つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる


国際革命文庫  8

日本革命的共産主義者同盟
(JRCL)中央政治局編
国際革命文庫編集委員会訳

4

電子化:TAMO2

「来たるべき対決」
ミシェル・パブロ


4 帝国主義の戦争への歩み

 当面する国際政治の展望は、今われわれが分析してみたこの具体的な世界に位置づけられなければならない。
 われわれは、「民主主義」列強とソ連が連合して、枢軸諸国と戦った前大戦から抜け出たばかりであるが、今また「冷戦」から次第に「熱い戦争」へむかいつつある券囲気のなかにいる。
 いかにして、前大戦の同盟関係がかくもすみやかに破濃され、ドイツ、日本の位置にめざましい逆転がおこって、これらの二国は反ソ十字軍をひきいる合衆国の新しい主要な同盟者になろうとしているのか。だが実は、前大戦の「民主主義的」「反ファシズム的」性格を信じ、その具体的な社会的内容――資本主義列強の間でのソ連を含めた世界の再分割を目的とする帝国主義戦争――を理解することができない人にのみ、それはおどろきなのである。
 ソ連がこの戦争にまき込まれたことは、異論なく、一九一四年〜一八年の戦争と比較した特殊性――つまり戦争中に革命的マルクス主義者が戦術面で考慮しなければならない特殊性――をこの戦争に与えるが、しかしこのことは、その基本的性格を変えるものではなかった(1)。「貧しい」国家群であるドイツ、イタリア、日本が「富裕な」国家群としてのイギリス、フランス、アメリカにたいして、世界の勢力圏を再分割するためにたたかったのであった。ソ連も一分割されるべき地域に含まれていた。アメリカ、イギリス、フランスは、この戦争を、世界市場におけるおそるべき帝国主義的競争者の進出をたたきふせる機会とした。ソ連の運命は、最後の段階ではこれらの諸国によって規制されねばならなくなった。
 ソ連はもちろん、なお強力な帝国主義諸国間の対立を、枢軸陣営を屈服させてソ連を生きのびさせるために利用した。このような第二次世界大戦を性格づける特殊的条件は、すでにもはや二度とは再生産されないものである。現在、ソ連、「人民民主主義国」、中国にむけられている帝国主義国の同盟は、彼ら内部に当然存在している敵対や緊張によって解体するような、はかない結合ではない。この結合は、この内部的対立関係が帝国主義間の武力衝突にまでおしすすめられることを阻止するのである(2)。それは第一に、せまりくる世界社会主義革命を前にした彼らの階級的利害の共同性が、今日、無限に強化され、決定的なものになっており、第二に、資本家陣営内部の力関係が、戦前の状況にくらべて根本的に変り、ほとんど同水準の資本主義列強間の均衡を永久に破壊して、すべての列強にたいするアメリカの圧倒的優位が確立されているという理由のためである。
 つまり、まさにアメリカこそが、全体としての帝国主義の戦争への歩みを決定しているのであって、反アメリカの資本主義同盟が形成されることは、実際にはまったく考えられない。その反対に、革命に直面している資本主義諸国家の共通の恐怖を利用して、ワシントンが他の列強におよぼしているさまざまの経済的政治的圧力と、他にいかなる解決の手段も構想できないという現実とが、これらの諸国の団結をもたらし、必要とあらば戦場においてまでこの団結を維持させるであろう。
 理論的には、フランス、イタリア、さらにイギリスなどの二流帝国主義国が、戦争の準備がこれらの諸国の内部に増大させる諸困難や、衝突によってもたらされる彼等の政治的経済的破局をおそれて、ワシントンが指導する北大西洋同盟から離脱して「中立主義的」立場に下ることは考えられないことではない。しかし、実際にはこの可能性は排除される。諸国の支配的大ブルジョアジーは、米ソの衝突には資本主義体制存続の可否がかけられていること、それを傍観することは無価値であり、不可能であることをよく知っている。
 他方、彼らはアメリカがその「周辺」基地を防衛することを躊躇し、戦争の最初の局面で資本主義ヨーロッパの防衛をヨーロッパ諸国の軍事力にゆだね、その結果、ヨーロッパの中心都市に破壊的な原子爆弾の雨をふらすことになってしまうことを、ひどく恐れている。したがってヨーロッパの大ブルジョアジーは、ヨーロッパ大陸にアメリカをとことんひきずりこむことに利益を感じている。フランスが、破産寸前の経済、ことに軍事経済を支えるためにアメリカがより多くの経済援助を与えてくれなければ、北大西洋同盟への加入を考えなおさなければならないとゴネているというような話は、まったくエピソード的な意味しかもってはいない。フランスの大ブルジョアジーは、アメリカが、ヨーロッパでの抵抗をあきらめ、フランスへの援助を制限するかもしれないという恐怖と、強力なドイツ軍を再建する方向に努力を集中するかもしれないという不安との間で、ひきさかれているのだ。帝国主義陣営の戦略は、なによりもまず、他の諸国を圧倒的にひきはなし、戦争準備の主要な部分をひきうけ、資本主義制度全体の勝利と生存の最高のチャンスをにぎっている国――アメリカ合衆国の利害によって決定されている。
 この一般的な枠組みのなかで、他の帝国主義列強は、その経済的、軍事的潜在力の比重にしたがって序列づけられている。そのため、ドイツ、またある程度日本の急速な上昇が他の帝国主義国の位置をひき下げることは不可避であろう。
 さて、一九三九=四四年の戦争が終った翌日に早くもはじまった「冷戦」は、この間かくされていた一つの事実――全体としての資本主義世界とソ連との敵対関係が、帝国主義国間の敵対関係に優先するという事実を明るみに出した。三九=四四年の戦争に、この意味で締めくくりをつける新しい戦争への帝国主義の歩みは、こうして始まった。そこに他の諸事情がつけ加わり、帝国主義の戦争への傾斜を加速し、それに半ば自動的な、必然的過程としての性格を刻印したのである。
 たしかに、三九=四四年の戦争は、資本主義に経済恐慌の脅威を忘れさせた。それは国際的にあらゆる面で巨大な需要をつくり出し、戦争が終了してもしばらくの間は、生産を維持し増大させるに充分であった。しかしこの戦争は同時に、すでに前章で見たように、アメリカの生産機構の巨人的な集中と発展をもたらした。そのため、「平和」が長くつづく場合には、この機構がたちまち袋小路においこまれ、蓄積のテンポがゆるみ、資本家の利潤率が低下し、新しい、しかも今度ははるかにすさまじい世界的経済危機がひき起される危険がつくられたのである。
 一九四九年の始めから、とくに五〇年の前半にかけて、戦時中のリズムをもはや維持することができないという、アメリカ経済の息切れを人々はしばしば目撃した。この動揺は軽微なものではあったが、その意味は深いものであった。
 すでに説明したように、現在アメリカ帝国主義がおかれている新しい世界構造のなかで、この脅威を克服するためにとられた方法は、外国への「援助」と、国家の軍事支出の増大であった。前大戦にひきつづいて維持された戦争経済は、アメリカ経済全体のなかでますます重要な部門になった。すでにローザがそのすばらしい洞察力で見抜いていたように、軍国主義は、類廃した資本主義が帝国主義段階に突入すると、「剰余価値実現の主要な部分」となり、「一見、無限の蓄積を可能にする」かにみえる。(3)国家は、間接税、赤字公憤、インフレーションを利用して、戦争経済とその生産物が需要供給の厳密な波動と競争からまぬかれ、なによりも大工業を有利とするような領域への投資のために、労働者が生産した剰余価値と、大衆の一般的購買力を、ますます大きくふりむけるのである。税金、赤字公債、インフレは、戦争経済の古典的な金融手段である。これらの手段は、不断に昂進、進化する相互作用をひきおこす。特にインフレは、戦争いらい資本主義国で慢性化しているが、税金の加重と軍需生産の性格そのものによって激化される。それは新しい使用価値を生み出さず、生産を豊かにしないで、非生産的所得を分配する。それは経済の生産的部分を必然的に圧迫し、経済全体のインフレ基調を増幅するのである。
 しかしこれもまた限界をもっている。一切の軍需経済は、長期的には、経済の他の部分を圧迫して大衆の購買力の不断の低下をひきおこすのであり、ほんの一時期にわたって資本主義の危機を救うものでしかない。現実にはそれは、危機を次の段階へひきのばすにすぎないのであって、危機の爆発の条件はさらに悪化するであろう。
 こうした理由から、戦争経済は、ある瞬間から戦争の勃発それ自体を前提にするのである。
 戦争経済と国際情勢全体の大転換は、一九五〇年六月の朝鮮戦争の勃発であった。前大戦がきり開いた帝国主義没落の新しい局面の枠のなかで、朝鮮戦争は、物質的、政治的、軍事的にいっそうはっきりと加速された戦争準備を特徴とする新しい国際状況の局面を開始した。特に朝鮮戦争以後、軍需経済は、資本主義生産のなかの補足的な一部分であることをやめて、経済全体の決定的な一部分になりつつある。これは特に、資本主義経済の総体を次第に呑み込みつつあるアメリカ経済の傾向である。他方、戦後世界経済を復活させるために、またヨーロッパの統一と後進国援助のために作成された一切の理念、計画(マーシャル・プラン、シューマン・プラン、ヨーロッパ合衆国、トルーマン・ドクトリンのポイント・フォア)は、次々に、軍事的、戦略的至上命令に従属させられた。もちろんこれらの理念、計画は当初から、経済、政治、軍事が結合した性格をもっていた。しかし、朝鮮戦争後の事態の発展は、軍事戦略上の考慮の第一次性を確定したのであった。あらゆる種類の軍需生産、不断に増大する軍事力の動員、全世界にわたる空軍、海軍基地の増加、朝鮮戦争の潜在化とドイツ問題は、いずれも戦争準備を加速する明白な現象である。
 これらの物質的準備の目的にとって、戦争準備のためのイデオロギー的宣伝の役割が増大し、発展して来た。まず、ソ連と平等の立場で交渉するための再軍備、「強国になる」ことが問題とされ、次に「共産主義の脅威」を封じこめるために世界に「力の均衡」をもたらすことが議論され、いま一九五二年七月、アメリカのシカゴで行なわれた共和党と民主党の大統領候補選定のための大会においては、それぞれ当面の外交政策の基調を「共産主義」を封じこめるのか、巻きかえすのか、という両派にわかれて論争している。もちろん、状況はあきらかに「巻きかえし」(ロール・バック)派が優位である。
 だが、長期間にわたって戦争寸前の状況にあるソ連との妥協の可能性は、考慮の余地すらないものであろうか。このことは、明らかに、正当にも核戦争の破壊的結末を恐れており、何らかの「平和」、あるいは現状維持を熱望している世界の人々の希望である。妥協、現状維持、平和、それは長期間にわたってなお可能であるか。
 この疑問に答えるためには、われわれが生きている世界の、第一次的に決定的な現実を検討し、理解して、そこから全ての帰結を引き出すことが必要である。
 われわれはすでに、帝国主義を新しい戦争に押しやっている政治的・社会的・経済的原因を分析した。ソ連との一般的、持続的な妥協は、世界の現在の分割線、あるいは相互の譲歩から生れた新情勢のうえにくみたてられた現状維持を意味している。
 だが、妥協の基礎としての現状維持は、すでに帝国主義によって放棄された。とくにアメリカ帝国主義は、もはや現状の市場に満足することはできなくなった。アメリカ帝国主義は世界の分割ではなく世界の支配を意図しているのである。明確に、ソ連は世界の現在的分割線上での帝国主義との「平和共存」を受け入れる用意をもっている。その公式の政策はそれを目標とし、実現するために彼らなりの方法でたたかっている。しかし帝国主義は、それが彼らの確実な窒息死を意味するものだとして拒否しているのである。
 他方、この現状維持の思考はもともときわめて相対的なものであり、ワシントンばかりか、モスクワの支配権の場合にもその外にあるものだ。どうして帝国主義は、彼らのすでに不利になっている世界の現在的分割線を維持し得るだろうか。たとえば、どのようにして植民地革命の拡大を、また本国におけるプロレタリア大衆の闘争を回避しうるだろうか。そのどちらも、毎日毎日、現状維持をくつがえし、その反対物に転化している、いわば二〇世紀の社会革命の不可避的な過程ではないだろうか。
 だが、相互の譲歩が新しい情勢をうみ出し、一般的、持続的な妥協の基礎になりうるかどうかを検討することが、まだのこっている。現実にはこの場合、間違いなく戦争勃発をおそれているソビエト指導者が帝国主義に重要な譲歩をおこなうことが必要であろう。ところで、どんな譲歩が可能だろうか。
 彼らが中国市場を自由に処理することができたならば、中国の背後での妥協こそたしかに帝国主義の利益となるだろう。しかし中国革命はすでにその内的力学によって、クレムリンが自由にできない段階に進んでしまっている。革命的中国は、武器と戦争以外のものではくつがえすことのできない揺がぬ現実となっている。
 ヨーロッパの「人民民主主義国」ですらいまや旧社会構造の根本的転形の道を進んでいるので、もはや資本主義体制に再統合させることは不可能である。またそれは、ソ連の物質的資源とその軍事的防衛のための重大な補足的基盤となっている。
 もう一つ、ドイツ問題がのこっている。もしクレムリンが東ドイツを放棄して資本主義ドイツに統合することにでもなれば、たしかに帝国主義にとっておおきな利益ともなるだろう。しかしこの利益はいささかも問題を解決しない。それはただ、次の段階でのソ連との戦争の準備に貢献するだけである。ソビエト指導者はこの確率を忘れることはできない。したがって、統一された資本主義ドイツの復活は、きわめてありそうもない可能性である。
 このように、帝国主義によって受入れられる一般的、持続的な妥協の基礎は客観的に存在しない。他方、資本主義は深く軍需経済にのめりこみ、この過程は不可避的であることを考慮しなければならない。この部門の停滞は、アメリカと資本主義世界全体の経済危機を意味している。
 最後に、ある人々が主張している、戦争を阻止する政治上の問題を検討することがのこっている。つまり、植民地と本国での大衆の革命的闘争の作用である。この議論は、アメリカについても、その他の資本主義諸国についても決定的な重要性をもっている。
 革命が帝国主義を武装解除し、戦争を不可能にするためには、その権力の核心――アメリカをたたかなければならない。だが、社会的力関係がこの国において他のどの資本主義国よりも安定しているということは、異論のないところである。だから戦争にさきだって、アメリカの支配階級が被搾取大衆の革命的運動によって深刻におびやかされ、帝国主義の参謀本部が麻痺して、その戦争突入が阻止されるという事態は、きわめてありそうもない事態である。植民地、半植民地、ヨーロッパの植民地所有国など、世界のその他の部分の革命的闘争も、前大戦の時期に比して重要になっており、またひとたび勃発した戦争の革命的転化とその急速な勝利的終結にとっては決定的であるが、戦争勃発の可能性を決定することはできないであろう。世界革命のあらたな前進を考慮するとき、こうした革命闘争によって、帝国主義はいっそう困難な条件に立たされ、脅威にさらされるであろうことは明白だが、その場合、われわれは帝国主義、ことにアメリカ帝国主義のどんな反応を予想することができるであろうか。彼らは闘わずに革命に譲歩するだろうか。闘わずにその歴史的敗北を受け入れるだろうか。また平和的にその特権を放棄するだろうか。それとも反撃に出て、戦争によって革命のあらたな前進を阻止しようとするだろうか。理論的には、その一切の可能性について考えることもできるが、しかしここでは、そのもっとも蓋然性のあるものに焦点をあてなければならない。こういう見地に立つと、革命の新しい脅威を前にした帝国主義が戦争をえらぶであろうことは疑いない。
 現実において二者択一は、戦争と平和の間にはなく、戦争と革命のあいだでおこなわれるのである。もっともありそうな展望、それは資本家階級の自然的な退位でも、戦争開始前に革命がアメリカに拡充することでもない。帝国主義の戦争突入が、実際に考えられる唯一の可能性としてのこる。
 長期にわたる現状維持と「平和的共存」の客観的不可能性が確認されるとき、当面の現実的な唯一の問題は、この不可避的な戦争が勃発する時期の予測であろう。この時期は、いまのところ、相対的に“近い将来”とだけ結論されねばならない。帝国主義の現状を性格づける経済的、政治的、社会的要因の相互作用は、いまや決定的に、戦争を遠ざけるのではなく接近させる方向に働いている。この問題をめぐって考慮に入れなければならないすべての問題点のなかでは、もっとも重要なのがアメリカの経済的、社会的安定にかかわるものである。軍需生産の増大による当面のブームが特徴づけているアメリカの経済循環が恐慌に近づくにつれて、戦争の危険は濃厚となるにちがいない。指導的な資本家階級、つまりアメリカの資本家階級が他のどのような困難にもかかわらず経済危機を回避できると考えているかぎりは、彼らは自制を維持し、できるだけ準備するためにその戦闘計画をあとにのばすことができるだろう。しかし、経済危機がこの国と、それを通じて資本主義世界全体をのみこもうとする時は、アメリカの支配階級が戦争にとび込むことを躊躇しないであろうことは確実である。
 このような展望は、しかし実際においては革命に有利な世界的現状維持の打破を意味するだろう。革命は資本主義の分解、麻痺を利用して戦争のおわるのをまたずに半平和的に拡大するにちがいない。ところで、いつごろ当面の経済循環は恐慌に近づくであろうか。もちろん、確実にそれを予測することは困難である。しかし、すでに急ぎ足のインフレーションは、この国の経済的、社会的安定をほりくずしている。アメリカ経済全体にたいする軍需経済の作用も危機をはやめる要因になっている。来年(一九五三年)から、軍需生産にあてられる生産手段を生産している産業は、一応のピークに達するおそれがある。すでにそれは、生産の計画されたテンポに応えるだけの生産能力を充分に増大させているからである。アメリカにおける危機の純粋に経済的な側面と社会的な側面とのあいだには相互作用がある。危機がはじまるためには、すべての純粋に経済的な要素が作用することが絶対的に必要なのではない。例えば、大衆の購買力をほりくずすインフレーションの昂進による社会的動揺は、ストライキを激化させ、資本家が賃上げに応じず、福利費用を切りつめ、物価をいちじるしく引き上げる場合には、危機を急速に加速させることになるだろう。そしてそれはさらにいっそう爆発的なインフレをひきおこさないではいないだろう。
 いずれにせよ、アメリカの支配階級は、戦争の時期を決定するばあい、まず自国の社会的雰囲気を考慮することだろう。彼らは、経済的、社会的危機が彼らを麻痺させ、大衆の支持を失い、闘わずに世界全体を喪失してしまうおそれのある瞬間に、戦争を開始するにちがいない。世界の他の部分での情勢の発展ももちろん、アメリカの方向決定とその決断の時に大きな影響を及ぼすことになる。いうまでもなく、戦争を準備しつつあるさまざまな資本主義国において、大衆とのあいだに、また彼ら相互のあいだに深まりつつある諸困難は、最初の戦争計画を遅らせ、内容を変更させることを余儀なくさせるだろう。しかし他方、諸困難がいっそう情勢を悪化させるというおそれは、戦争を促進させる要因でもある。
 また、アメリカやその他の資本主義国が経済的、社会的危機によって革命的破局がもたらされるまで情勢を放置しておくなどということは、実際にはほとんど考えられないことである。この場合にも彼らは、ただちに戦争に突入するであろう。

 最後に、ソ連とその同盟国、とくに中国の反応がある。戦争を回避しようというソビエト指導者の公然たる意志にもかかわらず、ソ連とその同盟国の予防的対応は、帝国主義同盟の戦争準備の加速を前にしては絶対にありえないことではない。国際問題でソ連とわかちあっている中国の影響力は、ソ連の同盟国の政治方針に影響をおよぼす程度において、予防攻撃の方向に作用するだろう。こうした可能性は、ボン条約の批准、西ドイツ、日本の再軍備にたいする反応によって、確認できるものである。
 はやくも一九五三年末、アメリカの戦争準備はきわめて高い水準に連し、西ドイツ、日本の再軍備も重要な段階に入るだろう。われわれはこの時から、現在の均衡の深刻な破壊が、なんらかの理由――アメリカ、ヨーロッパの危機、植民地革命の飛躍的発展など――によって、たちまち限定された局地的対決から世界的な衝突へと発展する危機の時代に入るわけである。といっても、このことは一九五三年に、戦争がきわめておこりそうだということを主張しているのではない。現実に衝突の瞬間を決定する要素は複雑、流動的であって、ひとたび開始された危機の時代が、戦争は勃発しないがつねにその危険をもって数年にわたってつづくというような事態もありうるのである。資本家は、この危機の時代の到来を、神秘的で虚偽にみちた修辞のベールでかくすであろうが、打撃のチャンスをうかがいつづけるのである。
 しかし大衆は、社会主義的未来へむかってあゆむ人類を打ちのめすためにふたたびおそいかかろうとする帝国主義的犯罪の魔手を、国際的規模の革命的動員によってしたたかに打ち返し、出来るだけすばやく麻痺させるために、かつてない強い警戒をつづけることとなるであろう。
 (1) 一九四七年以降、ソビエトと各国共産党指導者は、資本主義的「民主主義国」がおこなった戦争の帝国主義的性格を承認せざるをえなくなった。しかしその戦争の間に、それぞれの国のブルジョアジーと共産党とで結んだ神聖同盟の帰結をあきらかにすることは、いまだに避けている。
 (2) ドイツ統一社会党書記長ワルター・ウルヴリヒトは、一九五二年七月九〜一二日にひらかれた第二回党大会への報告で、これとはちがった見解を示している。「第二次世界大戦で帝国主義陣営はのりこえがたい内部矛盾によってひきさかれた。それは二つの陣営――敗北した帝国主義国グループ(西ドイツ、日本、イタリア)と、勝利した帝国主義国グループ(アメリカ、イギリス、フランス)に分裂した。帝国主義の不均衡発展とその矛盾、戦争の不可避性は、いまやかつてよりもつよまっている。」
 (3) 一九一二年の著書「資本蓄積論」の「蓄積の領域としての軍国主義」の章。


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる