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国際革命文庫  8

日本革命的共産主義者同盟
(JRCL)中央政治局編
国際革命文庫編集委員会訳

7

電子化:TAMO2

「来たるべき対決」
ミシェル・パブロ



「革命党の建設」

    国際執行委員会第10回総会(1952年)へ同志M・パブロにより提出された報告抜粋

五〇年代の第四インターナショナルの党建設のたたかいの主要な戦術であった「加入活動」の概念と方法を体系的にのべたものが、この報告である。本書の前半部を占める「来たるべき対決」を読了された諸君には、この「加入活動」が、単なる思いつきや、超歴史的な「組織論」、まして当時の第四インターナショナルを規定していた組織的力量の弱さなどからだけ提起されてはいないことは、すでに了解できたものと思う。「加入活動」を実践するにいたったもっとも重大な理由は、当時の世界を「戦争と革命の前夜」としてとらえきろうとした躍動的な情勢把握の視点と、スターリニストや社会民主主義の全般的ヘゲモニーが依然として確立されたままであっても大衆の戦闘化は、あらかじめ革命的前衛の旗のもとにまず結集することなしにでも公然たる革命と内乱に突入していくことが可能であり、不可避であると展望する革命的楽観主義、そしてこの両者の結合として、前衛としての自己の確立を、戦闘の最前線でこころみていこうとする緊迫した決意にこそあったのである。
 「大衆がはじめるところからはじめなければならない」。大衆はまさにはじめようとしていると展望したからこそ、当時の組織的力量のもとにあって、自らが対象の巨大な圧力にのみ込まれ、溶解してしまう危険を賭してでも、大衆の真只中にいこうとしたのであった。「加入活動」にかんするいかなる総括も、評価も、この時代把握そのものの再検討からはじめるのでなければ無意味である。
 この報告は、第三回世界大会の基本的決定にもとづき、その組織的実践の方針をいっそう具体的に、体系的に整理している。六〇年代にはいって、時代の流れが三回大会の展望にそっては発展しなかったことがもはやどのような意味でも事実において明らかになったために、「加入活動」の事実的な修正と破棄がおこなわれるまでの一〇〜一五年間、このテーゼはインターナショナルの一般的組織路線であった。世界のどの国においても、インターナショナルが基本的に公然と姿を現わし、大衆運動のヘゲモニーに挑戦している今日の段階において、「加入活動」が結局インターナショナルにたいして何であり、どのような教訓をのこしたのかをつかみとることは、絶対的に不可欠の作業である。「来るべき対決」とこの報告を統一して把握し、その根本的な核心を理解すること、ここからその作業ははじまるのである。
 いずれにしても、時代がはらむもっとも革命的な可能性の全体をつかみとろうとして正面から桃戦する精神を、われわれはここから学びとらなければならない。         (国際革命文庫編集委員会)


 わが国際運動の大衆的無活動の段階は「過渡的綱領」の消化と適用でもってのりこえられるはずである。L・トロツキーは「綱領」をこのようにみなした。
 彼がトロツキスト運動の発展と活動のながい期間をかざったこの期間のあいだにトロツキスト運動は、スターリニズムや労働運動の他の潮流と自己とのあいだの厳密なイデオロギー的区別や一般的プロパガンダが必要な段階から出発して、階級内部でのもっとも広汎な活動をゆるされ、その責任を負う程にまで成熟した。
 トロツキスト運動の集団的経験の寄与をうけた「過渡的綱領」の概念は、すでに思想の領域でわが運動が到達していた自然の成熟を反映したものであった。
 しかしその採択直後に勃発した戦争という特殊条件のために、インターナショナルとその各国支部はあたらしい段階の経験を発展させ、運動全体を訓練し、教育するのを妨げられた。
 わが支部の多くは戦争のあいだ、かぎられた勢力のまま帝国主義とスターリニズムの弾圧によってきびしく追求され、もっとも厳重な非合法のなかに落ちこんでいた。大衆運動が特殊な形態をとったいくつかの国では、我々の弱い支部――経験不十分で、いくらか形式主義的、図式主義的ないし教条主義的精神で汚染された思想の囚人であった――は大衆運動が提出した可能性を評価することも、それに参加することも、それを利用することもできなかった。
 その結果、戦争の翌日我々の運動は全体としてなお大衆的活動の実際的経験をもたず、その活動は一般的プロパガンダの性格が支配的であった。
 私はその活動について言っているのであってその政策について語っているのではない。なぜならこの時期に我々の運動に欠けていたものはいろいろの政治運動についての一般的・具体的立場(各国の条件に適応した労働組合綱領、各国の政治情勢の具体的分析、具体的政治的スローガン)ではなく、なによりも具体的な活動の環境とその環境のなかでの活動方法の具体的概念である。これはまったく各国における革命党のの建設の具体的概念の枠のなかに秩序づけられるものである。
 このような活動の段階はわが運動全体にとって第二次大戦からはじまった。そのとき以来それは追求されて、たえず成熟と実現のあたらしい水準にたっした。そのいくつかは戦術と経験の領域で、成立いらいのマルクス主義的労働運動全体にとってあたらしい獲得物となっている。
 なしとげられた前進的発展と拡大の論理をよりよく理解するために、この段階を三つの局面に分割しよう。それは終戦後から第二回世界大会(一九四八年四月)まで、つぎに第二回世界大会から第三回世界大会まで、および第三回世界大会から今日までの時期である。
 第一回の局面では、我々の多くは各国の具体的条件において、戦後資本主義の情勢においてかつてなく現実に適応した「過渡的綱領」を宣伝し、適用することをこころみた。
 このことはとくに、ヨーロッパ各国支部とアメリカのトロツキストのおおくの場合にあてはまるだけでなく、特殊な理由から現実の大衆的影響をすでに獲得していたセイロンとボリビアのわが組織の場合にあてはまる。
 これらのすべての諸国ではトロツキスト組織は具体的政策作成の面ばかりでなく、実際の大衆運動の面でも並行した前進を実現し、ひろく選挙カンパニア、ストライキ、労働組合運動に参加した。
 トロツキスト組織は実践的活動の面とおなじく思想の面においてもプロパガンダ・グループでしかなかった過去と決別した。そして階級の生活と闘争により密着したグループへじょじょに転化した。
 この局面は一般的に言って、トロツキスト勢力の独立活動と独立組織の特色のもとにあったといえる。このような方針をとったのは、国際情勢ならびにスターリニズムと改良主義の時代にたいする我々の評価にもとずいていた。
 この評価は本質的に正しかった。
 戦争がおわると、ヨーロッパ、アジア、ラテン・アメリカそして(たしかに程度ははるかに劣るが)合衆国でさえ革命的可能性にみたされた。この可能性を反古にし、皮肉にも革命の利益をうらぎったのは、戦争中すでにはじまったクレムリンの「民主主義的」帝国主義陣営との協調政策、クレムリンが追求しつづけようとのぞんでいた政策であった。
 クレムリンはその旧同盟国との完全な決裂を回避しようとのぞんだ。そしてまだ「冷戦」に移行するにはまだ十分な力量を蓄積していない旧同盟国と持続的に妥協することを追求した。
 しかしクレムリンの提言にもかかわらず、情勢の論理によって世界は二つの陣営に分裂し相互の敵対へおしやられた。しかし勝負はまだ資本主義陣営からは挑まれることなくいつこの決裂がおこるか誰も予想することができなかった。
 現実には蒋介石の没落、そして一九四八年二月のプラハの一撃により、ずっとまじめにクレムリンと帝国主義が願っていたし、見込あると考えていた妥協の可能性がほりくずされた。
 しかしあらゆる場面で一九四四―四七年の時期は、情勢の革命的可能性を清算しようとするクレムリンの反革命政策のもとにあった。ふるい改良主義政党をみすてた大衆はスターリニスト組織に流れこんだが、その政策は彼らを失望させ、これらの組織の枠をのりこえさせるおそれがあった。
 こうした情勢のなかで、当時のクレムリンのあきらかに反革命的な政策を公然かつ徹底的に告発できる基本的な独立活動の経験をこころみて、この失望した革命的分子を我々自身の組織の周囲に集めることは、わが運動にとって論理にかなっていた。
 他方、大多数のヨーロッパ諸国では、「加入戦術」活動(すなわち弱体化し信頼をうしなった時期の改良主義組織の内部での基本的な「加入戦術」活動)によっては、我々にとっていかなるまともな展望も開かれなかった。しかし特殊なケースであるイギリスとオーストリアがこの時期のインターナショナルの注意をひかたかったわけではない。
 第二の段階は、一九四八年のはじめ(ほぼプラハのクーデターと同じ時であった)、「冷戦」の真の開始にあたる第二回世界大会とともにはじまった。
 革命政党の具体的戦術と具体的建設の面において、第二回世界大会は改良主義組織での活動について特別な注意を払うべきことを採択した。
 第二回世界大会のあいだ、とりわけ第二回大会とIEC〔国際執行委員会〕第九回総会(一九五〇年一〇月)のあいだに、この活動はとくに一連の諸国(ベルギー、オーストリア、スカンディナビア諸国、ドイツなど)における改良主義組織にたいする大衆の再評価とこれと並行するスターリニストの影響の後退を理由としてインターナショナルの注意をひきつけた。
 第二回世界大会前から提起されていたイギリスの場合は、世界大会直前に一つの解決をみいだした。労働党への加入の決定とそれをおこなう工作の概念は、トロツキストのあたらしい加入戦術活動一般の面でもっとも重要な第一の経験であった。
 そのときから加入戦術活動は、一九三四―三八年のわが運動が実践した「加入戦術」とはいちじるしく――私は質的にとさえいいたい――ちがった意味あいにおいて発展していた。
 この「加入戦術」にあたらしい意味を付与したあたらしい客観的主観的条件については、のちにくりかえしふれなければならない。いまは、労働党加入によって、階級の基本的政治的潮流が一切の可能性をはらみつつすすむ流路をもとめて、この運動と組織の内部における長期的展望に立った活動の道に入ったことを指摘すれば十分である。
 このような実践のなかからインターナショナルは、階級の政治的多数派と経験(階級が一つの時期に結集し、結集しつづけるところで得た経験)を共有することをとおして、革命政党の建設をこころみる現実ひいては必然性をみいだした。革命政党の根元的勢力はこの大衆組織の分化あるいは爆発からうまれるであろう。
 いうまでもなくこの戦術概念は「冷戦」の開始いらいはっきりしはじめたつぎのような国際情勢の展望にもとづいている。つまり、戦争が相対的に短期間延期されたが、この戦争は決定的にあたらしい性格をもち、この戦争のなかで資本主義体制の危機が昂進し、それはどうしても普遍的爆発にまですすむであろうこと、そこから主要な大衆組織(その国によって改良主義の大衆組織であったり、スターリニストのそれであったりする)のまわりへ大衆が団結する蓋然性があり、そしてそれらの組織の枠のなかで両極分解が全般的に作用する見通しがうまれてくる。
 我々自身の独立組織を対置させることによって外部から大衆の官僚主義的指導部を動揺させようとしたり、それにとって代わろうとすることは、この情勢のなかでは大衆から孤立し、その運動の内部でずっと効果的にこの目的を追求する現実的可能性を一切失うおそれがある。
 第二回と第三回の世界大会のあいだに、すでにのべた意味で発展した客観的情勢は、戦術論において我我を強化した。
 しかし、この戦術は改良主義組織に対して一般的に可能と考えられ、インターナショナル全体にもすこしずつ理解されてきたけれどもイギリスにおける加入が実現した後もスターリニスト運動に接近する戦術のほうは以前と同じであった。すなわちずっとスターリニズムの危機と解体をねらっていたのである。
 その主要な理由は、一九四八―五〇年におけるユーゴスラビア事件の成熟にあった。それは、すべての衛星国とすべての共産党のなかで朝鮮戦争までつづいたスターリニズムの真実の危機がここでついに頂点に達して爆発と反響を伴ったものであった。
 あの事件は、衛星諸国と西欧の共産党におけるクレムリンの反動的政策の目的と、これらの組織に戦後流れこんだ革命的大衆の要求や熱望とのあいだに起った予盾からつちかわれたものだった。
 ユーゴスラビア事件が爆発し朝鮮戦争がはじまるまで、ユーゴスラビア共産党が代表していた進歩的左翼中間主義的路線はこのスターリニズムの危機の拡大と深化に有利に作用した。
 しかしながら「冷戦」の激化によって、一九四七年ごろまで共産党が追求していた政策より左翼的な政策がみちびかれ、スターリニストの運動はあたらしい客観的情勢をむかえた。
 この第二の要因は第一の要因の影饗が直線的に現われるのをさまたげ、ある程度その結果を相殺することになった。
 つまり共産党が一九四四年のひどい右翼的政策をなお維持していたあいだは、ユーゴスラビア事件はその進歩的局面においては国際スターリニストの運動の内部に無限におおくの反響をもたらしていた。
 このスターリニズムの危機の遠心的過程を実際上くつがえしたのは、一般的には朝鮮戦争によってつくられたあたらしい情勢であり、特殊的にはこの情勢がユーゴスラビアの政策にもたらした不幸な結果であった。
 朝鮮戦争とともに「冷戦」はいちじるしく激化し、それと並行してスターリニストの政策の左翼化がすすんだ。他方、ユーゴスラビア共産党指導部は国内の困難と加重された帝国主義の圧力のあいだにはさまれて帝国主義への譲歩をはじめた。
 これらのすべてはスターリニズムの危機(この真に慢性的な危機はスターリニズムの解決しえない矛盾によるものである)を消滅させるのではなく、大衆と闘士が本能的に帝国主義と対決したがゆえに、スターリニストの組織と運動の枠内に抑えられた危概に転化する方向に作用した。
 スターリニズムの危機の遠心的分解的側面を強調する刺激的要因としてのユーゴスラビア事件は、こうして反対にスターリニズムの危機の求心的側面を強化する方向にはたらく要因となった。不満分子はチトーのように階級の戦線を孤立のなかで裏切りたくなかったので、スターリニズムと決裂することを躊躇したのである。
 スターリニズムの政策の左翼化の昂進は他方さきに述べたような意味でも働いた。
 かくして朝鮮戦争とともにうまれたこのあたらしい影皺に我々は注意しなければならず、戦術(とりわけスターリニストの運動にたいする)がそれから影轡を受けるのは当然であった。
 まちがった道を歩む確実な危険に気づかずに、何ごともなかったかのように進み、変貌した現実や生活に追いこされた位置にわが運動を固定化させ、理論的無理解と実践上のセクト主義によって運動を停滞させることはもはや不可能であった。
 IEC第九回総会は我々の運動の方針転換を提案した。すなわち、政治分析と実践活動をあたらしい国際情勢およびそれと労働運動との関係に一致させはじめた。この総会はとくに国際情勢の展望とこんごスターリニズム(とりわけ大衆に影賞をもつ共産党)がおかれる条件が発展する展望を重視した。
 この方針転換の開始は第三回世界大会においてなされた。その報告と決議のなかで、国際情勢の全体的展望の枠内で大衆的世界的革命政党を建設することに着手するため、戦術全体の基礎がきずかれた。
 この大会によって我々の運動は、現実の大衆運動に参加し、その革命的指導部となるための戦術をいままでの最高度に理解するに到ったのである。
 客観的現実への精神的知的接近はすべて原則として限界のある不完全な接近である。思想は現実のいくつかの面をとらえる。しかしそれはより豊富でより複雑な内容をもつ現実を分析し固定し貧弱にする。思想は必然的に現実をゆがめ、現実をとらえるために、その統一性と運動性をやぶる。我々の運動の思想も、たしかにそれが無組織分子(その結果として観察と経験に有利な国際的運動から集団的思想の訓練もエネルギーの寄与も受けられない)の個人的思考にくらべ優越しているにもかかわらず、この欠点をまぬがれるわけではない。我々の思想でさえつねに客観的過程にたちおくれ、制限つきでそれをとらえるにすぎな
い。
 いくつかの基本的なこと、つまり客観的現実の基本的諸側面は、経験と行動のなかでの思想の自然的成熟をとおしてのみ把握され理解されるのである。
 革命運動はマルクス主義理論の強力な武器をもっているにもかかわらず、各国における現実の大衆運動との融合に一気に到達していない。外的現実をその特殊性において把握することに到達していない。経験と、経験によって容易にされ強制される現実への思想の漸次的接近がなくては、現実から革命運動をきりはなしている公式主義的・図式主義的障害を除去することはできない。
 しかし第三回世界大会をもって我々は(もっとも生気にみち、革命的労働運動のすべての過去とくらべて最も現実主義的な、すなわち時代とこの時代が各国にうみだした現実の大衆運動の性格の現実的理解にもっとも適合した)大衆的革命政党を建設する戦術概念全体を完成し、すべての過去の経験と理論の資本に基づいたわが運動の思想が成熟した具体的証拠を持つにいたった。
 われわれ国際トロツキスト運動はマルクス主義的労働運動の誕生いらい最も偉大な進歩を戦術概念の面において実現し、各国に成立し発現している階級の自然発生的運動と革命的前衛とを融合させるために活動し、革命的活動と無縁の形式主義的思考と公式主義的図式主義的障害を突破し、創造的革命的行動のなかにとけこみつつ思想の底にたまったセクト主義を排除したのである。
 わがカードルと闘士の大多数は理解力の面において進歩を実現した。そしていま、いうまでもなくこの概念を運動全体に浸透させ、国際労働運動の歴史ではじめて真実にセクト主義的でない前衛――すなわちかつてなく現実に接近し、その結果として思想と活動がかつてなく正しくかつ、現実生活と階級(その意識、その革命的指導部となることが問題なのである)の自然発生的運動を把握する前衛――を実現することがのこっている。

 私はいま第三回世界大会で我々が到達した戦術概念全体にふれた。
 この報告のなかで私はこの概念をよりはっきりと、より総合的、より分析的に発展させるつもりである。私は次のように言いたい。第三回世界大会こそは各国における大衆的革命政党建設のための現実の大衆運動におけるわが活動の戦術全体を完成した。このような意味で、それはわが運動の過去の獲得物の一切を復習し、それらをより高い次元にひきあげ、それらをより発展したより完全な戦術概念全体のなかに――一見してたがいに調和しない要素を――融合したのである。そしてこの戦術概念全体は第三回世界大会によって完成された一般的政治的展望に従属し、それに基づいている。
 つまりこの戦術の統一性とその意義とは全般的展望の上に立つものにだけ把握されるのである。
 この展望は、資本主義の終局的危機と世界革命の拡大の展望として定義づけられる。上の二つとも、第二次世界大戦でひきおこされた混乱によって激化し、終戦後ますます顕著となり、いまや決定的解決への決定的闘争に向かうこの歴史的時期全体を特色づけるものである。
 その発展のなかで、革命の力は有利にすすんでおり、この力関係が革命に決定的に不利に変化するとは考えられない。
 帝国主義同盟が準備し、そこへ宿命的に追いつめられてゆく反革命戦争は――それが勃発するまえに革命が(とくに合衆国をふくめて)世界的に勝利するか、あるいは合衆国のそれをふくめて帝国主義が闘争ぬきに譲歩するという仮定をぬきにすれば――こんご比較的ちかい将来に資本主義が破壊される過程をとどめることなく、いっそう高い水準(国際的国内的革命戦争)にひきあげられるであろう。
 比較的近い将来に資本主義の終局的運命がかけられている歴史上(単に資本主義の歴史のみならず)もっとも革命的な(すでに開始されている)この時代は、やはりまたスターリニズム(すなわちソ連官僚制とそれがなお影響をおよぼしている労働運動内のスターリン主義的反動的勢力の運動)の運命にもとどめをさすだろう。
 革命の拡大は同時にスターリニズムの確実な死滅を意味するという確信、ここかしこでの端初的一時的エピソード的局面を別として、開始された闘争の終局的結果はスターリニズムの破滅をもたらすという確信から我々は出発する。この確信はなぐさめの感傷とか誓約のくりかえしといったものとはまったく無縁である。その確信は闘争における客観的要因やスターリニズムの本質と矛盾、さらに戦中戦後のユーゴスラビア、中国およびその他の衛星国ならびにその他の共産党の経験を深く理解したところに基づいている。
 社会主義のための闘争が当面おかれているあたらしい客観的条件は大衆の自然発生的運動のあたらしい力学を決定する。他方、この客観的条件はつねにプロレタリアートの組織された政治運動およびそれを表現した各種の潮流と組織を、別のあらたな客観的条件(すなわち指導部の願望や計画とは独立した反応を生起させ、その反応を決定する条件)のなかにおいてきたしこれからもおいてゆくだろう。
 自然発生的大衆運動の面でも、組織的大衆運動の面でも、どちらの面でも情勢が強制し決定する時代の性格の理解――その展開と反動の方向の理解――から出発してこそ、我々は戦術全体を完成することができる。
 このことが、わが第三回世界大会において行われたのである。
 つまり、この大会が完成した戦術概念は時代の性格とその展望の分析に基礎をおいている。そこでのみ、戦術概念はその内容の意味と統一をみいだすことができる。なぜなら、さまざまな形態のもとに我々の戦術はいたるところで、革命政党の革命的指導部を創造するために、各国の特殊性を考慮しながら現実の大衆運動への我々の参加をもとめているからである。


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