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懐古闘争の記録
STRUGGLS OF OLD TROTSKISTS
三里塚闘争

ここに紹介するのは、かつて三里塚を闘い続けた人たちの証言をまとめたパンフレット「裁けるかこの闘いを」の一部である。これは1978年3月26日、一時的にせよ開港を中止に追い込んだ英雄的な戦士達の裁判闘争にむけて作られ、多くの人々に読まれていった。当時の写真とともにここに掲載する。なお、まっぺんの責任により文意をそこなわない範囲で要約した。


開拓に入ったのは20歳のときだった
 もともと三里塚というところは、終戦になって復員軍人とか、疎開者とか失業者とか、そういう人たちの対策、救済として国が入植させたところなんだ。そういう人たちを入植させて、農業やらせることが食料増産にもつながるわけで、国にとっては一石二鳥だったわけだ。
 ここに開拓に入ったのが昭和21年20歳のときで、それからようやく食っていかれるようになるまで4〜5年はかかたかな。それからずっと畑耕して、一生懸命働いてきて、その間、一番つらかったことってのは、子供育てることだったかな。(略)三度のめしっていうのは、まともに食えなかったよな。それでも一番みじめだったのは子供だよな。かわいそうだったよ。
 そうやって骨折って、一生懸命働いて、ようやく百姓やって食っていけるという段階にきて、空港問題だ。政府が空港つくるからって、ああそうですかって気持ちにはなれないわけだよ。金を出すとか、代替地を出すからといったって、本当の百姓ってのは土地があればできるってもんじゃない。(略)自分の土地にするまでには、最低10年はかかる。そうやって、ようやくくっていける基盤ができた、そういう時に空港つくるからっていわれたって、じゃ何のために苦労してきたんだということになるわけだよ。百姓で食っていこうというんで、そこまで努力してきたんだから。
(堀越昭平・談)


いつの間にか空港は三里塚に決まった
 はじめ政府はここ(三里塚)から直線にして南へ約4キロのところの富里に空港を造ることを内定(1963年)してたわけだ。16年前だな。ところが、俺達から見りゃ富里という所は、日本の農業経営のモデルコースだ。
 ……(略)……
 ところが、富里の人達は、俺たちゃ百姓は、百姓じゃなきゃ食えないんだと、猛烈な反対運動を2年間繰り返した。(略)そうして富里案は2年間の闘いで潰れてしまった。
 自民党内閣は今度は、隣の県の茨城の霞ヶ浦を埋め立てて、富里の時と同じだけのものを造ろうとしたんだな(1965年)。(略)そこでも漁民、農民に猛烈な反対を食った。そして、結局追い出されてしまった。
 ……(略)……
 それで4転、5転、行き所がなくなって、佐藤自民党内閣が、天皇の御料地、三里塚1060ヘクタールの3割7分、天皇の御料地と県の竹林で3割7分しかないのに、1966年6月、三里塚に閣議決定してしまった。私達三里塚の農民には一言の話もないまま、前もって話せば猛烈な反対になるということで、三里塚の農民の知らない間に、あれよあれよという間に閣議決定してしまった。そういうことでできたのが現在の三里塚空港だ。そうやって農民を切り捨て、農民を追い出し、三里塚に空港を造った。
 私も農民だ。農民の倅だ。だから何としても自分達の土地は守らねばならない。そうして、三里塚・芝山の同志とともに闘った。それが今の三里塚・芝山連合空港反対同盟である。
(秋葉 哲・談)

少年行動隊は楽しい集いでもあった
 駒井野砦での闘いのときであった。三里塚少年行動隊は同盟休校とし、駒井野の広場に集まっていた。そこへ校長、教頭が「生徒は学校へ帰りなさい」と説得に来た。少年行動隊は「家を奪われ、土地を奪われ、それと闘う親や兄弟、支援の人たちが機動隊に殴られ蹴られの暴行を受け逮捕されていくのに、子供として黙って見ていることはできません。家や田や畑、父母があってこそ私たちは学校へ行くことができるのです。私たちが空港に反対することのどこが悪いのでしょうか。先生!私たちと一緒に闘って下さい。」少年行動隊の必死の訴えに、校長も教頭もただうつむいているだけであった。そして子供たちに「ケガをしないようにな」と一言ことばを残して立ち去っていった。
 少年行動隊は公団分室前で、自分の身の丈よりも高い機動隊の盾に体当たりして抗議行動を展開した。(略)

おら、闘争が一番楽しかった
 大木よねのたんぼに砂が流れ込んだ。烈火のごとく怒った大木よねは、公団にたんぼの砂を全部取り出せと抗議した。公団のやつらが砂遊び用の小さなスコップを持って30人位毎日毎日稲株の元から砂を取り出した。そんなある日、まわりで工事をやられたため、大木よねの井戸が枯れてしまった。公団に抗議すると、公団は大木よねの家の下まで水道を引いて「これでがまんしてくれ」と言ったが、大木よねは承知しなかった。抗議すると公団は、今度は機動隊と一緒に来て大木よねを屈服させようとした。こうして大木よねと機動隊・公団の闘いは始まったのである。
 1971年9月、大木よね宅への代執行は千葉県友納知事の「代執行はやらない」という記者会見での発言を反古にしただまし打ちだった。
 その日の朝、大木よねは庭に脱穀機、発動機を出して作業にかかろうとしていた。突然工事現場の土手から機動隊が大木よねの家に突入してきた。一瞬の出来事である。反対同盟の緊急動員を告げるドラムかんの早打ちの音が轟くも間に合わない。機動隊が突入してきて、大木よねは脱穀機の下にひきずり倒された。機動隊の盾が大木よねの顔に命中して前歯が4本折れ、口から血が吹き出した。大木よねの白髪は乱れ、顔は鬼のような凄まじい形相であった。目をカッと開いて機動隊を睨みつけた。余りの形相に、機動隊が一瞬ひるんだ。
 大木よねは夜叉であった。生まれたとき貧しくして、70日目に里子に出され、親を奪われ、7歳のときから百姓奉公に行き、飯炊き、子守り、畑の雑草取りに追いたてられ、文字を習う機会すら与えられなかった。
 「婆さん、風邪ひいたとき、どうやって生活してたんだや」と聞けば「熱があって立てないから、庭を四つん這いになってはっていって水を飲み、また四つん這いになって戻ってきて、布団にくるまって寝た」「飯はあじしてたんだや」と聞けば「治るまで何も食わねえで寝てるほかなかった」。大木よねの60年の生涯はまさにこの連続であった。そしてまた家を奪われた大木よねの生涯は、毎日毎日が代執行の連続であった。だから大木よねの顔は夜叉となった。夜叉でなければ生きてこれなかった。
 鬼、夜叉の顔、それは虐げられてきた日本民衆の顔である。われわれは鬼になることも心がけねばならぬ。権力にとって、われわれは鬼である。三里塚の闘いは一人一人が自分の生き方、生涯をかけて闘う闘争である。大木よねの生涯、大木よねの闘いのなかでの気持ちは、繰り返し繰り返し静かに聞いてきた。そうしてできたのが、この聞き書きの闘争宣言である。
 「みなさん御苦労さまです。今度はおらが地所と家がかかるので、おら一生けんめい頑張ります。…略…おら、七つのとき子守りに出されて、なにやるったってひとりでやるには無我夢中だった。おもしろいこと、ほがらかにくらしたってのなかったね。だから闘争が一番楽しかっただ。もう、おらの身はおらの身であっておらの身でねえだから、おら反対同盟さ身預けてあるだから、6年間も反対同盟や支援の人達と反対闘争やってきたんだから、誰がなんといっても、こぎつけるときまで頑張ります。みなさんも一緒に頑張りましょう。」

無人の村、それが権力の狙いだった
 夜明けになると裏山のスピーカーが張り裂けんばかりに反対同盟の出動を呼びかける。「反対同盟はただちに出動せよ!機動隊が青行隊の家を包囲している。」
 駒井野代執行阻止闘争を闘い抜いた反対同盟に対し、弾圧につぐ弾圧、逮捕につぐ逮捕、強制捜査、連行がつづけられた。
 (略)この弾圧は6ヶ月、15波に及び、機動隊は井戸に洗剤や石油ストーブを投げ込む、天ぷら油を米の中に流し込む、土足で座敷に上がり、寝ている布団にまでドロをなすりつけるなど、蛮行、暴行を意のままに重ねてきた。反対同盟の村々が無人になるかと思うほどの大量逮捕と弾圧である。
 (略)これほどひどい弾圧が連日つづくとは思いもよらなかった。夜の帳がおりるとあたたかい灯が燈るはずの村々に人の気配が全く無くなり、最後には無人の村が出現するのではないか。反対同盟の農民はそのような情景が現実のものとなるのではないかと覚悟していたのである。そして、そのような覚悟をもって闘ったのである。無人の村の出現こそ、この時の権力のねらいそのものであった。

空港をこの地にもってきたものをにくむ

(母ちゃんへ)
 長い間苦労をかけました。俺がつかまるたびに、いろいろ心配して、さぞかしたいへんだったでしょう。俺はすまないと思いながら口に出せませんでした。今でも本当に苦労かけたと思っています。空港問題などなかったら、俺も今ごろ嫁さんなんかもらって、りっぱに百姓やっていけたと思います。しかし考えれば考えるほど、俺達の所へ空港なんぞもってきたやつがにくいです。ほんとうに、母ちゃんにはすまないです。俺がいなくなってもけっして力をおとさず、広といっしょにくらして下さい。いつも口げんかばっかりしていたけど、本当は俺もいいやつなんだよ。かあちゃん、それじゃあ元気で。俺いくよ。母ちゃん、絶対に元気でな。力おとさず広がいっから。広がいっからな。
(父ちゃん)
 俺あんまり仕事やらずに青行ばっかりやってで、すまなかった。それでも、青行ねえ時にはまじめに仕事やったつもりだよ。俺いままで何にも父ちゃんや、母ちゃんにしてあげられなかったな。心配ばかりかけてすまなかった。しかたなかったんだよ。空港などこんな所にもってきたから、まじめにやれば闘わざるをえなかったんだよ。しかし、俺は線が細いから、闘いにたえられなかったんだな。人間なんて弱いもんだな。なんかの本に書いてあったけど、もっとも人間らしく生きようと思っている人間が、なんで非人間的にあつかわれるのかな。本当に、国家権力ていうものは恐ろしいな。生きようとする百姓の生をとりあげ、たたきつぶすのだからな。
 いいたいことは山ほどあるが、なかなか出てこない。さっきまで、いらいらしていたが、なんだかさっぱりした気持ちだ。俺が行ったら、あのやぶれた青行の旗で、くるんでくれや。できたら、みんなでみおくってくれ。俺だけ、ずるやってもうしわけない。
 三里塚空港粉砕!
 最後まで、三里塚に生きつづけて下さい。
 みんな、元気で。
   1971年9月30日  三ノ宮文男

三ノ宮文男 享年22歳
 昭和24年2月18日生。68年4月から空港粉砕闘争に参加し、以降青年行動隊の中心的活動家として闘いつづけた。第二次強制代執行の直後10月1日、午後4時頃、自宅の裏山で自ら命を絶った。


鉄塔は息子のようなものだった

 71年の代執行後のことである。闘いが一時小康状態となったとき、闘いの目標として、また象徴として鉄塔をつくろうと提案したのが岩沢のじいさんだった。高さ32メートルの小鉄塔がその年の5月に完成した。完成した小鉄塔を見上げながら、岩沢のじいさんは政府・公団の出方をうかがっていたが、何の反応もなかった。新聞にさえ何の記事も載らなかった。すっかり意気消沈していたところへ、72年3月15日からフライトチェック、6月開港という政府のアドバルーンがあがった。71年11月のことである。発表内容をよくみると、小さくただし書きがあり、滑走路南端に32メートルの鉄塔があるので、4000メートル滑走路は3250メートルに縮小して使用するとあった。じいさんはわが意を得たりとばかりに、さっそく次の手を考えていた。4000メートルの滑走路を全部使えなくさせるには何メートルの高さの鉄塔が必要か。100メートル。100メートルの大鉄塔をつくろう。
 ……(略)……
 3月12日、鉄塔は完成した。15日から始まったフライトチェックは、ついに3日間で打ち切られ、この年6月の開港宣言はみごとに頓挫したのである。岩沢のじいさんはじっと鉄塔をみあげていた。そのときすでに頭のなかでは次の闘いを想いうかべていたのである。横堀へ。

鉄塔破壊
岩山の大鉄塔は倒された。家宅捜査と詐り未明から鉄塔を占拠し、夜明けを待って鉄塔を倒したのである。鉄塔は全国数十万人の共有の宝であった。政府・公団の法も何もかも無視した闇討ちであった。
反対同盟はそれまでむしろ闘争の激発を抑えていた。だが福田内閣の闇討ち鉄塔撤去は反対同盟を腹の底から怒らせてしまった。
「あらゆる手段を行使して、鉄塔破壊への反撃の自由を宣言する!」


今日は大空のような広い心がふさわしい
 「東山君、永遠に生きよ。今日は、凱旋将軍のように葬ろうではありませんか。」
 同盟葬で哀悼の辞を述べる戸村委員長は最後にこう結んだ。東山君の父親、東山博さんは悲しみをこらえながら壇上に立った。
 「生まれた時も青葉が薫り、死んだ日もまた澄みきった空とこの緑の中に若葉が薫っています。
 いろんな立場を超え、人間の世界にはいろんなことがあると思います。しかし私は、この大空のようにすべてを心の中に抱きこみ、濁った中にも必ずこの大空のように澄みきってみせる広い心が、なにか今日の薫にふさわしいように思えてうれしく思っております。
 この土地は、薫にとっては愛し愛された第二の故郷ともいうべき土地であります。この三里塚の地に、薫は青春の命を燃やし永遠の眠りにつきました。薫は、自分は三里塚の皆さんとともに、この地でずっと権力と闘っていくんだと申しておりました。私は一人の人間として、また父親として、この命の重大さをひしひしと感じております。薫の死をムダにすることなく、私もがんばっていきたいと思っております。
 生前、薫をかわいがってくださった皆さまに、薫になりかわりまして厚くお礼申し上げるとともに、皆さんの闘いの成功を祈ります。」
 同盟のおっかあたちは、みな目をまっ赤に泣きはらし、手ぬぐいで顔をおおっていた。
 悲しみを怒りに!怒りを反撃に!
 東山薫君の死はこの言葉を生み、また両親の作詞、高橋悠治の作曲による「薫の歌」を生んだ。この二つは、三里塚を闘う者に静かに、しかし熱い想いを伴って語りかけてくるのである。
まっぺん注
鉄塔破壊に対する反撃の闘いの中、東山君は野戦病院の前で仲間とともに赤十字のゼッケンをつけスクラムを組んで病院を守っていた。戦闘行為に直接従事しているわけではなかった。機動隊はそのスクラムに向かって近距離からガス騨を水平に打ち込んだ。弾は東山君の頭部に直撃した。頭蓋骨が丸く陥没し、彼は帰らぬひととなった。

私もともに闘う仲間として迎えて下さい
 私が三里塚について知ったのは、鉄塔破壊に抗議して闘われた5・8闘争以降でした。それまで私は、数年間職場にいて、組合活動にもほとんど参加したことはありませんでした。(略)
 私に三里塚を教えてくれたのは、同じ職場のAさんの腫れ上がった顔でした。「女だてらに」と思いながら顔の湿布を取り替えてやると、Aさんはその時の闘いを生き生きと話し、農民の生活を説明し、鉄塔を壊されたくやしさを泣いて話しつづけました。
 私は好奇心から、Aさんが全財産を投げ出してまでカンパする三里塚の要塞建設についていきました。午前中はトラックに乗って野菜集め、午後はモッコをかついで土を運びました。その時でも、都会育ちの私には「美しい所だな」と思いながら、なお違和感が残りました。
 しかし、2月6日、私はテレビを見て、すごく頭にきました。何と表現すればいいのかわかりませんでしたが、「私のつくった要塞がこわされる」という感じが涙とともにこみあげてきました。
 午後、私はAさんを探しました。Aさんは休みを取っていて、課長が「また三里塚にいってんじゃない」と笑いながら知らせてくれました。
 仕事がおわるといてもたってもいられなくて、三里塚の横堀まで行って、みんなについて暗い山の中を歩きました。……
 気がつくと、他の人はズボンやジーパン、私だけスカートです。みんなが心配してくれました。私はたき火のもとで、鉄塔に声をかけ手を振り一晩を過ごし、翌日は会社を休みました。最後にはみんなと腕を組んで泣きながらインターを歌いました。
 3月には、私は闘うひとりとして三里塚に行きたい。私はこの目で見てきたことを職場の人に話しています。私の新しい人生が始まった気がします。ともに闘う仲間として迎えて下さい。
(「管制塔に赤旗が翻った日」柘植書房より)

1978年3月26日、管制塔は破壊された

染谷の婆さん
 うれしかっただよ。三里塚公園で集会の最中、大勝利した、空港を占拠したって知らせあったの。もう大変な拍手だった。
 夜テレビでみたの。高いところ壊した青年、にっこり笑って出てただよ。
 青年たちの心、農民の心と変わりねえべえ。変わらないどころか、神様だよ。いくら反対同盟がんばっても、あんだけのことできやしねえ。
 そしたらよね婆さん生きてたらどんなに喜んだかって思って、集会終わったらすぐよね婆さんの墓へとんでいっただよ。東峰の共同墓地のまんなかにいるだよ。死ぬまでいい目に合わなかったもんな。せっせと働いて、畑も家も公団にとられちまっただよ。
 で、掌合わせてよね婆さんにいっただよ。青年がえらいことしてくれたぞ、飛行機とめてくれたぞ、大勝利だぞって。

戸村一作
 権力の中枢部、心臓部をぐさっと突きさしたという状態だな。機動隊の数は14000、沖縄を除いて日本列島からかき集めたということで、大変な警備だと思っていたわけですよ。ところがそうではないということがわかった。今回の闘争は、労働者人民がやればできるんだ、先陣をきったといえる。
 コントロールタワーにのぼって闘った10戦士は、日本のコマンドとして大いに学ぶべきものがある。敵も大敗北を認めざるを得なかったし、われわれの勝利はあきらかである。

三浦五郎
 空港への突入−占拠は、第一公園の集会場で聞いた。あれは空港の心臓部だから、まったくの勝利だと思っています。やはり今までの闘いのなかで合法的な闘いが多かったが、今回のような闘いも必要だと強く感じさせられました。廃港にするまで。今までの考え方を大きく変えて、ああいう闘いをも考えていかなければと思うんですね。
 とにかく感慨無量ですね。

小川むつ
 当然やるべきことはやったというのが率直な感想だな。やっぱり「包囲−突入−占拠」ですね。二月は4戦士だったが今度は10戦士でしょう。完全廃港に追い込んでいるということが実感となってきたね。

柳川初江
 管制塔が占拠されたと聞いてうれしかったよ。来るべき時が来たからよ。本当にうれしかった。要するにスカッとしたよな。こんなにうれしいことはなかったよ。本当に。
 テレビで強制測量からよ、少年行動隊など13年間の闘いを特集していたが、そのなかでのもやもやを晴らしてくれたよな。警備陣が「こんなはずではなかった」といっていたが、いい気味だよな。


お母さんは今、けいむしょにいます
 真輔、元気でやっていますか。お母さんは今、千葉けいむしょにいます。真輔もよく知っているように、お母さんは、三里塚のお百姓さんの土地を、いやだというのに力づくでとり上げて、まだ住んでいる家をブルドーザーでつぶしてつくった、なりたくうこうに反対し、やめさせるために、たたかったのです。そうしたら、きどうたいがお母さんをけしからんことに、たいほしたのです。お母さんは、この千葉けいむしょにいます。でも心配はいりません。とっても元気ですから。
 しばらくの間は家に帰れません。
 ここは東京から1時間ぐらいのところで、三里塚の近くです。遠いので真輔はあいにこれませんので、あうかわりに手紙を出しあいましょう。お母さんもたくさん書いて送ります。真輔も学校のことや、友達のこと、いろいろ書いて下さい。手紙は書いたら、ちゃんとわたして出してもらいなさいね。
 お母さんは正しい、正義のたたかいでつかまったのですから、なにもクヨクヨしていません。
 真輔はテレビで「ラセーヌの星」をよくみていましたね。ラセーヌもフランスの国王が労働者やお百姓さんを苦しめていたので、国王とその手さきのへいたいやけいさつとたたかった物語ですが、お母さんはラセーヌのようにかっこよくはないけれど、同じような考えから、たくさんの仲間といっしょにたたかっているのです。(略)
 ここのけいむしょにも、そんなお母さんの仲間が200人くらいいます。だから、お母さんは一人ぼっちではありません。真輔としばらくあえないのはさびしいけれど、二人ともそんな弱虫じゃないから、だいじょうぶだよね。お母さんが心配なのは、たった一つです。それは真輔が重い病気や大きなケガをしないかということです。だから好きなものばかりでなく、食べにくいものもたべるようにして、自転車に乗るときは、四ツ角などはよく気をつけて、お母さんが帰るまで元気でい下さい。
 では元気でね。また書きます。真輔の手紙をまっています。
 
(はれやかなる黙秘」柘植書房より)

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