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第一章 レーニン主義のコミンターン (第三インターナショナル)

 第三インターナショナルは、一九一九年三月、モスクワ会議によって成立した。本章では第一回大会から第四回大会(一九二二年)を明らかにする。

1、第一回大会

 三月二日から六日まで十七ヶ国を代表する五十一名の代表者(三十五の決議権)によって行なわれた。当時アメリカ大統領ウィルスンの唱導した平和主義が世界を風びし、社会民主主義は「八月四日」の裏切り(一九一四年八月四日、ドイツ社会民主党がドイツ国会でブルジョアジーの戦争予算に賛成投票し、国際主義を裏切ったこと)を頬かむりして、ウィルスンの平和主義に追従し、第二インターナショナルを旧い形のまま再建しようとしていた。レーニンはこの二つの反動的運動に徹底的に反対を表明し、各国のプロレタリア前衛を単一の革命的インターナショナルに組織することを要求した。
 ウィルスンの欺瞞的な平和主義と国際連盟等のイリュージョンの反動性は、完膚ないまでに暴露され、レーニンの「ブルジョア民主主義とプロレタリア独裁」、トロツキーの「世界の労働者に対する共産主義インターナショナルの宣言」という徹底的に戦闘的なテーゼと宣言が採択され、改良主義とプチ・ブル的平和主義の欺瞞にたいして闘争が集中された。ロシアのポルシェヴィキ党のコミンターン代表は、左の通りであった。
 レーニン、トロツキー、ジノヴィエフ、ブハーリン、チチェリン、および二名の代理委員ヴォロフスキー、オツシンスキー。

2、第二回大会

 一九二〇年七月十七日〜八月七日、三七ヶ国を代表する二一八代表参加(決議権は一一六)。大戦直後各国に起った大衆運動に圧迫されて、いくつかの左翼社会民主主義的政党は、第三インターナショナルに加入して大衆の信望をつなぎとめ維持しようとした。
 レーニンはこの改良主義的傾向が流れ込む危険を阻止するために「二十一ヶ条」の加入条件を規定し、軍縮会議、国際連盟、国際仲裁裁判所等々の一切の平和主義的イリュージョンと決定的に手を切ることを絶対条件として要求した。そして、各国独立の党のルーズな結合のかわりに、プロレタリア世界革命を実現するための単一共通な国際指導部をもち、各国の党をその支部とするところの単一の世界党としてのコミンターンを結成することを決議した。
 「コミンターンへの加入条件について」
 「六、第三インターナショナルへの加入を希望するすべての政党は、公然たる社会愛国主義はいうまでもなく、さらに社会平和主義の虚偽や偽善を暴露する義務がある。
 即ち、すべての党は、資本主義を革命的に転覆することなしには、どんな国際裁判所も、どんな軍縮条約も、国際連盟をどんなに『民主的』に改組しても、新しい帝国主義戦争から人類を救いだすものではないということを、労働者に組織的に説明する義務がある。」(第二回大会の決議より)
 レーニン「国際連盟は盗賊どもの台所である。」
 トロツキー「国際連盟の目的は、本質的には世界独占のための商会、『ヤンキー商会』になることであった。」(第二回大会宣言より)
 トロツキー「全労働者大衆は、国際連盟という商会名のもとで勝利した一味徒党の奴隷とならねばならぬというのか?」(第一回大会宣言より)
 ボルシェヴィキ党のコミンターン代表、レーニンは、トロツキー、ジノヴィエフ、ラデック、ブハーリン、ジェルジンスキー、ルイコフ、リャザーノフ、トムスキー、クループスカヤ、ボクロフスキー、ルスタクスその他。
 スターリンは代表団に加えられるほどの有能メンバーではなかった。

3、三月一揆

 一九一八年の革命と敗戦、植民地領地や国外市場の喪失、苛酷な賠償のためドイツ資本主義は危機から危機へとよろめき、社会不安がつづいた。一九二〇年夏、ドイツの独立社会民主党の左右分裂はいよいよ拡大し、十月のハレ党大会には、コミンターンを代表してジノヴィエフが四時間の大演説を行ない、ついに多数派はドイツ共産党との統一を決定した。ドイツ共産党はこれによって党員が五万から一挙に三十五万に増し、はじめて大衆的党となった。もとからの党員は主としてローザ・ルクセンブルクの流れをくむインテリ層で、パウル・レヴィの指導下にスパルタクス団の伝統を維持し、宣伝に主力を注いでいた。新しい党員は主として労働者で、いっそう積極的な行動を要求した。ジノヴィエフはこの派に強く働きかけた。ドイツにおけるコミンターン代表ラデックはレヴィの慎重な態度を支持した。一九二一年一月、レヴィ指導下の中央委員会はラデックの積極的な支持のもとに、すべての左翼諸政党と労働組合に向かって公開書簡を送り、1、賃上げと物価統制、2、ブルジョアジーの非合法的武装部隊の解散とプロレタリア自衛隊の組織、3、ソ連と通商外交関係樹立、の三つの目的で共産党と共同闘争することを要求した。
 ジノヴィエフとブハーリンは生ぬるいとして、これに反対したが、レーニンとトロツキーはこれに賛成した。公開書簡の訴えは直ちに反響を得ることはできず、そのため党内左派を強化することになった。一方レヴィはレグホンでのイタリー共産党大会(一九二〇年九月の革命失敗の自己批判のための重大な大会であった)においてコミンターンの公式代表の方針に反対し、党中央委員会によって三月三日不信任を決議された。この決議は、同時に党内左派を支持したものであると考えられた。
 一方ジノヴィエフはべラ・クンをドイツに送って、ラデックの反対を押し切り、直接行動をとるように働きかけさせた。当時レーニンとトロツキーは、国内の重大危機に没頭していたため、直接指導に当ることができなかった。
 ところで当時の一般社会情勢はどうであったか?
 一九一八年のドイツとオーストリア・ハンガリーの革命、一九一九年三月のべラ・クンによるハンガリーのソビエト革命、一九年一月と三月のドイツ労働者の闘争、二〇年三月、カップ反乱直後絶頂に達したドイツ労働運動、二〇年九月のイタリー革命、二〇年十二月チェコスロバキアの大ゼネスト等々、戦後労働者階級の相つぐ大攻勢において、国家権力は事実上プロレタリアートの手中に握られていた。あとはこれを正式化し、労働者政権を組織宣伝しさえすればよかった。だが、社会民主党や労働組合の反動的指導者の裏切りによって権力はつぎつぎに、麻痺し無力化した支配階級の手に引き渡されてしまい、いずれも重大な失敗に終わり、革命運動は退潮しはじめていた。つまり戦後の革命運動の波は、下から自然発生的に燃え上ったものであって、これを指導しうる革命的政党が社会民主党との闘争において十分成長しうるまえに最高度に達し、裏切られて、後退しはじめたのである。
 一方、レーニン始めコミンターンの指導者たちは、すべて徹底的な国際主義の立場にたち――「一国社会主義」などは、社会愛国主義者たちのプチ・ブル的妄想として排撃されていた――ソビエト政権が存続する唯一の保障は、西欧の先進国におけるプロレタリア革命である。もしも近い将来、西欧の先進国にプロレタリア革命が起らなかったら、ソビエト政権は国内的国際的反動勢力のもとにたおれねばならぬ、と考えていた。
 だが、ブハーリンはさらに、この考えを極端に押し進めて「資本主義はすでに消耗されてしまった以上、間断ない革命的攻勢によって勝利を獲得せねばならぬ」と考え、ヨーロッパのプロレタリアートに「電撃をかけ」、絶えず不断に新しい革命的爆発を起さなかったら、ソビエト政府は危機にさらされる、と主張していた。ジノヴィエフばかりでなく多くのものがブハーリン理論を支持し、この極左的偏向は一般的傾向となっていた。
 ドイツの若い共産党は、革命の退潮を見誤まり、自分たちの焦燥を革命的情勢の成熟と勘違いし、ソビエトを救うためにドイツに「電撃を与え」一揆的反乱を起さねばならないと考えた。
 三月四日、レヴィ不信任の決議をした翌日、ドイツ共産党中央委員会は、ドイツ労働者に向って、「ドイツのブルジョア政権を打倒するために示威を決行せよ」という檄を発した。
 三月中ごろ近く中部ドイツのマンスフェルト鉱山地帯で暴動が勃発、十六日に国防軍が派遣されて残虐な武力弾圧を強行した。翌十七日、党は政府に対する反乱を宣言し、労働者に武力蜂起を檄した。だが反乱の組織は全国的に発展せず、中部ドイツを除いては重大な闘争も起らない有様だった。一週間後、蜂起が衰えはじめたときになって、党はゼネストを宣言した。しかしこれは失敗をいっそう悪化するだけで、罷業労働者は警察や国防軍と闘うばかりでなく、ストライキを拒む一般労働者大衆とも衝突することになった。
 三月三十一日、敗北が決定的となり、何千名もの逮捕者や死者を出したあげく、ついに党は闘争中止の指令を発した。一揆的反乱は完全な失敗に終り、その政治的影響は測り知れないものがあった。
 この危険千万な極左的な「左翼小児病」的傾向は、ドイツばかりでなく、一般的傾向としてヨーロッパ各国に鋭くあらわれていて、新しい敗北の危機をはらんでいた。第三回大会はこの危険な極左的偏向との闘争に主力が注がれた。

4、第三回大会

 一九二一年六月二二日〜七月十二日。
 この大会をまえにして、ボルシェヴィキ党内では、情勢判断と戦略戦術の問題に関し、ブハーリンの多数派とレーニン・トロツキーの少数派の間に激しい衝突が起った。
 ブハーリンは革命的情勢は成熟している、各地では政権奪取の闘争を間断なく展開しなければならぬ、と主張した。レーニンとトロツキーは、三月一揆の敗北は革命的退潮を促進した、指導部の決意と大衆の不満だけでは、勝利を保障することはできない。何よりもまず、指導部と大衆が緊密に結合し、大衆が指導部の能力を確信していることが大切である。共産党はまだ政治的にも政権奪取の力を十分にもっていない、党は権力を奪取するまえに、まず大衆を獲得しなければならぬ。このスローガンは、「大衆へ!」「大衆の獲得をとおして、権力の奪取へ!」でなければならぬ、と主張した。
 ブハーリンの極左「電撃的衝撃論」は、ジノヴィエフ、ペッパー、ラコシ、ベラ・クン、ミュンツェンベルク、タールハイマー、フレーリッヒ、大部分のイタリア代表等々を含む大会代表の多数派の支持をうけた。レーニンとトロツキーの少数派はコミンターンの分裂をも覚悟してこれに臨み、激烈な論争の後やっと決議に勝利することができ、コミンターンは空前の危機をまぬがれることができた。
 こうして社会民主党や労働組合との「統一戦線」の政策が決定された。それは党の独立性はあくまで堅持し、ただ共通の個々の具体的な要求だけを基礎とするものであって、統一戦線中といえども真摯な批判の自由を条件としていた。そしてこの統一戦線は、闘うプロレタリアートの統一行動のための労働者階級の統一であった。つまり、一九一七年、コルニロフの反革命クーデターを粉砕したレーニン主義的統一戦線「別個に進み、ともに撃て!」の合言葉を根底にしていた。
 これは、後のスターリンの「社会ファシズム論」「下からの統一論」の極左的偏向とも、「人民戦線的、民族戦線的」極右的偏向とも、徹底的に相違していた。レーニンの「共産主義における左翼小児病」(一九二一年五月〜六月)は同じ目的をもって書かれたのである。
 「大衆へ! 大衆のまえもっての獲得を通して権力の奪取へ!」
 「階級が階級意識に向かってすすむ進化、つまりプロレタリアートを指導する革命的政党の樹立は、複雑な矛盾した過程である。階級そのものは同質的なものではない。階級はいろんな道によって、いろんなときに階級意識に到達する。ブルジョアジーはこの過程に積極的に介入する。彼らは、労働者階級の内部にブルジョアジー自身の機関を創造したり、またはすでに存在する機関を利用しては、労働者のある層を他の層に対立させる。それと同時に、プロレタリアートの内部ではいくつかの政党が活動している。したがって、プロレタリアートは自分の歴史的行為の大部分をとおして政治的に分裂している。統一戦線の問題――ある時期に最も尖鋭に生まれるところの――は、実にここに起因するのである。」
 「プロレタリアートは学校で学年を経ることによってではなく、間断ない階級闘争を通過することによって革命的意識にむかってすすむのである。闘かうためには、プロレタリアートは自己の隊列を統一しなければならぬ。このことは、たった一つの工場のへいの内部での部分的な経済闘争にも、ファシズム撃退のそれのような『全国的』政治闘争にも、つとにあてはまる。したがって、統一戦線の戦術は、偶然的な人為的なもの――狡猾な策略――などでは全然ない。それは、全的にプロレタリアートの発展を支配する客観的条件から生まれてくるのである。」(トロツキー「次は何か?」)
 コミンターン第三回大会は、ブハーリンの「電撃的衝突を与えることによって、革命的情勢をつくりだす」という極左主義に反対し、「大衆のまえもっての獲得を通して権力の奪取を!」という方向を明らかにした。そして「大衆の獲得のために」は、後に一九三八年、第四インターナショナル創立に当ってトロツキーによってより明確に「過渡的綱領」として表現された思想の基本的諸規定が「戦術に関するテーゼ」を中心に第三回大会諸報告・文書において明らかにされた。
 「第三回大会とともに新しい段階が始まる。党はかれらがいまだ大衆を獲得せねばならないこと、攻撃は多少とも長い準備活動の期間によって先行されねばならないことを考慮に入れる統一戦線の時代、すなわち過渡的要求にもとづいて大衆を融合せしめる戦術の時代がはじまる。」(トロツキー、一九二四年)
 「つぎの時期――煽動、宣伝、組織の革命前的時期――の戦略的任務は、客観的革命的条件の成熟とプロレタリアートとその前衛の未成熟(旧い世代の混乱と失望、若い世代の未経験)との矛盾を克服することである。大衆が日常闘争の過程において、当面の要求と革命の社会主義的綱領の間の橋を発見するのを助けることが必要である。この橋は、今日の状態と労働階級の広汎な層の今日の意識から生まれ、必然的に唯一の究極的結論、プロレタリアートによる権力の獲得にみちびくところの過渡的要求の綱領をふくまねばならぬ。
 進歩的資本主義の時代に活動した古典的社会民主主義は、自己の綱領をブルジョア社会の枠内での改良に限定された最低限綱領と、不定の未来において資本主義を廃止して社会主義にかえることを約束する最大限綱領とのたがいに独立した二つの部分に分類した。最低限綱領と最大限綱領との間にはどんなかけ橋も存在しなかった。事実また社会民主主義には、そんなかけ橋の必要なんかちっともなかった。なぜなら、社会主義という言葉は、ほんの休日のおしゃべりのために用いられるにすぎなかったからである。
 コミンターンは、没落資本主義の時期に、社会民主主義の道をふみはじめた。一般的にいって組織的な社会改良とか大衆の生活水準の向上とかを論ずることができず、プロレタリアートの重大な要求はことごとく、それどころかプチ・ブルジョアジーの重大な要求でさえ、すべて不可避的に資本主義的所有関係とブルジョア国家の限界をこえてしまうときにである。
 第四インターナショナルの戦略的任務は、資本主義を改良することではなくて、これを打倒することである。その政治目的は、ブルジョアジーの財産を没収するためにプロレタリアートが政権を獲得することである。だが、この戦略的任務の達成は、戦術上の一切の問題に、小さな部分的な問題にさえ、最も慎重な注意をはらうことなしには考えられない。
 プロレタリアートのあらゆる部門、あらゆる層、あらゆる職業とあらゆるグループを革命運動にひきこまなければならない現在の時期は、革命的政党をその日常の仕事から解放しないで、この仕事が革命の実際の任務と不可分にむすびついて遂行されることをゆるす。これが現在の時期の特徴である。
 第四インターナショナルは、旧い『最低限』要求の綱領がすくなくともその重要な力の一部を保持しているかぎり、これを無視しない。第四インターナショナルは、労働者の民主主義的な権利と社会的な既得の権利をあくまで防衛する。だが、第四インターナショナルは、この日常の仕事を正しい実際のつまり革命的展望の枠内において遂行する。大衆の旧い部分的な『最低限』要求が、没落資本主義の破壊的堕落的傾向と衝突するかぎり――これは一歩ごとにおこっている――第四インターナショナルは過渡的要求の綱領を提起する。
 その本質は、これらの要求がブルジョア制度の根底にたいして、いよいよ公然とますます決定的にむけられることである。
 旧い『最低限綱領』はプロレタリア革命のために大衆を組織的に動員することを任務とする過渡的綱領にとってかわられる。」(トロツキー、「過渡的綱領――資本主義の死の苦悶と第四インターナショナルの任務」――第二章、最低限綱領と過渡的綱領)

5、第四回大会

 一九二二年十一月四日〜十二月五日。
 ここでは、第三回大会で決定された「統一戦線の戦術」を再確認し、より具体化した。この政策はまた一九二一年十二月十八日のコミンターン執行委員会によって、「労働者の統一戦線と第二・第二半インターナショナル、アムステルダム・インターナショナル所属の労働者、ならびにアナルコ・サンジカリスト的組織を支持する労働者に対する闘争指針」(トロツキー執筆)として、解明された。(この重要なテーゼは、スターリニストによって隠ぺいされているが、他の歴史的文書と共にトロツキー著「コミンターン最初の五ヶ年」の中に掲載されている)
 レーニン、トロツキーの直接指導下にあったこの四つの世界大会において決定された宣言、テーゼ、決議、綱領的文書は、それまでのボルシェヴィズムの全経験と教訓の総合と結晶であり、その輝かしい理論の最高の表現であって、あらしのような没落資本主義時代の国際プロレタリア運動に対する指導原理をなすものである。これを徹底的に研究・把握し発展させることなしには、プロレタリア運動は一歩も前進できないのであり、より多大の犠牲と迂余曲折、損失を強いられるであろう。
 だが、スターリン化されたコミンターンと各国共産党はこれを完全に無視し、歪曲し、踏みにじって、どこでも全く知られていない。
 プロレタリア独裁、ボルシェヴィキ的統一戦線、ブルジョア的、プチ・ブルジョア的平和主義(国際連盟――つまり今日の国連がそれだノ ――軍縮会議、国際仲裁裁判所等々)や社会改良主義との仮借ない闘争、徹底的なプロレタリア国際主義。これこそレーニン主義の根本であり、レーニンはこのため死力を賭して闘い抜いたのである。スターリンとそのエピゴーネン官僚どもはこれを、レーニンの名にかくれて修正し、歪曲し、じゅうりんし去った。
 今日、共産主義を語り、マルクス・レーニン主義を語り、「共産党員」を名のる者の中で、レーニンのこの基本網領がどのようなものであったかを知っているものが果たして何人あるであろうか? レーニン主義のレッテルを貼りつけたスターリニズムが、レーニン主義とどんなに似ても似つかぬものであるか、今日の「共産党」がレーニン・トロツキーの育てた「共産党」とどんなに相違しているかを、われわれは革命運動の事実にもとづいて明白にさせねばならない。
 偽造と歪曲の歴史は、事実のまえに破産を宣せられねばならない。
 現在の各国における民族的「共産党」は「コミンテルンに所属するための条件」としてレーニンによって提起され、コミンターン第二回大会が確認した「共産主義インターナショナルへの加入条件二十一ヶ条」(レーニン全集第三一巻、一八一頁)の一つをも満たしているか? 全く否! である。


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