つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる


第二章 当面する日本革命の性格
       ――社会主義革命か民族解放革命か?――

 党章草案はいう。
 「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属する同盟関係にある日本の独占資本であり、わが国は、高度な資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義になかば占領された事実上の従属国となっている。」
 この一句をめぐって、日本における国家権力を誰が握っているかについて、多くの論議がたたかわされている。
 だが、一体日本がいずれにせよアメリカにある程度支配されていること、また日本における政治経済の支配体制が全体として資本主義体制であってその中枢を握るものが、日本の独占ブルジョアジーであること。この事実に関しては盲目でなければ誰も異存のないところであろう。それは現象の事実であって、これを或る者は「なかば占領された……従属国」といい、或る者は「アメリカ帝国主義に従属した日本の独占資本が権力を握っている」という。一体ここにどんな重大な相違があるのか? これら二つの定式はどんな理論的定式づけとして重要な差異をもたらすのか?
 「従属」か「独立」かをめぐる論争は非常な混乱に陥っている。だが実際には「従属」国という論者も日本ブルジョアジーの独自の力を無視し得ないし「独立」国という論者もまた、現実にアメリカ占領軍の存在、軍事的政治的経済的支配を認めないわけにはいかない。問題がおそろしく袋小路に入っているのは何故か? それは実際にその規定から導き出される戦略の相違すなわち民族解放革命か社会主義革命かにある。党章はこの点に関して、どっちともつかないようなことをいいながら全体として民族解放革命に重点をおいているかに見える。しかしながら、一般に「従属」国とか「独立」国とかいう規定から全然異なった戦略規定が出てくるという考えはどこから来ているのか? それは両者の革命の間に万里の長城を築いたスターリンの図式から来ている。
 スターリンによれば、帝国主義国における革命と植民地従属国における革命とは全く異なった段階に属する絶対的に区別されねばならない二つの図式に分けられ、後者では民族ブルジョアジーをも含む民族革命の段階を通ずる二段革命が非常に強調された。今私はこのスターリンの図式にたいする批判を詳細に述べる余裕はない。ただ第二次大戦後の実際の革命、特に中国革命の経験はこの二段階の図式を全く破産させてしまったということだけを指摘しておこう。だがいわゆる二段階論が破産したということは、ブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命との二つの内容は結合され、不断に発展させられる革命としてとらえられねばならぬということを示しているのであって、両者をゴチャまぜにしたような人民民主主義革命なるものが新しく生まれたわけではない。ましてそれは第二次大戦後新しく生じたわけではなく、すでにロシア革命の発展の事実の中で実証されていた問題なのである。
 だが中国に見られる如く、後進国における革命が最初からプロレタリアートの権力を打ちたてねばならず、そして革命は民主主義的段階から社会主義的段階へと不断に発展する過程としてとらえねばならないとすれば、これは明らかにスターリンの二段階論「労農独裁」論が破産し、むしろトロツキーの永久革命論が正しかったということを証明する。
 しかしながら、私がここで論じなければならないのは後進国の革命ではなくて、わが日本革命の問題である。
 戦後の一連の革命で破産したスターリン理論から今や人民民主主義革命といった何を意味するかも明らかにされていない階級性の抜けた定式のもとに現在一般に明確な戦略の放棄すらが現われている。党章草案もまた極めてアイマイな規定を行なっている。一体規定の不明確な「人民民主主義」という言葉、各人がそれぞれ各様に解釈するような名前をつけて革命の性格を定義づけたところでなんの役に立つであろうか? ブルジョア的でもプロレタリア的でもない何か一般的な「人民」の民主主義が存在するかの如くである。これは混乱を言葉でごまかしているにすぎない。
 ところで一方ではまだまだスターリン的一国革命の図式は強固に残っている。このことは前衛誌上の論争に極めて顕著に現われている。一方において現実の政治の事実から、日本における革命を正当にも「社会主義革命」として提出することなくしては、運動の前進はあり得ないと感じている多くの同志は、その規定を提出する前提として日本国家権力の「独立」、日本は独立国であるということを認めねばならないと考え、そのために独立を強調する事実を述べたてる。こういう論者は、あくまでも一国革命の観点に立っている限り、結局サンフランシスコ条約によって日本は「基本的(?)」に独立したということ、しかも彼らはそれ以前にアメリカの全一支配下にあった、すなわち国家権力はアメリカにあった、というのだから、サンフランシスコ条約は権力の移動をもたらしたので、彼らの見地からは革命になるという奇妙な結論を出さざるを得ない。
 他方、だが現在といえども、アメリカの日本支配の幾多の事実はたしかに存在する。それは軍事的政治的経済的事実である。この事実から見れば、日本は一定の意味ではたしかに従属国である。ただこの規定、この一つの事実から同志井ノ口、同志神山等は当面の革命を民族解放革命として図式にしたがった戦略をもち出そうとする。彼らによればいずれにせよ日本の革命は植民地、従属国の革命の部門(?)に入り、社会主菱は一つの段階を隔てた先のことになるのである。五一年の縄領はまさしくこの図式の極端な典型であった。
 党章草案はこの二つの中間を行こうとする。だがそれは決して理論的に整理されたものとしてではなく、ただ二つを調停し抱き合わせようとするにすぎない。それは日本の現状をイギリスやフランスともまた一方植民地後進国とも異なる全く新しい型ということによって、一遍に矛盾をおきざりにしてしまおうと試みた。党章草案は「日本を……支配しているのはアメリカ帝国主義とそれに従属する同盟関係にある日本の独占資本であり」という。日本が日本のブルジョアジーに支配されているとともに、同時に他方また、アメリカ帝国主義にも支配されているということ、これだけならば盲目でない限り誰にでもわかる現象の事実にすぎない。だが、問題の本質はこれを認めるか否かにあるのではない。問題はこの二つの勢力の支配はいかなる関係にあるのか? 従属する同盟関係とは何を意味するか? アメリカ帝国主義の日本支配は何によってもたらされ如何なる意義をもっているかにある。
 党章草案および多くの論者は不明確な一国革命の立場に立ち、世界革命とそれの一環としての日本革命の関連を理解しないがゆえに、問題を正しく提出し得ない。アメリカ帝国主義の支配と日本ブルジョアジーの支配はしたがって草案では単に平行的に並べられる。また時にはこれは単純に縦に並べられるのである。
 問題の解明はまず次の基本的見地を明らかにすることから始められなければならない。
 すなわち、日本は独占資本主義体制の支配下にあり、その支配の中心を握っているのは日本独占ブルジョアジーである。と同時に、日本は他の帝国主義諸国とともに世界帝国主義体制としての帝国主義支配の一翼を占めているのであって、それと切りはなされたものではないということである。
 今日、世界帝国主義体制の頂点に位置するものはいうまでもなくアメリカ帝国主義である。第一次大戦以後明確になった世界資本主義の中枢のヨーロッパよりアメリカへの移転は、第二次大戦を通じ、さらにそれ以後ますます明確な疑いのない事実となった。今日、世界中の資本主義諸国はイギリスの如き、かつての世界の王国をさえ含めて、すべて多かれ少なかれアメリカ独占資本の支配下に立つことを余儀なくされている。日本はいうまでもなくその例外ではあり得ない。帝国主義は多くの矛盾をもちつつも一つの世界体制に他ならないのである。
 したがって、資本主義体制にとどまる限り、すなわちブルジョア勢力によって支配される限り、日本は世界帝国主義の支配下にあり、それゆえにアメリカ帝国主義の支配を逃れることは出来ない。もちろんその形態は帝国主義体制内部の諸関係の変動、またその矛盾の激化等によって色々に変化しうる――たとえばサンフランシスコ条約前と後との変化、最近の日本ブルジョアジーの相対的強化による変化等――が、しかも世界帝国主義体制の基本的勢力関係に重大な変化が起らない限り――たとえばアメリカにおけるプロレタリア革命、アメリカとヨーロッパの関係の逆転等だが、差し当りそのような見通しは存在しない――日本がアメリカ帝国主義の支配下に立つことを余儀なくされることは明らかである。ではこのことからいかなる結論が出てくるか? すなわち日本のプロレタリアートおよび被搾取人民にとってアメリカ帝国主義の支配からの解放は、世界帝国主義体制からの日本の離脱でなければならず、したがって日本における資本主義体制そのものの打倒によってのみかちとちれるものであるということである。換言すれば、今日、日本民族の解放はただ社会主義革命と結合してのみ、可能であり、ただ世界プロレタリア革命の一環としての日本社会主義革命によってのみ獲得される、ということである。日本のブルジョアジーとアメリカのブルジョアジーは国際プロレタリアートおよび日本のプロレタリアートの闘争にたいして帝国主義体制を守るために相互の利益で結びついていることは明らかであり、今日、日本ブルジョアジーは一般的には自らの力で日本を支配しているが、それにもかかわらず、常に背後のアメリカ帝国主義の力を頼みとし、必要なときには救いを求める用意をしているのである。
 もちろんこういったからといって、私はアメリカ帝国主義と日本ブルジョアジーとの間の矛盾を無視するわけではない。両帝国主義間の矛盾は、現存するし、今後も大いに増大するであろう。帝国主義諸国間の対立は本質的であり、これは決して解決されない。それゆえに相対的に強化した日本ブルジョアジーの側から今日しばしば独立について語られることは不思議ではない。まさしく戦後、破壊に瀕した日本独占資本の復活、その強化がサンフランシスコ体制として、一定の政治的「独立」を確認されたのである。だが日本のブルジョアジーの側からのいわゆる「独立」、アメリカ支配からの脱却の主張がアメリカ帝国主義者の利益と衝突する限り、それはいわゆる帝国主義的対立の発展以外の何ものでもない。そしてそれは日本のプロレタリアートにとってはなんらの進歩的意義をもつものでもなく、ただ情勢に応じて利用される敵勢力間の矛盾以外の何ものでもない。それは今日、吉田と鳩山、岸と河野の差異がわれわれにとって基本的にはほとんどなんの意義ももっていないことによって明らかである(それゆえに岸内閣の成立に当ってのプラウダ論説等は許し難いものである)。
 今日、草案も認める如く、日本は高度に発達した資本主義国である。日本資本主義が歴史的にはその進歩的生命をつかい果して社会の発展にたいする桎梏となっていることは、第二次大戦においてもあまりにも明白に示された。第二次大戦によって日本帝国主義がアメリカ帝国主義に屈服し、日本の経済が一定の破壊にさらされたからといって、日本は決して後進国、植民地へと逆戻りしたわけではない。日本はもう一度後進国から資本主義へと発展しなければならないのではない。こんなことはわかりきったことである。歴史はそんな後戻りを行なうものではない。今日の日本において「植民地」とか「奴隷的地位」とかいう言葉は、ただ宣伝、煽動の言葉、問題を一定の方角で端的に表わすときに用いうるのみであって、それは決して理論的表現ではあり得ない。
 日本は戦後、完全にアメリカ帝国主義の支配下におかれ、日本の政府はいちいちウォール街に伺いを立て、その顔色をつかがっている。これを「植民地」日本とよぶこと、これを呼びたければよべばよかろう。だがそこから日本における「民族解放革命」を云々し、「植民地革命」を云々するような連中は理論家でも戦略家でもない。もちろん科学的社会主義となんの関係もない。それはせいぜいアジテーションの文句を綱領ととり違えるものである。
 今日の日本において、日本民族のブルジョア的解放はあり得ない。帝国主義と封建制の抑圧下に自国の資本主義の発展とそれを土台とする民族的独立と統一を抑制されている後進国、植民地においては、民族のブルジョア的解放ブルジョア革命の中心としての民族解放のスローガンは一つの現実的意義をもつ。そのことからスターリンは、後進国の革命を世界プロレタリア革命の一環から切り離し、一国革命の観点に立って民族ブルジョアジーの役割を不当に過大評価し、プロレタリアートの独自的役割を低め、「プロレタリア独裁」のスローガンを拒否し、植民地革命を先進国の革命と全く切り離した。その結果の最悪の見本は一九二五―二七年の中国革命における国民党への追随による破産であった。
 だが、それはともかく、およそ今日の日本ではこのような「民族解放革命」すなわち日本民族のブルジョア的解放は、経済的土台からして現実の意義をもっていない。なぜならば、日本のアメリカへの従属の事実は日本が後進国であり資本主義以前の段階にとどまり、帝国主義の市場獲得闘争の場とされたから起ったものではなく、反対に日本が高度に発達した帝国主義国に成長し、アメリカ帝国主義と対立し、衝突した結果として起ったものだからである。日本の資本主義が未発達であるがゆえに、民族の独立、統一が阻害されているのではなくして、日本の帝国主義が矛盾を爆発させるところまで発達し、衝突したからこそ今日アメリカに従属せねばならなくなっているのである。
 このことはマルクス主義者でなくとも最近二、三十年の意識生活を送った日本の労働者ならば自明のことであろう。少なくとも日本の労働者階級の大多数は、戦前のいわゆる「独立」国日本の生活を体験しており、たとえそうでなくとも現在の眼前に日々日本の高度に発展した帝国主義ブルジョアジーの支配がいかなるものかを絶えず身にしみる程味わされている。しかるに党章草案を含めて、今日日本民族解放革命を云々するものは、日本プロレタリアートおよび被搾取人民のこれらの体験さえ全然無視している。草案は日本プロレタリアートの苦痛に充ちた数十年の歴史上の経瞼から教訓を引き出して、新しい現在から前へ進む道を見出そうとせずしてもう一度後へ引き戻して出直そうとでもいうのであろうか?
 戦前の日本において、民族解放革命が無意味であり社会主義革命への道が眼前にあったとすれば、今日の日本、帝国主義日本の矛盾が日本プロレタリアートに恐るべき戦争の苦難を通してより一層体験せられた今日の日本において、民族解放革命を説教することはますます反動的であり、社会主義革命の必要こそ、ますますプロレタリアートに理解しうるものになっているのである。
 日本における民族革命の任務は基本的にははるか以前明治の時代にすでに達せられた。日本は先進資本主義国に比して非常に遅れて世界的闘争の舞台へと入ったが、それにもかかわらず、地理上の一定の有利的な点を利用することによって、その後急速に発展することができた。第一次大戦は日本資本主義にとってさらに一層発展する大きな機会を与えた。ヨーロッパの大戦に列強が手をさかれ疲労している間に日本帝国主義は極東において漁夫の利を得て、軍事的経済的に多くの地域を征服した。だが大戦後諸帝国主義国がふたたび競争者としてアジアに力を加えるや、日本はこの強大な相手にたいしてはなおはるかに弱いということがわかった。
 コミンターン第三回テーゼはいう。
 「日本は……戦争を世界市場における自己の地位改善に利用した。しかし合衆国の発展に比すればはるかに制限されたものである。その発展は、多くの産業部門において温室的性質をもっている。日本の生産力は競争者を欠いた市場の征服に十分であったけれどもそれは強大な資本主義諸国との闘争においてその市場を維持するには不十分であることを証明した。それゆえに尖鋭な恐慌がまず日本から起ったのである。」
 明らかに遅れて発展した日本資本主義はこのようにアジアにおいて強大な帝国主義国就中アメリカ帝国主義とぶつかったのである。日本はその背後の経済的土台においてアメリカ帝国主義とは比較にならぬ程弱かった。それにもかかわらず日本帝国主義の内的矛盾の発展はこの強大なアメリカ帝国主義とぶつかって行くことを余儀なくさせたのである。
 同じテーゼはまたいう。
 「ドイツにたいする戦争参加によって一時隠蔽された日本とアメリカとの対立はいまや公然とその傾向を発展させている。戦争の結果、日本は太平洋の戦略的に重要な諸島を確保することによってアメリカの沿岸により近づいた。
 急速な膨脹に続く日本産業の恐慌は植民問題をふたたび悪化させた。――人口稠密で自然資源が乏しいので、日本は商品か人間かいずれかの輸出を余儀なくされる。どちらの場合にも、カリフォルニア、中国およびヤッブ島においてアメリカと衝突する。
 日本はその予算の半額以上を陸海軍のために支出する。イギリスとアメリカとの間の闘争において日本はフランスが陸においてドイツとの闘争に演ずると同じ役割を海洋において準備している。
 日本は今日イギリスとアメリカとの対立から利益を引き出しているが、世界支配のためのこれら両巨人の終局的闘争は第一に日本の背の上で闘わされるであろう。」
 かくして昭和の初め以来の日本帝国主義の凶暴な侵略政策、軍事独裁の強化が進められた。事情はいくらか変化し、ヒトラー・ドイツの強力な復活と結んで日本はアメリカ・イギリス両帝国主義と対立した。この対立はついにアジアでは太平洋戦争によって暴力的に解決され、日本帝国主義は依然としてアメリカ帝国主義に比して、その経済力、軍事力においてはるかにおよばないということを、いやという程思い知らされたのである。かくして戦後の日本がアメリカ帝国主義の支配下に立つ現実が生じた。
 すなわち戦後の日本の「従属」はまさしくアメリカ帝国主義と日本帝国主義の矛盾が不可避的に突入せねばならなかった暴力的解決の結果に他ならない。だがもちろん矛盾はこれによって決して解決されたわけではない。
 大戦は日本資本主義の矛盾を一層尖鋭化し、敗戦が日本独占ブルジョアジーの背骨をたたき折ったことによって、戦後日本は急激な経済的政治的危機に見舞われた。アメリカ帝国主義はこの事態に直面して、いうまでもなく日本のプロレタリアートに対立して日本の独占ブルジョアジーを援助した。アメリカが戦前、戦後を通じて日本にたいして民主的仮面をかぶり得たのは、基本的にはただアメリカ帝国主義が資本主義世界の最も強い中心をなし、強大な経済的余力を有したのにたいし、日本独占資本がはるかに狭隘な基盤しかもたず、帝国主義世界の弱い部分であり、恐ろしい矛盾にあえいでいたという事実の反映にほかならない。
 「民主的」アメリカ占領者はだが決して自己の階級的利害を忘れなどしない。彼らは日本プロレタリアートの闘争を抑えるべく強力にブルジョアジーを援助し実力をも行使した。労働者階級の偉大な二・一ストの闘争は正しくこの事実を暴露し、占領者の仮面をはぎとったのであった。
 いうまでもなく、いかに強力なアメリカ帝国主義といえども主観的願望にもとづいて日本を支配しうるものではない。彼らは日本を「従属」せしめるに当って日本の高度に発達した資本主義体制を無視することは出来ない。それゆえに五一年綱領のいう如く「日本工業にとどめを刺そう」などということは考えもしないし、また出来るはずもない。実際には彼らはずっと階級的利害に忠実である。彼らはプロレタリアートに対抗し、日本のブルジョア体制を援助し、そこから利益を引き出そうとした。
 もちろん、アメリカ帝国主義と日本独占資本の間には戦後といえども矛盾がある。しかし彼らにとってはプロレタリアートにたいしてまず何よりも日本における資本主義体制を維持し強化することが前提である。これなくしては元も子もなくなってしまう。それゆえに彼らの主観的意図がどうであろうと、その階級的利益にもとづく方角は不可避的に日本の独占資本主義体制の復活強化のほかにありえなかった。その事は、戦後の世界資本主義の危機から脱け出し、革命の波の高揚、就中中国革命に対抗して、世界帝国主義体制の再編成、強化をはかるためにも絶対に必要であった。かくして一九四六―四八年にかけ、アメリカは日本独占資本を復活させるための努力を続け、その一定の力を回復させるや四九年、五〇年にわたって日本プロレタリアートの先進部隊に向かって公然と打ってかかったのであった。この四九、五〇年の分析は今はおこう。いずれにせよかくして五〇年の朝鮮戦争(これは不可分に結びついているのだが)は、日本における資本主義体制が危機から脱出し、一応日本ブルジョアジーの復活の過程が一段落完成したことを明らかにした。かくしてその結果がサンフランシスコ条約として確認されるのである。このなかから日本独占資本主義は明らかに復活したことが確認される。それ以来、情勢は革命の衰退に向かった。日本ブルジョアジーはますます相対的に強化された。それ以来日本のブルジョアジーは基本的には自分の力だけで日本の人民を支配し得るようになったし、今日支配しているのである。この意味においていわゆるサンフランシスコ体制は、ただこの意味においてのみ日本の「独立」を認識したのである。――それはもちろんいくつかの制限つきではあったが。
 今日、日本ブルジョアジーはアメリカ・ブルジョアジーにたいしてさえ、ある程度取引きを行ない得る程に強化した。――中国貿易をめぐる対立その他――とはいえ、もちろん、アメリカの承認なくしてはなんら独自の財政的、軍事的な力をもつことは出来ない。この意味において日本は明らかにアメリカに「従属」している。そしてこの事実は日本が資本主義国にとどまる限り、容易に変化しないし、少なくともこの「従属」を脱却し得る確実な理由は存在しない。もちろん日本独占資本の現在まで進んできた相対的強化が続く限り、日本がイギリスやフランスの地位にまで高まること、これをアメリカによって確認されるという可能性は存在する。しかしながら条約がいかに改変されようと「従属」そのものは変わらないであろう。一旦、不景気、恐慌が来るや、日本経済がアメリカの支配下にあることは一層明白に現われるだろうし、日本が一層アメリカの重圧下に投げ返されるという見通しは極めてあり得ることである。日本のアメリカへの従属という事実は今日の世界帝国主義体制の中心が強力にアメリカへ集中されているという事実の一環をなしているのだからである。少なくとも日本帝国主義の復活がアメリカ帝国主義の利害と衝突し爆発点に達しない限り、そして日本帝国主義が進んでその方角へ進み得る実力を備えない限り――そして、差し当りこんな見通しはあり得ない。それは日本のヒトラー・ドイツ的復活だが、これはプロレタリアートにとって最悪の敗北の後の話だ――日本帝国主義はアメリカ帝国主義への従属をまぬがれることはあり得ないだろう。
 しかし、今日、日本ブルジョアジーは日本のプロレタリアートおよび人民にたいしては一応前面に現われて、自己の力でもって支配している。彼らはその力をもったし、またサンフランシスコで確認され、それ以後さらに強化した。この意味において彼らは「独立」した。その限りにおいて今日日本の国家権力はアメリカに従属した日本独占資本の手中にあるという規定は相対的に正しいといえるだろう。
 だが、この事はまた何時に日本が資本主義にとどまる限り、「独立」ということが、日本のプロレタリアートにとっていかに意味のないものであるか――もちろん、戦術的具体的問題においていうのではない――を明らかに示しているのである。日本独占資本の復活こそがサンフランシスコ条約をもたらしたのである。四九、五〇年のプロレタリアートの敗北がその前提であった。今日、サンフランシスコ条約を日本側に有利に改変しフランス、イギリスの地位に高まろうという要求、そのために、中ソとの外交を取引の手段とし、一方憲法を改悪して、武器を強化する要求を提出しているのは明らかに日本ブルジョアジーの要求の一側面である。この現在の日本において、社会主義革命の戦略的要求を背後に引き込めて、日本民族の解放革命を云々するものは、客観的には明らかに日本ブルジョアジーの強化へと追随し堕落するものである。
 いうまでもないことだが、もう一度念のため一言つけ加えておく、こう言ったからといってわれわれはアメリカ帝国主義と日本ブルジョアジーの矛盾を無視するものではないし、またその矛盾を利用することを否定するものでもない。たとえどんな小さなものであろうと敵の内部の矛盾を利用することをあらかじめ否定するのは、全然馬鹿者である。ましてアメリカと日本のブルジョアジー間の矛盾等を利用すること、場合によっては一方と一緒に他方をたたく可能性をあらかじめ否定することは出来ない。もちろんわれわれの独立的政策を少しも背後に退けることなしにでの話だが。だがこれはあくまで戦術的、実際行動上の問題である。ここで問題にしているのは綱領の問題であり、戦略上の基本的問題である。当面の要求ということを口実にして一切の問題を混乱させることは、実際上ベルンシュタイン主義へと落ち込むことである。われわれは現在から、一切の戦術を社会主義革命の基本的戦略に従属させねばならぬ。われわれは一刻も社会主義革命の戦略的要求をおろそかにしてはならない。今日現在から、われわれは日本における基本的問題の解決は社会主義革命なくしてはあり得ないこと。社会主義革命の具体的要求、たとえば「大企業、金融機関、交通運輸機関等の無償没収」等をかかげ、これなくしては日本の労働者および被搾取人民にとって解放はあり得ないことを、大衆に卒直に語らねばならぬ。あらゆる集会、機関紙、ビラを通じ、国会の演壇を通じて、そのことを大衆に訴えねばならない。
 しかるに社会主義革命を主張する論者の一部には、実際には当面の要求としてはわれわれは直接社会主義的要求へ進むのではなくして、民族の独立と構造的改良(?)の要求を掲げることによって、結局、社会主義革命を名前だけにしてしまう人々がいる。一体これではなんの役に立つか? もちろん、われわれは社会主義革命を主張しているからといって、そのための具体的戦術が必要であることは全然否定しない。全くその反対である。今日の情勢下にわれわれが直接権力奪取のための行動へ進み得ないし、大ブルジョアジーを収奪する行動をとり得ないのも明らかである。直接行動にうつるためには革命的情勢が必要である。そしてその情勢はわれわれの主体的努力によるばかりか、むしろ第一に客観的な条件が必要なのである。この客観的情勢を欠いている今日、いたずらに権力奪取のみをいうことはもちろん左翼的児戯に堕することである。今日われわれはまず大衆を背景に獲得するたたかいが必要であり、部分的改良的要求のために闘うことは絶対に必要である。だがそれにもかかわらず、われわれは今日現在から戦略目標を大衆に伝える努力を一刻といえどもおろそかにすることは出来ない。すべての戦術的闘争はこれに従属させられねばならぬ。もし当面の要求ということによって、戦術的、改良的要求が戦略的目標と切り離されるならば、それはたちまち改良主義へと堕落するであろう。社会主義革命の第一段階=民主主義的段階とか、社会主義への前段階としての人民民主主義革命とかいう理論、すべての色合いの二段階革命論は結局においてこの改良主義の道を行くものであり、一方からいえば戦略と戦術の関係をも知らないものである(ただし断わっておくが、私のいう社会主義革命の内容はもちろんブルジョア権力を打倒してプロレタリアートの独裁を打ち立てること。その下へ大ブルジョアの生産機関を集中することを意味しているのであって、社会経済的内容としての社会主義をただちに完成するなどといっているのではない。プロレタリア独裁はもちろん過渡期の権力であり、社会主義革命の社会経済的課題の遂行はそれ以後に属する。これは自明のことと思う)。
 構造的改良の要求について一言。帝国主義はすなわち資本主義の最後の段階であり、死に瀕しつつある資本主義であり、社会革命の前夜である。帝国主義と社会主義の間にはなんらの段階も存在しない。今日ますます矛盾に苦しみつつある日本帝国主義の下において、一体いかなる構造的改良が可能であろうか? これは明らかに資本主義を生きのびさせるための改良主義的努力以外の何物でもないであろう。こんな考えはとっくの昔に社会民主主義のゴミ溜へ投げすてられたものを拾い出そうとする反動的ユートピアにすぎない。ところがこういう考えが今日平和共存の理論と結びついてますますその日和見主義をおし出しつつある。われわれはこんな理論を少しも必要としない。こんな思想とはキッパリと手を切らねばならない。
 今日、日本のプロレタリアートの解放はただプロレタリア世界革命の一環としての日本社会主義革命によってのみ達成される。ただこれのみが日本のアメリカ帝国主義の支配からの脱却をもたらし得る。
 民族解放革命や人民民主主義革命についての一切の日和見主義的理論と明確に手を切ることが必要である。
 いうまでもなく、われわれは日本の革命においてアメリカ帝国主義とも闘わねばならない。「平和共存」の闘い(?)によって、アメリカからの解放が得られると考えるのはとんでもない見当違いである。日本における革命的危機が来り、プロレタリアートが進出するならば、国際帝国主義、就中アメリカ帝国主義は全面的にわれわれの敵として現われるであろう。日本ブルジョアジーはいうまでもなくこれに救いを求めるであろう。こんな時にアメリカが平和原則にしたがって不干渉を守ってくれると考えるならば途方もない。帝国主義は、いわゆる「独立」国ロシアの革命にたいしても、干渉によって数年の国内戦争を行なった。これにたいするロシア・プロレタリアートの英雄的闘争を勝利せしめたのはただ国際プロレタリアートの革命闘争の力であった。今日われわれの背後にははるかに大きな国際プロレタリアートの力がある。いかに歪められた指導下にあるとはいえ強大な労働者国家があり、世界のプロレタリアートの闘争がある。アメリカにおいてもプロレタリアートの部隊がある。われわれはこの国際プロレタリアートとともに世界革命のために闘い、その一環としての日本社会主義革命に勝利することが出来る。そして、それによって一層世界革命を拡大発展させることができるであろう。
 われわれは不敗のプロレタリア世界革命に賭ける。なぜならば、われわれ自身日本革命のためばかりでなく、国際革命のためにも闘っているのだがら。


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる