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国際革命文庫  9

第四・五回世界大会テーゼ
国際革命文庫編集委員会訳

2

電子化:TAMO2

「スターリニズムの抬頭と衰退」
――第四インターナショナル第4回大会テーゼ――

第二章 他の非資本主義諸国におけるスターリニズムの抬頭と衰退

24 一九四三年の革命の波が爆発してから、新しい非資本主義国家がヨーロッパとアジアに出現した。これらの国家は次の二種類に分けることができる。
 (a) これらの国の革命の勝利によって生まれた国々(ユーゴスラビア人民共和国と中華人民共和国)
 (b) ソ連官僚の延長、軍事的・官僚主義的手段による占領とソ連邦との構造的同化によって誕生した国々。このとき多くの場合、大衆の動員を制約することに支えられた。これはヨーロッパの衛星諸国と北朝鮮の人民共和国の場合(後者の場合、偶然ではあるが大衆の動員はより大規模に行なわれている)がそれである。
 こうした国々につぎのものを付け加えねばならない。(a) ヴェトナム民主国、中国によく似たヴェトナム革命の波によって生まれたが、全国土を掌握するためにいぜんとして反帝国主義戦争と内乱とを続けている。(b) アルバニア、そこには強力な大衆的革命運動が存在する。
 これらの諸国の出現によって、世界情勢の根本的変化を表現し、資本主義の支配が退いた全世界的領土は、地理上の面積で世界の六分の一から三分の一に、人口で一二分の一から三分の一に拡大した。

25 ユーゴスラビアと中国における革命の勝利――一九一七年以来最初の革命的勝利――はこの二国の共産党に対するソ連官僚の直接支配に対して致命的打撃をもたらし、スターリニズムの世界的危機を深めた。こうしてつぎのレオン・トロツキーの予測は確証された。「ゲ・ペ・ウの直接の支持を得ていないコミンテルン(つまり各国共産党をクレムリンに従わせる機構)の解散は、ボナパルチスト派とテルミドール官僚全体の没落の予兆である」。ユーゴスラビアと中国の革命の勝利は、コミンテルンに起源を発する党に指導されたものだが、それがスターリニズムに与えた打撃はそれ自身、この勝利がクレムリンに対する「原則上の決裂」のおかげであるという事実に表われている。大衆の革命的高揚に圧倒される脅威にとらわれ反動によって政治的物理的に抹殺される以外どうしようもなくなって、ユーゴスラビア共産党は、そしてのちに中国共産党も、クレムリンの命令をのりこえて権力獲得にすすんだ。これによってかれらはソ連官僚に対して物質的にも真実の独立をとげた。これは政治上、思想上の分裂の客観的根拠となった。各国共産党がクレムリンの政治的指導にがっちりと従属し、マルクス・レーニン主義理論のスターリン主義的修正のたえざる表われを一つずつ自動的にかつ卑屈にものまねする体制はかくして打ち破られた。

26 ユーゴスラビアでも、中国でも、勝利を得た共産党は率先してスターリニズムの政策と公然たる政治的決裂にいたることはなかった。その理由はつぎのことにある。
 (a) これら共産党指導部および幹部の多数がスターリン主義的起源と伝統を持っており、かれらの多数はモスクワの「誤謬」を狭い内輪の間で勘弁してやり、その誤りを党員や大衆にかくそうとしたこと。
 (b) これらの党は革命が勝利したあと、事実上の帝国主義的封鎖を受けて、外交・政治・軍事・経済の面でソ連邦と同盟を結ぶことによって客観的支持を得たこと。このクレムリンの支持は不十分できわめて負担の重いものではあったが、かれらの眼には他のすべての援助よりも値打ちのあるものだった。
 (c) これらの指導部は日和見主義的性格をもち、クレムリンか帝国主義以外に魅力の対象を見出しえず、世界革命と国際労働者階級の運動のもりあがりを過小評価ないし無視していること。

27 ユーゴスラビアの場合、ユーゴスラビア共産党と率先して決裂したのはクレムリンの方だった。クレムリンは、ユーゴスラビアの党が国家間の関係(合弁会社に関するユーゴスラビアの政策、バルカン連邦、対イタリア関係など)だけでなく、他の共産党の政策について(ギリシアのパルチザン運動、「解放」期のフランス、イタリアの両共産党のとった政策にたいするユーゴスラビア共産党の態度など)、独立に反応する能力をもち、独立的本拠をもった共産党が自分の各国共産党の体制に入ってくることはソ連官僚に致命的な危険となることに気づいたのである。ソ連官僚はこうして衛星諸国とコミンフォルムに対するクレムリンの全面的支配がユーゴスラビアの例でこわされる位なら、危険であってもユーゴスラビアを帝国主義の陣営に押しやり、バルカン諸国防衛線を分断する方がよいと思ったわけである。この目的のために自己の権力が手にしているあらゆる手段を使った。外交関係断絶、ユーゴスラビア経済を崩壊させる突然の経済封鎖、国境衝突事件の挑発、ユーゴスラビア国内のテロリスト運動組織の企図、ラジオ・新聞によるたえさる脅迫のキャンペーンなどがそれである。しかしもともとあのような反革命的行動にふけることが出来たのは、最初は帝国主義戦争の準備がまだほんの序の口だからであったし、その後なかんずくユーゴスラビアが小国で基本的に世界的な軍事的経済的力関係を変えることもないからなのであった。中国革命の場合はまた別である。クレムリンは自己の軍事防衛体制の要をなし、帝国主義側のソ連封じ込めを打ち破る同盟の断絶を許すことができない。だから中国共産党の場合、ユーゴスラビア共産党に対して抱いたものと似た懸念があったにもかかわらず、クレムリンは平等と全アジア共産主義運動について中国共産党との協力という基本原則にもとづいて同盟を受け入れざるを得なかった。

28 ユーゴスラビア国家と中国国家のいずれもブルジョアジーの政治権力と国家の打倒によってもたらされた勝利的革命から生じたが、急速なテンポでブルジョアジーを完全に経済的に没収する方向にすすんだ。当初、躊躇と妥協(この傾向はいままでますます表面化してきている)をした後、これらの国の構造も新しい社会的土台に合わせて変革され、これらの国の非資本主義的・労働者的性格が明瞭にあらわれた。だが、たとえ勝利的革命から誕生したものであっても、ユーゴスラビアと中国の国家は日和見主義的官僚主義的労働者指導部の烙印を負っている。ユーゴスラビアの場合、この性格は一九四五年から一九四八年にかけて著しくあらわれた。このときユーゴスラビアはソ連の実践・方法・制度を屈従的に模倣し、あらゆる労働者民主主義を国家と党のわく内にとじこめ、抑圧した。一九四八年から五〇年にかけ政権民主化を試みたが、その後また国家構造にユーゴスラビア共産党の日和見主義的性格が表面化した。それは憲法と党規約の改正の結果であるが、その改正は労働者民主主義を保証するどころか、プロレタリアートの先進部分が社会問題の管理に影響を与えるのを払拭する試みである。この意味はユーゴスラビア共産党の解散、権力の唯一の政治的用具たる人民戦線の利用である。中国の場合、日和見主義・官僚主義の性格は同様に中華人民共和国の憲法と国家との発展にその痕跡を残している。「民族ブルジョアジー」の重要な派閥と妥協しようとして共産党は中国北部の農民の革命的決起に合わせて都市プロレタリアートを革命的に動員することをさぼり、妨げた。同じ願望によって中国共産党は旧国民党国家機関の全部をのっとり、新しく建設した国家機関に吸収した。そして、朝鮮に介入した後になって、ブルジョアジーに攻撃をしかけ、ある程度貧民大衆を動員(農地改革を達成するために南部の農民大衆を動員すること、「三反」「五反」(原注3)運動における労働者の動員)したとき、中国共産党はこの大衆動員を制限し、中止し都市の労働者大衆の自主管理機関の形成をさまたげるために、あらゆることをした。そしてこの同じ機会をとらえて、革命的前衛分子にテロルさえ行った。ユーゴスラビアのときと同様に、中国の場合も新労働者国家は自主管理機関(ソヴィエト・評議会)に基礎を置くものではなく、そうした機関が形式上存在していても、それらは労働者の多様な潮流にとって政治的自由・表現の自由がないため、革命的内容を欠いている。そのためこの二つの場合官僚主義的に歪曲した労働者国家である。

29 ユーゴスラビア共産党と中国共産党がクレムリンから独立して革命を勝利に導き、このとき言葉の正しい意味でスターリニスト党であることをやめることができたという一方の事実と、他方、この二つの党が革命の勝利を抑え解体し危険にさらす日和見主義的政策――これらの党の指導部のスターリニスト的過去から発した日和見主義的路線――を追求してきたし、いまも追求し続けている事実との間に何らの矛盾もない。マルクス主義革命理論によれば、一〇〇パーセントマルクス主義的な脂導部がいなければ、どんな情況であれ革命は勝利できないというわけでは断じてない。ユーゴスラビア共産党と中国共産党はクレムリンの保護から脱し、きわめて経験主義的にふるまったが、それは事件や、自分たちをくつがえすほどの脅威を与えた革命的大衆運動に押されてのことであった。そこにはかれらの長所もあるが弱点もこめられている。われわれの時代が要求しているものは、革命の全面的課題についても、革命達成の手段についても明瞭なビジョンも持たず、革命にひきずられ、あるがままの革命をともかく達成するというような日和見主義指導部ではない。自己の使命を完全に自覚し、巨大な波とふくれ上った国際革命に内在する壮大な可能性を知り、国際革命勢力を協同させ、かれらをできるだけ速く勝利に導く能力をもつ革命指導部こそ、われわれの時代が必要としているものだ。この意味で、革命が前進し先進工業国に拡がれば拡がるほど、かような指導部は勝利のために必要となる。同じ意味でユーゴスラビアと中国の経験は第四インターナショナルの必要を無効にするのではなく逆にそれを確証するのである。世界的規模だけでなく、この両国についてもそうである。

30 中国革命が中国および世界中にもたらした変革によって、中華人民共和国は第二次世界大戦後現われた新たな非資本主義諸国のあいだで特別の位置を占めている。中国革命と中華人民共和国はこんにち植民地革命の基本的原動力であり、国際革命高揚の基本的要素である。これによって中華人民共和国はアメリカ帝国主義と特別な関係を結ばざるを得ない。合衆国は現在の段階において主要な攻撃対象としているのは中華人民共和国である。これこそ朝鮮戦争の意味であり、こんごアメリカ帝国主義の外交政策と軍事戦略においてアジア問題が第一級の位置を占めるわけもここにある。したがって他の先進工業諸国で革命が勝利しないかぎり、ソ連の援助と同盟を受けて自己の安全を確保することは中華人民共和国にとって死活問題である。現段階およびきたるべき段階において、中国に同盟を「強制」したのはクレムリンではなく、この同盟維持の保証を求めたのは中国の側だった。植民地革命が他のアジア諸国に拡がれば拡がるほど、さきの意味で中国がクレムリンに及ぼす圧力は強力になるだろう。けれども中ソ軍事同盟の維持と強化はクレムリンの中国共産党に対する影響力に依存したものではない。つまり中国におけるスターリニズムの衰退に比例しているわけではない。後者は中国共産党とクレムリンのあいだの力関係の関数であり、基本的には植民地革命の前進、中国の経済建設、他の世界(ソ連を含む)のプロレタリアートの前進に依存する。

31 ここから出発して中国共産党とクレムリンとの関係は次の諸段階を経てきた。
 (a) 毛沢東の勝利からアメリカの鴨緑江攻撃まで――中国共産党は思想的分野の独立を含めて事実上の独立を強調していた。中ソ同盟の両国の平等、すべての植民地革命の指導者としての毛沢東の役割が強調されていた。
 (b) アメリカの鴨緑江攻撃からスターリン死亡まで――中国共産党はクレムリンとの同盟と、ソヴィエト連邦から援助を得ており、得なければならぬ経済・技術・文化その他の領域の援助の重要性を強調した。ソ連邦の偉大なる先例と教訓、中国プロレタリアートを含む世界プロレタリアートの指導者としてのスターリンの役割に重点がおかれた。
 (c) スターリンの死亡以後――非資本主義世界とすべての諸国の共産党のあいだに毛沢東の名声は上がった。国内経済の困難によって中国は朝鮮戦争の休戦を余儀なくされた。ふたたび二国間の平等に重点が置かれている。ソ連の経済援助が宣伝の中で第一の重要性をもたされている。
 こうした発展のうちの不可避的部分は客観的な世界情勢に根ざしている。他の部分は中国共産党の日和見主義政策と同党指導部の革命的大胆さの欠如、アジアの革命的勢力の動態的発展力への信頼の欠如に発している。

32 毛沢東の勝利は第三中国革命の開始を意味するものであった。この革命の課題はまだ解決の緒についたばかりである。国家の統一のあと、食糧品、工業消費財の統一した全国市場が形成され、民族独立は概して達成された。農地改革は中国全土に拡がり達成された。古くからの社会関係(農民と地主・商人―高利貸、男女、親子の関係)は中国農村で打倒された。それはとてつもない前進である。
 この過程において当初中国共産党は、北部で共産党を圧倒した農民大衆によって行動に押し出され、のちに農地改革を達成するために南部の農民大衆を動員することを余儀なくされた。ここではじめてブルジョアジーの地位と財産を大衆的方法によって攻撃した。しかしこんにちのところブルジョアジーは重工業の二〇%、軽工業の六〇%、小売業の大部分を占めている。それを完全に接収することは長期間を要し骨の折れる課題である。とくに数百万数千万の私的農民経営に担われた商業部門はそうである。けれども中華人民共和国は基幹経済部門、重工業・運輸・銀行・外国貿易・卸売業を掌握し、ブルジョアジーを接収し終る前に国有産業の計画的発展をはじめることができるし、しなければならない。この過程がはじまり将来の発展の力学を示すにつれて、この国家の労働者的性格は明瞭になる。ソヴィエト連邦でも、左翼反対派はネップの全措置を禁止することなく、大規模な工業化を開始するように要求した。けれども情勢がこのまま続くかぎり、中国共産党は過去二ヵ年と同じように、大衆へのよびかけと大衆動員を制約しうる。都市の労働運動の壮大な決起はいまだ起らなかったが、それにもかかわらず労働者階級へよびかけを行うことによって、政府は労働者に対する政策を修正し、新しい社会福祉、企業管理への労働者参加の形態の新制度、生活水準引上げによって労働者の地位を改善し、新たな労働運動の立上りに一層有利な雰囲気をつくり出さざるを得なくなった。こうした上昇が起って中国革命の完成をやりとげそうであるが、それは戦争の開始、階級矛盾の激化、中国共産党がブルジョアジーを収奪する必要に迫られたことに関連している。

33 ユーゴスラビアと中国の課題はこの両国と両共産党の特性によって決まるものである。労働者国家に関するかぎり、それらを打倒し、ユーゴスラビアと中国の革命がつくりあげた社会的土台を変えようという企図に対して労働者国家防衛の立場に立つ。中国共産党そしてある程度までユーゴスラビア共産党も実際には官僚主義的中間主義政党である。しかしながらかれらは自国の革命の圧力を受けているので、われわれはこれらの国のプロレタリアートに新しい革命政党を樹立し政治革命を準備せよとよびかけることはしない。われわれはユーゴスラビアと中国の共産党内に左派、世界革命の高揚の発展とむすんで二国の革命の新しい段階を確保し指導する能力をもつ分派を形成する方向に働いている。中国ではわが勢力ではとくにプロレタリアートの意識と組織のレベルを引上げる方向に進み、公式政府の政策から与えられるあらゆる機会をつかんで、工業プロレタリアートの革命への参加を準備し促進するだろう。ユーゴスラビアでは帝国主義とクレムリンに対して、一九四八年から五〇年にかけて得られた勝利を含めて革命の勝利を無条件に防衛することにもとづいて、われわれの勢力は反対派を形成して、党の現指導部を交代させ、革命を滅亡に導いている帝国主義ブロックとユーゴスラビアとの軍事的外交的同盟を打破し、公式にユーゴスラビア共産党を再編成し、労働者階級の政治的見解のあらゆる潮流のための表現の自由と真実の社会主義的民主主義を樹立し、共産党を理論的・政治的に革命的マルクス主義、国際革命運動の方向に変えさせようとするだろう。うたがいもなく、スターリン死後のソヴィエト連邦の情勢の発展、この国の革命的高揚の接近、衛星諸国の革命的爆発の開始はこうした方向にとって大いに有利なものとなるであるだろう。

34 中国、ユーゴスラビア、ヴェトナム新国家とちがって、東欧ソ連圏の新国家が成立したのは、クレムリンの政策や組織的統制をのりこえて進み、共産党をしてモスクワの指令と独立して、むしろそれに反抗して革命の道に前進させるような大衆の革命的高揚があったからではなかった。むしろ逆にソ連の拡張主義や、第二次大戦後に革命的高揚が欠如したりないし制約的な性格しかもたなかったために、クレムリンがそれらの国の共産党や大衆に対して、強力な支配を維持したおかげである。戦争の結果これらの国のブルジョアジーは弱体化したので、ソ連官僚は大衆を広範囲に動員する必要もなく、自己の頭上を大衆運動がのりこえて進む脅威も感じることもなく、これらの国を構造的に同化することができた。フィンランドやオーストリアのようにブルジョアジーが余りに強く、こんな冷淡なやり方ではしりそげられなかったところでは、構造的同化の試みは不成功に終り、資本主義の軌道が回復された。ソ連圏非資本主義諸国と中国.ユーゴスラビアの人民共和国の成立事情がこのように基本的に相違しているため、共産党とクレムリンとのあいだ、ならびに共産党と大衆とのあいだの相互関係について大きく異っている。

35 衛星諸国でソ連官僚が採用している態度やかれらが追求している目的はつぎの三つの段階を経過している。
 (a) 一九四四年から一九四七年まで――基本的目的は衛星諸国を即時に経済的略奪を行うことにあった。この目的にそってソ連官僚は賠償協定をむすび、旧ドイツ資産を接収し、ソ連系株式会社や合弁会社などを創立することによって既存の資本主義生産関係を利用した。経済改革は農地改革と基幹産業国有化に限られた。一般的にみて、ブルジョア政党や小ブルジョア政党と連立政府を維持した。むろんその中で共産党は支配を維持するためのテコ(軍、警察、裁判所など)を確保していたが。
 (b) 一九四八年から一九五〇年まで――マーシャルプランと衛星諸国を経済的に崩壊させんとする帝国主義の企図に直面して、官僚はそれに応えてブルジョア政党を閣外に追放し、国有化を全面化し、二年・三年の再建計画を樹ててそれを通じて経済の全面的計画の基礎をつくり、農業協同組合の発展を開始し、国家の構造を変革した。

 (c) 一九五一年以後――五ヵ年計画や六ヵ年計画は衛星諸国の工業を発展させ、それをソ連邦の工業と結びつけ統合化した。農業集団化のスピードは国によって異った。軍備計画は経済と労働者に著しい犠牲をこうむらせた。これらの国にたいするソ連邦の直接的支配と各国共産党の「ロシア化」が促進され、社会的経済的矛盾はこれらの党内に反映される傾向がある。共産党にソ連が支配を固めることは衛星諸国のソ連官僚にとってナンバー・ワンのかつ、もっとも困難な課題となった。

36 衛星諸国の労働運動と大衆の気分の発展は国によってまちまちである。この発展を評価する基本的基準は、一方では一九四八年以後の工業化によって既存の後進的な経済・文化・技術の諸条件をどこまで打倒したか、他方では、各国共産党がプロレタリアートの重要な部分から信頼を得られるかどうかである。
 アルバニア、ブルガリア、ルーマニア、スロヴァキアそして部分的にハンガリーでは、工業化はソ連自体よりもはるかに高い速度ですすんでいるし、工業化によってもたらされた社会的変革についてはソヴィエト連邦でいま生じているのとよく似た影響が傾向として出ている。農民の間に復古主義的部分がいるという困難、これらの国の生活にもちこまれたテロルと民族抑圧の要素、大衆のいまだ低い生活水準はたとえ新しい労働者の高揚を遅らせているとしても、結局のところ同じ原因から労働者の高揚は生ずるだろう。ユーゴスラビア共産党はこの革命的高揚を発展させるのに指導的役割を果たすことができたはずだった。しかし今日、その降伏主義路線はブレーキの役割を果している。
 東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア西部(そして部分的にはハンガリーも)においてはすでに高水準に達していた労働者階級の比重、技能、文化は工業化――たしかにそれは大いに生産力を高めたが――によっても基本的に変わることはなかった。これらの国では最初の段階は生活水準の相対的絶対的下落と形成中のスターリニスト官僚の官僚と専横に対する労働者の抵抗は鋭くなり、ソ連官僚の計画遂行にますます障害となっている。ハンガリーと部分的にはポーランドでは共産党指導部の相対的安定のゆえにこの抵抗には限界がある。チェコスロバキアと東ドイツでは、この抵抗が指導機関内の激烈な衝突とむすびついて、きわめて深刻かつ長期の危機をもたらし、革命的高揚の発端の徴候となっている(一九五三年五月から六月までのストライキと労働者のデモ)。これらの国では、ソヴィエト連邦と同様ないしより速いペースでもって、社会主義的民主主義の勝利の闘争が熟しつつある。

37 各衛星国において革命的高揚がとる組織形態を正確に予想することはまだ拙速であろう。二種類の形態が可能である。
 (a) 自主的大衆行動が各共産党に波及し、盛り上りを指導する能力をもつ左翼の潮流が発展している形態。この種の形態は共産党が労働者に広汎で強力な土台をもち、ふるい伝統をもっているところで可能性が強い――ハンガリー、ブルガリア、とくにチェコスロバキアと東ドイツ。
 (b) 新しい政治潮流の登場ないし社会民主主義的組織の復活によって合法的な既存組織の外部に独立した大衆運動が団結する形態。この形態は共産党がほんのかすかな伝統しかもたず大衆的基礎もせまい国々で可能性が強い――アルバニア、ルーマニア、ポーランド、部分的には東ドイツとチェコスロバキア。
 この二つの組織形態の結合した形態も排除できない。大衆運動が爆発するときつねに現実に則することができるように将来の高揚の二つの組織形態を準備しておかねばならないのである。当初はどんなに混乱した形態をとろうと真実の労働者階級の抵抗運動と、旧所有階級の残党や帝国主義に扇動されて指導された復古運動(それと前者とは闘う必然性にある)とは注意深く区分せねばならない。また革命的高揚の爆発が遅ければ遅いほど、共産党以外どんな形の政治組織も知らない若い世代が政治生活にめざめるにつれ、ますます共産党は、新しい革命的高揚の指導部が発展する自然らしい場になる傾向にある。この故にわれわれの勢力は一般的にソ連邦におけると大体同じ任務を遂行しようとしている。この課題を解決するために共産党への加入戦術を通じてボルシェヴィキ・レーニン主義党を建設することが必要である。同時に高揚の初期に登場する他の大衆組織にも即座に加入する用意が必要である。衛星諸国内のわれわれの基本任務はこの革命的高揚へのボルシェヴィキ的指導を確立し、それが改良主義・半復古主義勢力の支配に落ちこむのをふせぐことである。この革命の高揚は真実の独立したポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアその他の社会主義共和国が建設され、自由に自発的に団結してバルカン・ダニューブ社会主義共和国連邦が形成されねばならない。

38 衛星諸国におけるスターリニズムの没落の一般的力学は次のように概括すると明白になるであろう。
 (a) これらのすべての国々で、政治経済権力を土着の共産党に移管する以外に構造的同化は実施できなかった。こうして共産党は、大衆的支持を欠いているためにいぜんとしてクレムリンの支持にたより不安定な場合でさえ相対的に独立した基礎を得た。
 (b) これらのすべての国々で土着の共産党は――当初クレムリンにさからって、スターリン死後はたぶん部分的にクレムリンの応援を得て――ソ連邦のスターリン主義的政策の最も悲惨な側面(とくに強制集団化)を避けようと求めた。
 (c) すべてのこれらの国々で、一時的な後退・消極性・混乱の時期を経た後、労働者階級は社会主義的民主主義のために、以前より強力で活発となっているようにみえる。
 (d) すべてのこれらの国々で、客観的要素(戦争の惨害、低水準の生産力など)と主観的要素(労働者組織の不在、ファシスト軍事独裁のいまわしい過去、革命的展望の欠如、民族主義感情の強化など)は一九四四年に高揚を抑え、クレムリンの厳しい統制を助けたが、それらは消滅し始め、独裁制・民族抑圧・最近の生活水準の相対的低下がもたらした士気沮喪の要素によって部分的に帳消しされた。

39 スターリンの死後ソヴィエト連邦に生起している変化はこれらすべての国々に大きな反響をひきおこした。これらのことは同時にこれら共産党の内部体制、クレムリンとのつながり、大衆とのつながりに影響を及ぼした。
 特殊な経済情勢――チェコスロバキアの通貨改革、東ドイツの労働ノルマ引上げ――は官僚主義的独裁への抵抗をひきおこし、ついにはこれらの国々のプロレタリアートの公然たる反乱となった。この反乱はまさしくスターリニスト独裁制を打倒するはずの政治革命の開始にほかならないが、これこそこの点に関するわが運動の予測をもっともあきらかに実証するものである。それはまた――一九五三年六月一七日に大衆の革命的動乱に圧されて頭のてっぺんから足のつま先まで分裂し、その一部が労働者に降服しようとしたS.E.D〔ドイツ統一社会党〕の例によって――官僚主義の異質性、大衆の行動が生み出した分解効果を実証した。
 この反乱は政治的領域での「ニュー・コース」の適用を封じた。ドイツのような若干の場合、この分野での逆コースにとって代わられた。けれどもこうした場合でさえ、「ニュー・コース」は経済分野でゆっくりと適用され、東ドイツでは六月一七日以後ソ連官僚が行った譲歩(賠償撤廃、SAGのドイツ現地のスターリニスト当局への移管)によって「ニュー・コース」は一層強まった。
 この「ニュー・コース」(ハンガリア政府の方向転換にそのもっとも完成した実例があった)はつぎのような注目すべき特徴をもっている。
 (a) 全国民階層の経済的条件の改善、重工業発展のテンポの低下、農業集団化のテンポの引下げ、工業製品供給の改善、「労働規律違反」にたいする罰則の緩和など。
 (b) 大衆組織の極度の緊張した雰囲気の緩和、固苦しい言葉や「規格にはまった」議論の緩和、下級幹部が自分の利害に関して聞いてもらえる可能性が増えたことなど。
 この「ニュー・コース」(クレムリンに指令されたらしい)はより弾力的にふるまうことによって、衛星諸国のスターリニスト政党の統制を強化する手段として図られたものである。けれども「ニュー・コース」によって解放される社会的政治的要素や、共産党や青年組織に「ニュー・コース」がもたらした分裂によって、政治革命に向かうプロレタリアートの立ち上がりはソ連の場合よりもっと有利になった。
 言うまでもなく、〔新たな〕戦争がはじまるとき、戦中戦前の革命的高揚の強化とその西ヨーロッパやソ連への拡張は、衛星諸国のプロレタリアートが自己をとじこめる官僚的拘束服から解放される際に決定的役割を果たすだろう。

40 全衛星諸国で日程に上っている政治革命の綱領は次の注目すべき要項をもっている。
 1 労働者囚人の解放
 2 弾圧的な反労働立法の撤廃
 3 労働者諸党、労働者組織の民主化
 4 あらゆる労働者諸政党、労働者組織の合法化
 5 大衆委員会の選挙と民主的機能
 6 政府に対する労働組合の独立
 7 大衆による大衆のための経済的計画の民主的作成
 8 人民の有効な自決権


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