反論19 米沢泉美は当初から…について/では補章は「後から追加」ではないの? まっぺん

●いったい「戸田潰しの陰謀」は当初からなのか、後から追加されたのか?

>つまり、2001年春から秋にかけて宮崎追求にギンギンになっていた米沢泉美は、2001年
>7月出版の「サイバーアクション」に当初から深く全面的に関わっていたのだ。

>従って、米沢泉美にも「補章」のウソデタラメについて、十分なる責任がある事は明白!
>悪いのは井上はるおだけじゃない!

 戸田さんは井上氏の「補章」が「当初は予定になく、宮崎潰しの目的により、宮崎信者である戸田潰しのためにあとから挿入された章である」と「推理」したはずである。しかし、「2001年春から秋にかけて宮崎追求にギンギンになっていた」いずみさんは「CA」に「当初から深く全面的に関わっていた」そうである。いずみさんは「反宮崎」のためだなどとは言っていないが、当初から「CA」に関わり、井口氏に大部分を引き継いだ事は本人が語っている。ではいったい戸田さんが「推理」する「戸田潰しの陰謀」はこの本の当初からなのか、後から追加されたのか、どっちなのか? はっきりしてくれないか。自分の「井上の陰謀」推理の根拠を自分で否定してどうするのか。まったく戸田さんの支離滅裂な「論理」にはついていけない。

●宮崎追及が本格化したのは9・2集会への準備段階からであった

 なお、いずみさんが(私も)宮崎追及にギンギンになったのは8月になってからである事が、四トロ同窓会二次会掲示板過去ログでわかる。6月段階でも疑惑はかなり深まっていたが、実際に「反宮崎」活動が活発になり、掲示板上での発言数も増加するのは9・2集会に向けた活動の中でだったのである。だから8月半ば頃から発言が増えてゆく。そして9・2集会をきっかけに宮崎=スパイ疑惑は一挙に高まった。その流れの中で「キツネ目のスパイ宮崎学」が発刊されたのは翌年夏であった。だから「CA」を「宮崎追及、そのための戸田潰し」の手段とするには時期的に早すぎるのである。残念ながら我々もまだ、その頃にはスパイへの認識が甘かったと言える。

●戸田さんとの議論をふりかえって

 なぜ戸田さんが社会批評社と「CA」著者グループに対してこんなフザケた言いがかりをつけてきたのか、これまで書いてきてやっと分かったように思う。6年もたった今ごろになって突然「補章批判」が始まり、批判の過程で「CA」グループと社会批評社・小西さんにまで「共同責任」を追及し、遂には「戸田への批判は宮崎への批判のためだった」などという途方もない妄想にいたったのはなぜなのか、最初は分からなかった。だから私は、戸田さんが再び宮崎を担ぎ出す布石か? と疑ったのである。論理的にみて、そう解釈するのが一番自然だと思われたからである。しかし、それは「論理的であった場合」のはなしである。これまでひとつひとつ吟味し反論して分かったのだが、戸田さんの文書はあまりに粗雑で、いい加減で、支離滅裂であった。すぐバレるウソや思い違い、論理的欠陥だらけなのである。だから反論はとてもやさしいものであった。

 そして、それは同時に「この人はウラで宮崎復活を目論むような緻密な芸当のできる人ではない」という事も意味するのではないか? と思い至った。もちろん「宮崎擁護」論を持ち出すならこちらも対抗せざるを得ないが。ともかくも、宮崎担ぎ出しのつもりはないというなら、それならそれでよい。ではなぜ、こんな「補章=宮崎叩きの陰謀論」を思いついたのだろうか? それは戸田さんの性格と、戸田さんが置かれた立場から生まれたものではないだろうか。私は戸田さんへの反論を書きながら、戸田さんは非常に分かりやすい性格であると感じた。普通の人間が持つ当たり前の感情である功名心や自己顕示欲、そしてその裏返しの感情である嫉妬心、猜疑心、僻みなどを当たり前に持っている。その面では私と同じ長所も短所もある「ふつーのひと」である。しかし戸田さんは地方議会の革新派議員として突出した位置にあり、また連帯労組近畿地本委員長という重責も担っている。そうした人が自分の失態を本に書かれれば屈辱を感じるであろう。人間として当然である。

●あらためて戸田さんにおねがい申し上げる

 しかし、そうした屈辱を感じる文書に出会った時、「どうするべきか」において戸田さんは道をあやまったのである。批判に対して真摯に向き合い、正すべきところは正してこそ、真の「民衆の代表」である。しかし戸田さんは自分がなぜ批判されているのか理解できなかった。それこそ、これまで私が書いてきたように、インターネット世界を理解できないアナログ思考だったからなのだが、戸田さんはそうは考えなかった。あくまで「自分は正しい」と考え、自分への批判に耳をふさぎ続けた。正しい自分が非難されるのはなぜなんだろう? そこに、戸田さんの心が「戸田をハメる陰謀のワナ」の幻影を見せてしまったのである。屈辱は憎しみとなって一挙に噴出した。これが戸田さんの新春42連発攻撃の理由であろう。戸田さん。もっと冷静になって考えればわかるはずである。ネット活動における自分の非を素直に認め、教訓として活かしてこそ前進がある。最早「補章」だけの問題ではない。戸田さんは社会批評社に対してたいへん失礼な非難を浴びせたのである。小西さんや著者諸氏に謝罪するべきである。また、今回の問題は「戸田さん個人」の問題ではない。門真市民をはじめ全国の左派市民運動の問題であり、関西労働者階級の問題にもかかわってくる問題なのである。戸田さんに期待する大勢の人たちを失望させてはならない。市民の目の高さに立っての再興を願う。