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ヒトラー反革命とトロツキーの死闘
    
――トロツキー著『次は何か』訳者序文

 一九五二年十月一九日に執筆され、トロツキー著『次は何か』(創文社、五二年十一月刊)の「訳者序文」として発表された。

 一九二三年のドイツのプロレタリア革命が、スターリン―ブランドラー政策によって裏切られ、ポアンカレーがルール占領という、力に余った冒険を断念すると、アメリカ帝国主義の使者ドウズは、わずか四億マルクの金をもってドイツ経済の支配権を買いとり、これを「安定」させ、ドイツならびにヨーロッパに「平和主義」の時代をもたらした。最も近代的な、最高度に発達した生産力をもちながら、世界市場からしめ出され、ヨーロッパの真中におしこめられ、ヴェルサイユ条約にもとずく苛酷な賠償によって、個渇させられつつあったドイツは、資本主義の矛盾を最も尖鋭な、集中的な形であらわしていた。こうした恐るべき危機を内包しながらも、ドイツ・ブルジョアジーはアメリカの財政的「援助」をうけ、社会民主党の支持に依存して、辛うじて命脈をたもつことができた。だが、一九二九年の恐慌によってこの「援助」を失ったドイツ・ブルジョアジーは、産業合理化をいよいよ強化し、労働者の生活水準を切り下げ、何百万の失業者を街頭に投げだし、プチ・ブルジョアジーの階級を破滅の縁に追いやった。ところで、労働者の抵抗を排してこの産業合理化を徹底的に強行するためには、労働者の抵抗の拠点となるブルジョア民主主義の一切の形態を無視するだけでなく、これを暴力的に破壊してしまわねばならなかった。だが、マルクス、エンゲルスの伝統と最高の組織を誇り、鋼鉄のように鍛えられた団結的精神をもったドイツ・プロレタリアートは、ヨーロッパ・プロレタリアートの精華であって、これにたいする本格的攻撃は、必然的に内乱を意味し、警察や国防軍では完全に無力であった。そのためには、絶望と忿懣で暴力化したプチ・ブルジョアジーの巨大な大衆的武装隊が必要であった。ドイツ・ブルジョアジーの主翼が社会民主主義を見棄てて、労働者の抵抗の拠点となる一切の形態のブルジョア民主主義を微塵に粉砕しさることのできる唯一の党として、ヒットラーの国家社会主義を支持しはじめた瞬間から、ファシスト運動は急速に拡大しはじめた。
 一九三〇年九月の選挙は、はじめてファシズムの危険をはっきりとあらわした。ファシストは一挙に五百万票以上を増して、六百万票を獲得し、国会における最大の党たる社会民主党に迫った。ドイツ共産党も四百万票から六百万票に増加した。危機はいまや、ファシスト的反革命の勝利か、共産党のプロレタリア革命の勝利かのいずれかによって解決されねばならぬ、決戦の情勢になった。
 一方、経済恐慌は他の大陸と同様、全ヨーロッパを覆い、いたるところに深刻な社会的政治的危機を発展させつつあった。一九三一年四月には、スペイン革命が勃発して、王政は顛覆された。秋には、イギリスがポンドの危機に襲われ、全国にわたり失業者の騒擾が起り、インヴァーゴードンの艦隊反乱が勃発した。北海の大演習のため、スコットランドの同車港に集結していたイギリスの全大西洋艦隊の水兵は、不公正な手当切り下げに憤激して、全部の将校を鑑内に監禁し、三日間、全艦隊を占領した。東洋艦隊もこの反乱に合流を表明し、イギリスは未曾有の大破局に突入しようとした。その他の国々も、いつ重大な破局に投げこまれるか予見されぬ不安におびえていた。かかる情勢において、もしもベルリンに赤旗が高くかかげられたら、ムッソリーニは二週間とはもたないであろうし、イギリスやフランスも長く抵抗することはできなかったろう。ドイツ革命の勝利は、武装するドイツ・プロレタリアートとソヴィエト赤軍の合体を意味し、この壮大な力のまえに、全ヨーロッパの被抑圧大衆は歓呼して豚起し、歴史は完全に一変したであろう。
 反対に、もしもヒットラーが、開いたドアからであろうと、ドアを打ち破ってであろうと、政権を掌握したら、それはドイツ労働者との苛烈な激突を意味し、長期にわたる残虐な内乱を意味するであろう。そして、もしこの内乱に勝利して、ドイツ・プロレタリアートを粉砕したら、ムッソリーニをはじめ、震憾している各国ブルジョアジーは強化され、長い間の陰惨極まる暗黒時代を意味するだろう。それよりも、この内乱においてヒットラーはフランスに同盟と保護を求めざるをえないであろうし、フランスはその代償として、対ソ進撃の任務をあたえ、ここに世界戦争への危機を発展させるであろう。
 世界情勢を決定し、直接世界史の運命を決する力は、ドイツ・プロレタリアートの手中に握られており、その鍵はコミンターンとドイツ共産党の指導部の手におかれていた。
 全人類の運命がかかっていたこの歴史的瞬間の、焦眉の急務は、迫りくるファシズムの危険にたいし、ドイツの全労働階級の統一戦線を結成することであった。ドイツの組織労働者の精華を握っていた社会民主党と共産党の統一戦線がひとたび確立されたら、その瞬間に、全情勢は一変し、労働階級の力は巨大な、真に不可抗力的なものとなり、人間の埃からなるファシスト運動は、ぶよのかたまりが風に吹き散らされるように雲散霧消して、プロレタリア独裁は現実の事実となったろう。そのためには、ドイツ共産党はコミンターン第三回大会によって決定され、第四回大会によって確認された統一戦線の政策、ECCI〔*〕が一九二一年十二月十八日、「労働者の統一戦線と第二、第二半インターナショナル、アムステルダム・インターナショナル所属の労働者、ならびにアナルコ・サンジカリスト的組織を支持する労働者にたいする関係指針」の中で、とくに詳細に決定したこの政策を、誠実に、忠実に実行しきえすればよかった。
 だが、ドイツ共産党指導者たちは、スターリンが一九二四年唱えだした、レーニンの政策を根本的に破壊する「社会ファシズム論」にもとずいて、第六回大会が決定した破滅的な「下からの統一」を固執した。一九三〇年九月の国会選挙後、ローテ・ファーネ紙は、「九月十四日はドイツにおける国家社会主義運動の頂点である。今後は、ただ衰微と没落しかないであろう」と言明した。しかし、一九三一年中を通じて危機はますます激化し、ファシズムは非常な勢で増大しつづけた。共産党は社会民主主義者を社会ファシストと呼び、ヒットラーを倒すためにはまずこれを先に倒さねばならぬと叫びつづけて、組織と組織の真の統一戦線を拒否し、社会民主党の労働組合に対抗して赤色労働組合を育て、ヒットラーと競争してザール返還要求闘争にショーヴィニスティックな態度をとった。
 一九三一年夏、共産党は社会民主党攻撃の最中に、突然、なんの準備もなく、プロシャ政府の社会民主党閣僚にむかって、ゼネストのための統一戦線を要求した。これが拒絶されると、彼らは、人民投票によってプロシャの社会民主党政府を打倒しようとしたファシストの企図を支持して、彼らといっしょになって、社会民主党政府に対する共同戦線をはった。その後、社会民主党の一部が共産党との統一戦線を要望すると、テールマンはこれを拒否し、社会ファシストどものこの「新らしいデマゴギー的な策動」に引っかかるなといって、労働者に警告した。
 一九三一年十月、ドイツ共産党の三巨頭のひとりであるレンメレは、国会において、「ひとたび彼ら(ファシスト)が政権を掌握したら、プロレタリアートの統一戦線はたちまち樹立されて、あらゆるものを一掃しさるであろう……われわれはこれらのファシスト紳士諸君を恐れはしない。彼らは他のどんな政府よりも早く逃げだしてしまうであろう」と演説した。こうして、一九三一年の終りには、コミンターンの指導部は、ドイツにおけるヒットラーの勝利は止むをえないと内心諦めていたのは明白であって、「社会ファシスト」の政府とヒットラーの政府は、労働者にとってはちっとも違わないとか、「まずヒットラーに政権をとらせよ、彼は一月とたたず退場し、われわれのために道を浄めてくれるだけだろう」ということが、しきりに宣伝せられた。これは一戦も交えずにヒットラーに政権をあたえようとする完全な敗北主義であって、その「短い」期間に国家権力をもって武装したヒットラーが行う恐るべき破壊行為にたいし、労働者の眼をふさぐことであった。われわれは一九二三年八月、ドイツの革命的危機が最高潮にたっせんとしていた直前、スターリンがジノヴィエフにつぎのような書簡をおくって共産党を抑制し、革命の機会を逸しさせたことを想起しないわけにはいかない。「もしも今日ドイツの政権が倒れ、共産党がこれを掌握するとしたら、彼らは崩潰してしまうであろう。ファシストは眠ってはいない。ファシストに最初に攻撃させた方が、われわれにはいっそう有利である。そうすれば、労働階級を共産党の周囲に結集させることになるであろうから……自分の情勢判断では、ドイツ共産党は抑制すべきであって、これを押しすすめてはならぬ。」
 当時トルコのプリンキポに亡命していたトロツキーは、一九三〇年九月選挙の直後、押し迫るファシズムの危険にたいして警鐘を乱打し、ドイツ共産党はコミンターンの第三回、第四回大会によって決定された方針に立って、即時社会民主党と労働組合に統一戦線を申込まねばならぬと叫んで、そのための綱領をしめした(「コミンターンの転換とドイツの情勢」)。さらに一九三一年十一月には、各国の政治情勢を分析し、世界の運命を決する鍵はドイツである。正しい統一戦線によれば、ファシズムを打破し、プロレタリア革命を遂行しうるあらゆる条件がそなわっている、もしも共産党が誤った政策によってこれに失敗するなら、それはひとりドイツ共産党ばかりでなく、コミンターンの「八月四日」となるであろう、と警告した。「ドイツ「国家社会主義者」の政権獲得は、なによりもまずドイツ・プロレタリアートの精華の殲滅と、その組織の崩潰、自己と自己の将来にたいする確信の根絶を意味するであろう……退却せよ、と昨日まで『第三期』の予言者であった君たちはいうのか? 幹部や指導者は退却することができよう。個人は身を隠すこともできよう。だが、労働階級には、ファシズムのまえから退却していくところはなく、身を隠すところもないであろう……今日ファシズムのまえから退却することは、十のプロレタリア反乱がつぎつぎに打ち破られるよりも、ドイツ労働階級をいっそう弱めてしまうであろう。」(「ドイツ――国際情勢への鍵」)
 一九三二年一月、彼はさらに「次は何か?」を書いて、ドイツの情勢に鋭いマルクス主義的分析をあたえ、統一戦線の急務を強調した。ドイツの左翼反対派は、少数ではあったが週刊機関紙「永久革命」紙に拠って、レーニン的統一戦線のために必死の闘争をつづけた。コミンターンもドイツ共産党も、彼らを「反革命家」、「裏切り者」とよんで非難攻撃した。一九三二年三月十五日のコンミュニスト・インターナショナル誌上で、ピアトニツキーはつぎのようにいった。「社会民主党もまたときどき統一のスローガンをかかげる。すると、裏切り者のトロツキーは、共産党と社会民主党の『ブロック』の提議をひっさげて、急いで彼らの援助にかけつける。」
 一九三二年、ドイツの経済恐慌はさらに深刻化し、六百万の失業者はいまや七百万に近づいた。国会における社会民主党の支持にたより、緊急令によって命脈をつづけてきたブリューニングは、四月に倒れ、国会には一握りの反動的政党の支持しかもたぬ、典型的なボナパルチスト、パーペンが首相となった。反動家パーペンの登場は、ヒットラー・クーデターの切迫を告げるものであったが、まだこの企図を阻止し、粉砕するための準備の時が、わずかながらのこされていることをしめすものであった。だが、共産党はこれこそ純粋なファシスト政権である、それを否定するものは裏切り的日和見主義者であると叫んで、真のファシスト・クーデターの危険から大衆の注意をそらした。
 パーペンは七月、ブロシャの社会民主党政府を解散させた。このヒンデンブルグ―パーペン・クーデターにたいして、抗議はなに一つおこなわれなかった。七月末、国会選挙において、ナチスは千三百万、社会民主党は七百万、共産党は六百三十万を獲得した。一九二八年、三〇年、三二年の国会選挙の得票数の比率において、共産党は一〇・六%、一三・一%、一四・三%、と少しづつ増してはいるが、ナチスの二・六%、一八・三%、三七・一%と、暴風雨のような激増にはくらぶべくもなかった。ことにドイツの工業中心地の中、三つの地区(ベルリン、ハンブルグ、ハレ―メルゼブグ―ロイナ)では、共産党の得票は、一九三〇年九月の得票よりも少く、ハレ―メルゼブグ―ロイナ地区とベルリン地区の一部とでは、社会民主党は得票を増加することができた! その他の重要工業都市においても、共産党の得票増加は極めて微々たるものであった。たとえば、上部シレジアではナチスは一四〇、六〇〇を増したのに、共産党は一一〇・六三三から一一八、二〇〇へと、わずかに七、六〇〇を加えたにすぎず、ルールの中心地区デュッセルドルフの地区では、ナチスは一八九、六〇〇を増したのに、共産党は三二一、二九四から三三一、三〇〇へと、一〇、〇〇六を増しただけで、社会民主党が失った一五、五〇〇を確保することすらできなかった。サクソニーでは、ナチスは五六一、三七一から一、三〇六、五〇〇へと、七四五、一二九を増したのに、共産党は社会民主党が失った二九四、〇〇〇の中から、やっと六二、〇〇〇を獲得したにすぎなかった。
 ドイツが陥っていた未曾有の内乱の危機におけるこれらの数字は、共産党にたいする重大な危険信号であり、その極左主義と敗北主義と日和見主義の混乱した政策にたいする、石また叫ぶ告発であった。だが、一九三二年九月、ECCI第十二回総会が採決したテーゼは、つぎのように宣言した。「ただブルジョアジーの社会的主柱たる社会民主党に主要な打撃をくわえることによってのみ、プロレタリアートの主要な敵たるブルジョアジーに打撃をくわえ、これを打ち破ることができるであろう。」ピアトニツキーは、「この統一戦線は、社会民主党と労働組合官僚にむけられなければならぬ」と演説した。
 こうして、コミンターンは全欧の運命が決せられつつあったドイツにおいて、プロレタリアートの大衆的組織と組織との統一戦線を執拗に拒否し、全力をつくして妨害し、禁止しながら、一方アムステルダムでは、フランスの作家アンリ・バルビュスなどの名をかりて、文化人等の進歩的分子の「大同団結」による反戦大会なるものを開催した。これは、なによりもまず労働者の大衆的な組織と組織との間の共同闘争であるべき統一戦線を、無力な個人の会合にすりかえることであり、党の旗と綱領を秘して、私人の名をかり、それにイニシャティヴをゆだねることであり、さらに漠然とした抽象的な「反戦」のスローガンによるサロン的大会に注意をむけて、ドイツにおいて明確な形をとって刻々に発展しつつある世界戦争への危険から服を逸らさせることであって、三重にも四重にも過っていた。第二次大戦後、日本やドイツが占領下におかれているとき、かつてレーニンが政権獲得後第一に宣言した、無賠償、無併合――何人たりともその意志に反して、強制的に抑留されることをゆるさぬ――の公正なる講和の提唱を、抽象的な「平和」のための署名運動にすりかえて、戦後の世界における革新運動の偉大な発展を喰い止めたのと、まさに同断である。
 十一月、国民大衆の圧力のもとにパーペン政府は倒れて、シュライヒャー将軍がこれにかわった。パーペンはまだ国会に一握りの反動的国家主義的政党の支持をもっていたが、将軍には、いまやそれすらなかった。自由主義的ジェスチュアにもかかわらず、与えるものといっては何一つもちあわさぬ、より純粋なボナパルチスト、シュライヒャーの政権が、極めて短命なものであることは、火を見るよりも明らかであった。トロツキーはこれを指摘して、つぎのように警告した。ナチスの得票は四〇%をこえることはむずかしいであろう。こうしたデマゴギー的大衆運動は、一瞬間も一点にとどまることができない。停止は分解と崩潰を意味する。拡大のテンポがゆるむときこそ、ヒットラー・クーデターの危険の瞬間である。おそらくはパーペンをもふくむ連立政府の合法的スクリーンによって政権を握る可能性がある。だが、いったん政権を握ったら、国家権力をもってファシスト暴徒を即刻武装させ、労働階級への攻撃に投ずるであろう。ヒットラーが政権を握ったという急報をうけとった瞬間、ドイツ・プロレタリアートを救援するために、赤軍は即時動員されなければならぬ、と。
 トロツキーの予言のとおりに、一九三三年一月三十一日、ヒットラーはパーペンを副首相とする連立政府によって政権を握った。ドイツ・プロレタリアートは、決定的指令のくだるのを待ちあぐんだ。全欧の労働階級の眼は、クレムリンと赤軍にむけられた。英仏をはじめ各国の政府は、息をのんで動かなかった。そのとき、スターリンはベルリン駐在の大使をして、ソ連はドイツの内政に一切干渉しないと保証させた。これは、まさに開始されようとしていた労働者にたいする惨鼻を極める弾圧の自由を、ヒットラーにゆるすことを、公式に表明して、敵に後門の憂いのないことを保証し、労働者に致命的な一撃をくわえたものであった。ヒットラーは三月一日、国会議事堂を焼き、テールマン始め共産党の指導者を逮捕した。三月十七日、狼狽したコミンターンは、社会民主党と労働組合にたいする統一戦線を決定したが、すでに混乱の極にたっした共産党は、これを決定的な決戦の指令とすることができなかった。四月五日、ベルリンで、社会民主党の最後の示威大会がおこなわれ、共産党の指導者がただひとり、党を代表してメッセージを朗読しただけでおわった。四月一日、ECCI常任委員会は、ドイツ共産党の政策を是認する、つぎのような決議を採決した。「ファシストのテロにもかかわらず、ドイツの革命的高揚は必然的に増大するであろう。ファシズムへの大衆の抵抗は、増大せずにはおらないであろう。公然たるファシスト独裁は、大衆の間の一切の民主主義的イルージョンを破壊し、大衆を社会民主主義の影響から解放して、ドイツがプロレタリア革命にむかって発展する速度を促進させる。」(ピアトニツキー、「ドイツの現情勢」)
 五月一日、ヒットラーの攻撃はいよいよ全面的に展開された。共産党員も、「社会ファシスト」党員も、民主主義者も、自由主義者も、区別はなかった。全国のブラウン・ハウス(ナチ党の事務所)は、たちまち恐怖の地獄と化した。襲撃、逮捕、拷問、ヒマシ油、火あぶり、撲殺、絞殺、組織の破壊、の暴風雨は全国に荒れ狂った。逸早く国外に逃亡することのできた少数の幹部をのぞき、中堅幹部、戦闘的労働者は、逮捕監禁され、虐殺され、組織は虱つぶしにつぶされた。指導部を失った労働者大衆は、混乱し、潰乱し、慴伏してしまった。こうして、資本主義世界における最高の組織と伝統を誇るドイツ・プロレタリアートは、一戦も交えずにファシスト・テロに屈服し、解体し、全世界のプロレタリアートの注視の中に、史上最大の敗北を喫した。ヒットラーは、予想された惨虐な内乱の困難もなく、フランスに保護をもとめる必要もなしに、完全に勝利をおさめることができた。
 一九三三年十二月、もはやばらばらになった共産党や社会民主党のかけらしかのこっていなかったとき、ECCI第十三回総会は、相も変らぬ調子をもってこう報告した。「社会民主主義は、公然たるファシスト独裁の国々においてもまた、引きつづきブルジョアジーの社会的主柱の役割を演じている……ドイツでは、巨大な革命的エネルギーが大衆の間で蓄積され、新らしい革命的高揚がすでに開始されつつある。」そして、ドイツにおける政策は正しかったということを確認した。
 トロツキーが予想した内乱がおこらなかったばかりか、最高の組織訓練をもつドイツ労働者は、その組織的訓練のゆえに、ついに最後まで自然発生的な抵抗を発展させずにおわった。この不名誉極まる、徹底的な敗北は、コミンターンの復活が完全に不可能なことを明瞭にした。それまでは左翼反対派として、あくまでコミンターンと共産党の復活に死力をつくしてきたトロツキーは、ここにはじめて第三インターナショナルの死を宣言し、「第四インターナショナルを組織せよ……全世界の国々に新らしい共産党を組織せよ……」というスローガンをかかげた。
 本書はこの危機の期間中に、社会民主主義、ファシズム、ボナパルチズムの本質を究明し、レーニン的戦術と戦闘的マルクス主義のために、死力をつくして闘ったトロツキーの論文を、発表順に集録したものである。「ドイツ――国際情勢への鍵」をはじめ、この間に書かれた無数の貴重な論文を割愛しなければならなかったのは、まことに遺憾である。
 今日世界の情勢は、トロツキーの指摘したとおり、新らしい社会秩序への変革のための客観的条件が過熱し、半ば腐りかけてさえいることを特徴とする。人類文化の危機は、プロレタリアートの指導部の危機に還元される。本書はこの危機の克服への一助となることを信じて疑わない。
 わが国においても、戦前ファシズムの論議がさかんにおこなわれた。最近政治的関心の高揚とともに、ファシズムの問題がまた新らしくとりあげられつつある。スターリニズムの伝統しかもたなかった日本共産党によって主としてもちこまれたファシズム論が、わが国のファシズム論争に絶望的な混乱をもたらしたことは当然である。「社会」ファッショどころか、軍部ファッショ、官僚ファッショ、教育ファッショ、職制ファッショ、さては天皇制ファッショと、いたずらにファシズムのレッテルを無差別にはりまわすだけで、ファシズムの本質、その発展の特殊な条件が、社会的、階級的分析にもとずいて、究明され解明されたことが、ついに一どもなかったといっていい。ファシズムはなによりもまず、急進化し、絶望し、暴力化した、プチ・ブルジョアジーの大衆的組織だという、わかりきったことすらわすれられる。それが発展する条件としては、本書によって明らかなように、国が革命的危機におちいっており、支配階級は極度に混乱動揺し、労働階級は急進化して変革を要望し、都市と農村のプチ・ブルジョアジーも革命化して根本的変化を熱望し、その期待を労働階級によせる、だが、保守的労働政党は急進化した労働階級を混乱させ、彼らが革命的情勢を利用して政権を獲得することを妨げる、期待を裏切られ、絶望したプチ・ブルジョアジーのプロレタリアートにたいする激しい敵意は灼熱化し、彼らを暴力化す、内乱を恐れ、狐疑逡巡をつづける支配階級は、最後にこの暴徒化したプチ・ブルジョア大衆をプロレタリアートにたいして利用する決意をする。これが、ポーランド、イタリー、オーストリア、ドイツ、スペインにおいて、明白にしめされた発展の条件であり、過程である。戦前、戦時中の日本ファッショ体制が云々されるが、これは明かに間違いであって、日本のブルジョア民主主義の圧殺は、ファシスト・クーデターをまたずに、主として軍隊と警察にたよるボナパルチスト的東條政権によって成就され、ファシスト独裁は存在しなかったといわねばならぬ。
 今日の世界政治の特質は、アメリカ帝国主義が計画経済圏をふたたび世界市場に奪いかえすため、第三次世界大戦の準備を灼熱的に遂行しつつある短い期間である。この破滅的な世界政治を阻止する二つの重要な槓杆は、ヨーロッパでは、ドイツのプロレタリアート、アジアでは日本のプロレタリアートの手中に握られている。日本のプロレタリアートは、この重大な世界史的任務を明確に自覚し、人類の文化を破局から救うために、高いイデオロギーによって自己を武装し、一糸乱れず、整然として戦列につかねばならぬ。

 最後に一言――最近わが国でも、外国の例にならって、ドイツ共産党は社会民主党にたいしいかに統一戦線の申込みを行い、そのためいかに立派に闘ったかというふうに、歴史の作り直し運動が頻りに試みられている。これは完全な無知か、でなかったら為にする欺瞞であって、歴史は危機に立つ労働階級の運命を犠牲にして憚らぬ、そういう不信をけっしてゆるさぬであろう。
 一九五二年十月十九日夜

〔*〕 ECCI コミンターン(第三インターナショナル)執行委員会


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