第一章 プロレタリア世界革命の路線と平和共存・一国革命の路線
一、国際主義の基本的立場
党章草案綱領の冒頭に言う。
「日本共産党は、日本の労働者階級の前衛部隊であり、労働者階級の各種の組織のなかで、最高の階級的組織である。日本共産党の目的は、日本の労働者階級と人民を搾取と抑圧かち解放し、日本に社会主義、共産主義を実現することにある。」
党の基本的性格を規定するこの冒頭の定義は、マルクス・レーニン主義者の立場からは厳密に言えば正しくない。なぜならば、共産主義者は一国のプロレタリアートの利益を代表するものではなく、国際プロレタリアートの利益を代表する立場に立たなくてはならないからである。
勿論各国の共産主義者は各国のブルジョア及び旧支配階級の勢力に対抗し、国際プロレタリアートの一部としての各国プロレタリアートをその背後に率いて、その階級のために闘わねばならない。しかしながら、それはあく迄も国際プロレタリアートの立場に立って、一国のプロレタリアートの利害をそれに従属させ、世界的闘争の一環としての任務を果さなければならないのである。またそうしなければ日本のプロレタリアートの解放もありえない。本来プロレタリアートの解放の事業は国際的である。もしこのことを忘れるならば、われわれの事業は根底から崩壊するであろう。しかも、高度に発展した資本主義世界経済に結びつけられ世界帝国主義のチャンピオン、アメリカ帝国主義の政策に至る所で左右されているわが国においては、一層そうである。
「共産主義者は……プロレタリアの種々の民族的な闘争において、全プロレタリアートの共通の、国籍に左右されない利益を強調し、おしつらぬく……」(共産党宣言)
しかるに、草案は、そして最近の党の全コースは、このプロレタリア国際主義の基本路線に沿っていない。もちろん、日本の共産主義者は国際主義の立場に立ちつつも、就中その一部としての日本のプロレタリアートの利益を代表せねばならぬ それゆえに問題は冒頭の一句を許すか否かに集中されるわけではない。しかしながらまた綱領はその性質上誤りを許さぬ厳密性を要求するがゆえに、出来うる限り正確を必要とする。第四回大会で採択された規約においては、前文が「日本共産党は日本における労働者階級の組織された前衛隊……」となっていた。これとても言葉の不完全さから不明確であるが「日本における……」として「日本の……」としていなかったのは、明らかに党が一国の労働者階級の立場に立つものではなくて、日本において世界労働者階級の立場を代表するものであることを表わさんとしたものと受取ることができる。私はこの方がむしろ正しいと考える。
しかしながら、問題は単に言葉の問題ではない。「党章」草案は一国プロレタリアートの見地に立ってプロレタリア国際主義の線からそれてしばしば民族主義的傾向を表わす。草案は全文を通じてプロレタリア世界革命については一言もいわない。そして「日本共産党の目的は……日本に社会主義、共産主義を実現することにある」という。
だが、これはスターリンの「一国社会主義」から「一国共産主義」の理論を依然として、より不明確な形で主張するものと考えられる。しかしながら少なくともこれでは社会主義から共産主義に至るまで、その社会は一国的、民族的枠内で達成されるものと考えられ、また党はそれを実現しようとするものの如くである。一体しからば「プロレタリア解放の事業は国際的だ」というのは何を意味するのだろうか?
もし日本一国において社会主義社会や共産主義社会が実現しうるものだとすれば、プロレタリアートの国際的団結は何故に必要なのか? それはただ日本に社会主義や共産主義を建設するために、世界のプロレタリアートと団結することが有利だからということになるだろう。つまりこのことはプロレタリアートの団結は日本プロレタリアートの民族的利益に従属せられるということを意味する。
草案によれば、社会主義社会は「この段階を通じて人による人の一切の搾取を根絶し、階級による社会の分裂を終らせる」という。また「共産主義のたたかいの段階では……各人は能力に応じて働き、その欲望に応じて生産物をうけとることができるだろう」という。だが、日本一国でこの段階に達しうるだろう力? いかにして資本主義的世界経済の支配から完全に脱却しうるだろうか? 帝国主義諸国の脅威に対抗して、われわれは不可避的に経済的、軍事的、政治的に力を割かねばならず、必要に応じて余計に働かねばならず、欲望を制限せねばならないのではなかろうか。
もしそれでもおおよそ一国で草案のいうような段階に達しうるとすれば、それは資本主義諸国に対して圧倒的に高い生産力を確保し得た時にのみ達せられることであろう。だが、ますます世界経済が結びつけられている今日、こういう事が達せられるだろうか? それよりむしろ先進資本主義国は労働者国家にはるかに追こされるまで資本主義体制を維持しうるというような事が可能だろうか? 今日ソ連では社会主義建設は完成し、一国で共産主義への移行の段階にある、というスターリンの理論が横行しているが、これはとんでもない駄ぼらであり、社会主義や共産主義の理想を自分勝手に解釈し、おどろく程傷つけている。
現代資本主義はますます世界経済を緊密に結びつけ、生産力の発展は民族的境界をのりこえ、国境の枠にたえずぶつかっている。この事実は二度にわたる世界戦争において、最も激烈な形で現われたし、今日わが国の政治経済が、常に世界の政治経済と切離して考えられないという事実にも現われている。およそ民族や国民は歴史的に形成せられたものであり、資本主義の市場形成と不可分のものであることはマルクス主義の常識である。しかも資本主義の生産力は今やこの民族的枠と衝突するまでに生長し、一方において諸民族を結合しつつ、また一方においてはその時代おくれの生産関係から不可避的に民族間の衝突をひき起す。だからこそ世界プロレタリアートの結合はこの世界経済の客観的事実を土台として出発する。そしてプロレタリアートにとっては民族間の対立は無縁である。彼らはこの境界を打ち破って国際的に結ぶことに自己の利益を見出す。ここにこそプロレタリア国際主義の根拠があり、そこにまさしくプロレタリア解放の事業が国境を超えた国際的なものであるという理由がある。ブルジョア民族主義とプロレタリア国際主義の対立は経済的土台から生ずる二つの相容れない立場である。これらはすべてマルクス主義の常識に属することである。
にもかかわらず、草案は国際主義の道からそれて、民族主義の道へと随所で転落する。草案によれば日本民族という枠は社会主義から共産主義に至るまで全然不変のものとして残るかのようである。そして革命も社会の発展もすべてこの枠の中でのことであるかのように見られる。こういう立場から草案は革命の戦略戦術を論ずるから、プロレタリアートの国際的団結よりも日本における労働者と他の階層との統一を不可避的に上におくような結果が出てくる。この問題に関しては後にのべよう。この立場からは、他国における革命の発展植民地革命の激しい昂揚等は、ただ日本の革命にとって、個々の有利な条件としてしか目にうつらない。社会党との統一のためにアルジェリア民族解放闘争の支持をサボタージュしたフランス共産党の犯罪的な誤謬が生まれる基礎はここにある。彼らにとってはアルジェリア革命を自らの問題として考えず、ただ自己にとって利用しうる一つの事実としか考え得ないのである。
草案はいう。
「党は、万国の労働者、団結せよの精神に従って、プロレタリアートの国際的団結をつよめるために努力し、全世界の共産主義者、すべての進歩的な人々と人民大衆が人類の進歩を促進するためにおこなっている闘争をあくまで支持する」と。
まことに結構なように見える。だがこれは草案において、プロレタリアの国際的団結を訴えた唯一の文句である。しかもそれは何ら具体的政策として出て来ない。その上これではあたかも党は、共産主義者同盟以来のマルクスのスローガン「万国の労働者、団結せよ」ということがあるから、これに従うとでもいっているようであり、外から加えられた抽象的スローガンにすぎない。およそマルクス主義の党と自称するならばこれだけのことはいわないわけには行かないであろうし、国際主義について無視しえない最小限である。そして党自らが万国の労働者の団結のために訴え闘おうという態度が見られない。
だが、とにかく「万国の労働者、団結せよの精神に従う」ことは全く正しい。もし草案がこの見地を貫き、その具体的政策においてこれを生かしていれば私は何もいうことはなかったのであるが、遺憾ながら事実はそうなってはいない。もし本当にこの「精神に従う」ならば、なぜ党はプロレタリア世界革命のために闘う立場を明確に示さないか。そして帝国主義ブルジョアジーとその権力、資本主義国家と基本的に敵対的立場にあることを明記しないのか? しかるに草案は逆に「社会政治制度のことなった諸国の間の平和共存」を主張する。即ちプロレタリアの国家権力とブルジョア国家権力との平和共存を主張する。これはなぜか?
そしてまた党は正しいマルクス・レーニン主義の様礎の上に立つ国際プロレタリアートの前衛部隊の組織の再建、確立のために闘うという立場をなぜとらないのか?
プロレタリア世界革命のための国際的展望、戦略、戦術を明確に提起しようとせず、またそのために国際的な力を結集すべく努力せず世界プロレタリアートの組織的体制をとることに努力しないものをいかにしてプロレタリア国際主義者とよび得るだろうか? それどころか、コミンターンもコミンフォルムもその任務を果して解散したとか、今ではこのような国際組織は不必要であり、時には有害であるとさえいうものがある。確かにコミンターンもコミンフォルムもスターリン主義的圧制のためにその本来の性格を失なって各国の共産党の発展の阻碍物となり、遂にはスターリン外交政策の犠牲とされ崩壊した。しかしながら、このことから一般にプロレタリア前衛の国際的組織が不必要だという結論は絶対に生まれない。こういうことはプロレタリア国際主義の本質そのものから生ずることは明らかである。一定の政策を遂行するためにはその組織的保証が必要であることはいうまでもない。国際プロレタリアートの一貫した政策を遂行するためには国際的組織が必要であることはまた当然であろう。もちろん、これを如何にして再建、結集するかという具体的問題は自ら別問題であり、形式的に各国共産党をよせ集めたならばよいという問題ではない。
レーニンはイネッサ・アルマンドへの手紙の中に云う。
「『労働者は祖国をもたない』ということは (a) 労働者の経済的地位が民族的ではなくて国際的であること。(b) 彼の階級敵が国際的であること。(c)
労働者解放の条件が、またそうであること。(d) 労働者の国際的統一が民族的統一よりさらに重要であることを意味します」と。
説明はいらないであろう。私はレーニンの思想を完全に正しいと思う。
二、「平和共存」反対
現在、わが党を含めて世界各国の共産党がとりつつある国際的政策の基調は、しばしば主張され、ソ同盟共産党二〇回大会でも強調されている如く資本主義と社会主義との平和的共存を維持することにおかれている。
党章草案もまたいう。
「日本共産党は世界の平和と、社会政治制度のことなった諸国の間の平和共存をめざしてたたかう」
だが一体、資本主義体制と社会主義体制との二つの体制の対立はすなわち国際ブルジョアジーと国際プロレタリアートの対立であり、絶対に相容れない基本的矛盾ではなかろうか。そしてこの二つの両極は一体平和共存し得るものだろうか?
ある人々は「平和共存」を世界革命の現在の発展段階における最も正しい戦術だという(実際には世界革命の思想は今では言葉さえ追放されてしまっているのだが)。
だが、プロレタリア世界革命とは世界のブルジョアジーを打倒し世界社会主義社会をめざすプロレタリア独裁をうち立てるものである以上、いかにしてその当面の戦術が両体制の平和共存であり得るのか? しかもプロレタリア世界革命は十月革命以来、たとえいかに紆余曲折を経ていようとも現に発展しつつある過程である。そして資本主義は今やますます危機に瀕しており、社会主義革命は先進帝国主義諸国ではもちろんのこと、世界中いたる所で日程に上っており、その経済的前提条件は先全に成熟している、ということを認めるならば、何故に資本主義国との「平和共存」を維持するためにわれわれが努力せねばならない理由があるのか。
われわれは資本主義体制との平和共存のためでなく、一日も早く資本主義打倒のために闘わねばならないことは明らかである。もちろんこういったからといって、直ちに世界ブルジョアジー打倒のために革命戦争を起せなどというのではないことは説明するまでもない。それはいわば革命の戦略をとるからといって直ちに武装蜂起を訴えるわけでもなければ、プロレタリアートの団結を訴えるからといって、直ちに一工場の労働者のストライキに全プロレタリアートがゼネ・ストでけっ起せよというわけでもないことと同じである。
資本主義体制(それは今日では帝国主義体制だ)と社会主義体制との対立は基本的に相容れない矛盾である。このことには誰も反対するものはない。しかるにいつの間にか、この対立は戦争勢力と平和勢力との対立といった宣伝的文句ででもなければ何の意味も持ち得ない空語にとりかえられてしまう。そして平和地域などという言葉が作られ、植民地革命におけるプロレタリアートの独自的役割は過少評価され、一般にプロレタリアートの社会主義への独自的役割は過少評価されて、帝国主義大ブルジョアジーと部分的に衝突する一切の中間分子と十把一からげにされてしまうのである。
戦争対平和の対立、このような問題のたて方は大体マルクス主義者のたて方ではなくて、平和主義者のたて方である。
マルクス主義者は戦争と平和の問題に関して、抽象的に問題をたてず、その背後の階級関係を追求することによって具体的にその態度を決定せねばならない。帝国主義戦争に対する闘争において、そのよって来る根源、帝国主義=独占資本主義体制への闘争、その打倒=プロレタリア革命への闘争を離れてはこの闘争の成功はあり得ないことを明確にしなければならない。だが、それにしても帝国主義戦争を抑えて、「平和」を守り得るとすれば「平和共存」政策も結構なものだと思われるかもしれない。
しかしながら、戦争は何から生ずるか? それは個々の国の政治家の意志によって生ずるわけでもなくまた単なる大衆の主観的願望によって左右されるものでもない。それは明らかに現在帝国主義の本質そのものから生ずる。それは資本主義の矛盾が今やますます深まっており、その最後的段階で「死の苦悶」にあえいでいるという事実の現われである。今やソ同盟についで、東欧、中国が資本主義世界から離脱し、更に植民地革命がりょう源の火の如く燃え上って帝国主義市場を狭めている今日、ますます帝国主義者は侵略の機会をねらい、また相互に対立せざるを得ない。それは今日帝国主義戦争の危機をたえず繰返し提起するであろうことは不可避である。それは戦争の前提をたえずつくり出している。ここから脱却する道はただ一つ、いかに迂余曲折を経ようともプロレタリア世界革命の道のみである。そしてまた、これらの戦争の前提は同時に単命の前提条件を到るところでつくり出しているのである。
ところがフルシチョフやミコヤンによると「戦争は宿命的にさけられないものではない」ということによって平和共存の可能が主張される。
一体いつ、どこで、マルクス・レーニン主義者が戦争の宿命的不可避説などというものを説いたことがあるのだろうか?
フルシチョフやミコヤンによればあたかもかつては、特にレーニン時代には戦争の宿命的不可避性とでもいったことが存在したかのようである。そこで奇妙なことになる。レーニンやコミンターンの反戦髄争は一体どういうことなのか? これらは宿命的に不可避なものに対する闘争なのか?
だが、実際はそんな馬鹿な話はない。「戦争の不可避」という問題には前提がある。
フルシチョフもいう如く、「よく知られているように帝国主義が存在する限り戦争は不可避であると云うマルクス・レーニン主義の命題がある」
すなわち見ればわかるように「帝国主義が存在する限り……」である。
ところで「帝国主義は資本主義の最後の段階であり、死滅しつつある資本主義であり、社会主義革命の経済的前提条件は完全に成熟している」ということはこれまた周知のレーニンの帝国主義論の命題である。したがってレーニン主義者は今や社会主義革命の条件は一般的に成熟しており、これは現実に可能なものと考えるし、そのために直接闘っているのである。だが帝国主義をてん覆し革命が勝利するならば、いうまでもなく「戦争の不可避」なる命題は根底からくつがえる。一体どこに「戦争の宿命的不可避性」などということがあろうか?
では周知の「帝国主義が存在する限り戦争は不可避である」という命題からいかなる結論が生まれるか。すなわち帝国主義戦争に反対する闘争は帝国主義打倒=社会主義革命の闘争と緊密に結びつかねばならないということである。帝国主義を打倒しプロレタリア世界革命を成功的に発展させない限り、結局において帝国主義戦争を抑えることはできない、ということである。レーニンの言う如く「ボリシェヴィキ的革命によるよりほかには、帝国主義戦争とそれを不可避的に生みだすところの帝国主義的ミール(世界と平和の両方の意味で)とから脱出することは不可能である」という結論が出ている。したがってまた「人民に「民主主義的平和」を約束はするが、同時に社会主義革命を宣伝せず、そのための闘争……を否定するものは、プロレタリアートをあざむくものである」(レーニン)ということになる。レーニンは「革命的大衆行動への訴えを伴わない抽象的な『平和』の宣伝」を大衆を欺瞞するものとして痛烈に攻撃した。ところがフルシチョフやその他現代の「平和共存」の理論家(?)はこの結論が気にいらない。彼らによれば、帝国主義が存在しても戦争は不可避ではない。したがって帝国主義を倒さなくても、戦争だけをなくすことが出来る。そこで帝国主義と平和共存できるという理論がでてくる。
フルシチョフはわれわれに向って云う。
「人びとは普通、問題の一面しかとりあげず、帝国主義のもとにおける戦争の経済的基礎しか検討しない。しかし、これでは十分ではない。戦争がおこるかどうかの問題においては、階級勢力の相互関係、政治勢力の相互関係、人民の組織の度合とその自覚した意志とが大きな意義をもっている。さらに、一定の条件のもとでは進歩的な社会、政治勢力の闘いは、決定的な役割を演ずることが出来る。」
これ程マルクス主義者にとってつまらない議論を考えることはほとんど不可能である。
「戦争は単に経済現象であるだけではない」とまことに奇抜な話を聞くものである。戦争は「単にも」何も、経済現象と考える人があるだろうか。「戦争は異なった手段においてする政治の継続だ」というのがマルクス主義の考えである。フルシチョフのいうことにいくらかでも意味があるとすれば、それは要するに経済的土台は直ちに政治を決定するものではない。下部構造は直ちに上部構造を一義的に決定するものではない、ということだけである。決りきった話である。しかしながら、経済は結局において政治を決定すること。下部構造は結局上部構造を規制していることはこれまた当然である。でなければ唯物史観は根底から破棄される。だからこそ、帝国主義的発展(その不均等発展)が不可避的に生み出す帝国主義戦争に対する闘争は、帝国主義体制そのものに対する闘争の一環をなさなければならず、われわれはその経済的基礎にまで変革を加えねばならないという立場に立たねばならない。そして、また、その前提は帝国主義体制の内部に成熟しており、歴史の大道から見る場合この社会主義革命そのものが不可避なのである。
もちろん、帝国主義が存在するからといって、何時何日までには必ず戦争になるとか、いうような一義的決定論はナンセンスである。階級的力関係や資本主義の経済的動向の変化、循環等は明らかにこれに対し大きな影響を与える。それにもかかわらず「帝国主義が存在する限り……」すなわち、プロレタリアートが帝国主義ブルジョアジーを打倒し得ない限り、結局において戦争は不可避となるであろう。
ますます矛盾を深めつつある帝国主義=現代資本主義の体制は不可避的に二度、三度、経済的および政治的危機をもたらすであろう。この危機の情勢下にプロレタリアートはブルジョアジーに対する政治的決戦へと入らねばならぬ。そしてブルジョア体制を打破して帝国主義体制からの脱出に成功しない限り、すなわちプロレタリアートが敗退する限り、依然として、ブルジョアジーはその権力を握り自らの力でもって矛盾を暴力的に解決すべく進むであろう。すなわち帝国主義戦争は不可避的に起こされるであろう。
しかるにフルシチョフは、帝国主義を打倒しなくても「平和」だけを維持し得る、という。経済的土台はそのままで上部構造へのその貫徹を抑えることができるということになる。ブルジョア的生産関係のもとにおける経済的発展が歴史的にその生命をつかい果した今日、その土台を破壊する(すなわち、社会革命)ことなくしては、人類はますます恐るべき破局へと追い込まれる。帝国主義戦争こそ、この資本主義制度の「瀕死のあがき」をもっとも赤裸々に現わすものである。まさにこの事態に直面しつつ資本主義と社会主義の「平和共存」を説教することは、主観的意図はどうであっても、実際にはプロレタリアートの革命への闘争を押止め、これを平和主義的コースへと導いて堕落させるための努力を行なうことを意味する。「プロレタリアートの社会変革の前夜」の時代に、これを資本主義=帝国主義との「平和共存」へと導こうとすることは、驚くべき反動的ユートピアである。危機の情勢が一たび現われるや、こういう方針をとる者は確実に労働者大衆から見離されるであろう。
だが、資本主義と「社会主義」の両体制が相並んで存在し、その間に平和(すなわち戦争でなく)が保たれる一時期、帝国主義諸国間に平和が存在する一時期はいうまでもなく存在し得る。あえて呼べばこれは「平和共存」の時期であろう。まさに現在の事態がそうである。
「帝国主義が存在する限り戦争は不可避である」ということは、決して帝国主義が存在する限り、何時でも戦争であるということを意味しないことは当然である。もちろん帝国主義が存在する限り、階級闘争、政治闘争は存在するし、帝国主義間の闘争も常に存在する。しかしこれらの政治闘争は「平和」の舞台において闘わされる時期があり、これが一定の段階で暴力的解決を迫られる時に、初めて革命や戦争という新しい手段へと転化されるのである。まさしくこれは不可避的に起こってくるが、それまでは闘争は平和の舞台において闘わされるであろう。
老いたる帝国主義は今や労働者国家を絞め殺す力をもっていない。だが一方世界のプロレタリアートもまたなお先進帝国主義権力を打倒することはできずに現在に至っている。まさしくこの力の一定の均街が現在世界に面体制の共存を可能にし不可避的にしているのである。すなわちこのいわゆる両体制「共存」の現実は、同時に国際ブルジョアジーと国際プロレタリアート、資本主義と社会主義との絶対に相容れない二つの努力の必死の闘争の舞台である。
現在この両体制の「平和共存」が存在するからということから、これを維持しようという政策の正当性は絶対に出てこない。もしわれわれが現存するものを変事する立場に立たずして、これを維持するという立場に立つとすれば、現状維持の保守的立場へと転落するであろう。しかもすでに論じたように、経済的政治的な客観的要因はこの現状を絶対に長く維持させはしないのである。
現在の一定の均街「共存」は遅かれ早かれいずれかへと解決を迫られる。これをくいとめることはできない。これがいかに解決されるか? それはただ二つの陣営ブルジョアジーとプロレタリアート、資本主義と社会主義との闘争のみが決定する。われわれが彼らに打ち克って世界革命を成功へと導くか、それとも彼らに打ち負かされて人類の破局へと導かれもう一度やり直さねばならないか? 二つに一つ、中間の道はあり得ない。
ブルジョアジーは歴史を逆転させようとして、後の秤皿へ必死になってぶら下っている。われわれのなすべきことは唯一つ、前の秤皿へ全力をかけて、この一定の均街を前方へと覆えすこと。彼らを根本的に一掃することにある。しかるにこの均衡を保とうとするのが、「平和共存」の理論(?)ではなかろうか。死の苦悶にあえぐ帝国主義は近い将来にも再たび三たび危檄へと落ち込み、プロレタリアートは自らを救おうとすれば不可避的に敵との政治的決戦を強いられるであろう。この時われわれは打倒されないためには革命へと向かわねばならぬ。帝国主義と平和的に共存することは出来ない。帝国主義との平和的共存を主張するものは、ましてフルシチョフの如く革命なしに平和共存から恒久平和へと進み得ると主張するものは、不可避的にありもしない幻想へ、小ブルジョア的立場へと転落せざるを得ない。
もちろん、経済的政治的動向の一定の局面は国際間の緊張を一時緩和し、平和的情勢を強めることは十分にあり得る。
第二次大戦後、激烈な経済的政治的危機に見まわれた世界の資本主義は東欧と中国においてその領土を失なったが、ヨーロッパの革命的危機を抑え朝鮮戦争その他を経て、ようやくその危機を脱し、明らかにここ二〜三年来好況へと向かい一定の均衡をとりもどすことに成功した。一九五三年頃より立ち直った資本主義は好景気を迎えることによって、一定の「平和」政策へと転換する経済的基礎を獲得した。帝国主義ブルジョアジーは帝国主義的な「平和」政策へと移り、平和的に市場を争い得る土台をもち得たし、また現実にその方角へ向かった。そのことによって第二次大戦後の「冷い戦争」の情勢を緩和しうる情勢がつくり出された(もちろんこの過程において世界のプロレタリアートの闘争を無視し得ないが)。この経済的基礎の上に明らかにジュネーブ会議以後、特に顕著となった国際緊張の緩和が生み出されたのである。もちろんこのことは帝国主義ブルジョアジーが戦争政策を放棄したことを意味しない。ただ「平和」政策が前面に押出されたにすぎないし、帝国主義的平和の局面はまた同時に次の帝国主義戦争の準備の段階でもあることは明らかである。しかも今や好景気は終りを告げ、均衡はスエズ、中東の危機によって揺がされている。だからこそ、この平和の局面は全体としては一時的であり、休息の時期であり、来るべき時期(それは予め確定することはできないが)は再び不安と動揺の時期、戦争の危機と革命の時期とならざるを得ない。なぜならば世界資本主義はますます行詰っており、均衡と緊張緩和は一時的であり、動揺と危機こそ決定的だからである。また二つの階級、二つの体制間の予盾の緩和は一時的であり、矛盾と闘争こそ決定的だからである。
だが、まさにこの一時的(時期の長短の問題ではない)な緊張緩和、平和的情勢の上にこそ、平和的幻想が強まりそれはプロレタリアートの一部をさえおかしている。ここに「平和共存」の幻想が咲き誇っている。
しかるにソ同盟の指導者やわが党中央はこの事態を正しく見ず、全く反対にとらえることによって、現在の情勢をプロレタリアートが最大限に利用して次の段階に備える態勢を整えることを阻害している。
すなわち、われわれはしばしば聞かされていた。
「全世界の平和愛好勢力の増大によって国際緊張は大いに緩和された」と。
また党中央の政治報告も云う。
「平和勢力の戦争勢力に対する優位は成長し、平和共存の方向は、いまや、世界の基本方向になろうとしている」と。
このようにしてここ数年来の国際緊張緩和と「平和」的情勢をもたらした原因は、その経済的基礎や客観的要因の変化は無視されて、ただもっぱら「平和勢力」の強化なるものに帰せられてしまっている。では一体、平和勢力とは何であるか? それは帝国主義独占ブルジョアジーの戦争政策に反対する一切の平和愛好諸国と人民ということにされている。
だが、もし帝国主義ブルジョアジーもまた一定の帝国主義的な「平和」政策をとるとすれば、どうなるか? 彼らは「平和」愛好者とよべるか? しかり彼らは彼らの行動の自由を保障する「平和」を愛好する。だがまさかこれを「平和勢力」に一括してはお話になるまい。しかしまた、景気が好況を迎え、資本主義経済が何とか繁栄を保ち、一時的にせよ矛盾がいくらかでも緩和されたかの如く見え、帝国主義者が「平和」の仮面をかぶるならば、中小ブルジョアジーはこの「平和」を大いに愛好しないか? 彼らは自らの営業が何とかうまく行っている限り、この「平和」の現状を大いに愛好する。そして永久平和の幻想に大喜びになる。ところがこの立派な「平和」愛好者は次の段階ではどうなるか?
経済的矛盾が深まり独占資本の圧迫が彼らにしわよせされ、営業が破産に瀕する時、彼らはこの打開を求める。だが中間層は自らその解決の方針をもたない。この時にプロレタリアートが解決の道を示し、断乎として、彼らを引きつけ指導しなければ、彼らは独占資本の矛盾打開の道、帝国主義戦争とファシズムの道へと動員されるであろう。
すなわちいわゆる「平和愛好者」「平和勢力」の中には、いろいろの「平和」愛好者がある。抽象的な「平和」ならば、誰もがこれを認める。が、その内容が明らかに相互に矛盾しているのだ。ただ、その矛盾が一定の段階で尖鋭化せず、一時的に緩和されているという事実の上にのみ共存し、それが一般的な「平和」の愛好者として混り合って見えるにすぎない。
したがって一般的な「平和愛好者」の増大は、基本的にいうならば(機械的に解するな!)この客観的情勢における平和的局面を反映しているのであって、「平和愛好者」の増大が平和的情勢を作り出したのではない。それは反対である。
抽象的一般的な平和はあり得ない。帝国主義ブルジョアジーとその追随者にとっての「平和」とプロレタリアートおよび被搾取人民にとっての平和は絶対に相容れない両極に立つものであることを明確にせねばならぬ。
もちろん、われわれは小ブルジョア中間層の「平和愛好者」をプロレタリアートの側に引きつけねばならない。だが、そのためには現存するこの階級間の区別を「平和勢力」の名において十把一からげにすることではなくして、その間の明確な差違を指摘せねばならぬ。そうすることによってのみ、プロレタリアートが中間層を指導し得るのであって、この逆はプロレタリアートを小ブルジョアの背後へと追従させることになるであろう。統一はただプロレタリアートの方針のもとに大衆を結集すべく、小ブルジョア的傾向との闘争を大衆的基盤において闘わせることによってのみ、正しく発展させ得るのであって、われわれの明確に区別された独自の階級的方針を欠くならば、これは必然的に小ブルジョアへの追随に終る。
「反戦平和」の統一戦線もまたその例外ではない。それは具体的行動においてなされねばならず、その中で小ブルジョア的方針との闘争を伴なわねばならない。
力を意識しているアメリカ帝国主義は「平和」の仮面をかぶりながらも、明らかに「抽象的平和」よりも行動の自由を欲していることをしばしば隠そうとしない。アイゼンハゥアー・ドクトリンを見よ。ダレスの演説を見よ。
こういう連中との平和共存を夢み、彼らの戦争挑発的言動に泣言をのべ、彼らを諌めている小ブルジョア平和主義者とわれわれの区別を明確にせねばならぬ。彼らは打倒されねばならぬ。すなわち世界革命の旗を進めねばならぬ。それ以外にプロレタリアートと被搾取人民は逃れる道がないことをはっきりと語らねばならない。平和的局面は結局において一時的休息の時期でしかないこと。プロレタリアートはこの局面を、最大限に利用すること。一定の行動の自由が拡大され得、その力を蓄積し得る情勢を大いに活用してその勢力を革命へ向かって強めねばならないこと。だが必ずやがて動揺と革命と戦争の時期がやってくること。われわれはこの危機を革命によって解決せねばならないことを大衆にはっきりと伝えねばならぬ。
しかるに各国共産党の多くの公式指導部はわが党中央も含めて、全く反対の方向をとっている。「平和共存」を維持し、恒久平和へ向かうことが可能だという。革命に向かってのプロレタリアートの闘争なくしては帝国主義戦争を防ぎ得ないことを訴えずして、一切の平和勢力の団結について訴えている。そして「国際緊張緩和」のスローガンを掲げる。これは何か? 基本的矛盾の緩和を要求するのである。こういうことはただ客観的経済的基礎における変化が一時的に可能ならしめるのみであることを忘れてしまってはお話しにならない。戦後の危機から抜け出た資本主義が一時的繁栄をとりもどした時に、なお情勢の変化を無視していた強行政策が、客観的事実につき当って緩和政策へとモスクワにおいて転換された時、このことは明らかに緊張の緩和をもたらした。それは原則はともかくとして一つの情勢への適応した政策であった。だがこのことからソ連の「平和政策」が緊張を緩和させた基本的な要因であったと考えるならば、とんでもない間違いである。それはすでにのべた如く客観情勢の土台における変化によるものである。したがってこの変化は永久に続くものではない。「緊張緩和」のスローガンはこの資本主義の矛盾の本質を忘れ、プロレタリアートを眠り込ませるスローガンである。
また、平和を強めるためと称して「軍縮」や「集団安全保障」の要求が掲げられる。遺憾ながら私は今ここでこれらについて詳細に立入る余裕がない。だが歴史をふり返って見るならば、これが完全に第一次大戦と第二次大戦の間に国際連盟を舞台としてかなでられたブルジョアジーのとり交わした美しい「スローガン」の再現であることは明らかである。
帝国主義者が戦争をするのは軍備があるからではない。逆に戦う必要があるから、武器を鍛えるのである。たとえ(たとえだ!)どんな軍縮協定が結ばれたところで、兵器廠、軍需工場、つまり資本主義産業そのものは、ちゃんと生産力を保持しいつでも動員され得るのである。しかも労働者国家の側でも帝国主義戦争の危険が存在する限り、決して一日も軍備をおろそかにするわけにはいかない。ブルジョアジーの仮面をかぶった協定にだまされて軍備をおろそかにし得るような指導者はいくらなんでもおそらく存在しないだろう。第二次大戦後日本とドイツはたしかに勝利者の監視の下に武装解除された。日本は「戦争放棄」を憲法でまで決めた。しかも十年を経た今日、日本とドイツは完全に「再軍備」されたのである。これが、「軍縮」協定の一つの見本である。ポツダム宣言は全くふみにじられて、絵にかいた餅になってしまった。帝国主義者との協定がいかにあてにならないものかは今さらいうまでもない。「再軍備」反対の闘争は実際には階級闘争=革命闘争と結びつけられなければなんの役にも立たないことはすでに実証されていることである。
帝国主義との「共存」の上に、軍縮のスローガンを掲げることは全くの虚構である。これによって戦争を防止し得るものではない。それはたかだか現在の平和時代に過度の軍備費を削減するという意味しかもち得ない。それは財政の問題であって「平和擁護」の問題ではない。しかもこの協定さえなかなか実現し得ないのである。
「集団安全保障」に至っては論外である。だいたい、いかなる集団がなんの危険にたいして安全を保障するのか? 問題を階級的に提出せずして、ミソもクソも一緒にするようなやり方をなんといえばよかろうか? 誰が誰をの問題を抜かしてはわれわれの政策はすべて崩壤してしまう。帝国主義戦争の危険にたいして、国際プロレタリアートはただ自己の革命的方針をもった実力によってのみ安全を保障し得るということを忘れて、いかなる集団にたよろうとすることも許されない。
すべてこれら国際連盟の美辞麗句のやきなおしの上にプロレタリアートの方針を立てようとすることは、帝国主義者の煙幕の中で自分自身の眼をくらませることである。
すべてこれらが第二次大戦後の情勢の変化ということで説明されている。レーニンやボリシェヴイキの「軍縮」のスローガンにたいする態度は放棄され、それは力関係の変化ということで合理化されている。だが、一つ忘れてはならないことがある。第二次大戦前、ソ同盟の国際連盟加入が行なわれた時、スターリン達は今いわれていることとほとんど同じことをいったということである。彼らは「軍縮」のスローガんを掲げ「集団的保障」を叫んだ。そしてソ同盟の国際連盟加入は鳴物入りで宣伝され、これは社会主義の勝利、世界プロレタリアートによる「圧力」の結果として説明されたのである。結果はどうであったか。実際の歴史を調べていただければ結構である。要するにこれらの方針は、かならずしも第二次大戦後の客観情勢の変化に基づいて、初めて持ち出されたのではないことはたしかである。
もちろん、われわれは憤勢に応じて労働者国家があれこれの帝国主義と一時的協定を結び、自己の安全を保つための補足的手段をもとめることを一般的に否定する程馬鹿ではない。これを否定するものは革命家ではなくて左翼小児病患者である。
妥協や譲歩、取引きでさえも情勢に応じては必要である。だが妥協は妥協、取引きは取引きとしてその戦術的、部分的協定が占める地位を大衆に公然と明確に示すことが必要である。たとえブルジョア諸国と同盟を結ぶ必要があり、これを利用する時でさえ、その同盟国を讃美する必要は毛頭ない。しかるにソビエトの外交的言辞のみならず各国の共産党までが「反ファシズム連合国」とか「民主主義諸国」とかいうことによって米英帝国主義の本質を見て見ぬふりをし、「軍縮」とか「集団安全保障」とかのスローガンで労働者を欺瞞することは絶対に不必要な駄法らである。こういうデタラメから結局自らの眼をくらまして「解放軍」規定などが出てくるのである。
外交的言辞に党の基本政策を従属させてはならない。まして党の政策をソビエトの外交的取引きへと従属させることは、国際主義とは縁もゆかりもなく「ソ連の手先」という敵の非難をますます有効ならしめるものにすぎない。
情勢に応じて妥協は必要である。時には取引きも退却でさえも必要である。だがそれはいうまでもなく、次の闘争を勝利へと導くためである。取引きや妥協は絶対に基本的矛盾を解決するものではない。帝国主義とプロレタリアートは絶対に相容れない基本的対立関係にある。いずれが勝つかただ闘争のみが決定する。両者は結局において絶対に平和共存し得るものではない。
帝国主義戦争を防ぎ得る力はただ国際プロレタリアートのみがもっている。それは帝国主義者との徹底的な闘争である。そして帝国主義者との徹底的な闘争はすなわち帝国主義そのものを打倒して世界プロレタリア革命を勝利へと導くための闘争以外にあり得ない。帝国主義ブルジョアジーの打倒をめざすことなくして帝国主義者との闘争を勝利へ導き得ないことは当然のことだ。自己の生活そのものを賭けてブルジョアジーと闘わねばならない労働者は、帝国主義との平和共存のためにどうして帝国主義者と闘うことができようか? 彼らは帝国主義打倒のためにのみ断乎として願うであろう。今日いわゆる「平和擁護闘争」が広汎な小ブルジョア層に歓迎されているにもかかわらず、現実にブルジョアジーと絶えず生活のために闘っている労働者階級が、これに熱意を示さないのは全く当然のことである。
しかるにわが党はこの労働者階級をその基本的な階級闘争から外へつれ出して、小ブルジョアの「平和共存」の運動へと導き出すために全力をあげよ、という。これでは党はますます労働者階級から遊離して小ブルジョアへの追随へと向かうこととなるであろう。プロレタリアートは帝国主義を打倒する力をもっている。だからこそ帝国主義戦争反対の闘争を最後まで導き得る唯一の勢力であり、それを社会主義革命によって完成し得るのである。彼らは階級闘争=プロレタリア独裁のための闘争の一部分として帝国主義戦争反対の闘争の先頭に立ち得るであろう。そしてその勝利のためには彼らは小ブルジョア的平和主義との断乎たる闘争が必要であり、小ブルジョア大衆をその指導者から、その指導理論から引離して自己の背後に結集せねばならない。
しかしながら、それにもかかわらず次の戦争は人類の破滅であるが故にわれわれはどんなことがあってもこれを避けねばならぬ。平和さえ維持するならば、ソ連やその他の労働者国家は大いに発展し、平和的競争で資本主義に打ち勝ちうるからその時になったら革命は容易になるだろう。だから当面はなんとしても「平和共存」を守らねばならない、という反対者が現れる。
こういう議論は経済的必然を無視した主観的願望である、ということはすでに述べたことから明らかであろう。客観的要因はわれわれに待つことを許さないのである。帝国主義者はもちろん平和的に打ち負かされるまで手を拱いてはいない。実際ますます行きづまりつつある帝国主義体制の矛盾は繰返し経済的、政治的危機を生み出さねばならないし、彼らはこれを解決せねばならない。もしプロレタリアートが革命によってこれを解決せねば、帝国主義は自ら暴力的にこれを解決しようとする。またせざるを得ない。それ故に実際の情勢はソ連が資本主義を完全に(?)圧倒するまで待つことを許さないことは明らかである。こういう理論はすでに死に瀕した資本主義の圧制下に苦しむ労働者階級に革命を待て、と命ずるとんでもない理論である。冗談ではない。ソ同盟や中国(しかもこれは先進資本主義国イギリスやアメリカさらに日本と比べてさえ、後進国であった)がアメリカや西欧をはるかに迫越すまで、われわれは帝国主義ブルジョアジーの圧制下に耐え忍べというのか? こういうことは国際主義を完全に忘れ去った一部労働者国家の上層官僚のみが考えうることである。
これこそスターリンの一国社会主義論の堕落がおちつく先である。
「干渉さえなければわれわれは一国で社会主義を建設することが出来る。」と彼らはいった。
そして今彼らは、
「平和共存さえ守られるなら、われわれは平和的競争で資本主義にうちかつだろう。そして世界の人民に社会主義を与えてやろう」とでもいうのか?
否、社会主義はただプロレタリアート自らの力によってのみかちとり得る。ソ連の官僚からこれを授かることは絶対にできない。たとえソ連の労働者の偉大な闘争の力によってでも、世界に社会主義を与えることはできない。それはただ国際プロレタリアートの一部として、その全体としての闘争に有力な援助を与えうるにすぎない。大体ソ同盟や中国の今日そのものが、全世界のプロレタリアートの協力なくしては絶対にあり得なかったのである。
十月革命とその後のソ同盟の発展、中国革命等はいかに歪曲されたとはいえ労働者国家の計画経済が資本主義制度に比べて、どれ程まさっているかを、一切の余地なく立証した。今日強大な「社会主義」諸国の力はわれわれの闘争にとって非常な力であり、有利な情勢をつくり出している。
だがそれにもかかわらず二つの階級、二つの陣営の闘争は国家的階級闘争、プロレタリア世界革命の闘争の舞台で解決されるのであって、決して平和共存、平和競争によって解決されるのではない。
平和共存、競争によって解決できると主張するものは、われわれがただソ同盟や「社会主義」諸国の生産力にのみ賭けるべきであって、全人類のつくり出した巨大な生産力に賭けてはならないと主張するものである。しからば、われわれは「社会主義」諸国の生産力を発展させるために努力しても、資本主義諸国では生産力の破壊者として現われねばならぬ(それが平和競争の勝利の早道だろう)。これは生産をになうプロレタリアートからその本質をうばい堕落させるものである。
アメリカや資本主義諸国の巨大な生産力はブルジョアジーの手中に握られている限り、労働者にとって災厄である。だがこの生産力の破壊、低下をめざすものはただ反動主義者のみである。プロレタリアートはこれを自らの手中に握ることによって、巨大な生産力をその桎梏から解放するであろう。そして偉大な社会主義社会を築き上げるであろう。
党は「平和共存」「各国革命」の路線と手を切らねばならない。党はソ同盟の外交政策に追随してはならない。
「軍縮」「集団安全保障」などの一切の欺瞞的スローガンを追放せよ。
革命的大衆闘争のみが帝国主義戦争の企図を粉砕し得る。党は「帝国主義戦争反対」のスローガンを掲げて、ただプロレタリアートの革命によってのみ人類は破局からのがれ得るということを大衆に明らかに告げよ。
レーニンは一九二〇年にいった。
「われわれは今や戦争の舞台から平和の舞台へと移行した。しかもわれわれは戦争は再びやって来るということを忘れなかった。資本主義と社会主義とが相並んで残る限り、われわれは平和には暮せない。一かあるいは他が結局勝利するであろう。世界資本主義の死の上にか、ソビエト共和国の死の上にか、どちらかで葬送歌が歌われるであろう。現在われわれは戦争中の休息をもっているだけだ。」
情勢は大いに発展した。だがこの二つの力の闘争はなお依然として続いている。基本的対立はなお続いている。レーニン主義者はしーニンの述べた基本路線をなお堅持せねばならぬ。不敗のプロレタリア世界革命の道を明確に示さねばならぬ。
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