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第二章 国際共産主義運動とスターリンの政策

 レーニンは一九二二年中ごろ発病し、二四年一月二十一日逝去した。二三年、スターリンはカーメネフ、ジノヴィエフと「三頭政治」を組織し、国内政策や国際政策の指導をこの秘密三頭会議(いわゆる「トロイカ」)で決定していた。トロッキ−はすでにこの最高秘密会議から除かれていた。

1、一九二三年のドイツ革命

 この年フランスはルールを占領した。それでなくてさえ恐るべき金融経済恐慌に襲われていたドイツ・ブルジョアジーは、このことによって根底から震憾させられ、一切の活動は麻痺し、革命的危機は急激に発展し、秋には最高潮に達した。
 歴史的転換期の特徴は、いついかなるときでも革命が達成される、つまり政治権力を奪取することができるということを意味するものではなくて、情勢がたえず急激に変化して止まぬということを意味する。つまり、ちょっとしたきっかけでも革命前的ないし直接革命的情勢が突如として発展し、それはファシスト的ないし半ファシスト的反革命に転化し、それはまた人民戦線的「左翼ブロック」に急転し、たちまちに新たな対立激化から政治権力の問題を尖鋭化するというように、深刻急激な変転動揺をつづけて止まないということにある。革命的指導部の任務は政治情勢はつねに変動して止まないということを深く理解し、たえず政治情勢の脈搏を感知して、突如として発展する新事態をとらえ、時期を失せずに舵をとることである。ところが、モスクワの最高指導部とブランドラー一派のドイツ共産党の幹部たちは、一揆主義を警告した第三回大会のスローガン「大衆の獲得」という一面だけに囚われて、「大衆の獲得を通して、権力の奪取へ!」ということを忘れてしまいついに絶好の好機を逸してしまった。
 一九二三年八月、革命的情勢が最高潮に達しようとした直前スターリンは、ドイツの情勢について、当時コミンターン執行委員会におけるロシアの指導的代表であったジノヴィエフとブハーリンに、つぎのような書簡を送った。
 「もしも今日、ドイツにおいて権力が倒れ、共産党がこれを掌握するとしたら、彼らは崩壊してしまうであろう……それも、『一ばんよくいって』である。悪くいったら、彼らはみじんに粉砕されて、投げかえされるであろう。全問題はブランドラーが『大衆を教育』したということではなくてブルジョアジー・プラス・右翼社民党が、この教訓――示威行動――を処分する全面的戦闘に転化させ(現在、一切のチャンスは彼等――ブルジョアジー・プラス・右翼社民党――の側にある)、共産党を殲滅させるであろうということである。
 ファシストは皆眠っていない。ファシストに最初に攻撃させた方が、われわれにはいっそう有利である。そうすれば、労働者階級を共産党の周囲に結集させることになるから、ここは……私の情勢判断では、ドイツ共産党は抑制すべきであってこれを押し進めてはならない。」
 これと同じ完全な敗北主義的政策が、一九三一年〜三三年にかけて、ヒットラーにたいしてとられたことを記憶すべきである。こうして九月、プロレタリア権力が鋭く日程にのぼっていた最高頂に、ドイツ共産党は、統一戦線のためサクソニーの社会民主党の政府に参加すべしという特別指令をモスクワからうけとった。
 トロツキーは、革命的情勢は成熟した、ドイツ共産党とコミンターンは権力奪取のための決定的闘争にたたねばならない、もしも機を逸するなら、長期にわたり回復すべからざる打撃をこうむるであろうといって、警鐘を乱打した。
 だが、ソ連共産党中央委員会は、
 「トロツキーのこの罵倒演説(九月の中央委員会総会での)は、総会における、ドイツ革命とは何の関係もないちょっとしたエピソードのためにおこったもので、けっして客観情勢に一致するものではない」(二四年一月刊、ソ連共産党議事録一四頁)と考えた。
 不幸にして、事態はトロツキーの警告が完全に客観的情勢に一致していたことを証明した。革命は一戦も交えずに残虐な敗北を喫し、九千名もの戦闘的労働者が投獄された。革命的危機がどんなに成熟していたかは、スターリニスト自身によってかかれたプラウダの次の論文が明らかにしている。
 「一九二四年五月、マルクはすでに比較的に安定し、ブルジョアジーの立場はある程度強化され、中産階級やプチ・ブルジョアジーの大衆が国家主義の側に移行した後、党が深刻な内的危機を経験し、プロレタリアートが重大な敗北を蒙った後においてすら、共産党がなおかつ三百七十万の投票(一九二四年五月の国会選挙)を獲得することができたとすれば一九二三年十月、未曾有の経済的危機におそわれ、中産階級が完全に崩壊したとき、ブルジョアジー自身の深刻な矛盾と工業中心地におけるプロレタリア大衆の空前の戦闘的雰囲気の結果、社会民主党が国民多数の支持をうけたことは明日である。党は闘うことができたし、闘うべきであった。そして成功すべき一切のチャンスを持っていたのである。」(二四年五月二十五日、プラウダ)
 第五回大会において、一ドイツ共産党代表は次のように論じた。
 「いやしくも階級意識あるドイツ労働者で、党は闘うべきであって、闘争を回避すべきではなかったということを知っていないものは、ただのひとりもいない。ドイツ共産党の指導者たちは、党の独自の役割を完全に忘れてしまっていた。これが十月敗北の主要な理由の一つであった。」(二四年六月二四日プラウダ)
 大戦直後から一九二一年三月一揆にいたるまで、全ヨーロッパに継起した革命的昂揚の一般的特徴は、大衆の中から発した自然発生的な運動であったということにある。崩壊した社会民主党の左翼分子によって組織された各国の若い共産党は、ボルシェヴィキ党とはちがって組織的にもまだ未成熟で、大衆蜂起を勝利に導く力がなかった。
 だが、一九二三年の敗北はこれとは完全に性質を異にしていた。ブルジョアジーは完全に麻痺し、一切の抵抗の機能を全く失っていた。大衆の革命的憤激は全国にみなぎっていた。ブルジョアジーの唯一の支柱、社会民主党は、腐った藁のむしろのようにぼろぼろになり、浮き上り、麻痺して、完全に崩壊に瀕していた。共産党は巨大な大衆的党として成長していた。これ以上に有利な革命的条件を想像し、期待することが出来るであろうか?
 しかも、一戦も交えずに勝利を逸し去り、九千名もの労働者の逮捕者を出すという、潰滅的な大敗北を喫したのは何故か?
 権力奪取に移行する前夜における革命的指導部の危機(躊躇、懐疑、逡巡)、これがこの歴史的大敗北の唯一の理由であった。およそ革命的危機が極度に尖鋭化した時期は、その性質上きわめて短いものであって、革命か反革命かのいずれかに急速に決定されるのである。革命指導部が、ブルジョアジーの凶暴な攻撃を前にして、逡巡、動揺、躊躇し、客観的な任務に応え得ない場合には、数週間、いな数日の間に大破局にみちびき、長年月を費した一切の準備を失ってしまうことになる。
 「プロレタリア革命における多くの困難の中で、特別の、具体的な、また特殊な困難がある。それは諸事件の鋭い転換の間における革命的指導部の立場と仕事から生ずる。最も革命的な党でさえも後にとり残され、また昨日の闘争スローガンと手段とを新しい緊急の場に対立させるという危険をおかす。そして一般に、プロレタリアートの武装蜂起の必要を創り出すもの以上に急激な諸事件の転換はありえない。党指導部および全体としての党の政策が階級の指導および情勢の緊急さに一致しないという危険が生ずるのは、ここにおいてである。政治生活の比較的遅々とした進行の間には、かかる不一致は、たとえ損失をともなったとしても、破局なしに癒される。しかし急激な革命的事態には、不一致を除去し、戦線をいわば戦火の下で矯正するのに不足しているのはまさしく時間である。革命的危機の最大限に尖鋭化する時期は、まさにその本質によって一時的である。革命的指導部(ブルジョアジーの凶暴な攻撃に面しての躊躇、動揺、妥協)と客観的任務との間の不一致は、二〜三週間また数日の経過中にさえ破局へと、また準備の仕事に数年もかかったものの喪失へと導く。」(トロツキー「レーニン死後の第三インターナショナル」)
 敗北が大きければ大きい程、指導部の誤謬は明らかであり、指導部に対する大衆の失望は重大で、必然的に革命的情勢の退潮をきたし、この回復には長い期間を要するであろう。党指導部の第一の任務はこの急激な情勢の変化を速かに把握し、大衆を絶望的な冒険や潰走から保護し、敗北から必要な教訓を引きだして、それによって自己を武装し、大衆を教育することである。
 レーニンはいった。
 「最も危険なことは、敗北ではなくて、自分の敗北を認めることを恐れることであり、それから一切の結論を引き出すことを恐れることである。……もしも、われわれが昨日の経験によって、いままでの旧い手段のどこが間違っていたかを見る眼を開かれなかったら、われわれは新しい手段によって今日の問題を解くことはできない」(レーニン)

2、第五回大会

 一九二一年三月、ドイツ共産党が一揆的蜂起(三月一揆)に失敗したとき、レーニンは直ちにコミンターンの世界大会を招集し、これを批判検討し、これから必要な教訓を引きだした。だが、第五回大会は、それ以上遥かに重大な敗北であったにもかかわらず、この敗北の八ヶ月後になってやっと招集された。ここでは敗北を敗北としてはっきり認め、敗北の「主体的要因」――コミンターンと党の政策――を分析し、そこから必要な結論と教訓を引きだす重大な任務をもっていた。ところがスターリンもジノヴィエフもブハーリンもこれを回避して、敗北の全責任を破廉恥にもドイツ共産党の指導部に押しつけ転嫁することにのみ終始した。
 情勢分析に関するトロツキーとスターリンの対立。トロツキーはこの敗北の重大性を指摘し、ドイツプロレタリアートはこの深い痛手から回復するのに長い年月を必要とするであろう、ドイツ革命の敗北を契機として、アメリカ・ブルジョアジーはドイツ資本主義への金融的「援助」にのり出し、ヨーロッパの「平和的」征服にとりかかったが(アメリカ帝国主義の使者ドーズは、わずか四億マルクの金をもってドイツ経済の支配権を買いとり、これを「安定」させた)、アメリカ資本のこの攻撃は、ヨーロッパの経済的「安定化」の形をとり、ヨーロッパを「正常」な「平和」な状態にもどし、民主主義的原則を「復活」させるという形をとっている(ヨーロッパの額(ひたい)には、ドーズ案、フーヴァ・モラトリアムとアメリカのレッテルがべたべたと貼られていて、それをはぎとることはできない。ヨーロッパは、いまや徹底的にアメリカにあてがい扶持されているのである。―トロツキー「次は何か?」より)、これは必然的に、平和主義的、民主主義的、改良主義的傾向を強化し、社会民主党を復活させるであろう、したがって、直接的権力闘争は冒険主義的一揆に陥る、と警告した。
 スターリン派は、トロツキーの見解に真向から反対し、警告を無視して、これこそいまドイツと全ヨーロッパに切迫している革命に対する信念を欠いているものだと非難した。
 「われわれは今やそこに(全ヨーロッパの情勢)どんな短いものであれ、どんな一時的小康であれ外的平和の時期さえも期待してはならない。……ヨーロッパは決定的諸事件の局面に入り込みつつある。……ドイツは明らかに先鋭化せる内乱へと進みつつある。……」(ジノヴィエフ、国際赤色救援会での演説、プラウダ、一九二四年二月二日所収)
 「一九二三年十月になされた事件のテンポの評価における誤謬〔どんな種類の誤謬か? 明らかにされていない〕は、党に大きな困難を起させた。それにもかかわらず、それはエピソードにすぎない。基本的評価は依然として前と同じである 」(一九二四年三月二六日付、コミンターン執行委員会よりドイツ共産党宛指針。プラウダ、二四年四月二十日付に所収、傍点は引用者 )。「一九二三年の偉大な歴史的悲劇――偉大な革命的立場の闘争なしの明け渡し――は六ヶ月後に一つのエピソードとして評価された。『ただのエピソードだ』。ヨーロッパは今日なおこの『エピソード』の最も重大な結果を蒙っている。」(トロツキー「レーニン死後の第三インターナショナル」一九二八年)
 「(ドイツならびに全ヨーロッパの)全般的政治的展望は、前(二三年の敗北の)と同じままに残っている。情勢は革命をはらんでいる。新しい階級闘争はすでに再び拡がりつつある。巨大な闘争が進んでいる……。」(ジノヴィエフ、第五回大会における演説。プラウダ、二四年六月二四日)
 だがトロツキーの予言、警告通り、事態は全身麻痺して全機能を失っていたブルジョアジーは救われ、マルクは安定し、崩壊の瀬戸際にあった改良主義的な社会民主党は共産党を犠牲にして強化され、共産党かこの敗北の痛手からやっと回復しはじめたのはようやく四年後の一九二八年であった。
 一九二四年一月には、共産党と社会民主党の投票数の比率は二対三であったが、四ヶ月後には一対三に落ち、一九二八年五月の選挙で社会民主党は実に九百万票を確保することができた。

 3、スターリンの極左的偏向と社会ファシズム論

 一九二三年のブルガリア革命、ことにドイツ十月革命の敗北の後、ヨーロッパのプロレタリア闘争が明らかに後退戦に移っていた二四年を通じ、スターリン一派はドイツとヨーロッパは革命の瀬戸際にあると叫びつづけた。
 スターリンは言う。「決定的な闘争はすでに起った。プロレタリアートはこの闘争において敗北を喫した。その結果、ブルジョアジーは強化されたというのは誤りである。決定的闘争はまだ全然おこっていない。最後に……この『平和主義』から、必然的にブルジョアジーの権力は強化され革命は不定の時期の間延期されるということもまた誤っている。」 (スターリン、「国際情勢について」二四年九月二十日付プラウダ)
 「ドイツ共産党は反乱と権力奪取をその日程からとりのけてはならぬ。反対に、われわれはこの問題を極めて具体的な緊急の問題として、われわれの前におかねばならぬ。」(コミンターン常任執行委員会決議。二四年二月七日ブラウダ)
 「ドイツ共産党はいままでと同様、労働者階級の武装に全力をつくさねばならぬ」(同上、四月十九日プラウダ)
 こうして一九二四年は、極左主義と一揆主義の年であった。スターリン一派の誤った指導によって、歴史的痛手をうけた共産党は、彼らのこの誤った情勢判断と政策によっていよいよ大衆から孤立させられたのである。
 この年はじめてスターリンは、「社会ファシズム論」を発表した。「社会民主主義とファシズムは敵ではなくて双生児」であり、「社会民主主義は客観的にはファシズムの穏健な一翼である」と規定した、俗悪で無内容な極左的謬論はつぎの極右翼的傾向の時期を通じて都合よく忘れられ、一九二九年に再び復活されてついに一九三三年のヒットラー反革命の勝利をもたらすのである。」
 社会民主党は労働者の組織であり、その指導者は、どんなに反動化しても、ブルジョア民主主義(議会、政党、組合等)の上に立つものであって、これを失っては存在しえない。一方、ファシズムは、社会民主主義がよって立つこれらの一切の基盤を暴力をもって根底から完全に破壊する使命をもっている。両者は、――たとえ「双生児」であったとしても仇敵とならぬとはかぎらない!――たがいに相容れない対立物である。

4、極右的偏向の悲劇

 一九二四年の一揆主義の失敗に驚愕したスターリン一派は、一九二五年になって突如急激に極右的転回をおこなった。これは共産党と一般労働大衆に対する不信から生れたもので、彼らの頭越しに裏切り的な改良主義的幹部やブルジョア的指導者と直接手を握ろうとする政策であった。党の独立性と批判の自由は放棄され、これらの改良主義的幹部やブルジョア的指導者に無条件に屈従させられたのである。
 その結果は、一九二二年以来の極左的傾向以上に重大な悲劇的結果を国際労働運動にもたらした。イギリスのゼネストの失敗と、中国革命の敗北がそれである。
 これらの極右的偏向の悲劇は、次に来る「極左政策の右翼的酵母」として、スターリニスト官僚の左右への果てることのないジグザグの過程に位置づけられる。

5、英露委員会

 一九二五年になってイギリスの危機は重大化し、炭鉱業を中心に急速に発展した。
 「一九二三年の後半にはフランス軍がルール(石炭重化学工業地帯)を占領し、ドイツ鉱業が麻痺したため、イギリスの石炭業および鉱業の不振は幾分か改善され、一九二四年に坑夫は彼らの賃金をあげることに成功した。しかしながらルールの炭鉱が再開すると同時に、イギリス石炭業の危機は再び盛りかえし、炭鉱主は賃金切り下げと労働時間の延長以外には経済の術策なきことを知り、一九二四年の協定はこれを破棄するとの通告を一九二五年七月三十一日通知した。……一九二五年七月三十日、鉄道および運搬労働者の指導者は七月三十一日金曜日の夜半以後においては石炭の取り扱いを拒否すべき通諜を送達した。」(マックス・ベーア、「英国社会主義史」岩波文庫)
 事態の進展の中で労働大衆の戦闘化に肝をつぶしたパーセル等労働組合総評議会の幹部たちは、ロシアの労働組合に接近した。前述の石炭・運輸労働者の闘いが起る前、四月、英露間労働組合幹部によって、英露委員会がつくられた。英露委員会は官僚どもによって、労働組合の国際的統一を促進し、資本主義的な反動や戦争と闘うのが目的であるとうたわれていたが、パーセル一家の肚は大衆の革命化のために失われかけていた自分たちの信望をロシア労働組合の名によってつなぎとめることであった。
 トロツキーは「イギリスは何処へ行く?」その他の論文でパーセル一味やマグドナルト一派の裏切りの危険を警告し、彼らの改良主義を徹底的に暴露し、彼らに対する労働大衆の幻影を粉砕する必要を力説した。そして二六年には炭鉱労働者のストライキを契機にして、イギリス全産業のゼネストもおこる可能性があるとはっきり指摘し、これにたいして準備せよと説いた。スターリン派は、このトロツキーの主張は統一戦線に反対するものであって、オースチン・チェンバレンに買収されているのだと罵倒した。
 トロツキーの予測は見事に通中し、二六年初めに起った炭鉱ストライキは五月初めにはゼネストに発展し、イギリスの全支配階級の全機能は完全に麻痺し、妥協的な労働幹部とともに完全に宙に浮いて影法師と化し、国の全活動は労働組合の手によって、一糸乱れず、整然と運営された。いまや労働党と労働組合が「労働者の政府」を宣言するだけで、これを阻止するために指一本挙げることさえできるものは一人もなかった。ところが九日間のストの後、支配階級と結んだ労働幹部はついにゼネラルストライキ中止の指令を出した。
 「一九二六年四月三十日、国王は非常事態宣言に署名した。政府は兵力および民力を動かすのに多忙だった。五月一日、百万以上の鉱夫が炭鉱閉鎖に邁った。同日労働組合実行委員会の特別会議は三百六十五万対四万九千九百をもってゼネラルストライキを五月四日夜半より開始せんとする提案に賛成した。……五月四日、ゼネストは開始せられた。労働者の呼応はあらゆる期待にまさっていた。最も高給をうけていた被傭者は一般委員会の呼びかけに応じた。……運輸業、鉄道員、新聞業、鉱業、これらの産業にたいする動力供給に関係せるガスおよび電気業の労働者、すなわち全部で百五十八万の者のみが坑夫と共に防禦の第一線として(ゼネストに)召集された。……『ブリティッシュ・ガゼット』(官報)はこのゼネストが内乱を意味することを民衆に告げ、『ブリティッシュ・ワーカー』(労組機関紙)は、このゼネストが決して斯の如き種類――官報の言う『内乱』――のものでなく、特殊の事情から(!!)今迄のストライキよりも広汎なる範囲となった産業上の争議であると断定した。第一週の終りにいたって原料および燃料の不足によって他の工場も閉鎖をはじめ、ストライキはさらに一般的となりはじめたとき、ハーバード・サミエル卿(勅命委員会議長)は急拠イタリアよりイギリスに帰還し、鉱務長官と会見した後、一般委員会(TUC指導部)と折衝し、彼らに交渉の基礎を作りうると信ぜられる条件をふくむ覚書を提出した。一般委員会は覚書を審議し修正した後、ハーバード卿に同意したので交渉の基礎はつくられ、ストライキを中止するよう決心した。一般委員会の委員二名は五月十二日正午、ボールドウイン氏は六名の国務大臣を従えて、労働階級の降服を受容した。
 一般委員会は罷業者に対して中止命令を発した。鉄道員、運輸業、植字工及び印刷工は漸次この命令に服従したが、坑夫は右の覚書を拒否した。(炭鉱労働者のストライキは続けられ)炭鉱閉鎖は同年夏および秋にかけて、疲労と恐怖の裡に九ヶ月以上継続し、ついに同産業を完全に麻痺せしめた。……一九二六年十一月ついに彼ら(炭鉱労働者)の持久力は尽きた。飢餓に迫られ、戦に敗れた坑夫は無条件で降服し、幾十方の坑夫は貧窮と甚だしき悲境に沈黙した。 」(ベーア、「英国社会主義史」)
 トロツキーは、直ちに英露委員会と断絶し、裏切り的労働幹部を糾弾し、ロシアの全労働階級は全面的に罷業労働者大衆をこそ支持することを宣言せよと要求し訴えた。
 だが、スターリンとブハーリンは、これに激しく反対し、いまは全く無用の死物と化した委員会をさらに一年以上も恋々と固執した。そればかりか、二七年四月の英露委員会ベルリン会議で、イギリス総評議会の要求に易々と応じて、総評議会――二六年ゼネストの絞首者――こそはイギリス労働者の「唯一の代表者」であることを承認し、イギリス労働組合運動の事柄には「干渉しない」と誓約した。
 トロツキーは、これはイギリス労働者を裏切り、二六年ゼネストを絞殺した労働幹部の意志に反するストライキ労働者大衆には、今後一切支持を与えないということを宣言するものであると攻撃した。
 スターリンのあらゆる努力にもかかわらず、二七年中頃、チェンバレン政府は、ロンドンにあるソ連労働組合の建物を襲いソ連との国交を断絶した。パーセル一派は、もはや無用となった委員会を足げにして、自ら脱退した。
 「英露委員会の出発点は……若い、余りにもゆっくりと発展しつつある共産党を跳び越そうという気短かな衝動であった。これはゼネラル・ストライキ以前にさえ誤った性格をもつ全経験を与えた。
 ……大衆運動の公然たる革命的段階への移行は、幾分か左翼となっていたかの自由主義的労働政治家達をブルジョア的反動の陣営へと投げ戻した。彼らはゼネラル・ストライキを公然とかつ慎重に裏切った。その後彼らは鉱夫のストライキを切崩し裏切った。裏切りの可能性は常に改良主義にふくまれている。しかしこのことは、改良主義と裏切りとがあらゆる瞬間に一つの同じものであるということを意味しない。全然違う。
 改良主義者が前へ進む時には何時でも、一時的協約は彼らとなされてよい。しかし、運動の発展におどろいて、彼らが叛逆を行なう時、彼らとのブロックを維持することは叛逆者の犯罪的黙認または裏切りをヴェールでおおうことに等しい。……
 総評議会(TUC)との友好的ブロックの維持――英露委員会――と、総評議会に反対して現われた長引いた孤立した鉱山労働者のストライキの同時の支持とは、いわば労働組合の頭部をこの最も厳しいテストから可能な最少限の損失でもって脱け出すことを前もって目論でいるようなものだった。
 ここでのロシア労働組合の役割は、革命的見地からは、非常に不利で絶対にあわれむべきものとなった。確かに、経済的ストライキの支持は、孤立したものでさえ、絶対に必要であった。革命家の間ではそれについては二つの意見はありえない。併しこれは単に財政上ばかりでなくまた革命的=政治的性格を保つべきであった。イギリスの鉱山労働組合と全イギリス労働者階級に向って全ロシア労働組合中央評議会は、鉱山労働者のストライキは、ただその頑強さ、その執拗さ、その力量によってそれが新しいゼネラル・ストライキの勃発への道を準備しえたときにのみ、まじめに成功をあてにしうるのだと言うことを、公然と宣言すべきであった。それはただ総評議会、政府と鉱山所有者の代理人との公然かつ直接の闘争によってのみ達成せられ得たであろう。経済的ストライキを政治ストライキへと変えるための闘争は、それ故に、総評議会に対する猛烈な政治的・組織的戦争をあらわさねばならなかった。かかる戦争への第一歩は英露委員会との断絶でなければならなかった。それは革命の障碍、労働階級の足の鎖となっていた。
 始めから終りまで、英露委員会の全政策は、その誤った路線の故にただ総評議会へ援助を与えただけだ。ストライキがロシア労働者階級の側における巨大な自己犠牲によって財政的に長く支持されたという事実でさえ、鉱山労働者あるいはイギリス共産党には役立たず、同じ総評議会に役立った。チャーチズムの時代以来最高の英国における革命運動の結果として、イギリス共産党は殆んど増大しなかった。一方総評議会はゼネラル・ストライキ以前以上に一層確固として鞍上に坐っている。」(トロツキー「レーニン死後の第三インターナショナル」)

6、中国革命の悲則

 一九一九年五月一日、第一次世界大戦への参戦とともに中国の労働運動は、急速に発展し激化した。レーニンは彼の最後の論文の中で、東洋における革命は接近したと宣言し、ブルジョアジーから独立し、これに対抗して労働階級を組織する必要を指摘した。
 コミンターン第二回大会によって採決されたテーゼの中で、彼は、「後進国におけるブルジョア民主主義的な解放運動を共産主義の衣でつつもうとする企てにたいして、断固たる闘争を遂行しなければならない」「共産主義インターナショナルは、植民地ならびに後進諸国の民主的ブルジョアジーとの一時的な同盟に入るべきである。だが、それと融合してはならないし、プロレタリア運動の独立的性格を保持しなければならない。たとえそれが幼児形態であるとしても」と断言した。
 一九二五年中ごろ勃発した上海ゼネストを契機として、二五〜七年にわたる壮大な第二次中国革命は開始された。半植民地国として諸外国の帝国主義と密接に結ばれ、一方四億の人口を擁する最大の国家としての中国の革命は、その規模と深刻さにおいてロシア革命以上の重大な意義をもつものであった。スターリンの主流派とトロツキーのひきいる左翼反対派とは、この問題で完全に対立し死闘を演じた。
 スターリンの中国政策は、「民族統一戦線」、つまり「四民ブロック」(労働者、農民、都市のプチ・ブルジョアジー、民族ブルジョアジーの同盟)の上に樹てられた。彼は言った!「中国の(蒋介石の)革命的軍隊は、中国労働者と農民の自己解放のための(革命的)闘争の最も重要な要素である。(革命的な)青年学生、青年労働者、青年農民――これらは、七里靴をもって革命を前進させることのできる力である――もしもそれが、国民党のイデオロギーのもとに服するならば」(スターリン「中国革命の展望」)。こうした四民ブロックを守るために、中国共産党は、無条件で国民党に加入し、その規律に服し、内部での活動を禁じられた。そしてブルジョアジーと将軍を刺戟して愕かきないように、労働運動は共産党によって制限され、農民運動は弾圧された(モスクワの特別指令で)。   ・
 トロツキーは、民族ブルジョアジーの反革命性を強調し、プロレタリアートの国民党への加入、この完全にメンシェヴイキ的な政策に真向うから反対した。――−
 中国の地主は、外国資本をも含む都市の資本と非常に密接に結びついていた。中国には、ブルジョアジーと対立する封建地主階級は存在しない。農村に一ばん普通な、最も憎悪されている搾取者は都市の金融資本の手先きとなっている富農的高利貸である。したがって、農業革命は反封建的性格と同時に反ブルジョア的性格をもっている。ロシアの十月革命の初期の段階には富農が中農小農貧農といっしよになって、しばしばその先頭にさえたって地主を襲撃したが、中国ではそういう段階はほとんどないであろう。中国の農業革命は、第一歩から少数の真に封建的な地主ならびに官僚ばかりでなく、また富農や高利貸にたいする反乱となるであろう。ロシアでは、『貧農委員会』は一九一八年の中頃、十月革命の第二段階になってはじめてあらわれたが、中国では農業革命の爆発と同時に舞台に登場し、富農に対する攻撃は中国革命の第一歩となるであろう。
 だが、農業革命は中国における歴史的闘争の唯一の内容ではない。最も極端な農業革命、全面的な土地分割も、それだけでは経済的行詰りからの抜道をあたえてくれはしない。中国にとって、国家統一と経済的主権、即ち関税自主権、もっと正確にいえば外国貿易の独占は、農業革命と同様に緊急の任務である。これは世界帝国主義からの解放を意味する。世界帝国主義にとって中国は、富源であるばかりでなく、その存在のための最も重要な源泉であり、今日はヨーロッパ資本、明日はアメリカ資本の内部爆発にたいする安全弁となっている。このため中国の大衆が直面している闘争は、必然的に巨大な規模をもち、恐ろしく激烈なものとなるであろう。外国資本は中国の産業において巨大な役割を演じており、自らの貧困を防衛するのに自己の『民族的』統制に直接たよらせるため、中国では労働者管理の綱領はロシアにおけるよりももっと実現困難となるであろう。反乱の勝利と同時に最初は外国資本の、つぎは中国資本の企業の直接没収が闘争過程によって恐らく絶対に必要となるであろう。
 ロシア革命の『十月』の結果を予め決定したとおなじ社会的・歴史的原因が、中国ではいっそう尖鋭な形であらわれる。一方では、中国ブルジョアジーが外国帝国主義およびその武力と直接結びついており、他方中国プロレタリアートが最初からコミンターンやソヴィエト連盟と結びついていたがゆえに、中国国民のブルジョア極とプロレタリア極はロシアにおける以上に激烈に対立している。
 数的には中国の農民はロシアの農民以上に圧倒的な大衆を形成しているが、世界的矛盾の圧力に締めつけられ打ち砕かれているため、指導的役割を演ずることはロシアの農民以上に無いのである。
 こうした、論争の余地のない社会的政治的先決条件によって、『民主的独裁』の定義は完全に意義を失っている。中国革命は、ロシアに比較して中国が極端に遅れているにもかかわらず、もっと的確に云えば、このように非常に立ち遅れているが故に、ロシア十月革命におけるように(一九一七年十一月から一九一八年七月まで)『民主的』期間をただの六ヶ月ももたないであろう。それは第一歩から、都市と農村におけるブルジョジア財産を最も深刻に震憾させ排棄させずにはおかないであろう。
 外国帝国主義の桎梏は中国の『すべて』の階級を『おなじように』圧迫している――この外部からの圧力で、中国のすべての階級はたがいに結びつけられている――という考えは、最も甚だしい謬見である。反帝国主義の革命的闘争は階級の政治的分化を弱めないで、反対にこれを尖鋭化する。帝国主義が中国でもっている絶大な力と主要な源泉は、楊子江上に浮ぶ軍艦でなくて――それはたんなる補助物にすぎない――外国資本と民族ブルジョアジーとの結びつきである。
 帝国主義に対する闘争のためには、かれらを支配している軍事力と武力のゆえに、中国国民のどん底から強大な力を奮起させる必要がある。労働者と農民を帝国主義にたいして奮起させることは、かれらの基本的な最も深刻な生活上の要求を国家の解放の大目的と結びつけることによってはじめて可能となるのである。被抑圧、被搾取勤労大衆をどん底から決起させる対帝国主義の大闘争は、必然的に民族ブルジョアジーを帝国主義者側におしやる。ブルジョアジーと労働者農民大衆との間の階級闘争は、帝国主義的抑圧によって弱められないで、反対に激化され、全ゆる重大な衝突において流血の内乱にいたるまで尖鋭化する。
 こうした社会的政治的関係にあって『四民ブロック』、つまり『民族戦線』政策は、結局はプロレタリアートと貧農をブルジョアジーに従属させることであり、ブルジョアジーを反発させて『四民ブロック』の戦線を分裂させないために、革命の源動力であるプロレタリアートと貧農の闘争を抑圧することであって、あらかじめ革命の敗北を決定することである。
 中国共産党は直ちに国民党から引き上げ、党の独立性を確立し、独自の旗のもとに独自の活動を展開せよ。蒋介石と汪精衛の裏切りに対して労働者を武装せよ。国民党とは個々の具体的な任務についてのみ共同戦線をはれ、土地革命と労働闘争を広汎に展開し、プロレタリアートの革命的指導権を樹立せよ!

 これらがトロツキーの立場であり主張であった。トロツキーはその為に死を賭して闘った。
 だが、スターリンとその現地代表ボロージンによって完全に武装解除された第二中国革命は、再三再四のクーデターの血の海の中に潰え去った。
 蒋介石の北伐遠征から武漢時代を経て一九二七年十二月の広東武装蜂起にいたるまで幾多の悲劇がくりかえされたが、その一つは一九二七年四月十七日の蒋介石による上海クーデターである。
 二七年三月、上海プロレタリアートの蜂起によって共産党は上海に人民政府を樹立、二十一日間、市の大部分を掌握し、一部にたてこもっていた張作霖配下の孫伝芳の敗戦軍と闘っていた。蒋介石は上海の郊外に軍を進めながら、上海労働者の革命的熱気に触れて、軍が動揺することを恐れ、そのまま機をうかがっていた。
 トロツキーは、蒋介石の反革命的クーデターが切迫していると警鐘を乱打し、四月三日、論文「中国革命の階級的関係」を党中央委員会に提出、「中国のピルスズスキー」たる蒋介石の裏切りを警告、国民党より即時引上げよと要求したが、この論文はスターリンによって禁止された。一方スターリンは、四月五日モスクワで演説して、「蒋介石は規律に服している。国民党は、右翼、左翼、共産党のブロックであり、一種の革命的議会である。いったいなぜクーデターなど行うというのか? われわれが多数派を占め、右派がわれわれのいうことをきいているのに、なぜ右派を追い出すのか? 蒋介石は革命に同情をもっていないかもしれない。だが彼は軍隊をもっている。これは帝国主義に対してしか向けられないものだ」といって、迫り来る血のクーデター反革命から上海労働者を安心させ、最後の瞬間まで武装解除させておいた。そしてトロツキー等左翼反対派の警鐘乱打を非難して、蒋介石の弁護に躍起となっていた。「国民党は、帝国主義者どもがいうように、分裂するどころか、その隊列を鋼鉄のように強化しただけである」(「インプレコール」二七年三月二十三日)。「国民党の分裂と、上海プロレタリアートと革命的兵士の間の敵意は、差当り絶対に存在しない……蒋介石自身、党の規律に服すると声明したのだ。……蒋介石のような革命家は(帝国主義者どもはそう信じさせたいだろうが)、張作霖の側に味方して解放運動と闘いはしない……上海労働者にたいする唯一の危険は、帝国主義者どもの挑発である」(「インプレコール」二七年三月三十日)。三月十六日のブラウダ社説は、左翼反対派(トロツキスト)は、国民党と国民政府の首位にはブルジョアジーがすわっていて、裏切りを準備しているといって糾弾した。
 上海の現状はどうであったか? われわれはその直接の目撃者であり参加者であるスターリニスト、チタロフの第十五回ソ連共産党大会への報告を引用しよう。
 「四月十一日〜十二日の上海労働者の虐殺によって、最初の流血の痛手はまず上海において中国革命にくわえられた。
 わたくしはこのクーデターについて、われわれの党は殆んど何一つ知っていないということを知っているが故に、このことについて詳細に語りたいと思う。上海には、二十一日間にわたって共産党員が多数を占めるいわゆる人民政府なるものが存在した。したがってわれわれは、二十一日間、上海は共産党の政府を持っていたということができる。ところがこの共産党政府は、蒋介石のクーデターが明日にも行なわれるかもしれぬと考えられていたにもかかわらず、完全な無為を暴露した。
 まず第一に、共産党政府は、政府部内のブルジョア分子が仕事に着手したがらないで、これをサボタージュしており、一方武漢政府が上海政府の樹立に賛成していないからという二つの口実のもとに、長い間活動を開始しなかった。この政府の行った活動の中で、三つの布告が知られている。ついでながらその一つは、上海到着を期待されていた蒋介石の歓迎準備に関するものだった。
 当時上海では、軍隊と労働者の関係が悪化し激化していた。たとえば軍隊(蒋介石の将校連中のことだ――トロツキー)はわざわざ労働者を追跡していって、これを虐殺したということが知られている。軍隊は数日の間上海の城門のところにとどまったまま市内に入ろうとしなかった。労働者が(市内で)山東軍と戦っているのを知っていて、この戦闘で労働者が血を流すのを望んでいたからである。彼らはその後から入城しようと考えていたからである。その後軍隊は上海に入城した。ところがこれらの軍隊の中で、労働者に同情をもつ師団が一つあった。つまり広東軍第一師団である。司令官謝持は蒋介石に信望がなかった。蒋介石は、謝持が大衆運動にたいして同情をもっていることを知っていたからである。この謝持という男は、兵卒あがりであった。
 謝持は上海の同志を訪れて、軍事クーデターが計画されているということ、蒋介石が彼を本部に呼びつけたがいつになく冷淡に彼をあしらったこと、彼はどんな陥害があるかわからないからもう本部へはいかないということ、蒋介石は彼に向って、(上海)城内を去って戦線にむかうよう提言したことを話した。そして謝持は、共産党の中央委員会に向って、自分が蒋介石の命令に服していないということに賛同することを要求した。彼はよろこんで上海にとどまって、上海の労働者とともに、準備されつつある軍部クーデター(蒋介石とその軍隊の)にたいして闘おう、といった。以上の提言にたいして、陳独秀をふくむ指導者たちは、(モスクワでは否定しているが)クーデターが準備されていることは知っている、しかし蒋介石との早計な衝突はしたくない、と言明した。かくして第一師団は上海から撤去させられた。市は白崇稽の第二師団によって占領された、それから二日後、上海労働者は虐殺されたのである。」これが二七年四月十二日、上海クーデターであった。
 極く少数の指導者、党官僚は自己のための「旅券」を亡命のために手に入れ確保することができる、彼らは何処にでも一時身をかくすことができる。だが何千人、何万人という闘うプロレタリア大衆は逃亡することはできない。身をかくすことは出来ない。少数の指導者、党官僚が身体にふりかかる火の粉から安全な場所に逃亡し、身をかくした時、何万という上海の労働大衆は蒋介石の軍隊と身をもって闘い、彼らの指導部の無為無能を何千何万人という労働者大衆の血と肉で償わねばならなかったのである。蒋介石の銃剣の下、上海のクーデターは以上のようにして行なわれた。
 上海の労働者は政権を握っていた。彼らは武装していた。そしてはるかに大規模に武装するあらゆる可能性をもっていた。蒋介石の軍隊は信頼しがたい。師団長さえ労働者と結んで、蒋介石と闘おうとしていた。ところが、スターリンは、蒋介石のクーデターを最後の最後まで否認し、これに対して警告を発するトロツキーを中心とした左翼反対派を攻撃し、反対にクーデターが起る寸前に至るまで中国共産党とその影響下にある労働大衆に対して、蒋介石に忠誠を示せという絶対命令を発していたのである。
 四月十二日の大軍事クーデターで、上海の共産党、労働組合その他一切の労働者団体は完全に殲滅されてしまったのである。四月二十一日、スターリンはこう声明した。「事態はコミンターンの方針が正しいことを完全に証明した。」(二七年四月二十六日「インプレコール」所載、スターリン「中国革命の諸問題」)
 五月二十四日、スターリンはまたECCI(コミンターン執行委員会)第八回総会の席上で、つぎのようにいった。
 「反対派(トロツキー派)は、上海労働者が帝国主義者やその壮士どもに対して、決定的な戦闘を行なわなかったというので不満なのである。だが彼らは中国における革命が急速なテンポで発展することはできないということを理解しない。……」
 総会はつぎのように宣言した。
 「ECCIは、事態の推移が第七回総会の予想を完全に正当化したということを言明する」「ECCIは革命のすでに衰退期における民族ブルジョアジーとブロックを結ぶ戦術は、絶対に正しかったと信ずる。」
 五月末の長沙のクーデターでも、同じようにして左翼反対派とトロツキーの警告は一切無視され、中国労働者はスターリンの民族戦線(四民ブロック政策)の犠牲となって血の海に溺らされたのである。
 二七年十二月の広東武装蜂起は、一層裏切り的な官僚的一揆主義のために残虐な弾圧をうけて潰え去った。これらについては、トロツキー著「中国革命」トロツキー著「レーニン死後の第三インターナショナル」――中国革命の総括と展望――を参照されたい。
 第二中国革命の全過程を通じて、トロツキーを中心とするボルシェヴィキ・レーニン主義者たちは、正しいレーニン主義的政策のために死力をつくして闘ったが、彼らの論文は禁止され、発言は暴力的に抑えられ、その真実の声は中国の現地にとどくことができなかった。
 一歩ごとに、恐るべき事実によって自己の政策の誤謬が実証され、党内のレーニン主義者の激しい批判に限らされたスターリンと彼の一派は、自己の指導権が徹底的に覆えされるのを恐れて、彼らに対する暴力的弾圧の手段に出、彼らを党から除名し、GRU (秘密警察)の手で大量に逮捕、投獄、流刑に処した。
 革命の各段階を通じ正しく予見し、正しい警告をあたえたために、レーニン主義者たちは官僚的指導者のために弾圧されたのである。
 トロツキーは一九二八年、中国と新彊との国境のアルマ・アタに流刑された。こうしておいて、スターリンはコミンターン第六回大会を四ヶ年の間隔をおいて招集したのである。

7、スターリン「労働者農民党」を提唱す

 中国革命におけるスターリンの根本的誤謬はプロレタリアートの革命的指導力にたいする徹底的不信であって、それから「民族」ブルジョアジーに従属させることになったが、この不信はまた農民に対する過大評価ともなって、一九二四年に東洋諸国に対し「労働者農民党」なるものを提唱することになった。この点、スターリンの方針がレーニンの方針とどんなに根本的に対立しているか、レーニンの方針にどんなに違反しているか、一べつする必要がある。
 レーニンはこういっている。
 「農民にたいするわれわれの態度は不信でなければならぬ。われわれは彼らと別個に組織しなければならぬし、農民が反動的な、ないしは反プロレタリア的な反対勢力となって現われる程度に応じて、これと闘争する決意をもたねばならぬ。」(レーニン全集、第六巻一一三頁、ロシア語版)
 「われわれの最後の忠告はこうだ。都市と農村のプロレタリアートは、別個に組織せよ! どんな小所有者も信頼するな! 零細所有者でさえ、自ら「勤労」する所有者でさえ信頼するな……われわれは農民運動を最後まで支持する。だが、われわれはそれは別個の階級の運動であって、社会主義革命を達成することの出来る、または達成しようとする階級の運動ではないということを記憶しなければならぬ。」(レーニン全集、第九巻、四一〇頁、ロシア語版)
 「労働者と農民の同盟は、プロレタリアートと農民という、異った階級ないし党の合同であると解しては断じてならない。合同ばかりか、いかなる種類の永続的な一致でさえ、労働階級の社会主義政党にとって致命的となり、革命的民主主義的闘争を弱めるであろうJ(レーニン全集、第十一巻、第一部、七九頁、ロシア語版)
 これに反して、スターリンはこういう。
 「革命的な反帝国主義的同盟は……いつも(!)必然的(!) にではないが、正式に(?)単一の綱領で結ばれた、単一の労働者と農民の党の形態をとらねばならない。」(スターリン「レーニン主義の諸問題」二六五頁、ロシア語版)
 「共産党は統一国民戦線の政策から……労働者とプチ・ブルジョアジーの革命的同盟の政策に移行しなければならぬ。このような国々(つまり東洋諸国)では、この同盟は単一な政党、国民党と同種な労働者農民党の形態をとることができる。」(「レーニン主義の諸問題」二六四頁)
 資本主義国において、農民党のレッテルを貼る一切の党はブルジョア政党である。プロレタリアートの立場をとらない農民は、すべて根本的な政治問題に関しては必然的にブルジョアジーに従うからである。労農党という考え方は、農民の支持を求めなければならず、できればまた労働者の支持をも得たいと考えるブルジョア政党をカモフラージュするためにわざわざつくりだされたようなものである。国民党はこの典型的な実例である。


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