(1) まず、最初に 麻生英人 - 07/2/15(木) 20:03
 私は、自らの経験も含め、言葉は人と人との理解を生み出すだけではなく、誤解を生み出すものでもあると考えています。左翼とか右翼とかの概念規定は本来曖昧であり、同じ左翼らしいということであっても、その領域で話される言葉が、同じ意味や感性を呼び起こすとは限らない。お互いの「文法」もまま違う場合が多い様に思えます。右翼や左翼や特段の政治的主張のない方も含めての「公共の場」において、簡単に「話せばわかる」とは言えないと思うのですが。しかも、同じ立場にあると思っている左翼同士の方が、誤解が発生しやすいのではないでしょうか。私のような理解力に乏しい者には、基本的に、無前提では、人と人は分かり合えないとしか思えません。話せばわかるには条件があるように思います。この条件を整えた上で、問題点を整理してみてはどうでしょうか。

 陳腐な物言いになっているのかも知れませんが、この掲示板では、往々にして、自らの発言の意図さえよければ何をいっても構わない、あるいは、自らの発言が他者(客観的にと言ってもよいが)からどう理解されるのかという観点を持つという自己相対化がきわめて弱いのではないかという気がします。一つ一つの意見に、直接的に対応して反感を増幅し、あと戻りできない地点まで行きついてしまう。論争で大切なことは、相手の主張の最善のところを見ることにあるような気がします。そして、本質的な齟齬はどこにあるのかの観点を手放さないということではないでしょうか。もちろん自戒の意を込めてということですが。

 さて、この論争の大きな争点の一つは、「サイバーアクション」−市民運動・社会運動のためのインターネット活用術−(井口秀介・井上はるお・小西誠・津村洋/著、2001年7月20日発行)のネットにおける現状と可能性についての考えと戸田さんの考えとの違いにある。戸田さん的には、「サイバーアクション」補章(執筆−井上はるおさん)との対立ということになろうか。しかし、共通項は、いうところの運動を発展させるために、いかにネットを活用できるのか、活用しなければならないのかという点だと思います。

 ここでの議論の焦点ともなった(端折って申し訳ありません)、条件付きだが基本的には議論推進すべし論と条件付きだが削除すべし論の相剋ですが、やはり、私などの素人の目には、草加さんの1月27日付⑴〜⑼(但し、⑻は宮崎学問題ですが)の意見が理解しやすく、サイト運営は各人の創意工夫で、ということになるのでしょう。草加さんの議論をこそ、前提されなければならないと思いますが。換言すれば、平凡な結末で申し訳ないが、どちらが一方的に正しいという話ではないと思えます。私は、井上さんやまっぺんさんの方針に、みずからの運動の総括や、未来の目指すべき社会へ到る過程にこそ、未来的な政治の萌芽形態が含まれなくてはならないという意気込みを感じます。しかし、だからといって他にそうすべしとはならないような気がします。左翼形態は多々あらざるを得ないのではないですか。また、各人・各環境の条件によって、一歩後退したり一歩前進したりということになりませんか。

 同時に、草加さんとまったく同意見ですが、戸田さんの方法も他に押しつけるものではないということです。戸田さんという個性(いい意味でも悪い意味でも強固な)と多くの支援体制(このサイト運営に直接的に関与する形態でなくとも、有形無形の支援が戸田さんにはある)があってできることなのだと思います。そうであるのに、戸田の画期的な方法を評価せず、「正確」に伝えない「サイバーアクション」補章はデマと嘘に満ちた犯罪的な論文なりと主張し、遂には、その書籍の編集・発行者の責任を問い、在庫販売や増刷の際は云々という出版統制に及んでいけば、「戸田さん大丈夫?」と老婆心ながら問いかけざるを得ません。また、2001年に戸田さんが「喧嘩を売られた」として、2007年に反論すれば、その時間差は意味を転化させ、それは「その喧嘩を買った」のではなく、「新たな喧嘩を売った」ことになりませんか。この掲示板で売った以上は買う人が現れても不思議でなく、買う人を排除してはいけないように思いますが。
 そしてなにより大事な事は、支援する草加さんへの返信ではないですか。
(まっぺん注:読みやすくするために段落毎に一行空けました)