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国際革命文庫  3

日本共産党批判

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電子化:TAMO2
●参考サイト
「さざなみ通信」
「JCPウォッチ」
「日本共産党を考えるネット」
「日本共産党批判」
――はじめに――


目次

はじめに

レーニン主義の綱領のために………………………………沢村義雄
  五七年日本共産党党章草案への若干の原則的批判
 再刊(一九六〇年九月)にあたって
 序論
 第一章 プロレタリア世界革命の路線と平和共存・一国革命の路線
    一、国際主義の基本的立場
    二、「平和共存」反対
 第二章 当面する日本革命の性格
 第三章 プロレタリア独裁か人民民主主義権力か
    一、「連合独裁」と「プロレタリア独裁」
    二、「統一戦線政府」のスローガンについて
    三、議会主義反対! ソビエト権力へ
 第四章 暴力革命か・平和革命か

日本共産党はどこへ行く………………………………織田 進
 第一章「民主主義の党」にむかって
    a 61年綱領の総括
    b “自主独立”への道
    c 「民主主義の党」へ
 第二章 民主連合政府の幻想
    a 三つの虫の良さ―民主連合政府はどうやってできるか―
    b 良心的ブルジョア政府―民主連合政府は何をするか―
    c 民主的幻想をすてよ―民主連合政府とわれわれの立場―
 第三章 一二回大会路線の本質
    a 権力の強化をめざす規約改正
    b 人民的議会主義の綱領への貫徹
    c 日本共産党はどこへ行く


はじめに

 すでに三版をかさねた有名な「沢村論文」――レーニン主義の綱領のために――が、新時代社の書庫で品切れとなってから久しい。おりしも、参議院選挙の激戦のなかから、「沢村論文」の再版をもとめる強い希望が寄せられている。
 こうしてわれわれは、「沢村論文」第四版を、装丁を改めて刊行することにした。
 今日、多くの活動家が、その急進的感性から出発して、たいした苦労もなしに「日本共産党は日和見主義である」という政治的結論を下しているのが見受けられる。六〇年闘争以前には、この一言を発するためには、幾晩もの眠れぬ夜ののちに下す決断が必要であったし、しかも、検討に検討をかさねた学習をもって得た理論的確信にたったあとでさえそうであった。時代は変ったのである。
 活動家が感性から出発するのは悪いことではない。そうあるべきですらある。だが、革命へむけた長征の途上には、いまからでは予想のできない幾多の難関がまちかまえている。あまりにも早く挫折しない保証は、おのおのの革命的感性に強固な内容と形式を与える理論的確信だけが提供するのである。「日本共産党が日和見主義である」というだけではなく、「したがって彼らはかならず敗北する」と予示しうるだけの理論的根拠を、すべての活動家のものにしなければならない。
 「沢村論文」が提起した批判の正しさは、今日の日本共産党批判のためにいささかの蛇足を必要としないほど、歴史の試練を生きぬいてきた。安心して読めるもの、というのはこのようなものを言うのであろう。
 新左翼の時代が終り、まさに日本共産党と真の革命派の対決の時代が始まっているときに、「沢村論文」を活動家諸君の手もとに武器として送り出すことは、大きなよろこびである。

 もうひとつの論文「日本共産党はどこへ行く」は、今日の日本共産党の歴史的運命に関する若干の分析と、その政策についての批判をからませている。第二章は、七三年五月一日号「世界革命」論文を、若干削除したものである。今日の共産党の政治姿勢を批判するうえで、一年を経た論文ではあるが、とくべつに修正する必要はない。ちがいは、一年前には公明党にこびを売っていたのが(第二章ではそう書かれている)、今日ではけんかしているというところぐらいだが、どちらにしても政治的動機は同じである。
 われわれは歴史家でもないし評論家でもないから、政治的予測をたてる場合、どうしてもある点から先は、主体的なたたかいが決定する領域にのこされてくる。「日本共産党はどこへ行く」という問についても、読者諸氏が期待するであろうような完結したこたえを用意できないのは、そういった事情があるからである。しかしだからこそ、革命的実践が活動家にとって魅力をもつものとなるのである。結論が宿命的に予定されているような「革命」であれば、「寝て待つ」人間の方が利口だろうということになろう。
 日本共産党は今日、きわめて「巨大」な政治勢力である。だが、その「巨大さ」をおそれてはならない。われわれには、共産党の「巨大さ」の数十倍、数百倍の「巨大さ」をもった労働者・人民の革命的エネルギーが見える。それに比べたら共産党の外見的な「巨大さ」も、くずれはじめた砂上の楼閣である。しかしまた、相手が大きければ大きいほど、それをうちこわし、自らの養分に吸収してしまう仕事も、やりがいのある楽しいものになる。

  一九七四年六月
          《国際革命文庫編集委員会》


「レーニン主義の綱領のために」
――57年日本共産党党章草案への若干の原則的批判――


レーニン主義の綱領のために
――五七年日本共産党党章草案への若干の原則的批判――        沢村義雄

再刊(一九六〇年九月)にあたって

 ここに再刊する論文「レーニン主義の綱領のために」は、一九五七年十二月(従って今から約三年前)に、当時日本共産党京都府委員会の一員であった著者が、日共第七回大会に向けてのいわゆる綱領論争のために、京都府委員会に提出し、翌五八年一月十二日付京都府委員会党内機関紙「府党報」に掲載されたものである(その際は第四章は省略された)。著者は当時五八年二月に予定されていた日共七回大会(実際には七月末に延期された)に向けての五七年後半における京都府党の会議および関西党活動者会議等において、この論文にあらわされた立場を積極的に提出し論争した。その結果五七年十二月の府党会議において七回大会の代議員として正式に選出された。
 しかるに五八年六月、すなわち私が府委員に選出されて一年、この論文が印刷されて半年後、七回大会が目前に迫った時、スターリニスト官僚は、突然この論文を「トロツキスト的」であり、従って「反マルクス・レーニン主義的」であるとして、私への攻撃を開始した。七月に京都府委員会は私への「警告」処分を決定した。その内容は私の「理論活動停止」という前代未聞の処分である。そして党中央は七回大会招集の二日前に私の大会代議員権を一方的に剥奪したのである。それは電話により口頭で通告され、正式文書は一度も与えられなかった。日数からして事実上大会への異議申請は全く不可能とされた。
 実態はかように全党の下部党員大衆にかくされ、背後の官僚機構内部で処理された。十月には府党会議二日前に規約をさえふみにじって私の府委員罷免が行われ、かれらは党会議から私を閉めだした(この間の事情は別紙の、私の「処分への抗議」に概略のべられている)。
 この論文はかくして日共七回大会への参加を許されなかった一つの左翼反対派の原則的立場を表明するものとなっている。七回大会にはおよそ三分の一を占めたいわゆる「社会主義革命」派が存在した。しかしながらこの「反対派」とこの論文の差違は読者には自ら明白であろう。
 当時、今日のマスコミの人気者共産主義者同盟の学生諸君もまたようやく迫害をうけ始めていた。これらの学生諸君の二、三名は大会代議員として出席した。しかしかれらは当時(そして今もある意味において)何らの綱領的立場をももちはしなかった。その名に値する文書はただ一つも残されていないし、実際かれらは直前まで改良主義的「左翼」東京都委員会の最左翼に身をおいていた(約半年間、今日の共産主義者同盟の中心メンバーはわれわれの働きかけに抵抗し、共産党内の分派闘争をすら拒み続けた。かれらは代々木から強制された分裂(六・一にはじまる)によって、分離を余儀なくされて初めて動き出したが、今度は忽ちトロツキズムをものりこえることを主張し始めた。もちろん実際にはその経過が示し、その後の事態も示しているようにかれらはその中間―左翼中間主義―にとどまっているのである。この事態において、このいわゆる「沢村論文」は七回大会当時における日共内のほとんど唯一の革命的反対派の綱領的立場をあらわす文書といえよう。そしてまさにそれ故に代々木官僚は幾多の党章批判文書を「団結と統一」誌上にのせなから、この論文を注意深く除き、そして又著者を大会からボイコットしたのである。
 代々木は第七回大会をもって、党内民主主義の大会と称し、いわゆる「反対派」(「構造改良」派)も又七回大会において党内民主主義の勝利について語った。だが革命的反対派に関する限り、そしてこの論文とその筆者に関しては、それが正規の規約にもとづいて大会参加の権利をかちえていたにもかかわらず、代々木官僚は決してその参加を許さなかったのである。これは七回大会の、また従ってスターリニスト党の本質を明白に示したものに外ならない。
 論文はその後私の所属した細胞の事態を憂えた同志たちによって、第四章を加えて少部数再刊されふたたび党内へ配布された。
 この「沢村論文」に関して、その後スターリニスト官僚は何回かくり返し、その「トロツキズム」に対し悪罵と中傷を放った。しかし論文に対するまじめな批判を著者は殆んど一度もうけとりはしなかった。その一切の批判たるや、即ち、この論文の思想がトロツキズムに一致しており(著者は決してそれを否定したことはないにもかかわらず)、モスクワ宣言に違反するというだけなのである。唯一ともいえる関西地方委員会のガリ版刷りの批判文に至っては、私のアゲ足とりをやるつもりで、実際には私に全く責任のない「府党報」の誤植、脱落をとらえているありさまである(私は論文が印刷された後、直ぐ主要な正誤表を提出しておいたにもかかわらず、かれらは故意にか知らずにか、脱落によってゆがめられた文章を批判している)。
 最近ですら、日共の全国活動者会議の席上、京都府委員峠田は、クレムリンと代々木への追従とお世辞で一生懸命になりつつ、沢村論文を京都府党報に掲載したあやまりについて自己批判している。だが当時私の論文掲載について府委員会はもとより府党のただ一人として掲載そのものに反対する勇気をもちあわせなかったことは明白である。しかも府党会議において私の立場は明白であったにもかかわらず、会議は私を大会代議員に選出したのである。もし論文掲載そのものに反対するものがあったら、それは綱領討議に枠をはめ、党内民主主義を破壊するものとして下部党員から痛烈に反撃されたであろうことは明白である。官僚は当時官僚体制の再編の過程にあり、反対したくともまだその力を十分持たなかっただけである。攻撃はやっと半年後に関西地方委員会から開始された。半年後まで代々木や関西が論文を知らなかったなどということはあり得ない(むしろ私はかれらがよく知っていたことを証明する十分な証拠をもっている)。京都府委員峠田(この官僚制度への徹底した忠勤者、同じく官僚に屈服した府委員某がいみじくも言った如く、中央からどんな綱領草案が出ようと必ずこれに賛成する男)は一体誰に対して自己批判しているのか!? かれはただかつて下部党員の圧力の下で自らが余儀なくされた苦々しい過去を誤ったものとして忘れ去ろうと欲しているにすぎない。そしてかれはその自己批判をふりまわすことによって、代々木への忠勤をみせびらかすと共に、意見をさしはさむ下部党員への脅迫を行っているのである。だが事実によって彼はこの論文が一定の意義をもち得たことを証明してくれているし今もなお意義をもっていることを証明しているのである。
 しかしこのいわゆる「沢村論文」は京都以外では余りにも不当に知られていないようである。それ故に私はこれをここに再刊する価値があり必要があると考えるのである。
 当時この論文は手渡しで、特に学生党員諸君等によって流布され、少くとも学生党員の指導メンバーの若干には明らかな影響を与えた。そしてかなりの程度において革命的左翼のオルグの武器とされたのである。それは若干の所では読者によって増し刷りされたと聞いている。
 しかるに今日ジャーナリズムにのったいわゆる「左翼」、―共産主義者同盟その他―の当時の歴史を扱った文書では、奇怪にもこの論文について殆んど一言もふれられていない。
 黒田一派の歴史を偽造する恥しらずどもがふれないのは当然であろう(黒田は官憲のスパイ活動に自分から協力する活動をなした事実によって革共同を除名されたのである)。
 けれども表面客観的な態度をよそおっている津田道夫(彼はもちろん左翼としての外ぼうさえもない)が、「現代のトロツキズム」という著書において、この沢村論文に一言もふれないのはどういうものであろうか。少くとも一九五七―五八年にわたる日共内の党内闘争においてトロツキスト的反対派がいかなる立場をもって、日共内で論争に介入したかを検討する場合に、この「沢村論文」は決して無視し得ない筈である。近年の日共の内部での意見として出されたトロツキスト的文書は極く少数のものを除いてこの沢村論文をもって最初といい得るし、又最大のものである。それは全学連指導部の代々木との分裂以前半年にはすでに文書として印刷され流布されたものであり、そしてその内容はそれよりずっと前からわれわれによって多くの機会に日共内で表明されていたのである。学生党員の代々木との分裂における理論闘争の諸問題においても、それはわれわれの活動と無縁ではあり得なかった。少くとも関西、特に京都の学生活動家の指導メンバーはこの論文を有力な武器にしていたし、そして全学連の転換における一時期を画した全学連十一回大会においては、まさしく関西の学生党員が主要な理論的推進者であったことは否定し得ない歴史的事実である。
 最近田川和夫著「日本共産党史」が出版された。私はまだ全文を精読し得ていないけれども、ここでもこの論文については一言もないし、日共七回大会をめぐる諸問題に多くのページをさきながら、私の代議員権剥奪がいかになされたかについても一言もない。この共産党史は全体として、すでに代々木と分裂せる左翼全体において常識となっていることから、正しい方向へは殆んど進み得ていないようであるが、ついでにいえば、奇怪なことにこの書物は、スターリニズムの種々の問題の批判にふれながら(たとえば人民戦線論批判、その他)、これに対するマルクス主義の闘争、すなわち一貫してマルクス・レーニン主義を守りつづけたトロツキーや第四インターナショナルの闘争については、殆んど歴史的事実としてすらふれられていない。巻末の註をみよ、そこで極めて注意深くトロツキーの著作の参照はさけられている。そして全学連活動家の代々木よりの脱却においてトロツキズムが重大な影響を及ぼしたこと(それは共産主義者同盟書記長の島でさえ認めている)について殆んど全く言及されていない。この歴史的事実を故意にか主観的にかねじまげたひとりよがりは実際にはまさしく共産主義者同盟の革命的伝統と断絶する主観主義的立場にふさわしいのである(もっとも、田川の著書には、従来から左翼によってなされた日本共産党への批判が多く整理されており、かなり有益な点を含んでいる)。

 本論文はかくしてただマルクス・レーニン・トロツキーの旧知の基本的原則を擁護する以上に出てはいないけれども、日共内の政治的闘争における一つの歴史的文書となっている。それ故著者は再版にあたって、文法上の不正確と旧版の誤植、脱落等を若干なおした以外、原稿通りにとどめておこうと思う。もちろん今日では著者としては当時の制約された条件という理由からも、又その後の闘争の経験からも、多く加筆訂正したいのであるが、そうすることはできないと考える。その代りに二、三の弁明だけは行なっておこう。
 一、この論文は当時官僚統制は危機にあったとはいえスターリニスト党の内部の文書として書かれたが故に、幾多の制約をうけざるを得なかった。たとえば私は国際左翼反対派や第四インターナショナル、すなわちトロツキストの貴重な闘争の教訓について殆んどふれることはできなかった。そして又論文中に私はかなり多くの個所で直接トロツキーから引用し、模倣したけれども、それを明確に示すにとは不可能であった。それは私自身の言葉とされている。だが他方、同時に私は、私の論文を注意深く読んでくれるであろう少数の批判的思考力をもった読者が、スターリニズムの根本的批判と歴史的事実を求めて、真実のマルクス主義の闘争を見出し得るようにところどころで注意を払った。特に第二章におけるコミンターン第三回大会テーゼの引用を選んだのは特にこの配慮からであった。すなわち、初期コミンターンなかんづく三回大会の巨大な意義を、原典へとさかのぼる読者が見出すことを期待し、更にこのテーゼの起草者同志トロツキーの巨大な役割を見出すごくわずかかもしれない可能性を期待したのである。だがこのような配慮は論文全体の均衡を若干きずつけたかもしれない。
 二、主として紙面の量を理由に、私はこの論文を「党章」草案に対する殆んど全く原則的批判に限らねばならなかった(府党報で第四章が省略されたのは主として量の故であった)。それ故過渡的綱領等のより実際的な問題はすべて除かれた。そして又特殊的に巨大な意義をもつ党組織論についても、除かねばならなかった。当時、私としては当面の政治的方針および組織問題、(特に五〇年問題の教訓)についてはそれぞれ別個に書く予定であったが、それは実際には他の機会に若干かいた以外果されなかった。ただし党内の会議ではその点についてもかなり発言したことはもちろんである。それ故に私は府委員罷免に当っての抗議声明において、これらの問題について概略ふれておいた。
 三、当時、日共七回大会へ向けての論争において、私は他のいわゆる「社会主義革命」派と自己の理論の差違をかくしはしなかったが、それにもかかわらず私は党内の力関係からかれらとの一定の共同を得るために、しばしば若干の煙幕をもちいた。それはこの論文にもわずかながらそのあとをとどめている。
 そしてもちろん、当時の実情から、この論文は殆んど純粋に理論的な差違の問題をあつかう形態をとっており、スターリニズムの基礎の解明や、国際的階級闘争におけるクレムリンの位置、あるいは又中国やユーゴの論争のよって来る基盤、更にはトリアッチ理論の基盤について分折することはあえて行なわなかった。読者はこれらの点についてはトロツキストの公然たる文書において見られたい。

 最後に、いうまでもなく、代々木官僚の非難をまつまでもなく、私の論文を導いた指導理論はマルクス・レーニン・トロツキーの教えであり、日本革命的共産主義者同盟の理論的立場である。
 だが、このことはマルクス・レーニン主義をせん称する日本共産党が私を除名する権利をいささかも与えるものではない。事実上もかれらは私の理論的立場を理論闘争と、現実の政治経済闘争の中で反駁することによってではなく、ただ官僚体制への「規律違反」として禁止することによってのみ攻撃したのである。

   一九六〇年九月二六日       著者


序論

 一九四七年一二月以来十年ぶりで第七回大会が開かれる。六全協以来でもすでに二年半を経過する。第六回大会によって採択された規約によれば党大会は毎年一回招集されることになっていた。しかるにそんな規約は全然守られなかった。しかも何等正当な理由もなしにである。敵のはげしい弾圧、党の半非合法化を理由にすることは出来ない。革命党はそのような条件下においてもなおその全党の意志を結集し、隊伍を統一するための努力を続けねばならないのだから。しかもこの理由を認めるとしても、少くともそれは一九五〇年後半以降二、三年にのみ或程度正当化されるのみである。四八――五〇年の間には少くとも何の理由も見出せないし、又その期間こそ数回の大会を開く必要の理由が十分見出される時期であった。
 しかもこの十年は我が党にとって何という十年であるか? 十年の間に我が党にとってばかりでなく、日本労働者階級の闘争にとって完全に一時代の歴史が経過した。
 今日我々はこの十年を総括し、そこから教訓を引出すという重大な任務の前に立たされている。党は長年の分裂と今なお続く方針上の混乱、四分五裂の事実によって巨大な困難に直面している。このためすでに、大会の招集は準備不十分の理由によってか、予定よりも半年間延期された。すでに大会の招集は遅きにすぎるにもかかわらず。
 もし最近十年の如く規約に定められた大会招集が十分の理由なくして延期され、無視されるならば、それは全党体制の危機をもたらす。なぜならば、大会は党の最高機関であり、大会こそが全党の問題に対して最後の決を与え、最大の力をもつのだからである。もし大会が規約によればこれに従属する筈の中央委員会によって、更には実際にはその一部によって(五〇年の如く)その招集を遅らされ、その権限の行使を阻まれるならば、全党の意志は無視され、党の組織体制、民主主義的中央集権は根底からくずされることとなろう。まさしく四八年以降の党の歴史は、この党の組織原則が全てふみにじられた歴史であった。そしてそれに応じて党の大会は全く招集されなかったのである。党の大会を規約に従って招集し反映させることは全党の組織を運営する第一歩であり最も重要なことである。大会の遅延、無視の下で我々は党の規律について正常に語ることはできない。
 だが、スターリン支配の長年月はこれらのことを全党員にとって余り不思議なことと考えさせなくなっいるようである。いかにも少々の遅延などは問題ではないようだ。六回大会以来すでに十年を経過した。ソ同盟共産党の歴史では十八回大会と十九回大会との間には十三年がある。しかも絶対に何らの正当な理由もなしにである。
 レーニン死後のソ同盟共産党の大会の歴史を考察することは大きな興味あることであり、そこから大きな教訓を引き出し得るであろう。だが、それをここで行なう余裕はない。ただ全体としてみれば、大会はまず遅延させられ、常に背後で党機関の行なう官僚的支配の既成事実の前に立たされ、次第に真実の全党の最高意志の表現としてのその本質を失って、ただ官僚的上層部讃美のデモンストレーションへと変質させられた。しかも官僚主義支配はこの大会をすら、自らの支配の邪魔物として、形式的にもあっさりそれを無視してしまったというのがその歴史である。
 わが党においても同じ事が行なわれた。火焔瓶やトラック部隊事件にその著しい表現を見出す党機構の堕落、おそるべき官僚主義支配は、全党の最高機関、大会を無用のものとし、むしろ妨害物としてこれを十年にわたって無視して来たのである。
 だが、かかる支配は決していつまでも続くことは出来ない。今や徳田志田等の官僚主義支配はその頂点においてくずれた。来年の二月には久し振りで党大会は招集される。大会は全党を再びマルクス・レーニン主義の党へと建てなおすべき第一歩をふみ出すか、それとも更に官僚支配の前に屈して、労働者階級解放史上、しばしば繰返された労働者党の堕落へと我が党をおい込むことによって、しかばねをさらすか、その岐路へと立たされている。
 大会はスターリン支配の大会がしばしば示した如く、又、現在も示している如く、お祭り的デモンストレーションであってはならない。満場一致の拍手と不真面目な言葉の上の妥協の大会であることは許されない。現在、日本共産党の内部には、党の基本方針、綱領をめぐってさえ、意見は四分五裂の状態にあるということは決して言いすぎではなかろう。かかる情勢にあって一枚岩の団結を誇示せんとするはかない願望はまずこれを一掃しなければならない。大会はこれらの意見が明確に提出され、整理され、徹底的に闘われる場とならねばならぬ。そしてその中から正しいマルクス・レーニン主義の路線へと進むための適当な手段を見出さねばならない。
 いう迄もなく、我々は出来うる限り党の統一を保たねばならない。だが統一はただ明確なマルクス主義的方針の上にのみあり得る。腐った統一、見せかけの統一は党の生命を殺すであろう。実際に存在する党内の基本的路線における多くの分裂は、これを事実として認めねばならぬ。これを言葉の上での妥協から見せかけの統一の枠内にはめ込むことは党を再び堕落へとつき落すであろう。ましてこれに対し反対し、明確な対立意見をおし進めるものを官僚的に排撃するならば、党は頭のない機械へと堕落する。原則の上においてはただ徹底的な闘争があるのみである。全党はただこの分裂と闘争を正しく把握し、最後まで推し進めることによってのみ、正確な基礎に立った統一をかちとりうるのである。
 党中央委員会は大会に提出する「党章草案」といわれる文書とそれの説明書を発表した。遺憾ながら、我々はこの文書において、徹底した原則的立場、綱領にとって何よりも欠くことの出来ない明確さ、あいまいを許さない正確さを見出すことは出来ない。多くの点において言葉の上での妥協、折衷と見られるものがあり、しかも全体としてははっきりと日和見主義に貫かれている。
 革命党の綱領は宣伝のスローガンでもなければ、都合よく多くの人々をまとめる共同綱領でもない。耳ざわりのよい言葉をつらね、多くの人々に差当って、直ちに受容れられ易い要求を並べることでは絶対にない。階級的な立場から問題をアイマイさを許さない形で提出し、大衆の要求を本質にさかのぼってとらえ、これを実現するための道を革命党として明示すること、革命の実現のための指導の方向を明らかにするものでなくてはならない。「民主主義」や「人民」についておしゃべりをすることは革命党の綱領にふさわしくない。党は問題を階級的に提出しなければならない。綱領は今後少くとも数年にわたる党の基本路線を示すものである以上これは目先の情勢の変化に惑わされたものであってはならない。
 これらすべてにおいて「党章」草案は、革命政党の綱領としての資格をもっていない。
 就中、その中心をなすプロレタリアートの階級的立場が欠けている。
 以下、これに対し私は若干の原則的問題に限って批判をこころみようと思う。


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