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蔵田計成氏によるSENKI公開質問状への回答にみる内ゲバ党派への屈服ぶり
赤色土竜新聞第6号 2003.4.6

●蔵田氏は内ゲバ党派とどんな「豊かな関係」を結ぶつもりか?

 蔵田氏は「関係性の貧困」を主張する。「誰と誰」の関係性のことを言っているのだろうか? 氏の論文を読めば、それが「批判者と反批判者」いいかえれば「批判して内ゲバ襲撃を受けた者」と「批判され内ゲバ襲撃をおこなった者」との関係性の事であるのがわかる。そしてこの「関係性」を前提として「批判者の批判内容・質・目的意識が反批判者側の対応を逆規定する」と言う。それは具体的には、次のような事をいうのである……「たとえ、批判者の用いた手段が言論、出版、ビラまき行為に限定されたものであったとしても、あるときには反論の枠を越えて、批判した相手によって行使される自己防御的な暴力的反批判を誘発させてしまい、その暴力的反批判の行使に一定の根拠を与えてしまう。このように関係性の質が批判行為と反批判行為の性格を規定する。」
 つまり、内ゲバに遭うのは批判者の方が悪いのであり、「目的意識性や批判内容などにおいてきちんとした批判をしなければ相手に何をされてもしかたがないぞ」と言っているのである。平たく言えば「口のききかたに気を付けないとゲバられるぞ」ということである。「批判が反批判者を逆規定する」という発想は内ゲバ実行者側の立場に立った態度であり、まったく反動的な主張と言わざるを得ない。我々は他者を批判する時にはどんな立場からでもまったく自由に批判できるのではないのか? いちいち内ゲバ党派の立場に理解を示してあげなければ批判もできないのか? 何らかの「正しい条件」をクリアしていない批判は内ゲバ襲撃を受けてもしかたがないのか?
 では、何らかの意義ある批判でなければ批判をしてはいけないということになる場合、批判がその条件にかなっているかどうかを判定するのは誰なのか?「批判が反批判者側の対応を逆規定する」というからには、その判定者は他ならぬ「内ゲバ襲撃者」自身の事になるではないか。そこから導き出される結論はひとつしかない――「内ゲバ襲撃者が納得するような内容でなければ批判してはいけない」ということである。蔵田氏はこうした関係が内ゲバ襲撃者との間に成立していない事をもって「関係性の貧困」というのである。相手が納得するような、言い換えれば「内ゲバ襲撃されないような内容において」相互批判をする関係をうち立てよ!と言っているのに他ならない。このような関係を内ゲバ主義者たちと結び、はじめから判断権を内ゲバ党派側にゆだねるような批判をすることにどのような価値・意義があるのか? 蔵田氏のこのような思想は内ゲバ主義者に屈服するまったく反動的なものであり歴史からまったく何も学んでいないと言わざるを得ない。

●相互批判の協働性と目的意識性を放棄したのは誰か?

 次に蔵田氏はほぼ同じ意味ではあるがもう少し具体的な内容として「協働性と目的意識性をもった批判・反批判」を提唱する。つまり蔵田氏は「相互の関係性」をより豊かにしていこうとする具体的な実践課題として「協働性と(共同の)目的意識性」とを成立させようと主張しているのである。このような主張の背景にあるのは「内ゲバ襲撃者もまた反権力を闘う“同志”である」という意識であろう。内ゲバ襲撃者への批判は「同志」としておこなわれなければならない、と蔵田氏は主張しているのである。白井氏も佐藤氏も、その点において「批判の視点を誤った」(から襲撃されてもしかたがない)と氏は主張しているのである。
 だが、よく考えてみたまえ。そのような「協働性・共同目的意識性」を破壊してきたのは誰なのか? 他ならぬ内ゲバ襲撃者の側ではないか。内ゲバによって他者を自己の思想・組織のもとに屈服させ、党派の利己的な利益のために大衆的利益を破壊してきた者こそ批判されるべきではないのか? その事実を軽視または無視して批判者側に「批判の仕方」について高説をたれるとは、なんという本末転倒で卑屈きわまる発想であろうか?

 蔵田氏の批判の反動性はさらに続く。その支離滅裂さは、「第二」の1〜4までの中にも歴然としている。
 まず「1」において「絶対的価値」なる基準と「当事者性」が持ち出される。蔵田氏によれば内ゲバにおいては「反批判者」つまり内ゲバ襲撃者による「正当防衛」論理は有力な根拠であって、それに対して第三者の論理などは「彼岸の論理」「非当事者の価値」に過ぎず、絶対的価値ではないのだそうである。内ゲバ問題は襲撃者と被害者との問題だから「第三者は口を出すな」と言っているのである。そうすると氏の言う「絶対的価値」とは「襲撃者」か「被害者」の言い分のどちらかにある事になる。しかも、前項の蔵田氏の主張と重ね合わせれば、その二者のうち、批判者の言動は反批判者の対応を「逆規定」するというのであるから、内ゲバ問題では「内ゲバ襲撃者の主張にこそ絶対的価値がある」と言っていることになるのである。
 この主張は次の「2」〜「4」において更に補強される。こうして「第三者の存在」を排除した蔵田氏は次に「批判者」の批判がどんな手段・内容であろうとも、それに対して反批判者側が執りうる手段は「フリーハンド」であって「無限定的」なのだという。批判者がどんな批判をしようと、襲撃者側には暴力をも含むあらゆる手段・方法が選択肢として残されているというのである。何という驚くべき発想だろうか! つまり、蔵田氏に言わせれば、「あらゆる選択肢」が内ゲバ襲撃者側には確保されており、批判者側は内ゲバを受けない保証はまったくないのである。これでは最初の蔵田氏の主張とも矛盾するではないか。相互の「協働性・目的意識性」の共有空間において「内ゲバ党派が納得する批判」をするべきだと蔵田氏は提唱していたのではなかったのか? こんどは内ゲバ党派には、そのような規制さえも受けない無限定的「フリーハンド」が認められるというのか? これでは「内ゲバ襲撃者が一方的に正しい」という主張以外に何が残されているというのか? 『検証内ゲバ PART2』において連合赤軍の悲劇を嘆き中核派・革マル派の内ゲバ体質を分析して見せた蔵田氏の「内ゲバ批判」の視座はどこに行ってしまったのか? 内ゲバ党派に対してここまで卑屈な態度を見せるのはなぜなのか?

●「妥当性を欠く」と言う「排除の論理」に自ら屈服する蔵田氏

 我々は、内ゲバを「自己の主張を暴力的に他者に押しつける態度」として理解してきた。これは自己の主張以外には認めない「排除の論理」の一種であるのは明白である。蔵田氏は、その内ゲバ主義者の論理を受け入れ、それに屈服する事を前提として論を構築しているのである。もはや救い難い「内ゲバ暴力崇拝者」と言わねばならない。
 ところが蔵田氏はみずからこのような党派の「排除の論理」に屈服しておきながら、排除の論理は「妥当性を欠く」と主張する。その論ずるところを見れば、それは「大衆運動の中から内ゲバ党派を排除するな」ということにつきる。大衆運動が「統一と団結」の名のもとに内ゲバ党派を排除すれば、それは「排除の論理」ということになると。そしてまた蔵田氏は言う―(歴史から取り出すべき教訓は)「あらゆる色合いの『排除の論理』が徘徊している事実の中にある。この大衆運動における多様な拡散性の否定的側面が、日本における階級闘争やさまざまな運動の発展にとって、大きな阻害・衰退・利敵要因になってきたことは明らかである」と。だから蔵田氏は大衆運動における「多様な拡散性」のひとつである内ゲバ党派も「排除してはいけない」と言うのである。
 では蔵田氏に伺いたい。大衆運動に「右翼」や「ファシスト」が連帯をもとめてやってきたらどうするのか?現在こうした可能性は大いにあり得る。なぜならいま我々の眼前に出現している反戦運動は、まさに「階級意識」などまったく持たない人々が圧倒的多数なのであり、そこでは左翼も反共主義者も一緒に反戦運動をたたかっているからである。だから自称「ファシスト」といえども、戦争に反対する者は共に闘う事ができるのである。蔵田氏の論理に従えばファシストや右翼も排除するべきではないことになる。しかし、蔵田氏は排除の論理が「大衆運動の多様な拡散性」を否定し運動の発展を阻害すると語った同じ文章において、佐藤氏の言動を「ファシスト」のそれであり、彼の「言論・出版の自由」を認めることは「到底無理」と決めつける。何という論理的一貫性の無さ!何という二枚舌だろうか!これが批判の「厳密性」を説く人の文章と言えるだろうか?「排除の論理は内ゲバ党派に適用してはいけないが、自称ファシストに対しては適用される」というのならば、その根拠を示してもらいたいものである。いやそもそも、一個人にすぎない人物がその言動が「ファシスト的」と判断されただけで集会から排除されることをどう思うのか? 「排除の論理」に反対しながら内ゲバ党派の「排除の論理」に屈服し自らも佐藤氏の排除を主張する蔵田氏の見苦しい詭弁はあまりにもみじめな論理破産を我々の前にさらけ出している。

●人民の側に立つ「排除の論理」は妥当である!

 今回出版された『検証内ゲバ PART2』における「景清論文」は、革共同両派に対する75年の知識人提言を検討し評価を下すものであった。これを読めば分かるようにこの時の知識人提言の内容は、まさに蔵田氏がここで主張してきたのと同じ「内ゲバ党派に迎合する態度」からのものに他ならない。蔵田氏が第三者を「絶対的価値がない」としりぞけて「批判者と反批判者」とに限定して分析してきたのとちょうどそっくりに、75年の提言者たちも、「革共同両派」に限定して主観的な「公平さ」をもって提言し、そして失敗したのである。彼らの目には、彼らが勝手に認定する「両当事者」である中核派と革マル派しか映っていなかった。蔵田氏と同じく彼らにとっても第三者である大衆は「当事者」ではなかったのである。
 しかし、内ゲバがもたらす被害は、本当は大衆運動そのものにとって最も深刻なのである。「革命理論」がどんなに立派であれ、現実に他者を襲撃し死傷者を出すような行為を起こすことは、大衆運動にとって迷惑であり敵対的行為なのである。だから早稲田闘争をはじめとして大衆が決起し内ゲバ党派を追放する闘いが起こってきたのである。『検証内ゲバ PART2』にはそうしたいくつかの事象が複数の著者によって提起されているではないか。
 内ゲバ党派は大衆運動から「排除」されなければならない。この排除の論理は蔵田氏が無原則的に「一般化」して見せる「排除の論理」一般とは明らかにちがっている。党派による「排除の論理」が「我が党派の主張以外は認めない」という「唯我独尊」的排他的論理であるのに対して、大衆運動から内ゲバ党派を排除する論理とは「排除する者を排除せよ」「閉じた運動を強制する者を排除せよ」という論理なのであって、蔵田氏が心配するような「閉じた運動」「タコツボ状態」などにはならないであろう。それどころかそうした危険を除去する作用をもたらすのである。

●蔵田氏の脳内における「内ゲバ衰退の必然性と論理的回路」

 蔵田氏の文章はそれまでの主張とはまったく何の脈絡もなく、突如として「第六」の主張へと飛躍する。ここでは内ゲバを「愚かな自己矛盾と背理」ととらえ、内ゲバが組織にもたらす矛盾について論理的説明を試みている。そして内ゲバは「自己否定」であるがゆえに「自滅・衰退」すると結論づける。だが、蔵田氏はこんな事を書いて大丈夫なのか?これは内ゲバを「権力の手先への正当な反撃」と自己正当化する彼らに敵対する論理であり内ゲバ党派に対する「破産宣告」でもあることに蔵田氏自身気づいているのか?「批判が反批判者を逆規定する」という蔵田氏の論理に沿って考えるならこのような意見は「フリーハンドな反批判者」から襲撃を受けはしないか、事前に内ゲバ党派にお伺いを立ててちゃんと許可をもらわないと危険なのじゃないかと蔵田氏の身が心配になるほど、今までの論調と矛盾した内容であり「協働性」もない主張なのであるが、彼がこんな主張を突然ここに持ち出してきた理由は明らかである。それは内ゲバは「論理的に矛盾する行為であり党派にとって自己否定行為である」から、排除の論理によらなくても自然に消滅すると力説したいのである。「自然に消滅するんだから何も大衆的に排除する必要はないじゃないか」と蔵田氏は言っているのである。
 どうやら蔵田氏はなんとしても内ゲバ党派を大衆運動から排除したくないらしい。だが、蔵田氏が脳内においてでっちあげたこんな「論理」はすでに「歴史的現実」によって破産が証明されているのである。自己矛盾に陥った組織・集団が長い歴史的時間を生き延び続けた事実があるからである。我々は、ソヴィエトがスターリン主義者によって簒奪され、その権力が世界中の共産党を堕落させ、官僚主義・テロリズム・内ゲバ主義など大衆運動にとって否定的・敵対的な問題を生みだしてきた事を知っている。1930年代に確立したスターリン主義権力は60年間にわたってひとつの国家を掌握してきた事を知っている。蔵田氏はその事実を無視するのか?ソヴィエト民主主義が60年以上にわたってスターリニストによって踏みにじられ、最終的に革命事業そのものが破産してしまった事実を見ても、日本共産党結党以来80年以上経過するのに日本左翼から内ゲバの風習が消滅していない事実を見ても、それでも内ゲバ主義思考は「自滅・衰退する」などとなぜ言えるのか?
 蔵田氏はこうして自分の頭の中ででっち上げた「理論」を手がかりに現実とまったく相反する結論を導き出す。現実から学ぼうとしない蔵田氏の「空想的社会主義者」ぶりはここでも見事に暴露されている。我々は内ゲバとその背後に潜む反動的党派性思考を徹底的に暴き出し、大衆運動から叩きだしていかなければならないと考える。大衆が意識的に反内ゲバ運動に立ちあがらなければ、内ゲバが論理破産であるからといって自然に消滅することなど絶対にあり得ないのである。

●大衆こそが「当事者」であり、判断の主体なのである

 以上に見てきたように、本人が主観的に「内ゲバ反対」を唱えているにもかかわらず、蔵田氏がおぞましい内ゲバ擁護論者であるのはもはや明白である。このような内ゲバ主義者の言動は、本人が自覚していない分だけ、自己の思想・発言に対しても無責任なものとならざるを得ない。
 蔵田氏は「当事者性」を重視する。そして当事者性とは、この場合、「批判者と反批判者」つまり「内ゲバ党派を批判して襲撃を受けた者」と「批判され襲撃した党派」との関係として描き出される。そこには一般の大衆は関係してこない。いや、それどころか蔵田氏にとっては、そうした一般大衆などは「絶対的価値をもたない」「非当事者」なのである。
 これまでの内ゲバ研究の中でわれわれは何を議論してきたのか?内ゲバは「大衆と無関係」なものとしてとらえられてきたのか? 日本大衆運動・階級運動の全体が内ゲバをひとつの有力な原因として後退させられてきたと総括してきたのではなかったのか? 蔵田氏にとって「内ゲバ」は党派間の問題であって日本階級闘争全体とは無関係だったのか?もはや蔵田氏の知性は退行していると言わざるを得ない。
 マルクスは第一インターナショナルの宣言において「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業」であることを説いた。大衆が階級的自覚を大きく後退させた現代社会においてもこの社会を変革するのは「大衆自身の事業」であるという点において、マルクスの真理は有効である。しかし「大衆」とは「アマルガム」なのであって、特定の指向性や特定の思想性を持っているわけではない。情勢の変動の中で、大衆は無知蒙昧なまま独裁者のくびきに繋がれることもあり、また革命的情勢に導かれて情勢の本質を鋭く見抜き革命にむかうこともある。そして何よりも重要なのは、そうした不定形な存在である大衆こそが社会変革の主体なのである。したがって、内ゲバも含む、あらゆる社会変革に関わる集団の問題は大衆自身の問題なのであって、大衆こそが「当事者」であり「絶対的価値」の判断者でなければならない。蔵田氏の見解は革命や社会変革を少数の党派集団の「主観」の中に帰属させ、大衆の方へ向こうとしていない。それは独裁者・官僚主義者の「世界観」であり大衆的世界観に敵対するものである。党派が大衆に向き合うのはそのような方法によってではない。

●「知的エリート主義」を振りかざして大衆を見下だす蔵田氏

 蔵田氏は内ゲバ党派を批判するには、批判内容・戦術・目的意識性において基準をクリアしていなければならないと説く。彼にとっては批判のやり方は「厳密な条件」のもとになければならないのであって、これは目的意識や協働性を持たない一般大衆が例えば「感覚的」な批判をする事など許されないのである。内ゲバを批判するのは「目的意識性と理論的整合性と批判の方法論と同志的協働性と…etc」を兼ね備えた少数のすばらしい理論家だけの特別高級な営為なのである。何というおどろくべき「知的エリート主義」!大衆を見下だす思い上がり! 蔵田氏は結局30数年を経過した今になっても共産主義者としての過去の総括をできていないことを自己暴露している。その原因は「共産主義者」としての自己が、「思想性の高さ」において大衆と区別された「特別な存在」であると自覚しているからに他ならない。こうした鼻持ちならない“特権”意識が日本左翼運動を内ゲバ主義と官僚主義の退廃の渕に突き落としてきたことをまだ理解できないのであろうか? 大衆とは区別される「特別に選ばれた存在」である「共産主義者」たちが日本階級闘争の中で何をしてきたか、日本の大衆運動をどれほど破壊してきたのかを、また蔵田氏が自らそのような卑屈な追随によって内ゲバ思想に荷担し日本階級闘争の堕落に手を貸してきた犯罪的過去についていかに無自覚であるかを、この蔵田論文は一点の曇りもなく明らかにしている。それがどんなに無惨な事実であるのか、大衆運動に対する裏切りであるのか、その自覚もできない蔵田氏にはせめて即刻このような大衆運動に対する敵対的な害毒をたれ流すのをやめてもらいたいものである。

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でも結集してもなんにもないけど