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8、一国社会主義論の提唱

 一九二四年四月、西欧諸国共産党にたいして一揆主義の極左的政策を唱導していたスターリンは、「一国、ことにロシアのような農民国において社会主義を達成することは不可能である。このためには、いくつかの先進国の統一的努力が必要である」と云っていた(スターリン「レーニン主義の基礎」一九二四年版、ロシア語版。〔注〕――スターリンのこの主張は発表後一年以内に全く正反対に変えられた)。だが一九二三年のドイツ革命が彼の日和見主義によって敗北に帰し、レーニン主義者たちの予見したとおりに資本主義が一時的に安定して、資本の側が全面的反動攻勢に転じたことがますます明白になるにつれて、西欧のプロレタリア運動にたいする信念を失ってしまったスターリンは、同年十月、前言を破廉恥にひるがえして、「一国社会主義」の理論を発表した。
 そして、二五年四月には、トロツキーをはじめ、ジノヴィエフ、カーメネフ、クルプスカヤ、その他多数の反対を押しきって、これをソ連共産党の政策とした。これによって、マルクス、エンゲルスによって確立され、レーニン、トロツキー等がボルシェヴィキ党の礎石としていたプロレタリアートの国際主義は放棄されてしまったのである。
 一体、帝国主義は、金融資本の覇権の下における世界経済と世界政治の時代である。世界経済は、馬鈴薯でも集つめるようにたがいに孤立したいくつかの国民経済を集合した算術的総計ではなくて、生産力が、いまは前世紀の遺物化した民族国家の狭隘な境界をのりこえて世界的に拡大し、世界的規模において不可分的に交錯関連していることである。したがって、今日の基本的な経済問題は、ただ世界的な規模においてのみ、つまり私有財産制を廃絶すると同時に、鉄の枠と化した一切の民族国家の境界と関税壁を一掃し、一般的な計画をもった国際的共同経済の建設の下においてのみ、はじめて解決できるのである。帝国主義戦争は、巨大な発展を遂げた人類の生産力の、私有財産制と民族国家の二つの枠にたいする反抗であった。この世界的規模に発展した巨大な生産力を私有財産制というちっぽけな殼の中におしとどめておこうとすることが、恐るべき反動であると同様、狭隘な民族国家の境界内に局限しようということもまた同じく恐ろしい反動的企図であり、絶望的なプチ・ブルジョア的ユートピアである。
 一国社会主義の観念は、必然的に克服しなければならぬいろいろな困難を過少評価し、すでに達成された業績を、一切のマルクス主義的理論を踏みにじって、最大に誇張することにならざるを得ない。
 「同志諸君、これはエンゲルスが彼の『共産主義の基本的諸原則』の中で打ちたてたプロレタリア革命の綱領である。諸君は、この綱領の九〇%がすでにわれわれの革命によって実現されたことを理解されるだろう。……エンゲルスは上にあげた綱領をもつプロレタリア革命は、ただ一国内だけでは決して成功することはできないといった。だが、事実は、新しい帝国主義の条件の下では、このような革命はその最も基本的な部分においては、たった一国内だけですでに遂行されたということを示している。なぜなら、われわれはわが国においてこの綱領の九〇%を遂行したからである。」(一九二六年十一月、ソ連共産党第十五回大会におけるスターリンの報告「反対派と党内の情勢」、これは二六年十一月二五日の「インプレコール」、第六巻、七八号、一三五〇頁に再録)
 これはエンゲルス、そしてまたマルクスの基本的原則の根本修正であり、否、否定である。社会主義プロレタリア革命の成功をもって、そのことから直ちに社会主義は完成したとか、社会主義から共産主義へ移行しているとかいう、徹底的に反社会主義的な欺瞞とナンセンスが、その後もスターリンによって、また彼のエピゴーネン共によって絶えずむしかえされたし、むしかえされつづけている。
 一国社会主義は、また最も公然たる露骨な社会愛国主義であり、第二インターナショナルの社会愛国主義者の一切の欠点を最も悪質な形でそなえている。
 世界革命は、ロシア一国内の経済建設の利益のために犠牲にされ、コミンターンと各国共産党は世界革命の展望の下に各国で革命を達成することではなくて、ソヴィエト同盟の防衛とそのためのソ連官僚の外交政策の道具となった。いな、むしろソ連の防衛は赤軍と資本主義政府との協定にたより、コミンターンと各国共産党はソ連の日常の外交政策の道具、将棋の「歩」と化してしまったのである。「平和共存」政策、最近の「中立化」政策はすべてその根源をここに有しており、その企図するところは世界プロレタリア革命ではなくて、ソ連外交政策のマヌーバー(策略)的優位、そしてそのことはクレムリン官僚とそのエピゴーネン共の利益と保身のためであると言いうる。ここから次のスローガンが提起される。
 スターリニスト官僚打倒! ソ連邦労働者国家擁護!
 極端な国家主義である大祖国主義、大ロシア主義、反ユダヤ主義等々、スターリン主義の根本特徴をなす汚辱にたえない思想や運動もまた、一国社会主義から必然的に生まれるものである。
 (一国社会主義論に対するトロツキーの批判は、「レーニン死後の第三インターナショナル」、「裏切られた革命」、「民族共産主義反対」等を参照のこと)。

9、第六回大会・「第三期」と社会ファシズム論

 パーセル一脈のイギリス総評議会幹部との同盟によってイギリス・ゼネストに失敗し、いままた蒋介石や汪精衛等、中国ブルジョアジーの代弁者との同盟による民族戦線の政策によって、第二中国革命を敗北流産させたスターリン一派は、二七年八月、この極右的政策からとつぜん最も極左的な政策に切り換え、同年十二月にはたった一片の電報指令によって広東武装蜂起を命令し、惨虐な敗北に数千の広東プロレタリアートの精華を血の海に溺らせた。
 コミンターン第六回大会(一九二八年八月〜九月)では、この極左的政策が押しすすめられ、戦後歴史の「第三期」が始まったと宣言された。資本主義世界は永久恐慌に入り、革命情勢はあらゆる国々において成熟しつつあり、大衆は社会民主主義の幻影から目覚めて急進化しつつある。右翼偏向時代にこっそりしまいこんでいた社会ファシズム論はここに華々しく復活され、全戦術の根底となった。社会民主主義は社会ファシズムである。「社会ファッショ的労働組合幹部との統一戦線」は裏切りだとされ、その代りに最後通諜的な「下からの統一戦線」が要求された。
 それと同時に一国社会主義論と、後進国のために一九一七年レーニンが自ら廃棄した「労働者と農民の民主的独裁」のスローガンがもちこまれ、日本にたいしてもこの定式が押しつけられた。トロツキーは流刑地アルマ・アタで厳重なGRUの監視下にあって、「コミンターンの綱領草案――基本問題の批判」(「レーニン死後の第三インターナショナル」所収)の長論文を草してこれを徹底的に批判した。

10、ヒットラー反革命とドイツプロレタリアートの悲劇

 「第三期」の極左政策の生んだ最大の悲劇は、ヒットラーによるドイツ・プロレタリアートの粉砕である。マルクス、エンゲルスの伝統と最高の組織を誇り、鋼鉄のように鍛えられた団結的精神をもち、あらゆる点においてヨーロッパ最強のドイツ・プロレタリアートの勝利は、直接世界史の運命を決定する力をもっていた。ドイツ・プロレタリアートの悲劇は、全人類の悲劇であった。
 一九二三年のドイツ革命がスターリン・ブランドラー政策によって裏切られ、ポアンカレーがルール占領という力にあまった冒険を断念すると、アメリカ帝国主義の使者ドーズはわずか四億マルクの金をもってドイツ経済の支配権を買いとり、これを「安定」させ、ドイツならびにヨーロッパに「平和主義」の時代をもたらした。
 最も近代的な最高度に発展した生産力をもちながら、世界市場からしめだされ、ヨーロッパの真中におしこめられ、ベルサイユ条約にもとづく苛酷な賠償によって涸渇させられつつあったドイツは、資本主義の矛盾を最も尖鋭・集中的な形であらわしていた。
 こうした恐ろしい危機をはらみながらも、ドイツ・ブルジョアジーはアメリカの財政的「援助」をうけ、社会民主党の支持にたよって、辛うじて命脈をたもっていた。
 だが、一九二九年の恐慌によってこの「援助」を失ったドイツ・ブルジョアジーは産業合理化をいよいよ強化し、労働者の生活水準を切り下げ、何百万の失業者を街頭に投げ出し、プチ・ブルジョアジーの階級を破滅のふちに追いやった。
 ところで、労働者の抵抗を排して、この産業合理化を徹底的に強化するためには、労働者の抵抗の拠点となるブルジョア民主主義の一切の形態を無視するだけでなく、これを最終の一片まで暴力的に破壊してしまわねばならなかった。
 だが、鋼鉄の如く鍛えられたドイツ・プロレタリアートは、ヨーロッパ・プロレタリアートの精華であって、これに対する本格的攻撃は必然的に内乱を意味し、警察や国防軍だけでは完全に無力であった。そのためには、絶望とふんまんに暴力化したプチ・ブルジョアの巨大な大衆的武装隊が必要であった。
 ドイツ・ブルジョアジーの主翼が社会民主主義を見棄てて、労働者の抵抗拠点となる一切の形態のブルジョア民主主義をこなみじんに破壊してしまうことのできる唯一の党としてヒットラーの国家社会主義を支持しはじめた瞬間から、ファシズム運動は急速に拡大しはじめた。
 一九三〇年九月の選挙は、はじめてファシズムの危険をはっきりとあらわした。ファシストは一挙に五百万票以上を増して六百万票を獲得し、国会における最大党たる社会民主党に迫った。
 ドイツ共産党も四百万票から六百万票に増した。危機はいまや、ファシスト的反革命の勝利か、共産党のプロレタリア革命の勝利かのいずれかの方向において解決されるよりほか道はない決戦の情勢になった。
 一方経済恐慌は全ヨーロッパを覆い、いたるところに深刻な社会的政治的危機を発展させつつあった。一九三一年四月にはスペインに革命が勃発して、王政は転覆された。秋にはイギリスがポンド危機に襲われ、全国にわたり失業者の騒動が起こり、インバーゴードンのイギリス艦隊反乱が勃発した。北海大演習のためスコットランドのインバーゴードン軍港に集結していたイギリスの全大西洋艦隊の水兵は、不公正な手当切り下げに憤激して、全将校を艦内に監禁し、二日間、全艦隊を占領した。東洋艦隊もこの反乱に合流を表明し、イギリスは国内における深刻な政治危機と相まって未誓有の大破局に突入しようとした。
 その他の国々も、いつ重大な破局に投げこまれるか予見されぬ不安にブルジョアジーはおびえていた。かかる情勢においてもしもベルリンに赤旗が高くかかげられたら、ムッソリーニは二週間とはもたないであろうし、イギリスやフランスは長く抵抗することはできなかったであろう。ドイツ革命の勝利は、武装するドイツ・プロレタリアートとソヴィエト赤軍の合体を意味し、この壮大な力のまえに、全ヨーロッパの被抑圧大衆は歓呼して決起し、歴史は完全に一変したであろう。
 反対に、もしもヒットラーが開いたドアからであろうと、ドアを打ち破ってであろうと政権を握ったら、それはドイツ労働者との苛烈な激突を意味し、長期に亘る残虐な内乱を意味するであろう。そして、もしこの内乱に勝利して、ドイツ・プロレタリアートを粉砕したら、ムッソリーニをはじめ震憾している各国ブルジョアジーは強化され、長い間の陰惨極まる暗黒時代を意味するであろう。それよりも、この内乱においてヒットラーはフランスに同盟と保護を求めざるを得ないであろうし、フランスはその代償として、対ソ進撃の任務をあたえ、ここに世界戦争への危機を発展させるであろう。
 世界情勢を決定し直接世界史の運命を決する力は、ドイツ・プロレタリアートの手中に握られており、その鍵はコミンターンとドイツ共産党の指導部の手におかれていた。
 全人類の運命がかかっていたこの歴史的瞬間の焦眉の急務は、迫りくるファシズムの危険に対しドイツ全労働者階級の統一戦線を結成することであった。ドイツの組織労働者の精華を握っていた社会民主党の統一戦線がひとたび確立されたら、その瞬間に全情勢は一変し、労働者階級の力は巨大な真に不可抗力的なものとなり、人間の埃からなるファシスト運動はぶよのかたまりが風に吹き散らされるように雲散霧消して、プロレタリア独裁は現実の事実となったろう。そのためには、ドイツ共産党はコミンターン第三回大会によって決定され、第四回大会によって確認された「統一戦線と第二・第二半インターナショナル所属の労働者、ならびにアナルコ・サンジカリスト的組織を支持する労働者に対する関係指針」の中でとくに詳細に決定したこの政策を、誠実に忠実に実行しさえすればよかった。
 だが、コミンターンとドイツ共産党指導者たちは、スターリンが一九二四年唱えだした、レーニンの政策を完全に根本的に破壊する「社会ファシズム論」にもとづいて、第六回大会が決定した破滅的な「下からの統一」を固執し、組織と組織の真の統一戦線を拒否し、社会民主主義者を社会ファッショと呼び、彼らこそ主要な敵であり、ヒットラーを倒すためにはまず彼らを倒さねばならぬと叫びつづけた。一九三〇年九月の国会選挙後、「ローテ・ファーネ」紙(ドイツ共産党中央機関紙)は、「九月十四日はドイツに於ける国家社会主義(ファシスト・ナチ)運動の頂点である。今後は、ただ衰退と没落しかないであろう」と言明した。しかし一九三一年中を通して危機はますます激化し、ファシズムは非常な勢いで増大しつづけた。共産党は社会民主主義を社会ファシストと呼び、ヒットラーを倒すためにはまずこれを先に倒さねばならないと叫びつづけて、組織と組織の真の統一戦線を拒否し、社会民主党の労働組合に対抗して赤色労働組合をセクト的に主張し育て、ヒットラーと競争してザール返還要求闘争にショーヴィニスティック(排外主義的)な態度を取った。
 一九三一年夏、共産党は、社会民主党攻撃の最中に突然なんの準備もなく、プロシヤ政府の社会民主党閣僚にむかってゼネストのため統一戦線を要求した。これが拒否されると、彼らは人民投票によってプロシヤの社会民主党政府を打倒しようとしたファシスト・ナチの企図を支持して、彼らと一緒になって社会民主党政府に対する共同戦線をはった。その後、社会民主党の一部左派が共産党との統一戦線を要望すると共産党のテールマンはこれを拒否して、社会ファシストどものこのような「新しいデマゴギー的策動」に引っかかるなといって労働者に警告した。
 第二世界戦争後、ドイツ共産党をはじめとして各国共産党は、ドイツ共産党とテールマンは他のすべての労働者政党団体との反ファシズム統一戦線を樹立するためにどんなに真剣に闘ったか努力したかと一斉に筆をそろえて書きたて、歴史の偽造運動が大規模に行われた。だがテールマンの殉難をもって、スターリニストたちが犯した恐るべき裏切りを隠蔽するスクリーンとすることほど破廉恥なことはない。このような欺瞞に充ちた宣伝は、完全に無知か、でなかったら「為」にする欺瞞であって、歴史は危機に立つ労働者階級の運命を犠牲に憚からぬそういう不信を決っして許さないだろう。われわれはテールマン自身の言葉を聞こう。
 「トロツキーは共産党とリープクネヒトやローザの虐殺者どもとの、そしてそれ以上にパーペン政府が労働者たちを抑圧させるためにそのままもとの地位にのこしてあるツエルギーベル氏や警察長官どもとの統一行動を大真面目になって求めている。トロツキーは再三再四論文によってドイツ共産党と社会民主党の幹部と幹部との交渉を要求して、労働者をわき道へそらそうと企てた。」(テールマン、三二年九月ECCI第十二総会の演説「共産主義インターナショナル」誌十七・十八号、一三二九頁)
 「社会民主党は共産党と統一戦線をとるといって脅かす。ヘッセ地方選挙の際ダルムスタットでおこなったブライトシャイド(彼の虐殺もまたテールマンの虐殺と同時に発表された――筆者注)の演説と「フォールヴェルツ」紙(社会民主党機関紙)のこの演説評は、社会民主党がヒットラーのファシズムの悪魔の姿を壁に描いて見せて、労働者を金融資本の独裁に対する真の闘争から抑制していることをしめすものである。この大ウソを……彼らは共産党員への(ドイツ共産党の禁止にそむいて)本意の友情というソースでもってこの大ウソをいっそう口当りのよいものにし、大衆にいっそう大衆の気にあうものにすることが出来ると考えている。」(テールマンの論文、三一年十一月十二日号「共産主義インターナショナル」誌、四八八頁)
 「トロツキーはそのパンフレットの中に、『ナチズムはどうして破ることができるのかな? 』という問いにたいし、相もかわらずたった一つの答をあたえている。曰く、「ドイツ共産党は社会民主党と協定しなければならぬ』と。トロツキーはこの協定を結ぶことこそ、ファシストに対してドイツ労働階級を完全に救う唯一の道であると考えている。共産党は社会民主党と協定を結ぶか、でなかったらドイツ労働階級は十年、二十年の間絶望である、という。
 完全に破滅したファシスト反革命家の理論であるこの理論こそは、トロツキーが反革命的宣伝にささげたここ数年来にでっち上げた理論のうちでも、最も悪質な、最も危険な、最も犯罪的な理論である。」(一九三二年九月、ECCI第十二回総会におけるテールマンの演説)
 ついでながら、イギリス共産党の云うところを聞こう。「トロツキーが共産党と社会民主党との反ファシズム統一戦線の擁護を表明したことは、意味深い。現在のような時に、これ以上に分裂をさせる反革命的な階級指導を与えることはできないだろう。」(「デーリー・ワーカー」紙〔イギリス共産党中央機関紙〕一九三二年五月二十六日号)
 「ドイツ共産党は、決定的な工業地帯において労働者階級の多数を獲得し、いまやそこではドイツの第一党となった、唯一の例外はハンブルグとサクソニーであるが、ここでさえ党の得票は社会民主党を犠牲にして非常に増大した。」
 「これらの成功は、党とコミンターンの政府を断乎として遂行したおかげである。社会民主党はドイツ資本の社会的柱であると常に主張しながら、党はドイツ社会民主党と新しく生れた『独立社会主義労働党」にたいし、そしてまたプロレタリアートの党は、社会ファシズムと反ファシズム統一戦線を結ぶことを要求する右翼とトロツキスト的裏切りどもに対し激しい不断の闘争を遂行したのである。」(一九三二年十二月――こう発表したのはヒットラーの勝利の一ヶ月前である。「コミュニスト・レヴュー」誌〔イギリス共産党機関誌〕)
 増大するファシズムの脅威をまえにしながら、ドイツ共産党は労働者の一切の憎悪をファシストに向って組織・爆発させないで、社会民主党にむけて必死になって煽りたてた。テールマンは、「工場や労働組合の地位から、社会ファシストどもを追い出せ……」と叫び、共産党の自衛隊は、「工場や職業紹介所、徒弟学校から社会ファシストどもを叩き出せ!」と怒号し、小学校の児童たちまで、「学校や運動場で、小ツエルギーベルども(つまり、社会民主党員の子供たちをだ!)叩きのめせ!」と煽動した(共産党児童機関紙「太鼓」より)。この「太鼓」のスローガンは、共産党少年ピオニールの統一的スローガンとなっていた。
 一九三一年十月、ドイツ共産党の三巨頭のひとりであるレンメンは国会において「ひとたび彼ら(ファシスト)が政府を掌握したら、プロレタリアートの統一戦線はたちまち樹立されて、あらゆるものを一掃し去るであろう……われわれはこれらのファシスト紳士諸君を恐れはしない。彼ら(ファシスト)は他のどんな政府よりも早く逃げだしてしまうであろう」と演説した。こうして一九三一年の終りには、コミンターンの指導部は、ドイツにおけるヒットラーの勝利は止むを得ないと内心諦めていたのは明白であって、「社会ファシスト」の政府とヒットラーの政府は労働者にとっては、ちっとも違わないとか、「まず、ヒットラーに政権をとらせよ、 彼は一ヶ月とたたず退場し、われわれのために道を浄めてくれるだろう」ということが、しきりに宣伝せられた。これは一戦も交えずにヒットラーに権力を与えようとする完全な敗北主義であって、その「短い」期間に国家権力をもって武装したヒットラーが行なう恐るべき破壊行為に対し労働者の眼をふさぐことであった。われわれは一九二三年八月、ドイツの革命的危機が最高潮に達せんとしていた直前、スターリンがジノヴィエフに次のような書簡を送って共産党を抑制し、革命の機会を逸しさせたことを想起しないわけにはいかない。「もしも今日ドイツの政権が倒れ共産党がこれを掌握するとしたら、彼らは崩壊してしまうであろう。ファシストは眠ってはいない。ファシストに最初に攻撃させた方がわれわれにはいっそう有利である。そうすれば、労働者階級を共産党の周囲に結集させることになるであろうから……自分(スターリン)の情勢判断では、ドイツ共産党は抑制すべきであって、これを押しすすめてはならぬ。」
 当時トルコのプリンキポに亡命していたトロツキーは、一九三〇年九月国会選挙の直後、押し迫るファシズムの危機にたいして警鐘を乱打し、ドイツ共産党はコミンターンの第三回、四回大会によって決定された方針に立って即時社会民主党と労働組合に統一戦線を申込まねばならぬと叫んで、その実際的な綱領をはっきりと示した(トロツキー「コミンターンの転換とドイツの情勢」)。
 さらに一九三一年十一月には、各国の政治情勢を分析し、世界の運命を決する鍵はドイツである。正しい統一戦線によればファシズムを打破し、プロレタリア革命を遂行しうるあらゆる条件がそなわっている。もしも共産党が誤った政策によってこれに失敗するなら、それはひとりドイツ共産党ばかりでなく、コミンターンの「八月四日」となるであろうと警告した。「ドイツ『国家社会主義者』の権力獲得は、なによりもまずドイツ・プロレタリアートの精華の殲潰、自己と自己の将来にたいする確信の根絶を意味するであろう……退却せよ、と昨日まで『第三期』の予言者であった君たちは言うのか? 幹部や指導者は退却することができよう。個人は身を隠くすこともできよう。だが、労働者階級にはファシズムのまえから退却していくところはなく、身を隠すところもないであろう……今日ファシズムのまえから退却することは、十のプロレタリア反乱がつぎつぎに打ち破られるよりも、ドイツ労働者階級をいっそう弱めてしまうであろう。」(トロツキー「ドイツ――国際情勢への鍵」)
 「もしも『人間の埃』にたいする闘争にあって不名誉極まる敗北を喫するとしたら、何百万のドイツ・プロレタリアートは共産主義インターナショナルとそのドイツ共産党をけっして許しはしないであろう。したがってもしもファシストが権力を奪取したら、新しい革命的政党とおそらくはまた新しいインターナショナルを樹立することが必要となるであろう。それこそ恐ろしい歴史的破局である。だが、今日それは不可避であると考えることは正真正銘の解党主義者、空虚な文句の蔭にかくれ実際には闘争をまえにして闘争することなしに、臆病者のように降服を急いでいるものでなくてはできないことである。スターリニストたちから『トロツキスト』と呼ばれているわれわれボルシェヴィキ・レーニン主義者は、こういう考えとは何の共通点ももたない。
 われわれは、ファシストにたいする勝利は、彼らが政権を獲得した後でなく――五年、十年、二十年にわたる彼らの支配の後でなく――いま、現在の条件のもとで、つぎの数ヶ月間、数週間の中に可能であるという、確乎不動の信念をもっている。」(トロツキー「ドイツ労働者への手紙」一九三一年十二月八日)
 コミンターンとドイツ共産党の狂気じみた、破滅的政策の根底となったのはいうまでもなく、「社会民主主義とファシズムは、相互に排撃しあうものでなくて、反対にたがいに補い合うものである。 彼らは正反対なものではなくて、双生児である……社会民主主義はファシズムの穏健な一翼である」というスターリンの「社会ファシズム論」の定式であって、ここから、「社会ファシズムとブルジョア民主主義と徹底的なファシスト形態とは矛盾対立しているというような、自由主義的解釈から生まれてくる誤った見解に止めを刺すことが絶対に必要である」という、ECCI第十一回総会の決議となり、社会民主主義=ファシズムという結論が生まれ、「ただ、ブルジョアジーの社会的主柱たる社会民主党に打撃を加えることによってのみ、プロレタリアートの主要な敵たるブルジョアに打撃を加え、これを打ち破ることができるのである」(ECCI第十二回テーゼ)、「この統一戦線は、社会民主党と労働組合官僚に向けられねばならない」(ピアトニツキー)ということになり、彼らとの統一戦線は裏切りだとして、「下からの統一戦線」の主張となったのである。
 トロツキーはこれに真向から反対した。社会民主主義の指導者もファシストの指導者も、ともにプチ・ブルジョアであり独占資本に奉仕するものであることにかわりはない。だが、社会民主主義は労働者階級の組織――労働者階級が四分の三世紀にわたる激しい闘争によって、ブルジョア民主主義の中に打ちたてた彼ら自身の解放のため闘いの保塁とプロレタリア民主主義の基礎、つまり労働組合、政党、消費組合、クラブ等々――の上に立つものであって、これを根底として、独占資本主義がブルジョア民主主義的政策をとる余裕のある間労働者階級が社会革命に向うことを妨げ、彼らの闘争を改良主義の枠内に抑制することによって、独占資本主義に奉仕するのである。一切の形態のブルジョア民主主義(ことに議会主義)と労働者階級の組織とは彼らの存在の根底であり、彼らはどんなに反動化してもこれを排撃することはできない。たとえ指導者達は最後の瞬間になってこれを放棄するとしても、何百万の労働者大衆は死を賭して彼らの組織を防衛するであろう。
 ところが、ファシズムは暴力化したプチ・ブルジョアジーの軍隊的に組織化された武装部隊である。その任務は、単なる報復とか、残虐な暴力とか、警察的テロではなくて、ブルジョア社会にある一切のプロレタリア民主主義の要素を根絶し、一切のブルジョア民主主義を破壊して、労働階級の抵抗の全拠点を粉砕することである。共産主義的前衛を破壊するだけではなくて、社会民主党や労働組合をふくむ、労働者の階級全体を暴力的に分裂させ徹底的に奴隷化することである。
 「社会ファシズムとブルジョア民主主義と徹底的なファシスト形態とはたがいに矛盾しているという、自由主義的解釈」から生れる誤った見解に止めを刺すことが絶対に必要であるというECCI第十一回総会の決議や、スターリンの定式は、ファシスト反革命によって労働者階級の全組織がこなみじんに粉砕されようが、されまいが、労働者にとってはおなじことだということだ。
 一方ドイツの労働者階級は、共産党と社会民主党の二つの組織に分裂している。ここから「統一戦線」の問題が死活の急務となってくる。だが、「ドイツの労働者は、高い組織的規律と精神をもっていることは強味であり、弱味でもある。社会民主党の労働者の圧倒的多数は、ファシストと闘うであろう。だが、少なくとも差当って――ただ彼らの組織といっしよの場合にだけである。われわれはこの段階を飛越えることはできない。」(トロツキー「ドイツ労働者への手紙」一九三一年十二月八日)
 社会民主党の労働者は指導部に不満をもちながらも、まだこれと断絶しないで、その規律と指導に服している。したがって統一戦線への呼びかけは、当然彼らの組織にたいして、つまり指導部にたいしてなさねばならぬ。それと同時に、幹部内だけの取引きに終始しないため、提案の全内容と交渉の経過を逐次大衆の前に公表して、階級的裏切りをバクロせずにこの提案を拒否することができないようにしむけなければならないのである。
 ところが「社会ファシストとの統一戦線反対! ただ下からだけの統一戦線! 」ということは、社会民主党にとどまっている労働者にむかって「君たちの指導部を振りすてて、君たちの党の規律を無視し、組織を忘れて、われわれの指導に従え! そうすれば、われわれは諸君と統一行動をとろう、でなかったらわれわれは断固拒否する! 」という、まことに傲慢不遜な官僚的最後通諜主義である。社会民主党の労働者が自己の党を離れて共産党の指導に従うとしたら、それはもはや統一戦線ではなしに、共産党の単一戦線である。「下からの統一戦線」という官僚主義的最後通謀主義は、真の統一戦線の結成を予め不可能にすることであり、闘争を恐れる社会民主党の幹部の裏切りをたすけ強化することである。
 一方、ブルジョアジーは、ファシストによる内乱の結果を恐れて、ファシストの武装強化を急ぎながらもこれに全権力をゆだねることを狐疑逡巡する。最後決定のまえの躊躇逡巡の短い期間に、ボナパルティズムの制度が登場する。ボナパルティズムは、警察と軍隊によるブルジョア独裁の制度であって、最後の決戦をまえにして、激しく相対立する二つの階級(ここではプロレタリアートとファシズム)の力の釣合の上に立って非常に不安定な制度である。「それは偉大な歴史的諸力の非人格的な交点をあらわしていて、その独立的な重みはほとんど零である。」「もし二本のフォークを釣合うようにコルクにつきさすと、そのコルクは針の先にでも立つことができる。これこそまさしくボナパルティズムの図式である。」
 「社会から浮上り、大衆的基礎を一つももたぬこの独裁は、不安定で信頼ができず、短命である、それは新しい社会的均衡の合図ではなくて、旧い社会的均衡の崩潰の合図である。」(トロツキー「唯一の道」)
 一九三一年四月から三二年四月までのブリューニング内閣、四月から十一月までのパーペン内閣、十一月から三三年一月三十一日ヒットラー政権出現までのシェライヒャー内閣はすべてこの歴史的決戦のまえの不安動揺を極めたボナパルティスト的独裁政権であった。それはヒットラー・クーデターの切迫を告げるものであったが、またこの企画を阻止し、粉砕するための準備の極めて貴重な時が、わずかながらのこされているということを示すものであった。
 ところが共産党は、これらのポナパルティスト内閣を、これこそファシスト政権であるとか、こんどこそはいよいよ純枠なファシスト独裁であると断じ、それを否定するものは全て裏切り的日和見主義者であると叫んで、ファシズムがファシスト・クーデターでつぎつぎに倒されていくという、しかも主要な敵は社会ファシストであり、尚、別にヒットラー・ファシズムがあるというように、労働大衆の頭を完全に混乱させ、真のファシスト・クーデターの危険から彼らの注意をそらしてしまった。
 だが事態の緊迫化に驚愕した共産党と社会民主党の下部の組織では、指導部の方針を無視して反ファシスト闘争委員会を結成した。この動きはたちまち両党の労働大衆の間に反響を見いだしたが、共産党指導部は党の規律にかけてこれを禁止してしまった。
 こうしてコミンターンは世界の運命が決せられつつあったドイツにおいて、何百万のプロレタリアートの大衆的組織との統一戦線を執拗に拒否し、全力をつくして妨害し、禁止しながら一方アムステルダムでは、一九三二年、「平和主義的文学紳士」アンリ・バルビュスの名をかりて、「各国の平和主義的フリーランサーや、半ば仮面をかぶった共産主義的、シンパ的団体やグループ」の「大同団結(?)」による反戦大会なるものを開催した。これは何よりもまず、労働者の大衆組織と組織との間の共同闘争であるべき統一戦線を無力な個人の会合にすりかえることであり、党の旗と綱領を秘して、私人の名をかり、それにイニシャチィブをゆだねることであり、さらに漠然とした抽象的な「反戦」のスローガンによるサロン的大会に注意を向けて、ドイツで明確な形をとって刻々に発展しつつあった世界大戦への危険から眼を逸させることであって、三重四重にも誤っている。
 ドイツ共産党が、ヒットラーにまず政権をとらせよと盛んに敗北主義を唱えていたとき、トロツキーはこういった。
 「ナチズムがいつまでも今日のように絶えず増大するであろうと信ずるのは愚の骨頂である。早晩、彼らは彼らの社会的貯水池を涸渇させてしまうであろう。ファシズムは自分自身の隊列の中へ恐るべき矛盾をひき入れたので、上げ潮が止んで退潮に変る瞬間が来ざるを得ない。この瞬間は、ファシストが投票の半数をさえ自己の周囲に集結させるより、ずっと以前に到着するかもしれない。彼らは停止することはできない。なぜならここにはもはや何一つ期待するものがないからである。彼らは政府転覆の手段にうったえざるを得ないであろう。」(「ドイツ労働者への手紙」)
 一九三二年七月の国会選挙にヒットラーのナチスは千三百七十万票獲得(社民党七百万票、共産党六百三十万票)し、二三〇名の国会議員を出したが、これはナチ党の絶頂であって、同年十一月の選挙には議席を一九六名に減じた。共産党はこれを歓呼したが、トロツキーはいまこそヒットラー・クーデターが切迫したのだといって、警鐘を乱打した。こうしたデマゴギー的大衆運動は、一瞬間も一点に止まることはできない。停止は分解と崩潰を意味する。拡大のテンポがゆるむときこそ、ヒットラー・クーデターの危険の瞬間である。おそらくは、パーペンを含む連合政府の合法的スクリーンによって政権を得る可能性がある。だが一旦政権を握ったら、国家権力をもってファシスト暴徒を即刻武装させ労働階級への攻撃に投ずるであろう。ヒットラーが政権を握ったという急報をうけとった瞬間、ドイツプロレタリアートを救済するために、赤軍は即時動員されねばならぬ、と。
 トロツキーの予言どおりに、一九三三年一月三十一日、ヒットラーはパーペンを副首相とする連立政府によって政権をにぎった。ドイツ・プロレタリアートは騒然たるうちに、決定的指令のくだるのを待ちあぐんだ。全欧の労働者階級の眼は、クレムリンと赤軍に向けられた。英仏をはじめ各国の政府とブルジョアジーは、息をのんで動かなかった。そのとき、スターリンは、ベルリン駐在の大使をして、ソ連はドイツの内政に一切干渉しないと保証させた。これはまさに開始されようとしていた労働者階級にたいする惨虐を極わめる弾圧と虐殺の自由を表明して、敵に後門の憂いのないことを保証し、労働者階級に致命的な一撃を加えたものであった。
 この保証は、「イズヴェスチャ」紙でモロトフ、リトヴノフによって何度もくりかえされたのである。
 ヒットラーは三月一日国会議事堂を焼き、テールマンはじめ共産党の指導部を逮捕した(国会議事堂放火事件)。
 三月五日、狼狽したECCIは「全世界の労働者へ」のアピールを発表、いままでの「社会ファシズム」や「下からの統一戦線」には一言もふれずに、各国共産党にたいし「社会民主党の中央委員会」にむかって統一戦線を申し込むべきことを指令、統一戦線が実現した場合には、「共同活動の間は、社会民主主義団体にたいする一切の攻撃を放棄する」ことを指示した。これはレーニン主義的統一戦線の原則を逆の仕方、すなわちそれまでの極左的セクト主義から右翼的日和見主義の方向で放棄するものであった。
 ドイツに対してもまた、三月十七日、社会民主党と労働組合にたいする統一戦線を決定したが、すでに混乱の極にたっした共産党は、これを決定的な決戦の指令とすることができなかった。四月始め、ベルリンで社会民主党の最後の示威大会が行なわれ、共産党の指導者がただひとり党を代表してメッセージを朗読しただけであった。
 四月一日、ECCI常任委員会は、ドイツ共産党の政策を是認するつぎのような決議を採択した。
 「ファシストのテロにもかかわらず、ドイツの革命的昂揚は必然的に増大するであろう。ファシズムへの大衆の抵抗は増大せずにはいないであろう。公然たるファシスト独裁は、大衆の間の一切の民主主義的イルージョンを破壊し、大衆を社会民主主義の影響から解放して、ドイツがプロレタリア革命に向って発展する速度を促進させる。」(ピアトニキー「ドイツの情勢」)
 五月一日、ヒットラーの攻撃はいよいよ全面的に展開された。共産党員も、「社会ファシスト」党員も、トロツキスト的「裏切者」も民主主義者も、自由主義者も区別はなかった。全国のブラウン・ハウス(ナチ党の事務所)は、たちまち恐慌の地獄と化した。襲撃、逮捕、拷問、ヒマシ油、火あぶり、撲殺、絞殺、組織の破壊の暴風雨は全国に荒れ狂った。逸早く国外に逃亡することのできた少数の幹部をのぞき、中堅幹部、戦闘的労働者は逮捕監禁され、虐殺され、一切の組織は虱つぶしにつぶされた。指導者を失った労働者大衆は、混乱し、潰乱し、伏してしまった。こうして、資本主義世界における最高の組織と伝統を誇るドイツ・プロレタリアートは一戦も交えずにファシスト・テロに屈服し、解体し、全世界プロレタリアートの注視と期待の中に史上最大の敗北を喫した。ヒットラーは予想された惨虐な内乱の困難もなく、フランスに保護をもとめる必要もなしに完全勝利をおさめることができた。
 こうした間にも、コミンターンはドイツ共産党の非合法活動の発展と労働大衆の革命化をしきりに書きたて宣伝し、ドイツ労働者の革命的蜂起はいまや切迫したと盛んにわめきたて、敗北を否定し、ドイツ労働者大衆を冒険的な盲動的一揆主義に煽りたてた。
 だが、トロツキーは一九三三年四月八日、つぎのようにいった。
 「生産上の地位においても、社会的重要性においても、ヨーロッパ最強のプロレタリアートは、ヒットラーが政権を獲得し、労働者の組織にたいして最初の暴力的攻撃があって以来、何らの抵抗も示しはしなかった。これが一切の将来の戦略的計算の根底としなくてはならぬ事実である。もしもわれわれが、一九三〇年九月以降、ドイツにおける近距離政策を共産党にたいして要求したとすれば、いまは遠距離政策を作成することが必要である。決定的闘争が可能となるまえに、プロレタリア前衛は方向決定をしなおさなければならぬだろう。いいかえれば何が起ったかを理解し、重大な歴史的敗北の責任を分ち、新しい道を探り出し、そうして自信をとりもどさねばならぬであろう。……では、執行部の提唱(三月五日のECCI『全世界の労働者へ』のこと)の実際的価値は、今や何か? ドイツにとっては、それは極めて小さい。統一戦線の政策は、一つの『戦線』つまり安定した陣地と集中的指導部を予想する。左翼反対派(トロツキスト)は、攻撃に移行する展望をもった積極的防衛のための条件として、統一戦線のための条件を提唱した。今日、ドイツ・プロレタリアートは後衛戦すらない潰滅的敗走の状態にたっしている。このような事情にあって、共産党と社会民主党の労働者の自発的結合は、いろんなエピソード的な任務のために実現されるかも知れないし、また実現されるであろう。だが、統一戦線の組織的実現は、不定の将来までの期間仮借なく押し流されてしまった。この点について、いささかのイルージョンもあってはならない。
 ……もしも中心的部分が屈服したら、それに近づく道を強化し、将来の攻撃のための拠点を準備しなければならない。この準備はドイツの国内では、過去を批判的に明確化し、戦闘的分子の前衛の旺盛な士気を支持し、戦闘的分子を再結集し、いろんな戦闘的グループが結集して一大軍隊となるときを待ちながらも、可能な場合はいつでも後衛戦を組織することを意味する。この準備は同時にまた、ドイツに密接に結びついたり、ドイツの周辺にあったりする国々、オーストリア、チェコスロバキア、ポーランド、バルチック諸国、スカンディナヴィア連合、ベルギー、オランダ、フランス、スイスのプロレタリアートの地位を防衛することを意味する。ファシスト・ドイツをプロレタリア保塁の強力な鉄壁でもって包囲しなければならぬ。ドイツ労働者の潰乱を止めるための努力を一瞬たりとも中止することなしに、ファシストにたいする闘争のために、ドイツ国境の周囲に、強大なプロレタリア的陣地を構築することが必要である。
 ……統一戦線の政策は、それ自体の中に、利益ばかりでなく、また危険も包含している。それは、大衆に隠れての指導者間の結合を生みだし、同盟者、日和見主義的同盟者、日和見主義的動揺者にたいする消極的妥協をよういに生みだす。この危険は、同盟者にたいする批判の完全な自由の維持と、自分自身の党の隊列内における批判の完全な自由の再建という二つの明白な保証を条件としなかったら、防ぐことはできない。自己の同盟者を批判することを拒むことは、直接に、即時に改良主義への屈服にみちびく。
 ……社会民主党にたいする一切の攻撃(!)を放棄すること(三月五日のECCI『全世界の労働者へ』)――何という不面目極わまる公式か!――は政治的批判の自由、換言すれば革命的政党の主要任務を放棄することである。
 ……第二の保証についても事情はちっとも芳しくない。社会民主党にたいする批判を放棄したスターリニスト官僚は、彼ら自身の党のメンバーにたいして批判の自由をあたえることなしに、官僚的なやり方でおこなわれた。たった一つの全国大会もなければ、国際大会もなく、ECCIの総会すらなく、党機関紙での準備もなければ、過去の政策の分析もない。
 これは何も鷲くことはない。党内での討論の第一歩から、考える労働者はすべて役員にむかってこう質問するであろう。ボルシェヴィキ・レーニン主義者(トロツキスト)はなぜ一切の(コミンターン)支部から除名されたのか? ソヴェト連邦では、なぜ彼らは逮捕され、追放され、銃殺されるのか? 彼らが一層深く掘り下げ、一層遠くを見るためなのか? スターリニスト官僚はそのような結論をゆるすことはできない。彼らはどんなとんぼ返りでも、転換でもやってのけることができる。だが、労働者大衆の見ている前で、ホルシェヴィキ・レーニン主義と正直に面と向って立つこと――これは彼らにはできないことであり、あえてやる勇気のないことである。
 ……はっきりと、明確に、公然といわねばならぬ。スターリニストはドイツにおいて自己の『八月四日』をもったと。今日以後、進歩的労働者はスターリニスト的官僚の支配の時期を、ただ身を焼かれるような屈辱感と、憎悪と呪咀の言葉をもってしか口にしないであろう。公式のドイツ共産党は、死の宣告をくだされた、いまから後、ドイツ共産党はただ分解し、崩壊し、真空の中に溶け去るだけである。ドイツ共産主義は、ただ新しい指導部をもって、再生することが出来る。
 ……ドイツ・プロレタリアートはふたたび起き上るであろう。だが、スターリニズムは断じて否である。敵の恐るべき打撃の下に、進歩的なドイツ労働者は新しい党を樹立しなければならぬであろう。トロツキストは、この活動に全力をかすであろう。」トロツキー「ドイツ・プロレタリアートの悲劇」一九三二年十二月)
 一九三三年十二月、ドイツには、もはやばらばらになった共産党と社会民主党のかけらしかのこっていなかったとき、ECCI第十三回総会は相も変らぬ調子をもってこう報告した。
 「社会民主党は、公然たるファシスト独裁の国々においても、引きつづきブルジョアジーの社会的主柱の役割を演じている。……ドイツでは、巨大な革命的エネルギーが大衆の間で蓄積され、新しい革命的昂揚がすでに開始されつつある。」
 そして、ドイツにおける政策は正しかったということを確認した。
 この破廉恥な冒険主義にたいして、トロツキーはつぎのように断言した。
 「軍事科学の歴史は、革命的闘争の歴史と同様、指導部が根本的敗北の程度を評価しないで、時機にあわぬ攻撃によってそれをおおいかくそうと試みる結果生まれる補足的敗北を無数に記録している。戦争では、この種の罪悪的な企図は、すでにそれまでの挫折によって致命的に弱められた兵力をさらに大量的に纖滅することになる。革命的闘争において、それまでの敗北によってすでに大衆から引きはなされた最も戦闘的な分子は冒険の犠牲となってしまう。
 ……共産党は、大衆組織としては完全に粉砕されてしまった。だが、中央機関は保存されている。非合法的な亡命的な文書を発行し、国外で反ファシスト大会を召集し、ナチの独裁にたいする闘争の計画をたてている。今日、敗北した参謀本部の一切の害悪が、この機関の中に比類ないほどはっきりとあらわれている。
 『ファシストは一刻だけの天下である』と、コミンターンの公式機関紙は書いている。『彼らの勝利は永続的なものではない。その後に種を接して、プロレタリア革命がつづくであろう……プロレタリアートの独裁のための闘争は、ドイツにおいて日程にのぼっている。』絶え間なく退却し、拠点を明け渡し、自分自身の味方を失いながら、党機関は、反ファシストの波は盛り上りつつある、その志気は高揚しつつある、明日でなかったらいまから二・三ヶ月の間に反乱を準備する必要があると、ひっきりなしにくりかえす。楽観的言辞が敗北した司令部のための政治的自己保存のための手段となった。ドイツ・プロレタリアートの内部生活がいよいよ深く闇の中にとびこめばとびこむほど、見せかけだけの楽観主義の危険はますます大きくなる。労働組合もなければ、国会選挙もなく、党員もなければ、新聞の配布もない。誤った政策の結果を統制したり、指導者たちの平静をかき乱すデータは何一つ存在しない。
 ナチスは労働者の頭を叩いて、彼らを人種的偏見の人体模型にしてしまおうと望んでいる。その反対に、コミンターンの指導部は、ヒットラーの攻撃は労働者を従順な共産党員にしてくれるだろうと当にしていいる。打算は両方とも間違っている。労働者は陶工の手に握られた粘土ではない。彼らは歴史を一々はじめからやりなおそうとはしない。ナチスを憎悪し、軽蔑しながらも、彼らは自分たちを首索につれこんだ政策にもどっていこうなどという気持は、みじんもない。労働者たちは、自分たちの指導者によって臆され、裏切られたことを感じている。彼らは何をなすべきかということは知っていないが、何をしてはならぬかということは知っている。彼らは言語に絶するほど苦しめられている。……暴風雨が吹き止むのをまち、自分たちの力に及ばぬ問題を決定する必要は忘れてしまいたいと思う。
 彼らは幻滅の傷が癒える時を必要とする。この状態の一般的名称は、政治的無関心である。大衆は、怒りっぽい無抵抗におちいる。……労働者が大量にスワスチカの旗(ナチスの党旗)の下に移行している事実は、プロレタリアートをつかんでいる頼りない感じの争うべからざる証左である。反動は、明らかに労働者階級の骨のズイまでしみこんだ。それはたった一日のことではない。
 ……大病をやっと通りこしたばかりの身体にとっては、正しい療法がことに大切である。ファシズムのローラーにひかれた労働者の場合、冒険主義的戦術は不可避的に無頓着への後戻りを生みださずにはおかないであろう。こうして、待ち合せの時期尚早な憶測はしばしば危機の反復をともなう。イタリアの実例は、ことに誤った政治指導部をもった政治的沈滞の状態は、何年もつづくことがあることをしめしている。
 ……だが、プロレタリアートが自分に偉大な任務を課することができるようになる前に、彼らはまず過去の決算をしなければならない。この決算の最も一般的な公式は、古い政党はすべて死滅したということである。少数の労働者はすでにこういっている。「新しい党を準備することが必要である」と。社会民主党の胸のむかつく無気力と、公式のえせボルシェヴィズムの罪悪的な無責任とは、闘争の火の中で焼け失せるであろう。ナチスの紳士諸君は、戦士の民族について語った。ファシズムが革命的闘士の征服すべからざる民族と衝突する時はくるであろう。」(一九三四年一月、アメリカマン・マーキュリー誌・トロツキー著「次は何か?」)
 こうして、トロツキーがはじめ予想した内乱がおこらなかったばかりか、最高の組織訓練を持つドイツ労働者はその組織的訓練のゆくえについに最後まで自然発生的な抵抗を完全に一つも試みずに終ったのである。この不名誉極まる徹底的な敗北と、敗北後の不信、破廉恥極わまる虚言とダボラの政策とはコミンターンの復活が完全に不可能であることを明瞭にした。
 それまでは左翼反対派としてあくまでコミンターンと共産党の復活に死力をつくしてきたトロツキーとボルシェヴィキ・レーニン主義者は、ここに初めて第三インターナショナルの死を宣言し、「第四インターナショナルを組織せよ……全世界の国々に新しい共産党を組織せ……」というスローガンを掲げた。

 第四インターナショナルは一九三八年九月三日、スイス〔*〕の某所において、十一ヶ国の代表者三十名によって正式に創立が決定された。創立大会に直接代表を送りえない所属団体は二十ヶ国に及んだ。トロツキーの有名な「過渡的綱領――資本主義の死の苦悶と第四インターナショナルの任務」は、第四インターナショナルの綱領として正式に採決された。所属支部は、全ヨーロッパ、アジア、北中南米、オーストラリア、ニュージランド、アフリカの各国に確立され、マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーによって樹立発展されたプロレタリア革命の伝統と旗を強力に進めつつある。
 一方長い間死の沈黙を守っていた第三インターナショナルは、一九四三年六月、「世界各国それぞれの歴史的発展経路の深刻な相違、その社会的秩序の性格ならびに矛盾さえもの相違、経済的政治的発展の水準とテンポの相違、最後に各国の労働者の意識の程度の相違のためいかなる種類の国際的中核も各国の労働者階級の当面する問題解決しようとするとき、克服すべからざる困難に面しなければならず」、一方また「個々の国々の共産党とその幹部の発展と政治的成熟を考慮に入れて」解散を決定し、会議一つ開かず、官僚的手続きをもって、長い間忘れられていた自らの醜骸を葬った。この官僚的通告が各国共産党に何らの批判も抗議も起さなかったということは、各国共産党がどんなに堕落し、党の民主性、革命的プロレタリア民主主義の根本的精神をどんなに痕跡もなく失っていたかということを、如実に示したのである。

〔*〕 スイスと発表されたが、実際はフランスのパリ郊外のアルフレッド・ロスメルの家で行なわれた。〔国際革命文庫編集委、以下同じ〕


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