四トロ同窓会三次会 2002年3月1日〜3日

書き込み自由です。二次会に飽きた方はどうぞこちらへ\(^o^)
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中核派活動家諸君に訴える5 投稿者:熊谷直実  投稿日: 3月 3日(日)16時02分45秒

(8)デマゴーグはどちらか?

 清水は、小西が書いた本の内容を「デマ・一知半解」とののしる。それでは中核派が宮崎のスパイ活動によって情報を盗まれたというのはウソなのか? ウソではあるまい。すでに昨年8月の『前進』紙上で宮崎問題を事実と認めているではないか。さらに小西は、宮崎がスパイである事実を本の出版よりも前に組織に通報し警告していたと言っているではないか。それに対する無防備さが引き起こした事態に対する責任はどこにあるのか? 「小西=反革命」規定は、スパイ問題における組織中央の責任を小西になすりつける行為ではないか!
 また、『新左翼その再生への道』では革共同が30年以上も党大会を開かずに、本来党大会で決定されるはずの政治局員を清水が勝手に任命していたと書かれているが、それもウソだというのか? それならいつ党大会が開かれたというのか? この本の指摘が事実であったからこそ、昨年あわてて党大会を開いたのではないのか? しかし、その党大会にしても、きわめていかがわしい方法で行われたとしか思えない。また清水は「革共同議長」という事になっているが、そのような役職はそもそも革共同にはないと小西は指摘しているが、その事実についてはどうなのか? 革共同の規約のどこに「議長」について書いてあるのか? 清水と小西とどっちがうそつきなのか! 自分のあたまで考えてほしい。

(9)なぜ小西の真意を理解しようとしないのか?

 清水はもはや事実を無視してウソとペテンによって小西を「反革命」といいくるめようとしている。すでに革共同内部でとっくに決着がついている「週刊女性」のねつ造記事を証拠にあげるなど、破れかぶれとしか言いようがない。また「小西が中核派から分かれるにあたって相互に誹謗中傷をしない約束をしたが、小西がそれをやぶったと」言っている。それは小西が『新左翼その再生への道』や『公安調査庁スパイ資料集』や『検証・内ゲバ』などを出版することによって中核派を批判していることを言っているのだろうか? それらの本のどこが「誹謗・中傷」だというのか?
 「誹謗・中傷」とは革マル派のように「ウジ虫・ブクロ派」とさげすみ、汚らしい言葉で相手を罵倒する事である。これらの本のどこにそのような罵倒が書いてあるか? 「ウジ虫・ブクロ」などということばを小西が一度でも使用しただろうか? よく読んでほしい。そこにあるのは、清水丈夫の独裁的権力によってふり回され、堕落に向かっている中核派に対する哀切に満ちた同志的批判があるばかりである。小西は同志的批判によって活動家諸君の献身的で革命的な魂に訴えているのである。こころある中核派活動家諸君。諸君には小西の気持ちが見えないのだろうか?
 専制的独裁権力によって革共同を私物化する清水を批判する事のどこが悪いのか。清水を批判するのは小西の自由である。そればかりではない。その批判の内容はきわめて的確である。それを「反革命」のレッテルによって脅迫するとはなにごとか! 批判者に「反革命」のレッテルを貼り、批判の自由を暴力的脅迫によって奪う行為こそまさしくスターリニズムである。『前進』は小西を反革命とする規定をただちに取り下げるべきである。批判と相互批判の自由を確立せよ!

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以上です。なお、他のHPにも投稿しているとの事です。

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中核派活動家諸君に訴える4 投稿者:熊谷直実  投稿日: 3月 3日(日)16時00分37秒

(6)情勢を正しく認識しているのはどちらか?

 日本階級闘争がここまで敗北を続けてきた原因のひとつはまさに中核派が革マル派と長期間にわたって革マル派と「戦争」を続けてきた事にある。スターリンが社民との内ゲバによって労働者階級人民を離反させたように、日本労働者人民の革命的エネルギーは中核派と革マル派との内ゲバによって雲散霧消させられ、かわってグローバル資本主義と軍国主義に武装された右派政治勢力が台頭したのである。
 清水が「勝利の地平を切り開いた」と豪語する「20数年にわたる」革マル派との暴力的組織戦は、清水の願望とは正反対に労働者階級の敗北を強制し続けてきたのである。敗北の事実を直視せず「勝った勝った」と居直っても組織内部を本当に結束させる事はできないし、何よりも労働者人民大衆を愚弄する所行でしかない。小西誠はこの事実を活動家諸君に突きつけているのだ。日本階級闘争の現状を「勝利」と位置づける清水、「敗北」と認識する小西。どちらが情勢を正しく捉えているか? 正しい情勢認識がなければ情勢に正しく介入することはできない。現実を直視せよ。事実の認識から出発せよ!

(7)小西を革マル派から守ったのは中核派の軍事主義か?

 清水は「中核派による対カクマル戦が小西を守ったのだ」と言っている。このような恩着せがましい言い方をしておいて「小西に恩をアダで返された」といいたいのか? 「飼い犬に手を咬まれた」とでもいいたいのか? それはとんでもない欺瞞である! たとえどのような防衛策を施そうとも、軍事主義によって組織や人民を防衛することはできない。それは革マル派による本多書記長暗殺によってはっきりと証明されているではないか。
 小西は中核派の武装内ゲバ戦に批判的であっただけでなく、大衆運動を推進する立場にあった。そして、その運動の成果として、彼は中核派人脈とも異なる一定の大衆的影響を作り上げていたのである。そうした大衆的な成果が革マル派をして内ゲバを躊躇させたのである。小西を内ゲバ戦からまもったのは中核派の軍事路線によるもの等では決してない。小西が築いてきた大衆運動路線だったのである。
 内ゲバはどのような運動をも守ることはできない。ただ組織を破壊してゆくだけである。攻撃側も防御側も含めて破壊は進行していく。その事実に気付いたからこそ、中核派も革マル派も、たがいに内ゲバをやめているのではないのか? かつて数十人ものメンバーを殺し合った党派に対して、現在も口先では「反革命=カクマルセンメツ」といいながら大衆的集会において互いに何事もなかったかのように並んでビラを配る諸君らの光景を、労働者人民がどんな気持ちで眺めているだろうか? こころある活動家諸君。そのような欺瞞的な戦術を諸君に強制している清水に対して諸君はなんとも思わないのか?

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中核派活動家諸君に訴える3 投稿者:熊谷直実  投稿日: 3月 3日(日)15時51分18秒

(4)9.11自爆テロはアメリカ労働者階級への敵対である!

 献身的中核派活動家諸君。諸君はかつてベトナム反戦闘争の全世界的な爆発の中にあって、ベトナム人民の反米闘争に連帯して戦い抜いた。ベトナム人民の英雄的な闘いは米帝を追いつめ、政治・経済両面における危機を招来した。またベトナム人民の抵抗闘争は国際的共感を呼び起こし、アメリカ帝国主義本国の労働者大衆もこれに呼応して巨大な反戦デモへと決起していったのである。日本においても全国の米軍基地が包囲された。相模原ノースピア戦車阻止闘争や沖縄全軍労牧港青年部をはじめとする労働者大衆のベトナム連帯闘争は日米帝国主義の反動政策を追いつめていったのである。あの時諸君はアメリカ労働者階級人民ともベトナム人民とも国際的に連帯していた。ただ革マル派だけが、ベトナム指導部がスターリニストである事を理由に、この戦争を「帝・スタ代理戦争」と歪曲する醜態をさらしていた。この時、中核派のほうが明らかに革マル派よりも先進的な位置にあったのだ。
 ところが今度はどうか? 革マル派は9.11自爆テロを「画歴史的」と評価し、そして中核派もまた「国際的内乱の情勢が切り開かれている」と評価しているありさまである。中核派の立場は革マル派と同等の位置に転落してしまっている。そもそも9.11テロによる犠牲者はグローバリゼーションの先兵たる投資企業エリート社員ばかりではない。ビル清掃や下請け管理の会社に働く多数の底辺労働者が犠牲になっているのである。アメリカ労組はテロへの抗議と犠牲者への哀悼を表する声明を発しており、米帝内部で闘い続ける革命的左派も、このテロを糾弾している。そればかりではない。このテロは反動的アメリカ・ナショナリズムを鼓舞し、ブッシュの報復戦争に高い支持率を与えたのである。そして報復戦争に反対するデモは強い敵意と憎悪とに迎えられたのである。
 献身的中核派活動家諸君。アルカイダなどに幻想をいだいてはならない。アルカイダとはイスラム・ブルジョアジー=ビンラディンに率いられた反動的テロ勢力である。テロへの賛美はアメリカ労働者階級への敵対である。アメリカ反戦運動を追いつめる態度である。このような方針を捨て、真に国際主義の道に復帰しよう。アメリカ労働者人民に連帯して闘おう。アフガン人民とともに闘おう。それは「テロにも戦争にも反対する」立場にほかならない。

(5)日本労働者人民は勝利していると言えるのか?

 清水は論文の中で「20数年にわたって革マル派と戦ってきて重大な勝利の地平を切りひらいた」と言っている。全くおどろくべき情勢認識である。30年前には、まだ日本左翼運動には巨大なエネルギーが満ちあふれていた。総評全国青年協は革命左派のヘゲモニーのもとにあった。全国反戦に結集する党派はそれぞれ1千名を超える青年活動家を擁していた。その中でも中核派は単独で1万名を超える動員力を誇る圧倒的多数派であり、機関紙『前進』の発行部数は最大10万部と言われた。当時、『前進』を読まなければ全国政治情勢が把握できないとさえ言われていた。
 しかし現在はどうか? 労働運動は後退し政府・資本に敗北し続けているではないか。公共企業体の民営化が着々と進行し、戦闘的労組は切り捨てられ、それとともに労働者階級は失業と生活苦を強いられているではないか。今や韓国労動者大衆がゼネストをもって政府権力と闘っているこの時に、日本は経済ストライキさえ打てない唯一の先進国となっているのである。革マル派は権力のふところ深く懐かれ、一方、戦闘的労働者大衆は権力の弾圧と労働指導部の裏切りによって後退させられてきた。国労しかり!郵政しかり!電通しかり! 諸君らの機関紙『前進』は現在どれだけ発行されているか? このような情勢に対し、清水は何をもって「勝利の地平を切りひらいた」というのか?

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中核派活動家諸君に訴える2 投稿者:熊谷直実  投稿日: 3月 3日(日)15時49分51秒

(2)清水理論はスターリン主義そのものである!

 中核派は革マル派を「反革命」と規定し「ファシスト」と呼び、長年に
渡って暴力的敵対関係を続けてきた。だが、「ファシズム」はどのように規定されるべきか。ファシズムを支えるのは没落するプチブル階級の不安定な意識である。むしろ革マル派は労働者階級内部で特権にすがり政府・資本との取引きによって延命を図ろうとする社民の特殊な形態なのであってファシストとは言い難い。だが「社民だから反革命的ではない」とはいえない。社民は革命と反革命とが拮抗する時代には、反革命の側から革命闘争の弾圧に手を貸すのである。
 革命ロシアは反革命干渉軍によって外部から攻撃を受けたが、これらの攻撃を最先頭で担ったのがヨーロッパ社民であった。ドイツ社民党政府は共産党を弾圧し、ローザ・ルクセンブルクを長期間投獄の後にファシストに引き渡し殺害に手をかした。現在もヨーロッパ社民はブッシュのアフガン侵略とそれに引き続く対テロ戦争方針を支持・支援している。しかしながら、それら反動的社民の足下に多くの労働者階級が繋がれているのも事実である。
 スターリンはこの社民党を「ファシスト」と規定し「社会ファシズム論」によって暴力的敵対行動を展開した。その結果、本物のファシズムが台頭したとき、社民と共産党に失望した労働者とプチブル階級の多数がファシストに投票した。こうしてファシストはスターリニストの「おかげ」で大量得票をもって政権の座についたのである。
 献身的な中核派活動家諸君。いま日本で同じ事態が進行してはいないか。なぜ、小泉自民党政権は80%もの高い支持を獲得したのか? それは労働者階級の闘いの後退ゆえにである。労働者階級が自らの階級的立場に自信を失ったからである。そうさせたものは何か? そのひとつは中核派中央の「カクマル=ファシスト」規定と、それに基づく暴力的党派闘争である。革共同両派の暴力的敵対抗争は多くの労働者人民を失望させ、左派大衆闘争そのものから離反させた。大衆運動の後退は社会党や共産党をも右転回させ、その結果それに変わって登場した自民党右派勢力=小泉政権に支持が集中したのである。小泉の高支持率は左翼諸党派による暴力的党派闘争の「おかげ」なのである。

(3)清水丈夫は「現代のナロードニキ」である!

 清水は9.11自爆テロ対して、これまでも「やむにやまれぬ」などと擁護してきたが、今回はそれをさらにエスカレートさせ、「反米ゲリラ戦争」によって「国際的内乱の情勢が切り開かれている」などと絶賛している。こころある中核派活動家諸君! マルクスが第一インターナショナル創設に際して宣言した言葉を思い出してほしい。マルクスは「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業である」と宣言したのである。レーニンはそれをロシアに適用し、ストライキや工場占拠などを通じて労働者階級を組織し、前衛的労働者の革命党を建設していった。
 だが、一方「赤色テロル」によって情勢を切り開こうとした勢力もロシアにはあった。それがナロードニキである。ナロードニキとその後継者・社会革命党は爆弾や銃を使ってたびたび皇帝やその側近を襲撃し、それによって「内乱情勢」を創り出そうとした。そして、ツァーリズム体制のもとで困窮にあえぐロシア貧農大衆多数派の直情的支持を獲得したが、ついに労働者階級の多数派になる事はできなかった。清水が賛美するのは、まさしくこのナロードニキの路線である。決してレーニンの路線ではない。イスラム原理主義者の無謀なテロを労働者階級は支持しない。テロは「情勢を切りひらく」ものではなく革命派をますます不利にするものである。賢明なる中核派活動家諸君!惑わされてはいけない。清水ナロードニキズムと決別し、ボリシェビキ・レーニン主義に復帰しよう!

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熊谷さんからのメール 投稿者:まっぺん  投稿日: 3月 3日(日)15時48分02秒

中核派「前進」論文への反論が届きました。長いので三次会の方で紹介します。(^^)

革共同中央による「小西=反革命」規定糾弾!!
こころある中核派活動家諸君に訴える

筆名 熊谷 直実

 革共同中核派は週刊『前進』2043号紙上において、ついに小西誠を「反革命」規定した。これは中核派組織全体の総意なのであろうか? それにしてはあまりにも感情的で粗雑な文章である。事実と相違する記述も多く見られる。労働者階級人民に責任を持とうとする革命党が、このような乱雑で感情的な文章を公表しても良いものだろうか?
 またこれは、共に歩んできた同志に対する批判ではなく、明らかに敵対的な批判として書かれており、これまで小西が大衆運動の前進のために闘ってきた事実をないがしろにするばかりでなく、小西と共に進んできた大衆運動そのものに敵対する内容にもなっている。『前進』2043論文のこのような小西批判がいかにまちがっており、労働者階級および大衆運動に敵対するものであるかを、全てのこころある中核派活動家諸君に訴える。

(1)内ゲバを「革命的」と言いくるめる独善性!

 この論文には、清水の怒りがにじみ出ている。それは感情的であるばかりでなく、清水の傲慢で独善的な論理に貫かれている。まず最初に指摘しなければならないのは、革マル派の暴力を「反革命、ファシズム」と規定し、自らの暴力を「赤色テロル」と規定している点である。この規定はこから来たものであるか? どのような階級的分析に基づいて革マル派を「反革命」「ファシスト」と規定したのか? これまでおよそ「分析」といえるような分析はなされてこなかったではないか。ただ「中核派に対する敵対行為」を基準として「反革命」の規定がされてきただけである。つまり「我々に敵対する者は労働者階級に敵対する者であり、したがって反革命なのだ」といっているだけである。
 では何をもって中核派の暴力だけを「赤色」「革命的」と言いうるのか? 「それは中核派が革命的だから」というだけにすぎない。これほど傲慢な態度はない。大衆を愚弄している。「我々は革命的である。だから我々の暴力は革命的なのだ」というパラドキシカルな循環論法はまさしく「革マル派の論理」そのものであはないか。心ある中核派活動家諸君! 諸君は、革マル派を粉砕するために革マル派の論理を採用するのか? もしも革マル派と論理構造を共有するとき、諸君は何を持って自己を革マル派と区別するのか?「何が革命的で何が反革命か」を決めるのは党派の専断的な権限であってはならない。党派はつねに大衆に試されているのである。

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3段階論 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 3月 1日(金)23時45分42秒

って、どこか日本人好みなのかしらと思うことがございます>れんげさま

 わたし宇野経済学ってまるでダメなので(苦笑)、どちらかといえば、《本質論・実体論・現象論》の「武谷3段階論」のほうが親和的かもしれません。ただわたし、思考方法があまり論理的でないものですから本質論から始めるのは不得意で、現象論→実体論といくのですね。そして、本質論は独自に抽象的に。どうもあまり精密でなくて申し訳ないのですが、本質論や原理論から上向してすべてを論理整合的に展開しようとするとたいてい途中で息切れしてうまく行かなくなるものでございます。
 
 どうやら「結果」というあたりにこだわっておられるようですので、「照応」くらいにしておきましょう。資本制近代の「政治」と「社会」の二重性は、抽象的に言えば資本制商品の「価値」と「使用価値」の分裂に照応する、と。
 
> というのは、「価値」と「使用価値」の分裂を止揚していくための現実的な施策が、ま
>だ明らかになっていない。すなわち市場経済をのりこえていく新たなシステムを人類はま
>だ手にしていない、という認識があるからです。

 それはあなたのご認識というより、単純な事実ではございませんか? 
 
>具体的な施策が見出せずに、しかも原理上その結果としてほんとうに「国家」あるいは
>「政治」を、「社会」のなかにふたたび埋め戻していけるのだろうか、という疑問につな
>がっていくのです。

 できるかどうかという問題は、それは誰にもわかりませんでしょう。ただ、資本制という歴史的に形成されたシステムの引き起こしている問題を、「人が人として生きる」ことを前提にして解決しようとすれば、それしかない、と「論理的に」考えられるというにすぎぬとわたし考えます。この前提をはずせば、地球上の人間が全員死んでしまうというのも、資本制を廃絶する具体的な「施策」にはなるかもわかりませんけど(笑)。
 
 それにしても「単純な事実」がやたら重たく感じられるのは、もちろん20世紀社会主義の実験が悲惨な崩壊に終ったためでございましょう。ここで最大の問題だったのは、「所有」の問題ではなかったかと思うのですが。「生産手段の国有」がすぐ「社会主義」と同一視されましたが、それだけなら国家資本主義以上でも以下でもないはず。「国有」は、決して「私有」の否定ではなく、ただ「私有」の一般化された形態にすぎません。それを社会的共同所有の始まりのように思い込んでいたのは、基本的に「施策」の問題というより「思想」の問題、わたしたちが知らず知らず身につけてきた「所有」意識や「国家」観念の制約から来たものでございましょう。
 
 その意味でわたし、共産主義というのは未来社会のビジョンというより、現実の運動のこととして考えたく思うのでございます。

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「階級」について・再論 投稿者:鬼薔薇  投稿日: 3月 1日(金)22時39分37秒

>すえいどんさま こんにちは。

 株式会社は資本調達のひとつのかたちですし、今に始まったものでもございませんね。一般に自己資本比率の低かったドイツで先進国イギリスより早く発達し、そこを基礎にヒルファーディングのいう「金融資本」が成長したこと、ご案内かと存じます。「資本と経営の分離」という現象が目に見えて人々の関心を惹くようになったのは20世紀に入るころからでしょうか。社会主義者でいち早くそこに着目したのはベルンシュタインですけど、第四インター系からもバーナムという人が『経営者革命』という本を著して左翼から離れて行った例があるとか。翻訳もあったかと思うのですが、わたし未見でございます。

 「財閥解体」後の日本では、いわゆる「株の持ち合い」を通じて企業経営の相互異存関係を強め、株主の意向で経営が左右される度合いを小さくし「安定経営」をはかったことはよく知られております。昨今、この「日本的経営」が古いとか不透明だとかの批判が強まり、「株主重視」の「コーポレートガバナンス」とかの議論も流行のようでございますが、これってけっこう合理的なシステムだったのではないでしょうか。もっともその「合理性」は裏にあの「株主総会」なる奇怪なセレモニーを伴っていたわけで、上のような批判がまかり通るのは、その「合理性」が限界に突き当たるまでに肥大化した結果かと存じます。
 
 マルクス主義語としての「ブルジョアジー」には「資本家階級」という訳語が充てられますが、個々の「資本家」を目で見ることは「労働者」以上に困難ですよね。持ち合い方式の「株主」は別の企業の「経営」ですし、「機関投資家」となれば多くは他人のお金を運用するだけの存在ですから、資本の所有者ということもできません。『資本論』はたしかに「所有」を基軸に「階級」を説いておりますが、現代の資本制において、法の上での「資本の所有者」の総和を「階級」としての「ブルジョアジー」とするわけにもまいりませんでしょう?
 
 日本社会ではふつうの人が株などに手を出すのは何かしら卑しいことのように思われてまいりました。でも、マスコミ業界では「従業員持ち株制」が普通ですし、これからの私的年金では多くの労働者が「個人株主」になるはずで、「勤労精神」と対極にあるように考えられてきたこうした通念もまた崩れて行くかもしれません。だからといって労働者が労働者でなくなるわけでもございませんよね。レーニンが帝国主義を特徴付けたときの「寄生性」が、より身近かな問題になるということはありましても、それは「金融的絞殺」の網の目が広がるということにほかなりません。ずっと前から金融機関の支配と収奪に無防備にさらされ続けております中小・零細企業経営者は、とても「ブルジョアジー」とは申しかねるかと存じます。

 では「ブルジョアジー」とは何か。実体に引き付け言えば、「資本の論理」の全社会的な貫徹に与する個人・法人の総称と申す他ございません。自らは資産のない質素な暮しの「雇われ重役」でも、この「資本の論理」の人格的体現者は社会的規定としては「ブルジョアジー」に属しましょうし、いくらたくさん預金や株を持っていてその利子や配当で贅沢に暮していようと、この「資本の論理」の社会的貫徹に直接関与できぬ存在は、「金利生活者」ではあっても「ブルジョアジー」に属するとは申しにくいかと思う次第でございます。
 
 「階級闘争」とは、「プロレタリアート」と「ブルジョアジー」が目に見える実体として衝突するようにイメージできる(すべき)ものではございません。ただ、人間の生命の物質代謝活動(「生産」と「消費」と「再生産」)に「資本の論理」が貫徹することに基礎をおいた支配・被支配関係から生ずるさまざまな社会的・政治的衝突を総括的にみたとき、「階級闘争」の現象形態と呼ぶことができるかと存じます。個々の衝突のあり様は幾重にも屈折してかたちをとりましょう。その意味では、労働者と経営者の間の衝突も、この現象形態の構成要素のひとつにすぎず、他の関係で生ずる衝突に対して特別に「階級的」と称揚されるべき特権を持つとは、わたし思わないのでございます。

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宇野経済学 投稿者:れんげ  投稿日: 3月 1日(金)21時49分42秒

の原理論・段階論・現状分析という三段階理論をボンヤリと思い出しました。鬼薔薇さんの言う国家論の原理論はこのような段階論的な構成に照応するものでしょうか。
「資本論」の商品の章はなんとか当時も読み通したので、鬼薔薇さんのたとえもわからなくはないのですが、価値法則というそれ自体は人間活動の経済的側面からストレートに「疎外された権力」というように「結果」させてよいのかまだ疑問は残ります。
というのは、「価値」と「使用価値」の分裂を止揚していくための現実的な施策が、まだ明らかになっていない。すなわち市場経済をのりこえていく新たなシステムを人類はまだ手にしていない、という認識があるからです。具体的な施策が見出せずに、しかも原理上その結果としてほんとうに「国家」あるいは「政治」を、「社会」のなかにふたたび埋め戻していけるのだろうか、という疑問につながっていくのです。
ソ連型の国家所有を基礎にした命令経済は破綻し、ユーゴの自主管理型の挑戦も挫折(詳細な検討は必要でしょう。岩田昌征氏の論考は優れていると思います)してしまいました。今日の共産主義者にとっての最大の弱点はここにある、私は考えています。

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ブルジョアジーの定義 投稿者:すえいどん  投稿日: 3月 1日(金)11時05分48秒

株式会社制度のもとで所有と経営が分離している今日、ブルジョアジーの定義も問題。ブルジョアジーもプロレタリアートもいったいなんなんだかよくわからないということになれば「階級闘争」とは・・。

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