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スターリン崇拝の崩壊とトロツキーの復権
    ――社会主義協会『社会主義』1956年6月号

 一九五六年四月二九日に執筆され、社会主義協会機関誌「社会主義」五六年六月号に発表された。原題は「スターリンとトロツキー」。

 いまわたくしたちの眼のまえで、二つの壮大な劇が進行している。二つとも今後の世界情勢を直接決定する非常に大きな意義をもっていて、その激しい深刻な影響は止まるところがないであろうし、世界の労働運動にたいして素晴らしい展望を開いている。一つはイギリスとフランスの植民地帝国主義の崩壊であり、もう一つはスターリン崇拝の批判という形をとった、スターリン主義的官僚独裁制全体の危機であって、両者は国際的急進化の一部として、たがいに反響誘発しあいながら進行している。
 スターリン批判はフルシチョフやミコヤンなどにより、上からはじめられたが、たちまち嵐のような反響をまき起し、恐ろしい爆発力で全東欧諸国に燃えひろがっている。スターリンの「誤謬」は次々に摘発され、血の粛清裁判を直接指導したヴィシンスキーは被告の自白だけで断罪したという、まことに驚きいった理由で槍玉にあげられている。いっそう弱体な政権をもつ東欧諸国の動揺は、一九五三年六月の東独労働者の反乱直後の大混乱を思わせ、小スターリンとして絶対権力をふるっていた輝かしい巨頭たちが、「八方から非難攻輩をうけ」、次々と、まるで古雑巾みたいに見棄てられている。東条やムッソリーニ、ヒットラーの末路のように。それと同時に、ソ連を始め緩和政策が宣言され、ポーランドでは政治犯を含む十万の囚人が釈放ないし減刑されるというし、ハンガリーやアルバニアでは大衆の消費生活への広汎な譲歩が発表される。フルシチョフ―ブルガーニン―ジューコフの新三頭政権が厳然と登場して、消費物資生産のかわりに重工業、自由のかわりに団結、生活緩和のかわりに一層の耐乏生活を宣言したあのスローガンの厳めしさは、全線にわたり引っこめられるという退却ぶりで、むしろ壮観でさえある。
 いったいこの「スターリン崇拝」は、現在スターリン批判を「上から」指導している当の人々が、過去三十年の間、国家権力と血の粛清によって築きあげてきた、厖大な特権体制の集中的象徴ではなかったろうか。その大切な象徴を自分の手で、上から叩き壊すという危い芸当を演じねばならなかったということ、しかも大衆から何の低抗もなかった(グルジアは別として)どころか、逸早く大衆の「行き過ぎ」に警告を発しなければならなかったということは、いったい何を物語るだろうか。それはこの「スターリン崇拝」なるものがあらゆる努力にもかかわらず、全ソ連圏の労働大衆の中にちっとも根をおろしていなかったこと、大衆はそれをちっとも信じていなかったこと、むしろ嫌悪と憎しみをもっていて、この鬱積した反撥のバロメーターが危険なほど上昇したためではないだろうか。いずれにせよ、上からの批判は下からの批判を力づけ、誘発しないではおかない。それどころか、一九五三年三月スターリンの死と、ついで発表された緩和政策が、東独労働者百万の大暴動と全東欧の混乱となり、ソ連極北のフォルクタ収容所とエニセイ河口のナリリスク収容所の政治犯数十万の、各三ヵ月にわたる大反乱やその他の事件を誘発し、しかもフォルクタの場合は全国的に広汎な地下組織をもつレーニン主義青年の革命団体「レーニンの真の活動」主義者によって組織的に指導されたことなどを考えると、プロレタリア民主主義的エネルギーが鬱積して一大火薬庫となっている。この労働者国家や東欧諸国に、どんな事態が起るかわからぬとさえ言えよう。ヴィシンスキー攻撃はそれだけではおさまらないで、大衆は当然この恐ろしい不当裁判の一切の真実の公表を要求するであろう。スターリンによって歪められた党史は書き改められるというが、大衆はこの三十年間に起った国内的国際的事件に関する一切の真実と論争の公表を迫るであろう。すでにヨーロッパやアメリカでは、あの有名な粛清裁判調査委員会(ジョン・デューイー委員長、一九三七年)にならって、全粛清裁判の国際的調査委員会組織の動きがあり、保守的で有名なアメリカ共産党さえ、四月一日の党機関紙ディリー・ワーカーの社説で、「われわれはハンガリーとソ連における調査を完全的にやること、不法行為にたいする責任者は、たとえどんな高い地位にあるものでも、これを糾明することを要求する権利をもっている」と主張し、党首フォスターは、「労働者はこの問題について知らされる一切の権利をもつ」と叫んでいる。(フォルクタとナリリスク暴動については、「スターリンの囚人収容所生活とフォルクタの大ゼネスト」のパンフレットを参照されたい。)
 スターリン崇拝の崩壊によって、トロツキーが大きくクローズアップされてきた。トロツキーはわが国では、スターリン主義の伝統しかもたない日本共産党によって、あらゆる罪悪の代名詞となり、裏切り者の権化とされてきた。では、いったいどんな悪いことをしたのか、ということになると、殆ど何も知られていない有様である。スターリンに対するトロツキーの死闘の歴史にはいるまえに、スターリン個人崇拝で象徴された官僚独裁制にたいする、トロツキーの闘争に、一言触れておきたい。彼はスターリニスト的官僚独裁を「裏切られた革命」その他の著書や論文で鋭く分析し、これはスターリン個人の問題ではなくて、恐るべきロシアの後進性と貧困、国際革命の敗退、帝国主義に包囲されたソ連の孤立、という暗澹たる条件から生れた、結局は過渡的な産物で、その唯一の関心は特権階層としての自己の利益を保持することである、ソ連労働者はこれを政治的革命によって打倒しなければならない、新らしい貴族と官僚をソヴィエトから叩き出し、ソヴィエトを民主化しなければならない。ソヴィエトの民主化は、ソヴィエト諸政党を合法化することなしには不可能である。そして、世界革命の新たな発展は、ソ連労働者の革命的昂揚を刺戟するとし、その政治革命の綱領を規定している。(「裏切られた革命」、「過渡綱領――第四インターナショナル基本綱領」その他参照。)
 なるほど、レーニンとトロツキーは一時共産党以外の政党を禁止したにはしたが、それは内乱、経済封鎖、全国的饑餓、外国の軍事干渉等の言語に絶する非常車態に追い詰められて、「止むをえない叫時の悪」として採った非常手段であったのである。そのときでさえ、党内民主主義が健在していて、分派活動が自由に活発に行なわれ、ある程度この欠陥を補っていたのである。ところがスターリンはこの「止むをえない一時の悪」に過ぎなかった非常措置を永久的原則としてしまい、現在もそうなっているのである。

1 永久革命論
 トロツキーは死ぬまでスターリンの政策に対立して闘ったが、二人の間の一切の対立は、せんじつめれば一国社会主義論と永久革命論の対立であったと言えよう。これはトロツキーが一九〇五年の革命以前に、ロシアの来るべきブルジョア民主主義革命のために打ち立てた理論であって、三つの要素がある。
 (1) 資本主義が一全体としての世界経済を確立している今日の帝国主義時代には、後進国では封建的な、資本主義前的な関係と最も近代的な資本主義的関係がいっしよになって存在している。これをトロツキーは複合的発展の法則と呼んだ(角川文庫「ロシア革命史」第一巻第一章参照)。これらの国が資本主義的発展をとげるには、ブルジョア民主主義的革命をやらなくてはならぬが、その中心任務は、帝政打倒、農業革命、外国帝国主義からの民族独立、八時間労働制等である。では、だれがこの革命を指導するか? 人口の圧倒的多数を占める農民は、この闘争で重要な役割をつとめる。「労働者と農民の同盟がなかったら、民主的革命の任務は解決されないばかりか、真剣に提起されもしない。だが、この二つの階級の同盟は、自由主義的ブルジョアジーの影響にたいする徹底的な闘争を通してのみ、はじめて実現することができる」(「永久革命論」一九二九年、近く邦訳)。歴史が証明したように、プチ・ブル階級である農民はどんなに革命化しても、共通の綱領をもった独自の政党をもったり、全国的な闘争を組織することはできなくて、都市の労働者か、でなかったらブルジョアジーに従うしかない。後進国の民族ブルジョアジーは、生まれ出る時からすでに地主階級や外国帝国主義と密接に結びついて、両者にたいする闘争を組織することはできないばかりか、労働者と農民の革命的攻撃の前には、彼らを裏切って地主や外国帝国主義と結ぶ。だから、「労働者と農民の革命的同盟は、共産党によって組織されたプロレタリア前衛の政治的指導のもとではじめて考えられる。これはまた民主的革命の勝利は、農民との同盟に基礎をおき、真っ先に民主的革命の問題を解決するところの、プロレタリアートの独裁を通してはじめて考えられる」(同上)。この点で、スターリンの四民ブロック、人民戦線、民族戦線等の階級協調主義と根本的に対立した。
 (2) 農民と同盟して政権を獲得した労働階級は、直に民主的革命の任務を解決するが、これといっしょに、必然的に銀行、交通機関、重要産業、外国貿易業の国有化という、社会主義的任務に直面させられる。「民主的革命は直に社会主義的革命に成長移行し、こうして永久革命となる。」これはスターリンの「革命を民主的段階と社会主義的段階に機械的に切り離し、まず民主的段階に限定し、長年月の建設の後、はじめて社会主義的段階に移る」という、段階革命主義と激しく衝突した。
 (3) だが、一全体としての世界経済が支配している今日、孤立した一国内で社会主義革命を完成することはけっしてできない。ブルジョア社会の矛盾は、生産力の発展が民族国家と私有財産制という小っぽけな反動的な枠と衝突するために起るのだ。その一方だけを廃止する半解放だけでも、むろん生産はある程度増大するが、それとともに矛盾も拡大されて、やがて爆発する。一国で始った社会主義革命は、必然的に国境を越えて国際的革命に転化し、国から国へと拡大し、地球全体に勝利するまで停止しないであろう。一国社会主義は反動的な、プチ・ブル的ユートピアである。――以上が裏切りの象徴のようにいわれた永久革命の輪郭であって、すべての重大な国内・国際問題で、一国社会主義論と激突したのだった。

2 ちょっと五ヵ年計画
に触れると、計画経済や工業化のアイディアはスターリンが考えだしたもののように言われてきたが、これはヒットラー戦の勝利を独占したのと同様、とんでもない大嘘である。トロツキーはすでに一九二三年四月の党大会に「国を工業化し、農業集団化への道を開くように、単一の経済計画を立てるためのテーゼ」を提案し、さらに一九二五年には、「ロシアは何処へ行く」という著書の中で、一層詳細な綱領をしめして、強く主張した。スターリンはこれをはじめは無視し、つぎには非難し、攻撃したが、結局六年後になって、始めてこれを実施したのである。

3 第二中国革命
 トロツキーとスターリンが初めて死闘を演じたのは、一九二六年―二七年の第二中国革命であった。スターリンによると、中国の民族ブルジョアジー、労働者、農民、都市のプチ・ブルジョアジーはみな外国帝国主義に抑圧されているがゆえに、共に反帝国主義闘争に立つことができる、ここから四民ブロックの反帝国主義的民族統一戦線の可能性が生れる、中国共産党はこの四民ブロックを守るために、無条件で国民党に入党し、その規律に服さねばならぬし、国民党内部での独自の活動は抑制しなければならぬ、民主的革命の限界から一歩でも踏み出すことは、段階の飛躍であって、ブルジョアジーや将軍たちを刺戟して、四民ブロックを弱めるからいけない、とされた。スターリンは蒋介石を同志として扱い、国民党を友好的団体としてコミンターンに加入させた。トロツキーはこの階級協調政策に真向から反対し、帝国主義の搾取はかえって中国国内の階級対立を激化し、民族ブルジョアジーを反動的にする、彼らとの協調でなく、彼らから独立し、これとの闘争を通してはじめて帝国主義との闘争を遂行することができる、四民ブロックは労働者と農民をブルジョアジーに従属させ、前者を抑圧することであって、予め革命の敗北を決定することだと主張し、共産党は即時国民党から引揚げよと要求した。一九二七年三月、蒋介石が上海に迫ると、トロツキーは彼のクーデターは切迫したと叫び、警鐘を乱打した(二七年四月三日、党委員会に提出した論文「中国革命の階級的関係」。この論文はスターリンによって禁止された)。一方スターリンはこれを非難した四月五日の演説で、「蒋介石は規律に服している。国民党は……一種の革命的議会である。いったいなぜクーデターを行うというのか? 蒋介石は軍隊をもっているが、これは帝国主議者にたいしてしか向けられないものだ」と断言し、最後の瞬間まで上海労働者を安心させ、武装解除しておいた。それからたった一週間、上海の共産党が蒋介石歓迎の準備に没頭していたとき、蒋介石は突如クーデターを敢行し、上海労働者を血の海に殲滅した。この嘘みたいな大悲劇は、一九二七年十二月十一日、ソ連共産党第十五回大会でチタロフが詳細報告している(拙訳「中国革命」中央公論社刊)。武漢その他のクーデターも同様な関係で起り、こうして勝利的な第二中国革命は次々に内部から武装解除された上、叩き潰されてしまった。スターリンはこの惨敗にたいする左翼反対派の批判を封ずるため、秘密警察を動員して、弾圧を行ない、大量逮捕、追放に処し、トロツキーも翌二九年一月、アルマ・アタへ流刑された。
 第二中国革命は、民族ブルジョアジーとの階級協調と段階による民主的革命に抑えるというスターリンの政策によって惨敗し、消極的に永久革命の正しいことを証明した。第三中国革命は、スターリンが強要した階級協調政策―国共連合政策によってでなく、スターリンの強要を拒否して蒋介石と手を切り、これと戦うことによって勝利した。勝った毛政権は、スターリンや毛沢東が説いていたように、民主的段階に止ったり、「官僚的資本」だけの国有化に止まることはできなくて一切の重要な産業を国有化し、外国貿易を独占し、計画経済を実施する等、次々に社会主義的任務をとりあげざるをえなかったし、そうしたからこそ勝利したのであって、第三中国革命の勝利は永久革命の正しいことを積極的に確認したのである。

4 極左的政策への急転回。ドイツ革命の悲劇
 一九二九年の世界恐慌はドイツ経済を破壊し、ヒットラーのナチスを抬頭させた。だがドイツには社会民主党(主として大企業労働者)と共産党(主として失業者)に指導されたドイツ・プロレタリアートが健在していた。一切は、この真っ二つに分裂した労働階級をどうして急速に反ナチ戦線に統一するかにかかっていた。スターリン支配下のコミンターンとドイツ共産党は、スターリンの社会ファシズム論(社会民主主義はファシズムの一翼である)にもとずいて「下からの統一戦線」を頑固に固執し、組織と組織の共同戦線を拒み、社会民主主義を社会ファシストと罵り、彼らこそ一ばん主要な敵である、ヒットラーを倒すには、まず彼らを倒さねばならぬと叫びつづけた。ファシズムの脅威が増大すると、労働者の憎悪をファシストに向って爆発させるかわりに、社会民主党員に向けて必死になって煽り立てた。テールマンは「工場や労働組合の地位から社会ファシストどもを追い出せ!」と呼びかけ、共産党自衛隊は「工場や職業紹介所、徒弟学校からファシストどもを叩き出せ!」と怒号し、小学校の児童にまで、「学校や運動場で小ツエルギーベルども(つまり社会民主党員の子供たちをだ! 筆者)を叩きのめせ!」と煽動した(共産党児童機関紙「太鼓」)。この「太鼓」のスローガンは、共産党ピオニールの統一スローガンとなっていた。
 当時トルコのプリンキポに追放されていたトロツキーは、世界情勢を決する鍵はドイツにある、正しい政策によって共産党と社会民主党が共同戦線を結んだら、この瞬間に「人間の埃り」にすぎないファシストにたいする勝利は殆ど達成されたも同然である、プロレタリア・ドイツとソ連の同盟は、全人類の運命を決定する、だが、もしも共産党が過った政策によってこれに失敗するなら、それはひとりドイツ共産党だけでなく、コミンターンの「八月四日」となるであろうと警告。社会ファシスム論に真向から反対し、ファシズムは絶望化したプチ・ブル階級の大衆組織であって、共産党や社会民主党、労働組合、議会等一切の民主的組織制度を粉砕するための反革命の軍隊組織である。だが、社会民主党や労働組合は、労働階級の組織であって、その幹部はこの組織のおかげで存在できる。だからどんなに反動化してもこの組織を破壊することはできない、ナチスの襲撃のまえには、トップのあるものは逃げだしても、逃げ出さぬ大部分のものはこれを防衛せざるをえない、ここに反ナチ共同戦線が生れる絶対の条件がある。「下からの共同戦線」は、君たちの指導者と組織をすててわれわれの指導に従うならよし、でなかったら共同戦線は拒否するということであって、それは共同戦線でなくて、共産党指導の単一戦線を強要する微慢な、官僚的最後通牒である。共産党は、レーニンの指導下にコミンターン第三回・第四回大会が決定した共同戦線――公正な批判の自由を確保し、だれもが納得する具体的問題について共闘する組織と組織とめ共同戦線を、直ちに社会民主党に申込め、「別個に進み、いっしょに撃て!」と叫び、その実際的な綱領をはっきりとしめした。(「コミンターンの転換とドイツの情勢」一九三〇年、「ドイツ―国際情勢への鍵」一九三一年十一月、「ドイツ労働者への手紙」一九三一年十二月八日、「次は何か」一九三二年一月二十七日、「唯一の道」一九三二年九月十三日、「ドイツ・プロレタリアートの悲劇」三三年四月八日、「ヒットラーはいつまでつづくか?」三四年一月。以上は「次は何か」 (創文社)に収録されている。)
 ドイツ共産党首テールマンはこれを攻撃してつぎのように言った。
 「トロツキーはそのパンフレットの中で、ナチズムはどうして破ることができるか? という問にたいし、相も変らずたった一つの答をあたえている。曰く、『ドイツ共産党は社会民主党と協定しなければならぬ』と。トロツキーはこの協定を結ぶことこそファシズムにたいしてドイツ労働党を救う唯一の道であると考えている。共産党は社会民主党と協定を結ぶか、でなかったらドイツ労働階級は十年二十年の間絶望である、という。これこそ完全に破滅したファシスト、反革命家の理論である。この理論こそは、トロツキーが反革命的宣伝にささげたここ数年来にでっちあげた理論のうちでも、最も悪質な、最も危険な、最も犯罪的な理論である。」(一九三二年九月、コミンターン執行委員会第十二回総会におけるテールマンの演説)
 一九三〇年、トロツキーは世界失業問題をソ連の五ヵ年計画と結びつけ、長期クレジット等の広汎な計画を立てよと要求したが、さらに一九三二年一月これをくりかえし提唱した。「われわれは第二次五ヵ年計画と関連し、それの補足として、ソヴィエト経済とドイツ経済との間の共同の、広汎な計画を作成することを提唱する。何十何百の最大の工場が全力をあげて活動することができるだろう。ドイツの失業者は、ただこの二ヵ国だけでも、あらゆる方面から抱擁するところの計画経済を基礎として、完全に一掃することができるだろう。この一掃には二年ないし三年以上はかからぬだろう。……ソ連政府はドイツの労働団体、何よりもまず労働組合とドイツ技術の進歩的代表の助けによって、真に雄大な展望を開くことができる。完全に実際的な計画を作成することができるし、また作成しなければならない。ドイツ国民経済とソヴィエト国民経済の自然的・技術的・組織的資源資力をむすびつけることによって開かれる、そうした可能性にくらべたら、賠償とか、補足的な税の小銭とかの、一切の“問題”は、どんなに小っぼけなものに見えるだろう……二年以上前にわれわれはこの問題を印刷して提起した。するとスターリニストたちは、社会主義と資本主義の平和的共存を信じているのだとか、資本主義を救済したいと思っているのだとかと、盛んにわめきたてた。」(「次は何か?」)
 最後まで分裂させられていたドイツ労働者は、ついに抵抗一つせず、ヒットラーのために粉砕されてしまった。スターリンの政策は終始一貫、ドイツ革命を叩き潰すことに向けられていたと言っても過言ではない。

5 第四インタナショナルの創立
 ヒットラーの勝利と弾圧に狼狽したコミンターンは、三月五日、「全世界の労働者へ」のアッピールを発表し、いままでの「社会ファシズム論」や「下からの共同戦線」にはすっかり頬かむりして、各国共産党に向って直ちに社会民主党へ共同戦線を申しこめと勧告、共同戦線が実現したら「共同戦線の間は社会民主主義団体にたいする一切の攻撃を放棄する」ことを指令した。トロツキーはこれを激しく批判し、「自分の同盟者を批判することを拒むことは、直接に、即時に、改良主義への屈服にみちびく。」「……社会民主党にたいする一切の攻撃(!)を放棄すること――何という不面目極まる公式か!――は政治的批判の自由、言いかえれば革命的政党の主要任務を放棄することである。」「……はっきりと、明確に、公然と言わねばならぬ。スターリニストはドイツにおいて自己の「八月四日」をもったと。今日以後、進歩的労働者はスターリニスト的官僚の支配の時期を、ただ身を灼かれるような屈辱感と、憎悪と呪咀の言葉をもってしか口にしないであろう。公式のドイツ共産党は死の宣告をくだされた。いまから後、ドイツ共産党はただ分解し、崩潰し、真空の中へ溶け去るだけである。ドイツ共産主義はただ新らしい基礎の上にのみ、新らしい指導部をもって再生することができる……ドイツ・プロレタリアートはふたたび起ちあがるだろう。だが、スターリニズムは断じて否である。敵の恐るべき打撃のもとに、進歩的なドイツ労働者は新らしい党を樹立しなければならぬだろう。トロツキストはこの活動に全力をかすであろう。」(「ドイツ・プロレタリアートの悲劇」一九三三年十二月。)

6 第四インターナショナルの誕生
 こうしていままで左翼反対派としてあくまでコミンターンと共産党の復活に死力をつくしてきたトロツキーは、ここにはじめて第三インターナショナルの死を宣言し、「第四インターナショナルを組織せよ……全世界の国々に新らしい共産党を組織せよ」というスローガンを掲げた。第四インターナショナルは一九三八年九月三日、スイスで、十一ヵ国の代表三十名によって正式に決定された。創立大会に直接代表を送りえない所属団体は二十ヵ国におよんだ。トロツキーの有名な「資本主義の死の苦悶と第四インターナショナルの任務――過渡的綱領」は、第四インターナショナルの基本綱領として正式に採択された。〔本書一○三頁を参照)

7 人民戦線のカラクリとフランスとスペインの革命の裏切り
 人民戦線はいまでも一部では一種の万能薬みたいに考えられていて、このレッテルのもとにスターリンがフランスとスペインの勝利的革命を裏切り、または武力弾圧して、壊滅させ、結局第二次大戦に駆りたてた事実を知らされないでいる。そして現にいまフルシチョフたちによって、おなじレッテルのもとにさらに大規模な国際的裏切りが用意されつつある。新たな破局を防ぐために、わたくしたちは人民戦線の実際のカラクリをはっきり知っていなければならぬ。紙数の関係で要点だけに止めるが、なおドイッチャー著「マレンコフ以後」(光文社刊)の注釈を参照されたい。両国の政治的危機の激化とともに、自由主義的ブルジョア政治家さえ国民の支持を失い、プチ・ブル大衆は急速に彼らを見棄てて急進化しつつあった。正しい政策は、この傾向を助長し、大衆をブルジョアジーにたいする幻影から最後的に解放することであった。ところが、スターリンに指導されたフランス共産党は、社共の無批判主義の――つまり馴れ合い主義の――共同戦線で満足しないで、国民の不信と憎悪の的となっていた自由主義ブルジョア政治家の急進社会党領袖を、この無批判戦線に引きこむ運動を始め、ついに三五年、三党の「人民戦線」を結成した。スペインでも同様であった。これはブルジョア政治家の欺瞞に幻滅して、これから離反し、革命的な出口を模索しつつあった国民大衆を、もう一度その欺瞞の首縄の中へ引きもどすことであった。一九三六年六月のフランス大ゼネストと、七月のスペイン労働者・農民の武装蜂起により、両国の全国家活動は労働階級の手中に握られた。ブルジョア政治家は国民から完全に孤立して、無力な影法師と化した。スペインでは、ブルジョアや地主さえ彼らを見すててフランコの側に立った。だから、この一握りの亡霊たちを最後的に掃きすてて、階級対階級の立場に立ち、労働者の握っている権力を集中し、組織することが必要であった。ところが、フランス共産党はブルジョア政治家の影法師が逃げ出し、人民戦線(ブルジョアとの!)が割れ、ひいてはソ連と資本主義フランスの友好関係にひびがはいることを恐れて、戦闘分子を迎え、ゼネストを経済的要求で中止し、三六年末には、反動的ブルジョアジーをも含む「フランス戦線」を提唱し、最も露骨な社会帝国主義者になり下り、大軍拡案を支持し、党首トレーズは鳴物入りで進んでフランス軍隊にはいったのである。スペインでは、支配階級からも大衆からも見放された一握りの亡霊たちとの人民戦線を救うために、ソ連に支持された共産党は次々に左翼の同盟者を弾圧し、ソ連の武装した政府突撃隊を使って労働者の武装を解除し、民兵や農民委員会を解体し、トロツキスト、POUM〔*〕党首ニンやその全執行部を逮捕、無数の戦闘的労働者とともに投獄、ニンはじめ多数の革命家を虐殺した。こうして二つの革命は内部から破壊され、第二大戦への道を開いた。両方とも、社会主義革命ははるかの未来に追いやり、民主的段階におさえ、戦闘的労働者・農民を抑制乃至武力弾圧して、ブルジョアジーとの同盟を死守する政策であって、中国政策のくりかえしであった。この間のトロツキーの輝かしい闘争の論文は、いま邦訳紹介されつつある。

9 第二世界大戦
 第二世界大戦に関連して、スターリニストの政策は一国社会主義を中心に、猫の眼のようにくるくる変った。一九三五年コミンターン第七回大会では、ドイツ・ファシズムが最も反動的な敵だと規定されたが、三九年独ソ不可侵協定(ドイツ社会民主党との一時的協定に反対したスターリンは、ヒットラーとの「恒久的」同盟に追いこまれたのである!)では、イギリス金融資本が世界で最も反動的だとされた。四一年対ソ戦が開始されると同時に、米英仏の戦争の無条件支持を要求し、帝国主義戦争は一夜で反ファシスト解放戦争とされた。(クレムリンの原爆反対運動も、これと全く同然である!)。トロツキーは、「戦争に関する第四インターナショナルのテーゼ」(一九三四年五月)、「来るべき戦争の性格」(一九三八年)、「戦争におけるソ連」(一九三九年)、「帝国主義戦争とプロレタリア世界革命」(一九四〇年)その他の論文で、「祖国防衛主義」や「民主主義の欺瞞を徹底的にばくろし、帝国主義者にたいする闘争において、プロレタリアートは労働者国家を断乎として擁護するが、ソ連の帝国主義的同盟者たちの同盟者とはならない。われわれはソ連の国有財産と計画経済を防衛するが、寄生的官僚と彼らのコミンターンにたいしては仮借ない闘争を行う。これはわれわれの戦争ではない、われわれは帝国主義戦争を資本家にたいする労働者の戦争、世界社会主義革命に転化しなければならない」と主張した。
 彼はトルコ、フランス、ノールウェイと、ソ連官僚に追われながら第四インターナショナルの育成に死力をつくし、ついに一九四〇年八月二十日、メキシコ市交郊外コヨアカンの私邸で政敵ギャングの手先にかかって倒れた。彼の死後も、第四インターナショナルは困難な状況を通して発展し、日本以外ほとんど各国に支部をもっている。終戦後から今日までの彼らの政策、活動について述べるべきことは非常に多いが、いまは割愛しなければならない。最後に一つだけ触れておきたいことがある。

10 ソ迄共産党の性格と「長くつづく拍手」のカラクリ
 トロツキーはソ連共産党の官僚化を鋭く指摘したが、その実際は果してどうかを、第二十回大会の公式報告で探って見よう。公式の政策が一八〇度の急回転をする毎に、自動人形みたいに拍手を送る大会の代議員諸公とは、一体どんなものかを知ることは、面白いだけでなく、必要である。引用はすべて合同出版社刊「第二〇回大会」第一分冊からである。
 フルシチョフの報告によると、ソ連には「戦争の結果、多くの婦人が未亡人になった。彼女たちの肩には、子供を育てるという困難な任務が覆いかぶさっている。多くの家庭では、両親とも働いていて、子供の養育に時たましか注意をはらうことができない……こうして数多くの子供たちが放任されたままになっていて、屡々悲しむべき結果がひき起されている」(一一六頁)。「……それにも拘らず、わが国の重要な食糧品や工業品の生産は、増大しつつある需要にいぜん立ち遅れている。一部の都市や住宅地では、肉、牛乳、バター、果物等の供給が、いまでも不十分であり、時々じゃがいもや野菜の供給が途絶えることさえある」(一〇四頁)。「賃金体係と賃金査定に多くの無秩序と混乱がある……低給労働者とならんで、数は少いがどんな理窟をつけても正当と認められない、過分な賃金を支払われている高給職員のカテゴリーがある」(一〇五頁)。つまり、労働者ならぬ高級職員とならんで夫婦共稼ぎでもろくな家庭生活すら営みえず、超過勤務手当を希望こそすれ労働時間の短縮を手放しで歓びえない、利害関係の異る広汎な貧民層があることがわかる。
 「われわれの学校制度の大きな欠陥は、授業がある程度実生活から離れていることである。卒業生は実際活動の準備が十分できていない」(一一五頁)。「高等教育施設と実践活動や生産との結びつきが弱い」(一一九頁)。学校教育と実際活動や生産との結びつきが弱いのは、日本でも明白なように、教育をうけたものが直接生産活動を、つまり労働者になることを嫌って、ホワイトカラーの高給職員的生活に向うからであり、国家生活が官僚化している証拠である。では、それは党にどう反映しているか?
 「党は大衆との結びつきをいっそう拡大し、国民とさらに親しくなった」(一四一頁)とフルシチョフは豪語する。果してそうだろうか? 「一連の国民経済部門では、その各部門で働いている党員のかなりの部分が、生産の重要部署に直接つながる仕事に従事していないのは正常でない。例えば石炭工業の各企業には約九万人の党員がいるが、地下労働に従事しているものはわずかに三万八千人である。農村地区には、三百万人以上の党員及び党員候補がいるが、直接コルホーズ、機械・トラクター・ステーション、ソフホーズで働いているものは半分以下にすぎない」(一五八頁)。これは党が直接筋肉労働者や農民の大衆の中に根をおろしていず、それから浮き上っており、大衆は党に背を向けていることではないか。大会資格審査員長の報告によると、コルホーズの党組織は八万十五あるが、その中二六名―一〇〇名未満(恐ろしく少ない!)の党員をもつのは六千以上だという。つまり、大部分は二五名以下で、七三五六のコルホーズには全然党組織がなく一万八五〇では三名ないし五名(!)しかいない(二〇〇頁)。農民からの絶望的浮き上りだ!
 では、その浮き上った党はどうか? 「長年にわたってわが党幹部が経済建設の実際問題の解決にたいする責任感を十分身につけるように教育されて来なかったことを認めなければならない。このためお役所的な、官僚主義的な経済指導がひろく普及する結果となり、多くの党活動家が……生きた仕事を屡々お喋りにかえ、うず高い文書の山に埋れる結果となった」(一四八頁)。「多くの党活動家やソヴィエト活動家の中に、引きうけた義務にたいする無責任な態度が根をおろしている……ところで、これらの義務の遂行は、いったい点検されているだろうか? 否、原則として(!)、点検は行なわれていない。唯一人義務の未遂行にたいする責任を物質的にも道徳的にも負っていない」(一五二頁)。仕方がないから、「計画を遂行、あるいは超過遂行したなら給料をふやし、遂行しなかったら、給料を下げなくてはならない」(一五四頁)。これでは、日本の腐った官僚とどこが違うというのか! では、ソヴィエトは? 「ソヴィエトの代議員は選挙人に自分の活動を報告する義務がある。ところが、近年、ソヴィエト代議員とソヴィエト執行委員会とがたまにしか選挙人に報告しないし、それも主として選挙運動の間だけというよからぬ習慣がひろがっている。また憲法はその地位に相応しくない代議員はリコールできるときめているが普通この規定が選挙人の信頼にこたえなかった代議員に適用されていない。」だが、なぜそうなっているかという根本問題については一言も語らず、生臭坊主の説教みたいなことをくりかえすだけである(一三〇頁)。党とソヴィエトが完全に腐り切って官僚化していることが、まざまざと目に見えるではないか!
 このような性格の党から選ばれて(!)第二〇回大会に集った、決議権をもつ一三三五名の代議員の性格はどうか。この中七〇五名、つまり約五三%は党、ソヴィエト、労組、コムソモールの「主としてお喋りと文書の山に埋っている」専従者である。直接生産に従事している労働者は僅に二五一名、農民は一八七名である。この中には技術者や事務家も含まれているから、筋肉労働者農民はさらに少ないであろう。しかもこれは、本大会のそれぞれ二・七倍と二・〇倍だという! この極少の比率はまた、選出された労働者や農民の選良的性格を説明してくれるであろう。全党員は正補合して七二一万五〇五人だが、この中、高等、準高等教育をうけたものは一四・七%にすぎない。ところが決議権をもつ大会代議員員中、高等、準高等教育をうけた代議員は八七四名、約六六%を占めている。中等教育をうけたものを加えても、全党員の三六・九%で、これが大会代議員の約八〇%を占めることになる。
 党全体が勤労大衆から浮き上っている(つまり、大部分の国民大衆は政党をもたぬというわけだ)のに、大会代議員となると、さらにその中でもトップの、出世盲者養成機関化した高等教育をうけた分子、一般に恐ろしく腐敗官僚化した組織に巣喰う官僚分子が大部分を占めているということである。こんなものは勤労大衆の代表ではなくて、特権官僚の代表でしかない。恥も外聞もない自動人形的拍手の秘密は、まさにここにあるのだ(以上二〇一―二〇二頁)。
 もう一つ興味深いのは、代議員諸公の年齢である。アメリカの前駐ソ大使カークは、「ロシアの国民は若い。平均は恐らく三一―三五の間であろう」と感嘆している(ルック誌、一九五二年四月二十二日号)。ブルガーニンは一九五五年七月四日、党中央委員会総会への報告で、青年は工場の「労働者の約半数を占めている」と言っている。これはソ連プロレタリアートの素晴らしい偉力であって、この若い清新な力が政治にどう反映されているかは、最も重大な問題であると思うが、大会資格審査委員長の報告によると、「決議権をもつ代議員の中、四〇歳末満のもの(一体こんな区分のやり方があるだろうか!)は五分の一以上で、二〇・三%、四〇歳以上五〇歳末満は五五・七%五〇歳以上は二四%である」(二〇三頁)。最後に婦人解放は社会主義的発展のバロメーターであるが、婦人代議員は全代議員のわずか一四・二%に過ぎない(二〇三頁)ということは、その限りではブルジョア社会とちっとも変らない。
 クレムリン官僚が乗っかっているソ連共産党とはおよそこのような性格のものであり、フルシチョフたちが報告を行ない、それに自動人形的拍手を送ったのは、三ついう性格の諸公であったのである。ソ連には四千数百万の最も近代的な(マッチ工場なんか一つも存任しないから〕労働階級が建在している。いまはまだ巨大な政治的ゼロと化しているこの輝かしいプロレタリアートの、巨大な背景から浮き上った党大会なるものの性格を、日本の労働者たちは、鋭い労働者的感覚でもってはっきり読みとることができるだろう。そして、彼らが巨大な政治的ゼロから巨大な政治的偉力に転化することに、全幅の支持を惜しまないであろう。
 一九五六年四月二十九日

〔*〕 POUM マルクス主義統一労働者党。カタロニアに主力をおく党でトロツキズムに近いとみられていた。


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