四トロ同窓会三次会 2002年3月5日〜9日
書き込み自由です。二次会に飽きた方はどうぞこちらへ\(^o^)
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おっとっと 投稿者:れんげ 投稿日: 3月 9日(土)15時49分05秒
↓に題名を入れ忘れました。
ついでに、と言いますか。ハンセン病訴訟にかかる掲示板に「暴力」をめぐる論争がありました。
ハンストも「暴力」だ、というトンデモ論をめぐる議論で、ここの暴力論とはかなり次元の離れたものですが。世間の「暴力」理解を知るひとつのよすがとなれば・・
同サイト「オピニオン」欄に私も投稿しているのですが、わかりますでしょうか(笑)
http://www03.u-page.so-net.ne.jp/ca2/nanya50/%83f%83B%83x%81%5B%83g.html
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(無題) 投稿者:れんげ 投稿日: 3月 9日(土)14時53分04秒
>鬼薔薇さま ごぶさたしておりました。
長文の論考を立て続けに投稿されていて、追いつくだけでも大変です。全共闘運動についてはある程度、本や映像などで知っていたつもりですが、細部になるとやはり不案内です。あえて匿名さんの書かれた、その後の日大の様子とか。それこそ困難な抑圧状況に再び貶められた学生「大衆」に対し、武闘路線にハネるようになっていった党派はどんな手を差しのべたのでしょう。
>占拠した安田講堂での「大衆団交」を最後まで継続することが重要だった局面で、
>出てきた加藤総長に帰れコールを浴びせてみずからその「関係」を断ち切って
>しまったのは、戦術上の誤り以上のものではなかったかと今も思っております。
まさにその「関係」を断ち切ってしまったところが問題だったのでは、と私も思います。越貴来 翔さんの言う「倫理性」の中身ともつながってくるのではないかと。私の考える「倫理性」の柱のひとつは「対話の要求」です。形式をふまえただけの(手続きだけの)悪意の多数決は、どこかで対話を拒否しています。議論を尽くさずに、多数決という「ルール」を利用して、ことを目下の「ヘゲモニー」を握っている部分が強行しようという・・・保守の世界でも同じですが。
安易な暴力容認ではない「実力行使」とは、ひとつ「対話の要求」ということがあると思いますがいかがでしょう。(根本には『人間の尊厳』を守ること)
「ひとの話を聞け!」と言って襟首を掴むくらいの「暴力」だったら、私はいいと思うんですが(笑)
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全共闘の日大≠東大 投稿者:あえて匿名 投稿日: 3月 9日(土)01時40分19秒
>>日大の場合は自治会が存在したかどうか手元に資料がないので分かりませんが、
>>いずれにせよ急進的大衆は全共闘として自己を存立せざるをえませんでしたし、
>>そこに圧倒的な大衆が結集しました。ここでは党派は微弱でしたから、文字通り
>>大衆の自己権力としての全共闘だったと思います。
基本的に、日大と東大とを「同じ全共闘」として論じることは困難な位の違いがあると思います。
日大の場合は、何といっても集会の自由やビラ撒きの自由すらない中で、右翼体育会と当局が一体となった暴力装置として学生に対峙し、その上で当局は学生のカネをネコババして肥え太り、学生はそういう圧制下で学生時代を過ごし、卒業後は「物言わぬ資本の手足」として、東大とは全く異なる「雑多な労働力」としての存在を強要されていたわけです。戦後民主主義とも、「白い巨塔」としてのアカデミズムとも、ポツダム自治会とも無縁の、「限界地」的な位置づけでした。
自治会があったか無かったかといえば、「あった」学部もありますが、それはいわゆる戦後民主主義的・代議制民主主義は無縁な、当局主導の中学生徒会にも劣る御用「学生会」が大多数でした。
当然「党派」としての旨味は全くない上に、政治利用もやりようがないから、いわゆる「党派のポツ自利用」もあり得なかった。
そんなところで起きた運動は、必然的に、徹底的な非和解性・非妥協性とともに全面的な大衆性=非党派性を内包したわけです。だからこそ、あのような爆発的な運動となったし、支配層を根底からを恐怖させる質を持たざるを得なかったのです。
こうした日大闘争の内実は、現在、個人史としては語られても、正当な歴史的評価が行われなさすぎる傾向にあると思っています。もはや、歴史の彼方にあるこの闘いこそ、歴史の中できちんと位置づけられるべきと考えます。
かつて中核派の人間に対して言ったことがあります。偉そうにアジるそいつに、「政治利用しようがないからって、右翼と闘うノンセクトを見殺しにしてコソコソ逃げ出したヤツらが偉そうに言うなよ!」と。
日大闘争「敗北後」の運動の悲惨さは語るに余りあります。形ですらの「学生会」すらなくなり、各学部では孤立した闘いを余儀なくされ、1970年代において焼身自殺者を出す状態でした。
当然(極一部の例外を除き)政治党派は寄りつきようが無く、内ゲバとも基本的に無縁でした。
ここにある意味、日本の政治党派の唾棄すべきどうしようもなさが、全て凝縮しているように思われてなりません。
(参考文献)
※「日大闘争」当時
日大文理学部闘争委員会編『叛逆のバリケード』(三一書房、復刻)
橋本克彦『バリケードを吹き抜けた風』(発行元失念)
※「日大闘争」以降
『日大を許さない−アウシュビッツ大学からの告発−』(第三書館、絶版)
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造反有理・革命無理 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 3月 8日(金)20時57分47秒
>越貴来 翔さま コメントありがとうございました。
「全共闘」とひとくちに言ってもいろいろあったのは当然でございましょう。個々のケーススタディは別テーマとして、ここでは「民主主義」と「権力形成」の視角から、ごく一般的範形を議論するにとどまります。その点、わたし「最良の側面」よりも「ネガティブな面」をこそ語ったつもりだったのですけど(苦笑)。
「多数決原理」は果たして「普遍原理」でございましょうか? ここはもう少しご説明をいただかねばなりません。何がどう「普遍的」なのか、と。わたし、「多数決」というのは「原理」というよりひとつの手続きと考えております。それが大衆的合意を形成するかぎりにおいて有効な手続き。そうした観点からはあまり「普遍性」は語りにくいのですけど。
>もちろん(倫理性のない)多数決原理を拒否して戦う少数派をぼくは尊敬しますけれど、
>散華の美学に陥っては仕方がないし、安易な暴力容認は内ゲバやテロルの蔓延とどこかで
>つながっていたような気がします。
ここで「倫理性」というのは、とても適切な言葉ですね。ヘゲモニーとしての「権力形成」を支えるものはまさしく「倫理性」でございましょう。それは闘いの中で形成すべきもの。「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉も、あれなりにひとつの「倫理性」の表明でございました。まあ、「自己否定」なんて言い出したあたりから怪しかったと思いますけど。
その形成に失敗すれば待っているのは孤立、そこへ追い込まれた姿のひとつがおっしゃる「散華の美学」ということかと存じます。安易な暴力容認→内ゲバやテロル、というのは、(革マル派を別とすれば)この孤立→倫理性の喪失の結果でございましょう。
学生大衆を組織できるのは、敵権力(具体的には大学当局)との緊張関係のなかにおいてだけであり、全共闘の「孤立」というのは、その「敵」との緊張関係を喪失した結果とわたし考えます。占拠した安田講堂での「大衆団交」を最後まで継続することが重要だった局面で、出てきた加藤総長に帰れコールを浴びせてみずからその「関係」を断ち切ってしまったのは、戦術上の誤り以上のものではなかったかと今も思っております。それが当時の全共闘というものだったといえばそれまででございましょう。「造反有理、革命無理」(笑)。
長野の田中県政のこと、わたし実態をほとんど存じませんのでなんともお答えいたしかねます。、申し訳ないのですが。
それが「革命の萌芽」と言えるとしたらなぜか、もう少しご説明いただけますか? たとえば、30数年前の「革新自治体」(東京でなら美濃部知事)と比較して、成立基盤の違いなどどうなのでしょう。キーになる点があるとしたら住民参加あたりでしょうか。かつての「革新自治体」は、その点、完全な「代行主義」でございましたが。
※「黒薔薇」っていいですね(^^)。替えようかしら。
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で、結局また國貞は沈黙ですか。(藁) 投稿者:いずみ 投稿日: 3月 8日(金)10時57分42秒
ま、そーやって一生黙ってくれてればみんなシアワセなんだが。
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>民主主義のこと4 への断想 投稿者:越貴来 翔 投稿日: 3月 8日(金)00時42分59秒
黒薔薇さん、おっしゃることの意味は切ないほどわかります。黒薔薇さんは、全共闘思想の
最良の側面を述べられたと思いますが、ネガの部分はいかがお考えでしょうか。
ぼくは報道を通して知るしかない部外者でしたが、いまとなってはやはりネガテイブな面にも
注目せざるをえません。
>全共闘は、クラス、クラス代議員、中央委員、中央執行委員、という
「自治会」のシステムを「ポツダム自治会」としてあっさり放棄し、代議
制に替わる個々人の直接参加・直接結集を産み出しました。
と、おっしゃってますが、自治会と全共闘との関係はいろんなパターンがあったのではない
でしょうか。日大・東大のまえにも自治会主導で全共闘をつくることがよくありました。
別に代議制だからといって直接参加を否定しているわけではありませんし、ストライキなどは
学生大会や投票によるものも多かったと思います。
日大の場合は自治会が存在したかどうか手元に資料がないので分かりませんが、いずれに
せよ急進的大衆は全共闘として自己を存立せざるをえませんでしたし、そこに圧倒的な大衆が
結集しました。ここでは党派は微弱でしたから、文字通り大衆の自己権力としての全共闘
だったと思います。
東大の場合はさまざまな党派が存在し、自治会のヘゲモニーをめぐって激しく対立して
いたさなかのノンセクト主導の全共闘出現ですから、全共闘系の自治会と民青系の
自治会が存在。そうしたなかで途中段階まで多くの大衆は全共闘に結集ないしは支持し
ましたが、後半にはエゴイステイックなノンポリ大衆の支持を失っていったといって
いいのでないでしょうか。
そのご多くの大学で広がっていった全共闘運動ですけど、なかには過半の大衆の結集も
支持もないまま党派主導でバリケード封鎖にまで突き進んだケースがあるのでない
でしょうか。
ですから、ポツダム自治会論の真髄は「戦うものの一票と戦わないものの一票が同じと
言うのはおかしい」という当事者にとっては切実な実感の論理化であろうかと思います。
しかし、それは独善主義と堕落につながります。少数派の直接行動であってもそのことにより
多数派に転化すればいいのでしょうが(パリの五月では学生反乱が労働者のゼネストに
つながりました)、東大闘争の末期は散華の美学に終焉(「連帯を求めて孤立をおそれず」)
していったような気がします。
つまり、民主主義とは直接民主主義であれ間接民主主義であれ、ブルジョア民主主義であれ、
プロレタリア民主主義であれ、ソビエト民主主義であれ、「多数決原理」です。そして多数決
原理はしばしば誤りを犯しますし、無駄も多い欠陥だらけの制度ですが(戦争とか人権とか
差別とかいった場合はとくにそうです)、それでも残念ながら普遍原理としての多数決原理
以上のものを人類はみいだしてないのないでしょうか。もちろん(倫理性のない)多数決
原理を拒否して戦う少数派をぼくは尊敬しますけれど、散華の美学に陥っては仕方がないし、
安易な暴力容認は内ゲバやテロルの蔓延とどこかでつながっていたような気がします。
全然話が変わりますが、長野田中県政をどう思われます? あそこにはレーニンもトロツキー
もグラムシもローザも予測しえなかった現代の革命の萌芽というかヒントがあるような気が
しますがいかがお考えでしょうか。やはり多数派とならなければどうしようもない。
そして多数派になるためにはエゴイステイックな大衆に媚びるのでなく、倫理的でもある大衆の
感性を突き動かす闘争が必要だと思いますし、そのとき暴力は必ずしも必要でないと思います。
>60年安保を超えた戦闘性の発現として大衆的な支持を得たと存じます。
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「民主主義」のこと・5:「権力」問題(2) 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 3月 8日(金)00時27分54秒
学園闘争の場合に対して、党派軍団が覇を争って展開した街頭政治闘争での「権力問題」はどこにあったかといえば、時の政治権力の動きとそれに対する戦いの組織化に、言い換えれば「政治路線」の問題以外にはございません。時の政治焦点は、「施政権返還」が政治プログラムにのぼった「沖縄」でございました。新左翼諸党派は、“沖縄が返らなければ戦後は終らない”という国民主義的アジテーションをもって施政権返還交渉に乗り出した佐藤政権の動向をどのように捉え、どのような対抗戦略を提起したのか、それはどこまで自らの「戦後」を越える内容であったのか、問題はそこに集中しておりましょう。
このとき新左翼の「戦後」的限界を端的に表現したのは、中核派の「沖縄奪還」路線でした。これが戦後進歩派の「返還」路線の左翼版にすぎぬことは当時から明かでした。「返還」路線の論理は、日本の一部である沖縄がアメリカ軍政下にあるのは不当、というナショナリズムにほかなりません。佐藤内閣の沖縄施政権返還政策は、ナショナリズムを政治権力として体現することにより、戦後民主主義のナショナリズムを露呈させ、その対抗力をまるごと吸い取る内容を持つものでございました。米軍政の下の過酷な状況で闘ってきた沖縄の土着政党に対して、本土の政党は一斉に系列化・一体化に乗り出します。成功したのは(かねてから進められらレてきた)沖縄人民党の日本共産党への統合、失敗したのは(ドロナワ的な)沖縄社会大衆党の民社党への系列化。現地社会党はもともと土着の党ではなく、本土社会党・総評による「系列化・一体化」は、2.4ゼネストの圧殺と、その先頭に位置するはずだった全軍労上原委員長の国会議員への登用(「国政参加選挙」)に具体化いたします。
中核派の「奪還」路線は、こうした権力イデオロギー状況に抵触することなく、ただ不徹底な「返還」に徹底的な「奪還」を対置して行動をエスカレートすれば政治権力との対決になるという想定で闘争戦術の過激化を追及するものでした。他党派もノンセクトも「奪還」路線に感覚的に反発しながら、それに替わる路線も運動組織論も提起できず、「第三次琉球処分反対」などスローガンはいろいろ工夫をこらしたものの、行動上は行動戦術のエスカレートに終始した点、実践的には中核派と選ぶところはなかったと存じます。
沖縄施政権返還という政治過程は、日本国家の支配境界を変更することを意味しておりました。国家の境界変更とは、その「権力」の外的枠組が変わるという意味で、単なる支配・被支配関係とは異なる次元の政治が、言いかえますと「国家」そのものが露出したことを意味いたします。「返還―復帰」路線はこの「国家」の論理に吸収され回収される局面を迎えました。ここで新左翼が「返還」路線を超える新たな闘いの政治方針を提起できなかったことは、「自国帝国主義打倒」のスローガンを具体化できなかったことを意味いたします。沖縄では、長年掲げてきた「祖国復帰」に対する強い疑念とそれをめぐる亀裂があちこちに表面化いたしましたが、新左翼がそこに依拠して戦線を構築できなかったのは、党派軍団の力量問題ではなく、上のような政治思想の貧困に起因するものだったと申す他ございません。アメリカ軍政支配からの解放だったはずの「本土復帰」が実は「ヤマト帝国主義による併呑」であることを感知した沖縄民衆の中から表出された「反ヤマト」感情に対して、新左翼は、それを「沖縄民族主義」だと切り捨てるか、あるいは「沖縄自立」へ無責任に擦り寄るかにあいまいに分岐しながらデモに流れて行ったのでございました(後者はすぐ後の「差別告発」論へ接続いたします)。
「権力闘争の時代」というスローガンは、ここでもまた単なるアジ語にとどまったと申す他ございません。こうした政治水準からは、ベトナム戦争に動員された米軍兵士との交歓や連帯の契機もまた産まれようもなかったことでしょう。実際、「脱走兵士」支援活動は、新旧左翼ではなくべ平連系市民組織に担われたのでした。
なお、白井明『中核派民主派宣言』が当時の「奪還」路線に一言も触れていないのは大変印象的でございます。「民族問題」に向けられる白井さんのご関心が、どこで自国帝国主義のナショナリズムと切り結ぶのか、それを軸にした政治路線の検証は射程外に置かれていると思うほかございません。
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オオカミおじさんの國貞某 投稿者:焚火派北部同盟(罵倒派) 投稿日: 3月 7日(木)14時20分32秒
貴様のような無節操かつウソつきの言うことに、かす耳など無い!!
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よくこんなうすら寒いウソ言えるね。 投稿者:いずみ 投稿日: 3月 7日(木)13時07分55秒
>お久しぶりでございます。私の見解についてまとめていただいたようですが、私は<擁護>していたわけではなく、闘争の現場において<共闘>していた、ということです。
もう、ヘソが茶を沸かすというレベルじゃないな。
>今回の件は、完全なるフレームアップであり
白を黒と言いくるめる手法。
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まっぺん殿 投稿者:國貞陽一 投稿日: 3月 7日(木)13時01分49秒
お久しぶりでございます。私の見解についてまとめていただいたようですが、私は<擁護>していたわけではなく、闘争の現場において<共闘>していた、ということです。
>それなのに、なんで宮崎がふたたび運動に関わってきているのに、「協力しているわけじゃない」といいながら積極的にあちこちに宣伝しまくっているんでしょうか?
宮崎氏が運動に復帰している、という認識はありませんが。また、私は2・25のロフトプラスワンの企画について、事前にひとことも発言していません。ましてや<宣伝>などしておりません。
「あちこちに宣伝しまくっている」などと何を根拠におっしゃられるのでしょう? 事実誤認による<誤爆>はやめてもらいたいと思います。ですから、
>「わたしはスパイ宮崎についていく」宣言をした
などと言われても、「何のことやら」と思います。今回の件は、完全なるフレームアップであり、こうした<妄想>的糾察が、「魔女狩り」になると私は申しています。
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念のため私信公開問題について証拠を。 投稿者:いずみ 投稿日: 3月 7日(木)10時53分27秒
http://ebi.2ch.net/test/read.cgi/regulate/1014126595/228
>228 :いずみ :02/03/05 00:49 ID:hvHpOC6D
> 國貞よ、ここで宣言しておこう。
> 貴様が、いずみに言及したすべてのドキュメントは、すべて広く公開していく。それだけだ。
いずみが公開したメール:
>Date: Tue, 05 Mar 2002 03:33:28 +0900
>From: Kunisada <kunisada@magazine.co.jp>
>To: izumi@nurs.or.jp
>Subject: 了解です。
かつ、このメールの本文には、上記書き込みの直前の書き込みが引用されていて、Subject:の「了解です」はその一部分に賛成する内容だったわけです。
つまり國貞は当然、上記の「全部公開する」を読んだ後でこのメールを出してきています。
公開されることは予見できたはずです。「すべてのドキュメントを公開する」って書いてるんだから。
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國貞さんへ 投稿者:まっぺん@焚火派地下戦線 投稿日: 3月 7日(木)10時41分11秒
わたしも宮崎のスパイ問題追及に関わってきた者として発言させてもらいます。
昨年から、國貞さんとのあいだで二次会他の掲示板でなんども議論し、またメールもいただいてきたと思いますが
それらの発言の中で、あなたの趣旨は以下のようなものだったんじゃありませんか?
●宮崎がスパイであるかどうかの確信をもっていなかった人まで「スパイのカタワレ」呼ばわりするのは魔女狩りと同じだ。
●自分は宮崎のことをよく知っているわけではなかったのではじめは擁護していた。それはしかたがない事だ。
●しかし事実に基づいて考えると宮崎はこれ以上運動に関わるべきではないと自分は思う。
●しかし宮崎がひとりの作家として活動を続けていく権利を剥奪するところまで追及する権利は誰にもないと思う。
つまり、最初は宮崎について「スパイ」の確信をもっていなかったので協力してしまったけど
発覚した事実とそれについての宮崎の態度を考えると、これ以上宮崎は運動にかかわるべきではない、というのが
これまで私達と一緒に話し合ってきてあなたが達した結論だったんじゃありませんか?
それなのに、なんで宮崎がふたたび運動に関わってきているのに、「協力しているわけじゃない」といいながら
積極的にあちこちに宣伝しまくっているんでしょうか?
これは結局「わたしはスパイ宮崎についていく」宣言をしたも同然じゃないですか?
前回はまだ「知らなかったんだからしかたないじゃないか」と言うことはできるでしょう。
今回はそれじゃすまないよね。そんないきあたりばったりな、いい加減な態度でいいの?
自分が過去に言ったことに責任をとれないような人間は人から信用されませんよ。
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まちがい 投稿者:いずみ 投稿日: 3月 7日(木)08時31分45秒
最初の行は
そういう、人間としてすら最低なことをするから藁われるんだよ。
と書くところでした。
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ほらほらまたすぐに見解を変える(藁) 投稿者:いずみ 投稿日: 3月 7日(木)08時22分30秒
そういう、人間としてすら最低なことをするからだよ。
いいか、既にチミとここらへんの人たちの間には「討論が成立しない」
という認識が、ここらへんの多くの人にはあるわけだ。
そしてチミはいずみに対し「きみのことは見ていられない」と言い放った。
この時点で双方の対話が成立していないという現状認識が、双方から、公開されたわけだ。
その上でこちらが「國貞に関する話はさらしage」としているところに、わざわざ、まったく空虚・無反省な私信が来たところで、それは対話にもならないし信義にも基づいていない以上、こちらがある程度のリスク(それを読んだ人一般の中である程度反発が起こり得る)を踏んだ上で公開することには何の問題もない。
なお、ブルジョア法的には今回の場合は民事不法行為は成立しない可能性が極めて大きい。それ以外の罪にはそもそもならない。
かつ、じゃブルジョア法じゃない倫理観として言えば、ネットワーカ一般の中では「私信公開はいかなる場合もNG」とする人はいるだろうが、古くからのインターネットユーザには「このケースならOK」とする人は多いだろうと確信するし、例えば津村さんがよくいう「左派にとっての著作権、左派にとっての仁義」からはこれは全然逸脱してないと思うね。
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他意はございません 投稿者:國貞陽一 投稿日: 3月 7日(木)03時37分32秒
焚火派北部同盟(穏健派)殿
私に深遠な意図などございません。
いずみさんの<倫理>を許容するネットワーカーの方々という
程度の意味です。あるいは、いずみさんが作ろうとしている
ネット上の<運動圏>を支持されていらっしゃる方々という
程度の意味です。むろん、いずみさんとその他の方々を一緒に考えている
わけではありません。焚火派の皆さんの中にも、<私信公開>を
是としない、まともなネットワーカーの方々もいらっしゃると思います。
ちなみに、焚火派北部同盟(穏健派)様は、いずみさんの<私信公開>という
暴挙をどのように<評価>されるのでしょう。
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國貞陽一さま 投稿者:焚火派北部同盟(穏健派) 投稿日: 3月 7日(木)01時43分32秒
僭越ながら、質問させて頂きます。
下の書き込みで、タイトルに「いずみへ」とお書きになり、本文では「あなたたちの<倫理>」と複数形で表されておられるのは、何か図り知れない深遠な意図がおありなのでしょうか?
といいますか、「あなたたち」って、誰よ?
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いずみへ 投稿者:國貞陽一 投稿日: 3月 7日(木)01時23分05秒
私信を公開するサイバー・アクティビストとは聞いて笑わせるぜ!!!
あなたたちの<倫理>など、その程度のものだとはっきり確認させていただきました。
以上、おわり。
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国家・市民社会と価値法則 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 3月 6日(水)23時57分57秒
>れんげさま ちょっとごぶさたしております。
藤原保信『自由主義の再検討』という本を見つけました(岩波新書)。ご関心の表題にかなり焦点の合った内容かと思われますので一筆。わたしもこれを読んでいたなら、あんなにたどたどしい書きぶりにはならずにすんだのに、とちょっと悔しく思いながらページを繰っているところでございます。
日本のマルクス主義に欠けていたのはやはり「政治学」だったのかと、少ししみじみさせられます。藤原さん、早稲田の先生で政治思想史がご専門。数年前にお亡くなりでございます。先日書名だけご紹介しました『公共性』の斎藤純一さんなど、お弟子さんたちが第一線でご活躍のようでございますが。
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民主主義のこと・4:「権力」問題(1) 投稿者:鬼薔薇 投稿日: 3月 5日(火)23時45分40秒
新左翼諸派の行動急進主義は、60年安保を超えた戦闘性の発現として大衆的な支持を得たと存じます。この戦闘性の社会的必然を感知できなかったのが革マル派であり、共産党・民青であり、そして初期には構造改革派でございました。全共闘は、クラス、クラス代議員、中央委員、中央執行委員、という「自治会」のシステムを「ポツダム自治会」としてあっさり放棄し、代議制に替わる個々人の直接参加・直接結集を産み出しました。これに対して上の3派は共通して「学生自治会」へのこだわりを示しました。共産党・民青は「暴力学生追放」を掲げて大学秩序の維持勢力として登場し、ゲバ棒と放水の衝突を「割り箸と水鉄砲の“闘い”」と揶揄した革マル派は自派組織の温存を第一義に戦線離脱し、「層としての学生運動」に拘泥していた構造改革系各派は情勢に(実は大衆に)押されるまま(それぞれ内部クーデタを経て)なしくずしに戦闘化=戦術左翼化いたします。
「ポツダム自治会」を否定した全共闘、支配秩序と化した「戦後民主主義」に対抗した新左翼は、それに替わるべき規範の形成、言いかえれば「権力」の問題に直面したはずでございます。「権力闘争の時代」という扇動の言葉は、そうした状況をたしかに反映しておりました。けれどもそれはどこまで「権力問題」の実相に対する解答となっていたのでしょうか。
大学をバリケード封鎖した全共闘は、支配権力に対しては「被支配者」として自己を表現していたと同時に、制圧したキャンパスの中では自らが「支配者」でございました。いわば「二重権力状態」がそこに産まれたと申せましょう。これは、規模こそちがえ2月革命から10月革命に至るロシアの内政状態と原理的には似た状況でございました。「ソビエト」と「臨時政府」は、ある局面では一方が、別な局面では他方が、それぞれ「支配者」の、あるいは「被支配者」の位置に立たされました。「二重権力状態」というのは、単にふたつの権力が並び立つというだけでなく、いずれもがある局面では「支配者」、別の局面では「被支配者」という二重の性格を余儀なくされる状況を意味いたします。全共闘はまさしくそうした二重性を自ら招きました。これが当時の「権力問題」の具体的な次元だったと思うのでございます。「闘う民主主義」もまた当然二重性を問われます。それは、安保全学連が到達することのなかった新しい地平でございました。けれども、当時の政治党派は、この具体的次元に即して「権力」問題を提起する政治能力を欠いていたと思います。
バリケードをはさんで対峙する大学当局および政治権力に対しては被支配者としての団結、制圧したキャンパスの中では自己権力としての秩序、いずれも闘う学生大衆自身が担うほかないものであり、党派に求められたのは、こうした団結と秩序の形成に向けた大衆的結集をはかることでございました。ロシアでの「すべての権力をソビエトへ」というスローガンの意味もそこにあったはずでございます。ここで諸党派は、人民の権力たるソビエトや、大学における全共闘という小権力を大衆自身の闘争機関=自己権力機関として機能させる大きな課題に直面し、そうした方針提起能力を問われました。
けれども党派組織は、大衆の戦闘性全体を「指導」するのではがなく、結集した大衆のなるべく多数を自派にとり込むことに腐心していたのが実相でございました。いわば各派は、アフガニスタンやかつての中国の「軍閥」のように“解放区”に割拠し、戦闘的大衆を「分割統治」していたにすぎません。こうした関係では党派間の「内ゲバ」は必然でございました。「内ゲバ反対」のスローガンも、自己権力の担い手としての責任ある行動に裏付けられぬ限りは、特定の「党派性」の自己宣伝以上のものにはなりえません。その姿を東大ではML派が示しました。闘う大衆を囲い込んだ党派軍団は、大学当局との緊張関係のうちに学生大衆を結集することができず(大衆団交の解体)、警察権力との物理的衝突へ追い込まれて行きました。69年1月安田砦は、物理的(軍事的)敗北だった以上に、「闘う民主主義」を権力として形成できなかった政治的敗北であったと存じます。この点を看過してただ「物理的=軍事的敗北」の面だけで総括すれば、出てくる方針が「軍事」のエスカレートへ収斂するのも論理必然と申すべく、「権力闘争の時代」を呼号した諸党派は、当の「権力問題」でその指導能力の限界を露呈したと言えようかと存じます。
(2)では、街頭政治闘争の相での「権力」問題を扱う予定にしております。
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平野はいつもこう。そして絶対に反省しない。 投稿者:いずみ 投稿日: 3月 5日(火)21時48分14秒
こういう輩が言う「個人情報保護法案反対」って一体何?
…あ、反対してないんだっけか。売名行為でやってるだけね。
#言っとくが売名行為は全然悪いとは思いませんよ。ただし運動圏にはその実態は知ってもらわねばね。
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「熊谷さんから」って書いてあるジャン 投稿者:noiz 投稿日: 3月 5日(火)21時06分22秒
「中核派「前進」論文への反論が届きました。長いので三次会の方で紹介します。(^^)」って書いてあるジャン。yukun は人の文章を真面目に読むつもりがないのでしょうか。
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俗流ブルジョア経済学宇野理論 投稿者:すえいどん 投稿日: 3月 5日(火)15時39分31秒
何か、昔プチブル急進主義批判の本があったなと思って栗木伸一「我々の闘いの軌跡」をながめたら、俗流ブルジョア経済学宇野理論批判が主。宇野理論が正しいかどうかはわかりませんが、資本主義の運動をあたかも永遠に繰り返すかのごとくして明らかにする原理論は、社会変革の必然性を実証できないなどという批判を見ると、歴史法則主義のつぶれた現在、宇野がむしろ唯一生き延びた理論体系ではないかという気がしないのでもないのですが・・。さらに感想を言えばプチブル急進主義と決別しても、あまり成果はなさそう。
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貴様はここに登場する資格などまったくない! 投稿者:いずみ 投稿日: 3月 5日(火)15時32分41秒
さっさと死ね!ストーカー平野悠!
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(無題) 投稿者:熟女 投稿日: 3月 5日(火)13時53分57秒
下記のまっぺんさんの「論文?」に
「う〜ん」と深く不覚(笑)に入り込んでしまいました。
70年代以降の珍左翼の犯罪性を鋭く捉えた、貴重なかきこだと思います。
コピーしてみんなに配りたいと思いました。
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まったくもってふざけきった話 投稿者:いずみ 投稿日: 3月 5日(火)10時18分58秒
このメール自体が、そもそもネット上で、24時間経たないうちに発言を2転3転n転(n≧4)させてきた國貞のものである以上まったく信用できませんが、もし信用できたとしても、
>運動内での民主性・透明性と相互批判の保証こそが、それこそ「内ゲバ主義」の克服のために不可欠だ、と考えているからです。
に「同意」しつつ、結局、小西誠さんや津村洋さんらに対しての権利抑圧に対してちっとも語っていないところなど、まさに無責任の極みです。それこそ「坊主懺悔」以外の何の意味もない。うんこ未満。
國貞は、これを読んだのかね?
http://www1.jca.apc.org/aml/200110/24714.html
これに答える気はあるのかね??? ないだろう!
そんな奴に何を言われても空しいだけなんよ。
「自己批判」て、そもそもどこがどう悪かったかどうかを明らかにしない自己批判はただの「坊主懺悔」。それならまだ、居直っていた方がマシなくらいです。
2ちゃんねる「個人情報保護法案てどーよ?」スレ
http://ebi.2ch.net/test/read.cgi/regulate/1014126595/l10
で表明したとーり、「國貞がいずみについて言及したドキュメントのすべて」は広く公開しつづける。この宣言の後、かつ明らかのこの宣言後の同じスレでの書き込みへのリプライとして送られてきたこのメールも当然その対象だ。
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またまた國貞がトンデモメール 投稿者:いずみ 投稿日: 3月 5日(火)10時11分37秒
二次会板を蹂躙しまくり、「個人情報保護法案反対運動」で妄想を全開
させている國貞陽一(元第4インター・横堀要塞戦士)が、こんなメール
をよこしてきました。
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いずみ様
下記のご発言、理解しました。
> とりわけ私を含む数名がこの件にこだわっているのは、運動内での民主性・
> 透明性と相互批判の保証こそが、それこそ「内ゲバ主義」の克服のために不可
> 欠だ、と考えているからです。そしてそれを現状で最も客観的に、フェ―ルセ
> ーフつきでなし得るのはこのネット空間だと考えているから、ネット空間での
> 言論を蹂躙しまくる國貞に対してはそれを徹底的に弾劾しつくす他ないと考え
> ているのです。
>
このことはまったく同意します。
ネット上での民主性・透明性・相互批判の保証は
されなければならないと思います。
私はかつての四トロ同窓会での乱暴な物言いを
自己批判しています。
私は<自由の沃野>としてのネット空間が実現しえればとも
思っています。ただし、そこには最低限の倫理がなければならないとも
思います。つまり、「氏ね」とか「逝ってよし」とかの汚い言葉が、
人間を解放する<言語空間>だとは、どうしても思えないのです。
私は、いずみさんがこのような言葉を使って、自らの品格を
落としていることがどうしようもなく惜しいと思っています。
そこにあなたの<自由>もあるのでしょうが、
いずみさんはもっと高貴な存在でいられるはずではないでしょうか。
そのような力があなたにはあるはずです。
私など、運動圏にとってはどうでもいい存在なので、
あなたこそがみんなに勇気を与え、闘う先頭に立たなければ
ならないでしょう。私は、あなたにこれ以上、言う言葉がありません。
ここまで嫌われた以上、あなたと話すことはないかも知れませんが、
今後のご活躍を陰ながら応援しております。
これは他意なく申し上げていることです。
私の感性がいささか古いことは充分に認識しております。
新しい隊列を作ってください。
よろしくお願いします。
いずれにせよ、私は、もはや他者に対して
暴力的に関わることは止めにしました。
それは、パトリス・ジュリン氏から学んだことです。
ピースフルな状態にいかに持っていくか、
そのための努力をしたいと思います。
では、お元気で。
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