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ロシア革命の三つの概念
――レオン・トロツキー――


 この文書は、一九四〇年八月にトロツキーがスターリンの手先に暗殺されるおよそ一年ほど前に、彼自身によって書かれたものである。トロツキーは、もともと『レーニン伝』の一章にこれを加えるつもりであった。『レーニン伝』は、ノルウェー亡命中に執筆されていたが、完成しなかった。本書において特に重要なのは、永久革命の理論をロシア革命の発展に直接適用するにあたって、レーニンとどの点において一致し、どの点において一致しないかという本質的諸問題を、トロツキーが明確に説明している点である。
          『フォース・インターナショナル』誌編集部

 一九〇五年の革命は、単に一九一七年のための本げいこになっただけではなく、ロシアにおける政治思想のあらゆる基本的潮流の形成をもたらす実験室ともなった。そこには、ロシア・マルクス主義のあらゆる傾向や色合いが姿をみせていた。論争や意見の違いの中心点は、いうまでもなく、ロシア革命の歴史的性格とその将来性の問題にあった。概念や予測をめぐる論争は、じかにスターリンの伝記と関係するものは一つとしてない。というのも、彼はそこではどんな独自の役割も果たさなかったからである。その問題について彼が書いたごくわずかの宣伝記事は、理論的にみて、まったく値うちのないものばかりである。多くのボリシェヴィキが、文書活動によってまったく同じ考えを普及させていたし、しかももっと見事にやっていた。ボリシェヴィキの革命の概念に対する批判的解明は、本来、レーニンの伝記の中でやるべきものである。だが、理論はそれ自身の運命を持っている。革命の教義が練りあげられ具体化されていった第一革命、およびそれ以降一九二三年までの間、スターリンは独自の立場を何一つとして持っていなかった。しかし、一九二四年になって、急激に事情が変わった。官僚主義的反動と過去の徹底的な再評価の時代が始まった。革命のフィルムは逆転させられ、古い教義は新しい評価や新しい解釈にしたがわされた。最初まったく予期しなかったことであるが、“トロツキズム”のあらゆる馬鹿げたまちがいの源泉である永久革命の概念に警戒心が集中された。それ以来、きわめて長い歳月にわたって、この概念に対する批判が、スターリンと彼の協力者たちの論理的な――この言を咎むるなかれ――仕事の主要な中味となっている。理論的な面からみてスターリン主義全体は、一九〇五年に成立した永久革命に対する批判から発展したといってよい。このかぎりにおいて、メンシェヴィキやボリシェヴィキの理論とは区別されたこの理論についての説明を、補遺の形式であるにしても、本書に収めてよかろう。
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 ロシアの発展は、何よりも後進性によって特徴づけられる。とはいえ、歴史的後進性とは、単に一、二世紀だけ遅れて先進諸国の発展をくり返すことではない。それは、まったく新たに“組み合わされた”社会構成体を作り出す。そこでは、資本主義的な技術と構造の最新の成果が、封建的および前封建的野蛮の関係の中に地盤を獲得し、それらを変化させ従属させ、諸階級の特殊な相互関係を作り出す。同じことが、観念の領域においてもいえる。明らかに、その歴史的立ち遅れのゆえに、ロシアは教義としてのマルクス主義が、また党としての社会民主党が、ブルジョア革命よりも以前に強力な発展を遂げたヨーロッパにおける唯一の国となった。民主主義のための闘争と社会主義のための闘争との相互関係の問題が、明らかにロシアにおいてこのうえもなく深刻に理論的分析に付されたのは、まったく当然のことであった。
 観念論的民主主義者、主としてナロードニキは、切迫しつつある革命をブルジョア革命として認めることを、頑迷にも拒絶していた。彼らは、中間的な政治定式によって、革命の社会的内容を――単に他の人人からだけでなく、自分たち自身からもおおい隠そうとして、その革命に“民主主義的”というレッテルをはったのである。だがナロードニキ主義に反対する闘争において、ロシア・マルクス主義の創始者プレハーノフは、一八八〇年代の初めに次のように論証した。ロシアが特権的な道をたどって発展すると期待する理由はいっさいない。他の俗っぽい国家と同じように、ロシアは資本主義の苦しみを経験しなければならないだろう。また、明らかにこの道に沿ってロシアは、社会主義をめざす労働者階級の将来の闘争に欠かすことのできない政治的自由を獲得するだろう。プレハーノフは、ただ課題としてのブルジョア革命を――彼が不定の未来に延期した――社会主義革命と切り離しただけではなく、この二つを諸勢力のまったく相異なる組み合わせとして描いてみせた。政治的自由は、自由主義的ブルジョアジーと連合したプロレタリアートによって達成されるはずであった。そのあと何十年もたってから、しかも資本主義がより高い水準にまで発展した時に、やっとプロレタリアートはブルジョアジーに対してまっこうから闘争を挑み、社会主義革命を遂行するだろうとみた。
 レーニンの場合は、一九〇四年末に次のように書いてみる。
 「ロシアの知識人たちにとって、われわれの革命をブルジョア的なものとみなすことは、それを変質させ(堕落させ、卑しめることであるらしい。……プロレタリアートにとっては、ブルジョア社会における政治的自由や民主的共和政体のための闘争は、社会主義革命のための闘争にとって必要な一段階でしかない。」
 一九〇五年には、彼はこう書いている。「マルクス主義者は、ロシア革命のブルジョア的性格を絶対に確信している。この意味は何だろうか。つまりこうだ、ロシアにとって欠かすことのできないものとなった民主的変革は、絶対に、資本主義の転覆、ブルジョア的支配の転覆を意味しないで、むしろ反対に資本主義の広範で急速な発展、しかもアジア型の発展ではなく、ヨーロッパ型の発展の土壌を、初めて、しかも真の方法で、掃き清めるものである。それは、階級としてのブルジョアジーの支配を初めて可能にするだろう……。」
 「われわれは、ロシア革命のブルジョア民主主義的枠組みをとびこえることはできないが、この枠組みをかなり拡げることはできる」と、レーニンは主張した。言い換えるなら、ブルジョア社会の内部において、プロレタリアートの未来の闘争のためのなおいっそう好ましい状態を作り出すことができるというこ
とである。この限りにおいて、レーニンはプレハーノフに従っていた。革命のブルジョア的性格という点では、ロシア社会民主党内の両派はその出発点において一致していたのである。
 こうした事情のもとでは、メンシェヴィキとボリシェヴィキの共通財産であったこのなじみ深い公式を乗り越えるブロバガンダを、コーバ(スターリンの別名)がなしえなかったのはきわめて当然なことである。
 スターリンは、一九一五年一月に、次のように書いている。「平等・直接・秘密の普通選挙権に基づいて選ばれる憲法制定議会――これこそが、いま、われわれが闘いとらねばならないものである! この制定議会だけが、社会主義をめざす闘争を行なうために、われわれが緊急に必要としている民主的共和政体を、われわれに与えるであろう。」社会主義という目標に向うために、階級闘争ひき延ばしの場としてのブルジョア共和制――これがその展望なのである。
 一九〇七年、すなわち、ペテルブルグと国外の両方で数多くの紙上討論が行なわれ、打ち出されたいくつかの理論的予測が第一革命の諸経験で真剣に検討されたあとになって、ようやくスターリンは次のように書いた。
 「われわれの革命がブルジョア革命であること、資本家的秩序解体ではなくて封建制解体でこの革命の結末をつけねばならないこと、民主的共和政体によってのみ革命の勝利を得ることができること――この点については、わが党の全員が一致していると思われる。」スターリンは、革命が何から始まるかではなく、革命がなにで終わるかを述べたにすぎない。しかも、彼は先走って、まったく無条件に革命を民主的共和政体だけに限ってしまった。民主主義的革命によって導かれる社会主義革命の展望についての暗示を、ただの一つでも彼の著作から求めようとすることはまったく無駄である。以上が、一九一七年の二月革命の初めはもちろん、レーニンがペテルブルグに到着するまで、相も変わらずとり続けていたスターリンの立場である。
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 プレハーノフ、アクセリロドらメンシェヴィキの指導者一般にとって、社会学的に革命をブルジョア革命として特徴づけることは、政治的にみて価値のあるものであった。そのことは、とりわけ、社会主義の幻影によってブルジョアジーを刺激したり、ブルジョアジーを反動の陣営に“追いやる”ことを、あらかじめ禁じることになるからであった。「ロシアの社会関係は、ただブルジョア革命にのみ熟している」と、メンシェヴィキの中心的な戦略家、アクセリロドは合同大会において述べた。「わが国における政治権力の全面的奪取を前にして、プロレタリアートその他の諸階級との間の、政治権力をめぐる直接闘争について語ることはできないだろう。……プロレタリアートは、ブルジョア的発展の諸条件を獲得するために闘っているのである。客観的な歴史的諸条件によって、プロレタリアートは共通の敵に対する闘いでブルジョアジーとの提携を、避けがたくされている。」このようにして、ロシア革命の内容は、まえもって自由主義ブルジョアジーの利益と立場に矛盾しない変革に限定されてしまった。二つの党派の間で、基本的な不一致が始まったのは、まさにこの点なのである。ボリシェヴィキは、ロシアのブルジョアジーが、自分たちの革命を最後まで導くことができると認めることを断固として拒否していた。レーニンはプレハーノフよりもはるかに強力に、しかも一貫して、ロシアの民主主義革命の中心問題に土地問題をあげていた。レーニンはくり返し言っている。「ロシア革命の急所は農業(土地)問題である。革命の勝敗をめぐる最終的結論は、……土地のための闘争において、大衆の状況にかかっている。」確かにレーニンはプレハーノフとともに、農民をプチブルジョアジーとみなした。つまり、彼は農民の土地綱領をブルジョア的発展のための綱領とみなした。彼は合同大会で次のように主張した。「国有化はブルジョア的方策である。それは資本主義の発展に刺激を与えるであろう。それは階級闘争を尖鋭化させ、土地の流動化を促進し、農業への資本投下を強め、穀物価格を下げることになるであろう。」しかしながら、農業革命が疑いもなくブルジョア的性格のものであるにもかかわらず、ロシアのブルジョアジーは、不動産の収用に対して敵意をいだいていた。このために、明らかに彼らはロシア型憲法に基礎を置く王制と妥協をしようとしていた。プロレタリアートと自由主義ブルジョアジーとの同盟というプレハーノフの考えに対して、レーニンは、プロレタリアートと農民との同盟という概念を対置した。この二つの階級の革命的共同の任務は、ロシアの封建的遺制を根本的に一掃し、自由な農民の組織を作り出し、プロシア型ではなく、アメリカ型の資本主義発展の道を切り開く唯一の手段としての民主独裁の確立である、と彼は宣言した。「プロレタリアートと農民によって、このうえもなく緊急に必要な変革を達成することは、地主階級、ブルジョアジーやツァーリズムの絶望的な抵抗を呼びおこすことになるがゆえに、独裁によってのみ」革命の勝利はもたらされるだろう、と彼は書いた。「もしも独裁がなければ、この抵抗を打ち破り、反革命の企てをはねつけることは不可能だろう。しかし、これはもちろん社会主義的独裁ではなく、民主的独裁であるだろう。資本主義の土台に手を触れることは一連の過渡的な革命的発展段階なしにはできないだろう。うまくいけば農民に有利になるように土地財産の根本的再分割を実現したり、共和制を制定するまで調和のとれた完全な民主主義を導入したり、農村のみならず工場における日常生活からあらゆるアジア的封建的特性を根絶やしにしたり、労働者階級のおかれている状態をまじめに改善することに着手したり、彼らの生活水準をたかめたり、そして最後に(といっても一番最後にということではないが)革命をヨーロッパにまで拡大させたりすることが可能になるだろう。」


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