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パリ会談とゲバラ

――真実に民衆のアジアのために――
               酒井与七

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 五月十日、英雄的で偉大な南北ベトナム革命を代表して、北ベトナム政府と冷血、野蛮な反革命の帝国北アメリカ合衆国政府はパリに会談することとはなった。ベトナムで戦火をはさんで死闘しあう革命と反革命の代表たちのパリ会談は、たしかにジョンソンの「一方的北爆停止」(但し二〇度線以北にかぎる)を直接の手がかりにしているが、南北ベトナム革命を代表する北ベトナム政府の積極的なイニシアチブによってもたらされたものであること――このことはまったく明白である。
 部分的であるとはいえジョンソンの北爆制限が何を意味するか、これについてわれわれは四月の声明「のびきった帝国とわが世界――最後の一兵をおいだすまで」においてのべた。
 そして五月一〇日からのパリ会談が北ベトナム政府の積極的なイニシアチブにもとづいているという明白な事実は何を意味するのであろうか? 北ベトナム政府がその友好代表団を日本におくったということも、おそらくこのことと無関係ではなかろう。

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 北ベトナム政府のパリ会談のイニシアチブは、帝国北アメリカ合衆国をベトナム反革命の敗北にむけて導き組織するという目標にしたがってのこと――その全作戦活動の一部であるとわれわれは考える。

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 ベトナム革命の反革命との闘争において事態はいまやますます明らかである。三月三一日のジョンソンの部分的北爆制限についての声明は、北アメリカ合衆国のベトナム反革命における帝国的力の限界――この反革命という政治目標の絶対的な絶望性とともにこの政治目標の追求が不可避的に強制する他の諸矛盾の加速度的発展に包囲されて――を告白・自認するものであった。このことについてわれわれは四月の声明でのべた。南ベトナム解放民族戦線の本年旧正月攻勢の政治的評価をこころみた三月の声明「ベトナム革命はアジア解放の戦線をつくりだす」で、北アメリカ合衆国の全面介入以降のベトナム革命と反革命の闘争の全般的な政治総括と評価をわれわれはあたえた――ベトナム革命の現代における世界史的な偉大さのゆえんを、われわれはそこで主張した。

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 われわれはここでふたたび三月のわれわれの声明からやや長文にわたって引用する。
 一九五九年―六〇年以来の解放民族戦線の南ベトナム解放革命のゴ・ジン・ジェム体制にたいする組織化は、一九六三―六四年の時点において、都市を完全に包囲し、すでに都市の反革命体制の崩壊期=南ベトナム革命の都市への最終的波及の局面にたっしていた。このときまで北アメリカ帝国主義は、ゴ・ジン・ジェムの反革命的作戦と努力を「特殊戦争」として、軍事政治的指揮指導と物質的支持の役割にとどまっていた。彼等の南ベトナム反革命の力関係=彼らの反革命の絶対的窮状から抜けだし、力関係を圧倒的に立て直し、解放民族戦線を全面的に押し返し、北ベトナムを締めあげ、北アメリカ帝国主義の軍事的物量の巨大さにものをいわせて南ベトナムの革命を平定しようと乗りだしてきた。これが一九六四―五年の南ベトナムへの米軍事力の全面的投入の開始と北ベトナムへの空爆の開始であった。彼ら反革命の軍事政治用語でいうところの「限定された局地戦」の局面である。ベトナム反革命の軍事的主力は全面的に北アメリカ合衆国の空・海・睦の軍事力にとってかわられ、そのビルド・アップは急速にすすめられた。
 たしかに解放民族戦線が軍事政治的に立ちむかわねばならない敵は、急速にビルド・アップされ、北アメリカ合衆国の全ベトナムにおそいかかる巨大な戦争能力とその全装置にとってかわられた。北アメリカ合衆国の帝国的力に主導されたベトナムの反革命は急速にビルド・アップされた軍事的物量に物をいわせて、南ベトナムの都市地帯を中心にして一時反革命の支配を部分的に拡張することができた。また全ベトナム民衆の社会経済生活にたいする未聞の破壊を組織することができた。しかし、北アメリカ合衆国の帝国的力が主導勢力としてセリ出した成果はまさしく以上にとどまった。彼らはそれ以上には一歩たりとも反革命の勝利に近づくことはできなかった。

 解放民族戦線と北ベトナムは、北アメリカ合衆国の巨大な物量にものをいわせた反革命的な軍事ビルド・アップにたいして、ゲバラもいうようにまさしく英雄的に抵抗し持ちこたえた。解放民族戦線と北ベトナム国家に物質化されたベトナム革命は、その主力において完全に抵抗し持ちこたえたのである。ベトナム革命の主力の隊伍はアメリカ帝国主義の巨大な軍事的物量に圧倒されることはなかった。北ベトナムにたいするアメリカ帝国主義の空・海からの破壊の組織にたいしてすら、労働者国家ソ連邦はこれを防衛し一指だに触れさせまいとは絶対にしなかった。――ソ連邦国家はこのことを北アメリ力帝国主義に許した。ソ連邦国家の現政府のもとにおいては、その巨大な軍事力は世界の諸々の労働者諸国家を防衛する手段ではなかったのである。
 他方、中国革命の国家はこのベトナム革命の深刻かつ危機的な岐路にさいして、国家を上から下まで分裂させるというそれ自体の混迷へとつき進んでいった――毛沢東一派の文化革命とはベトナム革命の戦線にはせさんじるためのスローガンをかかげてのことであったか!? 毛沢東の文化革命はベトナム革命にたいする全くのセクト的行為というべきである――これはベトナム革命の危機の増大にプラスした。革命中国の任務はソ連邦国家をベトナムへ引きずり出し、ベトナム南北の革命と同盟して、これを政治的に監視統制しようとすることにあったはずである。中国国家は、ベトナム南北の革命をまさしく毛沢東の言葉どおりそれ自体の「自力」=孤立に深くゆだね、アメリカ帝国主義の反革命的企図をたすけるようなものであった。
 全植民地世界にわたって植民地解放の諸闘争と諸条件がうち続く敗北を喫しつつあるとき、北アメリカ合衆国の帝国的力がベトナム革命に全力をあげておそいかかってきたとき、中、ソ両大労働者国家の態度がこのようなものであったとき、そのとき南北ベトナムの革命はベトナム人民に深く基礎をおろして一人で北アメリカ帝国主義の巨大な軍事的物量に抗しつづけた。南北ベトナムの革命は北アメリカ帝国の反革命軍事力の物量的な莫大さに決して圧倒され屈服されることがなかった。これこそゲバラがいうベトナム革命の英雄主義であり、これこそ今日のベトナムとアジアと全世界の新しい情勢を生みだすテコだったのである――帝国主義のおしよせる世界反動をベトナムの一点でさおさし、これをおしかえす胎動のテコへと自ら転化させつつあるもの――南北ベトナムの革命である。

 北アメリカ合衆国のおそいかかる反革命の軍事的物量の巨大さにたいするベトナム南北革命の政治的ヘゲモニーのもとに中・ソ両国家を次第に積極的に引きつけはじめた――昨一九六七年春のベトナム革命の側からの「和平」キャンペーン後の解放民族戦線のロケット砲をふくむ軍事作戦の攻撃的展開によって、そのことがしめされている。
 この昨春季攻勢は次のことをしめした――北アメリカ帝国主義のベトナム反革命の強化にかかわらず、解放民族戦線が隊伍の基本的な力を維持しえているだけではなく、強化されたアメリカ帝国主義の作戦諸部隊にたいする百ミリ口径ロケット砲をふくむ攻撃的作戦能力を獲得していたことを。このときからこの旧正月以来の解放民族戦線の大胆不敵な全国的攻勢の作戦展開へいたる局面がはじまっていた。解放民族戦線はテストされて米軍事力に対抗するべく隊伍を強化され、中国領土をとおしてソ連東欧諸国家からより近代的な武器の獲得をはじめていた。
 北アメリカ合衆国の強大な反革命の軍事的物量に抗するベトナム革命の生命力の強靱さの証明によって、ソ連邦国家をベトナム革命の側へ歩一歩と引きつけ、ここから武器と経済的諸手段の引き出しを増大した。昨年春はまた、中国領土を通過する武器輸送について、ベトナム南北革命の圧力のもとにこの中ソ両国家がたがいに妥協をとげさせられたときであった。ソ連邦国家は、ベトナム革命を容易に売りわたすことのできないことを事実によって知らされて、日和見的受動的にながらベトナム南北革命に引きつけられることを余儀なくされた。――これをベトナム革命は北アメリカ帝国主義に直面しての偉大な予備的勝利の一つとして誇り記録することができる。中国はソ連国家のベトナム革命にたいする余儀なくされた援助の強化にたいするセクト的な障害をベトナム革命の圧力におされてとりのぞき、あるいはより少なくすることを強制された。
 かくして、ベトナムの革命は、昨年春、すでに北アメリカ合衆国の巨大な帝国的な反革命に耐えることから、さらにこれに立ちむかう重大な前進を開始していたわけであった。
 中・ソ両国家は、少なくとも北ベトナム国家にたいする共同の積極的な軍事的防衛にたちあがることはしなかったが、北アメリカ合衆国の帝国的反革命に対抗し闘い抜こうとするベトナム革命の意志とその必要=諸々の軍事経済的支援を認めなければならなくなった。ベトナムの革命は、その人民に深く依拠する生命力によって官僚的な労働者諸国家の利害にとってすら追随せざるをえないものであることを示した。
 一九六七年の解放民族戦線は北アメリカ合衆国の反革命の軍事的物量に捕捉されることなく、この巨大な軍事的物量にたいする積極的攻築能力を発展させつつあることをしめした。
 ベトナム南北の革命は、北アメリカ帝国主義のベトナム反革命にたいする死活の闘争をとおして政治、軍事、経済的に一体化の度合をふかめていった。ラオスの愛国戦線とベトナム南北革命の緊密な協力は一層深められた――ラオス愛国戦線(パテト・ラオ)はその活動を活発化させはじめた。昨一九六七年はたしかに北アメリカ合衆国のベトナム反革命の力の限界点である。北アメリカ帝国主義の自らを主導力としてベトナム反革命に登場させて以来の反革命の力の限界点がここに印され、ベトナム革命の再組織化され、強化された積極的前進の公然たる証しはこのとき印された。北アメリカ帝国主義の公然たる反革命への出動からくる深い政治的圧迫感から、われわれはまさにこの一九六七年の解放民族戦線の春季攻勢作戦の展開によって解放感の端緒をえたのである。あらゆる種類の一国主義者どもに抗して、われわれは絶対に確信する――日本反戦闘争の今日にいたる新しい高揚にむけての政治心理的な解放の端緒と土台は、まさしくこの昨春以降の解放民族戦線の中・ソを引きよせた攻勢的作戦展開にあると。
 わが日本反戦闘争をして全世界的にわたって積極化してゆく国際反戦闘争の客観的土台が、南北ベトナム革命の孤軍奮闘をとおした戦線布陣の開拓にあたったことを意識的にみとめなければならない――まったくわれわれはインターナショナルにベトナムの革命の孤軍奮闘に負っているのである――ベトナム革命はわれわれのインターナショナルな新しい世界を支えはじめたのである。ベトナム革命は英雄的で偉大であるといわなければならないのは、われわれにとってこの現由によってである。
 そして一九六八年一月旧正月以来の解放民族戦線の南ベトナム全土にわたる打ちつづく複合的な全面的な攻勢的諸作戦の展開である。一九六八年は新しい一九六四年の再現の開始である。
 一九六四年はゴ・ジン・ジェムのサイゴン反革命体制の都市への解放民族戦線の攻勢的包囲と波及、浸透の年であった。反革命への全面的な圧倒をめざす攻勢的対決へとつき進みつつある革命の年であった。
 一九六八年春は北アメリカ合衆国のベトナム反革命の力を正面の敵とするベトナム革命の対峙的な攻勢の諸作戦と活動の局面のはじまりを印す。
 北アメリカ合衆国の全物量をひっさげたベトナム反革命の主導力としての登場は、ベトナム革命とその人民に深い犠牲を強いることは出来たが、革命の生命力=その隊伍の根本を弱体化させるという目標を絶対的に達成しえなかった。北アメリカ合衆国のベトナム反革命は、ベトナムの革命を深く鍛え、たたきあげ、北アメリカ帝国主義の反革命の物量に対抗する革命的力へと育てあげただけであった。ベトナムの革命はこの三年間をかけて、北アメリカ帝国主義のベトナム反革命にたいする劣勢をとりかえし、体制を強化して登場しただけであった。ベトナムの革命と反革命の闘争において、革命はいまや反革命に全国的に対等し、革命の独自の攻勢と反革命への積極的破壊と織減作戦の局面へつき進みつつある。
 再び攻勢の作戦と活動に手をつけるべきときはきたのである。諸都市の反革命の行政諸組織とカイライ軍と警察諸隊、反革命の軍事諸施設、全面的かつ即時にではないが米軍部隊にたいする部分的なしかし重大な攻勢的殲滅作戦――ベトナム革命はいまやこれらの諸目的を積極的に追求するにいたるまで戦列を補強し、たてなおしたのである。
 北アメリカ合衆国の反革命の指導、指令部は手前勝手な「作戦、平定」の諸々の計画をえがいていた――これらは一切合財幻想であった。彼らはそのことをいまや認めた。彼らは現にはじまりつつある局面においてその反革命の力をテストされるであろう。チュー、キのサイゴン政府体制の幻想の一切は木端微塵に打ちくだかれ、消しとばされてしまう。北アメリカ合衆国の白いノイロティックな国民たちはいまや、本格的にベトナム反革命の道徳的基礎に直面させられ、ベトナム革命の深く強化された真実の力に直面させられる。ジョンソンとラスクとウェストモーランドたちはもう幻想をちりばめふりまく余裕さえもない。彼らは最後の全力をふるってみる以外にない。実際、ベトナム人がベトナム民族として生存しているかぎり、ベトナムの革命を打ちまかすことはできない。反革命は全ベトナム人一切の殺戮を組織することなしには、ベトナムの革命を消しさることはできないであろう。
 このことがソ連邦国家をベトナム革命が強く引きつける理由である。
 北アメリカ合衆国の国民的指導者たちが「戦術核兵器」について真剣に口にするのも偶然ではない。彼らは幻想から国民を覚させて真剣に軍事的努力を強化する以外に道はない。北アメリカ合衆国の白い国民たちはこうして最後の選択へとはじめて引きつれてゆくのである。

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 三月三一日のジョンソンの部分的北爆制限の声明は、われわれのこの三月の政治的評価を完全に裏書きする以上のものであった。ジョンソンのこの声明は、帝国北アメリカ合衆国がベトナムの反革命において、その力を完全にのびきらせてしまっていることをしめした。その政治軍事的な物量の巨大さにもかかわらず、帝国北アメリカ合衆国は南北ベトナムの革命に勝利しえないことが、事実にもとづいて絶対的にあきらかとなった。
 ベトナム革命と反革命の闘争の性格は、いまや革命の攻勢と反革命の守勢へとはっきりと変った。ベトナムで革命は反革命にたいして対峙的関係以上のものをあきらかに獲得している。
 北ベトナムにたいする爆薬と鉄片の雨あられは、北ベトナム革命を屈服させなかった――北ベトナムの国家は南ベトナム革命との一体という立場をつらぬきとおした。南ベトナムの農村・山間部は文句なしに解放民族戦線のもとに掌握されている――帝国北アメリカ合衆国が五〇余万の軍をもって反革命の直接の当事者としてのりだしてきたにもかかわらず、この反革命の物量的巨大さはここでも山野を焼きつくし民衆の生活の破壊の度合をふかめただけであった。解放民族戦線の解放区はその体制をただ盤石のものにしただけであった。
 一月旧正月攻勢以来の反革命の作戦は、どのような確たる政治軍事的な戦略ももたない――その諸作戦はただ反革命が自身をなぐさめるために展開されているようなものである。ウエストモーランドたちが一月旧正月攻勢をうけてのち一五―二〇万の米兵の派遣をもとめ、ジョンソンがこれをしりぞけて部分北爆制限を余儀なくされたことを明らかにしている――ベトナム反革命の主導者たる帝国の指導部が、この反革命における政軍略の根本において闘いを放棄したことを。このベトナムで戦闘は勝利を目標にして政軍略をたてることなしには、防衛すら成功的に組織し指導することはできない。この反革命は五〇余万の米兵を中心とする一〇〇余方の反革命の軍員を擁して革命のまえに立ちはだかってはいる。この反革命は彼らの限りに防衛の戦線にたちつづけようとするであろう。だが確定的に反革命の勝利の目標を放棄し、その軍事的戦略行動の余地に上限を画された反革命は、その力の衰退を絶対的に余儀なくされるであろう。反革命の政軍略は深い混乱と滅裂のさまである――どのような体系だった政軍略もたちそうにない。
 解放民族戦線の山間・農村部における背後地は政治・軍事的に絶対的に盤石であり、一月旧正月以来の定期的にくり返されゆくサイゴンを中心とする都市にたいする攻勢は、反革命の指令部たる都市中の都市サイゴンの最後的な崩壊・その住民の反乱的な組織化に焦点をさだめてきている。南ベトナムのわずかに残されている都市部の民衆を最後的に革命のがわに獲得し、反革命の都市を真実に解体すること――これが解放民族戦線の今日あきらかな政軍的目標である。少数の都市地域をのぞく南ベトナム全域で、解放民族戦線は思いつきと申しわけのような反革命の作戦行動を適当にあしらうことができる――肩すかしをくわえ、攪乱し、奇襲し、徒労と疲弊にくれさせ、部分的殲滅をつみあげる。南ベトナムの広い地域では解放民族戦線は文字どおり自由に自己の作戦活動を展開する――ここでは解放民族戦線は無条件の戦略的主導権と優位性を保持している。
 解放民族戦線はこのように南ベトナムの圧倒的地域を盤石な背後地として、サイゴンを中心とする少数の反革命の都市を喰い破るという目標を執拗に追求しつづけるであろう。この目標はいわば急進カンパニア主義とでもいうべき軍事襲撃による攪乱にとどまることはないであろう。革命は真実にサイゴンを喰い破るであろう――つまり反革命の都市にある民衆を真実に獲得しようとするであろう。都市民衆そのものに深くまもられ、これに基礎づけられた奇襲と軍事作戦、また民衆たち自身の反革命にたいするテロルとレジスタンスと大衆デモンストレーションが必ずや展開されることとなるであろう。ベトナムの反革命が勝利という目標の放棄を余儀なくされているということ、また帝国の代表が「パリ会談」を余儀なくされていること――このことは解放民族戦線の都市民衆にたいする働きかけを絶対的に有利する。

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 結局のところどれだけの時間が経過しなければならないか、そのことについてわれわれはいま知ることはできない――だがベトナムでは反革命の敗北にむけた持久戦の局面にいま明らかにはいりこんでいる。
 今日以上に南北ベトナム革命の位置、その政軍上の戦略・戦術的目標があきらかであったことはないであろう。この革命はいまや自己の勝利を完全に確信している――「どの時間のうちか? それは反革命ののぞみのままである」とこの革命は確信しつつあるではないか! 帝国北アメリカ合衆国のベトナム反革命はもはや現実の力関係において展望をもたない。ベトナム革命は、いま勝利の完成にむけた仕事と闘争にとりくんでゆく。
 北ベトナム政府によって積極的なイニシャチブがとられたパリ会談は、このようなベトナムにおける革命と反革命のすでに確立されている力関係と確信にもとづく一つの戦術=作戦行動である。ベトナムの革命はこの場を徹底的に宣伝の場として利用し、勝利の完成へ成果をかりとる小作戦=マヌーバーとして利用するであろう。
 実際に、ベトナムにおける革命の反革命にたいする現実の闘争といまや明白に可能的な勝利への展望という確信とその目標を十分に自覚して、北ベトナム政府は会談にのぞむ。帝国北アメリカはどのような確たる見通しもなしに会談にのぞむ。パリ会談にのぞむ革命と反革命の双方の立場の相異は、現実の戦場における双方の立場の力関係をそのまま反映しているのである。
 パリ会談にのぞむ北ベトナム政府代表は、反革命の帝国の言い分の一つ一つを、まぎれもない事実にもとづいてそれらがいかに手前勝手なものであるかを忍耐づよく世界にときあかしてゆけばよい。そして現実の戦場である南ベトナムでは歩一歩と革命の地歩を都市に築き、帝国とカイライたちの反革命政軍体制の解体と殲滅を確実につみあげてゆくであろう。

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 パリ会談にのぞむ南北ベトナム革命の根本目標――これは曇りなく明らかであり、どのような妥協も絶対にありえない。南北ベトナムの革命は、パリの会談においてもまたベトナムの完全な独立と外国帝国主義からの完全な解放の原則を一歩たりとも譲らないだろう。このことを理解し確信しえないものたちは、南北ベトナム民衆の闘いと革命の偉大さの真実を絶対に理解しえないものたちである。ベトナム民衆の真実に英雄的で偉大な底深い闘いと革命は、この点にかんする疑念と憶測を絶対に許さない。
 われわれの昨一二月の関東臨時総会の決議「ベトナムの革命と反革命――その世界的構造」がベトナム革命の準備されていた巨大さの度合に立ち遅れることのはなはだしさはすでに明らかである――そのことは一月旧正月の解放戦線の大攻勢によって明らかとなった。南北ベトナムの民衆の革命は勝利への生存をしめし、わが世界をまさしく担ったのであった。

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 パリ会談にその代表をおくるベトナム革命の帝国の反革命から解放と独立を勝ちとるという確信に疑念をさしはさみえるようなものたち――ベトナム革命の代表がパリ会談にのぞむのをとらえて、これを「話し合い主義者」や「妥協主義者」であるとするものたち、あるいは南北ベトナム革命の指導部は「スターリニスト」であるとしてこと足れりとするものたち、そのものたちはただ自分たちの主観主義と愚鈍さのかぎりを告白しているだけなのである。そのものたちは国際階級闘争と国際革命について口にすべきでない。このあわれなものたちは次のことに気づくことができない。あのゲバラの「二つ、三つ、もっと多くのベトナムを!」は何を「叫び」「呼びかけ」ていたのか、ということを!
 一九六七年春、ゲバラは呼びかけ、叫んだ――
 それ自身世界帝国たる北アメリカ合衆国が最中心となって世界帝国主義は全植民地世界にわたって意識的・活動的・攻撃的な政治軍事にわたる予防反革命を組織してきた――彼らは植民地革命の可能的な前進にたいして先制的な予防反革命を組織し、軍政的支配を世界的に強化してきた。
 帝国北アメリカは、歴史的に中国革命を客観的な背後地とする南北ベトナムの革命にたいして、これを植民地反革命の勝利の仕上げとばかりに数十万の帝国軍事力の巨大さをもっておそいかかってきた。南北ベトナム民衆にとってこの反革命の軍事的物量の巨大さは真実に大変なものであった。
 このとき南北ベトナム民衆の解放革命の世界における孤立はいかばかりのものであったろうか? 史上最強大な世界帝国北アメリカ合衆国の反革命の軍事的物量の巨大さ! 南北ベトナム民衆の解放革命はこのとき、どこから真実にその名にあたいする支援をえたか? 中・ソ両巨大国家はたがいに国家的争いに血道をあげた。ソ連邦国家は北ベトナム革命の国家を無条件に軍事的に防衛しようとしなかった。――この国家が誇示する軍事力はベトナム民衆の国家にとってはものいわぬカカシでしかなかった。「現代最高のマルクス・レーニン主義者」たることを誇称する毛沢東の中国は、全植民地的予防反革命の到達点としておそわれる南北ベトナム革命の防衛をその中国国家政策の第一の中心におこうとしなかった。彼ら「文化大革命」の深くシニックな操作主義的徒労と化した輩は、ベトナム革命の世界帝国北アメリカ合衆国からの軍事・政治的防衛を第一義的に優先させるべき課題として、ソ連邦国家とその指導部との闘争をこれに従属させようとしなかった。国内政策をベトナム革命防衛に従属させようとしなかった――毛沢東をとりまく徒党的輩の文化革命は、帝国北アメリカ合衆国と孤立のなかで苦難の抵抗の戦火をまじえつつあった南北ベトナム革命に背後から一撃を加えるようなものであった。南北ベトナム革命にとって毛沢東たちの「中国文化革命」はいかばかりか深い政治的衝撃をあたえたであろうか! 毛沢東をとりまく徒党的輩どもはスターリンの一国社会主義路線に何とまた忠実であることか!
 一九六五―六六年、南北ベトナム革命の孤立は深いものであった――この革命は余儀なくされた孤立のなかで深い政治的決意をおこなった――耐えかつ抵抗し闘い抜こうとする以外にない、と。
 帝国主義世界の産業プロレタリアートからの現実に物質化された支援はさしあたって問題外であった――ケネディにつづいてジョンソンのもとで帝国北アメリカ合衆国の経済はおそらく歴史に記録されるほどの膨張をとげてきていた――その準備されている矛盾の度合は別にして。
 ゲバラが悲痛にたたえなければならなかったベトナム民衆の抵抗と闘いの英雄主義と偉大さとは、このように歴史的であり、具体的でリアルなものであった――その称讃は深く悲痛な解放の闘士の心の叫びであった。
 史上卓越した世界帝国の巨大な反革命に孤立してたちむかい抵抗する南北ベトナム民衆の解放革命に、世界はうそいつわりなく真実に=一切の幻想なしにどのようにかけつけることができるのか? そして帝国たちの世界にたいする民衆たちの世界のための解放への闘いはどのように展望可能なのか?

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 「二つ、三つ、もっと多くのベトナムを!」は、まさしくこのことについてゲバラが「叫び」「呼びかけ」た植民地民衆を前衛とする永続的世界解放革命のテーゼなのであった。これは語調のいいたんなる景気づけのスローガンではない。その真実の意味を意識的に獲得することなしにむやみやたらにかつぎまわることによって、われわれはこのスローガン「二つ、三つ、もっと多くのベトナムを!」をけがし台なしにしてはならない。このスローガンをわれわれのスローガンにしようとするかぎり、その真実の実践を企図しようとしなければならない。
 ゲバラは「叫び」「呼びかけ」る――
 南北ベトナム民衆の解放革命は余儀なくされた孤立のなかで抵抗し闘っている。中・ソ両巨大国家は結局のところ消極的な支援以上に出ようとしないし、これを非難し批判しつづけてもそれ以上のことを現実の解放革命闘争の世界戦略の計算にいれることはできない。帝国の世界の産業プロレタリアートたちはさしあたって間にあわないし、未知数である。そして、南北ベトナム民衆の解放革命は、世界帝国北アメリカ合衆国との苦難の戦闘を交じえ抵抗し闘いつづけることそのものによって、この帝国の反革命の予備力の重大な放血を強制し、この世界帝国の弱体化を確実にはかりつつある。まさしくこの現実のなかに、いまはじまっている時代の世界解放革命の原型があり、世界が南北ベトナムにかけつけるべき闘いの姿の原型がある。帝国の世界は、植民地世界で予防的大草命の軍事政治支配を強化した――植民地世界を軍政的に彼ら反革命の側へ予防的にゆりもどした。まさしくこの植民地の世界に「二つ、三つ」の新たなべトナムのような真実の解放革命の戦場を築くことである。世界帝国北アメリカ合衆国に「二つ、三つ、もっと多くの」重大な放血の戦場を強制するのである。この世界帝国の強制放血の世界戦線を拡大すること――ただこのようにして、この帝国の世界反革命の可能的力の消耗と放出を分散、加速化し、帝国として憔悴させようとすることによって、南北ベトナム民衆の解放革命に世界は真実にかけつけることができる。
 実際、この世界帝国は反革命の世界憲兵隊として民衆のあらゆる解放革命の絞殺にかけまわる。世界民衆は、この帝国との武力の戦場をくぐりぬけることなしには、解放された民衆たちの世界を獲得しえない。
 南北ベトナムの民衆たちの解放革命の戦列に世界がかけつけようとすることは、こうして世界帝国にたいする強制放血の包囲の戦場を布陣することによって、この帝国の不断の間断ない弱体化=政軍経済的憔悴を組織しようとすること=この意味で永続的な世界解放革命の不可避の展望なのである。
 問題は、この世界帝国と真実の戦端をひらき、その重大な放血を強制しうる民衆たちの真実の解放戦線をこの世界のどこで、どのように、どのテンポで築きうるかである。これは急進カンパニア主義の諸行動の自然発生的で経験主義的なつみあげの総体では絶対にない――幾万・幾十万の反革命の軍事要員と巨大な軍事装置を結局のみこみ放血たらしめる民衆の真実の解放戦線である――南ベトナム解放民族戦線のように!
 すくなくともわが日本「新左翼」たちは、結局のところいまがわれわれ自身もふくめて、南ベトナム解放民族戦線とのどのような比較にも耐ええないことだけはあまりにもたしかである。この「新左翼」と称する彼らは深く旧左翼的である。その「新左翼」とはまったくのところ国際階級闘争についての誤解の集積以上のものであるのだろうか?

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 パリ会談にのぞむ南北ベトナム民衆の革命の現在を、われわれはこのゲバラの永続的世界解放革命の見地にてらしてみなければならない。
 南北ベトナム革命がパリ会談にのぞむという現在、ゲバラが「叫び」「呼びかけ」た民衆たちの全世界と南北ベトナム革命の関係は世界帝国北アメリカとの対抗と闘争においてどのようであるのか、と。
 民衆たちの全世界は南北ベトナム革命にかけつけることに間にあったか? 否、いまだ、いまだである。南北ベトナム民衆の革命の孤立は今日どのようであるか? この革命は帝国北アメリカ合衆国の反革命にたいして自分自身の力によって勝利への布陣をきずきあげてきた。あるいは帝国北アメリカ合衆国の黒い北アメリカの煮えたぎりゆく潜在的反乱力の形成が、その経験的姿のままながらも多く南北ベトナムの革命に力をあたえている。
 ゲバラが「叫び」「呼びかけ」たベトナム革命によって切りひらかれた情勢の巨大な有利さにもかかわらず、この革命にまにあわず、ベトナム革命の単独の勝利をみなければならないかもしれない。民衆の世界において状況は逆転しつつある。今日、この状況の逆転という現実的可能性という事実のうえにたって、われわれの立場と展望をたてようとしなければならない。そして、そのことを理解しないものたちが、自らの立遅れの無様さに無自覚で「ハノイの妥協主義や話し合い主義」についてわめきたてる――これはまったく本末転倒というものである。

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 南北ベトナム解放革命の綱領が深く民族的である――「独立・民主・平和・中立」――このことを何か偶然なこと、あるいは「スターリン主義的」指導部がベトナム民衆に「官僚的に強制したもの」であるにすぎぬなどと考えるものがいるとしたら、それは大馬鹿ものである。民衆の無意識のうちにある政治意識は深い真実をいつわらない。南北ベトナム革命の綱領が深く民族的であることには、現実のなかに強力な根拠があるのだ。これは悲惨な全世界革命の歴史・二〇世紀のアジア革命の悲惨を深く反映しているのである。
 植民地解放革命が帝国主義支配からの完全な解放を中心にして闘いぬかれるという一般的性格から、その第一のスローガンと綱領が民族主義的なものであることは明らかである。だが、キューバ革命の深い国際主義的スローガンの発展と比較するとき、南北ベトナム民衆の解放革命がかかげる綱領の民族的性格の深さはあきらかである。革命キューバは全ラテン・アメリカの一体としての解放革命についていい、ラテン・アメリカ・インターナショナルのようなラテン・アメリカ人民連帯組織を組織し、南北ベトナム革命は独立と中立のベトナムをいう。この対比はあまりに鮮かではないか! ここには、真実の大陸的革命の坐折と流産を経験していない新しい革命の大陸ラテン・アメリカと二度にわたる深刻なアジア革命の流産と中途坐折を経験したアジア民衆の意識の相異がある。アジアの人たる諸君たちは自分自身の民衆意識に静かに尋ねてみるがよい――その意識は卒直かつ自然にアジア民衆・民衆のアジアを感じるか!その意識はアジア民衆・民衆のアジアを自由にかつ容易に想像する=意識に獲得することはできないであろう。その分裂を深く感じるであろう。意識は、強く努力することなしには、民衆の解放アジアをとらえることができないであろう。

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 全アジア民衆革命の第一波は一九二〇年代の中国プロレタリアートを主導者としその広大な農民を導こうとした第二次中国革命であった。これは全アジア革命の真実の序幕たりうるに十分な巨大さをはらんでいた――だが一九二七年の上海クーデターは、このアジア革命をついにその序幕で敗退と流産を余儀なくさせた。全アジア民衆革命の第一波の流産という屍のうえにのみ、一九三〇年代から四〇年代にむけて脆弱な新興帝国日本はつかの間の徒花・大東亜共栄圏を狂いさかせることができたのである。
 新興帝国日本の脆弱さは、その大東亜共栄圏を不可避的にもっぱら略奪的なものにし、帝国主義支配のもとに急速に崩壊しきっていた伝統的社会構造ともどもに旧帝国たちのアジア植民地・半植民地体制を深く解体していた。ここに一九三〇年代、四〇年代にむけた第二次アジア民衆革命への反抗の種子を準備した。中国紅軍と解放区の準備的形成=第三次中国革命の原型の形成。今日にいたるベトナム革命の歴史的出発はまさしく一九三〇年代にある。朝鮮の革命家たちも一九三〇年代に満州で朝鮮で隊伍を準備した。革命の火種はマレー、ビルマ、インドネシア、フィリピン、インドネシア半島へひろがった――日本をのぞくビルマ以東の全アジアに民衆の戦火の火種が散った。一九四〇年代にはこれらアジア民衆の蜂起と武装闘争の実に壮大な絵巻きがくりひろげられた。蜂起しなかったのは日本民衆だけであった――とはいえそのプロレタリアートは素晴しい前革命的闘争にくりだしていったのだが。一九四〇年代には壮大な全アジア民衆の第二次革命であった――中国、朝鮮、インドネシア半島、マレー半島、ビルマ、フィリピン、そしてインドネシア――ここでは民衆の武器を手にした解放革命の戦闘があった。
 だが、この第二次全アジア革命は、全的に勝利へ結実しなかった――一九五〇年はその中途半端な坐折と解体とブルジョア反革命の巻きかえしの時期であった。朝鮮戦争とベトナムの南北分割こそはアジア革命の決定的な転期であった――帝国北アメリカはアジアに反革命として決定的に乗り出してきた。第二次アジア革命は、それ自体すでに巨大な中国革命国家、北朝鮮、北ベトナムを帝国主義植民地ブロックからもぎとるにとどまった。中立インドとビルマまたインドネシアのスカルノ、ボナパルチズムは歴史的には
この第二次アジア革命の余燼にすぎない。わが日本の吉田体制と民同総評=社会党体制も同様にこのアジア革命の中途坐折が生みだした奇形児であるだろう。

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 五〇年代の第二次アジア革命の中途坐折においてもっとも悲惨だったのは、生き身のまま裏切られ売りわたされたベトナム南部の革命であった。一九五四年のジュネーブ協定によってこの革命はアジアの新帝国=北アメリカと結びつくゴ・ジン・ジェムの反革命により生き身を切りさいなまれたのである――この革命は死滅の寸前まで合法闘争の枠を厳守した。だが革命は抵抗し闘わずして死滅することをうけいれることはできなかった。ベトナム南部の革命は自衛にたちあがったのである。その自衛の闘争からはじまった革命と反革命の闘争の力学は、革命の圧倒的勝利として記録された――かくしてベトナム南部解放民族戦線は成立したのであった。
 ベトナム南部の革命は一九四〇年代の第二次アジア革命の苦難にみちた生存の闘争を闘いぬいてきた唯一つの生きのこりである。一九六五年以降の帝国北アメリカ合衆国との死闘の勝利的な遂行によって、ベトナム南部の革命は北の国家を獲得して全ベトナム革命へと自分を転化した。
 ベトナム南部の革命は真実に偉大ではないか! この革命は第二次アジア革命と来るべき第三次アジア革命を歴史的に橋渡しするという苦難にみちた英雄的偉業を、いまわれわれに示しつつあるのだ。この革命は満身創痍――第二次アジア革命の中途坐折という巨大な重圧のなかで生きぬき、いま勝利をかざらんとしつつある。かつて一九三〇年代、中国紅軍はかの「大長征」をあえてして、第一次アジア革命と第二次アジア革命に橋をわたした。ベトナム南部の革命は、第二次アジア革命の中途坐折を耐え、深く傷をおいつつも第三次アジア革命へいたる文字どおり大長征をやりおおせたのである。この時代のアジアにベトナム南部の革命をのぞいて、大長征をやりえた革命がどこにあるか! 毛沢東をとりまく徒党たちの「中国革命」は、中国共産党がついに第二次長征に耐ええなかったことをしめしている。
 ベトナム南部の革命は一九五〇年代後半から一九七〇年代にむけた大長征を担った。これを真実に第二次から第三次アジア革命への橋渡したらしめ、長征として完成させるべきものは現実の第三次アジア革命そのものである。第三次アジア革命は中国をとりまく帯によって担われる――南朝鮮・日本・沖繩・台湾・フィリピン・インドネシア、マレー半島・ビルマの民衆たちにとって。植民地社会経済の最後的な絶対的破局と崩壊をはじめているインドの世界は、この第三次アジア革命にどのようにかかわってくるであろうか――インド・パキスタンの民衆の世界は?

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 第一次アジア革命=第二次中国革命の流産は、アジア民衆の意識から国際主義的性格を奪いさることはできなかった――中国をとりまく諸国の共産党はその意識において第三インターナショナル各国支部としての意識を強くのこしつづけた。アジア民衆の意識の民族化は第二次アジア革命の中途坐折によって決定的に深められるであろう――一九五〇年代と一九六〇年代において、革命アジアという相互の信頼の意識は深く後退した。全く民族国家単位の平和・中立・独立の総和として想像が人々の意識を支配した。革命において民衆を背後に獲得しようとする各国の革命家たちが信頼しあうことができなくなった。
 実際、苦難の大長征を余儀なくされたベトナム南部と全体の革命は、解放革命においてアジアのどの民衆を信頼し、戦略構想の計算にいれることができたであろうか! ベトナム南部の革命は、ただはてなく深くそれ自身の民衆に頼り、結集し・動員する以外に、どの現実の展望があったというのだろう! この革命はその民衆の解放革命への可能的力の一切を生存をかけてトコトン掘りすすんでいく以外になかった。ただこのようにして、中・ソ両巨大国家から軍事的と経済的の物質を強制供出させることができたのであった。中・ソ両国家から獲得した軍事・経済的物量は、もっぱらベトナム革命がその民衆の深い革命的英雄主義をほりおこしたがゆえにであった。
 ベトナム解放革命の綱領の民族的性格の深さには、強力な現実の根拠があるのである。
 このことは、勝利の完成への持久戦を確信する南北ベトナム革命がのぞむパリ会談=帝国北アメリカ合衆国とのカケ引きと交渉においてもあらわれるであろう。南北ベトナム解放革命は勝利を絶対的に確信しており、その勝利の根本と実質において絶対に一歩たりとも譲らないだろう。だがこの革命は、その勝利の民族的な完成をめざしているのである――つまり、この革命の勝利の根本が真実の実質において保証されるならば、帝国北アメリカ合衆国が敗北の真実の実質をのみ下しやすくするためのオブラートや体裁については大いに配慮してあげましょう、ということである。帝国の真実の敗北という条件がゆるす枠内一杯に帝国のメンツについて配慮するなんて、おやすいものだということである。革命の代表はあのようにニコヤカにパリのテーブルごしに、けがらわしくも憎むべき反革命の代表に握手をしているではないか!
 ベトナム南部の革命は大長征を生きぬいてきた――その偉業の民族的成果をいまかりとらんとしつつある。この大長征をアジア民衆の国際主義的偉業として実らせるべきは第三次アジア革命の隊伍の可能的な闘いの将来にゆだねられている。南朝鮮からはじまってビルマにいたる中国をとりまく帯状の民衆たちは、ベトナム南部民衆の苦難に満々ていた偉業を、真実に第三次アジア革命への橋渡したる大長征たらしめるであろうか?
 われわれはベトナム南部の革命は、いま、第三次アジア革命の可能的端緒を客観的に切りひらいたと考える。われわれは真実の第三次アジア革命の戦線構築と布陣にむけて意識と隊伍をうちたてねばならない。民衆のアジアは、ベトナム南部民衆によっていま最後の問いを発せられている。アジアはどのように新しい強制放血の戦線を築くのか?
 わが日本民衆は、南朝鮮・日本・沖繩――この三点を結ぶ線上に新しい強制放血の戦線の構築を企図するであろう。

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 孤立して抵抗し闘う南北ベトナム革命に民衆の世界がかけつけることを、ゲバラは「二つ、三つ、もっと多くのベトナムを!」によって「叫び」「呼びかけ」た。だが抵抗し闘いぬいた南北ベトナムは、世界民衆のベトナム民衆への加担的な戦線の構築の立ち遅れのままに、自らの勝利への持久戦の局面を今日確信しつつある。
 ではゲバラの「二つ、三つ、もっと多くのベトナムを!」の「叫び」と「呼びかけ」の意味はおわるのであろうか? いや断じてそうではない。
 ゲバラのこの「二つ、三つ、もっと多くのベトナムを!」は、同時に現代における深くリアルな一つの間断ない世界民衆の帝国的世界からの解放的闘い=永続的な世界解放革命の戦略展望であった。この世界戦略構想のリアルさは、南北ベトナム革命がつくりだした帝国の世界の現状がしめしている。さきにふれた帝国を包囲する強制放血の布陣の間断ない構築・これにもとづく帝国の世界反革命の可能的力の永続的弱体と衰退の強制――これがゲバラの「叫び」と「呼びかけ」の世界解放を展望する核心である。ベトナム南部革命のように民衆のふところ深く解放闘争の戦線を構築し、帝国の必然的な反革命に挑戦し、帝国に間断ない放血を強制し、その可能的力の衰退を永続させる世界民衆の包囲の陣を形成してゆこうとするものである。民衆の積極的な解放戦線の構築によって帝国の世界反革命力の放血をつうじた弱体と衰退を強制し、この闘いを包囲として完成しようとすることによって帝国の積極的衰退を永続化させようと想像するのである。これは鮮かな民衆的解放闘争の永続的世界展望である。南北ベトナム革命はこの世界解放闘争の永続的展望の深い現実性をしめした。
 かくして、ベトナム革命の現局面が提起する今日の問題の中心は――南北ベトナム革命が自身の民衆の血と労働の巨大な流出の犠牲をはらって切りひらき強制した帝国の世界の積極的弱体化の端緒を真実に端緒たらしめること――ひきつづく強制放血の民衆の解放闘争の戦線をどのように形成するか――帝国の世界の弱体と衰退をどのように真実に永続化された過程たらしめるか、である。ゲバラの「二つ、三つ、もっと多くのベトナムを!」という「叫び」と「呼びかけ」は、ベトナムの革命と反革命の闘争の現局面において、このことをさししめしている。ゲバラとその同志たちはそのような戦端をひらこうとして闘いにたおれた。帝国主義の政軍的な物質的構造そのものを真実にかみさこうとする民衆的闘争の解放戦線の構築を!

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 ゲバラをつうじた南北ベトナム革命の世界民衆にたいする永続的戦闘の「叫び」と「呼びかけ」は、ベトナムの革命と反革命の闘争によって鮮かに証明されただけではない。
 いま最後的な登場へ歩みをはじめている黒い北アメリカの白い帝国北アメリカにたいするうちつづく怒りの反乱と蜂起の自発性はこのことを証明している――北アメリカのブラック・ゲットーはアルジェリア解放戦線の闘いをわれわれに想起させる――黒い北アメリカは、白い帝国北アメリカのブラック・ゲットーにたいする事実上の戒厳軍政支配を強制し、白い北アメリカのウルトラたちは彼らのOSA=「秘密」軍政組織の公然たる活動を開始させるだろう。ここには巨大な可能的な強制放血の戦場がある。
 キューバ革命国家の加担的な支援のもとに形成されたラテン・アメリカ人民連帯機構(OLAS)はラテン・アメリカ大陸に帝国にたいする包囲的な強制放血の戦場を築こうと奮闘している。

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 そして問題はわが民衆のアジアである。わが民衆のアジアはどのように新たな解放戦線を築き、新たな強制放血の戦端をどのようにひらきうるか――民衆のアジアは南北ベトナム革命につづき、真実に第三次アジア革命に高まりゆき、このようにして帝国の弱体と衰退の世界包囲による永続化をどのようにして自ら参加し構築してゆくのか――このことが問題である。
 極東・東南アジアにおけるわれわれの立場と目標は、新たな民衆的解放闘争の戦線の準備を築き、これを真実の解放の戦場へ転化・物質化しようとすることである。
 南北ベトナム革命の勝利への持久戦の局面は、極東・東南アジアにおける帝国北アメリカ合衆国が主導するアジア革命封圧体制のゆるみと動揺を不可避的につくりだす――革命封圧の政治軍事的な全装置がアジア民衆の無意識の政治意識を負ってきた巨大さと威圧感は深い動揺をはじめる。このチャンスの一切をアジア革命封圧の政・軍体制と物質的全装置の麻痺にむけた闘いに転化しようと奮闘すること――このチャンスをアジア民衆の真実の解放闘争の戦線へ物質化してゆこうとすること――ここに民衆的アジアの今日の課題がある。
 真実に物質的であるといいうる、つまりまた世界帝国北アメリカ合衆国の強制放血を真実に闘いぬきうる民衆の解放闘争の戦線を準備し、その構築に手がけることが問題なのである。これが経験主義的で自然発生的な急進カンパニア主義の総和以上のものであること――このことは絶対的に確実である。帝国北アメリカ合衆国が主導・組織するアジア革命封圧の政軍上の組織と装置の物質的全構造にたいする極東・東南アジア民衆の自発的で経験的な諸々の闘争の一切を、南北ベトナム革命とゲバラの綱領的「叫び」と「呼びかけ」=民衆の永続的世界解放闘争のテーゼにみちびかれた生命力ある統合的な解放戦線に物質化し、定着させることである。

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 朝鮮―日本本土―沖縄をむすぶ極東アジアに、そのようなアジア民衆解放の物質化された戦線を準備し、築いていかなければならない。
 沖縄が最先端にたつ全日本の米軍事装置の全構造―基地と軍事輸送と軍事生産―にたいして、日本民衆の全生活のなかでこれと接触する一切のモメントをとらえ、真にその名にあたいする物質化された反戦の民衆的戦線の構造の形成を意図しなければならない――沖縄の米軍核基地体制の機能の深刻な麻痺と全面撤去、沖縄の全面無条件返還をめざす闘いは、この日本民衆の闘争の中軸をなすであろう。

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 経済を先行させて日・「韓」のブルジョア的結合は急速度で深まりつつある。帝国北アメリカ合衆国のベトナム反革命の破綻の暴露、その敗北への持久戦局面のはじまりは、南朝鮮の朴体制を深く政治的に動揺させている。その軍隊をこの反革命にさしだしている朴体制下の南朝鮮民衆は、帝国北アメリカ合衆国が主導組織するアジア反革命体制の動揺を深くまた感じはじめるであろう。朴の狼狽の度合は、その圧制下の民衆にたいするこの反動的新植民地主義体制の強い不安を反映している。南朝鮮民衆は手さぐりのなかで新しい登場を準備しつつあるとわれわれは考える。
 北朝鮮の金日成の体制もまた情勢におされて、ネオ・スターリニズムの国際平和共存=南北の平和統一のスローガンの放棄を余儀なくされた。この体制はモスクワと北京からの政治的自立をすすめ、ベトナムとキューバへの接近をすすめてきた。これは明らかに官僚的な大衆にたいする政治的先まわりである。きたるべき南朝鮮民衆の真実の解放戦線は、金日成体制の官僚的先まわりにもかわらず、本質的な政治的自立性を保持するであろうことをわれわれは確信する。そして、この南朝鮮民衆の政治的に自立した強力な成長の度合に、日本民衆の日米帝国主義体制にたいする民衆的闘争が深く寄与するであろう。
 北朝鮮金日成体制の国際的左傾化は、日本政府の在日朝鮮人北朝鮮帰還阻止の決定ともあいまって、在日朝鮮人の日本国家にたいする闘争をよびおこし、急進化させてゆくであろう。日本国家は、在日朝鮮人にたいする監視と統制と抑圧を不可避的につよめる。朝鮮人大学校をめぐる動き、また東京新宿における朝鮮人生徒と日本学生・生徒との衝突は、われわれに以上のような問題を提起している。在日朝鮮人と日本民衆の新しい反帝国主義的な連帯の組織化は、われわれの重要な課題の一還をなす。
          一九六八年六月
     (「第四インターナショナル」誌第五号 所収)


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