(4) 宮崎問題について<1> 麻生英人 - 07/2/26(月) 21:08

 ネット上の議論は賞味期限が早いらしく、私などが加わることの限界を痛感しています。しかし、泣き言はともかく、私は今回の事態に対して、草加さんも指摘されたもう一つの核心についても述べておきます。

 さて、草加さんのネット論(1月7日付⑴〜⑺と1月30日付の論考)と同様、この宮崎学問題でも、草加さんの1月7日付⑻及び1月30日付論考は参考になります。抑制のきいた配慮ある意見であると思います。

 関東では大きな話題なのかも知れませんが、私は宮崎学問題をよく知りませんでした。また、関西でも大きな関心事とも思えません。宮崎学氏の影響力に比例しているのでしょうか(最も、私だけの疎さなのかも知れませんので、私の単なる印象と理解下さい)。

 しかし、今回の論争過程で、こうした事件があったという事が判り、私の手元にも「サイバーアクション」と共に、指摘されていた2冊の書籍を揃えました。宮崎学氏が理由はともかく、国家権力−公安調査庁に闘う陣営の情報を「売った」、あるいは「取引」をしたという事実が確認されました。その事実の大筋は当人も認め、後は評価が分岐するというところでしょうか。

 スパイには便宜的に3種類(粗雑な整理上の基準)あるとします。
 1.職業的か使命からかはともかく、計画的に調査対象に潜入し、情報をとる、ある
   いは調査対象を攪乱する
 2.お金などの利益誘導によってか弱みなどを握られて、内部情報を売る、あるいは
   内部の情報攪乱する
 3.ある目的があって、相手から得るものと自己が知る相手の欲しい情報とを交換す
   る、または、交換をしたという事実を利用する
 ここでは、上記3.を取引と言ってスパイとは呼ばない人もいます。

 スパイとか諜報活動は国家権力ばかりでなく、企業や政党などの諸組織にもあるのでしょう。今回事案は、社会批評社「キツネ目のスパイ宮崎学」「公安調査庁スパイ工作集」の論者によると、国家権力−公安調査庁相手に宮崎学氏が上記2.と3.をしたと論証しています。その論証では、当時、宮崎氏は新左翼を含めた幅広い反体制運動の影響力ある一つの結節点、代表的個人になっていたとされます。その彼が、国家権力(しかも、反体制運動を憲法違反の破壊活動防止法で潰す目的で作られた公安調査庁)に、彼が運動で知りえた内部情報を「売った」ということ、しかも、権力内部にパイプを持つことで、反体制側が有利になる影響力を行使するための「取引」という意味ではなく、金銭的な利益や自己の防衛や権力拡大を目的として情報提供したということが主張されていました。また、権力との「取引」を意味のある政治行動と主張する宮崎氏及び支持者に対し、自己を特別視し、権力と裏取引できるとする意識こそが、政官財の利権構造や権力構造の裏返しの意識であり、反体制運動の主体をスポイルするものであると批判しています。運動が依拠するのは、どこまでいっても、大衆(民衆・市民)一人一人だ、という主張です。

 宮崎氏及び支援者(戸田さん含む)の理解では、この問題は、宮崎氏の守るべきものと宮崎氏が流しても大丈夫と判断した情報とを交換した国家権力との「取引」である。本来、国家権力との「取引」は危険なものであるが、宮崎学氏はその付き合いや著作、活動実績から判断して信頼に足る人物である。しかも、元々「アウトロー」の信条を表明しているではないか。政治は、きれいごとばかりでなく、リスクを負いながらも、敵の中に「理解者・取引相手」を作っていく必要がある。敵に打撃を与える有効で面白い闘いを組んできた「喧嘩上手」の宮崎氏に限って、あり得る戦法である。だから、通常言われるスパイとは位相が異なると主張しているように思えます。

 それぞれの主張は、私の主観的受け止めなので、当事者には一切責任はありません。この主張とは別に、私には宮崎氏に情報を権力に渡されたとする当事者の見解(宮崎氏批判)の内容・経過・その後がよく判りません。全体の理解のための重要なファクターが欠けているような気がします。「被疑事実」を状況証拠だけではなく、きちんと証明できる証拠類が相当数あり、立証と同時に反証も可能という条件は、現実的に無理なことでしょうから、その上で言えることは、「事実」(公安調査庁への情報提供)は残り、それを前提で問題は語られなければならないということです。

 私は、まったく偶然ですが、「突破者」以来10冊程、宮崎氏の著作を面白く読んできました。読みごたえのある真摯な著作群だったと思います。しかし、仮に宮崎氏が素晴らしい人であったとして、情報提供する権利・権限が発生するのでしょうか。情報提供が正当化されるのでしょうか。宮崎氏は、むしろ、倫理(信義)よりも効果を誇るとするのでしょう。宮崎流運動展開を評価するとして、左翼・左派政治が、敵に有効な打撃を与えることが難しくなった情勢にあって、有効な闘いは本当に必要だとしましょう。それでも、提供された者が与り知らない所で、国家権力に情報提供されることが正当化されるとしたら、それは左翼・左派の倫理崩壊ではないでしょうか。戦略・戦術のためには、一般的な倫理は棚上げされるべきだとはよく聞く話です。また、倫理の党派性(階級性)が指摘され、支配のためのイデオロギーと人民解放のモラルは違うということなのでしょう。また、倫理が適用される範囲は、真の仲間と相対的な仲間と自ずから違うということでしょうか。

 でも、この構造は新旧左翼政党(の一部と限定しておきます。すべては知りませんので)の論理と倫理に似ている様に思います。目的がよければ、実行する主体(前衛党・個人)が優れていれば、手段は問わないということでしょう。でも、その一つの結果が、正義や革命の大儀で、反対する相手を反対するという事だけで誹謗中傷し、スパイ呼ばわりし、暴力的排除(肉体的抹殺も含む)することが罷り通ってきた様に思います。手段を問うことから、闘い方を問うことから、左翼は苦労しながら、新たな歩みを重ねているのではないのでしょうか。まず、大きな原則から確認しておいた方がよいように思います。
 
 さらに言えば、国家権力「取引」論は必ず大きなリスクを負います。一つは、故意か偶然かはともかく、「取引」の証拠が公然化され、宮崎氏の左翼世界での評価は相当落ち、活動が制約されました。狐と狸のばかしあいということであれば、宮崎氏ともあろう人が、権力にばかし負けしたということでしょうか。というよりは、権力に活用されてしまう必然を持つということではないでしょうか。もう一つは、運動内に疑心暗鬼の毒がまわるということです。最後に、左翼の倫理的基準の低さに対する落胆があるように思います。