんなん、おもてをフルチンで歩いているような状態なんじゃないかと常々思っているのですが。
「日本人として恥ずかしい」的なナショナルアイデンティティが生まれる瞬間ですね(w

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まっぺんさん、それは、屁理屈では 投稿者:猛獣文士  投稿日: 8月20日(水)23時43分18秒

インドシナは固有名詞で、この呼称を変えろという話は聞いたことはありません。前のリンク先に記されていたとおり、東シナ海には一定の反発があり、東中国海と書き換える団体もいるようです。
シナチクは最近はメンマというほうが一般的だと思います。

ラーメンを特に「シナそば」などといいたい人が最近いるようですが、これは私でも不快な感じがします。もちろん、禁止するかどうかという問題ではありません。

石原都知事があえてシナという呼称にこだわるのは、明らかに政治的な意図があると思います。

モハンメッドアリというボクサーがいまして、彼の改名前の名前はカシアスクレーでした。どうしても、彼をクレーと呼びたい人がいても、仕方のないことでしょうが、多くの人はそう呼んでいません。アリいわく、カシアスクレーは奴隷の名前だった。しかし、この実感は私にはありません。しかし、クレーはニュートラルな言葉だといって擁護する必要性は感じません。

念のため、シナは自称であったことはないようです。

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一般論としては 投稿者:noiz  投稿日: 8月20日(水)23時34分11秒

>社会的活動を行っているあらゆるものへのシュプレヒコールは当然認められるべきです

だというのは当然のことではありませんか? 教会だろうが神社だろうが何だろうが、「社会的活動を行っているもの」であれば、です。M2さんはあえて問われているようですが、バーター論にする必要は微塵もないと考えます。

ヤスクニでのことは固有の状況があるわけで、その固有性に依拠して書き込みをしています。暴力(論)の是非についてはまた議論を深める必要があるとは思いますが、、、、さて。
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この場でこのようなことを申しても欺瞞的ナだけだとは思うのですが 投稿者:酒井徹  投稿日: 8月20日(水)21時05分59秒

黒目さん、お返事ありがとうございます。

黒目さんのおっしゃるとおり、
「当然認められるべきです」との僕の発言は、
「誰がどう『認める』」のかがよくわからない
不適当・不正確なものでありました。
お詫びして、以下のように訂正いたします。

まず僕は、
右翼団体がキリスト教会の行動や教義を糾弾しようと考えている場合、
キリスト教の教会に向かってデモ行進をし、
シュプレヒコールをすることを正当な権利であると「認め」ています。
これは、左翼団体が靖国神社の行動や教義を糾弾しようと考える場合、
靖国神社に向かってデモ行進をし、
シュプレヒコールをすることを正当であると「認め」ているのと同じです。

次に、こうした行動を行政が、
「あそこは『信仰の場』であるからデモ行進をするのはだめだ」などと規制することは
許されないと思います。
少なくとも、僕はそのような規制を正当なものとは「認め」ません。

三番目に、これは僕の希望にすぎないのですが、
「押しかけられる」側の人々に、
どうか抗議行動の(内容は「認め」なくとも)
存在自体は「認め」てほしいと願うのです。
確かに「信仰の場」に押しかけられた靖国神社の参拝客や教会の信者にとっては
抗議行動は腹立たしいものかもしれません。
僕も今年の「みどりの日」、反天皇制のデモに参加した際、
右翼団体が街宣車を使ってデモ隊の周りにまとわりつき、
わけの分からない罵声を浴びせかけてきたので、
非常に腹が立ちました。

が、あの右翼団体が街宣車を使って僕たちに抗議したこと自体を
不当であるとは思っていません。
僕たちはデモ行進の中で、
シュプレヒコールで堂々と天皇制を批判しました。
そうである以上、天皇制を支持する彼らが
街宣車を使って僕たちを批判する権利も
やはり認めなければならないと思っています。

しかし、それはあくまで抗議の手段が
「言論」の範囲内にとどまっていた場合の話です。
自らも「日米安保反対」を前面に押し立てて闘う政治団体でありながら、
「日米安保に反対する集会」を襲撃し、
しかも自分たちが襲撃しておきながら官憲に泣きつくなどとは
はっきり言って言語道断としか言いようがありません。

僕は決して「一水会の支持者」ではありませんが、
一水会顧問の鈴木邦男氏のホームページに身を置く一人の人間として、
それが事実であるならばとても残念に思い、また憤りを覚えます。

僕は、意見の対立を暴力に訴えて圧殺しようなどとするあらゆる行為に反対します。
それは、たとえ相手が一水会であろうと、
中核派であろうと革マル派であろうと変わることはありません。
もちろん僕のこのような立場は、
「根本的に対等ではありえない構造、一方は国家の批判者であり、一方は
国家の暴力の民間活力である、という構造」を無視し、
あたかも「その間の『対等な相互批判』が成立するかのような幻想」を撒
き散らすものでしかないのかもしれませんが……。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/sakai/sakaitop.html

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イラクでの自爆攻撃 投稿者:ステハン  投稿日: 8月20日(水)19時13分55秒

イラクでの国連を標的とした自爆攻撃を、9/11と同様のテロにしようという情報操作がNHKなどを使って行われている。支持を積極的にはしないが、批判もしないという態度はよくないのだろうか?

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REご参考までに 投稿者:KY  投稿日: 8月20日(水)18時52分05秒

 「日本が民族的抹殺を企てた」「特攻隊員に薬物投与をして操縦桿を握らせた」など等・・・
 本気でそういうことを信じてるんですか?

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はあ(呆 投稿者:黒目  投稿日: 8月20日(水)18時51分37秒

酒井さん、「当然認められるべきです」って、一体、誰がどう「認める」のですか?
右翼が執拗に襲撃を企てるのは、左翼を襲撃する事で自分たちが逮捕される事はない、という事を見越して行っているのであり、左翼が同じ事を行った日にはたちまち「大事件」となるでしょう。
以前、ある日米安保に反対する集会が右翼に襲撃され、何人かが怪我をし、で、その襲撃者達は交番に駆け込んで「左翼に怪我をさせられたから捕まえてくれ」といって警官を伴って帰ってきた、という事件がありました。この襲撃者は「一水会」というところの人たちであった、という話を前に直接酒井さんには話した事があると思いましたが。
で、このような根本的に対等ではありえない構造、一方は国家の批判者であり、一方は国家の暴力の民間活力である、という構造の中で、その間の「対等な相互批判」が成立するかのような幻想は、一体なにかの役に立つのでしょうか?
勿論、鈴木邦夫の商売には役立つ訳ですが(藁

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どこで切り分けるか? 投稿者:まっぺん  投稿日: 8月20日(水)18時42分53秒

・・・・を考えていくと結論がでなくなっちゃいます。
「シナ」がダメだとすると「インドシナ」はどうなんでしょうか?
むかし戦車阻止闘争のころ、ぼくらは「ベトナム・インドシナ連帯委員会」という団体を作って運動してました。中国は英語で「チャイナ」と呼びますが、フランス語では「シナ」。インドチャイナは「アンドシナ」。

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正論だな↓ 投稿者:極右翼  投稿日: 8月20日(水)18時34分46秒

己が…いいことをぬかす!…ま、しかし…拙者と貴様は少し考えが違うようであるな。

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教会へのシュプレヒコールは当然認められるべきです 投稿者:酒井徹  投稿日:8月20日(水)14時00分20秒

M2さんは
8月16日の「右でも左でもいいのですが」という書き込みの中で
次のようにおっしゃっています。

>もし、右翼団体が「おまえらのやってることは非国民の行いだ」といっ

>ミサの最中に教会の前で十字架燃やしたり、シュプレヒコールしたら
>腹立ちませんか?

僕は無神論者であり、
キリスト教徒ではありませんので、
正直、あまり腹は立ちません。
(ただ、思想や信仰の違う人に対して
 「非国民」という言葉を使って罵倒するやり方には少し腹が立つか
も)。
ですが、もし僕がキリスト教徒であるならば、
やはり腹は立つと思います。
しかし、だからといって
「右翼団体は十字架を燃やしたりシュプレヒコールをするのを
 やめるべきだ」とは思わないのではないでしょうか。

いかに自分たちのやっていることが
「『政治』ではなく『信仰』である」と言ったところで、
自分たちの行動や教義が社会に対して
一定の影響を与えていることは
教会といえども否定はしないと思います。
(ローマ教皇もしばしば政治的発言をしますし、
 僕が通っている同志社大学の上部教団である
 日本基督教団〈プロテスタント〉なども、
 反戦・平和や差別の問題に積極的に取り組んでいます)。

政治団体の思想にせよ、宗教団体の教義にせよ、
本や機関誌やインタビューや、
あるいはホームページ・辻説法などによって
多くの人に対して訴える内容のものであると思います。
その内容に共感し、元気付けられる人もいるでしょう。
励まされる人もいるでしょう。
しかし中には、怒ったり、悲しんだり、
反感を持ったりする人がいるのも当然のことだと思います。

アメリカ合衆国のやり方に怒ったり悲しんだりした人は、
アメリカ大使館や領事館にデモをかけ、シュプレヒコールをするでしょ
う。
日本共産党に腹が立てば、
本部や支部にデモをかけ(街宣車かな?)、シュプレヒコールをするでし
ょう。
同様に、教会の行動や教義に納得いかないというのであれば、
その教会にデモをかけ、シュプレヒコールをするのは
「正当な抗議」の範囲内だと思います。
(現に大阪では、
 オウム真理教の大阪支部に対して、
 何度もデモ隊が押しかけています。
 僕は、行政によるオウム信者に対する転入届不受理や
 信者子弟に対する学校への入学拒否などには
 断固反対いたしますが、
 オウム真理教の行動や教義に反対する人々が教団支部にデモ行進をする
こと自体は
 ごく自然な行動ではないでしょうか)。

もちろん、その教団の許可もないのに
勝手に教団の敷地に上がり込んだり、
あるいは信者に対して暴力をふるったりするのは
明らかに「正当な抗議」の範囲を逸脱していると思います。
シュプレヒコールのメガホンの音量が
暴騒音条例の規制を超えるほどの音量でがなり立てるのも、
一種の暴力といえましょう。
教会に向かう信者を見つけて
「ぶっ殺すぞテメー!」などと罵声を浴びせかけるのも
立派な脅迫だと思います。
また、
「アメリカに抗議するために星条旗を燃やす」・
「日本共産党に抗議するため赤旗を燃やす」・
「キリスト教会に抗議するため十字架を燃やす」などの方法は、
抗議の手段としてはあまり品のいいものとは思いませんし、
僕は感心いたしません。
ただ、抗議の手段として著しく不当であるとまでは言えないと思います。

政党であれ、宗教であれ、
社会に対して何らかのことを訴えようというのであれば、
その反響はやはり覚悟しなければならないのではないでしょうか。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/sakai/sakaitop.html

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戦闘服も同様とおもいます(一部追記) 投稿者:M2  投稿日: 8月20日(水)13時56分14秒

だから右左にかかわらずと最初に書いたのですが。
老人にとってはシュプレヒコール等も恐怖感の対象であったということで
記載しております。

追記:
いわゆる「右翼団体」側に対する批判を記載していないのは
この掲示板で追求してもあまり効果がないと考えたためであり、
感じている思いは同じです。
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M2様 投稿者:野次馬  投稿日: 8月20日(水)13時11分43秒

>恐怖感を抱かせる

「感」についての議論は難しいかとは思います。
ただ、明らかに恐怖感(というより恐怖そのもの)
を与えることを目的として
その場に現れている方々についてはどう思われますか?

彼らは、あなた方、8月15日参拝者を守るためにそういった威嚇をして
いるのですか?
平和遺族会なりその他の団体なりが「恐怖感をいだかせる」こと目的とし
て行動をした事例を知りません。具体的にご指摘ください。

あなた御自身は、追悼の場に戦闘服・乱闘服で現れる方々についてどうお
思いなのですか?
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論理の飛躍について 投稿者:M2  投稿日: 8月20日(水)12時49分47秒

>noizさん、黒目さん
当方の最初の投稿では右派の宗教行為を左派が妨害する事例の逆の推測例として
教会の前で教会は反日だといって右翼が十字架燃やしたり、シュプレヒコールを
行ったらどう感じるかという問いを投げかけました。しかしながらそれに対する
反応は少数でしたし、これを正当化できる回答を得たとは思えませんでした。
それ故にはなはだ不適切な言い方をすれば誰かが食いついてくれそうなものを
あえて投げかけたわけです。

>野次馬さん
私は靖国は宗教施設であると認識しており、あなたのおっしゃる
「違法行為に反対」することを否定しません。その上で、
やる場所を考えてやってほしいという話をしていたのです。
以前の投稿に個人的事例を持ち出して書いたとおり、私が当初対象としたのは
慰霊をしたいと考える遺族のじゃまをするのはいかがなものかという話です。
政治家に反対したいのであれば、遺族の感情を逆撫でする上に、
恐怖感を抱かせるような場所でなく、他の場所、手段で行えないものでしょうか。

>伝説のワル さん
ま、私のこのような書き込みも身内が気持ちよくお参りしたいという自己理由からなのですが。

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基本的には・・・ 投稿者:.  投稿日: 8月20日(水)12時34分55秒

人が嫌がる呼称、言葉を使わない。それが「大義」の前提でしょう。ある言葉が差別語であるかどうか、は使う側が判断するのじゃなくって、それによって規定される立場の人々だと思うけどな。

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ついでに 投稿者:野次馬  投稿日: 8月20日(水)12時12分33秒

>馬鹿でもチョンでも

反差別運動関係の著名人が次のように差別語ではないと認定しています。

http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/19970228.htm

それでも、差別的な局面で使われることが多い言葉であるのではないかと疑っています。
友人から聞いた話ですが、西日本のある地方では「馬鹿でもチョンでも○○でも」という使い方(○○の中に被差別部落を差別する言葉が入る)をしているとのことです。この件については他に情報源があるわけではありませんが、転用ではあれ実際に使われていた蓋然性が高いと思います。
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参考までに 投稿者:野次馬  投稿日: 8月20日(水)11時17分59秒

公式見解ではないようですが、現代中国側の「支那」呼称に関する見解です。

http://kyoto.cool.ne.jp/jiangbo/china/edu/edu004.htm

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参考までに 投稿者:猛獣文士  投稿日: 8月20日(水)10時58分44秒

政治性の薄い記事ですが、シナの名称問題について簡単に整理しています。

http://homepage1.nifty.com/mkm/kansatsu/sina.htm

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1945年では 投稿者:猛獣文士  投稿日: 8月20日(水)10時36分20秒

コジコジさん

>「シナ」に関して言えば、勘違いな反差別主義がつくりだした「差別用語」でしょう。「シナ」という言葉が「社会的」に排斥されたのは1972年の国交回復以降です。その点に関しては、残念ながら石原が正しいといわざるを得ません。(メンマって何?シナチクじゃんか)

シナを使用しないよう、中国側が意思表示し、それが日本で受け入れられたのは1945年です。私はそう認識しています。1972年であるという根拠があれば示してください。

最近、いろいろな珍説が、まことしやかに「常識」化していくようです。

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義さまへのレス 投稿者: 伝説のワル  投稿日: 8月20日(水)10時33分50秒

義様
はじめまして・・・投稿のあとにみました。もちろん、おっしゃることはわかります。なんつうか
義さまのおっしゃってる感情とは少し異なりまして(うまく説明できなくて、すみません)早く言えば「情けは人の為ならず」に近い感情です。まわりまわって、自分に返ってくるみたいな・・それともうひとつ言えば、なんだかこのところ「大義名分」がやたらふりまわされている気がしたので、そう思いました。>自分の為に生きるということを行動の基準にすると、世の中のいろんな事が他人事のように思えるし、自殺する人も「それはその人の自由」ということだし、・・・そんな気持ちではないのですが・・・・うまく書けなくてすみませんでした。それから、あのぅ〜どうでもいいのですが、私は男性ではなくて・・(笑)書き込みも不慣れで恐縮です。

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支那について 投稿者:野次馬  投稿日: 8月20日(水)10時32分05秒

>勘違いな反差別主義がつくりだした「差別用語」
という結論は早計だと思います。

差別語であろうわけもない、唐土、震旦などとならんで江戸時代に使われた「支那」、
1910年代から1940年代に使われた「支那」(この語には、その時点での中
国を国家として認めないという意味あいが暗黙のうちにこめられていました。)、
1980年代以降に、呉某などの団塊オヤジたちが右傾化して使い始めた
「支那」とではそれぞれ意味あいが異なると思います。

私自身は21世紀日本のおける「支那」は、差別語である以前に
夜郎自大な右翼だけが使うジャーゴンだと思っています。

参考URL
http://www.age.ne.jp/x/commerse/kawara/kawarabn/9905/9905z.htm
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時代錯誤? 投稿者:Teruaki  投稿日: 8月20日(水)10時28分49秒

義さんが書いた最後の4行の文章はそのとおり!と思いました。
右翼どもも全くくだらないけれど「左翼」もくだらないんです。でも、どっちもどっちって言ってるわけじゃないです。
「私」と「公」がいる、ということを義さんは言いましたけれど、そんな当たり前なことを言わなければならない時世になっているんですね。その点で、社民党的なリベラルより「右翼」の方が共産主義的なセンスをもっているんじゃないかと感じました。

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皆様に多謝! 投稿者: 伝説のワル  投稿日: 8月20日(水)10時11分37秒

常連ROM様・・・・責任転嫁でした。>参考にするのは結構。最後は自分
で極めて下され。一生かけて・・・そうします。ですよね〜有り難うございます。
黒目様・・・・少し元気がでました。嬉しかったです、色々悩みはつきません。
コジコジ様・・・>「シナ」に関して言えば、勘違いな反差別主義がつくりだした「差別用語」でしょう・・・そうだったんですか!「馬鹿でもチョンでも」のチョンは確か昔はちょんまげからきてると祖父に聞いたことがありますが、いつの間にか差別的な時にだけ書かれている気がします。それにしても、皆様、こんな若輩者に温かき言葉有り難うございます。削除されるやもと、心ぼそかったのでとっても嬉しいです。これからもみなさまには色々と学びたいと思っておりますので、宜しくご指導お願いいたします。もちろん自分でも考えます!有り難うございました♪♪

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滅私奉公(?) 投稿者:義  投稿日: 8月20日(水)09時53分48秒

>伝説のワル様 はじめまして

自分の満足のために…確かに、というかそれが真実でしょう。
かくゆう私もここに投稿させてもらっているのは、貴殿と同じ感情があるからに過ぎません。
私も義務教育期間を経て、そうゆう事を思うようになりました。
例えば小学6年の時、特別授業で図書室に連れて行かれ、東条英機首相の顔写真に向けて、
担任が「コイツが悪人や」と私に言わせたこともあったっけ・・・。

ただ、「すべては自分のため」という価値が、いろんな行動の最上位に来ているとすれば、
それは他人を蹴落としてでも「自分のための行動」が正当化されることにもなりかねません。
すべては「私」のため。であるならば、自分はこの現代で誰の世話になって生きているのか、
私を産んでくれた母親も、育ててくれた父親も、祖父祖母も、所詮は自分の為にならなければ…。
人を愛する事も「自分のため」と思いながら接していれば、相手の女性は見抜きますよ?
いざという時、自分がかわいいのであれば、人を守る事なんて出来やしないと、私は思うので。
本心を言えば、誰だって自分がかわいいに決まっている。だが、それが人間の基準となれば
父親が川に溺れた我が子を救うために飛び込み、それによって父親が死に、子が助かれば、その子供は父親に「無駄死に」とは言えない筈で。 極端に考えていけば、自分の為に生きるということを行動の基準にすると、世の中のいろんな事が他人事のように思えるし、自殺する人も「それはその人の自由」ということだし、「人を殺したい人がいっぱい居るんだなぁ」ってなことになって、人を殺す事が夢だった少年Aは・・・・ま、極端すぎますがね。
自分の中には「私」と「公」の自分がそれぞれ居ると、私は思っています。一歩家から出たら身だしなみはちゃんとしておきたいし、貴殿の言われる「最低限の人間としてのルールを守る」というものもまた、「公」的な自分があるからでしょう。
時代錯誤な題名を、あえて書いたのはそういうことです。

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用語法についての雑感…。 投稿者:コジコジ  投稿日: 8月20日(水)09時25分12秒

朝鮮半島に関係する人間に対して、「チョン」というのは明らかに差別意識にもとづく差別語です。(ちなみに「馬鹿でもチョンでも」というのは朝鮮人・韓国人に対しての差別的表現ではありません。ただ、誤解して差別的に使用している輩が多いので、そのような部分は個別に粉砕すればよいでしょう)
「シナ」に関して言えば、勘違いな反差別主義がつくりだした「差別用語」でしょう。「シナ」という言葉が「社会的」に排斥されたのは1972年の国交回復以降です。その点に関しては、残念ながら石原が正しいといわざるを得ません。(メンマって何?シナチクじゃんか)
「チャンコロ」は明らかな差別語です。でも「シナ」という表現は全くニュートラルです。…あぁ消耗な…。僕はあえて「シナ」とは表現しませんが、中国というのも変です。日本語で中国というのは、山陰・山陽地方を指すのですから。
このような言葉遊びを「自己批判」に置き換えるのがスターリン主義なんですが…。

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伝説のワルさんのにかなりハゲシク同意します 投稿者:黒目  投稿日: 8月20日(水)07時49分38秒

俺もウヨガキやめた時期にそゆ事考えてました。
>究極的には『すべては自分のため』なのだと私は感じています。

当時、コントでスネークマンショーとゆうのがあって、「死ぬのはいやだ、こわい。戦争反対!」とゆうレコードが出てて、それ見て考え改まったという(w
結局は我がの為にやっとる事を、あたかも人様の為、世の中の為にやっとるかのように言うのは気色悪い、ゆう所は押さえとかなあかんな、と思います。
勿論、左翼の言説も含めてね。

つかまあ、俺いま、運動的にはホンマにやりたい事だけやってるからこんな事言える、ゆうとこはありますが。
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受験の国語>伝説のワル様 投稿者:常連ROM  投稿日: 8月20日(水)02時58分06秒

>責任転換

責任転嫁と書きたかった?

参考にするのは結構。最後は自分で極めて下され。一生かけて。
故に、かくいう私も途上であります。

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宜しくお願いします 投稿者: 伝説のワル  投稿日: 8月20日(水)02時47分44秒

はじめて書き込みします。私は残り少ない夏休みをおくっている高校二年生のなあんにもわからない17才です。今は苦手な歴史(特に戦争の頃)に興味を持つようになりました。
当然右翼とか左翼とかの定義もわかりません。ここのBBSは、そんな私に色んなことを教えてくれます。とても難しく理解できない事は飛ばしながら(笑・・ごめんなさい)ロムっては感謝していました。私はこの国に日本人として生まれ育ってきたから単純にこの日本が好きです。愛国心があるか?と聞かれれば、あります。ワールドカップなどでは夢中で日本を応援していますし、自然な感情だと思っていました。だけどもいわゆる右翼と言われる人のBBSの書き込みの「チョン」とか「シナ人」とか罵倒的な時に使われる言葉には、とても違和感というか・・・その激しさが怖くって書き込みができませんでした。あ、理解能力がなかったことも事実ですが・・・。うーん。なにが言いたいのか、まとまりがつかず、すみません。とても生意気とは思いましたが、黒目さまの「大義」の言葉に自分の感じていることを書きたいと思いました。趣旨違いだったら、管理人様どうぞ削除お願いします。

ず〜っと私たちは『〜の為に』という大義名分のもとに自分を押し留めることを強いられてきた感があるような気がします。でも自分を滅して奉仕するなら何故自分がここに存在しているんでしょうか。人間のように行動できるロボットが出てくるまでのつなぎなのでしょうか……。
人間はロボットではないですもの、そんなことはないと私は思っています。
自分の感性は自分にしかないものです。それだけでスゴイことです!!!素晴らしいことです!!
だから自分を押し留めないで自分の心の内から湧き出すものを大事にしてゆきたいと思うんです。
もちろん、自我をあくまでも表面化せずに何かの為に尽くすということを望むのであれば
それはその人の個性であり、感性で、本人の望む好きな自分ですから『◎です♪』

究極的には『すべては自分のため』なのだと私は感じています。どんな事柄も結局は自分の為に他ならないのだと思っています。人に優しくすることも、人を愛することも・・・・
「学校のため、会社のため、家族のため、愛する人のため、友人のため、お国のため……ETC」
どんな大義名分もそれに意味や価値をつけるのは自分自身だから(戦争の頃の人達のことはわかりません)
少なくとも今の時代、判断の基準は自分の物差しです。それで、いいと思うんです。こんな考えの私は間違っているのでしょうか?
自分で選らび取ったもののその奥には「自分のため」という事が隠されていたとしても。私は人間がスキです。責任転換をしない人間がスキです。右の人だろうと、左の人だろうと・・・・。
色んな考えがあっていいと思っています。
誤解を恐れずに書くと『本質は唯ひとつ・・みーんな、自分のため』と、思っています。こうして私が書きこむのも自分の考えを「わかってもらいたい!」と言う自分のためです。
自分の思うがまま、あるがままに”心地よい事”をどんどん行動したいと思っております。もちろん最低限の人間としてのルールを守るってことは当たり前ですが・・。未成年の私たちは人生の先輩の方々の言動から学びます。>日本は「アジアを解放する」と称して戦争を行いました・・と言われると「そうだったのかぁ」と素直に思います。こうして学んでゆきます。こんな私ですがどうぞこれからも宜しくお願いします(始めての書き込みで、生意気だったり、トンチンカンなカキコだったら誤ります)やっぱ・・・なんか読み返すと支離滅裂ですね・・・すみません。もっともっと学んで(受験勉強以外のことを)いきたいと、切に思っています。宜しくお願いします。

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日本というものの危うさ 投稿者:kt生  投稿日: 8月20日(水)01時37分21秒

義さんの投稿を興味深く読みました。

非常にまじめに日本ということを考えているとは思います。しかし、沖縄の高校野球で一番もりあがるのは対鹿児島戦だということが三次会でとりあげられてます。あなたは多分理解できないでしょう。

そして太平洋戦争の中であなたのような公式的な日本人の心を持っていた人は果たしてどれくらいいたでしょうか。

私の親族のそして私の母親の話を聞いてそれぞれ分析してみるとやはり戦争はほとんど地震や落雷のように、どうしようもない天災のようなものと認識しているのが分かります。何が八紘一宇ですか。それはあの時代のごく狭い六本木と赤坂の間で暮らしていたきわめて裕福な一部の日本人の間で交わされたいた言葉ですよ。私はそれを確信しています。

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大義 投稿者:黒目  投稿日: 8月20日(水)00時17分12秒

戦争の要因まで含めると話がちらかりすぎやと思いますので、「大義」の部分に絞りたいと思います。
日本は「アジアを解放する」と称して戦争を行いました。
「アジアの解放」という文言そのものは立派ですね。
しかし、アジアの人々はそれを望んだか?中国戦線の様相を見れば答えは出ていると思います。中国の人々は、日本軍が入ってくる事を望まなかった。
実際にこの文言は、欧米との中国での覇権争いの為にもってこられた欺瞞です。
で、アメリカの「大義」です。
「大量破壊兵器」がない世の中である方がいいに決まっていますが、それを大量破壊兵器を一番たくさん持っている国が主張する訳です。
この両者の欺瞞は、実に全く同じ構造ではないかと思いますが。

そもそも、中国に攻め込まなければ日本の独立が危うかった、とは全く思いませんが、そうであればその戦争は「日本の独立の維持」の為にやったのであって、「アジアの解放」の為なんかでは全くないではありませんか。こういった事を欺瞞と称するのだと考えます。

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これはどこでも同じですが 投稿者:黒目  投稿日: 8月20日(水)00時04分39秒

>もし私が当時の日本人であったら、果たして冷静で居られただろうか、戦争の不当性を
>見抜く事が出来ただろうか、そのような事を良く考えます。

しかし、我々が生きているのは21世紀の現在なのです。
かつて、左翼業界において、スターリンが輝ける指導者であった時代がありました。私自身、その時代に生きていれば、その文脈に絡め取られていた可能性は十分にあると思います。しかし、現在は、スターリンがやったことがなんであったのかは、蓋が開いて見えている訳です。今現在において、「スターリンが輝ける指導者だ」と言っている奴がいたらただのアホですね。
我々はいろんな事が明らかになった、「後の時代」に生きているのであり、「当時の人間がどうであったか」という事と、「今、我々はどのように考えるべきか」という事は、自ずと異なって然るべきではありませんか?

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>黒目さん 投稿者:義  投稿日: 8月19日(火)23時59分22秒

>で、日本がかつて主張した、アジアの解放だの八紘一宇だのという「大義」

戦争をした事そのものが反省すべき事である=日本の戦争に道義がなかった
同じだと思えませんでしょうか・・。
戦争そのものが出来ないのであれば、日本はとっくにソ連の属国になっていたと
私は思うのですが。

>アジアの解放 八紘一宇
これら大義が、軍によって著しく揺らぐ事になり、結局「侵略戦争への口実」と戦後に
判断されてしまったわけですが、「戦争をする」という前提で日本が戦争したのではなく、
日本という国体を、独立を保持するためにやむなく戦争するに至った。というところが、
米国と違う点であります。

実際に亜細亜解放の理念はなおざりにされたではないか、というような矛盾については、
私のTAMO2様への返答投稿が、私の正直な心情であります。

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義さん 投稿者:黒目  投稿日: 8月19日(火)23時49分08秒

(道義!PART2の)前半は基本的に同意します。
で、日本がかつて主張した、アジアの解放だの八紘一宇だのという「大義」は、
アメリカの持ち出した「大量破壊兵器」だの「テロリスト支援」だの「民
主化」だのといった腐れ大義とどのように異なるのでしょうか?
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ご参考までに 投稿者:靖国解体企画  投稿日: 8月19日(火)23時48分46秒

靖国神社を解体するためには力を惜しまない
いかなる国家的追悼にも反対する!
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靖国神社ほど醜悪な施設はありません。それは靖国神社が、死人に口なしとばかり
に、公的な死を賛美し強制する仕組みとして君臨し続けているからです。
 そもそも死や死者と向き合うことは、人間存在の最も不条理で秘密で私的な行為で
す。にもかかわらず靖国神社は、死者を「英霊」としてまつりあげ、それにお手軽な
意味を与えることで、死と向き合う行為を公共の行為へと変質させてしまいます。そ
の中でなお死と死者に向き合おうとする人々は、自らのおそれや癒しがたい渇きと慟
哭を、国家暴力の生産/再生産のために簒奪されるほかありません。また、公的な死
と死者の賛美は、生きる者に公務に連なる生と死を迫り命ずるものとなります。これ
はただ生きることで尊重されなければならない生を、不当に貶めることに他なりませ
ん。
それだけではありません。人殺しを命じたこと、民族的抹殺を企てたこと、強姦に参
加し許容したこと、人類史上稀に見る人体実験を実行したこと、これらを不問に付す
引き換えに、飢死を、救助無く密林に置き去りにすることを、薬物を射たれて片道の
燃料で操縦桿を握りしめることを、天皇の身代わりに処刑されることを、これらの一
切を問わぬことを靖国は要求しています。事態を引き起こした責任関係を分析するの
ではなく、誰が命じ、
誰がそれを割り切ったのかを問わずに、ひとかたまりの死を賛美しようと靖国は主張
するのです。

 私たちはこのような醜悪さに耐えることができません。ましてその悪徳をまき散ら
す追悼の空間と時間を許すことができません。だから私たちは靖国神社に徹底した非
暴力・不服従・直接行動を対置するのです。
 8月15日の靖国神社には、追悼を自らの政治的、経済的な欲望のために利用しよ
うとする政治家、右翼団体や利権遺族が押しかけてきます。私たちの行動がたとえ彼
らの暴力に包囲され、妨げられようとも、私たちはきっぱりと抗議の行動をやり抜き
ます。私達は自由な個人として、靖国神社の儀礼的空間・時間を破壊せざるを得ない
のです。

最後にもういちど、
靖国神社をなくそう!

2003.8.15

靖国神社をなくそう!8月行動
no2yasukuni@hotmail.com

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利用された>TAMO2様 投稿者:義  投稿日: 8月19日(火)23時45分46秒

>道義が歪曲され、欺瞞的に利用されたと考えております。
これは私もそう思っています。悪しき精神論が陸軍部内にあり、石原莞爾の独断専行の「満州事変」は、血気にはやる少壮軍人に「軍が独自に判断して行動しても結果がよければそれでよい」というふうに捉えられて、ますます軍の力が強くなっていきました。 しかし、そこに当時の国民の「圧倒的支持」もあったのも事実です。私は、当時の日本人皆が「狂っていた・だまされていた・抑圧されていた」とは、思えないのです。道徳的に。

>アジアと手を携えるという道義が〜〜じゃあ日本人はいかに食べるべきであったか
私もその矛盾をどのようにして秤を平衡に保ったら良いのだろうか、と悩んでいるのです。
もし私が当時の日本人であったら、果たして冷静で居られただろうか、戦争の不当性を見抜く事が出来ただろうか、そのような事を良く考えます。現代だからこそ、冷静に「人類兄弟・人種平等」と当たり前のように言えるのだなぁ、とかも、よく思ったりします。そんな風に考えていたとき、やはり、戦争をするに当たって「アジアの土地は亜細亜に返せ」という道義が、私が当時を生きていたとしたら、とても輝かしいモノに見えたかもしれない。「聖戦」とはよく言ったものだ、とかつぶやいていたかも。
問題はそういう民衆の心理を利用した指導者にあるわけですが、インドネシアでは「青年道場」(インドネシア人に軍隊教育をする・志願兵で集められた)が作られ、後にインドネシア独立戦線の基礎となったという事実もあり、必ずしも「全く実行していなかった」わけでもないんですよね。結局最初に戻って、どう釣り合いをもって、認識するか、となるわけです。

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ご参考・特に愛国者へ 投稿者:常連ROM  投稿日: 8月19日(火)23時26分11秒

■一宗教法人に過ぎない神社がA級戦犯を合祀するのは自由だし、政治家が戦没者を墓参するのは当たり前だし、神殿には神殿のルールがあるのだから政治家だろうが誰だろうが神式で参拝する必要があるし、憲法上、一宗教法人への参拝に税金を使えないのも当然だ。
■極東国際軍事裁判が、統帥権独立下の文官をA級戦犯としたり、戦時合法行為を裁いたりと、明らかに不公正なものであることも論を待たない。そんな幼稚園児でも分かるようなことをいつまでゴチャゴチャ論じているのだろうか。問題はそんなところには一切ない。
■問題は、裁判が公正であろうがなかろうが、講和条約に調印して裁判結果の受諾を当事諸国に約束した以上、戦犯が合祀された墓地を「一国の首相や大統領が」参拝する行為は、その意図がどのようなものであれ、講和体制への挑戦という意味を必然的に帯びることだ。(講和体制は、戦犯以外責任を問われなかったこと、天皇が処刑されなかったことを含む)
■挑戦してもいいじゃないか、などと言うな。講和体制下での当事諸国や周辺諸国の協力や援助があって初めて、敗戦国の戦後復興がありうる。またその豊かな成果を私たちは既に存分に享受してしまった。講和体制のウマイ汁を散々吸っておいて、今さら何を言うか。
■その意味で、講和体制への挑戦は、当事諸国や周辺諸国(例えば72年の日中共同声明で戦時賠償放棄を決めた中国)への信義違反であるがゆえに外交的国益を揺るがすのみならず、敗戦国にとって戦後史がどういうものかという自意識における腑抜けぶりを象徴する。
■だから、講和条約に調印した敗戦国の首相や大統領が、戦犯の合祀された墓地に参ずることは、たとえ他国が許しても、自国の愛国者は絶対に許してはならない。自国の国益を計算できない者も、自国の甘えや腑抜けを座して見過ごす者も、愛国者の風上に置けない。

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道義!PART2 投稿者:義  投稿日: 8月19日(火)23時24分35秒

もう一度原点に立ち返って…、「道義」とは、戦争するに当たって必要であるということ。

(毎度のように例を出してややこしいのですが)今イラク戦争の米国の大義は何だったでしょうか。「大量破壊兵器の有無」が一番最初でした。そして、「兵器がテロリストに渡るのは防がねばならない」となり、次に「独裁政権の危険性」を指摘し、最後に(終戦後に)「民主化政策」です。この一連の流れの中で見えてくるのは、米国が明らかに「日米戦争」と同じような戦争の仕方を実施している事。まずはじめに9・11テロのあとすぐに米国及び米国人は「カミカゼ特攻」と騒ぎ、ツインタワーをグラウンドゼロ(爆心地は広島と長崎やろ!)と名付け、ブッシュの「悪の枢軸」発言(日独伊枢軸という呼び方自体が悪意のある名称だった)、国連の名の下に「経済制裁」(ABCD包囲網そのまま)、たまらなくなってイラクは国連査察を受け入れ(日本も米との交渉に譲歩に譲歩を重ねた)たものの、戦争する事を前提としているアメリカは結局「48以内に武装解除、フセイン政権幹部は亡命せよ」と通告(最後通牒の「ハルノート」と同じ)して、大量破壊兵器の危険性を主張するはずの米国が、危険な兵器(劣化ウラン弾・クラスター爆弾)でピンポイント爆撃(といっても市民を巻き込まぬ爆撃などありえぬ。各都市と帝都大空襲そのまま)によって破壊し尽くし、最後には「自由と民主をプレゼント」「独裁・圧政からの解放」。で、親米政権がまた一つ誕生するという寸法でありました。(軍部が悪かった!お前らはだまされていたのだ!で、国民はギブミーチョコレート!ギブミー自由!マッカーサー元帥様ありがとう!)

日本人の皆様は、何故にこのように穏やかなのでしょうか。屈辱を毛ほども感じないのはどういうわけでしょうか。イラクは確かに独裁政権でした。しかしイラクの国会議員には半数近くの女性議員が居り、教育制度は整っており(英語教育も当たり前のようにされていた)、アメリカ的自由というものは無かったにせよ人々は、どこかの国のように「食うものに困る」程の苦しい生活を強いられていたわけではないでしょう。民主主義がどうしても育たない国家というのは世界には多数あります。独裁=悪・民主主義=自由で善という図式は
日本人ぐらいにしか理解されないと思います。

で、ここまで長ったらしく、米国が起こしたイラク戦争と、日米戦争を比較検討(というか日米戦争の現代版ですね)した理由は、大東亜戦争に道義が無いというのであれば、米国の戦争はすべて正当化されるのだが、それでいいのか。ということ。
現代の価値観で、道徳観でもって、「歴史認識」を持とうとすれば、戦前の日本が、いや世界中の国という国が、「戦争」という野蛮な解決手段に依拠して醜い争いをした。と認定されるのは当たり前の事でして。ですからどこの国でも自国の戦争には輝かしい大義と、正義があったことを主張していますよね。 こういうと、「日本の加害の事実を隠して正当化するのか?」との批判がとびだしてきそうですが、私はそんな事は言っていませんし、「反省すべき事は反省せねばならぬ」と主張しています。ただし、戦争をした事そのものが反省すべき事である(日本の戦争に道義がなかったのならばこういう解釈になりませんか?)のであれば、私は日本人として断固「そうではない!」と言いたい。という事です。

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>タモタモ 投稿者:貴腐  投稿日: 8月19日(火)23時18分51秒

それにタモタモさんは”志士”とかいって大陸浪人とかの戦前の右翼を評
価してるみたいですが、やはり彼らは定職を持たぬヤクザ的集団と言って
よく、ある時はブルジョア政党の準軍事組織となり、ある時はスト破りの
手先となったファシストですよ。
飯場を支配した暴力手配師でもある。
笹川良一とかはその系統。

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義様へ 投稿者:コジコジ  投稿日: 8月19日(火)22時18分10秒

横から口をはさみますが…。
義さんの真摯に討論を行おうとする態度に敬意を表します。ひ弱な坊やたちがネットの匿名性のなかで吠えている小林よしのり的な『右』とは格段の差です。
小生の見解は「しまだ」さんと基本的には同じです。
閑話休題…義さんは、あまりに日本というものを明治以降の近代・現代に限定してしまっているような気がします。『国家神道』とはいかなるものなのでしょうか。もし「やおよろずの神」が「日本」の独自性なのだとしたら、招魂社−靖国が建立される意味があったのでしょうか?少し前にこの掲示板にもあったのですが、本来の『右翼』がサムライを手本とするというのは少しおかしくありませんか。右翼であるならば、雅な「蹴鞠」をやっているような文化を手本とするべきでしょう。だから、いつも思うのです(自民党政府=薩長勤皇政府打倒!徳川幕藩体制の復活を!)というような右翼が現れないのでしょうか?
小生は一応、左翼のつもりですが、商人・坂本竜馬より農民武士・土方歳三の方が、心情的には好きです。
好き勝手なことを申し上げてすみませんでした。それでは…。

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>タモタモ 投稿者:貴腐  投稿日: 8月19日(火)21時59分39秒

レーニンはエンゲルスの革命観を再否定したんですよ、否定の否定です。エンゲルスの言うように陰謀は無意味であり、大衆自身の自発的行動に革命の推移が左右されるのならば、革命党は下から上へと建設される大衆的なものにならねばなりませんが(メンシェビキや日本の労農派はそうしましたが)レーニンは自分の党を職業革命家からなるブランキスト的なものにしたんです。
>そして、ネップへと移行するわけです。
それと同時に
「ネップがテロルに終止符を打つと考えるのは誤りである。我々は必ずテロルに戻る。それも経済的テロルにだ」
と言ってますよ?
>「日本帝国主義指導部」の中にも、孫文の同志がいたんですよ。
中国のブルジョア革命を支援するのは中国が資本主義世界に組み込まれるのを促進するわけですので、日本のブルジョアの利害と一致しますが?

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