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国際革命文庫  2

山西英一論文集 上巻

 

電子化:TAMO2
「国際共産主義運動史」
――コミンターンの誕生からドイツ・プロレタリアートの悲劇まで――


刊行のことば

     1

 本書は、同志山西英一が執筆し、一九五三年十月に社会党三多摩支部の「教育資料No.1」として発行され、その後、一九七一年二月に国際革命文庫2として発行された『国際共産主義運動史』の増補改訂版である。多くの活動家の強い要望がありながらも長く絶版となっていた旧版を再版するにあたって、われわれはこの機会に同志山西の他の主要な論稿をあわせて収録することにした。その結果、大幅に増頁され、二巻に分けることにした。
 まず、本書全体の構成を明らかにする。上巻は、前記の「国際共産主義運動史」を柱として(あわせてそれを標題として)次の諭槁を収録した(以下、原題と発表年月を示す)。
●トロツキー著『次は何か』の訳者序文(一九五二年十一月)
●スターリンとトロツキー(一九五六年六月)
●アイザック・ドイッチャー編『永久革命の時代』の訳者あとがき(一九六八年十一月)
●二つの提言(一九六六年十月)
●トロツキー著『ロシア革命史』訳者あとがき(一九七二年八月)
 下巻は、標題を『ハンガリア革命とトロツキズム』とし、次の論稿を収録した(同)。
●スターリンの死からハンガリア革命(一九七四年九月)
●トロツキー著『スターリンの暗黒裁判』の解説(一九五六年十二月)
●同書あとがき(同)
●ベトナムに殉じたドイッチャー氏の生涯の最後の三年(一九七四年九月)
●『収容所群島』とわたくしたち(一九七四年九月)
●地球の土台がゆらぐとき(一九七五年四月)
 こうして、われわれは全二巻を通じて時期的には一九五二年から七五年まで、内容的には、国際共産主義運動史(とくにナチが抬頭した一九三〇年代の息づまるようなトロツキーの闘い)、スターリン批判(一九五六年二月)とともにスターリン神話を大きくつきくずす契機となったハンガリア革命(同年十月)、先進帝国主義国における<革命の現実性>を荒々しく示したフランス五月革命(一九六八年)、ソ連における異諭派の一つの頂点をなすソルジェニーツィンの問題、について日本の先駆的トロツキスト山西英一の見解と思想を学ぶことができるようになった。同志西は、生産を通じて驚くほどの一貫性と純粋さを堅持しながら、これらの現代の大きな問題に立ちむかい、なお人々が気づくこともなくあるいは結果の恐ろしさ故に結論的価値判断をためらっているときに明解に力強く事態の核心をえぐりだした。そうであればこそ、これらの諸論稿は激しい時の流れのなかで色あせることなく、真実の強い光をいっそう輝やかしている。同時にこのことは思想としてのトロツキズムの確かさを教えている。全二巻の論文集を通して、われわれが深く学ばなければならないのは、この点である。

     2

 次に同志山西の先駆的な闘いについて明らかにしたい。日中十五年戦争の発端となった満州事変(柳条溝事件、一九三一年九月)前後から、日本の社会は軍国主義一色におおわれ、暗黒と反動の時代に入っていった。当時、もっともリベラルな校風で知られ、国際感覚豊かなクリスチャンを学長とする玉川学園の創立に教師として加わった山西英一は、「文化の中心であり、社会主義の輝しいメッカ」(本書一八四頁)であるベルリンへと旅立った。一九三一年一月末だった。こうして、青年はナチが抬頭するドイツ階級闘争のルツボのなかで、トロツキズムに出会うことになった。この間の感動的な経緯については本書に収録した「『ロシア革命史』を邦訳するまで」に文学者の鮮やかな筆致でえがかれている。帰国した同志山西は、トロツキズムの日本への伝道者としてその歴史的使命をつらぬき通した。自己をトロツキズムに賭けた共産主義者の手によって、トロツキーの闘いと思想は日本の闘う青年に熱っぽく伝えられた。「一九四九年から五二年までの間に、トロツキーの『裏切られた革命』、『ロシア革命史』、『中国革命論』、『次は何か』などが訳出された」(『日本革命的共産主義者同盟小史』二九頁)。こうして、創成期の若きトロツキストが生みだされていった。
 同志山西は、敗戦によるマルクス主義の解禁のなかでもなお依然としてタブーだったトロツキーの著作を苦労して訳出、出版する闘いとあわせて、東京三多摩地区の社会党内での闘いを組織していった。この闘いは、第四インターナショナルが採用していたいわゆる<加入戦術>の日本における最初の展開であり、創成期の日本トロツキズム運動に大きな貢献を果した(この間の全体的な闘いについては、前出『同盟小史』第一章創生期にくわしい)。
 その後の日本トロツキズム運動の紆余曲折のなかで、同志山西は必ずしもわが同盟建設の組織的な最先端をにないつづけたわけではないが、しかし不断にわが同盟の進路と理論に対して忠告を与えつづけ、トロツキーやアイザック・ドイッチャーの著作の普及に打ちこんでいった。この高潔な先達が、トロツキズムの伝道者として、世界革命に勝利する道を指し示してくれたことを、われわれは誇りとする。革命と歴史へのこの先駆的功績はいつまでも伝えられるであろう。

     3

 長い雌伏の時期を経て、いまようやく日本トロツキズム運動は、日本階級闘争の責任ある前衛として闘いぬくことを自らに課す段階へと雄飛しようとしている。同志山西が強制された孤独な闘いは、いま、多くの人民の勝利の快感のなかにひろがりゆく確かな流れへと成長した。
 このひらけゆく壮大な展望を実感させた二つの勝利した闘い――日本トロツキズム運動二十年の歩みのなかで、その全蓄積を賭けて実現した昨年の三里塚三・二六闘争と今年四月の三鷹市議選の闘いを同志山西がどれほど深くよるこんだかを紹介して、しめくくることにする。
 三・二六闘争の直後、同志山西はこのときだけは昂ぶる心を抑えることもせずに、勝利に共感し、感動し、言葉をつまらせながら歓喜した。そして、わざわざ取り寄せたイギリスのタイムズやアメリカのニューヨークタイムズやワシントンポストが大きな写真入りで報道したことを示して、その勝利の歴史的意義のひろがりと大きさに注意を喚起した。それだけではない。同志山西はあわせて、「なぜWR(彼は「世界革命」紙をこう呼ぶ)に、この世界の大きな反響がすぐさま載らないのか!」と強い口調で叱正した。「L・T(彼はトロツキーをこう呼ぶ)が生きていたら、まずこの事実をとりあげる。」
 それから一年。今度は、三鷹の勝利が同志山西を再び大きな感動でつつんだ。勝利の報を伝えきいた同志山西はすぐに選挙事務所にかけつけ、「人生で最高にうれしい日」だとくりかえし、「世界革命」紙に、はるか四十数年前にロンドンで感動のうちに胸にきざんだトロツキーの言葉でしめくくった一文を寄せた。
 「『……左翼反対派(トロツキスト)はありのままの事実を語ることを目的としています。明晰さ、理論的精確さ、したがってまた政治的誠実さが革命的傾向を無敵なものにします。『コムニスモ』がこの旗印のもとに成長し発展されんことを!』(トロツキー、一九三一年、スペイントロツキストの機関紙創刊への言葉)
 菅原さんたちの成功は、彼のこの言葉が今日の日本にそのままあてはまることの証しではないだろうか。」(同紙五七三号)
 この勝利への道を終生つらぬく階級的戦士へと成長するための理論的教材として、本書ほど適切なものはないと確信して、われわれは山西英一論文集上・下二巻を国際革命文庫に加えた。
 
    国際革命文庫編集委員会 一九七九年五月一日


国際共産主義運動史
  ――山西英一論文集 上巻

   目次

第一部
国際共産主義運動史

 はじめに
   われわれはいまどういう歴史的段階に立っているか
   ボルシェビズムからスターリニズムへの堕落

 第一章 レーニン主義のコミンターン
   1 第一回大会
   2 第二回大会
   3 三月一揆
   4 第三回大会
   5 第四回大会

 第二章 国際共産主義運動とスターリンの政策
   1 一九二三年のドイツ革命
   2 第五回大会
   3 スターリンの極左的偏向と社会ファシズム論
   4 極右的偏向の悲劇
   5 英露委員会
   6 中国革命の悲劇
   7 スターリン「労働者農民党」を提唱す
   8 一国社会主義論の提唱
   9 第六回大会・「第三期」と社会ファシズム論
   10 ヒットラー反革命とドイツプロレタリアートの悲劇

ヒトラー反革命とトロツキーの死闘
   ――トロツキー著 『次は何か』訳者序文

 スターリン崇拝の崩壊とトロツキーの復権

第二部
五月革命――永久革命の時代と学生運動の高揚

   ――I・ドイツチャー著 『トロツキーアンソロジー永久革命の時代』訳者あとがき

反ヴェトナム侵略戦世界共闘会議を
   ――二つの提言

第三部
トロツキー著 『ロシア革命史』を邦訳するまで


ハンガリア革命とトロッキズム
  ――山西英一論文集 下巻

  目次

第四部
スターリンの死からハンガリア革命

  ――I・ドイッチャー著 『現代の共産主義』
  訳者あとがき

スターリニスト官僚独裁とトロツキーの闘い
  ――トロツキー著 『スターリンの暗黒裁判』 解説

ハンガリア革命の歴史的意義
  ――トロツキー著 『スターリンの暗黒裁判』 あとがき

第五部
ベトナムに殉じたドイッチャー氏の生涯の最後の三年

  ――I・ドイッチャー著『現代の共産主義』
  訳者あとがき

第六部
『収容所群島』とわたくしたち
地球の土台がゆらぐとき

  ――ソルジェニツィーンとわたくしたち

あとがき


第一部

国際共産主義運動史
  ――コミンターンの誕生からドイツ・プロレタリアートの悲劇まで――

 一九五三年十月に社会党三多摩支部の正式の機関決定を得て「教育資料No.1」として発表された(五〇〇部)。一九五九年頃旧日本革命的共産主義者同盟によりガリ版刷りパンフとして再発行。さらに七一年二月に国際革命文庫2として発行、七二年四月に第三刷。原題も同じ。

はじめに

 われわれはいまどういう歴史的段階に立っているか

 「同志諸君、母性と乳児の保護に関するあなた方の会は貴重であります。それはわれわれが新しい社会主義的文化の創造活動を、いろんな端から、同時に、平行しておこなっていることを、その活動の内容でしめしているからです。わたくしはこのために必要な時間を見つけることも、充分注意して検討することもついにできなくて、昨日になってやっとあなた方がパンフレットにして会議に提出されたテーゼを知ったありさまです。このテーゼで、多少とも局外者の立場にあるものの眼にいちばんはっきり映るのは、あなた方の活動が極めて具体的で深さをもったものであるということです……。同志諸君、いちばん注意をひかれたのは、乳児の死亡率に関する同志レーベジェヴァのテーゼの中の表です。それはわたくしには衝撃でした……。ここに一九一三年から二三年までの間の乳児と成人の死亡率を対比した表があります。いったいこの表は正確だろうか――これが第一の問題であって、わたくしはこの問いを自分にも他の人たちにも提起します。それはほんとに正確なのか? いずれにせよ、これは社会的検討をする必要があります。わたくしはあなた方専門家婦人労働者にしか理解できないテーゼからこの表を抜き出して、わが国の一般向け刊行物の戦闘的資産とし、あらゆる面から系統的な解明と検討にかけなければならないと考えます。そしてそれが正確だとわかったら、非常に貴重な業績として、わが国の社会主義文化の目録に書きこまなければならないでしょう。この表だと、ロシアがいまよりはるかに豊かだった……一九一三年の一年間の乳児の死亡率は、ウラジミール県では二九%だったのに、現在は一七・五%、モスクワ県では約二八%だったのに、現在は約一四%だということです。いったいこれは正しいだろうか、それとも正しくないだろうか?(正しい! という叫び声)私にはこの正否について論ずる力がないが、あなた方はそれを知っておられるだろうし、全国の人たちが、それを知る必要があるということはいえます。このデータをあらゆる違った眼をもった人たちが慎重に検討する必要があります。国の生産力と蓄積がいっそう低いのに、死亡率が低下するということは、驚くべきことです。もしもこれが事実だとしたら、これはわれわれの新しい日常生活の、そして何よりも第一にあなた方の組織の努力の、争う余地ない業績であります。もしもこれが真実だとしたら、わが国だけでなく、世界に向っても声を大にしてこのことを叫ぶ必要がありましょう。そして、もしもこの事実が、点検の結果全世論にとって議論の余地ないものとなったら、あなた方は、われわれはいまから一般に戦前の水準と比較するのは止める、と声高く声明しなければなりません……戦前の水準がわれわれの今後の基準ではない。われわれは別の基準を……文明の基準を……ドイツ、フランス、イギリス、アメリカの文明資本主義世界に見出さなければなりません……」
     (母性と乳児の保護に関する第三回連邦会議でのトロツキーの演説 一九二五年十二月七日)

 「……政治は結局だれも本気でものを言っていない場所である――それは悪夢(ナイトメア)の世界であった。性格異常者がうろついていた。政治家たちの深刻な、肉を焼くような争いは、娼家の女たちの喧嘩のようだった――彼女たちは、今夜はたがいに髪をつかみ合うかと思うと、明日の晩は一緒になって人を瞞(だま)す。彼女たちは、記憶を持っていない。彼女たちは、たった一つの主義しか持っていない――それは、娼家を立ち退かないということだ。たがいに殺し合うかもしれないが、娼家だけは、決して離れない。」
     (新潮社刊、ノーマン・メイラー全集、第八巻、『人食い人とクリスチァン』五〇一頁より)

 第二大戦後ソ連はあの大荒廃から逸速く立ち直り、驚異の大躍進をつづけ、中国や東欧その他の共産圏諸国も、不断の拡大を固有の本質とする国有財産が基盤の計画経済で、困難のうちにも拡大発展をつづけている一方、大戦前の殖民地を失って裸になった西側先進諸国は、この大計画経済圏と独立を獲得した発展途上諸国との間に狭まれて、内部の複雑な対立抗争を本質とする私有財産を基盤とする無統制経済の致命的な、経済的、政治的、モラル的諸矛盾を激化し、三〇年代始めより遥かに深刻な危機に崩れ込もうとしている。〔二十頁はじめからここまでは増補改訂の折り書きかえられた〕
 この歴史的破局(セト)際に立つ西側先進諸国は、二つの大戦の間にさえ、重大な革命的事件だけでも、次のように間断なく引き起している。
 一九一八年十一月
 ドイツとオーストリア、ハンガリーの革命。帝制顛覆。
〔ドイツ革命―一月〜二月にかけてベルリン労働者五十万のゼネスト及び各地の政治スト。十月ウィルヘムスハーフェンとキール水兵の暴動、各地に労兵評議会出現、十一月ベルリンの武装蜂起。〕

 一九一九年
 ハンガリーのプロレタリア革命。べラ・クン、ソヴィエト政府樹立。

 一九二〇年〜二二年
 イタリーの革命的危機、工場占拠。社会党の裏切りと若い共産党の弱体のため、ムッソリーニの反革命に終る。

 一九二一年三月
 ドイツ・プロレタリアートの三月一揆。

 一九二三年
 ドイツ革命。

 一九二五年〜二七年
 第二中国革命。

 一九二六年五月
 イギリスゼネスト、更に植民地諸国へ波及、同情ストの拡大。

 一九二九年〜三三年
 ドイツ革命。第二・第三インターナショナルの裏切りとヒットラー反革命の勝利。

 一九三一年
 イギリスの金融危機、失業者暴動とインヴァーゴードン事件。(イギリス全艦隊の反乱)

 一九三一年四月十三日
 スペイン革命。王政顛覆。共和制樹立。

 一九三一年九月
 ポルトガル海軍暴動。

 一九三二年七月
 ルーマニア全国暴動。

 一九三四年二月
 オーストリア社会党の反ファシズム反乱、武力闘争。

 一九三四年二月〜三六年
 フランス革命(人民戦線)。

 一九三四年九月
 オランダ・アムステルダム労働者の反乱、市街戦。

 一九三四年〜三七年
 アメリカの大労働攻勢(CIO)

 一九三六年〜三八年
 スペイン革命。
          等等………

 これらの事件は、どの一つでも直接世界史の運命を決定し世界の政治状勢を完全に一変することのできるものであった。
 社会主義革命の客観的条件は過熱している。何百万の勤労大衆は、くりかえし英雄的闘争に決起している。資本主義は、醜い屍のように危機から危機へよろめいている。大衆の背後には、最初の労働者国家ソヴィエトが立っている。そして、支配官僚のあらゆる障害にもかかわらず、全世界の眼の前で社会主義的計画経済の偉力を発揮している。
 プロレタリア革命の勝利にとっていったいこれ以上の有利な条件が望まれるであろうか? こうした絶対的有利な条件にもかかわらず、しかもなおこれらの革命運動はつぎつぎに敗北していったのである。
 いったいそれは、何故か? この不可解な謎を明らかにしないかぎり、プロレタリア運動は一歩も前進することはできず、新たないっそう悲劇的な敗北を準備するだけであろう。
 この謎に対する解答は、革命の主体的条件、つまり真に革命的な綱領と組織と決意をもったブロレタリア指導部が完全に欠けていたということである。したがって、今日の世界政治の――したがってまた人類文化の――危機は、プロレタリアートの革命的指導部の危機に還元せられる。
 「全体としての世界政治情勢は、プロレタリアートの指導部の歴史的危機によって特徴づけられる。
 プロレタリア革命のための経済的前提条件は、一般的にはすでに資本主義のもとで到達しうる最高の点まで成熟している。
 ……歴史的条件は社会主義のためにはまだ『成熟』していないという意味の一切のお喋りは、無知か、でなかったら意識的な欺瞞の産物である。プロレタリア革命のための前提条件は『成熟』しているばかりでなく、いささか腐りかかっている。社会主義革命が、それもつぎの歴史的時期におこらなかったら人類の全文化は破局に脅かされる。いまやプロレタリアートの番であり、それも主としてその革命的前衛の番である。人類の歴史的危機は、革命的指導部の危機に還元される.」(「過渡的綱領―資本主義の死の苦悶と第四インターナショナルの任務」)
 西欧の社会民主主義は、一九一四年「八月四日の裏切り」によって永久にその歴史的使命を放棄した。第三インターナショナルと各国共産党は、社会民主主義がその歴史的使命を放棄したがゆえに、それにかわって歴史的任務を遂行する使命を負って、大戦直後レーニンとトロツキーによって指導されてきたロシア共産党を中核にして生まれたのである。
 したがって、第一次大戦後における革命運動の敗北の直接的責任は、主として第三インターナショナルと各国共産党が負うべきものであり、敗北の主体的要因は彼等がとった政策にある。そこで、これらの政策を正しく真剣に分析し、そこから教訓を学びとることがわれわれの第一の任務となるのである。

 ボルシェヴィズムからスターリニズムへの堕落

 マルクス主義はボルシェヴィキ党の中に最高の歴史的発展をとげた。十月革命による労働者国家と第三インターナショナルの樹立は、ボルシェヴィズムの最大の勝利であった。
 だが、ボルシェヴィキ党も、党が生んだソヴィエト国家と第三インタしナショナルも、勝利によって歴史的過程の絶対的支配者となることはできず、変化の法則を免れることはできない。ボルシェヴィキ党は、労働者階級そのものではなくて、その極く一小部分の最も意識的な前衛分子の組織であるに過ぎない。しかもこの前衛分子の党でさえ、大衆的な党である以上、けっして等質的なものではなくて、いろいろな傾向を包含しており、それが外部のいろいろな圧力を反映して、たがいにたえず内部闘争をつづけているのである。
 「階級は、それだけでは搾取のための素材でしかない。プロレタリアートは、それ自体として(an sich)の社会的階級から向目的(fur sich )な政治的階級になる瞬間に、はじめて独自の役割を引受けるのである。これは、政党という媒体をとおさなくてはおこりえない。政党は、階級が階級的に意識化するところの歴史的機関であるJ(トロツキー「次は何か」)
 「階級が階級意識にむかってすすむ進化、つまりプロレタリアートを指揮する革命的政党の樹立は複雑な矛盾した過程である。階級そのものは同質的なものではない。階級のいろいろな部分は、いろいろな道によって、いろいろな時に階級意識に到達する。ブルジョアジーはこの過程に積極的に介入する。」(同)
 こうして勝利したボルシェヴィキ党は、遅れた未意識的な一般労働大衆の広汎な層、いっそう圧倒的多数の無知蒙昧な農民(ムジーク)や、その他の非プロレタリア的階級層から影響と圧力に絶えずさらされれているのである。
 こうした複雑な社会構成、恐ろしく低い文化水準、野蛮な過去の遺産、内乱や干渉戦争による荒廃と多くの戦闘的前衛分子の死、戦慄すべき貧困、国民大衆の疲労困憊、工業プロレタリアートの死と分散(「一九二〇年から二一年までに、革命を行った小さな労働者階級は、その数はほぼ半分に減ってしまった。当時、工業部門に残っていた労働者は百五十万から二百万どまりであった――残余の労働者は、多くは内戦で死に、他の者は人民委員か官吏になり、また他の者は飢饉のために町から田舎へと追われ、二度と帰らなかった。」アイザック・ドイッチャー「変貌するソヴィエト」より)、建設期に入ってからの知識階級(プチ・ブルジョアジー)の発言権増大、さらにこの国を包囲孤立させている帝国主義の圧力、こうした条件はすべて保守反動的な圧力となって、ボルシェヴィキ党内や国家機構内の革命的分子の力を弱め、非レーニン主義的傾向(官僚主義的傾向)を強化することになった。
 圧倒的に強力なこれらの傾向・保守反動的圧力に対抗して、意識的労働者の指導権を維持することのできる唯一の保証は、革命が国際的に拡大すること、殊に西欧の先進国に拡大することであった。それが遅れるとき、党と国家は反動勢力のために打倒されるか、たとえ打倒されないで外形だけはとどめていても、その性格は内部闘争を経ながら、徐々に非プロレタリア的なものに変化せざるをえなかった。
 二〇年代後半から三〇年代末にかけて起った弾圧と血の粛清は、保守反動的傾向を反映する反プロレタリア的(官僚的)分子のプロレタリア分子(主には、ロシア共産党左翼反対派)に対する反革命的クーデターにほかならなかった。レーニンたちが最も恐れていた反革命的転覆は、主として資本主義諸国家間の対立矛盾のおかげで起らなかったが、しかし、党と国家の支配機構の性格はこうして悲劇的な変化を遂げて似ても似つかぬものとなった(「堕落した労働者国家」)。われわれは名前だけに囚われることなく、この弁証法的変化を、歴史的事実について解明しなければならない。


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